武蔵国 八王子城

八王子城居館地区石垣

所在地:東京都八王子市元八王子町・下恩方町

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★☆
公園整備度:★★★■■



後北条家中でも屈指の闘将である北条陸奥守氏照が築城。氏照は後北条氏3代目当主・左京大夫氏康の3男であり、多摩地域の
古豪・大石氏の家督を継承、滝山城(八王子市内)を拠点に“滝山衆”と呼ばれる自身の軍団を有するに至っていた。しかし1569年
(永禄12年)後北条家の同盟者であった武田信玄が武蔵へと侵攻し、10月1日から2日にかけての攻撃で滝山城は落城寸前にまで
追い込まれた。広大な面積の曲輪を重ねた滝山城は三ノ丸まで攻め入られ、城の半分を残すのみになった苦い経験から氏照は
より険峻な地形を活用する本格的な山城を必要とした訳である。斯くして居城の移転を決意した彼は、1571年(元亀2年)あるいは
1578年(天正6年)もしくは1584年(天正12年)から築城が始まり(起工年代には諸説あり)1587年(天正15年)には新城への移転を
済ませたと見られている。こうして氏照の新たな本拠となったのが八王子城である。もっとも、全山を城塞化するつもりだったらしく
城主が入居した後も、各所で工事は続けられていたようだ。
城は現在の八王子市中心街より西側の山中、今の住所表示では「元八王子町」と呼ばれる地域に所在する。近年は城山直下に
圏央道が貫通し「八王子城山トンネル」はしばしば渋滞情報で名を聞くようになったが、西から東へと延びるこの山列のほとんど
全域に及んで曲輪群を削平、南側の谷には“御主殿”と呼ばれる城主の居館区域も設けている。城山川によって作られた谷の中
東西に細長い綺麗な長方形の敷地が構えられ、そこに城主の館など大規模な住居施設を建てたと推測される御主殿曲輪では、
前衛として東側に食違いの虎口を備え、そこから曳橋で川を渡って谷の南側へ道が下り、大手口(東方)へ伸びている。この道は
更に東で再び川を渡って北側に戻るなど、複雑な経路を用いて根古屋(家臣居住区)地域へと至る。その根古屋は山塊の東端に
当たるため、ここから直接山を登って山頂部へ進む道もある。即ち、御主殿からの道と山城部からの道がここで集約され、全体と
しての八王子城大手を構成している訳だ。
大手から山を登る経路に目を移すと、この山はほぼ一直線に細い尾根が連なる山容な為、必然的に登城路もそれに沿った道と
なり、途中の要所要所に中段の削平曲輪を構えながら山頂の本丸へと繋がっていく。この登山路はハイキングコースにもなって
いて、金子曲輪を過ぎたあたりから都心方面を眺めれば、天気の良い日なら新宿の都庁なども見られる眺望の良さだ。一方で、
御主殿の裏側から直接山上部へ登る道もある。これは“殿の道”と通称され、きつい上り坂が続くも、その分険要な地形を固める
構造物などが間近に確認できる。そう、八王子城は南関東の中世城郭でありながら本丸周辺はもちろん途中の緊要部を石垣で
構築しているのである。いわずもがな、御主殿一帯は総石垣造りで圧巻。城主の氏照は武闘派である一方、後北条家の外交を
担う重要人物でもあり、織田信長とのやり取りを受け持っていた。それ故、信長の居城であった安土城(滋賀県近江八幡市)の
威容を知っており、石垣造りの技術をこの八王子城に取り入れたとする説があるのだ。廃城から400年を越えて、山中の石垣は
大半が草木に埋もれてしまったが、発掘調査や城址整備によって掘り出された痕跡が現代に復活、特に殿の道沿いにはそれが
顕著に確認できるのでオススメだ。また、そのように埋もれた石垣は今なお続々と発見されており、八王子城の全容はまだまだ
解明されていないと言える。個人的意見ではあるが、氏照が信長の権勢をそれほど認知していたのならば何故それ以上の力を
