下総国 銚子陣屋

銚子陣屋跡石碑

所在地:千葉県銚子市陣屋町・南町

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



江戸時代中期以降から用いられた、高崎藩(群馬県高崎市)の飛地出張陣屋。
海上(うなかみ、現在ではかいじょうと読む)郡飯沼村に置かれた事から飯沼陣屋とも。
海上郡近辺は戦国期に千葉氏(平安期から続く房総半島の名族)庶流の海上氏が治め
飯沼城(当陣屋とは別の場所)を拠点としたが、1590年(天正18年)豊臣秀吉の命により
徳川家康が関東の太守として入ると、同年8月9日その配下の将・五井松平外記頭
伊昌(これまさ)が2000石で入部した。1601年(慶長6年)に伊昌が没すると
嫡男の土佐守忠実(ただざね)が相続、1627年(寛永4年)に同郡内で4000石を加増され
合計石高6000石の交代寄合となり申した。丁度この頃、江戸都市部の開発工事に伴い
それまで江戸湾へと流れていた(現在の荒川放水路とほぼ同じ)利根川が流路変更され
現在と同じ銚子へと注ぐようになる。この後、五井松平家は領地替えとなった為
海上郡は天領となるが、利根川の水運や海上交易・漁業基地として港湾都市の隆盛を
見せていく。同時に、水運流通により穀物の集積地となった銚子は醤油醸造でも繁栄。
幕府は賑わう海上郡の統治を1717年(享保2年)から高崎藩に任せるようになった。
斯くして高崎藩の飛地陣屋として築かれたのがこの銚子陣屋でござった。上州高崎は
交通の要衝であるが故、譜代大名が交代で統治していた藩であるが、この年から
大河内松平家の輝貞(てるさだ)が越後国村上(現在の新潟県村上市)から転封されて
治めるようになった。高崎本領の石高は約5万石、これに飛地の越後国蒲原郡
一ノ木戸(新潟県三条市付近)・武蔵国新座郡野火止(埼玉県新座市)それに
ここ下総国海上郡飯沼が加わって合計8万2000石となっていたが、1717年当時
海上郡内の石高は5619石(17箇村)でござった。高崎藩は銚子陣屋に郡奉行1名と
代官2名を派遣常駐させ、統治に当たらせている。藩の職制では、郡奉行は上士の
末席の者を充て、郡村に関する一切の事務を総括。配下に手附留役の下士5名と
米見役10名を従えていた。また、代官は中士または下士の出身とし、郡奉行に付して
1郷2名ずつ受け持ちし収租や郷村諸事務を取り扱ったとされている。こうして陣屋は
領内の年貢収納や治安維持・訴訟処理などの業務を行ってござった。
銚子陣屋に派遣された藩士のうち、最も偉業が語り継がれているのは
天明の大飢饉(1782年(天明2年)〜1787年(天明7年))の際、代官職にあった
庄川杢左衛門(しょうかわもくざえもん)であろう。上信国境にある浅間山が
大噴火し、日本全土に降灰や日照被害を及ぼして未曾有の大飢饉が起きた時期、
銚子陣屋の支配地においても当然のように困窮者が溢れていた。庄川は藩に
救済措置を求めたが、浅間山噴火被害の直撃を受けていた高崎藩は逆に
醤油醸造で利益を得ていた銚子からの御用金を当てにして来る始末であった。
止むを得ず庄川は独断で陣屋の蔵米800俵を領民に施し、さらに翌年・翌々年の
大雨被害でも蔵米や金を開放したとされている。この後、任期の切れた庄川は
高崎へと戻るが、その後の消息は詳らかではない。病死して天寿を全うしたとする説、
銚子での善行に出世したとする説もある中、実しやかに囁かれるのは蔵を開放する
独断専行の責を問われて切腹したとする説である。いずれが正しいのかは全く不明だが
庄川の徳を称え、死後33回忌にあたる1823年(文政6年)8月、海上郡高神村の名主である
加瀬新右衛門が施主となり、頌徳碑が村内の都波岐神社前に建立された他、
1988年(昭和63年)にも高橋作右衛門氏が同地に顕彰碑を建てている。また、銚子には
