下総国 北小弓城

北小弓城本丸跡の案内板

 所在地:千葉県千葉市中央区生実町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

■■■■
■■■■





下総国 生実陣屋

生実陣屋空堀と土塁の痕跡

 所在地:千葉県千葉市中央区生実町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★☆■■■
■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群
森川家墓所は市指定史跡



戦国期関東をややこしくした「おゆみ」の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
単に小弓城と言うのが正当か。別表記で生実城とも。江戸時代は生実陣屋として存立。城の名にある「小弓」も、
所在地の地名にある「生実」も共に「おゆみ」と読むが、この“おゆみ”城に関しての歴史を語ると少々長くなる。
さし当たって紐解けば、現在の千葉市一帯を支配した古豪・千葉氏が、南に面した上総国方面への備えとして
重臣の原氏をこの地域に配し、築城した経緯から始まると言うべきか。こうして築かれた城が小弓城、時代は
鎌倉時代と見られるが正確な年代は不明でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国期になると、下剋上の風潮から原氏は主家にあたる千葉氏を討って周辺を掌握するが、同時に南の上総
安房方面から真里谷(まりやつ)武田氏や里見氏が北進、原氏と衝突するようになる。ここで関連してくるのが
古河公方(こがくぼう)家の内訌。室町時代に東国支配の長として設置された鎌倉公方の職は、初代の基氏
(もとうじ)から始まる足利分家の世襲とされ続けたが、この鎌倉公方家は宗家にあたる足利将軍家と仲が悪く
事あるごとに反抗していた。その結果、1455年(康正元年)に時の鎌倉公方・足利成氏(しげうじ)は下総国
古河(現在の茨城県古河市)に遁走、古河公方を宣するようになる。これが古河公方の起こりだが、成氏の孫
高基(たかもと)の代になると、彼は弟の足利義明(よしあき)と対立、古河公方家内部での紛争までもが勃発
したのだ。独立を企む義明は古河を離れ、これに目を付けた真里谷武田氏の武田信勝が1517年(永正14年)
義明を自領に迎え入れ「名門・足利家の縁者を庇護する」という大義名分を翳して勢力拡大を狙った。その結果
真里谷武田・足利義明連合軍が庁南(ちょうなん)武田氏(真里谷武田氏の同族)や安房里見氏の軍を糾合し
6000もの兵力で原氏の小弓城を攻撃する。翌1518年(永正15年)城は落城、城主・原胤隆(たねたか)は討死し
足利義明が新たな城主となったのでござる。名族たる足利氏が領有した事で、小弓御所と尊称されるようになり
義明は下総国において大きな勢力を得るようになった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

