下総国 佐倉城

佐倉城本丸跡

 所在地:千葉県佐倉市城内町 ほか

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
★★■■■



譜代大名が城主を歴任した城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
佐倉は印旛沼の傍にある町で、古くから水運の中心地であった。その戦略的な価値は中世から認められて、
この地を治めていた坂東武士の名族・千葉氏は、天文年間(1532年〜1555年)に鹿島城として築城を計画。
本佐倉(もとさくら)城(下記)に居を構えていた時の千葉氏当主(千葉氏26代)千葉親胤(ちかたね)は、
大叔父の鹿島幹胤(みきたね)に命じて着工したが、完成前に親胤が家臣に暗殺された為に工事中断。
(ちなみに、これが縁で城の台地を鹿島台と呼ぶようになる)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この後、千葉氏29代・邦胤(くにたね)の頃にも工事が行われたのだが、1585年(天正13年)同じく家臣に
殺害されたので、完成には至らなかった。結局、未完の鹿島城は1590年(天正18年)豊臣秀吉による関東
征伐の折、徳川軍によって攻められて落城してしまう。これにより千葉氏は滅亡し、下総国を含む関東地方の
大半は徳川家康の領土とされた。佐倉領には家康の直臣・内藤金一郎家長が入ったが、1592年(文禄元年)に
転封され4万石で家康の5男・松平(武田)信吉(のぶよし)が入る。関ヶ原合戦後の1602年(慶長7年)12月
信吉は常陸国水戸(茨城県水戸市)へ移封、代わって家康6男の松平左近衛権少将忠輝が5万石を以て
入封したが僅か1ヶ月後の翌1603年(慶長8年)1月、信濃国川中島(長野県長野市)12万5000石へ移された。
江戸時代に入り、1606年(慶長11年)小笠原伊予守吉次(よしつぐ)が2万2000石で佐倉を領すも、1608年
(慶長13年)常陸国笠間3万石へ移封され、領主はめまぐるしく交代していた。しかし1610年(慶長15年)に
幕府重臣の土井大炊頭利勝が佐倉に入封、翌1611年(慶長16年)から改めて鹿島台に築城工事を開始、
1617年(元和3年)にようやく完成をみた。旧来の本佐倉城は一国一城令により1616年(元和2年)廃城と
されたため新たに完成したこの城が佐倉城と命名され、以後は江戸の東を守る格式高い城と認知されて
譜代大名が城主を歴任する。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

佐倉城の構造■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
石垣はなく、すべて土塁で構成された城跡でござるが、この土塁の上にいくつもの櫓・門が置かれており
江戸東側の防衛拠点として堅牢な城郭が構成されていた。城は鹿島台台地の上にあり、台地淵の崖は
高低差が大きく、崖下は湿田となっていた天然の要害である。城域西端部に本丸を置き、そこを要として
北〜東〜南方向に扇状の展開を見せる梯郭式の縄張り。本丸裏手は約20m近い高さの断崖になっていて
下を流れる鹿島川が天然の濠を成していた。この濠には2箇所の出丸も構えられている所謂「出隅」構造、
実戦時には横矢を掛ける銃座のような状況だ。また、濠の内側斜面には帯曲輪も用意されてござる。■■
濠の反対側には、本丸を囲うように二ノ丸、さらにそれを囲う形で三ノ丸が配置されている。二ノ丸には
北側に米蔵と不明(あかず)門、中ほどに対面所(御殿)、東側に腰掛長屋と称する殿舎と二ノ門があった。
米倉と不明門、腰掛長屋と二ノ門でそれぞれ半開放の内枡形を構成している。二ノ門は東を正面とする
木造本瓦葺2階建の櫓門で、梁間3間×桁行8間。2階の櫓部分内部は武器庫として用いられていた。■■
三ノ丸は内部が空堀により細分化され、小姓長屋や侍番所などを設置。南と東に巨大な角馬出が構えられ
外郭から城内主要部に至る道を厳重に警戒していたのも特徴的だ。特に東側の角馬出は、内側出入口に
椎木門を設置し防備。椎木門は二ノ門同様に木造本瓦葺2階建の櫓門。北側を向き、梁間3間×桁行7間の
大きさであった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて肝心の本丸はと言えば、140m×120m程の敷地の四周は塀を建てた高土塁で囲まれ、曲輪中心には
本丸御殿が建てられていた。本丸御殿は中央に南北棟の広間があって、その北に玄関と鑓の間が連結。
対する南側は中庭を挟んで料理の間が東へと伸び、台所へ接続する。中庭の西には書院があり、金の間
書院を経て銅櫓(下記)に続いた。これら御殿群はすべて柿葺きでござる。■■■■■■■■■■■■■
本丸最奥部にあたる西端には外観3重・内部5階(うち1階は床下階)8間×7間という規模の天守(三重櫓)。
3重櫓としてはかなり大きな部類に入り、傾斜した土塁内部にあるため城外側と城内側でかなり様相が
異なっている。初重の立ちが異様に高く、この部分で内部階の調整を行っていた状況が伺えよう。外壁は
白漆喰だが初重の下部3分の2程は下見板張。内部は武器庫として使用されていた。■■■■■■■■■
また、本丸北西端部には6間四方の正方形敷地を有する銅櫓が建つ。その名の通り銅瓦葺きの2重櫓で、
小天守としての役割も持っていた。江戸城(東京都千代田区)の、静勝軒(せいしょうけん)と呼ばれる太田
道灌時代の高楼建築を移築したものだと言う伝承があり、格式の高さを示す証拠として2階外周に高欄が
あった。江戸城から移した際、もともと3重であったものが2重になったとか。■■■■■■■■■■■■■
本丸東隅には角櫓。こちらは千葉氏の根古屋城から移築との説があり7間×6間、白漆喰塗り込めの瓦葺
2重櫓。角櫓の両脇に、本丸一ノ門(北側)と台所門(南側)が虎口を開く。一ノ門は真壁(しんかべ)造りの
大型櫓門。8間×4間の瓦葺入母屋造りで、左脇に潜戸が付され、左右に各2間の番所がある。台所門は
それよりやや小ぶりだが、いずれの門に対しても角櫓が横矢を利かせるようになっている絶妙の間合いだ。
この他、三ノ丸にある姥ヶ池は城内の水源であると共に、名前の通り老女が入水したという伝説が残る事が
有名なので佐倉城の名所の一つである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