庄川を追慕する「じょうかんよう(庄川様?上官(代官)様?が訛ったものか)節」なる
民謡が歌われ「様に三夜の三日月様は 宵にちらりと見たばかり 胸に手をあて庄川様は
人の為なら是非もない 許し得ずして米蔵開き 御役御免で自刃す〜」と綴られる。
庄川最期の真相は兎も角、これで海上郡17箇村の領民2万名は餓死者を出さなかった。
さて、大飢饉に際して高崎藩が銚子商工業者の財力を当てにした事からも分かるように
江戸時代を通じて銚子の町は物流拠点として隆盛していた。東日本の沿岸廻船は
銚子港で荷を積み替え、利根川水運を経て江戸と言う一大消費地への流通を行っていた。
当然、高崎藩は事あるごとに銚子の商人に対して冥加金・運上金を課した訳だが
幕末になるにつれ、悪化した藩財政の建て直しや外国脅威に備える防衛体制整備の為
こうした課金が頻繁に行われるようになる。新編高崎市史によれば、1839年
(天保10年)7月9日、銚子陣屋から商人に対して1200両の納付が求められたと言う。
途方もない大金の要請に商人らは減額を要求したが陣屋側は拒否、両者の話し合いの末
11日に1005両を納めたとされる。また、飯沼村の御用商人・田中玄蕃の日記には
陣屋役人が頻繁に出張していた記録や、それに伴い人足や資金の提供が命じられ
商人同士でこれらに関する対策談合が度々行われていた記載が残るとの事。
ちょうど幕府から異国船打払令が発布された頃の事で、外洋に面した銚子付近は
外国船警備の最前線にあり、台場建設や防備対策の人員確保などで陣屋業務が
多忙を極めていた時期である。1848年(嘉永元年)高崎藩は銚子沿岸に12の砲座を
設置。1855年(安政2年)刊行の「利根川図志」では台場4箇所が記載され、
1862年(文久2年)には銚子陣屋代官の片桐善之助が改めて御用商人らに
台場増備の命令を下した。1864年(元治元年)3月23日には、三ノ御台場の
警備費用として2750両の御用金が課せられてござる。
しかし幕末の銚子を襲った外敵は、異国船ではなくて明治新政府軍と旧幕府軍の
狭間に立たされる苦難でござった。鳥羽・伏見の戦い以来、恭順の意を示して
新政府軍に無抵抗を貫いた徳川15代将軍・慶喜であったが、幕府の復権を目指し
榎本武揚率いる旧幕府海軍艦隊は1868年(明治元年)8月19日に江戸湾を脱出、
新たな根拠地を求めて蝦夷地へ向かった。ところがその航海途中、21日に房総沖で
暴風雨に遭遇。艦隊8隻のうち1隻、輸送船「美賀保丸」は航行不能となり艦隊から脱落、
26日に銚子沖で座礁沈没してしまう。乗組員のうち13名が死亡。400名ほどの兵員が
近辺漁民らに救助・手当され銚子陣屋に抑留されたが、この時まだ銚子陣屋では
彼らが幕府の脱走兵である事を知らなかった。9月に入り詳細な情報がもたらされると
陣屋では対応に苦慮する。新政府に逆らう者を保護する訳にもいかず、かと言って
在地職員だけではこの兵力を鎮圧するだけの能力が無かった。そうこうする間に
旧幕府兵らは逃亡してしまう。これには異説もあり、救助されたうちの1名
海軍士官・山田清五郎が陣屋役人と交渉、手負いの者もいる旧幕府兵に対して
手出しをしないよう要請し、陣屋側も見逃したと言う。ともあれ、後に新政府から
旧幕府兵を捕り逃した事が譴責され、対応不行届きの裁定を下されたとある。
この後、新政府の地方行政制度が確立するに至り陣屋は廃止。近代都市化により
跡地は完全な宅地になってしまった。1933年(昭和8年)2月11日に銚子が市制を
敷いた際、陣屋所在地の小字(あざ)名であった西町(にしちょう)・郭町(くるわちょう)が
統合され現在の町名である陣屋町となったが、これも1945年(昭和20年)7月19日の
銚子空襲によって灰燼に帰す。戦後復興では市街区域の再編も成された為、
