上総国 久留里城

久留里城復元天守と天守跡

所在地:千葉県君津市久留里

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★■■
公園整備度:★★☆■■



遡れば平安時代に平将門の3男・東頼胤(とうのよりたね)が築城したという伝承を残すが
これは全く架空の話で証拠はない。推測される最も古い築城経歴は1456年(康正2年)に
上総守護代であった真里谷(まりやつ)武田信長が久留里近辺に領土を拡大し、
押さえの城を築いた事に求められる。信長は3男の信房に久留里城を与えたとされ
その後に武田氏の将・勝真勝(すぐろまさかつ、しんしょうとも)へと受け継がれた。
この頃の久留里城は現在の城跡より北西側にあり、真勝寺(真勝創建の寺)の
南縁部にある上ノ城(うえんじょう)山に築かれていたのでござった。
しかしこの後、真里谷武田氏は弱体化。その領土は房総半島南端から勢力を伸ばす
里見氏によって侵食されていく。久留里城も天文年間(1532年〜1555年)初頭に
里見氏の調略を受け、城主であった真勝は無血開城して城を明け渡したと言う。
新たに里見氏を城主とした久留里城は1537年(天文6年)に大改修され
現在の城域へ移転、里見家当主・里見義堯(さとみよしたか)自身が居城とした。
標高145mの城山に築かれた新しい久留里城は周囲を険峻な地形に囲まれた要害で
非常に防御性の高い城郭であった。里見氏は小田原後北条氏や真里谷武田氏らと
敵対しており、翌1538年(天文7年)に行われた第1次国府台(こうのだい)合戦で
これら連合軍と干戈を交えたのだが、合戦に敗れた事で一時的に本拠地の安房へ
退く事となる。しかし久留里城には城代が置かれ里見氏防御の要とされ、
1554年(天文23年)に小田原後北条氏随一の猛将・北条綱成(つなしげ)率いる軍に
攻撃されるもこれを撃退、見事な堅城ぶりを示したのでござった。
暫く後、義堯が久留里城主に復帰し再び北上の機会を窺ったのに対し
後北条方も攻略の手を緩めず1560年(永禄3年)に再び久留里城を包囲、
当主の北条氏康自らが指揮を取るが攻略ならず。この時、里見方の将
正木時茂(まさきときしげ)が奮戦し長尾景虎(後の上杉謙信)に救援を要請、
これを受けた長尾軍が遠く越後から大軍を率いて関東へ侵攻する事態にまで発展した。
その後も里見氏と後北条氏は一進一退の攻防を繰り広げるが、1564年(永禄7年)1月に
再戦となった第2次国府台合戦でまたもや里見軍は大敗、領国防衛線を崩壊させ
この年の10月、遂に久留里城は後北条軍に落とされてしまった。
念願の久留里城攻略を果たした後北条氏は小田小太郎を在城させる。
これに対し、城の奪還を目指す里見方が今度は城を攻める立場となり
2年後の1566年(永禄9年)に見事落城せしめたのでござった。とは言え、
これで里見対北条の戦いが終わった訳ではない。久留里城は1567年(永禄10年)
1581年(天正9年)、1588年(天正16年)にも後北条軍の攻撃を受けている。
なお義堯は1574年(天正2年)に没し嫡男の義弘が家督を相続、久留里城主となったが
暫くして義弘は佐貫城へ移転、久留里城は里見氏の支城として用いられるようになる。
その義弘も1578年(天正6年)に没すると里見家では家督争いが勃発し、この争乱の渦中