歴代の佐倉城主■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
これだけの規模の城を整えた利勝は、家康・秀忠・家光の徳川3代に仕え江戸幕府草創期の屋台骨を支えた
重鎮とされており、佐倉城の構築に力が入っていた事も肯ける。入府当初は3万2000石とされていた石高も
加増を重ねて14万2000石にまで栄達している。その利勝は1633年(寛永10年)下総国古河(茨城県古河市)へ
移った為、今度は石川主殿頭忠総(ただふさ)が豊後国日田(大分県日田市)より7万石で佐倉城主に。■■
しかし長くは続かず、翌1634年(寛永11年)に近江国膳所(ぜぜ、滋賀県大津市)へ移され、佐倉には1635年
(寛永12年)摂津国高槻(大阪府高槻市)から4万石で松平(形原(かたのはら)松平)家信が入った。家信が
1638年(寛永15年)1月14日に没した後はその2男である若狭守康信が遺領を継承。1640年(寛永17年)形原
松平家は高槻へ戻され、1642年(寛永19年)信濃国松本(長野県松本市)から堀田加賀守正盛が11万石で
佐倉へ入っている。この正盛、1651年(慶安4年)に3代将軍・徳川家光が薨じるとそれに殉死し、後を継いだ
上野介正信は1660年(万治3年)幕政に不満を抱いたとして江戸から無断帰国した為、改易処分となっている。
そのため1661年(寛文元年)新たな佐倉城主として松平(大給(おぎゅう)松平)宮内少輔乗久が5万5000石で
上野国館林(群馬県館林市)から入府するも、1678年(延宝6年)肥前国唐津(佐賀県唐津市)へ。唐津から
入替わりで大久保加賀守忠朝が8万3000石を有し佐倉に来るが、老中に昇格した事を機に1686年(貞享3年)
相模国小田原(神奈川県小田原市)へと移封。まだまだ城主は代わり続け、今度は戸田越前守忠昌が武蔵国
岩槻(埼玉県さいたま市岩槻区)から6万1000石(後に加増され7万1000石)で入るも、次の能登守忠真の代
1701年(元禄14年)越後国高田(新潟県上越市)へ移される。この年、高田から稲葉内匠頭正往(まさずみ)が
10万2000石で入り、後を継いだ丹後守正知(まさとも)は1723年(享保8年)山城国淀へ。これまた淀から交代で
佐倉へ入ったのが松平左近衛将監乗邑(のりさと)、6万石。乗邑は乗久の孫であり、8代将軍・徳川吉宗の
右腕として享保の改革を手助けした人物として知られる。次代・和泉守乗祐(のりすけ)は1746年(延享3年)
出羽国山形(山形県山形市)へ。代わって山形から10万石を以って堀田相模守正亮(まさすけ)が佐倉に入府。
以後、明治まで堀田家が佐倉城主を継承していく。正亮は老中首座に就いた為1万石を加増され、11万石に。
しかしこの所領は飛び地が多く、特に旧領・山形近辺には4万石もの領地があった。この為、堀田家は山形にも
陣屋を置いている。ともあれ、1761年(宝暦11年)2月8日に正亮が死去した事でその遺領は6男の相模守正順
(まさなり)が相続。彼の治世下、1792年(寛政4年)佐倉学問所・温故堂が設立され、更には総合大学として
盛徳書院(せいとくしょいん)も創立されると蘭学医・佐藤泰然(たいぜん)が招聘され、城下に病院と学校が
開かれた。これが後の順天堂大学である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1805年(文化2年)正順が没すると、弟の正時(まさとき)が養嗣子となり家督を相続。官職は同じく相模守。
その正時も1811年(文化8年)に死去したので、甥の相模守正愛(まさちか)が受け継いだ。正愛の時代、
佐倉城は天守を焼失してしまう。これは天守内の武具を狙って盗賊が押し入り、火を放ったものだという。
譜代大名の城に賊が入るなど信じ難い話であるが…1813年(文化10年)の事だ。■■■■■■■■■■■
既に天守は飾りでしかなくなっていた時代の事、以後は再建されなかった。■■■■■■■■■■■■■■

幕末維新の荒波が襲う■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1825年(文政8年)3月、正愛が病死し養子の備中守正睦(まさよし、正時2男)が家督を相続。ペリー来航後の
混乱期、老中首座に就任し条約締結をめぐって幕府と朝廷の間を奔走した人物として有名でござる。国の
行く末を左右する重大な局面に携わった者が佐倉の城を有していた訳で、有能な人材を出自に関わり無く
取り立てんとする先見の明も持つ非凡の人だったが残念ながら政争に破れ、井伊掃部頭直弼が大老となるや
失脚。隠居を余儀なくされ1859年(安政6年)相模守正倫(まさとも、正睦の4男)が家督相続となる。彼もまた
幕府滅亡の荒波に呑まれたが、明治維新後に佐倉知藩事に就任している。■■■■■■■■■■■■■
しかし、廃城令によって1871年(明治4年)頃から城内の建築物は順次破却。江戸湾防備の責務を負っていた
佐倉藩は財政難で、城の補修がされず建物が老朽化していた事も一因であった。廃藩置県により佐倉城は
陸軍に接収され存城の扱いとなるも1873年(明治6年)1月に第一軍管区東京鎮台佐倉分管(第2歩兵連隊)が
城地に置かれ、軍施設建築のため旧来の城郭建築物はさらに解体の運命を辿るのでござった。その後、通称
“佐倉連隊”と呼ばれた営所は改変を重ね、歩兵第57連隊・近衛第5連隊などが駐屯している。■■■■■■
太平洋戦争後、陸軍施設は全て撤去され、城址は公園に変貌。部分的に陸軍設営時の改変を受けていたが
現在も土塁や堀跡が実によく残っており、曲輪構成などが見てとれる。このため1962年(昭和37年)3月28日
佐倉市の史跡に指定。1980年(昭和55年)には本丸の発掘調査が行われる一方、1981年(昭和56年)には
三ノ丸椎木曲輪跡(近衛第5連隊跡地)に国立歴史民俗博物館が建てられ申した。また、博物館のすぐ隣は
角馬出が構えられていた場所で(陸軍設営により埋められていた)こちらも1971年(昭和46年)から2度に渡る
発掘調査が行われ、長辺121m×短辺40mの「コ」の字型、深さ5.6mの規模であった事が確定。遺構保護の為
深さを3mにした状態で綺麗に復元されている。この他にも城内の至る所で見事な空堀や土塁が保全され、
これが佐倉城址最大の見所になっている。大都市近郊の土の城というと、往々にして潰されてしまうのが
明治近代化以降の流れだが、こうした状態が評価され2006年(平成18年)4月6日、財団法人日本城郭協会は
日本百名城の一つに選定している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城址の一角には三逕亭(さんけいてい)と呼ばれる茶室が建てられている。これは重要文化財である京都
大徳寺孤蓬庵の茶席を模したもので、東京の乃木神社にあったものを当地に移築した。日曜・祝日にはここで
茶会が開かれている。一方、外郭部を利用して運動公園も設置。佐倉城址は今でも文武の気風を色濃く映し
出しているのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
場所は京成電鉄京成佐倉駅の南側。城下には武家屋敷が今でも残っているので、ちょっとした歴史散策を
楽しんでみては如何であろうか。なお、本丸直下の出丸には城内にあったと伝わる門が移築保存されているが
この門の来歴は不明との事で、具体的にどのような物だったかは分からない。■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡

