“古久留里城”の時代から中世城郭へ…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
遡れば平安時代に平将門の3男・東少輔頼胤(とうのよりたね)が築城したという伝承を残し、以来頼胤は久留里左衛門頼胤と
名を改め、父・将門が乱で敗死した後も彼はこの地に生き残り、清胤―竜胤の3代まで続いたと語られるが、これは全く架空の
話で証拠はない。この話では上総の名族・千葉氏が竜胤を打倒して久留里の地を手にしたと繋がるのだが、結局は千葉氏が
“あの将門一族を倒した”として自身を権威付けるために作った話なのではなかろうか。伝説の世界では、久留里城には将門を
討伐した最強の武人・“俵藤太(たわらのとうた)”こと鎮守府将軍・藤原秀郷(ひでさと)末裔である田原中将秀国が手にしたと
云う話もあり、久留里城の“前史”には様々な虚飾が付きまとう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
推測される最も古い築城経歴は1456年(康正2年)に上総守護代であった真里谷(まりやつ)武田右馬助信長が久留里近辺に
領土を拡大し押さえの城を築いた事に求められる。信長は3男の信房に久留里城を与えたとされ、この家系は久留里武田氏と
なって武定、或いは三河守信重?が継承。久留里武田氏は宗家である真里谷武田氏の家臣となったようで、更に次代となる
真勝(まさかつ、しんしょうとも)は姓を勝(すぐろ)と改めた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この頃の久留里城は現在の城跡より北西側にあり、曹洞宗久留里山真勝(しんしょう)寺(勝真勝創建の寺)の南縁部にある
上ノ城(うえんじょう)山に築かれていたのでござった。これを古久留里城と呼ぶ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかしこの後、真里谷武田氏は弱体化。その領土は房総半島南端から勢力を伸ばす里見氏によって侵食されていく。久留里
城も天文年間(1532年〜1555年)初頭に里見氏の調略を受け、城主だった真勝は無血開城して城を明け渡したと言う。新たに
里見氏を城主とした久留里城は1537年(天文6年)に大改修され現在の城域へ移転、当時の里見家当主・里見刑部少輔義堯
(よしたか)自身が居城とした。なお、順当に考えれば真勝から城を得たのはこの義堯と言う事になるが、巷説ではその祖父・
左衛門佐成義(しげよし)とするものもある。尤も、成義という人は実在が疑われる人物でもあり、年代的にも整合性が取れず
これまた「里見氏が古くから久留里城を得ていた」として正当性を作り上げる“粉飾”的な伝承なのだろう。■■■■■■■■
里見氏と後北条氏の死闘■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
標高145.5m(正確に言えば、本丸の隅部に櫓台?と思しき廟塚があって、その標高は149.7mを指す)の城山に築かれた新しい
久留里城は周囲を険峻な地形に囲まれた要害で、非常に防御性の高い城郭であった。里見氏は小田原の後北条氏や真里谷
武田氏らと敵対しており、翌1538年(天文7年)行われた第1次国府台(こうのだい)合戦でこれら連合軍と干戈を交えたのだが、
合戦に敗れた事で一時的に本拠地の安房へ退く事となる。しかし久留里城には城代が置かれ里見氏防御の要とされ、1554年
(天文23年)には小田原後北条氏随一の猛将・北条左衛門大夫綱成(つなしげ)率いる軍に攻撃されるもこれを撃退し、見事な
堅城ぶりを示しており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
暫く後、義堯が久留里城主に復帰し再び北上の機会を窺ったのに対し、後北条方も攻略の手を緩めず1560年(永禄3年)再度
久留里城を包囲、当主の北条左京大夫氏康自らが指揮を取るが攻略は成らず。この時、里見方の将である正木大膳亮時茂
(まさきときしげ)が奮戦し長尾弾正少弼景虎(後の上杉不識庵謙信)に救援を要請、これを受けた長尾軍が遠く越後から大軍を
率いて関東へ侵攻する事態にまで発展した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その後も里見氏と後北条氏は一進一退の攻防を繰り広げていくが、1564年(永禄7年)1月に再戦となった第2次国府台合戦で
またもや里見軍は大敗(第2次国府台合戦については近年さまざまな再検証が必要とされるが)、領国防衛線を崩壊させ、この
年の10月、遂に久留里城は後北条軍に落とされてしまう。念願の久留里城攻略を果たした後北条氏は小田小太郎(友治?)を
在城させた。これに対し、城の奪還を目指す里見方が今度は久留里城を攻める立場となり、2年後の1566年(永禄9年)に見事
落城せしめたのだった。とは言え、これで里見対北条の戦いが終わった訳ではない。久留里城は1567年(永禄10年)、1581年
(天正9年)、1588年(天正16年)にも後北条軍の攻撃を受けている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお義堯は1574年(天正2年)6月1日に没し嫡男の左馬頭義弘が家督を相続、久留里城主となったが、暫くして義弘は佐貫城
