武蔵国 江戸城

江戸城内曲輪

所在地:東京都千代田区千代田 ほか

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★★
公園整備度:★★★★



言わずと知れた日本の首都東京、現在は敷地の大半が皇居関連地となっているのが江戸城跡。外堀まで含めれば東京23区枢要地が
全て旧江戸城内という事になり、当然ながら日本史上最大の城郭だ。その起源を遡れば、平安時代の武士団である江戸氏が築城した
事に始まる。江戸氏は桓武平家秩父氏の傍流たる秩父出羽権守重綱(ちちぶしげつな)の4男・四郎重継(しげつぐ)が、武蔵国豊島郡
江戸郷に居住した事からその姓を称したもの。江戸重継の子・四郎太郎重長は源頼朝と石橋山で対戦、のちに服従している。江戸城の
創建は、恐らく重継(若しくは重長)の頃であろう。もちろん、この当時の城は地方武士の居館程度、なだらかな丘陵地を利用した小館に
過ぎなかった。しかも江戸氏は鎌倉幕府の主たる御家人として名を残せず、没落の運命を辿る。当然、江戸城もいったんは廃城同然と
なったようだ。
この城が再び歴史上に名を現すのは室町時代後期の康正年間(1455年〜1457年)。類稀なる名軍師にして、当時南関東一帯を治めて
いた大名・扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家宰であった太田備中守資長(すけなが)つまり太田道灌(どうかん)が再築したのだ。1456年
(康正2年)、時の扇谷上杉氏当主・修理大夫持朝(もちとも)から築城する命令を下され、翌1457年(改元して長禄元年)4月8日に道灌は
以前の居館・品川館(御殿山か?東京都品川区)から江戸城へと居を移したとされている。この頃の関東地方は扇谷上杉氏の他、山内
(やまのうち)上杉氏や古河(こが)公方(旧来の室町幕府職掌にあった鎌倉公方が変化したもの)足利氏など、旧職制に由来する上級
名族が覇権を争う様相を呈しており、関東南部の要衝を固める必要性から江戸城が築かれたのである。相模湾・東京(当時の江戸)湾
沿岸の主要拠点は歴史ある鎌倉が旧権威の衰退によって重要度を落とし、それに代わる新興都市として江戸の地位が浮上していたと
される。江戸湾の最奥に位置する江戸の町は海運の終点、つまりそこから水陸輸送が切り替わる物流・情報集約拠点であると同時に
地形的には低湿地上に台地が隆起する戦略的要害の地でもあった。通説では江戸は寒村に過ぎず漁民が細々と生活する過疎の地と
理解されてきたが、近年の再検証にて道灌の江戸築城は室町後期の時代変革に伴った高度な政治・軍事戦略だと認識されている。
道灌の江戸城は子城・中城・外城(近世城郭で言う本丸・二ノ丸・三ノ丸に相当)の3郭で構成されていたらしく、現在の本丸東側にある
潮見坂が当時の大手だったとの事。周囲が低湿地なのを逆手に取り、切岸や水堀を縦横に巡らせ、城の背後(北側)には目隠しとなる
梅林を残していた。現在の江戸城でも、道灌由来の堀とされる道灌堀や、本丸〜二ノ丸へ至る経路の梅林坂など、当時の名残となる
ものが残されている。また、城内虎口は門や橋で固め、子城には「静勝軒(せいしょうけん)」と呼ばれる物見櫓、即ち“天守の源流”とも
呼べる高層建築物を備えた堅城だった(静勝軒は御殿だとする説もある)。粗末な外見ではあったが、室町期にして複郭構造を採用し
しかも多層櫓を構えたのは時代を先取りしたものと言え、流石は名軍師・道灌と言ったところであろう。
道灌は江戸城の他に、河越(川越)城(埼玉県川越市)や岩槻城(埼玉県さいたま市岩槻区)などの戦略的要地に築城しているのだが、
(岩槻城については近年、道灌築城ではないとする説が出た)これらは街道によって接続する上、他勢力との境界線として“面の防御”を