有した秀吉には抗おうとしたのか…氏照が主戦派でなく和平派だったなら後北条家の浮沈も変わっていただろうに(苦笑)
話を八王子城の縄張に戻す。山頂の本丸は標高455m、麓(御主殿)との比高差は190mにもなる。最高所の本丸は地形制約で
手狭なので、一段下がった位置に小宮曲輪と松木曲輪という副郭群が附属し、現状ではこの主郭群の中に八王子神社が鎮座。
何でも神仏習合の教えに於いて、牛頭(ごず)天王とそれに従う八人の王子を祭った事から「八王子」の社名が付き、それはこの
八王子城山(当時は深沢山と呼んだそうだ)が発祥の信仰であるそうな。これが城の名前、ひいては八王子市という行政区分の
名前になった訳だ。山岳信仰の聖地にもなる、これだけ高い山の主郭ならそれだけで十分に堅固な縄張となっているものだが、
大手(東側)から金子曲輪を経て本丸(西)へ連なる曲輪群のみならず、八王子城では更に裏側、本丸のなお西へ至る尾根にも
壮大な遺構が待ち構えている。否、本丸を見ただけではこの城を制覇したとは言えない程だ。本丸の西は巨大な堀切で切断、
これが馬冷やしと言われる部分。その脇には山城の生命線となる井戸がある。そこから先に続く道は細尾根に石塁を這わせて
谷底から直登して来る敵を待ち構える構造が連なっていたようだ。現状ではこの石塁の古材と思しき石が延々と転がっており、
往時はさながら万里の長城と見紛うような光景になっていたと想像できる。そうした石塁の果てにあるのが「大天主」と呼ばれる
出曲輪だ。中世城郭である八王子城に於いて、しかも小さな出曲輪でしかない敷地の中で、本当に天守(天主)のような大型の
建築物が建っていた訳は無いのだが、西側からの敵を監視する物見の役割は果たしていた事だろう。或いは「天主」と云う名を
用いた所に、これまた安土城との関係性を見い出すべきなのか?ともあれ一応はここが八王子城の北西端と認識されている。
が、これよりもっと西にも城域は広がっていた(広げようとしていた)と考える学説もある。
そして縄張の話はまだ続く。要害地区(主城域)の山麓に御主殿、その南に城山川が流れているが、その谷を挟んだ更に南の
山列にも外郭となる曲輪群が構成されていた。これが太鼓曲輪群と呼ばれる部分であり、八王子城は都合2つの山で御主殿を
挟みこんだ巨大な山岳要塞を作り上げていたのである。無論、こうした山中にある支尾根にも細かい曲輪を造成しており、この
城は全方位からの敵勢に対し警戒を怠らない万全な守りを目指していた。丘城だった滝山城を半分占拠された恥辱は、氏照に
研ぎ澄ました刃を並べたような必殺の山城を生み出させたのでござろう。
このような構造で生み出された八王子城であるが、危難の時を迎えたのは築城から程無くの1590年(天正18年)。天下統一に
王手をかけた豊臣秀吉は、関東で独立を維持し関白の威光をものともしない後北条氏を“最後の敵”として定めて、その討伐を
号令したのだ。一方の後北条氏も、隠居とは言え実質的当主であった4代・左京大夫氏政が「秀吉何するものぞ」と対決を決意。
その弟・氏照もこれに同調し、秀吉との決戦を主導していく。斯くして後北条領国では“総動員令”とも呼べる戦時体制が敷かれ
軒並み主要な武将は本城である小田原城(神奈川県小田原市)へと集結。氏照も兵を率い小田原城へ参陣していった。八王子
城の留守を預かったのは城代の横地監物吉信、家臣の中山勘解由左衛門家範・狩野一庵宗円・近藤出羽守綱秀ら。籠城軍の
手勢は約3000程と言われるが、主戦力は氏照が率いて行った為、これらの兵力は周辺農村からかき集めたものだろう。若しくは
寄せ手の災厄を恐れて城内に避難してきた民衆を総計しての数と考えるべきか。斯くして6月23日、豊臣軍の中でも「北国勢」と
