上総国
坂田城
所在地:千葉県山武郡横芝光町坂田
(旧 千葉県山武郡横芝町坂田)
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駐車場: あり
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御手洗: あり
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遺構保存度:★★★
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公園整備度:★☆
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千葉県の北東部に位置する山武郡横芝光町は、九十九里浜に面した海辺の町である一方、JR総武本線より内陸側の地域は
複雑な谷戸が入り組む丘陵地帯になっている。こうした丘陵部の中でも、千葉県道116号線〜同79号線に沿った部分は
南北に細長い半島状の台地が伸びる地形となっており、しかもその頂部は平坦な広場を形成している。この半島状台地の南端部
俗に「城山」と呼ばれる、東西に約300m×南北は650m程の細長い範囲が坂田城の城地でござる。その敷地内を、まず大きく
南北で2分し、城外に近い北側(大手は北端の半島根元部)を4郭とする。そして南側半分を更に2分し、北半分が3郭となり
残る先端部を東西に分け、東側が2郭、西側が主郭となる縄張り。各曲輪は形状や用途に応じた別名も付けられており、
4郭は外城(とじょう)、3郭は登城(同じくとじょう)、2郭は見台(みだい)、主郭は牙城(がじょう)と称している。各曲輪の間は
非常に深くて幅の広い空堀で分断されており、堀を突破して隣の曲輪へと突入するのは難しく、必然的に城内通路を通らないと
次の曲輪の攻略はできない。まず4郭だが、この敷地は城兵の駐屯地となり得る広大な平地で、内部は東西南北に4分割され
北東が「島戸」、北西が「道城」、南東が「子安」、南西が「於東」という小字名で呼ばれる。北側の島戸・道城を合わせて
5郭と考える向きもある。大手口は北東の島戸に張り出す形で開かれており、その経路は屈曲を複数回重ね、更にそれを土塁で
目隠しし城門を幾重にも重ねる複雑屈強な構え。現在は農道が一直線に延びているものの、その脇に土塁や堀底道の残欠が
見て取れ、そこを歩いてみれば大手口の厳重な防御構造を体感する事ができよう。次に4郭から3郭へと入る経路においては
巨大な土塁と空堀が両曲輪を分断している事に圧倒され、ここも見所の一つと言える。登城路を挟み込むように左右両側で
土塁が張り出している部分もあり、侵入する者に横矢を掛けて討ち取ろうとする状況が良く分かる。或いはこの張り出し部は
櫓台であった可能性もあろう。3郭は南を除く3方の全てに分厚い土塁を構えており、ここから内側が城郭の主要部であった事を
物語っている。そして2郭は見台の別名がある通り、見張台の役を兼ねた主戦闘区域と言える曲輪。大手→4郭→3郭へと至る道は
いずれも各曲輪の中央部を貫通している為、虎口での防衛が破られれば大軍の通過が容易であるという弱点も抱えている坂田城で
あるが、3郭から主郭へは必ず2郭へと回り込まねば通り抜ける事は不可能。その2郭は、言わば「主郭の馬出」とも言える構造に
なっている上、3郭から入ろうとする経路には東側から横矢が掛かるようになっている。また、2郭から主郭へと突入する通路にも
主郭側から相横矢が掛かるようになっていて、戦闘時には2郭の前後で最も激しい攻防戦が繰り広げられる事になるだろう。
主郭は4周全てに土塁が構えられており、こここそが坂田城の中枢であった明らかな証拠を見せている。その規模は東西80m×
南北50mの長方形。この城は舌状台地を輪切りにした典型的な連郭式城郭の縄張りだが、特に主郭の防御構造と程よい大きさは
4郭から順に連なる曲輪群の“格付け”における頂点を成すに相応しいものでござろう。城内と城外の比高はおよそ20m程。
