上総国 真里谷城

真里谷城 主郭虎口

所在地:千葉県木更津市真里谷字真地

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★■■
公園整備度:★☆■■■



真里谷は「まりやつ」と読む(「まりがやつ」とも)。真地野城の別称も。木更津市域の東端、市営少年自然の家キャンプ場と
周辺一帯が城址であるが、そこへ辿り着くには延々と山道を往くしかない。圏央道が程近い場所を横断しているもののICはなく
鉄道利用では最も利用し易い駅でJR久留里線の馬来田(まくた)駅、或いは小湊鐵道の高滝(たかたき)駅という事になろうが
それでもかなりの距離がある為、車で行くのが必然でござろう。幸いにしてキャンプ場がある事から駐車場の心配はなく、また
城内各所(全域ではない)は整備の手が定期的に入っていて見学もし易い。
キャンプ場の自由広場、この山の山頂となる標高162m地点一帯が主郭。東西約40m×南北約70m、ほぼ長方形をした敷地は
かなり広々と感じられ、主郭として用いるに適した規模であろう。千畳敷と名付けられているのも納得だ。全周は土塁で囲われ
虎口(写真)と思しき場所だけにその切れ目がある。外側から見上げると一見、平虎口のようにも感じられるが内側の直近に
蔀土塁となる段差があり、入るのに屈曲を強要した技巧的な構えとなっている。主郭の北側、一段下がる位置には城山神社が
鎮座する副郭。主郭と副郭の間は削り込まれた切岸で分断されており、主郭の独立性が高い。この主郭群を中心とし、周囲に
延びる尾根筋ごとに曲輪が構えられている縄張だが、特に北西側(主尾根になる地形)へと多数の曲輪が段状に並ぶ。ほぼ
等間隔に二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭が置かれている上、其々の支尾根には腰曲輪が取り巻き、縄張図で見るとまるでハリネズミか
ムカデが列を成しているようだ。随所に穿たれた堀切や竪堀、切岸なども見事なもの。城の全周は東西400m×南北700m程の
大掛かりなもので、房総半島の奥地にある山が丸ごと巨大城郭となって活用されている。搦手口は主郭の北尾根から出ており
万田野(まんだの)集落を経て市原方面へ延びる脱出路となっており申した。ところで、千畳敷の南北には展望台があるが、
しかしそこから見える景色はひたすらに山ばかり。周囲に町はおろか、平野となっている地点は全くないのだ。堅固な山城で
あるのは良いが何故こんなに辺鄙な場所に城を築いたのか、謎でしかないのでござる。街道からも距離があるし、山の麓に
入り込む東の武田川・西の泉川(共に小櫃(おびつ)川(房総丘陵から東京湾へと流れている二級河川)の支流)はいずれも
この位置では舟運を使える環境になく、交通の便も良くない。
この城の築城者は真里谷武田氏(上総武田氏)。武田氏、という名から分かるように甲斐源氏の末裔…つまり、武田信玄の
甲斐武田家と同族である。信玄の5代前の甲斐武田家当主が武田刑部大輔信重なる人物で、その信重の弟が武田右馬介
信長。信重・信長兄弟は甲斐国内や古河公方(こがくぼう、室町体制における東国支配の長)府での争乱に翻弄された後、
ようやく信重が甲斐守護を継承、一方の信長は古河公方から任じられて上総守護となった。この信長が上総入国にあたって
築いた拠点が庁南城(千葉県長生郡長南町)と真里谷城、1456年(康正2年)の事でござる。よって、武田信長以降の子孫は
上総武田氏となる訳だが、元来は“余所者”である信長が在地豪族を纏めていくのは並大抵の事ではなく、叛乱や他国からの
侵攻に備え純軍事的な堅城を欲したが故「一切平野地の無い(支配地は二の次)」山奥の城たる真里谷城が誕生したのだ。