呼ばれる前田又左衛門利家・上杉左近衛権少将景勝・真田安房守昌幸ら1万5000もの大軍勢が総攻撃を開始。城山の東と北
つまり大手と搦手から押し寄せた。険阻な要塞とは言え、総指揮官となる城主が不在しかも未完の城とあっては衆寡敵せず、
八王子城はたった1日で落城してしまう。よって城将城兵はことごとく戦死し、氏照の夫人をはじめとする婦女子は自刃あるいは
御主殿の前にある滝に身を投げたと伝承され、城山川の水は三日三晩に亙り血で染まったと言われている。尤も、この伝承に
ある「御主殿の滝」は非常に小さなもので、飛び込み自殺が出来るような高さではないのだが、そのあたりは落城譚に良くある
典型例なので、気にしてはいけない。要はそのような悲劇的終末をこの城が迎えたという事だ。余談だが、圏央道のトンネルを
掘削したために一時期この滝の水が枯れてしまったそうだが、現在は水量が復活して八王子城という“史跡”に相応しい景観を
取り戻している。大自然の回復力は人間の力など及ばぬ壮大さだと云う証拠であろう。
中山・狩野・近藤の3名は城で討死、横地は脱出したものの檜原へ向かう途上で切腹したとか。城主の氏照は小田原戦役後に
主戦派であった責任を咎められ、7月11日に腹を切った。戦後、関東は徳川家康が治める地となったが、八王子城は廃城とされ
後年、新たに平野部で八王子の町が再生する事になる。故に、八王子城の所在地は「元の八王子」元八王子町となったのだ。
嘘か真か、この廃城劇に関しては秀吉が当地を抹殺すべく城下町も含めて破却させてしまったのだとか。よほど氏照のことが
気に入らなかったのか?そんな城主・氏照は八王子城の袂に供養塔が立てられて、城と共に眠っている。この供養塔は落城後
1世紀を経て、中山家範の子孫・中山備前守信治(のぶはる)が百回忌に建立したものだとか。彼は水戸徳川家の附家老にして
常陸松岡藩(茨城県高萩市)の藩主となっていた人物。中山家は亡き家範の武勇が音に聞こえ、その子が家康に召し抱えられ
水戸家に仕えるようになっていた。信治は祖先と旧主への孝養として供養塔を八王子に立て…良い時代の話でござる。
長く御留山として禁制地となっていた八王子城山は、それだけに遺構破壊を免れ近代まで手付かずだった。植林は行われたが
大きな改変もなく、1951年(昭和26年)6月9日に国史跡指定される。また、1979年(昭和54年)11月26日・1983年(昭和58年)3月
28日・1986年(昭和61年)1月31日にそれぞれ史跡範囲を追加指定。以後、発掘調査や整備が行われて、特に平成以降は復元
工事が多く為されていった。現状にある御主殿地区の石垣は基底部が発掘で出土した旧来の遺構、その上に積まれた部分は
復元によって再現されたものである。また、御主殿に至る曳橋も再建されたものだが、これは本来あった場所を保護するために
元位置から5mほど東側に建てられている。木造再建の曳橋は腐食が進んだ事から、2000年代に入ってから架け替えられた。
この他、発掘の出土品として鉄砲弾や天目茶碗、香炉、磁器皿、更にベネチアガラス等が出ており、後北条氏の交易や外交の
拠点として(氏照が中央政権との外交を担っていた証左と言える)当城が用いられていた一端を垣間見せる。
2006年(平成18年)4月6日、財団法人日本城郭協会から日本百名城の1つに選定。2020年(令和2年)6月19日には文化庁が
八王子市内の養蚕・織物関係の遺物を日本遺産「霊気満山 高尾山 〜人々の祈りが紡ぐ桑都物語〜」として認定。その中の
構成要素として八王子城も含まれている。滝山城と並び、八王子の都市発展が始まった起点として認識されたものだ。地名に
ある“元”八王子町というのが確かに現代の八王子市民にも了知されている証でござろう。地元愛の成せる技、素晴らしき哉。


