上総国 貝淵陣屋

貝淵陣屋跡案内板

所在地:千葉県木更津市貝渕

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■


現存する遺構

土塁
陣屋跡は市指定史跡






上総国 
真武根陣屋

真武根陣屋跡石碑

所在地:千葉県木更津市請西

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■


現存する遺構

土塁・郭群
陣屋跡は市指定史跡



徳川譜代家臣の中でも特別な名家とされた林家の陣屋。その昔、徳川(松平)氏の遠祖
松平親氏(ちかうじ)が徳阿弥(とくあみ)の名で放浪僧だった頃、信濃国松本(長野県松本市)
林郷にあった小笠原長門守光政(林家の祖先)の家へ逗留を求め、光政は心尽くしの膳として
雪深い冬にも係らず兎を仕留め正月に兎汁を振舞ったという故事があり、その縁が元で
松平家が勢力を拡大すると家臣団に加えられた林氏は、後に徳川家が将軍職となるや毎年の
吉祥行事として正月の兎肉を献上し、返礼として他の諸大名に先立って将軍から吸物と杯を
賜る事が慣例となり申した。小笠原姓を改めた「林」姓と家紋の丸の内三頭左巴紋は松平氏から
与えられたものと言われ、松本市郊外には故事に由来する「兎田」の旧跡が残るとの事。
正月の兎汁が徳川家隆興の契機と捉えられた林家であるが、しかしその所領は小さなもので
江戸時代後期までたかだか3000石しかなかった。11代将軍・徳川家斉に近侍した林出羽守
忠英(ただふさ)がようやく加増・昇進の栄に浴し、1813年(文化10年)12月に1000石を加増、
1822年(文政5年)3月に3000石を追加、さらに若年寄まで取り立てられた1825年(文政8年)4月
3000石を加えられ合計1万石の大名となり申した。斯くして成立したのが貝淵藩でござれば
忠英は2500坪の敷地に陣屋を構築、これが貝淵陣屋と呼ばれるようになる。続いて1839年
(天保10年)3月には江戸城修築の功で5000石を加増され、計1万8000石を領有している。
“大御所時代”を現出させた家斉が寵愛した忠英であるが、その家斉が没すると境遇は暗転。
放蕩浪費で幕府財政を傾けた家斉治世を嫌った12代将軍・家慶と、彼が抜擢した老中・水野
越前守忠邦は反動的に厳しい倹約を徹底させる天保の改革を断行。これにより、家斉時代の
“悪習”を一掃すべく目の仇にされた忠英は8000石を召し上げられ、かろうじて1万石を維持。
何とか大名の地位を残した状態で息子の播磨守忠旭(ただあきら)に家督を譲った。
(実際には、この家督相続も幕府からの「強制隠居処分」だったらしい)
幕末動乱の火種となる異国船が日本沿岸へ数多くやって来るようになってきた折、家督を
譲られた忠旭は平野部にある貝淵陣屋では防備に難があると判断。1850年(嘉永3年)11月、
新たに上総国望陀(もうだ)郡請西(じょうさい)村(千葉県木更津市請西)で新陣屋を構築した。
地名から請西陣屋とも呼ばれるこの新たな陣屋が真武根(まぶね)陣屋である。貝淵陣屋から
直線距離で1.5km南東つまり内陸部へ入った位置に作られた真武根陣屋は、標高で比べると
貝淵陣屋よりも35m以上も高い(貝淵陣屋は標高3m、真武根陣屋は標高40m)事になる。即ち
陣屋を高台に構える事で海から寄せ来ると考えられる敵を管制下に置こうとしたのでござろう。
こうして貝淵藩は請西藩に改め本拠が移された訳だが、旧来の貝淵陣屋が廃されたのではなく
在郷の地方(じかた)役所として残された。真武根陣屋の案内板に拠れば、貝淵陣屋を下屋敷
真武根陣屋を上屋敷と呼んで区別していたとの事。水野忠邦に睨まれ、藩財政を困窮させていた
貝淵(請西)藩ではあったが、時流に聡い当主だった事は間違いないようだ。その予見通り、
1853年(嘉永6年)ペリーが浦賀へ来航。忠旭は沿岸警備の任に就いたが、翌1854年(嘉永7年)
