下総国 国府台城

国府台城址碑

所在地:千葉県市川市国府台

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:★★☆■■



国府台は「こうのだい」と読む。「鴻之台城」の字を充てる事も。市河(市川)城と比定する向きもあるが、これは
別の城だと考える説もござる。いずれにせよ、戦国関東において小田原後北条氏が覇権を握るに至る大戦
「国府台合戦」が2度に亘って繰り広げられた重要拠点だがその歴史を紐解く前に、地勢的に国府台が如何に
重大な鍵を握っていたかが問題であろう。
現在、国府台城のすぐ西側を江戸川が流れている。つまり、この地点は東京都と千葉県の境界に位置している
訳だが、中世においては少々異なる状況にあった。江戸川、当時は太日(ふとい、おおいとも)川と呼ばれた川は
渡良瀬川の河口部であり、そのすぐ西隣には並行して走る利根川の河口もあった。現代においては渡良瀬川は
利根川の支流、即ち両川が茨城県古河市のあたりで合流し、今度は千葉県野田市関宿で江戸川と利根川に分流、
片方が東京湾へと流れ込み(江戸川)、残る大半が千葉県銚子市に下る(利根川)流路となっているが、これは
江戸時代になってから河川改修が行われた結果によるものなのだ。また、荒川も戦国時代には利根川に直結して
流れ込んでいた。つまり、国府台城のすぐ真横に太日川と利根川が流れ込んでおり、しかもその水量は関東の
大河川である荒川・利根川・渡良瀬川の総量を数えるものであった訳だ。となれば、国府台城は関東のあらゆる
河川が集約する場の東岸に屹立する、まさしく“天険の地”に位置していた事になる。
古代に制定された令制国は都(奈良あるいは京都)から近い国を「前(上)」、遠い国を「後(下)」として扱う。
例えば現在の岡山県東部は「備前」同県西部が「備中」広島県東部が「備後」であるし、群馬県が「上野」栃木県が
「下野」とされる。然るに、房総半島は陸続きである筈の北部が「下総」半島先端に近い中部が「上総」となって
いるのは、武蔵と下総の間はこれらの河川が横たわりまともに通れず、相模から海(江戸湾)を渡った方が通行
しやすかった事に由来している。逆に言えば、利根川が銚子ではなく江戸湾に流れ込んでいた為、房総半島から
関宿や古河へは大河川に遮られる事のない“陸続き”の地形だった訳だ。この地勢が国府台合戦と深い関わりを
持つのである。
では改めて、城の歴史に触れるとしよう。この地に初めて城が築かれたのは戦国時代初頭、いや、まだ室町時代
中期と呼ぶべき1478年(文明10年)の事。関東を治める総領の立場にある関東管領・上杉氏の家中にあって、
家宰の地位を受け継げなかった長尾景春(かげはる)が、その事を怨んで主君・上杉氏に対して叛旗を翻した
「長尾景春の乱」によるものでござった。関東各地の豪族を巻き込んで戦乱を巻き起こす景春に対し、上杉氏に
忠誠を誓う天才武将・太田道灌が鎮圧の軍を発する中、景春方に与していた千葉孝胤(のりたね)を征伐する為
道灌軍が着陣し、城を築いたのが国府台城の起源とされている。だがこれに遡る事20年ほど前、その千葉氏の
中でも武蔵千葉氏の実胤(さねたね)・自胤(よりたね)兄弟が1455年(康正元年)に籠城を行った市河城を
国府台城と見る説もござる。桓武平氏からの名族・千葉氏は内訌が絶えず、実胤・自胤兄弟の父・中務大輔
胤賢(たねかた)は家臣の原胤房(はらたねふさ)らに造反され自害。逃げ延びた兄弟が市河城に籠もり、将軍
足利義政から命を受けた援軍・東常縁(とうつねより)を迎え入れたが、胤房方の簗田(やなだ)出羽守持助に
攻められ1456年(康正2年)1月19日に市河城も棄てて再度逃亡するに至った戦歴だ。市河城落城の後、常縁の
反撃で胤房は敗死するも実胤らは失地回復に至らず武蔵へ落ち延びる。故に、この系統が武蔵千葉氏という
流れになっていく。一方、改めて下総に根付いた千葉氏は下総千葉氏を興し、名門の復権を志して勢力拡大を