1580年(天正8年)里見義頼(よしより、義弘の弟(庶長子説もあり))が佐貫城と
久留里城を攻略して手中に収め、結果として里見家の家督を勝ち得たのでござった。
さて1590年(天正18年)里見義頼は居城を館山城へと移し、久留里城には
城代として里見家臣の山本越前守が配された。しかしその直後、豊臣秀吉が
全国統一を成し遂げた事により里見氏は領土を安房1国に限定される。
上総国は徳川家康の領土とされ、同年5月家康配下の将である
大須賀忠政(榊原康政の子)が石高3万石で久留里城主と定められ申した。
以後、江戸のお膝元である上総国の要衝・久留里には徳川譜代家臣が
交代で配置される。1602年(慶長7年)2万石で土屋忠直が入り
1621年(元和7年)土屋利直が家督を継承、さらに1675年(延宝3年)に
土屋頼直へと受け継がれるが、4年後の1679年(延宝7年)に頼直は改易され
翌1680年(延宝8年)久留里周辺は前大老・酒井忠清の領地に併合された。
酒井氏は久留里の地を代官支配としたため城は廃城にされたが、1742年(寛保2年)
上野沼田から3万石を以って黒田直純が新たな久留里領主と定められる。
明くる年、1743年(寛保3年)直純は幕府に願い出て久留里城の再築に着手、
5000両の拝領金を得て城普請を行ったのでござった。廃城より約60年にして
再び姿を現した久留里城は1745年(延享2年)に落成。驚くべき事に、
再築された久留里城は戦国期と同じく山上頂部を本丸とし、
中世久留里城の縄張りをそのまま利用して梯郭式に二ノ丸が置かれ
西側山麓部分に居館となる三ノ丸が造営された大規模な城郭。
江戸時代中期に築かれた近世城郭としては極めて異例なもので、
戦闘に特化した中世山城を復活させるなど幕府が固く禁じていたため
通常は考えられない事である。しかも山頂の本丸には天守相当の二重櫓が置かれ
(これも幕府の厳重な監視体制の中では本来許されないものである)
久留里城の存在は近世城郭史の中でも特異なものだと言えよう。
さて、久留里藩黒田氏の支配地は上総国各所に点在する形となっており
望陀郡39ヶ村・市原郡15ヶ村・夷隅郡6ヶ村とされ、飛地である
武蔵国8郡60ヶ村と上野国2郡2ヶ村も併せると実高3万3000石に上ったという。
直純以後、廃藩置県まで黒田氏が代々久留里城主を務め、家督継承を羅列すると
1776年(安永5年)黒田直亨(なおゆき、直純の弟)、1784年(天明4年)
直英(なおひで、直亨の子)、1786年(天明6年)直温(なおあつ、直英の子)
1801年(享和元年)直方(なおまさ、直英の弟)、1812年(文化9年)
直侯(なおよし、直方の子)、1823年(文政6年)直静(なおちか、直侯の弟)
1854年(嘉永7年)直和(なおやす、直侯の子)、1866年(慶応2年)
直養(なおなか、直和の子)と続けられたのでござる。
この後、明治維新・廃藩置県を経て黒田氏の支配は終了となり、
久留里城は明治の廃城を迎える。城の建築物は入札の上、払い下げされ
1872年(明治5年)に破却された。この時の様子を久留里藩士であった
森勝蔵は著書「雨城(うじょう)の夢」にこう記している。
「(明治5年2月)15日、兵部省官吏木村信卿・徳久陸軍大尉・別喜道和三名来り、
(中略)旧城を点検し楼櫓(櫓)、殿閣(御殿)等、広く入札を以て払ひ下げらる」