2次に及ぶ国府台合戦の末に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところがこれを契機として次第に野心を膨らませた義明は後援者だった真里谷武田氏を疎むようになり、その上
武田氏の中でも家督騒動が発生し、複雑な対立関係を生じる事になった。結果、義明・武田信隆(信勝の孫)の
関係は冷却化。関東の覇者を目論む義明は近隣諸勢力とも盛んに抗争するようになり、小弓城周辺では幾度と
なく合戦が行われた。小弓の地は東関東における騒乱の中心となったのでござる。■■■■■■■■■■■■
この頃、相模国・武蔵国(現在の神奈川県・東京都周辺)を制圧した小田原の北条氏綱は、東関東への進出も
視野に入れて外交活動を展開していたが、義明の圧迫に抗しきれなくなった真里谷武田信隆は北条氏に救援を
依頼、北条氏綱・武田信隆連合と小弓御所義明の軍勢が交戦に及ぶ事態へ発展した。この戦いは関東全域の
諸勢力を巻き込む事になり、小弓御所を嫌う古河公方家の足利晴氏(高基の子)や小弓城奪還を悲願とする
原式部大夫胤清(たねきよ、胤隆の子)は北条氏に加勢、対する義明方には後北条氏と対立関係になった里見
義堯(よしたか)が味方し、下総国の国府台(こうのだい、千葉県市川市国府台)で激闘が繰り広げられた。時に
1538年(天文7年)10月7日の事である。戦いの結果、何と総大将の義明が戦死し、退却する里見軍は追撃を振り
切るために小弓城を焼き払った。氏綱・信隆・晴氏・胤清の大勝に終わった合戦後、小弓は旧主の家柄である
原胤清の領土に復した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
胤清は従来の小弓城から北に1kmほど離れた低台地に城を復興。この新たに築かれた小弓城を以前の小弓城と
区別し、北小弓城と呼ぶのである。当然、旧小弓城は南小弓城と呼ばれ申す。国府台合戦の経緯により、原氏は
小田原北条氏と臣従関係となり勢力を維持した。ところが1561年(永禄4年)長尾景虎(上杉謙信の旧名)が関東
諸勢力を従えて小田原討伐に赴くと、景虎に呼応した里見氏が下総の後北条領に侵攻し、小弓城も攻撃された。
これで原氏はまたもや小弓城を追われる事になった。されど景虎の関東進駐は長く続かず、再び後北条氏は関東
地方の覇者として領土を拡大、1564年(永禄7年)1月に因縁の国府台で北条軍と里見軍は2度目の対決に及んだ。
第2次国府台合戦でも後北条氏が勝利を掴み、里見氏は下総から撤退。原氏は3度小弓城主に復帰した。しかし
この復活劇も長くは持たず、1571年(元亀2年)里見軍が再攻略した事により小弓城は陥落、城主である原胤栄
(たねひで、胤清の孫)は臼井城(千葉県佐倉市)に退却した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、1590年(天正18年)小田原北条氏は豊臣秀吉に討伐され滅亡。この頃、胤栄は小弓城を里見方から奪還し
北条方として守りを固めていたようだが、豊臣軍の地方鎮撫部隊となる酒井左衛門尉家次(いえつぐ、徳川家臣)
勢に攻められ敗走したらしい。斯くして秀吉による天下統一が完成され、関東には徳川家康が封じられる。■■■
小弓城には家康配下の西郷弾正左衛門家員(さいごういえかず)が5000石を以って入城。更には江戸幕府が開設
された後、1623年(元和9年)に酒井山城守重澄(しげずみ)が2万5000石で入封、1627年(寛永4年)からは森川
出羽守重俊(しげとし)が1万石の大名として生実藩主を任じられたのでござった。■■■■■■■■■■■■■■

小弓城から生実陣屋へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
重俊は小弓城を改変して生実陣屋に改め、以後、森川氏が12代243年に渡って当地を支配し、廃藩置県を迎えた。
歴代の森川氏を列挙すると、2代・伊賀守重政(しげまさ)―3代・出羽守重信―4代・紀伊守俊胤(としたね)―5代・
内膳正俊常(としつね)―6代・兵部少輔俊令(としのり)―7代・紀伊守俊孝(としたか)―8代・兵部少輔俊知(としとも)
―9代・弾正忠俊民(としたみ)―10代・出羽守俊位(としひら)―11代・出羽守俊徳(としのり)―12代・内膳正
俊方(としかた)。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
旧来の小弓城は四周600mの規模に及んでいた。北西から南東に向けて本丸(実城)と二ノ丸を並べて、本丸の
真南には地ノ内と呼ばれる曲輪が置かれていた。この地ノ内は事実上の馬出である。これら主郭群の南側には
城下町が広がっていた。その町並みを貫通して東西に街道が走り、城下町の西側出口を木戸で封じ、木戸の
外には生実池という大きな池が天然の濠を成している。他方、東側出口が大手として構えられ、そこには空堀を穿ち
小弓城全周を封じる総構の如き役割を果たしていたと考えられる。大手口は現在の千葉県道66号線と同67号線の
合流地点から更に東へ200mほど行った所。大手口〜木戸までが都合600mだ。■■■■■■■■■■■■■■■
しかし生実陣屋へと変貌した際、太平の時代に合わせてかなり規模を縮小。陣屋は、かつての城域から見れば
ごく一角を用いたのみで、旧二ノ丸の東側にある外郭部を利用しただけ。残り大半の城地はそのまま放置されて
いたようだ。ところが昭和40年代の宅地開発で城域一帯は急激に造成が行われ、現在ではほとんど遺構が残存
しない。小弓城本丸(実城)は写真の通り完全な児童公園と化し、その周囲は住宅密集地。旧陣屋の名残としては
土塁と空堀の断片が生実神社境内近辺に垣間見えるのみだ。ただ、この残存空堀(陣屋写真)はかなりの規模を
有し必見でござろう。県道の造成に先立ち周辺の発掘調査が行われ、旧城時代の堀は深さ6m近くもある薬研堀の
断面を持ち、それが時代の変遷につれて埋め潰されていった様子が確認された。江戸時代の陣屋造成時に堀の
最底部は毛抜堀に改められ、それに伴い土を埋め固めたようである。また、堀底に作られていた井戸から暗渠状の
水路を流した痕跡も認められ、水路の蓋に利用された板碑が出土。この石碑には「享禄四年」つまり1531年の銘が
彫られていた事から、小弓城の使用年代を推測する有力な手がかりとなったのでござる。この他、陶磁器や生活
用品の出土、戦国期における焼土層や江戸時代の富士山火山灰の堆積など、城郭の歴史や時代背景を雄弁に
物語る発見がこの発掘調査で出現したと言える。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
陣屋の歴史を物語るもう一つの史跡が、生実神社の西300mの位置に建立されている曹洞宗の寺・森川山重俊院
(ちょうしゅんいん)だろう。この寺は名の通り初代生実藩主・森川重俊に由来するもので、森川家代々の菩提寺で
あった。寺の本堂は1974年(昭和49年)に焼失してしまい、その後に再建されたものだが、山門は江戸時代以来の
ものと言われており、寺が生実藩と共に歩んだ歴史の深さを今に伝えており申す。ちなみに重俊は江戸幕府2代
将軍・徳川秀忠の臨終に際し殉死第一号となった人物として知られている。■■■■■■■■■■■■■■■
…なお個人的な話だが、拙者の伯父が重俊院墓地に葬られている(城とは無関係)■■■■■■■■■■■■