図ろうとする。これが孝胤に繋がる系譜であるが、上記の通り関東の大乱・長尾景春の乱において太田道灌に
攻められる立場となり申した。道灌軍の攻撃は、景春方討伐だけでなく、生き延びていた自胤の復活も目的と
しており、圧された孝胤は一時期、領地を棄てて隠遁せざるを得ない状況に追い込まれた。しかし自胤が
武蔵へ退いて20余年を過ぎており、既に千葉家の実勢は孝胤のものになっていた。結果、自胤の下総帰還は
失敗に終わり、また太田道灌も不遇の死を迎えた事で軍事的基盤も失い、武蔵千葉氏の復権は成らず、下総
千葉氏がこの地域を治める領主として戻ってくる事になる。
さて、国府台が次に歴史の表舞台へ登場するのが冒頭に記した国府台合戦である。この戦いは、通説では
第1次・第2次の2度に亘って行われたとされてきたが、近年の再検証によって第2次合戦は都合2回の戦いを
総称したものと考えられるようになった。つまり国府台合戦は合計して3回あった事になる訳だが、まずは第1次
合戦について解説する。
足利将軍家の分流・古河公方足利家は家の創始時から関東で独立を志向、常に宗家(将軍家)と対立関係に
あった。これに自立心の強い関東各地の武将が翻弄され、時に古河公方家に与し、或いは将軍家に従い、
戦乱が絶えなかった。古河公方家は常時“台風の目”という地位にあり「我こそは坂東武者の支配者」という
強烈な自尊心を誇示していた訳だが、永正年間(1504年〜1520年)になると古河公方家の中でも家督争いが
勃発する。父・政氏(まさうじ)と嫡男・高基(たかもと)が争う中、高基の弟である義明までが下総国は小弓
(おゆみ、現在の千葉県千葉市)に居を構え、古河公方家の乗っ取りを目論んだ。義明は小弓公方を僭称し、
強力な軍事力を背景に周辺諸豪族を屈服させていく。これにより、房総半島の主要部は義明の指揮下に
束ねられ、いよいよ古河公方家との対立に乗り出す。
他方、古河公方家は既に政氏と高基が没し晴氏(はるうじ、高基の子)の代になっていた。晴氏は成長著しい
義明に危機感を抱き、関東の新興勢力・小田原後北条氏へ助力を求める。その当主・北条氏綱はちょうど江戸
近郊を手中に収め相模から武蔵へと領地を拡大しており、房総方面へも手を伸ばす方策を窺っていた。晴氏の
要請は渡りに舟で、下総へ兵を進める大義名分を得た訳でござる。斯くして、氏綱・晴氏連合軍と義明率いる
房総半島軍は国府台で激突するのだった。これが1538年(天文7年)10月7日の第1次国府台合戦だ。
この合戦において国府台城は小弓公方側の本陣とされた。大河を渡河してくる後北条軍に対して、地の利を
得た義明方が有利と思われた戦いだが、その実、名族を鼻にかけて傲慢不遜な義明に追従する房総の諸将は
戦意が低く、遂に後北条軍の国府台上陸を許してしまう。こうなると数に勝る後北条軍は積極的攻勢に出て、
義明の子・義純(よしずみ)を戦死させた。激怒した義明は自ら敵陣に突入して戦線の建て直しを狙うものの
房総軍の主力と目された安房の里見義堯(よしたか)は巻き添えを食う危険を忌避し戦わずして戦線を離脱。
そのため、見捨てられた義明もまた戦死して果てたのでござる。実は義堯は元々義明を戦死させようという
魂胆があり、小弓公方の滅亡によって自身が房総の新たな支配者になろうと計算していたと言われる。結局
この戦いは後北条軍の大勝利に終わった訳だが、敗北側である義堯もまた、影の勝利者だったのである。
なお、義明は国府台で勝利したならば後北条領国の鎌倉へ攻め入るつもりだったと伝えられてきたが、最新の
研究では関宿の攻略が目的だったと変化している。確かに、古河公方家の乗っ取りが義明の野望であったの
だから、古河の絶対防衛圏である関宿を押さえる事は必須と言える。小弓から国府台へ進軍すれば、そのまま
太日川沿いに北上して関宿へ至るのは自然な流れだ。義明が進もうとする「縦の線」と、氏綱・晴氏が塞ごうと
する「横の線」の交点が国府台だったのである。この戦いの後、里見氏は狙い通り房総半島の領国化に専念。