全体的に同じ高さで統一されているのが面白い。台地の法面はかなり急峻な斜面となって取り囲んでいるが、ほぼ全周を
塞ぐように帯曲輪や腰曲輪まで用意されている念の入れよう。現在、城の南西側に坂田池という小さな池があり、そこが
公園として整備されている(よって坂田城へはその公園駐車場を利用して来訪すれば良い)のだが、往時の坂田池はもっと大きく
広がっており、更にはその周囲も泥湿地帯となっていた。即ちこの半島状台地はまさしく半島そのものだったと言え、恐らく
大手以外の場所から直接的に上陸・攻撃するような手段は無かったと推測されるので、これら外周の帯曲輪が実際に使われるような
事態は起こり得なかったであろう。坂田城を構築した者の築城理念が如何なるものだったのかを想像するのも一興でござる。
ではこの城を誰がどのような経緯で築いたのか。歴史を紐解けば、14世紀中頃に千葉氏(関東八屋形に数えられる武家の名門)の
築城と言われる。また、もっと以前の話として平安時代中期に桓武平氏(桓武天皇から分流した武家の一族)の
平良兼(たいらのよしかね)が居館を構えたものとする説もある(千葉氏は桓武平氏の末裔)が、これは信憑性が薄かろう。
ともあれ、この地が築城に値する要地であった事は確かである。現在の行政区分である横芝光町は山武郡に属するが、2006年
(平成18年)3月27日に合併する前は山武郡横芝町と匝瑳郡光町になっていた。山武郡は江戸時代以前、山辺(やまべ)郡と
武射(むさ)郡に分かれており、坂田城のある横芝町域は武射郡に属している。匝瑳郡は下総国であり、武射郡は上総国なので
坂田城は上総・下総国境を扼する“国境の城”だったのだ。加えて、九十九里浜に沿った形で走る街道から分岐する牛久方面への
道と、酒々井(しすい)方面への道の中間点にもある。更には上総・下総国境となる栗山川(九十九里一帯で最も大きな河川)が
太平洋へと注ぐ水上交通の結節点も掌握する位置(坂田城主郭から栗山川まで最短で1.3km)なので、この地域で最も重要な
交通の要所だったのでござる。この城は千葉氏の一族・三谷大膳亮胤興(みやたねおき)が坂田郷を治める事で城主となるが
三谷氏は胤興・胤煕(たねひろ)・胤良(たねよし)の兄弟間で内紛が絶えなかったのが実情で、1555年(弘治元年)閏10月18日
それに突け込んだ井田因幡守友胤(いだともたね)が急襲。胤興は討ち取られ、三谷一族は滅亡した。これにより坂田城は
友胤のものとなり申した。そもそも井田氏は飯櫃(いびつ)城(千葉県山武郡柴山町)主・山室氏(千葉氏配下の武将)の客将で
同じく柴山町にある大台(おおだい)城を根拠地としていたが、一方で千葉氏の直接的な臣下にもなっていた一族。山室氏と
千葉氏の両方から支援を受けていた事で、その威勢は大いに奮っていたと思われる。「総州山室譜伝記(山室氏の家伝)」では
友胤が胤興から奪って後に大掛かりな改修を行った事を坂田城の創始としており、これも井田氏の隆盛を物語るものでござろう。
翌1556年(弘治2年)胤興の遺児・蔵人佐が坂田城の奪還を求めて挙兵、攻城するも友胤の子・平三郎胤徳(たねのり)が防戦に努め
これを撃退した。友胤はこの戦いの後に隠居・出家し1565年(永禄8年)に没する。坂田城は胤徳が城主となる時代になるが、
この頃から千葉氏は小田原後北条氏の勢力に屈し、臣従するようになる。当然、井田氏も同じ境遇に置かれ坂田城は後北条氏の
支城としての役割を果たすようになった。現在に残る城の最終形態は、恐らくこうした経緯によって後北条氏が改良したものだろう。
直線的な堀の形状、馬出や横矢掛かりの多用、方形を成す主郭、大手口の多重屈曲といったものは後北条流の築城術に
通じるものだ。また、駐屯地となる4郭は井田氏単独の兵力では異常に大き過ぎる規模なので、これも後北条氏の軍勢拠点と
考える方が納得できる。関東に覇を唱える後北条氏は次第に房総半島の雄・里見氏との交戦状態に入り、里見方の有力武将
正木(まさき)氏が度々坂田城へと来寇するも胤徳はこれを良く防いだ。
しかし後北条氏は天下統一に王手をかけた豊臣秀吉が最後の敵として攻略する対象にされてしまう。1590年(天正18年)
