関東の“大動脈”を制圧する地勢■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
国府台は「こうのだい」と読む。「鴻之台城」の字を充てる事も。市河(市川)城と比定する向きもあるが、これは
別の城だと考える説もある。いずれにせよ、戦国時代の関東において小田原後北条氏が覇権を握るに至る大戦
「国府台合戦」が2度に亘って繰り広げられた重要拠点だが、その歴史を紐解く前に、地勢的に国府台が如何に
重大な鍵を握っていたかが問題であろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、国府台城のすぐ西側を江戸川が流れている。つまり、この地点は東京都と千葉県の境界に位置している
訳だが、中世においては少々異なる状況にあった。江戸川、当時は太日(ふとい、おおいとも)川と呼ばれた川は
渡良瀬川の河口部であり、そのすぐ西隣には並行して走る利根川の河口もあった。現代においては渡良瀬川は
利根川の支流、即ち両川が茨城県古河市の辺りで合流し、今度は千葉県野田市関宿で江戸川と利根川に分流、
片方が東京湾へと流れ込み(江戸川)、残る大半が千葉県銚子市に下る(利根川)流路となっているが、これは
江戸時代になってから河川改修が行われた結果によるものなのだ。また、荒川も戦国期には利根川に直結して
流れ込んでいた。つまり、国府台城のすぐ真横に太日川と利根川が流れ込んでおり、しかもその水量は関東の
大河川である荒川・利根川・渡良瀬川の総量を数えるものであった訳だ。となれば、国府台城は関東のあらゆる
河川が集約する場の東岸に屹立する、まさしく“天険の地”に位置していた事になる。■■■■■■■■■■■
古代に制定された令制国は都(奈良あるいは京都)から近い国を「前(上)」、遠い国を「後(下)」として扱う。■■
例えば現在の岡山県東部は「備前」同県西部が「備中」広島県東部が「備後」であるし、群馬県が「上野」栃木県が
「下野」とされる。然るに、房総半島は陸続きである筈の北部が「下総」、半島先端に近い中部が「上総」となって
いるのは、武蔵と下総の間はこれらの河川が横たわりまともに通れず、相模から海(江戸湾)を渡った方が通行
しやすかった事に由来している。逆に言えば、利根川が銚子ではなく江戸湾に流れ込んでいた為、房総半島から
関宿や古河へは大河川に遮られる事のない“陸続き”の地形だった訳だ。この地勢が国府台合戦と深い関わりを
持つのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
千葉氏に関わる戦いから始まる国府台城の歴史■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
では改めて、城の歴史に触れるとしよう。この地に初めて城が築かれたのは戦国時代初頭、いや、まだ室町時代
中期と呼ぶべき1478年(文明10年)の事。関東を治める総領の立場にある関東管領・上杉氏の家中にあって、
家宰の地位を継げなかった長尾四郎左衛門尉景春(かげはる)が、その事を怨み主君・上杉氏に対して叛旗を
翻した「長尾景春の乱」によるものであった。関東各地の豪族を巻き込んで戦乱を広げる景春に対し、上杉家に
忠誠を誓う天才武将・太田道灌が鎮圧の軍を発する中、景春方に与していた千葉孝胤(のりたね)を征伐する為
道灌軍が着陣し、城を築いたのが国府台城の起源とされている。だがこれに遡る事20年ほど前、その千葉氏の
中でも武蔵千葉氏の実胤(さねたね)・自胤(よりたね)兄弟が1455年(康正元年)に籠城を行った「市河城」を
国府台城と見る説もござる。桓武平氏からの名族・千葉氏は内訌が絶えず、実胤・自胤兄弟の父・中務大輔
胤賢(たねかた)は家臣の原越前守胤房(はらたねふさ)らに造反され自害。逃げ延びた兄弟が市河城に籠もり、
将軍・足利義政から命を受けた援軍・東下野守常縁(とうつねより)を迎え入れたが、胤房方の簗田出羽守持助
(やなだもちすけ)に攻められ1456年(康正2年)1月19日に市河城も棄てて再度逃亡するに至った戦歴だ。■■
市河城落城の後、常縁の反撃で胤房は敗死するも、実胤らは失地回復に至らず武蔵へ落ち延びる。故に、この
系統が武蔵千葉氏という流れになっていく。一方、改めて下総に根付いた千葉氏は下総千葉氏を興し、名門の
復権を志して勢力拡大を図ろうとする。これが孝胤に繋がる系譜であるが、上記の通り長尾景春の乱において
太田道灌から攻められる立場となる。道灌軍の攻撃は、景春方討伐だけでなく、生き延びていた自胤の復活も