(千葉県富津市、下記)へ移転、久留里城は里見氏の支城として用いられるようになる。その義弘も1578年(天正6年)5月20日
没すると里見家では家督争いが勃発し、この争乱の渦中1580年(天正8年)里見安房守義頼(よしより、義弘の弟(庶長子説も
あり))が佐貫城と久留里城を攻略して手中に収め、結果として里見家の家督を勝ち得たのでござった。義頼の没後は長男の
左衛門督義康(よしやす)が家督を継いで近世を迎えている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
中世城郭から近世の城へ、そして廃絶と復活■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて1590年(天正18年)里見義頼は居城を岡本城(千葉県南房総市)へ移し、久留里城は城代として里見家臣の山本越前守が
配された。しかしその直後、豊臣秀吉が全国の統一を成し遂げた事により里見氏は領土を安房1国に限定されてしまう。それに
伴って上総国は徳川家康の領土とされ、同年5月に家康配下の将である大須賀五郎左衛門忠政(榊原式部大輔康政の子)が
石高3万石で久留里城主と定められ申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後、江戸のお膝元である上総国の要衝・久留里には徳川譜代家臣が交代で配置される。忠政は1601年(慶長6年)2月1日に
遠江国横須賀(現在の静岡県掛川市)へ移されたが、1602年(慶長7年)7月から2万石で土屋民部少輔忠直(ただなお)が入り
1612年(慶長17年)その長男・民部少輔利直(としなお)が家督を継承、更に1675年(延宝3年)閏4月24日に彼が亡くなった事で
伊予守頼直(よりなお、利直の長男)へ受け継がれるが、4年後の1679年(延宝7年)8月7日に頼直の素行不良が元で「狂気」を
理由に土屋家は改易(取潰し)されてしまい、翌1680年(延宝8年)1月から久留里周辺は前大老・酒井雅楽頭忠清(ただきよ)の
領地に併合された。大須賀氏の入封以来、整備されてきた久留里城であったが、酒井家は久留里の地を代官支配としたため
廃城にされた。一旦これにより久留里城の歴史は廃絶する。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
が、1742年(寛保2年)7月28日に上野国沼田(群馬県沼田市)から3万石を以って黒田大和守直純(なおずみ)が新たな久留里
領主と定められる。明くる年の1743年(寛保3年)に直純は幕府へ願い出て久留里城の再築に着手し、5000両の拝領金を得て
城普請を行ったのだった。廃城より約60年にして再び姿を現した久留里城は1745年(延享2年)落成。驚くべき事に、再築された
久留里城は戦国期と同じく山上頂部を本丸とし、中世久留里城の縄張りをそのまま利用して梯郭式に二ノ丸が置かれ、西側の
山麓部分に居館となる三ノ丸が造営された大規模な城郭。江戸時代中期に築かれた近世城郭としては極めて異例なもので、
戦闘に特化した中世山城を復活させるなど幕府が固く禁じていたため、通常は考えられない事である。しかも山頂の本丸には
天守相当の二重櫓が置かれ(これも幕府の厳重な監視体制の中では本来許されないものである)久留里城の存在は近世城郭
史の中でも特異なものだと言えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
黒田家の統治、そして武士の時代の終焉■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、久留里藩黒田氏の支配地は上総国各所に点在する形となっており、望陀(もうだ)郡39ヶ村・市原郡15ヶ村・夷隅郡6ヶ村と
され、飛地である武蔵国8郡60ヶ村と上野国の2郡2ヶ村も併せると実高3万3000石に上ったという。なお、この黒田家と言うのは
“軍師官兵衛”で知られる福岡藩黒田家(黒田官兵衛孝高(よしたか)から始まる外様大名)とは全く別で、三河国八名郡黒田郷
(愛知県新城市黒田)に発祥した徳川譜代の家臣で、5代将軍・徳川綱吉が館林藩主だった頃の附家老から取り立てられ大名と
なった家である。直純以後、廃藩置県まで黒田氏が代々の久留里城主を務め、家督継承を羅列すると1775年(安永4年)豊前守
直亨(なおゆき、直純の弟)―1784年(天明4年)和泉守直英(なおひで、直亨長男)―1786年(天明6年)大和守直温(なおあつ、
直英の2男)―1801年(享和元年)豊前守直方(なおまさ、直英の弟)―1812年(文化9年)豊前守直侯(なおよし、直方の養子)―
1823年(文政6年)豊前守直静(なおちか、直方の庶子)―1854年(嘉永7年)大和守直和(なおやす、直侯の庶子)―1866年
(慶応2年)筑後守直養(なおなか、直方の庶孫)と続けられたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この後、明治維新・廃藩置県を経て黒田氏の支配は終了となり、久留里城は廃城を迎える。城の建築物は入札の上、払い下げ
され1872年(明治5年)に破却された。この時の様子を久留里藩士であった森勝蔵は著書「雨城(うじょう)の夢」にこう記している。
「(明治5年2月)15日、兵部省官吏木村信卿・徳久陸軍大尉・別喜道和三名来り、(中略)旧城を点検し楼櫓(櫓)、殿閣(御殿)等、