他方、後北条氏は更なる北進政策を採り関東制圧を進め、とうとう古河公方までもがその軍門に降らざるを
得なくなった。晴氏は義明打倒という目先の目標は達したが、結果的に仲間であったはずの後北条氏に、
義明が狙った事と同じ事をされてしまった訳である。
斯くして新たな関東の絶対的支配者として君臨するようになった後北条氏。だが、房総半島統一を成し遂げ
北上する里見氏はその喉元に刃を突き立てる形になっていく。とうとう両者の勢力圏がぶつかるようになった
1560年代、再度の戦いが巻き起こる。これが第2次国府台合戦でござる。先に記した通り、近年の研究では
“2回の戦い”を総称し第2次国府台合戦としているので、その経緯を含めて時系列に沿った説明をしよう。
第1次国府台合戦後、当地は千葉氏の家臣・高城(たかぎ)氏が支配するようになる。千葉氏は後北条氏の
影響下にあり、国府台城を守るは後北条方という事になった。北進する後北条軍は1562年(永禄5年)11月
同盟者である甲斐の武田氏と共同で武蔵松山城(埼玉県比企郡吉見町)を攻略。両軍合わせて5万6000の
大軍に対して守り手の城側は僅か2500しかおらず、越後の上杉謙信に救援を依頼する。謙信は軍を発する
準備をするも、兵糧の調達に目処が立たなかった為、今度は里見氏に対して兵糧の援助を求めた。
斯くして後北条・武田合同軍が攻める武蔵松山城を上杉・里見両氏が支援するという、東国を縦断した対立軸が
成立したのである。里見氏は1563年(永禄6年)1月、兵糧を送る為500〜600の兵を国府台周辺に展開。ここで
商人から米を買い、武蔵松山城の手前にある岩槻城(埼玉県さいたま市)へ送り届けようと考えていた。一方、
その動きに気付いた後北条軍は里見軍を阻止すべく江戸城(東京都千代田区)代・遠山丹波守綱景(つなかげ)と
富永四郎左衛門直勝(とみながなおかつ)が攻撃を仕掛ける。時に1月4日、太日川を渡って国府台城に陣取る
里見軍へ襲い掛かった遠山・富永軍であるが、結果的にこの攻撃は失敗し両将は討死してしまった。渡河の
タイミングが合わず高城氏の軍と国府台城を挟撃する機を逃した為とも考えられている。しかし、その戦いで
里見軍は岩槻へ進む事が出来なくなった。商人から米を買うにも値段の折り合いが付かなかったと言われるが
これも裏で後北条方が相場の操作を行っていたと推測できよう。様々に手を尽くした上、遠山・富永が身を挺して
国府台を制した事で、後北条方は里見氏の動きを封殺。結果的に武蔵松山城は2月に落城。謙信の救援は
無為に終わった。
とは言え、後北条氏と里見氏の対立はもはや不可避のものとなり、決着をつけるべく両軍は翌1564年
(永禄7年)の初頭から再度の戦いに突入した。兵2万の後北条方は当主の氏康を筆頭に、その嫡男である
氏政や家中きっての猛将・綱成(つなしげ)らが出陣。対する8000の里見側は同じく当主の義堯と嫡男・義弘、
さらに筆頭重臣の正木大膳亮信茂(まさきのぶしげ)らが参戦、共に総力戦の様相を呈した。
国府台城に陣取る里見軍に対し、攻め上がる形になった後北条軍は緒戦で苦境に立たされたが、1月8日の
夜(2月18日という説もある)に夜襲を仕掛け、里見勢を大混乱に陥れた。これで大敗を喫する事になった
里見軍は正木大膳が戦死、里見義弘も身代わりを立てて一目散に逃亡するという有様でござった。里見軍の
死者は5000にも及んだ。
総力戦に大敗北した事で里見氏は存亡の危機に立たされ、下総国の大半は後北条氏の領地に。なおも
房総半島への進出を図る後北条軍により、もはや為す術がなくなるかという窮地に陥った里見軍であるが
1567年(永禄10年)8月23日の三船山合戦(千葉県君津市・富津市周辺)においてようやく勝利し、辛くも
後北条勢の侵攻を食い止めるに至った。もし三船山でも敗れていたら、鎌倉以来の名族とされる里見氏もまた
戦国の新興勢力である後北条氏に滅ぼされていただろう。