移築された遺構として
出丸設置門(城門建築)








下総国 臼井城

臼井城跡 T郭切岸

 所在地:千葉県佐倉市臼井田・臼井

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
★☆■■■



下総の古族・臼井家の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
印旛沼南岸に面した崖城。今では干拓によって湖畔がかなり遠方になったが、往時はこの城の直下にまで
水が入り込み、後ろ堅固かつ水運の要衝だった。平安時代中期の1114年(永久2年)この地に入った臼井
六郎常康が館を構えた事が始まりとされるものの、現在に残る臼井城址の状態は戦国期の城郭形態であり
平安期の館と同一視するのに疑問を唱える見方もある。ともあれ、彼が臼井の地に入った事で臼井氏を称し
後裔が代々に渡りここを治めていった事は事実である。そもそも常康なる人物は桓武平氏一門・下総権介
平常兼の子で、印旛郡臼井郷を開拓するため赴任してきた者。地名から改姓し臼井氏を名乗った事により
ここに下総の古族・臼井家が成立したのでござる。常総に勢力を築いた武士団は数多く、中には鎌倉幕府や
室町幕府の統制により地方へ赴任し戦国大名にまで血縁を残した者もいるが、そうした武士団のうちでも
臼井氏はかなり古い家柄でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
臼井氏は臼井郷周辺に支城網を展開して勢力を広げ、それらの城に一族や重臣を入れて地盤を固めていく。
平安末期、上総・下総周辺の武士団は上総広常の指揮下に在った。源頼朝が平氏政権打倒の挙兵をすると
広常は房総2万の兵を従えて頼朝の下に参じ、その武士団の中に時の臼井氏頭領・臼井常忠の姿もあった。
ところが後に広常は謀反の嫌疑を掛けられ頼朝に粛清される。房総方面は千葉介常胤の指揮下に置かれ
臼井氏もこれに臣従する事となった。鎌倉幕府の史書「吾妻鏡」によれば1191年(建久2年)の正月、常胤が
年始椀飯の儀を行った折に臼井常忠らが年賀の馬を曳いたと記され、臼井氏が千葉氏の配下にあった事が
見受けられる。以後、臼井氏と千葉氏の縁は、時に味方として、あるいは敵として複雑に絡みついていく。
鎌倉時代末期、臼井氏11代・興胤(おきたね)は父の祐胤(すけたね)が25歳の若さで死去したために僅か
3歳で家督を継いだ。名目上、叔父の胤氏(たねうじ)が後見となっていたが、その実、胤氏は臼井家総領の
権勢を欲し興胤の殺害を狙った。かろうじて落ち延びた興胤は鎌倉の建長寺で成長するも、臼井郷の支配は
胤氏に乗っ取られてしまう。この件に関し、(既に元寇で支配力を失った)幕府は正当な裁定を行わなかった。
丁度その折、新田義貞や足利尊氏が倒幕の挙兵を行い興胤はこれに参加。活躍目覚しい興胤は足利尊氏の
覚え目出度く、1338年(延元3年・暦応元年)征夷大将軍となった尊氏から臼井郷の本領安堵と、従五位下・
左近将監叙任を与えられたのでござる。これに従い、千葉貞胤が胤氏を服属させ興胤は約20年ぶりに旧城を
回復した。その後も胤氏は興胤に反抗的態度を取り続けた為、1340年(興国元年・暦応3年)には抹殺される。
斯くして下総の名族・臼井家総領の立場を確固たるものにした興胤は“臼井家中興の祖”と崇められ臼井城の
大改修にも着手したという。恐らくこれが現在に残る臼井城の原型を形作るものとなったのだろう。■■■■