目的としており、圧された孝胤は一時期、領地を棄てて隠遁せざるを得ない状況に追い込まれた。しかし自胤が
武蔵へ退いて20余年を過ぎており、既に千葉家の実勢は孝胤のものになっていた。結果、自胤の下総帰還は
失敗に終わり、また太田道灌も不遇の死を迎えた事で軍事的基盤も失い、武蔵千葉氏の復権は成らず、下総
千葉氏がこの地域を治める領主として戻ってくる事になる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
第1次国府台合戦と国府台城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、国府台が次に歴史の表舞台へと登場するのが冒頭に記した国府台合戦である。この戦いは、通説では
第1次・第2次の2度に亘って行われたとされてきたが、近年の再検証によって第2次合戦は都合2回の戦いを
総称したものと考えられるようになった。つまり国府台合戦は合計して3回あった事になる訳だが、まずは第1次
合戦について解説する。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
足利将軍家の分流・古河公方足利家は家の創始時から関東で独立を志向、常に宗家(将軍家)と対立関係に
あった。これに自立心の強い関東各地の武将が翻弄され、時に古河公方家に与し、或いは将軍家に従い、
戦乱が絶えなかった。古河公方家は常時“台風の目”という地位にあり「我こそは坂東武者の支配者」という
強烈な自尊心を誇示していた訳だが、永正年間(1504年〜1520年)になると古河公方家の中でも家督争いが
勃発。父・左馬頭政氏(まさうじ)と嫡男・左兵衛佐高基(たかもと)が争うのを横目に、高基の弟である右兵衛佐
義明までもが下総国小弓(おゆみ、現在の千葉県千葉市)に拠点を構え、古河公方家の乗っ取りを目論んだ。
義明は小弓公方を僭称して、強力な軍事力を背景に周辺の諸豪族を屈服させていく。これにより、房総半島の
主要部は義明の指揮下に束ねられ、いよいよ古河公方家との対立に乗り出す。■■■■■■■■■■■■■
他方、古河公方家は既に政氏と高基が没し左兵衛督晴氏(はるうじ、高基の子)の代になっていた。晴氏は成長
著しい義明に危機感を抱き、南関東の新興勢力・小田原後北条氏へ助力を求める。その当主・北条左京大夫
氏綱は、ちょうど江戸近郊を手中に収め相模から武蔵へと領地を拡大しており、房総方面へも手を伸ばす方策を
窺っていた。晴氏の要請は渡りに舟で、下総へ兵を進める大義名分を得た訳でござる。斯くして、氏綱・晴氏の
連合軍と義明率いる房総半島軍は国府台で激突するのだった。これが1538年(天文7年)10月7日に発生した
第1次国府台合戦だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この合戦において国府台城は小弓公方側の本陣とされた。大河を渡河してくる後北条軍に対して、地の利を
得た義明方が有利と思われた戦いだが、その実、名族を鼻にかけて傲慢不遜な義明に追従する房総の諸将は
戦意が低く、遂に後北条軍の国府台上陸を許してしまう。こうなると数に勝る後北条軍は積極的攻勢に出て、
義明の子・義純(よしずみ)を戦死させた。激怒した義明は自ら敵陣に突入して戦線の建て直しを狙うものの
房総軍の主力と目された安房の里見刑部少輔義堯(よしたか)は巻き添えを食う危険を忌避し、戦わずして
戦線を離脱。そのため、見捨てられた義明もまた戦死して果てた。実は義堯は元々義明を戦死させようという
魂胆があり、小弓公方の滅亡によって自身が房総の新たな支配者になろうと計算していたと言われる。結局、
この戦いは後北条軍の大勝利に終わった訳だが、敗北側である義堯もまた、影の勝利者だったのである。■■
なお、義明は国府台で勝利したならば後北条領国の鎌倉へ攻め入るつもりだったと伝えられてきたが、最新の
研究では関宿の攻略が目的だったと変化している。確かに、古河公方家の乗っ取りが義明の野望であったの
だから、古河の絶対防衛圏である関宿を押さえる事は必須と言える。小弓から国府台へ進軍すれば、そのまま
太日川沿いに北上して関宿へ至るのは自然な流れだ。義明が進もうとする「縦の線」と、氏綱・晴氏が塞ごうと
する「横の線」の交点が国府台だったのである。この戦いの後、里見氏は狙い通り房総半島の領国化に専念。
他方、後北条氏は更なる北進政策を採り関東制圧を進め、とうとう古河公方までもがその軍門に降らざるを