これら1563年1月・1564年1月(2月?)の戦いを総称して第2次国府台合戦と呼ぶ。旧説では遠山・富永の
戦死から里見軍の大敗までが1564年の戦いだと見られていた。これは、江戸城でもう1人の城代とされていた
太田康資(やすすけ)が寝返った事を契機に追討軍を発した遠山・富永が国府台城に攻め込むも戦死、しかし
それを「弔い合戦」と鼓舞した後北条方が果敢に城山を攻め上げ、その時に風向きが追い風に変わり砂塵を
里見軍へ浴びせた結果、後北条氏の大勝利で終わったとする内容。1563年・1564年ともに「1月」が戦の時期で
これが同じ年のもの(つまり年が食い違う史料は誤記だ)と考えられていた為であるが、近年の再検証によって
それぞれの年に分かれて戦われていたものだと確認されたのである。
ただし、史書の誤記である可能性も捨て切れないため更なる検証が求められよう。
第1次・第2次とも国府台合戦を制したのは後北条氏でござった。以後、国府台城は後北条氏の城として用い
られていく。里見氏に対する遠征の補給基地として使われたと考える向きもあるようだ。しかし関東の覇者
小田原後北条氏も1590年(天正18年)天下人・豊臣秀吉により滅ぼされてしまった。これにて廃城とされる。
一説に拠れば新たな関東の領主として江戸城に入った徳川家康が、国府台城から江戸を俯瞰できると知って
破却せしめたという。確かに、国府台城の主郭跡は現在でも市川市の最高地点・標高30.1mを数えている。
また、城跡から東京方面を望めばスカイツリーが眼前に立つ。大河に面し、また当時の周囲は湿地帯だったと
推測できる中に浮かぶ城跡の小山は、遡ると古墳時代から人の手が入っており、いくつもの小規模古墳が
造営された。太田道灌が着陣し築城工事を行った際、地中から2つの石棺が出土したとの伝承が残り、それは
現在も現地に安置されているが、これは古墳の棺が陣地の構築によって地表に露出したものでござる。2つの
石棺は明戸古墳石棺(あけどこふんせっかん)と呼ばれ、1962年(昭和37年)6月11日市川市の指定文化財と
されている。話を城山の歴史に戻すが、「国府台」という名の通り律令時代には下総国府が置かれていた。
城地として使われた時代を経て、江戸期になると1663年(寛文3年)4代将軍・徳川家綱の命で山麓に曹洞宗
安国山總寧(そうねい)寺が置かれた。元々は関宿にあった總寧寺であるが、水害が多かった為ここに
移されたのである。つくづく国府台と関宿は見えない糸で繋がれた関係にあるようだ。明治になると陸軍の
兵営が置かれ、1885年(明治18年)陸軍教導団病院も建てられる。太平洋戦争中は防空壕も掘られた。
戦後になると軍の管制が解かれ、1959年(昭和34年)に里見公園として一般開放される。
こうした経歴から、城の跡地は改変が激しい。そもそも廃城時、急峻な小山は「険要ナリ」と徳川家康が切り
崩しを命じたとも言われている。しかし、部分的に見てみれば僅かながら城としての痕跡(堀切や土塁跡)が
残されている。北から南に向かって主郭・二郭・三郭が連なる典型的な連郭式城郭だったようで、明戸古墳が
ある二郭は古墳自体を土塁や櫓台として使っていたのではないかと推測できる。公園内には、弘法大師が
掘り当てたと伝わる「羅漢の井」(弘法伝説は日本中にある為、恐らく本当は城の井戸であっただろう)や
第2次国府台合戦で戦死した里見広次なる武将の娘が父の死に泣きはらして自分も息絶えたと伝説が残る
「夜泣き石」、1829年(文政12年)に建立された里見一族の供養塚・慰霊墓である「里見諸士群亡塚」や
「里見諸将群霊墓」などがあり、里見氏関連の史跡である事が良く分かる。
また、近代の歌人・北原白秋の旧宅「紫烟草舎(しえんそうじゃ)」も公園内に移築されており市川市の
文教地域であると共に、地域の憩いの場として親しまれているようだ。ただし、すぐ近くに国府台公園と
いう名の公園もあり、注意が必要。「国府台城」跡は「国府台公園」ではなく「里見公園」でござる!