現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡








武蔵国 浄福寺城

浄福寺城址 主郭

所在地:東京都八王子市下恩方町・上恩方町・小津町

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★★★☆
公園整備度:☆■■■■



こちらも城山の山腹を圏央道のトンネルが貫通している。八王子城山トンネルの1つ北側「恩方トンネル」の上にある山が城域で
この山の南麓に真言宗千手山浄福寺がある為、一般的に浄福寺城と呼ばれている。但し、別名は新(にい)城・松竹(まつたけ)
城・案下(あんげ)城・千手山(せんじゅさん)城など様々にあり、中でも由井(ゆい)城とも呼ばれる例から、これが元来の名称で
あったと考える説もある(北条氏照が養子入りした大石氏由来の城が“由井城”だったと伝承される為(詳細下記))。少なくとも、
「浄福寺城」という名前は後付けでござろう。
浄福寺の敷地が恐らく往時は城主居館跡だったと推測され、現在でも寺の西側から山へ分け入る道がある為、長らくこの道が
浄福寺城の“大手”だと考えられてきた。ところが近年、日本史学者の齋藤慎一氏によって詳細な調査・考察が行われ、新たな
説が提唱されるようになっている。曰く、この山は標高356.4mの山頂から大きく5方向(東西南北と南東)に尾根が伸びており、
そのうち西を除く4方向に様々な造作が成されていた(西の尾根は数条の堀切で遮断)。順に説明すると、北の尾根はこの山で
2番目に高い地点があり、ここが副郭として機能。山頂の主郭とこの副郭で一城別郭のような使い方がされていたとも。その、
北の尾根に相対するように存在するのが南東の尾根で、この尾根は要所要所に堀切が切られ、それはそのまま竪堀となって
下まで山を分断。特に圧巻なのが尾根の最先端にある竪堀、曲輪の直下からほぼ山の麓まで長く延び、この尾根自体を迂回
しようとする敵勢を阻害するようになっている。そして最も険峻なのが東の尾根。この尾根は最も長い縦深を擁し、かつ起伏に
富んだ地形であり、これを幾重にも重ねた曲輪や堀切として造成し、複雑で難解な守りの構造に改造している。中には通路が
遮断されている位に切岸…いや、大地の壁が立ちはだかり、道として成り立たないと思える程の場所もある。この尾根を山頂
(主郭)側から下って来ても、このように堅固な防衛構造物の価値は分かり難いだろう。そう、この尾根は登ってこそ真の価値を
体感できるのだ。さすればこの東尾根こそが戦闘正面に相当し、寄せ来る敵を迎え撃つ(と言うか、跳ね返す)為の構造物だと
齋藤氏は提唱したのである。現在、八王子市立恩方第一小学校のグラウンド脇からこの尾根に取り付く事が可能なので、実際
登ってみれば(民家の敷地を抜ける形になるのでくれぐれも注意を)実戦的な阻害障壁の連続に恐ろしくなる程だ。今でもなお
この城は現役の使用が可能だと思えるので、こここそが当城の大手であると確信できる。となると従前言われてきた浄福寺の
隣にある城山への道(これが山頂から南の尾根に当たる)は、むしろ搦手口であると考えるべきだろう。東の尾根に比べれば
険要さは数段落ち、所々に堀切を渡る土橋が見受けられる程度の備えしかない上、起伏も少なく道はなだらかだ。危急の際、
城主が脱出する抜け道と見る方が妥当な感じなのである。齋藤先生の御指摘は的を得ていると納得できよう。
築城起源は諸説あって不詳。大石氏(上記、八王子城主・北条氏照が入嗣した多摩地域の豪族)創建というのが一般的な説。