下総国 千葉城

星空に浮かぶ千葉城模擬天守

 所在地:千葉県千葉市中央区亥鼻・矢作町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

■■■■
★★★■■



坂東武士の名門・千葉氏の本拠■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
坂東武士名門中の名門として知られる千葉氏の城であるが、しかしその実、詳しい経歴は定かならぬ城。別名で
亥鼻(いのはな、猪鼻とも)城と呼ばれるが、これは城を築いた台地の北西(つまり亥の方角)先端部が主郭と
されていた事から。とは言え、城の立地や履歴も含めて現在は再考の余地が唱えられており、そのあたりも含めて、
以下に詳細を記載する。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
千葉氏と言えば、桓武平氏(桓武天皇の子息から発生した武士団)良文(よしふみ)流の名族でござる。良文は
かの勇将・平将門が討伐された後、その遺領を引き継ぎ東関東に広大な領地を獲得した一大勢力である。この
血脈の中、下総国(現在の千葉県北部)を領有し独立勢力となったのが千葉氏だ。平安末期、都で栄耀栄華に
驕った平家打倒の為に源頼朝が関東武士団を糾合して挙兵に及んだ際にも、いち早く時の千葉家総領・千葉介
常胤(つねたね)は手勢300騎を率いて頼朝に臣従した事で知られる。上総国(千葉県中南部)の領主で同じく
良文流後裔の上総広常(ひろつね)は2万騎を動員したと言うが、彼は頼朝に心服した訳ではなく、後に邪魔者と
見られ謀殺された。その結果、常胤は上総勢も掌中にする事を頼朝から許され、千葉氏が鎌倉幕府草創期に
おいてどれだけ重要視されていたかが窺えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて通説では1126年(大治元年)千葉氏3代目・常重(つねしげ、常胤の父)が亥鼻の山に館を築いて千葉氏の
本拠としたのが千葉城の創始とされてござる。房総半島は海に面した肥沃な土地に恵まれ、先史時代より古代人が
生活の舞台としていた事は加曽利貝塚などの存在から明らかであるが、武士団の成長につれてこの地を領する
豪族が、防備に適した高台の突端部に城館を構えるのも自然な流れだったと考えるのが当然でござる。千葉氏は
鎌倉時代前期に圧倒的な勢力を築き上げ、その子息は関東のみならず奥羽や美濃(岐阜県)にも派生していった。
現地案内板には(やや誇張も入っていようが)鎌倉〜室町時代にかけて、千葉城下町は関東において鎌倉に次ぐ
繁栄を誇っていたと記載される程でござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