戦国乱世に振り回される臼井氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、15世紀になると臼井城はいよいよ戦火に直面する事になる。北に古河公方、南に小弓(おゆみ)公方、
それに関東管領上杉氏の意向が絡みこの頃の関東地方は混乱を極めていき、臼井氏・千葉氏や千葉氏の
家宰・原氏らは翻弄されるのだ。まず1454年(享徳3年)末、かねてから反幕府の態度を表していた古河公方
(足利将軍家の関東分流)足利成氏(しげうじ)は、幕府との融和を図ろうとした関東管領・上杉右京亮憲忠を
暗殺(関東管領は古河公方家の補佐役として東国を統括する役職)。年明け以後、それが元で古河公方家と
関東管領の間に戦が勃発した。時の臼井家当主・臼井教胤(のりたね)や原氏の原胤房らは古河公方に従い、
一方で千葉胤直(たねなお)は上杉方(つまり幕府側)に加担。教胤は1455年(康正元年)守りを固めるべく
臼井城の改修を行ったが、結局この戦いは千葉胤直が敗死する事で決着を見た。この「享徳の乱」よりも後、
千葉氏は衰退の一途を辿り家内の実権は原氏が握るようになっていく。■■■■■■■■■■■■■■■
続いて1478年(文明10年)、相模・武蔵(現在の神奈川県・東京都・埼玉県一帯)を治める扇谷(おうぎがやつ)
上杉定正は下総方面に軍を発し、家老の江戸城主・太田道灌や赤塚城(東京都板橋区)主である千葉自胤
(よりたね、胤直の甥)を向かわせた。対するのは臼井俊胤(教胤の子)・原景弘・円城寺図書之助・千葉孝胤
(胤直敗死により新たに立てられた千葉宗家の主)らの軍勢だ。12月10日に境根原(千葉県柏市酒井根)で
両軍は激突するも、軍略に優れた太田道灌の采配が冴え原景弘が討死、下総連合軍は臼井城に逃げ込んだ。
籠城戦は年を越え、1479年(文明11年)1月に太田道灌がその弟である持資(もちすけ)・資忠(すけただ)らと
攻撃を行ったものの落城しなかった。戦略上、他城との連携を崩す必要を感じた道灌は千葉自胤に周辺諸城の
攻略を行わせ、千葉孝胤の勢力を削いだ。満を持した7月15日、太田資忠率いる軍勢が臼井城を攻撃。この
戦いで城は落ち孝胤らは寺崎城へと逃亡したのだが、しかし資忠は戦死してしまった。故に、臼井城址近くには
太田図書助(資忠の事)墓がある。落城後、千葉自胤は城代を置いて武蔵国へと帰陣。結局、勢力を盛り返した
孝胤が城を奪還し、最終的には再び臼井氏の城となり申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
次なる争乱は小弓公方と古河公方の対立。古河公方家から分流した足利義明は小弓、現在の千葉県千葉市
中央区生実町(おゆみちょう)に居を構え独立、自らの武名を頼りに宗家たる古河公方と対立し始める。元来、
小弓の地は原氏の所領だったが城を義明に乗っ取られた為、必然的に原氏と千葉氏は古河公方に味方した。
(この頃すでに千葉氏は実力なく、家宰である原氏に追従するのみであった)■■■■■■■■■■■■■
しかし臼井城の臼井景胤(かげたね、俊胤の嫡男)は義明の剛勇を重く見、時流に乗って小弓公方方に就く。
先の戦いでは連合した臼井氏と原氏は、此度敵味方に分かれたのである。この辺が戦国関東の複雑怪奇な
所だ。ところがその義明は、1538年(天文7年)10月の第一次国府台合戦で戦死。争乱の芽だった小弓公方が
亡くなった事で、臼井氏と原氏の関係も融和に傾く。(ますます以って複雑怪奇な話であるが…)■■■■■
戦国乱世の処世術に長けた景胤は44年の長きに渡って臼井城を守り続け、原胤貞(たねさだ)の娘を娶って
嫡男・久胤(ひさたね)を儲けた。しかしこの後、両氏の関係は破綻する。景胤が没した為に家督を相続した
久胤は、その時まだ14歳であった。遺言として父・景胤は、後見人に胤貞を頼めと命じていたので臼井城には
胤貞がやって来たのである。胤貞は政治感覚に優れ善政を敷いたが、それは結果として久胤が家臣領民に
疎まれる事態を呼んだのだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

上杉謙信を撃退!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そんな折の1561年(永禄4年)、房総南部から進出してきた安房里見氏の先鋒・正木大膳時茂の軍が臼井城に
攻めかかる。胤貞の手により、幽閉状態だった久胤はこれを好機として城を脱出、結城城(茨城県結城市)の
結城晴朝を頼って落ち延びた。一方、胤貞も多勢に無勢で正木軍に敵わず、城を捨てて逃亡する。斯くして、
臼井城は里見方の手に落ちた。しかし1564年(永禄7年)勢いを盛り返した胤貞は臼井城を奪還する。■■■
この時より、臼井城は原氏の城となったのである。里見氏と対立した事で必然的に原氏は小田原の後北条氏を
頼る事になった。当時、後北条氏と里見氏は不倶戴天の敵として関東の覇権を争っていたのである。ところが
これは臼井城に新たな敵を呼び込む事になった。後北条氏が戦っていたもう一つの敵、越後の上杉謙信だ。
1566年(永禄9年)3月、上杉・里見連合軍1万5000が城を包囲。城内には胤貞の他、千葉胤富(たねとみ)や
後北条氏からの援軍が籠城していたが、その数は僅か2000。上杉軍の猛攻で同月20日には「実城堀一重」と
記録が残されるまでに追い込まれる。対する謙信は書状に「落居程有るべからず候」と記し、すぐに落城させる
見通しを立てていた。ちなみにこの時、結城氏の重臣に取り立てられていた臼井久胤も上杉方に加わり、城の
攻撃に参加している。しかし、胤貞の側近には名軍師として知られた白井入道浄三胤治なる人物が采配を
振るっており、城方は最後の最後まで抵抗を継続。その結果、26日〜27日にかけて城兵が猛反撃に転じ、
上杉軍を突き崩す。後北条氏から派遣された松田孫太郎康郷の援軍も少数ながら上杉方の後方撹乱に動き、
最終的には5000を越すという大損害を与えた。嘘か真か、この時に白井胤治率いる城方は自ら城の土塁を
決壊させ、迫る攻城兵を土砂崩れに巻き込んだとか…。真偽は兎も角、大損害に驚いた謙信は止むを得ず
臼井城の包囲を解いて撤退するしかなかったと言う。こうして、胤貞は見事に臼井城を守り抜いたのだった。
負け知らずと言われる上杉謙信の顔に泥を塗ったのがこの臼井城だったのだ。■■■■■■■■■■■■
1570年(元亀元年)(1571年(元亀2年)/1574年(天正2年)説もあり)原氏の本拠であった小弓城が里見軍の
手に落ちた為、いよいよ以って臼井城が原氏の本城として使用される事になる。その一方、臼井久胤は遂に
臼井城を取り返す事が出来なかった。結局、この城に激変が起きたのは1590年の話。■■■■■■■■■
豊臣秀吉が小田原後北条氏を倒しその結果、臼井城も原氏から取り上げられたのでござる。新たな城主と
なったのは関東を領した徳川家康の配下武将・酒井左衛門尉家次で、石高は3万石。さりとて、臼井城の
華々しい戦歴もここまでで、1593年(文禄2年)失火により城内の建造物が悉く焼失。加えて1604年(慶長9年)
家次が上野国高崎(群馬県高崎市)へ移封されると臼井城は廃城とされ、長き歴史に終止符を打ち申した。