大石氏は信濃国佐久郡大石郷(長野県南佐久郡佐久穂町)を発祥とする事からその姓を名乗り、後に関東へ入封し武蔵国に
土着。当初は比企郡(埼玉県中部)に居を構えるも、室町体制下で関東管領(関東地方の統括を行う役職)・上杉氏配下として
功を挙げ、その褒賞として入間郡(埼玉県南部)・多摩郡(東京都多摩地域)に所領を与えられた。こうした経緯にて大石氏は
武蔵守護代に任じられ、1384年(元中元年/至徳元年)大石遠江守信重(のぶしげ)がこの城を構えたというのが最も古い説。
信重は信濃の名族・木曽讃岐守家教(いえのり)の3男(4男とも)として誕生、縁戚である大石為重(ためしげ)の養子に入るが
この木曽家は源平合戦の猛将・朝日将軍木曽義仲の末裔なので、元来は藤原秀郷後裔を名乗っていた大石家は信重以後に
清和源氏義仲流を称するようになった。中世の武家は家歴を粉飾するのが一般的で、秀郷後裔というのも義仲末裔というのも
真実かは分からない話なのだが、いずれにせよ大石家の隆盛に一役買った事は間違いない。江戸後期に編纂された地誌書
「新編武蔵国風土記稿」では浄福寺城の築城を1521年(大永元年)大石信濃守定重(さだしげ)の手に拠るものと記しており
(但し、この説は滝山城築城の誤伝と考える論もある)、同じく江戸時代後期に作成の地誌書「武蔵名勝図会」では天文年間
(1532年〜1555年)に大石氏が高月(たかつき)城(八王子市内)から居城を移したとする説を載せ、或いは戦国時代になって
北条氏照を娘婿に迎え入れた大石源左衛門尉定久(さだひさ)が隠居城として構えたとの説もある。どの説を採っても、この
城は大石氏が築いた(用いた)という点は共通しているので、それについては疑問の余地は無いだろう。
さて、大石定久が北条氏照を後嗣に迎え入れたというのは戦国争乱が激化した時代にあって、室町体制に属していた大石
家領も新興勢力である小田原後北条氏の脅威に晒され、遂にその軍門に下ったという事である。要するに氏照は大石氏の
家臣・領土を“乗っ取った”訳で、滝山衆の中に「油井(由井)領」「由井衆」と称される一団が見受けられるようになる。長らく
この「由井」がどこを指すのか不明だったが、近年の考察(これも齋藤氏の研究成果が大きい)において旧大石氏家臣団を
示すという見解が採り上げられるようになった。即ち、大石定久の影響下にある地域が「由井」であり、彼の隠居城であった
浄福寺城こそが由井城の正体だと考えられるのである。齋藤氏は更に一歩踏み込んで、家督相続直後の大石(北条)氏照も
当初は由井城=浄福寺城を本拠とし、そこから滝山城や八王子城へ居を移したと推測している。無論、この説が正しいかは
なお研究の余地があるだろうが、後付けの「浄福寺城」という城名の謎を解き明かす一助にはなりそうでござる。
八王子城の築城後、この城は直近の支城として使用されたものの1590年の豊臣軍攻略によって落城。以後は廃城になる。
ただ、上記の如く今なお現役の城郭として使える程に堅固な遺構が残存。バリバリの実戦城郭と言える。巨大城郭の八王子
城に隠れて目立たぬ存在だが、むしろ城郭愛好家ならばその“隠れた名城”具合を堪能すべき所だろう。尤も、個人的には
大手口(東側尾根)からの攻略があまりにも凶悪すぎて(そう思える遺構なのである)再び攻め込む気力が無い程だ(苦笑)
1972年(昭和47年)1月27日、八王子市の史跡に指定。今後は東京都史跡指定も目指すとか。1984年(昭和59年)2月には
発掘調査も行われ、麓からの比高差160mという険峻な山中に土塁や堀切、土橋などの遺構が確認され申した。


