北条氏照による大石氏乗っ取り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
相模や武蔵の守護大名・扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の臣で武蔵守護代だった大石氏の居城とされる。元来、大石氏は近隣にある
高月城(たかつきじょう、八王子市内)を用いていたものの、防備に不安ありとして大石信濃守定重(さだしげ)が1521年(大永元年)
この城を新規築城し居を移したと言われている。ただ、正確な史料などはなくこの築城年代が正しいのかは定かでない。ともあれ、
定重が1527年(大永7年)10月10日に没すると、その跡は子の源左衛門尉定久(さだひさ)が継いでいる。だが、大石定久の時代に
武蔵国の勢力図は大きく塗り替わった。1546年(天文15年)4月20日、河越城(川越城、埼玉県川越市)を取り囲んでいた上杉氏を
はじめとする反後北条氏連合軍は大敗を喫し扇谷上杉家は滅亡してしまうのである。これにより南関東の大半は後北条氏の手に
落ちて、上杉家の庇護を失った大石家は必然的に後北条家への服従を余儀なくされるようになった。そのため、1559年(永禄2年)
11月、定久は後北条家当主・左京大夫氏康(うじやす)の3男である源三氏照(うじてる)を養子に迎え入れ、大石家の家督を譲渡。
事実上、これは後北条氏による大石家(とその領地・家臣団)の乗っ取りで、隠居した定久は以後も独自の外交を密かに行っており
必ずしも心服した訳ではなかったようだが、とりあえず大石家の当主となった氏照が以後の舵取りを行うようになった。■■■■■
滝山城主となった大石氏照は武蔵南部、特に多摩地方の統括を行うようになり、各地の豪族を従え、また敵対する者を次々と降し
後北条家中における一軍団を構成する有力者となっていく。当然、それに従い滝山城は整備拡張され“軍団長”に相応しい規模と
格式を備えるようになったのだろう。実力者となった氏照は後北条家の軍事・外交に働く事となり、後北条氏の4代目当主を継いだ
兄・左京大夫氏政(うじまさ)の片腕として重きを為すようになる。ただ、氏照の大石家入嗣は“お家乗っ取り”以後での意味は無く、
結局、程なく北条に復姓するようになった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
武田信玄による大攻勢■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで、氏康期の後北条家は駿河今川家や甲斐武田家との三国同盟を結んで、互いを牽制しつつ背後を固めていた。それぞれ
大勢力に成長していた各家は背中を託して各々の攻略を進めていたのだが、1560年(永禄3年)5月に桶狭間合戦で今川治部大輔
義元が戦死し、今川家は以後急激に弱体化していく。故に同盟の一角を成していた武田徳栄軒信玄は駿河侵攻に踏み切り、今川
領国を奪取せんと目論んだ。この裏切行為を激しく非難したのが北条氏康・氏政で、武田家と後北条家は一気に戦闘状態へ突入
したのである。後北条軍による今川救援に一旦兵を引いた信玄は、後北条家を黙らせるべく直接対決を企図、1569年(永禄12年)
本国・甲斐から後北条氏の本拠である小田原城(神奈川県小田原市)の攻略を目指して関東各所を蹂躙していった。■■■■■
この経路上にあったのが滝山城で、10月1日に城の北にある拝島(はいじま)へ武田本軍が布陣、北条氏照は防戦体制を整えた。
だがこの時、武田別動隊が城の南西側にあたる廿里(とどり、現在のJR高尾駅北側一帯)に出現し、急遽氏照は家臣の横地監物
吉信(よこちよしのぶ)・中山勘解由左衛門家範(いえのり)・布施出羽守ら兵2000を派遣したが、廿里での戦いは敗北に終わった。
勢いに乗る武田勢は翌日、滝山城攻めに取り掛かり、氏照は籠城の構えを固める。こうして城は2万と言われる武田軍の猛攻に
晒され、三ノ丸まで攻め入られて落城寸前にまでなったそうだが、もともと信玄の狙いは小田原城にあった為か、完全に落とされる
事はなく武田勢は引き上げていった。無論、滝山城が広大堅固な縄張りだった事もあるだろう。なお、この籠城戦では城主・氏照と
信玄の後継者・勝頼が直接刃を交えたという伝説も残されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
多摩川河畔の丘陵に広がる大城郭■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の立地は、多摩川を北に控えた丘陵地帯の一角を占め、東西800m弱×南北600m程度の範囲を全て曲輪として造成している。