余談だが武田信玄と言えば強力な指導体制で武田家の版図を拡大、甲斐から信濃や駿河まで進出し“戦国最強の大名”との
印象に彩られているが、信玄の父・信虎は甲斐の統一に躍起になり(だから“暴君”にもなってしまうのである)、それ以前の
代はいつまでも権力を確立させられない“脆弱な守護大名”として武田家は生き永らえていた。信長も甲斐での戦に明け暮れ
それでも古河公方に忠勤を尽くした事で上総守護の地位を手に入れた訳で、辛酸を嘗め続けた彼が“防御に特化した城”を
必要としたのも当然の結果なのでござろう。上総武田家はこの強力な軍事拠点を基盤として少しずつ勢力を拡大、上総国の
中部〜西部一帯を手中に収めていき申した。1463年(寛正4年)信長が隠居すると嫡男の上総介信高が跡を継いだが、80歳
近くになっていた信長は1477年(文明9年)頃に没し、信高も後を追うように1480年(文明12年)逝去する。結果、信高の長男
上総介道信が庁南城主の座を、道信の弟である三河守信興が真里谷城主を継承。また、久留里城(千葉県君津市)には
信高の弟・信房が入り上総武田家の領地を固めた訳だが、これ以後、道信系が庁南武田氏、信興系が真里谷武田氏という
区分けがされ、信興は真里谷に改姓している。なお、道信が長男ではあるが弟である信興が嫡男とされ、真里谷武田家が
宗家、庁南武田家が分家とされてござる。
さて、関東では長らく古河公方と京都の幕府が対立し争乱が続いていた。幕府に反抗し続ける古河公方に対し、幕府の命を
受けた関東管領(元来は鎌倉公方(古河公方の前身)家宰で実質的な関東統治者)上杉氏が対抗、関東諸勢力は公方方と
上杉方に分かれて各地で戦いを繰り広げたのでござる。武田信長以来、一貫して公方方に属した(故に上総守護となった)
上総武田家であるが、1479年(文明11年)上杉方の千葉自胤(よりたね)や太田図書助資忠(すけただ、太田道灌の弟)らが
下総や上総における主導権を獲得せんと攻め込んできた。真里谷信興や武田道信は共同してこれを迎え討つが、稀代の
名将・太田道灌に指揮された攻撃軍は手強く、上総勢はいずれも自胤に降伏する。しかし、結局自胤は本領である下総の
回復を成功させられず、隠棲先の武蔵国へと撤退した為に真里谷武田氏も庁南武田氏も自領に復帰した。信興の死後は
嫡男の式部丞信勝が真里谷の家督を継承、領内の寺社を復興するなど領内安寧に配慮し勢力基盤を固めていく。
その信勝の頃、庁南武田氏は所領争いから近隣の原氏と対立した。庁南武田宗信を支援すべく、信勝は原氏への攻勢を
共同で行うと共に、後ろ盾となる強力な権威を擁立しようとする。古河公方の縁戚で諸国を放浪していた武辺の士・足利
義明を呼び寄せ、原氏の本拠地である小弓(おゆみ)城(千葉県千葉市)を陥落させそこに入城させたのだ。義明の小弓
入城年代は諸説あるが、これにより義明は独自に房総半島における足利家の権力基盤を確立し「小弓公方」を名乗るように
なった。小弓城主・原胤隆(たねたか)は討死、居城を追われた原一族は一時没落、公方擁立の功労者である信勝は上総
国内の主導権を握る。但し、庁南武田氏は従前の古河公方を重んじ小弓公方には加担していない。小弓公方義明は実家の
古河公方家とは対立した関係にあった訳だが、信勝と共に義明擁立に活躍した信勝の嫡子・信保は小弓公方副官として
房総管領の職を称するようになった。この信勝〜信保期が真里谷武田家の最盛期であったとされている。
ところが義明は次第に自らの血統や武威を誇り専横の振る舞いを見せるようになった。晩年の域に達していた信保は出家し