斯くして城内の建物は悉く解体され、城跡は元の原野に戻ってしまった。
城山は国有地とされ自然保養林となったのだが、旧城の威風を惜しみ1913年(大正2年)
この場所を公園候補地とする出願が出され、史跡公園としての整備が着手される。
その許可が下りたのはだいぶ年月が過ぎた1955年(昭和30年)の事になったが
これにより城山国有地の借受が決定となり、城山は城山公園に生まれ変わった。
史跡整備が進められた公園内では発掘調査が行われ、同時に天守復元の機運も
盛り上がったのでござる。然るにその発掘調査の結果、山頂の本丸にあった
二重櫓の基台が確認され、近世城郭の山上天守としての存在は貴重であった事から
その基台遺構はそのまま保存する事が望ましいと言う結論が出され申した。
これにより、基台を保全する観点から天守復元は基台上に直接建てる予定だった
計画を変更し場所を移して行う事となり、1977年(昭和52年)10月1日
旧来の天守土台の隣に建設するべく工事が着工されたのでござる。
この再建天守は鉄筋コンクリート造りの二重三階櫓。久留里城の古天守については
正確な絵図面や古写真といった参考資料が乏しかったため浜松城天守を参考として
新たに設計された。設計指導に当たったのは名城大学の城戸久教授で、
岡崎城や岐阜城などの復元天守を設計した人物でござる。
こうして建設された久留里城再建天守、瓦は愛知県の三州瓦、石垣石材には
神奈川県真鶴産の輝石安山岩を用い翌1978年(昭和53年)3月28日に竣工。
その一方、保存された旧天守基台には川原石を詰めて水はけを良くする措置が
採られている。1979年(昭和54年)8月1日には二ノ丸跡に久留里城址資料館も
開館、城址の整備事業に一応の完成を見た。1988年(平成10年)城山国有林は
国の「健康保養の森」にも指定され、城址は多角的に有効活用されている。
さて現在の城跡全体を見渡すと、山頂に模擬天守、二ノ丸に資料館といった建物が
並んでいるが、他方では曲輪構成や堀・土塁といった城郭遺構が
かなり良く保存されているのがわかる。山麓に駐車場があり、そこから資料館まで
舗装された道路が一直線に延びて登城を楽にしているものの、その舗装路ではなく
山を分け入って進む登山路に沿って山頂へ向かえばそこかしこに堀切や
険峻な土塁などが目に付くのでござる。これらは恐らく戦国期から使われ続けた
久留里城の遺構と思われ、近世城郭と中世城郭の両方を実感できる貴重なものだ。
一般の観光客は舗装路を行くであろうが、城郭愛好家の方には
是非ともこの登山路を歩んで頂きたいものである。
また、本丸の手前には今でも水を満々と湛える男井戸(おいど)・女井戸(めいど)と
呼ばれる池が残り、久留里城が水利に恵まれた山城であった事を物語っている。
上総最大級の城郭であった久留里城、なかなか見所が多うござるな。
水に関連した話でもう一つ。久留里城が築城された際、
3日に1度、21回に渡り雨が降ったと言う伝説がある。
雨ばかり降り続ける城という事で、久留里城の別名は雨城となったそうな。
なお、上記の通り廃城時に建物は全て解体され現存する古建築物はないが、
破却された建物から下ろされた鯱瓦が3匹残され、現在も久留里小学校と
市内前田家の庭園、それに高澤家(から久留里城址資料館に展示)へ伝えられている。