4月27日、老齢のため弟で養嗣子の肥後守忠交(ただかた)へ家督を譲って隠居した。請西藩の
第2代藩主となった忠交は大番頭を経て京都伏見奉行の重職に着任する。幕末動乱期の京都は
過激志士が跋扈する暗闘の都と化しており、激務に激務を重ねたのか彼は在職のまま1867年
(慶応3年)6月24日わずか23歳で病死してしまう。忠交の子・忠弘はこの時まだ幼少であった為
忠旭の5男である忠崇(ただたか)が家督を相続。実は忠旭が隠居の際、忠崇が幼かった事から
忠交へと家督が回された訳で、今回同じようにして忠崇へと家督が“戻された”のでござった。
この忠崇が請西藩最後の当主となる。文武両道で才覚に秀でた忠崇は、幕閣登用に期待された
人物であった。が、肝心の幕府が大政奉還で瓦解。さらに戊辰戦争の開戦により徳川家は
朝敵の汚名を着せられてしまう。成す術なく京都から江戸へと逃げ帰った将軍・徳川慶喜は
ひたすら恭順して朝廷との和を請うたが、旧幕臣の中には徹底抗戦をして幕府の復権を叫ぶ
者も多くいた。将軍家と縁浅からぬ名門家格にある忠崇もまた、そうした主戦派の1人であった。
請西藩内部では恭順派と主戦派に分かれていたが、恭順派に決別した忠崇は、何と藩主自身が
脱藩し、主戦派藩士70名を率いて他の旧幕府軍に合流。箱根や伊豆などを転戦し、遂に
奥羽戦線まで突き進んでいくが、出陣の折に自ら真武根陣屋を自焼していった。これは不帰の志を
表したとされ、脱藩も朝廷優位にある時勢、領民家臣に迷惑が掛からぬよう配慮した為だと言う。
徳川家への忠節を尽くしつつ、時流を巧みに読んだ忠崇も林家歴代当主と変わらぬ賢君だったと
考えたいが、明確な敵対行為に朝廷は激怒し1868年(明治元年)請西藩は取り潰されてしまう。
意外にも戊辰戦争で改易された藩は請西藩ただ1藩のみでござる。鶴ヶ城(福島県会津若松市)で
新政府軍に徹底抗戦した会津藩でさえ、戦後は斗南藩(青森県東部地域)3万石への減封で
済まされており、何より徳川将軍家も16代当主・家達(いえさと)が駿府藩(静岡県静岡市)
70万石の一大名として存続を許された中、請西藩だけが泥をかぶった訳でござる。忠崇は
徳川宗家の安泰が図られた事で新政府軍に降伏し命は永らえたが、消滅した請西藩にもはや
陣屋は不要となり、真武根陣屋はそのまま廃され申した。なお、明治維新により旧大名は全て
華族の地位を与えられたが、こうした経歴のため林家だけは平民に落とされている。
これに対し旧請西藩士が明治政府に復権運動を展開、1893年(明治26年)になってようやく
忠弘に男爵の位が授けられた。一方の忠崇は静かな生活を続け、1941年(昭和16年)1月22日
92歳の大往生を遂げている。明治維新当時の大名の中で最後まで生き残った人物が皮肉にも
改易処分を受けた“前代未聞の脱藩大名”忠崇で、新聞では「最後の大名」と報じられたそうだ。
死の間際、辞世の句を求められた彼は「明治元年にやった」と答えたという。まさに亡くなるまで
忠臣の大名として気骨を見せた大人物だった。その明治元年の句は以下の通りでござる。
「真心の あるかなきかは ほふり出す 腹の血しおの 色にこそ知れ」壮絶そのものだ。
さて徳川家が駿府藩を立てた事により、もともと駿河・遠江に所領を持っていた大名は押し出され
明治政府の命で大半が房総半島各地に新領地を与えられた。このうち、1万石で駿河国
小島(おじま)藩(静岡県静岡市清水区)主にあった滝脇松平信敏(のぶとし)は、1868年7月13日
上総国周准(すえ)郡南子安村の金ヶ崎(現在の千葉県君津市南子安)へと移封されたが
翌1869年(明治2年)3月、改めて藩庁を望陀郡桜井村に置いたと記録される。こうして成立した
桜井藩であるが、実際の藩庁は貝淵陣屋そのものであり、事実上の貝淵藩復活でござった。
朝敵として改易された林家と同じ藩名を避けた為、貝淵村と隣接する桜井村を公称地とし