現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等








下総国 小金城

小金城跡 畝堀跡

所在地:千葉県松戸市大谷口・大金平・殿平賀

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★☆■■
公園整備度:★■■■■



上記、第2次国府台合戦の場面で登場した高城氏の城。それ以前に原氏の築いた城があったとも言われるが
1530年(享禄3年)高城胤吉(たねよし)が家臣・阿彦(安蒜)丹後入道浄意に縄張りを命じ築城を開始、1537年
(天文6年)9月に完成したと伝わる。高城氏は千葉氏から分流した一族で、南北朝期には南朝方の一翼を担った
武士団でござれば、15世紀中頃から近隣の栗ヶ沢(くりがさわ)砦(栗ヶ沢城とも)に根付き、次いで根木内
(ねぎうち、下記)城へと居を移し(栗ヶ沢・根木内ともに松戸市内)発展、それらが手狭となった為に小金城へ
移ったとされている。なお、栗ヶ沢砦の構築は1460年(寛正元年)・1506年(永正3年)説、根木内城は1462年
(寛正3年)・1508年(永正5年)・1525年(大永5年)の各説があり正確な推移はわかっていない。
いずれにせよ、千葉家臣団の中で有数の勢力を有した高城氏は、同じく千葉家臣の実力者・原氏と抗争を
繰り広げ、一時は没落する時期もあったものの、小金領一帯を基盤としてかなりの軍事力を築くに至った。
主家・千葉氏は次第に後北条氏の配下へ組み込まれ、高城胤吉も後北条氏他国衆として重きを成すように
なるが、小金城の築かれた時期はちょうど小弓公方・足利義明が北伸してきた時代と重なる。故にこの城は
第1次国府台合戦へ至る闘争の中、房総軍を抑え込む極めて重要な位置にあった訳だ。その頃になると代々の
対立相手であった原氏の胤清(たねきよ)は義明により勢力を失い、逆に胤吉の庇護を受けるようになっていた。
斯くして第1次国府台合戦が起き義明は戦死、胤清は旧領である小弓の地を奪還する事になったのでござる。
こうした活躍から胤吉は更に勢力を拡大。後北条氏からも重く見られていき、相模国高座(こうざ)郡小園村
(現在の神奈川県綾瀬市)に所領を与えられた。
さて、その後北条氏が関東地方に覇を唱えるようになると北から越後の長尾景虎が旧秩序復権を目指して
侵攻するようになる。その働きで関東管領・上杉氏の名跡を継ぎ、上杉政虎(まさとら)と名乗った景虎、つまり
上杉謙信と北条氏康の争いは本格化し、1560年(永禄3年)〜1561年(永禄4年)にかけて上杉軍は大挙して
小田原城へ攻め込んだ。この大軍勢はそれまで後北条氏に従っていた関東諸勢力をも飲み込む形になり、
高城胤吉も政虎に服従せざるを得なかったが、政虎は鎌倉で関東管領就任の式典中、関東の名族たる
忍城(埼玉県行田市)主・成田長泰(なりたながやす)を「無礼」と咎め衆目の中で打擲する失態を犯して
しまう。成田氏は源氏棟梁・源義家にも馬上の礼を許された故事から政虎にも同様の態度を取った訳だが
これを知らなかった政虎が長泰を打ち据えた事で関東武士の心は一気に離れ、遠征軍は雲散霧消した。
胤吉もそれに同調し上杉方を見限り、更に第2次国府台合戦へと時代が進んでいったが、以後数度に渡り
関東遠征を繰り返していく上杉軍によって小金城は攻撃の矢面に立たされる。
一方、古河公方・足利晴氏の後嗣・義氏は既に後北条氏の手の内で踊らされる傀儡となり、本拠地の古河も
失ってしまい小金城を仮御所として流浪の身になっていた(後北条氏が小金城に押し込めたのだ)為、この城は