かつての陣屋跡地は碁盤の目に整理された道路で細分化され、もはや旧地が
どこであったかすら分からない状態になってしまっていた。このうちの1区画が
陣屋町公園と言う名の児童公園として1955年(昭和30年)3月17日に開園、その園内に
井戸跡が1箇所だけ確認される状況であるが、今や銚子陣屋跡地を明確に示す遺構は
それだけしかない。それでも郷土史家の皆様は陣屋の縁を広めるべく地道な努力を
されてこられた。その甲斐あって、陣屋町公園の一角に1959年(昭和34年)4月10日
「旧陣屋跡」の石碑(写真)が飯沼陣屋址記念碑建立会長・名雪雲平氏によって
建立され申した。これは当時の皇太子殿下が御成婚された記念に建てられた物で、
題字は時の内閣総理大臣・岸信介が揮毫、碑文はヤマサ醤油の役員・常世田忠蔵氏が
撰文してござる。ちなみに、石碑の土台になっている石は旧陣屋掘割の石だったとか。
陣屋の守護として祭られていた熊野権現と稲荷明神も、現在はこの脇に鎮座してござる。
平成になると、陣屋町史跡公園化実行委員会が組織され高崎市との交流を深めつつ
活動を活発化させてきた。同委員会は2006年(平成18年)銚子賞の選定を受け
新たに「高崎藩銚子陣屋史跡記念碑」の建立を決定。この碑は2007年(平成19年)
3月18日に竣工、6月17日に除幕式が挙行され申した。これら式典には高崎市の
郷土史会代表も招かれ、銚子と高崎の縁がより深められた。同碑には陣屋の歴史・沿革や
江戸後期の俊才・渡辺崋山が銚子を訪れた際の紀行録などが展示されている。曰く、
崋山は1825年(文政8年)6月に江戸を発ち、武蔵・常陸・下総・上総の4国を遊覧する
旅に出た。彼はこの紀行を得意の絵に著し、国指定重要文化財となっている
「紙本四州真景図」としている。これらの絵は殆どが風景画でござるが、ただ1枚だけ
市街図があり“新町大手、町奉行やしき”と題されている。即ち、銚子陣屋の
大手門前、高札場や商家が建ち並ぶ大通りの光景を模写したもので、往時の
陣屋一帯の情景を今に伝える貴重な絵画なのでござる。そもそも陣屋敷地は
北側〜西側を水濠が囲い(これに用いられていた石垣材が「旧陣屋碑」の礎石)
今では1箇所の痕跡を残すのみとなった井戸も、当時は3箇所あったという。
中心に郡奉行の役宅兼陣屋御役所、その周囲に勤番長屋や米蔵・武器庫・製塩所
稽古所それに鉄砲の射撃演習場が配され、少し離れた場所に牢屋、さらには
配下役人が入居していた長屋屋敷が建ち並んでいた。こうした長屋のうち1棟が
敷地北端、東西に長く置かれ、中央部を門として開放する長屋門になっていた。
長屋門は桁行46間(47.3m)×梁間4.5間(8.2m)の大きさ。崋山が描いたのは
この長屋門(陣屋大手門)を北から南へ向かって眺めた情景であろう。このように
出張陣屋としてはかなりの設備を誇った銚子陣屋であるが、先述の通り
戦後復興で整地され、現在では街区すら整合しない状態になっている。しかし
明治初年の観音界隈地図・土地区画整備事業前地図・昭和23年米軍撮影航空写真
公図・登記簿等を照合し検証を行った結果、陣屋の推定位置が判明している。
それによれば、東西方向は陣屋町公園の東半分〜南町区域の西半分を占め
(陣屋町公園の西半分は陣屋敷地に該当しない事になる)南北方向は
千葉県道244号線(外川港線)〜陣屋町公園の1つ南側の区画付近までが
陣屋敷地であったとされる。東西×南北それぞれ約140m程度の大きさで
(ただし、この範囲で敷地は屈曲しているので正方形ではない)
当時の銚子市街地としては正に一等地という場所を占めてござった。
銚子電鉄観音駅から歩いてすぐ。逆に駐車場は無いので車での来訪は避けた方が無難。


現存する遺構

井戸跡




関宿城  貝淵陣屋・真武根陣屋