現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡








武蔵国 小田野城

小田野城跡 馬出部

所在地:東京都八王子市西寺方町

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★☆■■
公園整備度:★★■■■



これまたトンネルの上にある城跡。とは言え、こちらは圏央道ではなく東京都道61号線「小田野(おだの)トンネル」がその場所。
名称は小田野館ともされ、北条氏照の家臣・小田野源太左衛門が八王子城の出城として築いたと伝わる。正確な築城年代は
不明だが、八王子城の創建に伴うのならば必然的に天正年間(1573年〜1592年)の事となろう。専ら1587年頃と推測するのが
一般的なようだ。されど1590年には豊臣勢が八王子城を蹂躙、小田野城も上杉景勝勢に攻められ同様の運命を辿ったとされ
以来、廃城となってしまった訳だ。小田野源太左衛門は後北条氏の滅亡後、小田源左衛門と名を変え(微妙な変え具合だが)
中山氏と同様に水戸徳川家へ仕官している。が、小田野城に関する記録は殆ど無し。上記の来歴も口伝に拠るものでしかなく
主の源太左衛門が生き延びた割には全く謎の城として歴史の彼方に埋もれた存在となってござった。
ところが1978年(昭和53年)都道61号線の敷設計画が策定され、それに伴い1979年(昭和54年)〜1980年(昭和55年)に予備
調査としてこの山を八王子市教育委員会が発掘調査した所、馬出状の遺構(写真)等の曲輪跡や桝形状の虎口、空堀などを
検出。首都圏に残る貴重な戦国城郭の存在が明らかとなり、ここが伝承の小田野城と結論付けられた。よって、山を開削する
予定だった道路計画を変更しトンネルの貫通とし、城址遺構は残される事となったのだ。もともと、この山は後世(江戸期?)の
土採りなどで改変を受けていたが、それでも八王子城の支城群を構成する希少な存在が確実となった事で1983年3月28日に
八王子城の史跡範囲に附指定され、ここは国指定史跡になっている。発掘調査では僅かながらも陶磁器類の破片や鉄砲弾、
古銭などが出土したとか。
城山(という程の高さではなく比高差20m程の小丘陵だが)は南北に細長い小判型の山容。その北端部に一段高い最高所が
標高222mを指し、櫓台であったかのような高まりとなっている。そこから南に向かって曲輪らしき平場が広がるが、先述の通り
過去に土採りがあったようなので、どこまで旧態を残しているかは分からない。そうした山頂一帯の曲輪から東側の山腹部に
突起状の曲輪が出張っていて(写真)これが発掘調査で確認された馬出状の遺構である。その手前には窪みがあり、これは
馬出の前衛となる空堀の跡と見られている。この他、山を取り囲むように所々で腰曲輪らしき起伏があるも、あまりハッキリと
城郭遺構と断言できる程の明瞭さや堅固さは感じられないのだが、ともあれここは国史跡なのでやたらな憶測は差し控える。
まぁ、別称にある「小田野館」という表現が実は最もこの城の実態を示しているのではなかろうか?小城郭としての存在意義や
遺構の雰囲気には趣があり、個人的には良い城だと思う(←どうでも良い話)
高級住宅街の中に取り残された…いや、保存の為に「取り残した」山が小田野城跡。閑静な街並みの中なので立ち入るのが
気後れしてしまいそうな場所ではあるが、城山の東側にある観栖寺台(かんすじだい)公園から城山へ至る経路が用意されて
いるので“正々堂々”見学する事が可能。ただし、駐車場は無いので公共交通機関での来訪をオススメ致す。


現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域内は国指定史跡




江戸城  滝山城・片倉城