それに合わせた格式を備えるに至っていたが、上杉軍の来攻にも耐え得る防備を固めるべく更なる整備拡張を
続けた。そして1566年(永禄9年)2月、遂に上杉軍は小金城に対して攻撃を行う。名将・胤吉はその前年に
没していたが、家督を継いだ嫡男・高城胤辰(たねとき)はよく城を守り、攻城軍の撃退に成功してござる。
なお小金城を落とせなかった上杉軍は原胤貞(たねさだ、胤清の子)が守る臼井城(千葉県佐倉市)へと転戦、
小城と侮り力攻めを行おうとしたが城兵の頑強な抵抗に遭い大敗北を喫した。小金城を堅守した胤辰は臼井城
救援にも働き、上杉軍撃退の原動力になっている。なお、天才的才覚で生涯戦績70勝2敗と伝わる上杉謙信の
「2敗」のうち1敗がこの臼井城攻防戦とされており、小金城での撃退も含め胤辰の軍事的能力が如何ほどに
高かったかが窺えよう。この為、胤辰は後北条氏の命で関東近郊各地での戦いに従軍。1583年(天正11年)に
没したのも、その前年・1582年(天正10年)本能寺の変後に甲信地方の領有権を掛けて北条氏政と徳川家康が
争った「天正壬午の乱」の陣中で倒れた事が元だとか。
胤辰の後嗣・源次郎胤則(たねのり)は知略に優れた将で、領内統治に才を発揮した。1590年に後北条氏が
豊臣秀吉から討伐された際には小田原城へ詰める一方、先見で豊臣方へ通じる策も講じ、小金城を守る
留守居役の安蒜備前守や平川若狭守それに吉野縫殿助らへ降伏を指示していたと云う。この為、浅野
長政らが率いる豊臣方攻城軍に対して小金城は開城。無為な犠牲を出すことなく戦いは終結した。
これで高城氏の統治は終了し、新たな関東の太守となった徳川家康は自身の5男・武田信吉(のぶよし)を
3万石の石高で小金城主に配した。信吉は滅亡した甲斐武田氏の名跡を惜しんだ家康によって武田家を継いだ
人物でござる。その信吉は1592年(文禄元年)下総国佐倉(千葉県佐倉市)10万石へと転封。加増移封である実、
小金城が江戸城に近すぎる事が危惧された為であり、これを以て廃城とされ申した。
(廃城を翌1593年(文禄2年)とする説もある)
現地案内板から推測される城の規模はかなりの大きさで、東西750m×南北650mほどの城域を有した。このうち
東に大手口を開き、南西隅は大谷口・北東側に達摩口・北西隅が金杉口という出入口を構えていた。敷地内は
極めて難解な曲輪群を連ねた縄張りで、大谷口にほど近い南西端が本城(主郭)と比定されている。御多分に
漏れず現在はその敷地の大半が住宅地化されてしまい、かつての遺構を残す部分は極めて少ない。しかし
地形図で見ると今なお「城の形」はハッキリと見て取る事が可能で、例えば大金平1丁目の町域は大手口前の
巨大な堀跡である事が分かるし、常真寺近辺の入り組んだ地形は城の南端部を守る緊要地形である様子を
物語る。また、極僅かに宅地化を免れた普門寺大勝院の西側部分が「大谷口歴史公園」として城址遺構の
保護を成す公園になっている。この公園は必見の場所で、内部には畝堀や土塁が見事に整備され見学できる。
畝堀があるという事は、後北条氏に従った高城氏の歴史とも合致すると考えられ、この城の整備拡張に
少なからず後北条氏の影響があったと言え申そう。周辺の低地に比べて10m以上の起伏を有す小山を上手く
活用した城で、公園内には帯曲輪や馬出状の小曲輪も散見され、こうした地形効果を確実に活かす城づくりが
行われた様子が良く分かる。
JR常磐線北小金駅もしくは流鉄流山線小金城趾駅から徒歩で行ける。他方、車で行く場合は周辺に駐車場が
全く無いので注意が必要。また、文化財指定は特にされてござらぬ。