現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等

移築された遺構として
鯱瓦3匹(久留里小学校・前田家・久留里城址資料館に保存)








上総国 佐貫城

佐貫城址 大手門石垣

所在地:千葉県富津市佐貫

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★★☆■■
公園整備度:☆■■■■



別名で亀城。中世から明治維新まで(途中廃絶の時期もあるが)用いられ、
千葉県下で明瞭な石垣櫓台遺構の残る唯一の城址でござる。
城の起源を遡ると、一説に拠れば文安年間(1444年〜1449年)または
宝徳年間(1449年〜1452年)に関東管領(室町幕府体制における実質的な関東統治者)
上杉家の家宰であった長尾氏の一族が築いたとされる。上総国に根付いた総州長尾氏は
長尾三家の一つに数えられ、「鎌倉大草紙」という軍記書で佐貫に居を構えたとある。
しかし有力視されるのは真里谷武田氏による築城説で、応仁年間(1467年〜1469年)に
武田義広が構築したとするもの。この真里谷武田氏は信玄入道で有名な甲斐武田氏と同族で
戦国上総史にしばしば関わりを持っている。
室町後期の関東地方は、それまで京の幕府に対抗していた足利将軍家の分流・鎌倉公方が
下総国古河(現在の茨城県古河市)へ居を移し、新たに幕府から東国支配者として
派遣された堀越公方が伊豆国堀越(静岡県伊豆の国市)へやって来たが実効支配を
果たせず、これに上杉家の勢力が絡み、複雑な状況に陥っていた。上杉家の中でも
本家筋の山内(やまのうち)上杉家と分家筋の扇谷(おうぎがやつ)上杉家の2家が
拮抗し、これに諸豪族が迎合離反を繰り返したのだ。堀越公方家は程なく滅んだが
今度は古河公方家でも内訌の機運が起こり、宗家の乗っ取りを図り古河を飛び出した
足利義明が、真里谷武田氏の庇護下に入るのである。武田側としては、名家の血筋を持つ
義明を擁する事で自身の勢力拡大を図ろうとしたのだろう。しかし剛勇で鳴らす義明は
むしろ真里谷武田氏を踏み台にして自分の戦力を増強しようとしていた。義明の策略により
時の真里谷武田氏当主・信隆は対決姿勢を強める結果となり、1537年ここ佐貫城で
信隆軍が挙兵してござる。が、勇武の将・義明は反撃に出て里見氏と共に佐貫城を落とし、
信隆は国を追われた。真里谷武田家は義明の傀儡である信応(のぶまさ、信隆の弟)が
家督を継承したが、一方で信隆は小田原に本拠を構える新進気鋭の戦国大名・北条氏綱に
救援を求めた。東関東進出の機会を窺っていた氏綱はこれで出兵の名分を得、斯くして
1538年の第1次国府台合戦が勃発するのでござった。この戦いで足利義明は戦死した上
義明に与した里見氏は敗退、信隆が見事に真里谷武田氏当主へと返り咲いた。
ところがこれ以後、武田氏は没落した為、佐貫城は小田原後北条氏と里見氏が
数度にわたる争奪戦を繰り広げる舞台となり申した。1537年の落城以来、佐貫城には
里見義弘の城代が入って占拠していたが、1544年(天文13年)に後北条軍が
妙本寺砦(千葉県安房郡鋸南町)周辺へ上陸して同砦を落とし、そのまま佐貫城下へと
攻め寄せる。年が明けた1545年(天文14年)佐貫城は落城、里見勢は撤収し
北条氏康(氏綱の子、後北条3代当主)の支配を受けた。しかし直後に里見軍が奪還、
10年後の1555年(弘治元年)にも同様の経緯で後北条軍が佐貫城を落としてござる。
この時もすぐに里見勢が城を奪い返し、1556年(弘治2年)には里見氏当主・義弘自身が
佐貫城へ進駐、今度はこの城から相模(神奈川県西南部)方面へと水軍を発し
里見軍が後北条支配下の鎌倉を襲撃する状況になってござる。記録に拠れば
その後またもや後北条氏が佐貫城を占領、1559年(永禄2年)頃には後北条家臣である
布施弾正なる者が城代を務めていたとされている。
上記、久留里城の項を見て頂ければ判るように、この頃になると越後の上杉謙信までもが
関東の情勢に深く関わるようになる。里見氏と上杉氏は連携して後北条氏と敵対していたが