成し、扇谷上杉氏の領国防衛に多大なる貢献を果たしている。実際、1476年(文明8年)から1480年(文明12年)にかけて発生した長尾
景春の乱(上杉家臣・長尾左衛門尉景春(かげはる)の謀反)では関東各地の城郭が景春方に与したのに対し、この3城が上杉方拠点と
して戦線を維持し、後に道灌が各地の景春方諸城を悉く制圧して乱の終結を達成した。道灌、そして江戸城あっての上杉氏であったと
言っても過言ではない。
ところが、扇谷上杉氏は才覚有り余る道灌の存在を疑心暗鬼で危険視し、事もあろうに1486年(文明18年)7月26日に主君である筈の
扇谷上杉修理大夫定正(さだまさ)自らが謀殺してしまう。道灌亡き江戸城には城代として曽我豊後守が入り、1505年(永正2年)からは
扇谷上杉氏直轄の城とされて定正の子(養子)・治部少輔朝良(ともよし)が入城した。しかし、柱石の道灌を失った後の扇谷上杉氏は
瞬く間に衰退していく。結局、道灌の暗殺は自滅への道でしかなく、1524年(大永4年)正月に江戸城は小田原後北条氏・北条左京大夫
氏綱(うじつな)に落とされたのである。南関東の新興勢力として成長著しい後北条氏は、江戸城を手にした事で扇谷上杉領国防衛線の
一角を崩し、さらに勢力を拡大していき数年の後に扇谷上杉氏を滅亡に追い込んでいくのであった。
室町旧体制の弊害を打破し、合理的な才覚で新たな統治を行っていく後北条氏は領民に善政を施して関東の覇者へと成長していく。
江戸城には重臣の遠山氏や富永氏が入り、道灌の孫・太田資高(すけたか)もこれに従い、祖父以来の戦略的要衝を堅持していった。
これにより江戸城は後北条氏の東関東進出拠点として重視されていく。
とは言え、後北条氏はあくまで本城の小田原城(神奈川県小田原市)を一大拠点として発展し、江戸城はその支城としての位置付けを
脱する事は無かったが、この状況が変化するのは1590年(天正18年)。天下統一に王手をかけた関白・豊臣秀吉は後北条氏を最後の
敵と定めて関東征伐に大軍勢を動員する。江戸城は後北条方の将・川村秀重が守っていたものの、圧倒的大軍を前にして4月22日に
開城を余儀なくされた。程なく小田原城も開城、後北条氏の領地は召し上げられてしまう。秀吉の天下平定により後北条氏旧領、つまり
関八州250万石は徳川家康の領地となる。この折、家康の居城が(小田原城ではなく)江戸城に定められた為、家康はそれまでの居城
駿府城(静岡県静岡市葵区)から移り同年8月1日、江戸城に入城した。ちなみに、遠山氏や太田氏は家康の関東入府以降その配下に
加わり、徳川譜代大名として家名を残してござる。
さて、新たな江戸城の主となった家康はこの当時、豊臣政権五大老の筆頭。秀吉に次ぐ日本第2の実力者である。ならば、その権勢に
伴った巨大城郭を必要としたはずだが、入国したばかりの彼は自らの居城を整備するよりも民政や統治体制の構築を優先した。この
ため江戸城は太田道灌築城から大差のない、土を掘り込んだだけの質素で小さな城であり続けた。室町期には先進的であった城も、
戦国末期には時代遅れなものになっていた訳だ。入府から2年後、1592年(文禄元年)になってようやく城の拡張工事に着手。従来の
子城〜外城部分を本丸・二ノ丸に再編、加えて三ノ丸・西ノ丸(当時は新丸と呼称)・吹上・北ノ丸を増設、城下の町割にも意を配ったが
それに前後して秀吉が朝鮮出兵の陣触れを行ったので徳川軍も九州への出兵を余儀なくされ、遅々として城の改修は進まなかった。
一般に、この文禄期改修を江戸城の第1期改修と称する。
秀吉が没し1600年(慶長5年)9月15日に天下の覇権を賭けた関ヶ原で東軍が大勝すると名実共に徳川家康が天下の主となる。これを
