戦国期関東をややこしくした「おゆみ」の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
単に小弓城と言うのが正当か。別表記で生実城とも。江戸時代は生実陣屋として存立。城の名にある「小弓」も、
所在地の地名にある「生実」も共に「おゆみ」と読むが、この“おゆみ”城に関しての歴史を語ると少々長くなる。
さし当たって紐解けば、現在の千葉市一帯を支配した古豪・千葉氏が、南に面した上総国方面への備えとして
重臣の原氏をこの地域に配し、築城した経緯から始まると言うべきか。こうして築かれた城が小弓城、時代は
鎌倉時代と見られるが正確な年代は不明でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国期になると、下剋上の風潮から原氏は主家にあたる千葉氏を討って周辺を掌握するが、同時に南の上総
安房方面から真里谷(まりやつ)武田氏や里見氏が北進、原氏と衝突するようになる。ここで関連してくるのが
古河公方(こがくぼう)家の内訌。室町時代に東国支配の長として設置された鎌倉公方の職は、初代の基氏
(もとうじ)から始まる足利分家の世襲とされ続けたが、この鎌倉公方家は宗家にあたる足利将軍家と仲が悪く
事あるごとに反抗していた。その結果、1455年(康正元年)に時の鎌倉公方・足利成氏(しげうじ)は下総国
古河(現在の茨城県古河市)に遁走、古河公方を宣するようになる。これが古河公方の起こりだが、成氏の孫
高基(たかもと)の代になると、彼は弟の足利義明(よしあき)と対立、古河公方家内部での紛争までもが勃発
したのだ。独立を企む義明は古河を離れ、これに目を付けた真里谷武田氏の武田信勝が1517年(永正14年)
義明を自領に迎え入れ「名門・足利家の縁者を庇護する」という大義名分を翳して勢力拡大を狙った。その結果
真里谷武田・足利義明連合軍が庁南(ちょうなん)武田氏(真里谷武田氏の同族)や安房里見氏の軍を糾合し
6000もの兵力で原氏の小弓城を攻撃する。翌1518年(永正15年)城は落城、城主・原胤隆(たねたか)は討死し
足利義明が新たな城主となったのでござる。名族たる足利氏が領有した事で、小弓御所と尊称されるようになり
義明は下総国において大きな勢力を得るようになった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
2次に及ぶ国府台合戦の末に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところがこれを契機として次第に野心を膨らませた義明は後援者だった真里谷武田氏を疎むようになり、その上
武田氏の中でも家督騒動が発生し、複雑な対立関係を生じる事になった。結果、義明・武田信隆(信勝の孫)の
関係は冷却化。関東の覇者を目論む義明は近隣諸勢力とも盛んに抗争するようになり、小弓城周辺では幾度と
なく合戦が行われた。小弓の地は東関東における騒乱の中心となったのでござる。■■■■■■■■■■■■
この頃、相模国・武蔵国(現在の神奈川県・東京都周辺)を制圧した小田原の北条氏綱は、東関東への進出も
視野に入れて外交活動を展開していたが、義明の圧迫に抗しきれなくなった真里谷武田信隆は北条氏に救援を
依頼、北条氏綱・武田信隆連合と小弓御所義明の軍勢が交戦に及ぶ事態へ発展した。この戦いは関東全域の
諸勢力を巻き込む事になり、小弓御所を嫌う古河公方家の足利晴氏(高基の子)や小弓城奪還を悲願とする
原式部大夫胤清(たねきよ、胤隆の子)は北条氏に加勢、対する義明方には後北条氏と対立関係になった里見
義堯(よしたか)が味方し、下総国の国府台(こうのだい、千葉県市川市国府台)で激闘が繰り広げられた。時に
1538年(天文7年)10月7日の事である。戦いの結果、何と総大将の義明が戦死し、退却する里見軍は追撃を振り
切るために小弓城を焼き払った。氏綱・信隆・晴氏・胤清の大勝に終わった合戦後、小弓は旧主の家柄である
原胤清の領土に復した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
胤清は従来の小弓城から北に1kmほど離れた低台地に城を復興。この新たに築かれた小弓城を以前の小弓城と
区別し、北小弓城と呼ぶのである。当然、旧小弓城は南小弓城と呼ばれ申す。国府台合戦の経緯により、原氏は
小田原北条氏と臣従関係となり勢力を維持した。ところが1561年(永禄4年)長尾景虎(上杉謙信の旧名)が関東
諸勢力を従えて小田原討伐に赴くと、景虎に呼応した里見氏が下総の後北条領に侵攻し、小弓城も攻撃された。
これで原氏はまたもや小弓城を追われる事になった。されど景虎の関東進駐は長く続かず、再び後北条氏は関東
地方の覇者として領土を拡大、1564年(永禄7年)1月に因縁の国府台で北条軍と里見軍は2度目の対決に及んだ。
第2次国府台合戦でも後北条氏が勝利を掴み、里見氏は下総から撤退。原氏は3度小弓城主に復帰した。しかし