乱世で千葉氏宗家は滅亡するが…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
されど強大な権勢を誇れば誇るほど、没落もつきもの。鎌倉幕府が安定期を迎えると、幕府執権・北条氏による
権力集中が図られ、邪魔者となる政敵は軒並み粛清されていく。こうした流れにより千葉氏も次第に勢力を弱め
さらに元寇や室町幕府への政権交代ですっかり地方の一豪族に成り下がってしまう。打ち続く関東の戦乱の中、
遂に1455年、千葉氏16代・胤直(たねなお)は重臣の原胤房(はらたねふさ)や馬加康胤(まくわりやすたね)らの
謀反で千葉城を急襲され敗走。後に胤直と胤宣(たねのぶ、胤直の子で18代当主)らは自刃、千葉宗家は滅亡して
しまった。この造反劇に対し、室町幕府は追討軍を発し美濃千葉氏後裔の東常縁(とうつねより)が胤房を攻撃。
敗れた胤房は千葉城へと逃げ込んだとされるがこれも落とされ、結局そのままいずこかへ逐電したと伝わる。
一方の康胤は千葉家の家督を継ぎ19代当主を名乗るも、胤直の弟・胤賢(たねかた)の子が武蔵国で復活の
狼煙を上げ、康胤一族と対抗。このような内訌によって千葉一族は多いに没落、康胤派は1457年(長禄元年)
新たな本拠を本佐倉(もとさくら)城(千葉県印旛郡酒々井町)に求めた事で千葉城は完全に廃城となった、と
するのが従来の説である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが近年、こうした一連の説に疑問符が投げかけられている。そもそも千葉城の創始、常重の築いた居館は
亥鼻台地上ではなく、その麓であったと考えられるようになったのである。つまり、現在は亥鼻公園となっている
千葉城址ではなく千葉地方裁判所のあたりが千葉氏の居館であったと推定されるのだ。千葉地裁の所在地は
千葉市中央区中央という住居表示になっているが、この地の旧名は「御殿跡」でござった。即ち、ここに何かしら
“武家居館施設があった”何よりの証左である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
考えてもみれば、平安武士の居館は自らの耕作地(武士は農耕集団が自衛の為に武装したのが始まりである)を
統べる位置に築かれるものであるのだから、平野部に置かれて然るべきでござろう。無論、戦いに備えて所謂
「詰めの城」と呼ばれる戦闘拠点を別に用意した可能性はあり、それが亥鼻台地の城砦だったと推定する事は
できる。但し、それならば亥鼻の城は「戦時の臨時施設」であって、「千葉氏の本城」として永続的に利用される
ものではなかった筈だ。また、亥鼻台地に広がる城郭施設は、現在は市街地化によって殆ど消滅しているものの
伝承に基づけば東西約1km×南北最大で500mにもおよぶ広大なものとされている。中世の城館と言うならば、
これは余りにも巨大すぎる規模であろう。何より、原氏は後に復活し主家の千葉氏を凌ぐ勢力を持ち、戦国後期
亥鼻城を利用したとする逸話も残る。亥鼻公園内にごくごく僅か保存されている土塁もまた戦国時代の構造物と
推定できる事から、旧説による廃城時期は当てにならない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

様々な考察で再検討が必要な史跡?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その一方、戦国時代の城(しかもこれだけ巨大ならば拠点城郭級)だとするにしては残存遺構や記録文書の類は
殆ど見受けられない。詰まる所、この城は本当にどれ程の規模を有し、どれくらい活用されていたのか、信頼に
足る証拠が全然無いというのが実情なのだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
但し、千葉市中央区の「御殿跡」は、江戸時代に徳川将軍家が利用した宿館跡とする説もある(下記)。兎に角
謎多き千葉城であるが、とりあえず1959年(昭和34年)千葉市の指定史跡となっている。■■■■■■■■■
縄張は台地突端部(北西端)が物見台のV郭で、そこから南東方向に向けてT郭・U郭が並ぶ。この主郭群は
3つまとめて300m程の長さで連なっているが、これを蔽うように東へと外郭部T郭とU郭が広がり、その総計は
上記の通り1kmにも達するとされる。尤も、それがどこまで本当なのかは全く分からないが、この縄張が正しいと
するならば外郭部T郭の中に千葉大学医学部の敷地がすっぽりと収まり、同U郭が千葉大学病院に相当する事に
なる。また、主郭部の外縁部に1967年(昭和42年)4月、千葉城郷土博物館が建てられてござる。この郷土博物館は
天守風の建物で、話に拠れば小田原城天守を模して造られたとの事。白亜の4層天守(写真)はなかなか立派で
あるが、もちろん当時の千葉城にこのような天守が在った筈も無く、これを旧城の遺構と捉えるのは全く誤った
歴史認識になるので注意すべきでござろう。その博物館建造に先立ち発掘調査が行われ、かわらけを始めとする
生活遺物が出土した。少なくともこの敷地において中世、何らかの人為的行為がなされていたのは確かなようだ。
また、博物館前の広場つまりU郭〜T郭を分かつ部分には土塁が残存する。これが千葉城の遺構として唯一、
明確に視認できるものでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