得なくなった。晴氏は義明打倒という“目先の目標”は達したものの、結果的に仲間であったはずの後北条氏に
義明が狙った事と同じ事をされてしまった訳である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
第2次国府台合戦と国府台城(1)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
斯くして、新たな関東の絶対的支配者として君臨するようになった後北条氏。だが、房総半島統一を成し遂げ
北上する里見氏はその喉元に刃を突き立てる形になっていく。とうとう両者の勢力圏がぶつかるようになった
1560年代、再度の戦いが巻き起こる。これが第2次国府台合戦でござる。先に記した通り、近年の研究では
“2回の戦い”を総称し第2次国府台合戦としているので、その経緯を含めて時系列に沿った説明をしよう。■■
第1次国府台合戦後、当地は千葉氏の家臣・高城(たかぎ)氏が支配するようになる。千葉氏は後北条氏の
影響下にあり、国府台城を守るは後北条方という事になった。北進する後北条軍は1562年(永禄5年)11月、
同盟者である甲斐の武田氏と共同で武蔵松山城(埼玉県比企郡吉見町)を攻略。両軍合わせて5万6000の
大軍に対して守り手の城側は僅か2500しかおらず、越後の上杉不識庵謙信に救援を依頼する。謙信は軍を
発する準備をするも、兵糧の調達に目処が立たなかった為、今度は里見氏に対して兵糧の援助を求めた。■
斯くして後北条・武田合同軍が攻める武蔵松山城を上杉・里見両氏が支援するという、東国縦断の対立軸が
成立したのである。里見氏は1563年(永禄6年)1月、兵糧を送る為500〜600の兵を国府台周辺に展開。ここで
商人から米を買い、武蔵松山城の手前にある岩槻城(埼玉県さいたま市)へ送り届けようと考えていた。一方、
それに気付いた後北条軍は里見軍を阻止すべく江戸城(東京都千代田区)代・遠山丹波守綱景(つなかげ)と
富永四郎左衛門直勝(とみながなおかつ)が攻撃を仕掛ける。時に1月4日、太日川を渡って国府台城に陣取る
里見軍へ襲い掛かった遠山・富永軍であるが、結果的にこの攻撃は失敗し両将は討死してしまった。渡河の
タイミングが合わず高城氏の軍と国府台城を挟撃する機を逃した為とも考えられている。しかし、その戦いで
里見軍は岩槻へ進む事が出来なくなった。商人から米を買うにも値段の折り合いが付かなかったと言われるが
これも裏で後北条方が相場の操作を行っていたと推測できよう。様々手を尽くした上、遠山・富永が身を挺して
国府台を制した事で、後北条方は里見氏の動きを封殺。結果的に武蔵松山城は2月に落城。謙信の救援は
無為に終わった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
第2次国府台合戦と国府台城(2)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
とは言え、後北条氏と里見氏の対立はもはや不可避のものとなり、決着をつけるべく両軍は1564年(永禄7年)
初頭から再度の戦いに突入した。兵2万の後北条方は当主の左京大夫氏康を筆頭に、その嫡男である相模守
氏政や家中きっての猛将・上総介綱成(つなしげ)らが出陣。対する8000の里見側は同じく当主の義堯と嫡男・
左馬頭義弘、さらに筆頭重臣の正木大膳亮信茂(まさきのぶしげ)らが参戦、共に総力戦の様相を呈した。■■
国府台城に陣取る里見軍に対し、攻め上がる形になった後北条軍は緒戦で苦境に立たされたが、1月8日の
夜(2月18日という説もある)に夜襲を仕掛け、里見勢を大混乱に陥れている。これで大敗を喫する事になった
里見軍は正木大膳が戦死、里見義弘も身代わりを立てて一目散に逃亡するという有様でござった。里見軍の
死者は5000にも及んだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
総力戦に大敗北した事で里見氏は存亡の危機に立たされ、下総国の大半は後北条氏の領地に。なおも房総
半島への進出を図る後北条軍により、もはや為す術がなくなるかという窮地に陥った里見軍であるが、1567年
(永禄10年)8月23日の三船山合戦(千葉県君津市・富津市周辺)においてようやく勝利し、辛くも後北条勢の
侵攻を食い止めるに至った。もし三船山でも敗れていたら、鎌倉以来の名族とされる里見氏もまた戦国の新興