丘陵を活用した縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城は印旛沼を後背地とした丘陵頂点をT郭とし、そこから一段下がった広場をU郭、更に西へV郭が連結する
する連郭式の縄張り。T郭からは非常に良く眺望が開け、その周囲は屹立した切岸になっている(写真)。■■
印旛沼の波が打ち寄せる湖畔だった事もあり、こちらから軍勢が侵入する事は不可能であろう。発掘調査の
結果、この曲輪跡からは15世紀の中国製陶磁器の破片や城が焼亡した際の焼け米などが検出されている。
T郭の現状はほとんど自然の山野、部分的に耕作地化されてしまったのがやや残念なところだが、搦手へと
通じる道の脇には近世改修時(酒井家次の手によるものか?)の遺構と思しき石垣が残る。この道の先は
一般民家になっているので見学時には配意すべきだが、見落としたくない場所だと言えよう。一方、U郭は
城址公園として解放され巨大な広場となっている。この空間が全て当時と同じ曲輪の空間だとしたら、兵員の
収容能力は計り知れない大きさだ。U郭の周囲は空堀が掘削され、T郭との接合部分が土橋になっている。
この空堀と土橋は現状でも良く保存され、遺構保護のため盛土や舗装されている点があるのを差し引いても
臼井城址公園における一番見事な遺構だと言えよう。土橋は傾斜しつつ屈曲もされており、侵攻しようとする
敵兵の速度は否応無く制限される構造。更にT郭から横矢がかかるよう工夫されているのも注目点だ。■■
城跡は1994年(平成6年)2月16日、市の史跡に指定されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお余談だが、城を追われた臼井久胤は後に水谷(みずのや)氏の配下となった。水谷氏は結城氏の盟友。
その後に代を重ねると、臼井氏は水谷氏の下を離れて江戸に上り、浪人生活を経た後に徳川将軍の側用人で
ある間部(まなべ)家の家老に300石で抜擢される。元禄時代(1688年〜1704年)、久胤の玄孫が城跡に登り
「城嶺夕照」と題される句を読み祖先の旧跡を懐かしんだという。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「いく夕べ 入日を峯に 送るらむ むかしの遠く なれる古跡」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡








下総国 師戸城

師戸城跡 土塁と空堀址

 所在地:千葉県印西市師戸
(旧 千葉県印旛郡印旛村師戸)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
★★■■■



臼井城の対岸に位置する城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
正確な築城年代は不明だが、14世紀(鎌倉時代末期?)に臼井城(上記)の支城として築かれたと言われる。■■
成立当初、臼井四天王の一人と数えられる師戸(もろと)四郎なる人物が居城していたとも。これについては、
江戸時代初期に記された「臼井家由来抜書」という書物に記載があり申す。■■■■■■■■■■■■■■■
臼井城が印旛沼南岸に位置していたのに対し、師戸城は北岸に所在。2つの城の間はおよそ1.5km。沼を挟んだ
対岸であり、両城は互いに監視できる距離。築城当初より、渡舟を使って緊密に往来があったという。■■■■
これだけ近く、しかも連携の取れた城郭であるが故、歴史的には臼井城と同じ運命を辿っている。室町期から
戦国期にかけて何度か改修が行われ(現在の形になったのは16世紀中頃と推定されている)臼井氏から原氏の
手に渡った事、上杉謙信の猛攻を凌いだ事、そして豊臣秀吉の関東征伐で落城した事、全て然りである。■■■
廃城時期のみが異なり、臼井城が1604年まで用いられたのに対し、師戸城は1590年の時点で廃されている。
縄張りもまた臼井城と同様(現在は湖畔が後退しているものの)印旛沼の水利を利用した平山城。沼に突き出す
丘陵の最奥部を、並立する本丸と二ノ丸が占めていて、その前面を広大な三ノ丸が防御。さらに三ノ丸の前には
道場台と呼ばれる曲輪が置かれ、梯郭式の構造を成していた。各曲輪の間は巨大な空堀と土塁で仕切られて、
その高さや幅は本城である臼井城を凌ぐと思えるほどに圧巻の規模である。印旛沼公園となっている現状では
多少の改変があったり公園遊具の設置、三ノ丸の一部が野球場になっている点などが残念ではあるものの、
総じて見れば非常に良い状態で遺構が残されていると言えるだろう。写真は“敢えて”風化した状態の遺構を
掲載してみたが、それでも土塁の膨らみや空堀の痕跡がお分かりになるかと。況や、復元整備された部分ならば
見事なまでの存在感に驚かされるのは必定。兎にも角にも、あの分厚い土塁や深い空堀を実際に見て堪能して
頂きたい城でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群








下総国 謙信一夜城

謙信一夜城跡 一夜城公園

 所在地:千葉県佐倉市王子台

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

■■■■
■■■■



“上杉謙信の”一夜城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上記、臼井城の項で上杉謙信が来攻した事を述べたが、その際に謙信が本陣を構えた陣城と伝わる地。
当然、その創建は1566年の事になるのだが(1564年とする説などもあり)詳細な史料がある訳ではない。
何より、上杉軍は自らの惨敗を文書に残しておらず(攻城中の威勢が良い時だけ手紙に記した)、籠城に
打ち勝った臼井城側の記録だけに頼らざるを得ないので「片手落ち」の評価しかできないのでござる。
加えて、謙信には京都の足利将軍から上洛を督促する書状が届いたとされ、それを理由として陣払いを
したという事になっているので、実際の戦況がどのようなものだったかも良く分からない…と言いつつも
「上洛の督促状」というのは(本当に届いたのかもしれないが)“都合よく敗戦を誤魔化す建前”なのでは?
だとすればやはり大敗北があったと考えるのが自然なのだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■
一夜城、という名で連想されるのは豊臣秀吉。墨俣城(岐阜県大垣市)や石垣山城(神奈川県小田原市)で
「一夜にして城を築いた(ように見せた)」という演出で敵軍の度肝を抜いたという伝説が有名ではあるが、
方や、この謙信一夜城というのは、上杉謙信が一夜にして築いたとか、一夜だけ使ったというような話は
聞こえてこない。規模からすれば一夜で築く事は可能なのかもしれないが、要するに「短期間だけ使った」
陣城という事なのでござろう。結局、上杉軍の惨敗?将軍からの上洛命令??によって撤収してしまい、
そのまま打ち捨てられた城砦であった。江戸時代になると、佐倉藩の鉄砲調練場として使用された事も
あったと伝わるが、それによって一夜城遺構である土塁が切り崩されてしまったとの話である。■■■■
場所は京成臼井駅の真南、300mほどの位置。臼井城には1.3kmという地点で、陣城を構えるには絶妙の
間合いと言えよう。現在、この辺りは駅直近の住宅地として一戸建てが並んでおり、かつての遺構は全く
残っていないが、この住宅地が開発される際の1973年(昭和48年)緊急の発掘調査が行われたと言う。
それによれば敷地は東西70m×南北100mほどの方形、外周を土塁が囲んでおり周囲より一段高い地形を
成していたようだが、この規模では上杉軍の全軍が収容できる筈もないので、まさしく「謙信本陣だけ」が
入った場所という事であろうか。しかも佐倉藩の鉄砲調練場とされた時に南半分は土塁が撤去されたので
北西隅の一部しか残っていない状態であった。その残存土塁も整地されて、今では「一夜城公園」という
児童公園(写真)に名前を残すのみとなってしまっている。付け加えて申せば、この公園用地は陣城跡地の
規模とは一致しない為、敷地を部分的に(もしかしたら名前だけ?)用いただけのものという事になろう。
ただ、宅地開発を行った佐倉市臼井駅南土地区画整理組合が謙信一夜城(というか謙信の関東出征)に
関する来歴を記した巨大な石碑を公園の一角に立てているので、一応はここが歴史ある場所だと言う事を
記憶してくれている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、付近(およそ200m西)にはもう1つ「忍(しのぶ)公園」という規模も雰囲気も良く似た公園があるので
非常に間違えやすく注意が必要だ。一夜城公園は佐倉市王子台3丁目13なのに対し、忍公園は3丁目21と
いう住居表示なので、それを確認して来訪して頂きたい。勿論、住宅街の中なので近隣住宅の迷惑に
ならぬように。駐車場もないので悪しからず。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
地名から採って「王子台城」との別名も。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■