土塁・郭群
城域内は市指定史跡







下総国 御茶屋御殿

御茶屋御殿 虎口付近の土塁と堀跡

 所在地:千葉県千葉市若葉区御殿町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★★■■
■■■■



徳川将軍家の鷹狩御殿■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸時代初期、徳川家康〜家光期に使われた御成御殿跡。元来、「御茶屋」というのは将軍(や御一門)が
外遊する際に用いられる休息所を意味し、「御殿」になるとそれが宿泊機能を有する居館という事になる為
「御茶屋御殿」という名称は果たしてどちらとして使われたのかが不明瞭であり、解釈に難儀する。そもそも
「御茶屋御殿」と呼ばれる城館跡は全国的に散在しており、本来的には「〇〇御殿(〇〇には地名が入る)」と
言うものでござろうが、これについても「千葉御茶屋御殿」と便宜的に呼ばれる事が多いこの御茶屋御殿に関し
研究者の中でも「当時は『千葉』と呼ばれるべき場所ではない(現在「千葉市」地域であると言うだけの話)」ので
「中田御茶屋御殿(中田というのが当時のこの場所の地名)」と称すべきとする説がある。この御殿とは別に
「千葉御殿」と言われる御殿跡も千葉市中央区に推定されるので(上記、千葉城の項で紹介した「御殿跡」)、
確かにその指摘は的を得ているようにも思える。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
色々と見解が定まらぬ御茶屋御殿(ここではこれで統一する)でござるが、その遺構は見事なもの。一辺113m
四方の正方形をした敷地で、およそ1万1400uの面積を有す。ぐるりと四周を土塁で囲み、現状で高さは2.2m程、
基底部は幅6.5mもあり、かなり分厚い感じを受ける。往時はもっと綺麗に整地され、高さもあった事だろう。■■
この土塁の外側には隙間なく空堀が掘られている。堀の深さ2.4m、堀幅は5.4m。薬研堀の断面を持ち、これまた
当時はもっと深く急峻なものだった筈で、土塁と堀の組み合わせは単郭城郭として十分な規模を誇る。入口は
南北2箇所(写真)、それぞれ枡形虎口になっていたと推定されている。ただし、虎口を構成する土塁は取り
払われている。これは1931年(昭和6年)から行われた御殿跡地の開墾に伴うもので、土塁の開口部も農耕
車両の出入りを容易にする為、元々の規模よりも広げられたという。尤も、御茶屋施設の遺構がほぼ完全な
状態で残るのは稀有で、一説には土塁が四周すべて完存するのは全国でここだけとも言われる為、千葉市は
史跡保護を図る為に跡地全域を公有地化している。よって現在、耕作地だった内部平面は復されて単純な
広場に戻されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