勢力である後北条氏に滅ぼされていただろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
これら1563年1月・1564年1月(2月?)の戦いを総称して第2次国府台合戦と呼ぶ。旧説では遠山・富永両将の
戦死から里見軍の大敗までが1564年の戦いだと見られていた。これは、江戸城でもう1人の城代とされていた
太田新六郎康資(やすすけ)が寝返った事を契機に追討軍を発した遠山・富永が国府台城に攻め込むも戦死、
しかしそれを「弔い合戦」と鼓舞した後北条方が果敢に城山を攻め上げ、その時に風向きが追い風に変わり
砂塵を里見軍へ浴びせた結果、後北条氏の大勝利で終わったとする内容。1563年・1564年ともに「1月」が戦の
時期で、これが同じ年のもの(つまり、年が食い違う史料は誤記だ)と考えられていたためであるが、近年の
再検証によってそれぞれの年に分かれて戦われていたものだと確認されたのである。■■■■■■■■■■
ただし、史書の誤記である可能性も捨て切れないため更なる検証が求められよう。■■■■■■■■■■■
城以外にも様々な伝承・遺構が残る史跡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
第1次・第2次とも国府台合戦を制したのは後北条氏でござった。以後、国府台城は後北条氏の城として用い
られていく。里見氏に対する遠征の補給基地として使われたと考える向きもあるようだ。しかし関東の覇者・
小田原後北条氏も1590年(天正18年)天下人・豊臣秀吉により滅ぼされてしまった。これにて廃城とされる。
一説に拠れば新たな関東の領主として江戸城に入った徳川家康が、国府台城から江戸を俯瞰できると知って
破却せしめたという。確かに、国府台城の主郭跡は現在でも市川市の最高地点・標高30.1mを数えている。
また、城跡から東京方面を望めばスカイツリーが眼前に立つ。大河に面し、また当時の周囲は湿地帯だったと
推測できる中に浮かぶ城跡の小山は、遡ると古墳時代から人の手が入っており、いくつもの小規模古墳が
造営された。太田道灌が着陣し築城工事を行った際、地中から2つの石棺が出土したとの伝承が残り、それは
現在も現地に安置されているが、これは古墳の棺が陣地の構築によって地表に露出したものでござる。2つの
石棺は明戸古墳石棺(あけどこふんせっかん)と呼ばれ、1962年(昭和37年)6月11日市川市の指定文化財と
されている。話を城山の歴史に戻すが、「国府台」という名の通り律令時代には下総国府が置かれていた。■
城地として使われた時代を経て、江戸期になると1663年(寛文3年)4代将軍・徳川家綱の命で山麓に曹洞宗
安国山總寧(そうねい)寺が置かれている。元々は関宿にあった總寧寺であるが、水害が多かった為ここに
移されたのである。つくづく国府台と関宿は見えない糸で繋がれた関係にあるようだ。明治になると陸軍の
兵営が置かれ、1885年(明治18年)陸軍教導団病院も建てられる。太平洋戦争中は防空壕も掘られた。■■
戦後になると軍の管制が解かれ、1959年(昭和34年)に里見公園として一般開放される。■■■■■■■■
こうした経歴から、城の跡地は改変が激しい。そもそも廃城時、急峻な小山は「険要ナリ」と徳川家康が切り
崩しを命じたとも言われている。しかし、部分的に見てみれば僅かながら城としての痕跡(堀切や土塁跡)が
残されている。北から南に向かって主郭・二郭・三郭が連なる典型的な連郭式城郭だったようで、明戸古墳が
ある二郭は古墳自体を土塁や櫓台として使っていたのではないかと推測できる。公園内には、弘法大師が
掘り当てたと伝わる「羅漢の井」(弘法伝説は日本中にある為、恐らく本当は城の井戸であっただろう)や
第2次国府台合戦で戦死した里見広次なる武将の娘が父の死に泣きはらして自分も息絶えたと伝説が残る
「夜泣き石」とか、1829年(文政12年)に建立された里見一族の供養塚・慰霊墓である「里見諸士群亡塚」や
「里見諸将群霊墓」などがあり、里見氏関連の史跡である事が良く分かる。■■■■■■■■■■■■■■
また、近代の歌人・北原白秋の旧宅「紫烟草舎(しえんそうじゃ)」も公園内に移築されており、市川市の
文教地域であると共に、地域の憩いの場として親しまれているようだ。ただし、すぐ近くに国府台公園と
いう名の公園もあり、注意が必要。「国府台城」跡は「国府台公園」ではなく「里見公園」でござる!■■■■■■
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