総勢20万とも言われる豊臣軍が大挙して関東へ雪崩込む事態に、胤徳は300騎を率いて小田原城の守備に参加し箱根湯本口の
守りに当たったが、城主不在の坂田城では(諸説あるものの)豊臣方に降伏、無血開城したと言う。これを以て坂田城は廃城。
以来、城跡は耕作地や山林となっていく。その一方、井田氏の旧臣・神保氏が江戸時代に「神保文書」を記し坂田城の来歴を記録。
この他に絵図面なども製作された為、江戸時代以前の廃城城郭ながら詳細が明らかな貴重な城址でござる。農地改変があるものの
遺構の残存状況は良く、また現在は梅園があるので毎年春には横芝光町の梅まつりが開催される地にもなっている。城郭愛好家から
初心者まで、それなりに見所がある城郭と言えよう。
なお、廃城後に落ち延びた井田胤徳は流転の末に水戸徳川家の家臣に取り立てられた。幕末の1864年(元治元年)、胤徳の末裔である
水戸藩士・井田好徳がこの地を訪れ、因幡守友胤300年忌法要を執り行っている。この折、既に帰農していた井田氏の旧家臣子孫ら
65名が集まり、主従の再会を果たしたと云う。
現存する遺構
井戸跡・堀・土塁・郭群等
上総国
津辺城
所在地:千葉県山武市津辺
(旧 千葉県山武郡成東町津辺)
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駐車場: なし
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御手洗: なし
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遺構保存度:★★☆
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公園整備度:★
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JR総武本線成東駅の北北東、約800mの位置にある中世城郭。津辺地区北辺にある日吉神社の真東にある山林部、河川改修によって
境川が大きく蛇行する円周の内側にあたる。城域の大きさは東西およそ220m×南北およそ280mほど、境川へと突き出す舌状台地の
最先端部を利用した縄張りで、日吉神社付近の浸食谷が上手い具合にこの台地先端部を切り離して独立性を高めてござる。
城域南東隅が主郭、その北が二郭、二郭の西側を塞ぐ位置に三郭、三郭を包み込むように四郭と五郭が並ぶようになっていて
城の北側(台地の緩傾斜部であり、この城の防御上で弱点となる部分)にはいくつかの腰曲輪や帯曲輪を連続して配置。しかも
各曲輪間はかなり深く掘り込んだ空堀によって分断されている。この堀の深さや傾斜は峻烈なもので、さほど大きくもない津辺(つべ)城を
堅城たらしめている確実な防御構造物と言えよう。さらに主郭の出口は外枡形、二郭へ通じる土橋は相横矢、三郭出口は馬出状の構造、
大手口への経路には前衛障壁となる帯曲輪状の土塁が並走と、随所に鉄壁の防備が施されている。空堀は堀底通路ともなっていたように
思われる反面、複雑に入り組んだ迷路にもなっている上、捨堀となる「穴」のような構造物も用意されており、地方の出城規模としては
恐ろしいまでの過剰防衛の城と言える。“小粒だが煮ても焼いても食えない”というクセ物の城なのに、詳しい来歴は不明。場所的に
考えて上記した坂田城の支城と考えられており、伝承では井田胤徳の被官・白枡和泉守なる者が在城していたとされてござる。他方、
地元集落の古文書では鎌倉時代初期、千葉氏の家老・石井氏の城と記されているそうだがこの城の構造から考えてその可能性は低かろう。
ここまで複雑で技巧的な構造は戦国時代末期、恐らくは後北条氏の手によって構築されたと考えるべきで、井田氏が後北条配下に
組み込まれた後、里見氏への警戒を要する地点の防衛拠点として整備されたのではないだろうか。坂田城が兵力の集中拠点となるような
大規模駐留城郭として用いられたのに対し、津辺城はその出城として来攻する里見軍の第一波を食い止め時間稼ぎをし、坂田城からの
