下総国 関宿城

関宿城復元三重櫓

所在地:千葉県野田市関宿町・関宿三軒家
(旧 千葉県東葛飾郡関宿町関宿・三軒家)

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:★★■■■



現在は市町村合併により野田市となったが、それまでの東葛飾郡関宿町と言えば
千葉県の最北端にして茨城県や埼玉県と接し、利根川と江戸川が分岐する地点。
過去に遡れば下総国と武蔵国の境界であり、水運の要衝であった事を意味する。
しかも当時は利根川が江戸湾(東京湾)へ注ぎ込むようになっていた上、
関宿周辺は他の多数の河川が一極集中、更には湖沼も多く分布していて
陸上にありながらまるで水の中に浮かぶ島の如き有様でござった。
ここに城が築かれるのは当然で、しかも戦略拠点となる重要性を備えていたのだ。
そんな関宿城は1457年(長禄元年)簗田成助(やなだなりすけ)が築城。
桓武平氏の末裔である簗田氏は、足利氏創始時からその家臣として仕え、
室町幕府成立後には鎌倉府(室町体制における東国支配機関)直属の
奉公衆となった家柄(足利本家となる京都の将軍家には追従していない)。
古来から関東に根付いた簗田家はその伝統を引き継ぎ、京へは上らず
あくまでも東国武士として政権機構の安定化に寄与せんと欲したのでござる。
しかし鎌倉府の長官である鎌倉公方足利氏は折に触れ本家の将軍家と仲違いし
遂に1455年(康正元年)鎌倉から離脱、下総国古河(茨城県古河市)へ移居し
独自に古河公方を名乗るに至った。これに伴って簗田氏は古河公方の筆頭家老となり
水運拠点となる関宿の統治を強化するべく城を築く。それが関宿城である。
後年、古河公方家の中で紛議が発生。1506年(永正3年)時の古河公方・足利政氏と
その子・高基の間に対立が生じ、一時高基は宇都宮へ落ちる事態となった。
簗田氏も父・簗田政助が政氏に属し、政助の養子・高助が高基を支持し対立。
政氏と高基は1509年(永正6年)に和睦、高基は古河に復するものの
翌1510年(永正7年)再び争い、今度はこの関宿城へと高基が転がり込んできた。
結局この争いは1512年(永正9年)高基が古河公方の座を襲う事で決着。
簗田家中も高助が掌握し、古河を落ち延びた政氏と共に政助は流浪の身となる。
さてこの頃から関東で大きな勢力を持つようになったのが小田原の後北条氏だ。
時の当主・北条氏綱は関東旧権力の象徴と言える古河公方を味方に取り込むべく
高基と交渉を求めてきた。この際、外交を担当したのが家宰である簗田高助。
後北条氏と足利氏の間を取り持つため、氏綱の娘が高基の嫡男・晴氏に嫁ぎ
新興勢力である後北条氏と旧門閥である古河公方家は協力関係となった。
ところが代が替わり、後北条氏は氏綱の嫡男・氏康が家督を継ぎ、
古河公方家が晴氏の代になると、次第に両者の関係は冷却化していく。
関東制覇を目指す後北条氏の北進政策を晴氏は嫌い、遂に1546年(天文15年)
武蔵国河越(現在の埼玉県川越市)で両者は戦いに及んだ。歴史的夜戦とされる
この河越夜戦で後北条氏は大勝、晴氏は命からがら逃げ落ちて
以後、古河公方家は圧倒的劣勢に陥っていく。簗田高助は出家し家督を嫡男の
晴助に移譲、後北条氏へ恭順の意を示して足利晴氏の助命を求めたのでござる。
とりあえずこれで後北条軍の追撃は防がれたが、その後は外交的に圧力が加わり
1552年(天文21年)晴氏は隠居させられ、氏綱の娘が産んだ足利義氏が
古河公方の門跡を継いだ。しかし憤懣やるせない晴氏は1554年(天文23年)兵を挙げ
古河城に立て籠もる。簗田氏の当主となった晴助は慌てて救援に駆けつけるが
もはや古河公方家に昔日の実力無く、後北条軍に一蹴されてこの戦いは終わった。
最終的に晴氏は相模国秦野(神奈川県秦野市)に幽閉され、義氏は小田原へ移送。
1558年(永禄元年)には簗田晴助を古河城へと転封させ、義氏が関宿城へ入れられた。
足利氏の拠点と簗田氏の拠点を転換させる事で両者の体面を整えつつ
しかし勢力基盤を弱める事を狙った北条氏康の妙策でござった。
ところで、後北条氏が関東に領土を拡大するにつれて