恕鑑(じょかん)の法名を名乗っていたが、そんな義明に嫌気が差して徐々に小田原後北条氏と気脈を通じるようになる。
対する義明は当然ながら後北条氏とは対立、両者の関係は悪化の一途を辿り遂に1534年(天文3年)7月1日、恕鑑は憤死。
後継の座を巡って真里谷家は紛糾する事になった。恕鑑の長子・信隆は庶子であり、弟の信応(のぶまさ)が嫡子であった為
一族家臣は両派に分かれて対立するようになったのだ。一応、年長の信隆が家督を継ぐも家臣の多くは嫡子の信応を支持、
次第に信隆は孤立を深めていく。そこに小弓公方義明が介入し信応を援助、信隆は後北条氏を頼って江戸湾の対岸にある
武蔵国金沢(現在の神奈川県横浜市金沢区)へ逃亡するしかなかった。
この家督争いは1537年(天文6年)頃から激化していたが、それを契機として遂に1538年(天文7年)関東の覇権を決する一大
合戦へと発展した。即ち、真里谷信隆・小田原後北条氏・古河公方の連合軍と真里谷信応・小弓公方義明と彼に追従する
安房里見氏の連合軍が国府台(こうのだい、千葉県市川市)において激突したのだ。所謂「第1次国府台合戦」と呼ばれる
この戦いでは、緒戦で義明が奮闘し勢いづくものの形勢を冷静に判断した後北条軍が反撃に転じ、とうとう小弓公方軍が
大敗する結果となった。何と足利義明はこの戦いで戦死、もともと義明に付き合わされていただけの里見軍は彼を助けず
見殺しにして戦場を離脱、残された信応は後に里見氏を頼って逐電するに至るのでござる。
斯くして信隆が真里谷武田家の当主に復帰したが、この頃の真里谷氏は椎津(しいづ)城(千葉県市川市)へ本拠地を
移すようになっていたらしい。内紛を経た真里谷氏そのものも弱体化しており、以後は事実上後北条氏の家臣として生き
永らえるようになった訳だが、それもまた対立する里見氏の攻勢を受ける結果を招いた。1551年(天文20年)8月2日に
丹波守信隆は病没、嫡子の三河守信政が継ぐもこれを好機と捉えた里見軍が攻勢を強め翌1552年(天文21年)11月4日、
椎津城で自刃して果てた。この折、流石に甥の窮状を見て不憫に思ったのか仇敵である筈の信応は里見方から寝返り
椎津城を救わんとしたが、彼もまた里見軍に攻められ同月7日に自害。結果、真里谷氏の家督は信応の子である上総介
信高が引き継ぐ事になり申した。ただ、信応の死については異説もあり1564年(永禄7年)の第2次国府台合戦までは
存命だったとも云われる。いずれにせよ、里見家の庇護によって命脈を繋いでいた信応―信高が真里谷氏の家督を手に
入れた訳だが、この第2次国府台合戦によって里見家は勢力を減退、後北条家の関東制覇が濃厚となり、真里谷信高や
庁南武田豊信(一説には武田信玄の実子が庁南武田家に養子入りしたとも)らは後北条氏の配下へと組み込まれた。
その後北条氏も1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐によって滅亡。信高は秀吉の参陣命令に従わなかったため
豊臣麾下の徳川軍に城を包囲され、真里谷城を開城し降伏するも秀吉の仕置きによって所領は没収された。後に下野国
那須(栃木県那須地方)へと落ち延びたと伝わる。また、庁南豊信は徳川勢に攻められて敗死したとか、或いは信濃国の
松代(まつしろ、長野県長野市)に逃げて行ったとも言われる。斯くして真里谷・庁南の両武田氏はここに滅亡、真里谷城も
廃城になった訳だが、事実上の廃城はそれ以前だと考える向きもござる。


現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等




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