広く入札を以て払ひ下げらる」斯くして城内の建物は悉く解体され、城跡は元の原野に戻ってしまった。城山は国有地とされ、
自然保養林となったのだが、旧城の威風を惜しんで1913年(大正2年)この場所を公園候補地とする出願が出され、史跡公園と
しての整備が着手される。その許可が下りたのはだいぶ年月が過ぎた1955年(昭和30年)の事になったが、これによって城山
国有地の借受が決定となり、城山は城山公園に生まれ変わった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
模擬天守建立と旧天守台の保護■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
史跡整備が進められた公園内では発掘調査が行われて、同時に天守復元の機運も盛り上がったのでござる。然るにその発掘
調査の結果、山頂の本丸にあった二重櫓の基台が確認され、近世城郭の山上天守としての存在は貴重であった事から、その
基台遺構はそのまま保存する事が望ましいと言う結論が出された。これにより、基台を保全する観点から天守復元は基台上に
直接建てる予定だった計画を変更し場所を移して行う事となり、1977年(昭和52年)10月1日に旧来の天守土台の隣に建設する
べく工事が着工された。ちなみに、もともとは明治百年記念事業として計画された天守再建計画だったそうなので、10年遅れで
工事が始まった事になる(明治100年に相当するのは1967年(昭和42年)の事)。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この再建天守は鉄筋コンクリート造りの二重三階櫓。延べ床面積は約190u、石垣含む高さ15.5m(石垣分が2m)。久留里城の
古天守については、正確な絵図面や古写真といった参考資料が乏しかったため、浜松城(静岡県浜松市中央区)の模擬天守を
参考として新たに設計された望楼型天守である。設計指導に当たったのは名城大学の城戸久(きどひさし)工学博士で、岡崎城
(愛知県岡崎市)や岐阜城(岐阜県岐阜市)などの復元天守を設計した“再建天守の名手”と呼べる人物でござる。■■■■■■
こうして建設された久留里城再建天守、瓦は愛知県の三州瓦、石垣石材には神奈川県真鶴産の輝石安山岩を用い、翌1978年
(昭和53年)3月28日に竣工。その一方で、保存された旧天守基台には川原石を詰めて水はけを良くする措置が採られている。
現状、模擬天守の隣に何の変哲もない“空き地”となっている土盛りがあり、知らない人にとっては「何だこの無駄な敷地は?」と
勘違いしてしまうのだが、これこそが貴重な遺構であるので良く見て欲しい。また、このようにして天守台を守った英断を讃えたい。
1979年(昭和54年)8月1日には二ノ丸跡に久留里城址資料館も開館、城址の整備事業に一応の完成を見た。1988年(平成10年)
城山国有林は国の「健康保養の森」にも指定され、城址は多角的に有効活用されている。■■■■■■■■■■■■■■■
初心者にも簡単に登れ、愛好家には堪らない山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて現在の城跡全体を見渡すと、山頂に模擬天守、二ノ丸に資料館といった建物が並んでいるが、他方では曲輪構成や土塁・
空堀といった城郭遺構がかなり良く保存されているのがわかる。山腹には駐車場があり、そこから資料館まで舗装された道路が
一直線に延びて登城を簡単にしている(この舗装路沿いにも色々な遺構が残存している)。一方、その舗装路ではなく山を分け
入って進む登山路を使って山頂へ向かえばそこかしこに堀切や険峻な土塁などが目に付くのである。これらは恐らく戦国期から
使われ続けた久留里城の遺構だと思われ、近世城郭と中世城郭の両方を実感できる貴重なものだ。一般の観光客は舗装路を
行くであろうが、城郭愛好家の方には是非ともこの登山路を歩んで頂きたいものである。■■■■■■■■■■■■■■■■
(但し、残念ながらここ数年は台風による被害でこの登山路は閉鎖されたままになってしまっているので無理な登頂は厳禁)■■
また、本丸の手前には今でも水を満々と湛える男井戸(おいど)・女井戸(めいど)と呼ばれる池が残されており、この城が水利に
恵まれた山城であった事を物語っている。二ノ丸の脇にはお玉が池と呼ばれる貯水池(水堀)も。山頂から伸びる数条の尾根は
全方向に堀切で区画された曲輪が並ぶ防御構造物だった。上総最大級の城郭であった久留里城、なかなか見所が多うござるな。
水に関連した話でもう一つ。久留里城が築城された際、3日に1度、21回に渡り雨が降ったと言う伝説がある。雨ばかり降り続ける
城という事で、久留里城の別名は雨城となったそうな。他に霧降城・浦田城などの雅称も。■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、上記の通り廃城時に建物は全て解体され現存する古建築物はないが、破却された建物から下ろされた鯱瓦が3匹残され、
現在も君津市立上総小学校(元来は久留里小学校であったが、2021年(令和3年)3月で閉校に伴い周辺小学校と統合し改編)の
校門前と、市内前田家の庭園、それに高澤家(から久留里城址資料館に展示)へ伝えられている。■■■■■■■■■■■■
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