機に江戸城の第2期改修が始動していき、1603年(慶長8年)2月12日朝廷から家康を征夷大将軍に任じる宣下がされた事で、この城は
徳川幕府の本城として機能するようになる。この慶長期改修工事以降、諸大名に対する賦役が課される「天下普請」として工事が進め
られていく。1604年(慶長9年)諸大名に普請が命じられて、1606年(慶長11年)3月1日から始まった第2期改修工事では築城の神様と
称される藤堂和泉守高虎が縄張りし、城域主郭部は石垣が組まれた。数々の櫓や門が林立、本丸には御殿の他に5重5階地下1階の
天守も建てられる。この慶長度天守は白漆喰塗込望楼型(層塔型説もあり、他にも異説多数)連立式で、鉛瓦が葺かれていたと言う。
現在とは異なって本丸のほぼ中央に位置したが、本丸そのものも後年改変されているので、その当時はやや北西側に偏移した場所に
建てられていた。諸説あるが、20間四方・高さ10間の天守台上に建てられ、棟高48m。天守台を含む総高は65mに達したと考えられて
いる。更に主郭外部の整備も行われ、江戸の町割りも本格化。城の北にあった神田山(現在の神田・秋葉原近辺にあった小山)が切り
崩され、その残土を使い日比谷入江が埋め立てられた。それまで、江戸城の目の前にある日比谷は江戸湾の入江となっていたのだが
(即ち、現在の日比谷公園界隈や東京駅前は海)これにより大規模な埋立地が完成、江戸の町が拡大したのみならず江戸城南東側の
曲輪群を造成できるようになったのだった。慶長期の改修工事は断続的に1614年(慶長19年)まで続けられている。こうして江戸城は
中世城郭から近世城郭へと変貌する。なお、一連の再編工事に伴い静勝軒は佐倉城(千葉県佐倉市)へ移築され、銅(あかがね)櫓と
され申した(現在は滅失)。
将軍職が徳川家世襲となり、豊臣家が滅亡し天下の趨勢定まった後、家康が没し2代将軍・徳川秀忠の治世となるや江戸城は更なる
改修が行われる。1618年(元和4年)から始まった元和期改修は、西ノ丸紅葉山(もみじやま)東照宮の造営、本丸敷地の拡張、それに
伴う本丸御殿の建て替え、そして天守の更改が主なものであった。1620年(元和6年)に着工し、1622年(元和8年)に完成した元和度
天守は白漆喰塗込層塔型、5重5階地下1階の構造。秀忠政権を諸大名に明示し、将軍の代替わりと徳川の世が磐石なものであると
喧伝する政治装置と言えよう。これは拡張された本丸の北端に位置し、小天守台はあったが建物は築かれず、大天守単体の独立式
天守であった。外郭部の改修としては神田川の掘削工事が行われ、江戸城外堀の概容が定まる。これら元和期改修工事も諸大名に
賦役を命じる天下普請で行われている。
更に3代将軍・家光の世になった折も改修工事が進められた。この寛永期改修は1628年(寛永5年)から始まり、本丸・西ノ丸の改造、
各所石垣の積み直し、二ノ丸の拡張、そして天守の再更改が行われている。寛永度天守も本丸北端に揚げられたが、天守台から作り
直されて家光治世を天下に示した。日本全国に数々の城郭はあれど、城主の交代毎に天守が作り直されたのは江戸城のみである。
この天守は1636年(寛永13年)着工、翌1637年(寛永14年)12月6日に竣工し白漆喰塗込の壁に銅板を貼り付けた外装で、層塔型5重
5階地下1階、元和期と同様に小天守台のみが連結する独立式でござった。斯くして棟高60.6m、初層平面は995坪、総銅葺屋根という
史上最大の天守が出現した。江戸城の天守は遠く房総半島からでも見る事ができたと言われているが、慶長度・元和度の天守は幕府
大工頭の中井家が作事、寛永度天守は甲良(こうら)家が担当した。1639年(寛永16年)頃には城地ほぼ全域が完成。最終的な拡張