現実的には旧来の貝淵陣屋を活用したのである。よって、貝淵陣屋は桜井陣屋とも呼ばれる。
しかし1871年(明治4年)7月14日に廃藩置県が行われ、桜井藩は短期間で終焉を迎える。
その結果、桜井陣屋は桜井県の県庁へと生まれ変わり、更に同年11月14日の再編で
木更津県(現在の千葉県南部を統括した県)へと改変されるも、最終的には1873年(明治6年)
6月15日に印旛県(同様に千葉県北部および茨城県の一部を範囲とする県)と合併し千葉県が成立。
県庁が新たに千葉郡千葉町(現在の千葉県千葉市)に置かれた為、陣屋は完全に廃され申した。
現在、桜井(貝淵)陣屋跡地は完全に宅地化されている。周辺街路に比べ、跡地部分だけが
斜めに傾いた向きの道路でほぼ正方形に区画されているので、そこが即ち陣屋敷地だった様子を
地図の上で垣間見る事ができる。また、敷地の西縁部分に木更津県跡の石碑(写真)がある。
木更津県庁跡地960.53uは1966年(昭和41年)4月22日に木更津市指定史跡となっており
それを示した石碑でござれば、この石碑が置かれている部分の芝生は旧陣屋の土塁痕と
見受けられ、西面〜南面にかけて残されているのが極ごく僅かな陣屋遺構だ。
また、陣屋跡の南側に用水路程度の小川が流れているが、これも恐らくは陣屋の濠として
機能していたものであろう。住民の方々に配慮の上、見学したいものである。
一方、真武根陣屋跡は大半が造成地や山林となってしまっている。そもそも陣屋の縄張は、
南北に長い台地の南端を主郭としてその内部をかなり細かく土塁で区分けし、他方
主郭の北側一体を広大な出構えとして啓開したもの。出構えの外縁部は土塁で囲まれ
出入口を喰い違い状にしていたようである。造成地となっているのはその出構え部で、逆に
残された主郭部は“お林”と尊称される鬱蒼とした森と化している。この森は荒れ放題なので
簡単には入れない。土塁や井戸跡が残るらしいが、果たして現状はどの程度の状態なのか?
いずれにせよ私有地らしいので、勝手な立入は憚られる。決して良好な保存状態ではない上
今後も開発等で破壊の危機にある事が懸念される為、木更津中央霊園と道路を挟んだ
反対側部分の一角(ここが陣屋の不浄門跡にあたる)に陣屋跡の石碑(写真)が立てられ
その部分、39uだけが木更津県庁址と同じく1966年4月22日に木更津市指定史跡とされた。
通常、史跡指定とは「その場所を永続的に保存する為」に成されるものであるが、
ここの場合「これ以上の破壊を阻止する為の警鐘」という意味合いが強いようだ。
かろうじて残っている主郭部は整備すれば見違えるほど立派な史跡になると思うのだが
なかなか地権者と折り合いが付かず、発掘調査すら出来ていないのが現状らしい。
余談だが「請西」の地名は戦国時代に丘陵を利用していた城砦があった事に由来しており、
これを通称で請西城と呼ぶのが一般的ではあるが「城砦があったから請西城」と云うのであれば
本来の城名ではないだろう。しかも請西城は真武根陣屋から北東へ750mほど行った所にあった為
陣屋と同一の場所ではない。要するにこの辺り一体が海岸部に比べて隆起している丘陵地であり
戦国期も幕末も江戸(東京)湾を監視するに適した場所だったと言える。その証拠に、
真武根陣屋跡地の西端(最も海側)に立って景色を望めば、空気が澄んでいる日なら
東京湾どころかその対岸、横浜港の様子が手に取るようにわかる。即ち、当時ならば
日本へやって来る異国船を一挙に把握できる場所と言え、ここがまさしく幕末動乱の
最前線だったと実感できる筈だ。この光景を直に目にすれば、感動に身震いする程。
遺構らしい遺構は確認できなくとも、陣屋の存在意義を体感する為に
是非とも現地へ足を運ぶ事をお奨めしたい。




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