南側には谷地川が流れ、それに沿って滝山街道(現在の国道411号線)も走っており、多摩川水運と滝山街道を管掌できる位置。
城地のほぼ中心には池があって、そこから多摩川(北側)へと谷戸が流れていくのだが、この沢を囲んで北東に本丸を置き、時計
回りに中の丸〜二ノ丸〜千畳敷〜三ノ丸〜小宮曲輪〜山の神曲輪が取り巻く縄張りだ。二ノ丸(城域南東側)から更に東へは信濃
屋敷曲輪と刑部屋敷曲輪が連結、また二ノ丸の南には角馬出と出曲輪が突出している。こうした一連の曲輪は複雑な屈曲路にて
接続し、また随所に横矢が掛かって侵入者を縦横から射撃するような構造となっている。何より、城は広大にして行けども行けども
先は見えず、そして方向感覚が狂わされ自分が今どこに居てどこへ向かっているのか分からなくなる迷宮だ。加えて、主要曲輪は
大掛かりな空堀で分断され、特に本丸と中の丸の間にある堀切はまるで刃物で切り裂いたような急峻な谷になっているのが見所。
城の外延部も自然地形を巧みに利用した起伏に富んだ阻害障壁となっていて、全部見て回るのはなかなか大変な大城郭である。
城内の最高所は北端の山の神曲輪で標高173m、北側にある多摩川の河畔は98mなので、実に比高差75mと十分に険峻な山城。
南側の滝山街道からの入口地点でも129mなので、50m程は登る形になり、この方面に控える小宮曲輪や三ノ丸と言った諸曲輪を
潰しながら本丸まで攻め入るのは難儀であろう。武田軍が2万の兵でも本丸まで達しなかったというのも頷ける。■■■■■■■
ただ、城域が広大なだけに守備兵も一定数が必要と思われ、更に侵入路も複数想定出来て守るにも工夫が必要な点は戦国期の
中でも“前時代的な城”と言えなくもない。こうした点に苦慮し、また実際に武田軍が本丸まで肉薄した苦い経験から氏照は新たに
険要な地形を利用した本格的山城への移転を決意し、八王子城(八王子市内)を新築して移動、滝山城は廃城となった。廃城の
時期は諸説あるも、1584年(天正12年)以降?と考えられてござる。その一方、氏照の退去後も滝山城が使われたとする説もあり
それに拠れば、氏照家臣の中山勘解由左衛門家範(いえのり)が城将に配されたと云う。一騎当千と謳われた家範は豊臣秀吉の
後北条氏征伐時、主家に殉じて壮絶な戦死を遂げたそうだが(おそらくこれにより滝山城も完全廃城となった)、その武勇を惜しみ
新たな関東の太守となった徳川家康は彼の遺児を取り立て、後に水戸徳川家の家老とした。これが中山備前守信吉(のぶよし)で
中山家は水戸藩の支藩である常陸松岡藩(茨城県高萩市)を起こすに至るのである。いずれにせよ、後北条氏が滅亡した1590年
(天正18年)より後、この城が用いられる事は無くなった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
国指定史跡、そして続百名城に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
時は流れて現代、1951年(昭和26年)6月9日に滝山城址は国の史跡に指定された。城山は植林等の手は入っていたが大規模な
改変を受けておらず、城内各所の遺構は良好な保存状態にあった為だ。発掘調査によれば、本丸に桝形虎口を形成、周辺には
多摩川の河原石を利用して石畳や暗渠を構えていたとの事。また、本丸と中の丸の間にある堀切には架橋の痕跡があった。この
橋は非常時に床板を取り去ってしまう“曳橋”であったと推測されている。但し、本丸虎口に橋床を収納するだけの空間が足らず、
実際にどのような用いられ方をしていたのかは不明。また、発掘も極めて部分的にしか行われておらず、城の全容を解明するに
十分な成果は挙がっていない。名城なのは間違いないので、2017年(平成29年)4月6日には財団法人日本城郭協会から続日本
百名城の一つに選ばれており、今後の整備・研究が待たれる処であろう。城跡は都立公園になっている一方、1959年(昭和34年)
8月15日に国民宿舎滝山荘が本丸跡に開業していて、長らく滝山城は「行楽地」としての側面もあったが、この国民宿舎は2000年
(平成12年)3月31日に閉業。それに伴って史跡整備の流れは強まり、2020年(令和2年)6月19日に八王子市が絹織物や養蚕の町
“桑都(そうと)”として文化庁「日本遺産」の1つに認定された際、滝山城は「八王子の織物市場発祥の原点」として捉えられ、その
構成要素の中に盛り込まれ申した。今後はこうした歴史背景を重視した開発事業が進められていく事だろう。■■■■■■■■■
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