来歴はハッキリせず…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
御茶屋御殿の歴史を紐解くと、江戸に幕府が開かれた慶長期(1596年〜1615年)の開設と見られるが、この
御殿について特段の記録を残す文献はない。徳川家康は関東諸地域で鷹狩りを行い、民情視察や軍事訓練を
積極的に行ったと言われる伝承が多い中、特に東金(千葉県東金市)を御鷹場として利用する事が多かった為、
その際に使用する宿館として作られたと考えられている。船橋(千葉県船橋市)〜東金を結ぶ東金御成街道は
現在の千葉県道66号線にあたる(全区間が一致する訳ではない)が、御茶屋御殿はこの街道に近接している上
丁度その道程における中間地点となっているので創建に関する推測に矛盾はないのだが、周辺の諸施設と
連動させて考察してもこの御茶屋御殿がいつ作られたのか諸説紛々。■■■■■■■■■■■■■■■■■
そもそも東金御成街道は1613年(慶長18年)土井利勝(家康の腹心、後に大老職となる)が東金鷹狩に合わせて
近在農村に構築を命じたものであるが、これが「1日で作った」「3日3晩で仕上げた」と各地で伝承が異なる上に
全長37kmに達する街道をそんな短期間で作れる筈がないと疑問視する向きもあり、全く確定的な話が出ない。
どうやら翌1614年(慶長19年)1月8日に行われた家康の鷹狩外征時には、出発地・船橋の宿館や目的地である
東金の御成御殿と併せて完成していたようだが、ではこの御茶屋御殿がその時に成立していたのかは不明。
よって、御茶屋御殿の構築年は1613年・1614年の両説がある上、他にも2回目の東金鷹狩が行われた1615年
(元和元年)11月の事とするなど研究家の意見が分かれており申す。それにしても、駿府城(静岡県静岡市)で
家康が没するのは1616年(元和2年)4月17日なので、亡くなる半年前まで関東で鷹狩を行っていた事になる。
実に驚異的な体力を維持していた様子に恐れ入るが、家康死しても御茶屋御殿は2代将軍・秀忠や3代将軍
家光も使い続けており、即座に廃絶した訳ではない。史料に残る東金方面での鷹狩は家康2回、秀忠9回、家光
1回となっている為、その間は御茶屋御殿も存続していただろう。東金で行われた記録に残る最後の鷹狩は秀忠が
1630年(寛永7年)に行ったもの。1632年(寛永9年)1月24日に秀忠が没し、街道や御殿整備を行っていた大老
土井利勝も1633年(寛永10年)4月7日に下総国佐倉(千葉県佐倉市)から古河(茨城県古河市)へと移封された為
以後、東金御成街道を使った将軍家の鷹狩は行われなくなった。1671年(寛文11年)4月、東金の御成御殿は
廃絶したとされ、東金御成街道の役割は完全に終わったが、この御茶屋御殿がいつ廃止されたのかは不明だ。
少なくとも東金御成御殿が廃された1671年には無くなっていたと考えられよう。■■■■■■■■■■■■■

史書に残る御殿の記録■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
結局、創始も廃絶もハッキリしない御茶屋御殿であるが、廃館の後しばしば史書にその存在が記載されている。
「下総国千葉郡仲田村差出帳(鳥海和家文書)」1698年(元禄11年)5月の項に「御殿惣構六拾軒四方」と
御茶屋御殿の規模を記し、「下総国千葉郡中田村差出帳(逸見登家文書)」1763年(宝暦13年)8月の記述に
「うつし野原ニ付 上様先年御成之節御茶屋御殿と申伝候古跡御座候」と、御茶屋御殿の旧跡を示している。
昭和の開墾後、1936年(昭和11年)に地元の史家・小出古城こと小出晃清が編纂した「古蹟」という書物には
「予の知人小野某の説に嘗て御殿址に入りて礎石を見しが間口六軒奥行三間位に配置されてありたりと曰へり」
「筆者は生家の甥小出用助に頼み秋本氏より其の礎石一個を譲り受け昭和七年四月二十三日我邸内に搬入す
 石は伊豆産の丸石にて重量四貫百五十匁あり」と、開墾まで御茶屋御殿跡地に建物礎石が残っていた事や
「表門は金親村の金光院に裏門は上泉村宝泉寺に下げ与へられ両寺院は何れも之を境内に移築し山門として
 現存せり」と移築門について書き記している。ただ、どうやら移築門に関する記載は逆のようで、表門が宝泉寺
裏門が金光院に残存する(両方とも四脚門形式の門)との事。御殿の創建に関する伝承も「口碑に徳川家康公、
 上総東金に狩遊せんとするに当り、慶長十八年、佐倉城主土井大炊頭利勝、千葉郡中田村と金親村の間なる
 宇津志野に御殿を新築して家康公の御休息所に充つ。翌十九年正月、家康公、初度の巡遊ありて、此處に
 御休憩ありて御茶を召されたりと。此巡遊を東金御成と云ふ。其後、再度、巡遊あり。(中略)因に慶長十九年、
 家康公の御休息あられし御茶屋御殿遺跡は、六十門四面の堤壕、表裏両門の跡、今尚、劃然として
 城址の如し。今、此の附近の地名を御殿原と呼べり。」と記載されており、口伝によって御茶屋御殿の創建や
意味合い、地名の由来が現地に継承され続けていた様子を紹介している。■■■■■■■■■■■■■■■