越後国の上杉氏と衝突するようになり、両大国の狭間に揺れる関東諸豪族は
時に後北条方、時に上杉方に誼を通じる危難に立たされる。
1561年(永禄4年)後北条氏征伐を標榜する上杉軍は越後から大挙して関東へ雪崩れ込み
その勢いに圧された関東諸豪族は軒並み追従し、大連合を結成して小田原城へと迫った。
この時、上杉方は後北条氏によって擁立された古河公方・足利義氏の廃絶を目論み
義氏の異母兄弟である藤氏を新たな古河公方に挿げ替えようとしたのでござる。
古河公方家の運営に簗田氏の協力は不可欠であったため、古河城にあった晴助に
援助要請が為され、これに従い晴助は上杉氏の意に沿うべく活動。
斯くして、義氏は関宿城から放逐され足利藤氏が公方の座に就任し古河城へと入った。
ところが上杉軍が引き上げると再び後北条氏が勢力を挽回、関東諸豪族への統制を
強化していく。撹乱のあった古河公方家も同様で、1562年(永禄5年)今度は
藤氏が放逐の憂き目を見るようになり古河城が落城、簗田氏は旧領である
関宿へと追い遣られるのでござった。この後、1565年(永禄8年)に後北条軍が
簗田氏の関宿城に対して懲罰的攻撃をかけている。これを第1次関宿合戦と呼ぶ。
1566年(永禄9年)に争いの火種となった足利藤氏が没したため1567年(永禄10年)に
和睦が成立、第1次関宿合戦はそれほど大掛かりな戦いにはならぬまま終わったが
房総半島の里見氏や武蔵国の敵対勢力であった太田氏らを撃破し後顧の憂いを無くした
後北条氏は1568年(永禄11年)再び関宿城下へ侵攻、第2次関宿合戦が勃発する。
簗田氏はいよいよ風前の灯火となったが、この年の暮れに甲斐国の武田信玄が
駿河国へと攻め込み、北条・武田の同盟が崩壊する事件が発生。背後の脅威に晒された
後北条氏は、長年の宿敵であった越後の上杉氏と和睦せざるを得なくなり、当然
上杉方に属していた簗田氏の関宿城攻撃は中止となったのでござった。
とは言え、北条と上杉の同盟はやはり長続きせず1571年(元亀2年)に手切れとなる。
このため、1573年(天正元年)後北条氏きっての好戦家・北条氏照が関宿城を攻め
翌1574年(天正2年)には北条氏政・氏照兄弟が揃って参陣、総攻撃を開始した。
これが第3次関宿合戦で、城に籠もる簗田氏は上杉の援軍を待ったが遂に現れず、
城内から内応者まで出てしまい、止む無く開城するに至った。3度に渡る攻撃で
遂に関宿城は陥落、後北条方の完全勝利に終わったのでござる。以後、関宿城は
後北条氏による直轄統治下に置かれ、国境上にある水運の要衝として重視され申した。
その後北条氏は1590年(天正18年)豊臣秀吉の征伐により滅亡、
秀吉の国替えによって関東地方は徳川家康の支配地となる。家康は関宿城に
異父弟の松平(久松)康元を2万石で入れ、後にその子・忠良が相続する。
忠良は1616年(元和2年)美濃国大垣へ移封。以後、関宿城は徳川譜代家臣が交代で
城主を務めるようになるのでござった。略歴を述べると、忠良の後には越後国三条から
松平(能見)重勝が2万6000石で入り、1619年(元和5年)に重勝が遠江国横須賀へ移ると
小笠原政信が下総国古河から2万2000石で封じられる。政信の子・貞信が相続するも
1640年(寛永17年)美濃国高須へ転じ、今度は北条氏重が遠江国久野から2万石で入封。
この北条氏は小田原後北条氏の傍流の家柄であり、50年ぶりに北条氏が関宿城を
回復した事になる。氏重の喜びや如何ばかりであっただろうか、
幕府に届け出て関宿城の修築を行った程だ。しかし氏重の在城期間は短く、
1644年(正保元年)駿河国田中へと移り、今度は1万7000石で武蔵国石戸から
牧野信成が入城。更に1656年(明暦2年)5万石で板倉重宗が城主となる。
板倉氏の統治時代、それまで連結していなかった利根川と江戸川を結びつけ
江戸への水運ルートを新たに確保する事が可能となったのでござれば、幕府は
この重要な水路を厳重管理すべきと考え川関所を設け、関宿藩に実務を任せた。
さて重宗は1669年(寛文9年)に伊勢国亀山へと転封、代わって久世広之が
同じく5万石で関宿城へと入った。広之は幕府と折衝し、1671年(寛文11年)に