反撃軍勢を出陣させるような連携を想定していたと考えれば、この城の過剰防備構造も納得できるのでござる。
城地は大半が私有地なので見学には配慮が必要。また、特に整備されている訳でもない上に現在でも空堀は訪れる者の行く手を阻む程
危険な構造を維持している。事故や怪我のないような備えをして来訪する事をお薦めする。
現存する遺構
堀・土塁・郭群等
上総国
成東城
所在地:千葉県山武市成東
(旧 千葉県山武郡成東町成東)
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駐車場: なし
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御手洗: あり
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遺構保存度:★★☆
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公園整備度:★★
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津辺城から成東駅を挟んでほぼ反対側の位置、つまり成東駅から南西へおよそ800mほどの場所にある城郭。この辺りは周囲から
独立した台地になっており、周辺との比高差は平均して35mもある築城好地。この台地は傾斜角が一定した感じになっていて
かつ急峻である為、寄せ来る敵兵を撃退するに適した地形である上、台地頂部が平坦な平場となっている事から、内部を分割し
いくつもの曲輪を造成しやすい。現在は宅地化され、かつての曲輪群は殆どが遺構を残さず潰されてしまった感があるものの
往時はこの広大な敷地が全て城郭化されていたかと思うと、相当な規模だった事が推測できる。
しかしこの城の来歴は非常にあやふやなものである。古くは鎌倉時代に印東四郎師常(いんとうもろつね)なる者がここに館を
有したと記録に残る。印東氏は桓武平氏良文流(良兼流とする説もある)の流れを汲むとされ、平常茂(つねしげ)が
印東荘(下総国印旛郡にあった荘園)を治めた事に始まり、これが故に常茂が印東の姓を名乗るようになったもの。なお、
常茂の弟が源頼朝が旗揚げするに際して大きな貢献をした上総広常でござる。常茂と広常は上総平氏総領の立場を争う間柄で
常茂は実兄を殺害してその地位を強奪せんとしたが、逆に民心が離れる結果となり、広常の権勢を増す事になってしまった。
こうした中で頼朝が旗揚げし、弟・広常がその麾下に加わった事で当然ながら常茂は平氏方に組するようになる。ところが
常茂の息子らも父の所業を嫌って広常傘下に入ってしまう。完全に孤立した常茂は富士川の合戦で敗死する。一方で息子らは
広常配下で団結し、頼朝の覚えも目出度く、鎌倉幕府成立後はそれぞれ御家人としての確立した。このうちの1人が師常で
武射郡の南域を所領にした事から南郷師常とも称されている。師常の館は「鳴戸」にあったと記録されている事から、これが
成東(鳴戸)城だと伝わる所以でござろう。ところが鳴戸館についてその後の記載は途絶え、次に成東城としての名が現れるのは
室町時代に入ってからとなる。1530年(享禄3年)千葉勝胤(かつたね)により再興されたとするもので、師常が鎌倉幕府草創期の
人物である事から逆算すると350年近く後の話である。この勝胤は、千葉氏後継の中でも下総千葉氏の流れに当たる人物である。
(下総千葉氏の起こりについては国府台城の項を参照)
勝胤は成東城に自身の子・胤定(たねさだ)を入れたとされ、故に胤定は成東八郎を称した。以後、恐らくは胤定の系統が城主を
務めたと推測されるが、この頃から千葉氏は内紛や里見氏との対立に勢力を減退させ、結果的に小田原後北条氏の配下へと
組み込まれている。成東城も次第に後北条氏勢力圏の城として利用されたようで、台地全体を活用した巨大城郭へと進化したのは
後北条氏の手による影響が大きいのだろう。他方、東金(千葉県東金市)の酒井氏がこの城を領したとする説もある。千葉氏は