下総国 本佐倉城

本佐倉城址 虎口を見下ろす盾列

 所在地:千葉県

印旛郡酒々井町本佐倉
佐倉市大佐倉
駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★★★
★★☆■■



千葉氏内訌によって誕生■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「もとさくら(「ほんさくら」ではない)」城と読む。佐倉城(上記)が築かれる前、「元々の佐倉」と言うべきこの地域の
中心となっていた城郭。それならば「元佐倉」という字を充てるべきとも思うのだが(笑)■■■■■■■■■■■
将門山城・根古屋城などの別名もある。この「将門山」というのは、平安中期に関東で大反乱を起こした平将門に
あやかって名付けられた地との伝承に拠る。また、根古屋城というのは城の周囲に配下武士団の居住長屋群を
配置した、所謂「根小屋形式」の城だった事に由来している。将門とこの地の関連は伝説に過ぎぬものだろうが、
根小屋が構築されたと言うのは城の来歴を詳らかにする中で登場してくる話だ。■■■■■■■■■■■■■
ここに城を築いたのは下総の名族・千葉氏であるとされている。千葉氏の出自については臼井城(上記)・千葉城
(千葉県千葉市中央区)の頁をご覧頂くとして、平安後期から代々受け継がれた家督を巡り15世紀中頃、一族で
内訌が発生。発端は1455年以来の「享徳の乱」において千葉宗家・胤直が関東管領へ味方した事だが、それに
反対した千葉氏分流・馬加陸奥守康胤(まくわりやすたね)は原胤房らと共に古河公方へ与し、結果的に胤直は
敗死。それに乗じた康胤が宗家の家督を乗っ取り、千葉氏19代を称したのである。この後、康胤も幕府追討軍に
倒されたが、胤直の子・自胤(よりたね)の系統は武蔵に逃れ本拠地・千葉城を回復する力はなく、康胤の子孫が
下総国を統治していく事になる。この時、荒廃し廃された千葉城を捨て新たな本拠として築いた城が本佐倉城だ。
享禄の乱から歳月を経た文明年間(1469年〜1486年)、恐らくは1484年(文明16年)千葉輔胤の手に拠る築城と
見られている。康胤の庶子である輔胤は、父が敗死するまで所領である岩橋村に閑居していたので岩橋輔胤を
名乗っていた。父や兄・胤持(たねもち、千葉氏20代を継ぐ)が没したため千葉姓に復し家督を相続、勢力基盤を
回復するべく新城を築いた訳だが、この岩橋村というのが印旛郡内、酒々井(しすい)の地である。岩橋村に近い
本佐倉(当時は「本(元)」ではない筈なので単に佐倉か)村に築城好地を確保し、城を構えたのだろう。■■■■
戦国大名が本拠を移すには多大な危険を伴う訳だが、争乱の火種未だ消えず、しかも荒廃しきった千葉城へ入る
よりも、自身が居を構えて情勢を熟知していた酒々井領内で新しい城を築いた方が確実だと言う判断があったと
推測できる。“千葉氏”としては累代の居城を捨てた形になる訳だが、武蔵千葉氏(自胤の子孫)と袂を分かって
新たな家となる“下総千葉氏”を築いた輔胤にとっては、旧来の本拠地こそが“頼るべき場所”だったのだ。■■■
1471年(文明3年)古河公方の足利成氏が本拠地の古河を落ち延びた折は、下総千葉氏を頼ってこの本佐倉城へ
逃げ込んでいる。(成氏は翌1472年(文明4年)古河へ帰還)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
もっとも、この築城工事は簡単に終わるものではなかったようだ。武蔵千葉氏と下総千葉氏の“再戦”とも呼べる
1478年の境根原合戦にて、下総連合軍が頼ったのが本佐倉城ではなく臼井城であったのは、本佐倉城がまだ
未完、あるいは防御に足るだけの規模を備えていなかったからだと考えられている。下総千葉氏は数々の試練を
潜り抜けていく中で本佐倉城を開発していき、城地となる丘陵地を大規模に造成。城の主要域はこのようにして
下総千葉氏が構築したものと考えられ、地形を活用した曲輪取りで防御構造を成している。■■■■■■■■