江戸城富士見櫓を模したという三重櫓を本丸に築いた。古記録には
「寛文十一年辛亥世喜宿(関宿)…公儀御願相済富士見御櫓之形ヲ以建直ル」とある。
これが関宿城唯一の重層櫓で、石垣を含めた高さは18mもあったそうだ。
ついでながら、ここで関宿城の縄張りについても触れておこう。
利根川が北西から南東へ斜めに流れ、江戸川が北から南へと分岐する三角点の中に
本丸と二ノ丸が南北に並んで置かれた。その両者を護る形で、旧利根川の名残りを使った
幅45m、長さ200mにもなる中堀が東側を塞いでいる。関宿城の主郭部は、北に利根川
西に江戸川、そして東〜南に巨大な中堀と、全周を豊富な水利で防御する構造になって
いたのだ。更にその中堀の東側に三ノ丸、大手口が守りを固め、江戸川の対岸にある
西の平野部も土塁や湿地を活用して防御施設を構成している。特に大手口は
馬出状の出曲輪で、しかも折れを多用した横矢係りになっていて守りが堅い。
豊富な水を有効活用するだけでなく、人為的な普請にも心を配った堅城と言えよう。
1683年(天和3年)広之の後嗣であった久世重之が備中国庭瀬へ移り、5万3000石で
牧野成貞が入ったが、1705年(宝永2年)に再び重之が三河国吉田から入封。
以後、明治維新まで久世氏5万石の城として継承され申した。
なお、1756年(宝暦6年)に新御殿を造営している。
明治維新、そして廃藩置県により関宿藩は消滅。関宿城も同様の運命を辿り、
1869年(明治2年)明治政府の所管となった城は1870年(明治3年)に
藩庁を火災で焼失、1872年(明治5年)城には陸軍省の管轄にされ廃城。
1875年(明治8年)再び城は政府所管に戻されて城内殆どの建物が競売にかけられ、
取り壊されたり移築された。さらに太平洋戦争後には利根川治水事業の
河川改修工事によって遺構が埋め潰され、史跡としての価値は
ほぼ消滅したと言って良い。これを憂いた地元自治体では
何とか歴史ある関宿城の遺風を復活させる手立てを考え、1980年(昭和55年)
当時の関宿町から関宿城復元の要望が千葉県に出された。この訴えに基き
三重櫓を復元活用する文化施設(博物館)の設置が1986年(昭和61年)4月に決定され
同年11月から3ヵ年計画とする関宿城本丸跡の発掘調査が開始される。
博物館敷地確保のための地質調査や地盤工事が行われた後、江戸城富士見櫓の姿や
関宿城古絵図から類推される復元三重櫓(写真)が完成、1995年(平成7年)11月10日に
千葉県立関宿城博物館として開館の運びとなったのでござった。しかしこの建物は
利根川の堤防上に設置され、旧来の三重櫓があった位置に建てられた訳ではない。
かつての関宿城本丸は、博物館から南に500mほど下った空地で、現在は碑が立つのみ。
周辺には土塁や堀跡がわずかに残るものの、はっきり言って一般の観光客には
無縁でござろう。博物館を“現代の城”として見学すればそれで良いのかも。
「水との戦い」の最前線なれば、史跡保全よりも治水が優先されるのは致し方ござるまい。
ちなみに、関宿城の旧建物のうちいくつかは移築保存されている。
城下の小林家に旧埋門が移され、これは2000年(平成12年)に当時の関宿町から
有形文化財の指定を受けてござる。同じく城下にある実相寺客殿は、関宿城の新御殿を
寺の堂宇に転用したもの。更には県をまたいで茨城県板東市にある逆井城へも
関宿城の旧薬医門が移築されている。この逆井城は素晴らしい城跡なので、
是非とも足を延ばして見学して貰いたいものでござるな。
なお、関宿築城に関しては古文書により異なる記載も見受けられ、
結城合戦(室町幕府と鎌倉府側が戦った関東の大乱)に呼応して
1440年(永享12年)に下河辺一族が関宿城で挙兵したという記録が残っている。


現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡

移築された遺構として
城下小林家門(旧関宿城埋門)《市指定有形文化財》
逆井城内展示門(旧関宿城薬医門)
実相寺客殿(旧関宿城新御殿)




久留里城・佐貫城  銚子陣屋