工事は1660年(万治3年)の神田川(江戸城外堀)拡幅工事で、この結果によって東西約5.5km・南北約4km、周囲長およそ16kmという
桁外れの巨大城郭となった。これは戦国最大の城郭である小田原城や太閤秀吉の栄華を誇る大坂城(大阪府大阪市中央区)よりも
大きい。江戸の町はこの城を中心として当時世界一の人口を誇る100万都市へと成長したのでござる。以後、歴代徳川将軍が城主を
継承する。
一方、地震や大火の多い江戸の町にあって、江戸城も数次の被災を受けている。最も有名なのが1657年(明暦3年)1月18日に発生、
江戸の町を3日間焼き尽くした通称“振袖火事”こと明暦の大火であろう。江戸市街地の大半を焼いたこの火事で江戸城内も西ノ丸の
一部を残して完全焼失している。鉄壁の防火対策で堅牢を極めた寛永度天守も火災旋風の竜巻に呑まれて窓が風圧でこじ開けられ
内部から引火、全焼するに至った。幕府の威信をかけ、城内各所の復旧工事が行われ天守台も作り直されたが、天守本体の再建は
見送られた。これは幕閣の要職にあった会津藩主・保科肥後守正之(ほしなまさゆき)が民政の復興を最優先にすべく、太平の世では
もはや無意味となった軍事建築である天守は不要だと提言した為である。この正之、3代将軍・家光の実弟にして時の将軍である4代
家綱の後見を託されていた人物。優れた施政者である正之の提唱により、江戸城の天守は以後(計画は何度か立ち上がったが)再建
される事は無かった。通説では明暦大火後、富士見3重櫓が江戸城における天守代用櫓とされてござる。
現在の天守台は8代将軍・吉宗の頃に構築されたものだという説(加賀藩が築造したとの事)があるが、史料に乏しく裏付けが弱い為
確たる事は言えない状況だ。この天守台とて、後年の火災の痕跡がある。その他にも江戸城が延焼する火災は何度も発生しており、
例えば本丸御殿は1639年・1844年(弘化元年)・1859年(安政6年)・1863年(文久3年)にも焼失しており申す。幕末の混乱期にあたる
1863年の焼失以後は本丸御殿すら再建されずに、以後は西ノ丸御殿が用いられるようになった。その西ノ丸御殿も1873年(明治6年)
5月5日に焼失、二ノ丸御殿も既に1867年(慶応3年)炎上して失われており、江戸城の御殿は城外へ移築された遺構を除いて、現存
するものは1つもない。ともあれ、城内には数々の3重櫓・2重櫓・多聞櫓などが建てられ、城門は城内曲輪の虎口のみならず外郭部に
“見附”とよばれる関門を設置し通行者を取り締まったため、数限りない。幕末から明治初頭にかけて江戸城各所を撮影した古写真が
残るが、そこに描かれた城の威容は実に堂々たるものばかりであった。
しかし徳川幕藩体制の崩壊・明治新政府の成立によって江戸城は将軍家居城としての役割を終える。15代将軍・慶喜が大政を奉還、
更に鳥羽・伏見の戦いで敗北した後、新政府に対して恭順を貫き江戸城も1868年(慶応4年)4月4日、新政府軍に接収された。慶喜は
水戸に蟄居、家達(いえさと)が16代当主となった徳川家は一大名として70万石の駿府藩主とされ、5月24日に駿府城が居城となった。
この年は改元して明治元年。7月17日に江戸は東京と改められて、江戸城も10月13日に東京(とうけい)城と改名されている。よって、
現在の正式城名は東京城が正しく、江戸城というのは旧名に過ぎないが、一般的には江戸城の名だけが通っている状態でござる。
翌1869年(明治2年)明治天皇が東京へ行幸、3月28日に東京城へ入城した。これが事実上の東京遷都になり東京城は皇城とされる。
西ノ丸ならびに吹上が天皇の居所となり1888年(明治21年)10月7日に明治宮殿が完成した事で宮城となった。が、1923年(大正12年)