千葉氏の弱体化と、後北条氏影響力の浸透■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
斯くして下総千葉氏は輔胤以降、孝胤(のりたね)―勝胤(かつたね)―昌胤―利胤―親胤―胤富(たねとみ)―
良胤(よしたね)―邦胤―直重(なおしげ)と、本佐倉城を拠点に9代を継いでいるが、戦国時代の関東と言えば
小田原後北条氏の進出と密接な関係が。千葉氏は周辺豪族との係争において、小田原の後北条氏に庇護を
求めた。南から攻め来る里見氏や、東の脅威となる佐竹氏は、いずれも後北条氏との敵対関係にあったため、
必然的にそれと対抗する千葉氏は後北条氏に与して援助を求めた訳だ。例えば1502年(文亀2年)から1504年
(永正元年)にかけ、古河公方・足利政氏(成氏の子)は千葉氏を攻め立てて、本佐倉城にも攻勢をかけている。
更に千葉氏累代の本拠だった千葉城周辺も原氏や小弓公方の手に落ち、下総千葉氏は勢力圏を縮小させつつ
あった。故に、強大な軍事力を有する後北条氏に接近するのは当然の結果と言えた。■■■■■■■■■■■
ところがこれは諸刃の剣で、千葉氏は次第に独立勢力の地位を失い後北条氏の配下国衆として組み込まれた
(後北条氏の外様衆「作倉(佐倉)衆」として編成された)のみならず、次第に家督継承においても介入を受ける
ようになる。それに反発したと言う親胤は後北条氏に通じる者に暗殺されたと伝わり、邦胤が没した折にも、嫡子
重胤(しげたね)が居たにも関わらず、時の後北条氏当主・左京大夫氏政の弟(子とする説もある)である直重を
養子に当てがわれ家督を継がされた。これにより下総の名族・千葉氏は事実上、後北条氏に乗っ取られた訳だ。
それは本佐倉城の構築にも大きな影響を与えていった。千葉氏が主城域を造成した本佐倉城であるが、南総や
常陸方面への中継拠点として後北条氏が拠点城郭化するに及び、外郭部や出城となる部分を追加で造成した。
本佐倉城は、この周辺地域では比類なき巨大城郭へと進化していき、このように増設された曲輪群においては
後北条氏の築城術と見られる遺構が随所に見受けられる。当然、この城に詰める家臣の屋敷群も集中建設され、
これが根小屋式城郭としての形状を整え、冒頭に記した根古屋城の別名の由来になったのでござる。■■■■
また、主城域においても修築の履歴があるそうで、1573年(元亀4年)火災により城内建物が焼失した上、1585年
(天正13年)には大風で破損が発生しそれぞれ復興が命じられた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国史における転換点は1590年。千葉氏が従属する後北条氏は、天下統一を目指す豊臣秀吉に攻め込まれた。
後北条方の諸城は豊臣軍に各個撃破されていき、本佐倉城も同年5月に落城したと言われている。千葉直重は
後北条氏の本拠である小田原城へ出征していたが、本佐倉城の喪失ならびに後北条氏の滅亡に伴い行く当てを
失くし、高野山へ閉塞した。これで重胤が千葉氏の家督に復したが、後北条氏の同族と見做されていた千葉氏は
秀吉から打ち捨てられ所領は没収、重胤もまた流浪の生涯に終わる。■■■■■■■■■■■■■■■■■
結果として本佐倉城は関東に移封された徳川家康の所領に組み込まれ、佐倉城の項で示した通り武田信吉が
1592年に入封。しかし信吉は城下に陣屋を構えて統治の本拠とした為、本佐倉城は廃城同然の扱いとなって
いた。続いて松平忠輝〜小笠原吉次〜土井利勝が当地の領主に任じられているものの、この間、佐倉城はまだ
完成しておらず、本佐倉城が再使用されている。然るに、利勝が佐倉城を完成させた事で、改めて本佐倉城は
完全廃城という運命を辿った。統治機能は佐倉城へ移る一方、本佐倉の城下町は成田街道の宿場町整備として
酒々井宿に移転していき申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

湖沼と山を使った壮大な構え■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
京成本線大佐倉駅からほぼ真東800m程の位置にある丘陵が本佐倉城の主城域。現状ではその周囲がぐるりと
水田になっており、田圃の中に浮かぶ山となっているが、往時はこの水田全てが印旛沼に繋がった湿地帯であり
まさしく湖沼の中に浮かぶ水城だった。印旛沼は近代から遡って江戸時代まで盛んに干拓事業が行われ面積を
減少させているが、本佐倉城が現役で使われていた当時は遥かに巨大な湖沼であった。一方、現在の利根川は
江戸時代初頭に流路変更が行われ銚子へと流れ込むようになったものなので、戦国時代に印旛沼と繋がるのは
鬼怒川水系である。よって、下野国(現在の栃木県)から古河公方の居所である古河を経て印旛沼に達し、更に
常総を横断して銚子、そして太平洋に達する独自の鬼怒川水運経済圏が成立していた。印旛沼に洗われるここ
本佐倉城は、沼に取り囲まれて防御力を増すと同時に、こうした交易船舶を直接城内に船着けする事が出来る
理想的な立地にあった訳だ。また、銚子への水運ルートが分岐して霞ヶ浦へと転進、佐竹領国の常陸国奥深くに
通じる事も可能。本佐倉から常陸というと、陸上経路であればかなりの距離を数えるが、こうした舟運経路を使う
場合は十分、射程距離に入るのである。斯くして、本佐倉の千葉氏は北に古河公方、南に里見氏、そして東には
佐竹氏が敵対勢力として圏内に考えられるのだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そんな千葉氏が築いた主城域の丘陵は、南東隅の最高所(俗に「城山」と称せられる)を主郭とし、そこから山を
西へ下って「奥ノ山」と呼ばれるU郭、倉址と考えられるV郭へと続き、北へ転向した下段のW郭へと連なる。
W郭は「城の内」と言われ、北側を塞ぐ小尾根上には城内鎮守の諏訪社が。■■■■■■■■■■■■■■
W郭の北東(主郭の真北に位置する)に細長く伸びる小丘陵「東山」は物見台なども備えた出郭だ。■■■■■
東山と本郭の間に入り組んだ谷戸は馬場として用いられ、東山馬場と称す。東山は北の印旛沼から本佐倉城の
主城域を遠望した際にはちょうど目隠しとなるような様態を成しており、仮に船を使って敵軍が沼を渡って来ようと
しても、城内の守備状況は把握できない。また、城の内と東山の間が虎口となって出入りできるようになっていたが
ここは左右の諏訪社と東山出郭に挟まれている上に、侵入経路の先に控える城の内下段部分からの集中攻撃を
受ける位置にあり、城中でも最も威厳を見せつけている場所でござる。写真中央にあるのがその虎口で、左には
諏訪社跡、右に東山の塁壁が挟み込み、撮影位置の城の内下段から丸見えな様子がお分かり頂けよう。加えて、
この虎口の外側(城の内の北側傾斜面)には東光寺ビョウと呼ばれる前衛曲輪が広がる。東光寺ビョウは、東から
時計回りに東山出郭〜諏訪社の帯曲輪〜セッテイ山(下記)〜セッテイ山延長尾根〜物見という巨大な切岸列に
取り囲まれている。恐らく、平時には印旛沼水運による物流の荷揚げ地点として使用でき、戦時には沼側に対する
最外郭警戒拠点として兵を配備した場所でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