現存する遺構

堀・土塁・郭群等








下総国 根木内城

根木内城 空堀跡

所在地:千葉県松戸市根木内

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★☆■■
公園整備度:★★★☆



上記の小金城の項で記した通り、根木内は「ねぎうち」と読む。JR常磐線の北小金駅から東へ約900m、千葉県道
261号線と国道6号線バイパスに挟まれた場所が根木内歴史公園となっており、そこが城跡ではあるが、本来は
6号バイパスの北西側も城域でござった。即ち、6号バイパスは城の中央を南西から北東へ向けて斜めに貫通し
その北西側は宅地化で損なわれた事になる訳で、往時は相当に大きな城域を維持していたのだ。反面、残された
南東側の城域は歴史公園として整備されたおかげで、そこかしこに堀や土塁の痕跡(写真)を残している。だが
宅地開発前の残存地形状況から推測するに、城の主郭部となる敷地は消滅した北西部側だったと思われる。
元々の城地は南側を付根とする北へ延びた舌状台地で、東に上富士川(現在は河川改修により流路変更)、
西に平賀川(これも河川改修で当時とは異なる)が挟み込むように流れて天然の要害を成してござった。当然、
台地の尖端(つまり北西奥)が主郭となり、都合6つの曲輪(他に台地基部に出曲輪が2つ)が縦横に並んだ縄張
だったようで、特に中央部の曲輪には馬出を備えた堅固なものだったらしい。となれば、この馬出より奥にある
曲輪が最も重要な主郭部という事になろうが、現状ではこれらの遺構は大半が宅地造成されてしまって湮滅。
根木内歴史公園となっているのは6つの曲輪のうち、南東側の1つ半(外郭という事になる)分の曲輪敷地のみ。
城の全域は東西およそ200m×南北およそ500m(出曲輪部も含む)程の大きな面積を有していたようだが、
残念ながら歴史公園はその3分の1程度の敷地でしかない。とは言え、公園内の遺構保存状態は良好な上
松戸市教育委員会によって1998年(平成10年)に行われた埋蔵文化財確認調査に拠れば、空堀は幅8.5m
深さ4.2mもある険峻な薬研堀で、なかなかに険峻な構えを見せていた事が確認されている。東西に流れる
2つの川により、周辺が低湿地になって敵兵を寄せ付けない環境だったのは言うまでも無い。
この城の城主は高城氏。「高城家文書」によれば1462年に高城胤忠、「小金城主高城家之由来」においては
1508年に高城胤吉(胤忠の子とされる)の築城と言われるが、「小金城主高城家之由来」は足利義明の小弓
入城よりも後に根木内城が築かれた事が書かれている為、1525年の築城を誤記したものと言う説もある。
高城氏は当初、栗ヶ沢城に入った後この根木内城へ移り、更に小金城へ居を変えたと記した通りでござれば
以後、当城は街道監視と小金城の東を守る支城の役割を担った。小金城の鬼門にある普門寺大勝院は、元々
根木内城の護持祈祷所であったものを、小金城築城に伴って移転したと伝わっている。廃城時期は不明ながら
一般的には1590年の豊臣秀吉による関東征伐で廃されたと見るのが有力でござる。江戸時代に入った頃には
小金城〜根木内城あたりの一帯は“小金ヶ原”と呼ばれて徳川将軍家の御鷹場となっていた。
根木内歴史公園は2006年(平成18年)4月22日に開園。広大な駐車場がある為、来訪しやすい城址である。