この復活劇も長くは持たず、1571年(元亀2年)里見軍が再攻略した事により小弓城は陥落、城主である原胤栄
(たねひで、胤清の孫)は臼井城(千葉県佐倉市)に退却した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、1590年(天正18年)小田原北条氏は豊臣秀吉に討伐され滅亡。この頃、胤栄は小弓城を里見方から奪還し
北条方として守りを固めていたようだが、豊臣軍の地方鎮撫部隊となる酒井左衛門尉家次(いえつぐ、徳川家臣)
勢に攻められ敗走したらしい。斯くして秀吉による天下統一が完成され、関東には徳川家康が封じられる。■■■
小弓城には家康配下の西郷弾正左衛門家員(さいごういえかず)が5000石を以って入城。更には江戸幕府が開設
された後、1623年(元和9年)に酒井山城守重澄(しげずみ)が2万5000石で入封、1627年(寛永4年)からは森川
出羽守重俊(しげとし)が1万石の大名として生実藩主を任じられたのでござった。■■■■■■■■■■■■■■
小弓城から生実陣屋へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
重俊は小弓城を改変して生実陣屋に改め、以後、森川氏が12代243年に渡って当地を支配し、廃藩置県を迎えた。
歴代の森川氏を列挙すると、2代・伊賀守重政(しげまさ)―3代・出羽守重信―4代・紀伊守俊胤(としたね)―5代・
内膳正俊常(としつね)―6代・兵部少輔俊令(としのり)―7代・紀伊守俊孝(としたか)―8代・兵部少輔俊知(としとも)
―9代・弾正忠俊民(としたみ)―10代・出羽守俊位(としひら)―11代・出羽守俊徳(としのり)―12代・内膳正
俊方(としかた)。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
旧来の小弓城は四周600mの規模に及んでいた。北西から南東に向けて本丸(実城)と二ノ丸を並べて、本丸の
真南には地ノ内と呼ばれる曲輪が置かれていた。この地ノ内は事実上の馬出である。これら主郭群の南側には
城下町が広がっていた。その町並みを貫通して東西に街道が走り、城下町の西側出口を木戸で封じ、木戸の
外には生実池という大きな池が天然の濠を成している。他方、東側出口が大手として構えられ、そこには空堀を穿ち
小弓城全周を封じる総構の如き役割を果たしていたと考えられる。大手口は現在の千葉県道66号線と同67号線の
合流地点から更に東へ200mほど行った所。大手口〜木戸までが都合600mだ。■■■■■■■■■■■■■■■
しかし生実陣屋へと変貌した際、太平の時代に合わせてかなり規模を縮小。陣屋は、かつての城域から見れば
ごく一角を用いたのみで、旧二ノ丸の東側にある外郭部を利用しただけ。残り大半の城地はそのまま放置されて
いたようだ。ところが昭和40年代の宅地開発で城域一帯は急激に造成が行われ、現在ではほとんど遺構が残存
しない。小弓城本丸(実城)は写真の通り完全な児童公園と化し、その周囲は住宅密集地。旧陣屋の名残としては
土塁と空堀の断片が生実神社境内近辺に垣間見えるのみだ。ただ、この残存空堀(陣屋写真)はかなりの規模を
有し必見でござろう。県道の造成に先立ち周辺の発掘調査が行われ、旧城時代の堀は深さ6m近くもある薬研堀の
断面を持ち、それが時代の変遷につれて埋め潰されていった様子が確認された。江戸時代の陣屋造成時に堀の
最底部は毛抜堀に改められ、それに伴い土を埋め固めたようである。また、堀底に作られていた井戸から暗渠状の
水路を流した痕跡も認められ、水路の蓋に利用された板碑が出土。この石碑には「享禄四年」つまり1531年の銘が
彫られていた事から、小弓城の使用年代を推測する有力な手がかりとなったのでござる。この他、陶磁器や生活
用品の出土、戦国期における焼土層や江戸時代の富士山火山灰の堆積など、城郭の歴史や時代背景を雄弁に
物語る発見がこの発掘調査で出現したと言える。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
陣屋の歴史を物語るもう一つの史跡が、生実神社の西300mの位置に建立されている曹洞宗の寺・森川山重俊院
(ちょうしゅんいん)だろう。この寺は名の通り初代生実藩主・森川重俊に由来するもので、森川家代々の菩提寺で
あった。寺の本堂は1974年(昭和49年)に焼失してしまい、その後に再建されたものだが、山門は江戸時代以来の
ものと言われており、寺が生実藩と共に歩んだ歴史の深さを今に伝えており申す。ちなみに重俊は江戸幕府2代
将軍・徳川秀忠の臨終に際し殉死第一号となった人物として知られている。■■■■■■■■■■■■■■■
…なお個人的な話だが、拙者の伯父が重俊院墓地に葬られている(城とは無関係)■■■■■■■■■■■■
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