1561年(永禄4年)上杉軍は古河公方御所を攻撃し、自らの味方となる足利藤氏(ふじうじ)を
公方の座に据えた。それまで公方であった義氏(よしうじ)は古河を脱出逃亡、流浪の末に
翌1562年(永禄5年)後北条氏に守られた佐貫城へ入城、仮御所としてござる。ところが
1563年(永禄6年)になると里見勢が佐貫城を攻略、城は落とされた。これにより義氏は
鎌倉へと退去するしかなくなり申した。後北条・里見双方に怨嗟が募った1564年、
第2次国府台合戦が発生、これにより敗北した里見軍は攻勢に出る事が難しくなり
以後、領国防備に追われる状況となる。満を持した後北条軍は1567年、佐貫城攻略を目指し
城の北方4km付近にある三船台に布陣した。何としてもこれを撃退したい里見義弘は
佐貫城から出陣して奇襲攻撃を敢行、辛くも成功させている。対する後北条軍は
佐貫城攻撃が頓挫した上、追加攻撃により挟撃される恐れがあったため止む無く全軍撤退。
この三船山合戦は第2次国府台合戦以後の状況を一変させ、遂に後北条氏が里見氏を滅亡に
追いやれなくした契機になった戦いであり、関東戦国史に重要な意味を持つ一戦であった。
ようやく里見氏がかつての勢力を挽回させつつあった中、1578年に当主・義弘は
佐貫城中で卒去してしまう。家督は嫡男の梅王丸が継ぐとされたが、これに不満を持つ
義頼は対抗勢力を糾合して敵対、里見家中は内訌の様相を見せた。2年に及ぶ対立後、
梅王丸とその後見役・加藤伊賀守信景が籠もる佐貫城は1580年に義頼軍に攻められ落城。
梅王丸は出家させられ、ここに里見家は義頼が掌握するに至り申した。義頼は本拠地である
安房国(房総半島最南端部)で勢力基盤を固めた事により、佐貫城はそれまでの
里見家本拠から支城へと扱いが変わってござる。
そして1590年、豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼして天下を統一。里見氏は秀吉により
上総の領地を没収され、安房一国の領主と定められた。上総領を受け継いだのは
江戸城(東京都千代田区)に入った徳川家康。家康は関東一円に家臣武将を配したが
佐貫城主に任じられたのは内藤家長、石高は2万石でござった。家長は忠勇無双にして
家康の絶大な信任を受けていた部将。何があっても絶対に主君を裏切らない三河武士の
典型で、それを見込まれて1600年(慶長5年)関ヶ原合戦の前哨戦である伏見城攻防戦で
鳥居元忠と共に伏見城(京都府京都市伏見区)の守将になっていた。家康が天下の覇権を
手にせんとする関ヶ原合戦に先立ち、京で西軍の挙兵を煽りつつ東国にある家康の時間稼ぎを
託されたのが伏見城であり、わざと少兵で籠城の構えを見せる“囮役”である。即ち、伏見城を
守る将は戦死必至の運命にあった訳だが、家長は見事この大役を果たし、計算通り
伏見の地で玉砕したのでござる。家康は彼の戦果と忠義に報いる為、関ヶ原戦役後
跡を継いだ政長(家長長男)に1602年11月22日、上総国天羽郡内の1万石を加増している。
また、江戸幕府成立後の1614年(慶長19年)に里見家が改易された際、安房の統治も
任せられている。その後も数々の功績を挙げた内藤家は都合1万5000石を加増されたが、
1622年(元和8年)9月28日、陸奥国磐城平(福島県いわき市)7万石に加増転封。翌10月、
それまで武蔵国深谷(埼玉県深谷市)8000石の旗本であった桜井松平忠重(ただしげ)が
7000石加増の1万5000石で佐貫城主に任じられ大名となり申した。しかし1633年(寛永10年)
8月9日、忠重が1万石加増で駿河国田中(静岡県藤枝市)へと転封となった後、
佐貫は一時的に天領(幕府直轄領)とされている。
1638年(寛永15年)1万5000石を以って能見(のみ)松平勝隆が佐貫城主となり、
佐貫藩が再立藩された。勝隆は1666年(寛文6年)2月3日に死去、養嗣子の重治が
城主を継いだが、彼は行跡不行状を問われて1684年(貞享元年)11月10日、改易。
佐貫城はまたも城主不在とされ、天領に戻され申した。この時、城は破却されたと言う。