謎の固有名詞「セッテイ」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
V郭の西面全体は大掛かりな堀切で分断され、その西側に控える小山は「セッテイ山」と呼ばれる。このセッテイ
山は山頂一帯が広く削平され、大きな広場空間が仕上がっている。これも独立した曲輪として防御構造の一端を
成している訳だが、諸説ある中の一つによれば「セッテイ」というのは「接待」の訛った単語であると考える向きも
あって(確証はなく、元来「セッテイ」の意味は不明とされている)、つまりセッテイ曲輪とは賓客をもてなすための
「接待曲輪(山里曲輪のような用途)」だと見る事も。確かに、セッテイ曲輪は本郭〜東光寺ビョウから成る一連の
防御障壁群とは一線を画す位置にある上、下総の名族たる千葉氏が外交儀礼に用いる“迎賓館”として使用する
庭園敷地に用いるならば適切な規模とも考えられよう。されど、この説はあくまで推測に過ぎず、場所から考えて
V郭からU郭へ攻め上がろうとする敵を背中から追撃する“逆襲曲輪(伏兵郭)”として使う可能性もあり得よう。
セッテイ山の北には尾根が長く伸び、その先端も物見として使われた痕跡がある上、その直下にも小虎口が開き
先に記した虎口経路とは別ルートの(つまり搦手口としての)使い方も想定できるのである。■■■■■■■■■
他方、U郭「奥ノ山」の南側に目を転じると帯曲輪が造成されそこには妙見宮が勧進されていたとの事。千葉氏は
代々に渡り妙見信仰(北辰(北極星)を司る妙見菩薩を守護神とする)を奉じていた家柄だ。千葉氏の家督継承は
千葉城内に鎮座していた妙見宮にて行われていたが、千葉城を失うと本佐倉城内に遷座させて同様の儀式を行い
続けた。また、千葉親胤はこの妙見宮で暗殺されたと言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
改めて、こうした一連の主城域は北に印旛沼、それに繋がった湿地帯が東〜南に回り込んでいた。陸続きとなって
いたのはセッテイ山の西側のみであり、順当に考えればこちらが城の大手口、戦闘正面と言う事になろう。よって、
セッテイ山を回り込んで主郭群に達する道は迷路のように屈曲し、随所から射撃が加えられる厳重な防御構造が
取り入れられていた。だが逆に言えば、この“大手からの経路”は細かな罠を順番に仕掛ける「古形態の守り方」
でもある。その為、セッテイ山の西側に広大な曲輪を構築して更なる前衛陣地を押し広げる構えが増設された。
この曲輪が荒上と呼ばれる地域で、後北条氏の改修に拠るものと考えられている。それと言うのも、これだけの
広さを必要とした曲輪は大規模兵力の駐屯地点として用いる事を想定したもので、即ち後北条氏が常総方面への
進出拠点として本佐倉城の利用価値を高めた意図に合致するからだ。また、荒上の外縁部は極めて直線的な
区切り方で土塁と空堀を構築している上、南側へ開いた出入口のすぐ隣(西側)に横矢を掛ける出隅が作られて
いる。当然この出隅は真四角の屈曲を生じた形状であるが、これらは全て後北条流築城術に特有の構造。そして
荒上の更に南側にもう一つの曲輪を啓開、これが根小屋となる区域であり、これまた後北条流らしく直線を基調と
した外縁を構成している。根小屋〜荒上が纏まって1つの丘陵になっており、それが北端部で東へ折れ、主城域に
連結する。これで主郭へ至る陸上経路は、ほぼ完全な防備で塞げた訳だ。■■■■■■■■■■■■■■■■

隣の山まで取り込む広大な縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、主城域から湿地帯を挟んで南側にももう一つの丘陵が浮かんでいた。後北条氏はこの丘陵部も出城として
造成した。これが向根古屋と呼ばれる地域である。向根古屋は南端部だけが陸続きになる立地だが、この南端部を
封鎖する位置に角馬出を構築。角馬出もまた、後北条流お得意のものだ。周辺の沼沢地を避けて攻め込もうとする
敵軍は、まず根小屋の前衛を切り崩し荒上→セッテイ山と攻め進んでいかねばならないが、向根古屋がある事で
そこからの逆襲を憂慮せねばならなくなる。では先に向根古屋を攻略しようとしても、強力な角馬出は簡単に突破
できず、時間を費やしている間に今度は根小屋側からの挟み撃ちに遭う危険性が考えられる。根小屋と向根古屋の
同時攻略をするならばそれは兵力分散を招き、突破力を減衰させる事になってしまう。このように、後北条氏が
城域を適宜拡大した事で、本佐倉城は比類なき防衛拠点として機能する一方、広大な根小屋地域を確保して南の
里見氏や東の佐竹氏へと進軍する際の中継拠点にもなった。主城域〜根小屋〜向根古屋まで含めた城の広さは
東西およそ650m、南北は約850mにもなっているが、廃城以後こうした遺構は大半が手付かずのまま眠っており、
それを全て見学するとなると1日がかりとなりそうな規模であるものの、それでも時間が惜しくないと思える程に、
見事な痕跡が散りばめられているので必見の城址でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
(「根小屋」「向根古屋」の表記は案内パンフレットの記載に準拠)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1990年(平成2年)〜1993年(平成5年)にかけて発掘調査が行われ、各所の土塁・空堀等遺構に加え多数の建物
痕跡を検出、陶磁器などの生活遺物が出土。1998年(平成10年)9月11日、国指定史跡となった事で城内各所の
史跡整備が進められている。2017年(平成29年)4月6日には財団法人日本城郭協会が“続日本百名城”の1つに
選定してござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで ――― 本佐倉城内の各所(虎口や空堀など)には、その場所の機能を説明する案内板が設置されており、
そこには本佐倉城址のキャラクター「勝っタネ!くん」が描かれている。この「勝っタネ!くん」は鎧武者風の、実に
ユルいデザインのゆるキャラだが、名前の由来は…かつての城主・千葉勝胤だそうでw■■■■■■■■■■
ホントに良いんでしょうか、こんなんで??? (^ ^;■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡





館山城・館山陣屋  千葉市内諸城郭