9月1日、関東大震災で被災。維新時に城内建築の大半が破却されていたが、残されていた建物もこの震災で甚大な被害を受けた。
さらに1945年(昭和20年)4月、空襲で大手櫓門や明治宮殿が焼失した。
(1968年(昭和43年)になってようやく明治宮殿に代わる現在の新宮殿が造られている)
太平洋戦争後の1948年(昭和23年)からは宮城に代わり“皇居”の呼称でよばれるようになった。翌1949年(昭和24年)西ノ丸下曲輪
一帯が国民公園皇居外苑として一般開放され、本丸・二ノ丸・三ノ丸も皇居東御苑として1968年10月1日から同様に開放されている。
1969年(昭和44年)には北ノ丸も北の丸公園として一般開放された。天皇の代替り時には本丸跡で大嘗祭も斎行されるのが習わし。
以上が江戸城の概史だ。
縄張はさすが天下の府城だけあって広大多岐なもの。南北に細長い本丸があり、その東側には同様に細長い二ノ丸、更に三ノ丸が
連結。関東平野の中心部にある城ゆえに平城と認識されがちであるが、本丸から三ノ丸にかけては曲輪毎に高低差があり、よくよく
見れば江戸城は平山城である事がわかる。慶長期の本丸は上下2段の構造だったが、現在は広大な1つの曲輪となっている。これら
中枢曲輪群は外周を全て石垣で蔽っており、幕府の本拠に相応しい堅牢さを見せ付ける。本丸内には将軍居所と政府庁舎を兼ねる
本丸御殿があり、二ノ丸にも1636年以来御殿が建てられていた。また、三ノ丸には勘定所や登城大名の控所が置かれていた。
通常の城ならばこの敷地だけで十分巨大なものと言えるのであるが、江戸城は更に広大な曲輪が連なる。本丸の西に西ノ丸や吹上
(この両者を隔てる堀が道灌堀である)、その北に北ノ丸、転じて南側には西ノ丸下曲輪、東側には大手前広場や大名小路曲輪が
ある。北ノ丸や西ノ丸はそれだけで本丸〜三ノ丸を合わせた面積と同等の広さであり、吹上や大名小路などは猶それよりも広大な
空間。あまりにも広すぎるため、西ノ丸や吹上は石垣を部分的に用いるのみに留められ大半は土塁造りだ。この縄張は現在も東京
都心部の町割りに残されているので、地図を見れば一目瞭然であろう。これらの主要部を、そこから一回りも二回りも大きい外堀で
穿たれた外郭部が取り囲んでいる。現在の神田神保町・靖国神社界隈・紀尾井町・国会議事堂付近・霞ヶ関の官庁街・銀座などは
外郭部内にあたり、大きな意味では江戸城内という事になる。
曲輪は殆んどがそのままの形で残っており、それを囲う石垣や土塁・堀などは比較的良好に現存する。しかし建造物は過去数度の
火災や地震、更に明治維新時の破却作業にて大半が失われている。それでも元々の数が多い為、現存建築も列記すればかなりの
量になる。このうち、皇居内つまり宮内庁管理区域内にあるものは富士見櫓を筆頭に、本丸数奇屋多聞櫓(通称で富士見多聞櫓)
西ノ丸伏見櫓および続多聞櫓・桜田巽櫓・石室・大番所・百人番所・同心番所・大手門(高麗門部分のみ現存遺構)・平川門・桔梗門
北桔梗門・西ノ丸大手門(現在の皇居正門)。坂下門は櫓門の向きを明治期に変更して残る。本丸乾門になっている建造物は、元来
西ノ丸裏門であった門を移築したものでござる。
特筆すべきものがいくつか。百人番所はその名の通り100人の同心が詰めた建物と伝えられる。伊賀組・甲賀組・二十五騎組・根来
(ねごろ)組の4組がそれぞれ100人ずつ、昼夜交代で順番に勤務して江戸城主郭部の守りを固めていた。平川門は不浄門とされ、
通常は開放されない門だが構造的には隠門を備えた2重の門になっている上、門外に濠を分断する中州状の帯曲輪が伸びており
城外から水濠を越えて侵入しようとする敵を阻害するようになっていて、実戦的な構えだ。石室は御金蔵とも非常時の退避場所とも
言われるが、真実はわからない謎の遺構。