佐倉・酒々井(いずれも千葉県北部)から成東へ南進して来たとされるが、酒井氏だとすれば北上して成東を奪った事になる。
酒井氏は戦国中期にしばしば後北条氏と敵対し、また千葉氏とも集合離散を繰り返し、国人領主として独立を保とうとしていたが
関東の巨大勢力となった後北条氏に抗える筈もなく、最終的にはその支配下に置かれている。成東城の歴史は詳細不明ながら
戦国終盤に於いては(千葉方であろうと酒井方であろうと)後北条氏が動かす城になっていたのは間違いないようだ。ところが、
その後北条氏は豊臣秀吉に睨まれ、1590年に討伐の憂き目を見る。後北条氏は大名としての封を失い、関東のほぼ全域は
徳川家康の治める地となる訳だが、この時に成東城は家康配下の石川康通が2万石で城主になっている。康通は後北条氏の手が
加えられていた成東城を近世城郭化する改造工事を行い、城が占位する台地の全周に屈曲を伴った切岸を造成するなどして
防御を強化。兵力集中拠点として、また籠城時の火点ともなる外郭部を完成させたと見られる。その康通は関ヶ原合戦の恩賞として
5万石に加増移封、美濃国大垣(岐阜県大垣市)へと移転した為、青山忠成が成東を領する。常陸国江戸崎(茨城県稲敷市江戸崎)を
本領とした忠成は成東もその所領として加えられていたようだが、嫡男・忠俊(忠成2男)はそれとは別に所領を持っていた上に
忠成からの家督相続による所領合流もあって、青山氏2代は成東城を本拠として用いていた訳ではないようだ。よって、石川康通の
移封を以て成東城の廃絶と考える説もある訳だが、いずれにせよ1620年(元和6年)忠俊が武蔵国岩槻(埼玉県さいたま市岩槻区)へと
5万5000石で加増移封された時点で成東城は完全に廃された。
城址の台地は東西およそ700m×南北500mの菱型をしているが、この東端部にあたる愛宕神社付近が主郭とされる。主郭そのものは
約50m四方の小さな曲輪で、その南西側へと二郭・三郭が連なる連郭式の主要部であるが、これら主要部は台地の南東面を占めるに
過ぎない。これ以外の区域、つまり台地の大半は外郭部という事になる。よって、曲輪の区画となる堀は元来ある僅かな起伏を
使いながらも大部分は人為的に掘削して作り上げたものという事であろう。そしてこの外郭部は、昭和の宅地開発によって綺麗に
造成されてしまった為、堀や土塁の痕跡は殆ど消滅してしまった。一方で主要部は比較的良好に遺構が残されている。これを利用し
1978年(昭和53年)から成東城跡公園の建設が開始され、部分開業を経て1982年(昭和57年)に全面開業となり申した。園内には
土塁や空堀の遺構が見受けられる上、展望の良い台地上である事から九十九里浜への眺望が開ける景勝の地でもある。さりとて、
公園整備によって強引に園内通路を開削したのでは?と思える箇所も散見されるのが少々残念でもある。また、駐車場はないので
基本的には城跡まで徒歩か公共交通機関を利用して赴かねばならない。成東の町並みから城跡公園を目指す道を進むと、急峻な坂に
「もはやこれは山登りだ」と思わせられる。これもまた、城を攻める兵の心持ちを味わうと言う事なのであろうか?
なお、城跡台地の中腹〜直下には太平洋戦争中の洞窟塹壕の跡も確認できる。1945年(昭和20年)8月15日に終戦せず本土決戦を
迎えていた場合、九十九里浜とくに成東沿岸あたりが米軍の最有力上陸地点と推測されていた事から、終戦間際の旧日本軍が
ゲリラ戦を図ろうとして構築していたものだそうな。この想定はかなり正確なもので、米軍の保管資料では国道126号線を利用して
九十九里から東京へ進出するのが最短の攻略経路と考えており、旧日本軍としては国道126号線を進む米軍の隊列に効果的な
側面射撃を加えるべく成東城の切岸にこのような砲撃塹壕を掘ったのである。日米両軍の思惑が一致するこの地点は、ともすれば
廃城後300余年で近代戦闘を経験したかもしれなかったのだ。改めて、成東城は太平の世をありがたいと痛感する城址でもある。
現存する遺構
堀・土塁・郭群等
国府台城・小金城・根木内城・戸張城
真里谷城