発掘調査の結果と現状■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
御茶屋御殿跡の現地調査は過去3回行われた。第1次調査では敷地の測量に留まり発掘はされなかったが、
第2次調査で発掘調査が為されている(1974年(昭和49年)の事)。そして1990年(平成2年)10月からの
第3次調査では、主殿と思われる建物の基壇跡が2箇所、掘立柱の列も2箇所、土坑や井戸跡も検出されて、
敷地内に多数の建築物があった事を示唆する。その一方で、遺物はごく少数の陶磁器・瓦・釘・かんざし・
煙管の雁首部分などが出たのみで、むしろ縄文時代の土器や石器などの方が多く出土したという。生活
遺物が少ないというのは、やはり将軍が御成する機会は限定的であったので、そうした品物を一時的に
用いただけだったという事の裏返しであろうか?何はともあれ、こうした遺構によって敷地内の建物配置が
推測され、中央広間の西南に主殿(将軍宿館)と広間建物が雁行(斜めにずらして連結させる)で並び、
東面全体から南東隅に繋がって家臣居所となる長屋群、広間の北側に台所が配され、南西隅部に御厩と
御鷹部屋、空いている北西部には庭園があったのではないかと考えられてござる。また、掘立柱の存在から
随所に曲輪内を間仕切りする柵か塀が並んでいたと思われている。東面長屋は実に72mもの長さがあった。
2箇所の虎口は枡形であり、それぞれの脇には番所を設置。櫓こそ無いものの、将軍の警護に念を入れた
単郭城郭と呼んでも良いくらいの設備が整えられていたようだ。時代はまだ幕府草創期、坂東の原野には
夜盗の類も多く潜んでおり、未だ安寧の時代とは言えない頃なので将軍外遊にはこれくらいの施設が
必要だったのだろう。貴重な御殿跡は2004年(平成16年)千葉市指定の史跡になっている。■■■■■■■
場所は千葉都市モノレール千城台(ちしろだい)駅から東南東に2.5km。千葉県道53号線が直近を走り
その名も「御殿入口」という交差点から南東側の道に進めばすぐ目の前であるが、あまりに長閑な景色が
広がり、御殿跡の入口は気付き難いかも?正しい位置さえ分かれば、御殿南側の空地に駐車できる。■■■



現存する遺構

井戸跡・土塁・郭群
城域内は市指定史跡

移築された遺構として
宝泉寺山門(伝御茶屋御殿表門)
金光院山門(伝御茶屋御殿裏門)







上総国 土気城

土気城 城址碑と土塁法面

 所在地:千葉県千葉市緑区土気町城ノ内

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★☆■■
■■■■



山の複雑な起伏を徹底活用■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
JR外房線の線路がトンネルを潜る地点、千葉市緑区の東端にあるのが土気(とけ)城址。城のすぐ裏側は大網白里市の
市域に入る。この辺りは旧国制で上総国と下総国が入り組む地域だが、土気城の所在地は旧山辺(やまべ)郡に含まれ
上総国の領域でござる。城地は西側(千葉市街地側)にはほぼ平坦な地形だが、東側(大網白里市側)は急崖となっていて
断崖に面した平山城と評される。北東側に突き出した最奥部が主郭とされ、その手前に二ノ郭、更にその前衛に三ノ郭が
並ぶ連郭式の縄張。三ノ郭の入口には馬出が置かれ、戦闘正面に多重防御を施している。一方、二ノ郭の西側には堀が
穿たれているものの、陸続きの平面である為に側面防御陣地となる井戸沢曲輪が置かれ、廻り込もうとする敵を防ぐ上
名前からも分かるように、井戸(用水)のある二ノ郭脇の谷戸を確保する構造。各曲輪は概ね直線や直角屈曲を多用した
形状となっており、後記するように後北条氏による改変を多分に受けている様子が垣間見えよう。他方、主郭と二ノ郭の
隙間から東側へと抜け出る搦手口が開き、ここからはクラン坂と呼ばれる細道が崖下へと延びる。この道は城の外縁部を
縫って走っており、途中で何箇所も切通しを開削して作られた構造になっていて、この点では房総一帯で特有の特徴に
(切通しで通路を貫通させる)一致する為、元々は後北条氏以前から作られていた城郭である事も物語る。なお、外房線
線路は二ノ郭の断崖の中腹をブチ抜いてトンネルが開口し、クラン坂に沿うように走ってござる。■■■■■■■■■■