戦災焼失した大手門の櫓門部は1967年(昭和42年)に復元されている。1968年(昭和43年)には二ノ丸内部をかつての池泉回遊式
庭園に復旧する工事も行われた。また、現在の半蔵門は城内別所にあったものを移築してきたものだと言われるが、詳細は不明。
これらの建築物は関東大震災時に被害を受け、古材を用いて復旧したと言うものもあるようだ。(詳しくは公表されていない)
一部、伝統的工法を無視して近代技術で立て直したという巷説もあり、必ずしも全てが旧来通りの建物とは言えないようだが、城郭
愛好家としてはそうでない事を信じたいものでござる。
真偽の程は兎も角、これらの建物は現存遺構にも拘らず文化財指定を受けていない。これは震災復興に疑義がある為…ではなく、
宮内庁管理区域にある建造物なので文化庁による文化財の指定ができないという理由によるものだ。なお、2011年(平成23年)3月
11日の東日本大震災でも被災し、大手門の櫓門などで壁面の剥落、各所で石垣崩落の事象が発生している。
一方、北ノ丸や皇居外苑の出隅部にあたる部分は宮内庁管理区域から離れる為、そこにある建物は来歴に即して文化財の指定を
受けている。田安門・清水門それに桜田門がそれである。まず北ノ丸にある田安門と清水門であるが、関東大震災で破損した櫓門の
上部構造は1964年(昭和39年)補修したものだが、そこを除けば現存遺構で田安門は1636年、清水門は1658年(万治元年)の築造。
これは城門にその旨の棟書や刻文がある事で確認できる。江戸中期に成立した御三卿のうち、田安家と清水家はそれぞれこの門の
隣に屋敷を構えた事から名付けられた家である。他方、皇居外苑南隅にある桜田門は1663年(寛文3年)創建。本丸にある桔梗門に
内桜田門の別称があるので、こちらの門を特に外桜田門と呼んで区別する事もある。幕末、大老の井伊掃部頭直弼が登城する際に
襲撃され落命した桜田門外の変は、この門の目前で発生した事件だ。現在その場所には首都東京の治安を担う警視庁が建てられて
いるのは歴史の皮肉と言うところか。田安門・清水門・桜田門の3門は全て高麗門と櫓門を組み合わせ枡形虎口を形成する枡形門に
なっている。中でも清水門と桜田門は枡形が塀や石垣で囲まれない開放敷地になっていて、仮に侵入した敵が居ても濠越しの対岸
曲輪から掃射できる独特の防御構造。いわゆる“徳川系城郭”でしばしば見られる構造だが、江戸城は特にこの形が多い。3門とも
1961年(昭和36年)6月7日に国の重要文化財と指定されており、田安門と清水門に関しては連接する塀部分も附指定を受けている。
移築された遺構として有名なのが埼玉県川越市にある喜多院(川越大師)の客殿・書院と庫裏。江戸城紅葉山御殿を移築したものと
伝えられ、1946年(昭和21年)11月29日、国の重要文化財に指定。この他、蓮池門が名古屋城(愛知県名古屋市中区)の正門として
明治期に移築されたが、これは惜しくも1945年5月14日の名古屋空襲により戦災焼失してしまっている。
建物以外の文化財指定としては、宮内庁管理区域を除く城域主郭部が1960年(昭和35年)5月20日に国の指定史跡、次いで1963年
(昭和38年)5月30日に特別史跡となっている。また、部分的に外堀跡が1956年(昭和31年)3月26日に国史跡として指定され、2008年
(平成20年)3月28日に追加指定を受けた。外堀の周辺は全て人工的に掘削された峡谷であり、これが重機のない時代に人力だけで
開削された事は驚異的な土木作業量であった。明治以降の近代化・都市化により大半が改変を受けてしまい旧来のまま残る部分は
少ないが、これ以上の破壊を防ぐべく史跡指定を暫定的に行ったものである。文化庁はこの指定を第1次指定と位置づけている為、