時代が徳川5代将軍・綱吉の頃になると、その寵臣として有名な柳沢吉保が加増を重ね
1688年(元禄元年)11月12日、側用人に就任した事を機に1万2000石を拝領し
大名に取り立てられる。この折、所領となったのが佐貫でござった。再び立藩した
佐貫藩は1690年(元禄3年)3月26日に2万石を加増され、1692年(元禄5年)11月14日
さらに3万石を加えられた。吉保の隆盛に伴った所領増加であったが、1694年(元禄7年)
1月7日の再加増では同時に武蔵国川越(埼玉県川越市)7万2000石への転封となった為、
彼は佐貫から離れた。これにより佐貫藩は3度目の廃藩となってござる。
再度の天領時代を経た後の1710年(宝永7年)5月23日、三河国刈谷(愛知県刈谷市)から
阿部民部少輔正鎮(まさたね)が1万6000石で入り、佐貫城が再興され申した。
以後、明治維新まで8代168年に渡って阿部氏が佐貫城主を継承していく。正鎮を初代とし
2代・正興(まさおき)―3代・正賀(まさよし)―4代・正実(まさざね)―5代・正簡(まさひろ)
6代・正ロ(まさたか)―7代・正身(まさみ)―8代・正恒(まさつね)となる訳だが、このうち
正簡の治世下、1796年(寛政8年)に藩校の誠道館が創設されてござる。幕末期、最後の城主
正恒は佐幕の立場で旧幕府軍への協力を行ったが、明治新政府軍に敗れて恭順し謹慎した為
版籍奉還後も知藩事の地位にあり続け申した。それでも廃藩置県で職を解かれ、佐貫城は
廃城令に基づき1871年(明治4年)5月に破却されてござる。城址は大半が農地化され
残された部分も山林と化して現在に至っている。この為、花木公園として
佐貫まちづくりいしずえ研究会が城跡の整備保全に努めているものの、
用地収用などの点から史跡指定は行われていないのが現状である。
北に北上川、南に染川で挟まれた丘陵地が城址。南側に大手口を開き、そこから北東側に向けて
三ノ丸〜二ノ丸〜本丸へと登っていく梯郭式の縄張りだが、本丸と二ノ丸の間には大規模な
空堀が掘られ、明確に分断されている。この空堀は(はっきりとはしないが)畝状の段があり
貯水機能を持たせていたようでもある。また、空堀の他に切岸を多用している他
里見氏系の城郭に良く見られる切通し状の露岩も随所にあり、敵兵の接近を阻んでいる。
本丸の裏側には産所谷、さらにその裏側に黒部谷と称される要害地形があり搦手方向を防備。
三ノ丸内部や産所谷周辺は曲輪内を数段の段差で階層化しており、これも傾斜地を
有効活用する為の構造と見られよう。こうした内郭部の随所には櫓台や物見台のような
隆起部が散在し、要所要所を固めてござる。これらの曲輪群全体を囲むように、周辺には
尾根の稜線を利用した外郭線が存在していた。この外郭線は尾根上を削平して細長い
段曲輪状の加工が施されていたようで、まさしく長大な塁線となっていた訳だが
現在では南東部が館山自動車道の建設工事によって失われてしまった。ともあれ、
内郭部は手付かずのまま残されているので、遺構はそれなりに散見できる。特に大手口は
近世改修時の石垣が組まれており(写真)登城口にしていきなり必見の箇所と言えよう。
そこから三ノ丸外縁部を経て二ノ丸を迂回する道を辿り丘陵を登る事になるが
二ノ丸内が荒れた状態なので、登城に難儀するだろう。しかしその先は上記の空堀など
明瞭な遺構が目に入るようになる。これらの遺構はどこまでが中世のものでどこからが
近世のものなのか、いまいち判然としないが、兎にも角にも佐貫城が壮大な規模を
誇っていた事は体感できる筈だ。今後の整備に期待したいものでござる。
なお、阿部氏入府時に佐貫城復興のため作成された絵図が現存する。宝永7年佐貫城絵図と
呼ばれるものがそれで、幕府へ城の再興を願い出る目的で描かれたもの。佐貫城址自体は
先述の通り史跡指定されていないが、この絵図は1992年(平成4年)市指定の有形文化財である。


現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等




千葉市内諸城郭  関宿城