古代城柵に始まり、戦国終焉と共に終わる■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の歴史を遡ると、奈良時代の神亀年間(724年〜729年)に大野東人(おおののあずまびと)が東征へ赴いた際、東国の
軍事拠点として築いた貴船城を起源とする伝承がある。東人は朝廷から蝦夷(えみし、東北地方の朝廷未服従民)討伐を
命じられ、派遣軍の副将軍格として従軍した人物。現在、三ノ郭の入口にある土塁上に貴船神社の小さな祠が勧進され
そこに貴船城の由来を示した石碑が置かれている事が貴船城伝説を表わすものだが、なにぶん古代の伝承である為に
信憑性は乏しい。尤も、台地平面上に広い敷地を有し、その裏側が断崖となる城地は古代城柵を設置するのに適した
地形である上、往時は崖下が沼沢地となっていて舟運活用できた立地は、何かしらの官衙を置いた可能性を真っ向から
否定するものではないだろう。この貴船城は貴船砦あるいは唐城、金城とも称される。■■■■■■■■■■■■■■
鎌倉時代になると、千葉氏の一族・相馬次郎左衛門尉胤綱(たねつな)の次子・土気太郎が土気荘の地頭に任じられ
この地に居住した。その系譜は室町幕府成立後まで続くが、室町後期になると近隣にある大関城(千葉県東金市)主の
畠山重康が進出し治めるようになる。ところがその重康も1487年(長享元年)中野城(千葉県千葉市若葉区)主の酒井
定隆に国を追われた。翌1488年(長享2年)定隆が土気城を再興したとされ、これが現在に残る城の起源と考えられる。
酒井定隆なる人物の存在には諸説あるものの、ともあれ以後の土気城は土気(上総)酒井氏の持ち城となり申した。
なお、彼は熱心な日蓮宗信者として知られ、土気城の近くにあった真言宗の寺・極楽法寺を日蓮宗に改めさせ宝珠山
善生寺とし、領内七里四方の住民を全て日蓮宗に改宗させたと言う。この事は上総七里法華と呼ばれる。■■■■■■
1521年(大永元年)定隆は家督を嫡男の定治に譲り、3男・隆敏を伴って東金田間城(千葉県東金市)へ移り隠居した。
このため土気城は定治の系統が、東金城は隆敏の系統が代を繋いでいく。土気城主酒井氏は初代・定隆―2代・定治の後
3代・玄治―4代・胤治―5代・康治と約100年に渡って維持されていくが、国人である酒井氏は時に千葉氏、時に古河公方
足利氏、或いは南総の里見氏などを主家と仰いで渡り歩く。最終的には関東の覇者・小田原後北条氏に服属し、1576年
(天正4年)頃から後北条氏の他国衆に編入されたが、それ以前には後北条軍によって土気城は度々攻め込まれていた。
酒井康治が後北条方に転じるや、里見家に対する最前線として重要視された土気城は改修を施され、現在の形に整え
られたと考えられる。屈曲する空堀や馬出の構築、大兵力の駐屯地となり得る広大な三ノ郭の敷地構造などは明らかに
後北条氏の戦略に基づいて改造されたものでござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

城址の現状■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1590年、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると酒井康治は小田原城へと参陣、豊臣軍と対峙した。結果、城主不在の
土気城は豊臣方部将・浅野長政らによって接収される。斯くして後北条氏の滅亡と共に土気城も廃され、上総酒井氏は
流浪の身となったが、後に徳川家康の旗本として取り立てられている。その後の城址は大部分が耕作地へと変わり、
開拓の邪魔になる土塁などが部分的に切り崩されたが、堀などは概ねそのまま残されている。太平洋戦争後、1970年
(昭和45年)には二ノ郭の北西隅部、通称で善勝寺曲輪と呼ばれる部分に日本航空の研修センターが建てられ、その
部分は遺構が湮滅。この研修センターは平成になって閉鎖され、現在では「土氣城趾ひまわりの郷」と言う老人福祉
施設に転用され申した。高齢者住宅の敷地は勝手に入る訳にいかないが、きちんと許可を得れば見学させて貰える。
二ノ郭の裏側から主郭の土塁を見ると、その分厚さや高さに圧巻!ここは是非とも土気城で押さえておきたい場所だ。
これだけ広大で技巧的な城が、史跡指定もされずに放置されているのは勿体ない話で、遺構整備も何もされてない為
荒れ放題になってしまっているのは実に惜しい。否、それどころかクラン坂の辺りは不法投棄が目につく酷さ。今や
城郭遺構は貴重な史跡財産と考える時代になったので、現状を改めて丁寧な保全を期待したい。■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群




佐倉城周辺諸城郭  久留里城・佐貫城