今後さらに指定範囲の拡大や復旧の見込みがある。
加えて特筆すべきは、江戸城を撮影した明治期の古写真に関する素材までもが国の重文指定を受けている点だ。1871年(明治4年)
太政官少史であった蜷川式胤(にながわのりたね)が、写真師・横山松三郎や絵師・高橋由一(ゆいち)と協力して江戸城の写真帖を
作成した。ここに納められている写真は64点に上り、そのガラス原板(フィルムの代わりとなる物)も保存されていた。そもそも蜷川らが
写真帖を作成したのは、伝統建築たる江戸城の古態を後世に伝えるためであり、近代初頭における文化財保存思想の萌芽と呼べる
ものだ。今やそれ自体が貴重な文化財となったため、写真帖原本が2000年(平成12年)6月27日に、ガラス原板が2001年(平成13年)
6月22日に、それぞれ美術品の分類で重要文化財となっている。なお、ガラス原板の中には写真帖に未収録のものも含まれており、
撮影数は相当なものだったと推測される。加えて、甲良家伝来の江戸城造営関係資料合計620点も1987年(昭和62年)6月6日、国の
重要文化財(やはり美術品)になっている。寛永期〜万延期にかけた江戸城諸建築の指図や工程記録なので、江戸城の増改再築が
どのように行われたのかが一括して確認できる貴重な資料と言える。
このように、とにかくネタに事欠かないのが江戸城。現在は上記の通り皇居となっているので西ノ丸・吹上には立ち入りできないが、
皇居外苑や北ノ丸公園は開放されており24時間観覧可能。東御苑(旧本丸・二ノ丸・三ノ丸)は月曜日・金曜日を除いて昼間は中を
見学できる。西ノ丸については宮内庁に事前の観覧申込を行えば係員の指示に従って内部拝観できるが、それよりも天皇誕生日と
正月2日の皇居一般参賀を狙えば比較的自由に立ち入る事ができるので良い。特に推奨するのは新年一般参賀。天皇誕生日では
許されていない乾門方面への退出が可能なので、本丸数奇屋多聞櫓を内濠越で間近に眺められるのだ。道灌堀を見学できるのも
こちらからの順路に限られる。更に、近年になって春(桜)と秋(紅葉)の乾通り一般開放も行われるようになっている。
皇居が城跡だったという事を知らない人も案外多いようだが、都心の一等地にある史跡として是非ともお薦めしたい場所。宮城として
当時からの遺構が多く保全されているのも魅力である。また、余談ではあるが北の丸公園の一角(立入禁止区域)にはヒカリゴケが
自生しており、国の天然記念物に指定されている。通常、ヒカリゴケは洞窟内など薄暗い場所にだけ生育するものだが、北ノ丸では
石垣の隙間に上手く繁殖している。東京都内にこのような自然環境が残されているのも、長らく不可侵の聖域とされていた将軍の城
ならではという事でござろうか。吹上にある池では、日比谷入江が海と繋がっていた頃の生態系すら残っているそうだ。
当然の事ながら、財団法人日本城郭協会による日本百名城の1つに数えられている。
別名で千代田城とも。


現存する遺構

田安門・清水門・桜田門《以上国指定重文》・大手門(高麗門部分)・平川門
桔梗門・北桔梗門・西ノ丸大手門・大番所・百人番所・同心番所
富士見櫓・桜田巽櫓・本丸数奇屋多聞櫓・西ノ丸伏見櫓及び続多聞櫓
石室・井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定特別史跡
外堀領域は国指定史跡
北ノ丸ヒカリゴケ生育地は国指定天然記念物

移築された遺構として
川越喜多院客殿・書院・庫裏(旧紅葉山御殿部分)《国指定重文》
川越氷川神社内末社八坂神社社殿(旧二ノ丸東照宮)《埼玉県指定文化財》
坂下門(設置角度変更)・乾門(旧西ノ丸裏門)・半蔵門(来歴不詳)




真里谷城  八王子城関連城郭