現存する遺構

堀・土塁・郭群等








下総国 戸張城

戸張城 空堀跡

所在地:千葉県柏市戸張

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★☆■■■
公園整備度:★■■■■



千葉県柏市戸張(とばり)、国道16号線がくぐる柏隧道(トンネル)の上にあるのが戸張城跡。ちなみに、平坦な
区間ばかりが続く国道16号線の千葉県内部分においてトンネルがあるのは千葉市若葉区の貝塚トンネルと
この柏隧道だけである。その戸張城跡、北東の手賀沼へと突き出した舌状台地の突端部を敷地としており
現状では主郭部跡(台地最先端)には東京都文京区立・柏学園の校舎が建っている。この柏学園は、区立
小中学校の移動教室や林間学校、野外学習や研修施設として1946年(昭和21年)11月に建てられたものだが
東日本大震災以降の放射線障害懸念や施設老朽化に伴って2013年(平成25年)からは閉鎖されている。元々
学校施設な上に現在は廃墟化した場所なので、事実上戸張城には入れない事になるが、それでも外周から
望めば僅かに土塁や空堀の跡(写真)が見受けられ、また隆起した台地の地勢からも戸張城の構えを偲ぶ
事が出来よう。恐らく当時はこの台地を数条の堀切で分断し、連郭式の縄張として主郭〜2郭〜外郭のように
曲輪を並べていたと思われる。城地の南側、台地外淵に沿って大津川が流れ、その先に手賀沼が繋がるので
河川交通を主眼とした水運要衝を押さえる地でもござった。
主郭は東西約60m×南北約90mの規模。曲輪の西側から北側にかけて、2郭との間を分かつ土塁・堀が並び
西へ突き出した櫓台状遺構とそこから北へ延びる土塁などが残されているが、遺構は柏学園の造成により
部分的に潰されてしまった。恐らく西に突き出した櫓は虎口を守る横矢掛かりでござろう。主郭の南東側
斜面には腰曲輪も存在する。
2郭は主郭よりも広く、東西およそ85m×南北95m程の規模である。この曲輪は柏学園のグラウンドや体育館
用地になっている中、戸張遺跡の復元住居も建てられている。この戸張遺跡と言うのは、古墳時代前期の
竪穴式住居集落や前方後円墳遺跡。彼の地が古代から人の集える場所であった証であろう。2郭と城外を
区切る堀は幅約13m、堀底から土塁上面までの高さは3mほど(現状)で、長さ約63m分が残存する。土塁や
堀の北西端には主郭と同様に西へ突き出した櫓台を残し、逆に南東端では堀の条が西へ屈曲している。
但し、国道16号線トンネルの上部周辺を1964年(昭和39年)・1973年(昭和48年)に、2郭付近については
柏学園の体育館建設に伴って1977年(昭和52年)、それぞれ発掘調査を行ったものの城郭としての遺物は
発見されなかった。謎多き城跡とも言えよう。
来歴についても基本的には不詳な事が多い。伝承に拠れば平安末期に入植した戸張氏の城とされているが
この戸張氏と云うのは、平将門の後裔とされる下総相馬氏の系譜に連なる一族。源頼朝挙兵に与した相馬
左衛門尉師常(もろつね)の3男・八郎行常がこの地を得て戸張姓を称し、戸張氏の始祖になったと言う。
一説にはこの行常が戸張城を築いたとも言われるが本当かどうかは分からない。以後、歴代の戸張氏が
この城を使ったと諸書にあり(「東葛飾郡誌」「本土寺過去帳」)その歴史は約200年に及んだとされるも、
室町時代になると戦乱で戸張氏は衰亡していったと言う。1450年(宝徳2年)小見川城(千葉県香取市)主
粟飯原(あいはら)大和守が戸張城へ攻め込んできたものの返り討ちに遭い戦死したと伝わるが、第1次
国府台合戦において敗北した事で遂に戸張城は放棄され、後に戸張九右衛門胤房なる者が後北条氏の
庇護下で武蔵国下河辺庄吉川郷(埼玉県吉川市)に所領を得たと云う。また、戦国期には城主の戸張
弾正が犬猿の仲である大井追花(おおいおっけ)城(柏市大井、大津川の対岸)の高城氏と決戦に至り、
城主同士が自ら組討し相手の鼻を食いちぎったという壮絶な合戦譚も残ってござる。この他、戸張氏に
取って替わって立沢氏(千葉氏支流だとか)が城を奪ったとか、小金城の高城氏の支配下に置かれたとか、
千葉氏の重臣・原氏の一族である原左衛門治部と云う者が在城していたとか、兎に角まぁ諸説入り混じって
いったい何が正しいのかさっぱり分からない城なのでござる。当然、廃城時期も不明。構造から考えて、
後北条氏(或いはそれに従属する千葉氏?原氏?高城氏?)が改修したと思われるので戦国後期までは
使われたのではないかと推測するが、果たして…。とりあえず、城主が“不倶戴天の敵”とそしり合った
戸張地区と大井地区では、近年に至るまで縁組や雇用の往来が無かったとか。戦国期の「ムラの争い」は
結構根深い対立を今に遺すものである。くわばら、くわばら…。


現存する遺構

堀・土塁・郭群等




滝田城・高月城  坂田城・津辺城・成東城