譜代大名が城主を歴任した城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
佐倉は印旛沼の傍にある町で、古くから水運の中心地であった。その戦略的な価値は中世から認められて、
この地を治めていた坂東武士の名族・千葉氏は、天文年間(1532年〜1555年)に鹿島城として築城を計画。
本佐倉(もとさくら)城(下記)に居を構えていた時の千葉氏当主(千葉氏26代)千葉親胤(ちかたね)は、
大叔父の鹿島幹胤(みきたね)に命じて着工したが、完成前に親胤が家臣に暗殺された為に工事中断。
(ちなみに、これが縁で城の台地を鹿島台と呼ぶようになる)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この後、千葉氏29代・邦胤(くにたね)の頃にも工事が行われたのだが、1585年(天正13年)同じく家臣に
殺害されたので、完成には至らなかった。結局、未完の鹿島城は1590年(天正18年)豊臣秀吉による関東
征伐の折、徳川軍によって攻められて落城してしまう。これにより千葉氏は滅亡し、下総国を含む関東地方の
大半は徳川家康の領土とされた。佐倉領には家康の直臣・内藤金一郎家長が入ったが、1592年(文禄元年)に
転封され4万石で家康の5男・松平(武田)信吉(のぶよし)が入る。関ヶ原合戦後の1602年(慶長7年)12月
信吉は常陸国水戸(茨城県水戸市)へ移封、代わって家康6男の松平左近衛権少将忠輝が5万石を以て
入封したが僅か1ヶ月後の翌1603年(慶長8年)1月、信濃国川中島(長野県長野市)12万5000石へ移された。
江戸時代に入り、1606年(慶長11年)小笠原伊予守吉次(よしつぐ)が2万2000石で佐倉を領すも、1608年
(慶長13年)常陸国笠間3万石へ移封され、領主はめまぐるしく交代していた。しかし1610年(慶長15年)に
幕府重臣の土井大炊頭利勝が佐倉に入封、翌1611年(慶長16年)から改めて鹿島台に築城工事を開始、
1617年(元和3年)にようやく完成をみた。旧来の本佐倉城は一国一城令により1616年(元和2年)廃城と
されたため新たに完成したこの城が佐倉城と命名され、以後は江戸の東を守る格式高い城と認知されて
譜代大名が城主を歴任する。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
佐倉城の構造■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
石垣はなく、すべて土塁で構成された城跡でござるが、この土塁の上にいくつもの櫓・門が置かれており
江戸東側の防衛拠点として堅牢な城郭が構成されていた。城は鹿島台台地の上にあり、台地淵の崖は
高低差が大きく、崖下は湿田となっていた天然の要害である。城域西端部に本丸を置き、そこを要として
北〜東〜南方向に扇状の展開を見せる梯郭式の縄張り。本丸裏手は約20m近い高さの断崖になっていて
下を流れる鹿島川が天然の濠を成していた。この濠には2箇所の出丸も構えられている所謂「出隅」構造、
実戦時には横矢を掛ける銃座のような状況だ。また、濠の内側斜面には帯曲輪も用意されてござる。■■
濠の反対側には、本丸を囲うように二ノ丸、さらにそれを囲う形で三ノ丸が配置されている。二ノ丸には
北側に米蔵と不明(あかず)門、中ほどに対面所(御殿)、東側に腰掛長屋と称する殿舎と二ノ門があった。
米倉と不明門、腰掛長屋と二ノ門でそれぞれ半開放の内枡形を構成している。二ノ門は東を正面とする
木造本瓦葺2階建の櫓門で、梁間3間×桁行8間。2階の櫓部分内部は武器庫として用いられていた。■■
三ノ丸は内部が空堀により細分化され、小姓長屋や侍番所などを設置。南と東に巨大な角馬出が構えられ
外郭から城内主要部に至る道を厳重に警戒していたのも特徴的だ。特に東側の角馬出は、内側出入口に
椎木門を設置し防備。椎木門は二ノ門同様に木造本瓦葺2階建の櫓門。北側を向き、梁間3間×桁行7間の
大きさであった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて肝心の本丸はと言えば、140m×120m程の敷地の四周は塀を建てた高土塁で囲まれ、曲輪中心には
本丸御殿が建てられていた。本丸御殿は中央に南北棟の広間があって、その北に玄関と鑓の間が連結。
対する南側は中庭を挟んで料理の間が東へと伸び、台所へ接続する。中庭の西には書院があり、金の間
書院を経て銅櫓(下記)に続いた。これら御殿群はすべて柿葺きでござる。■■■■■■■■■■■■■
本丸最奥部にあたる西端には外観3重・内部5階(うち1階は床下階)8間×7間という規模の天守(三重櫓)。
3重櫓としてはかなり大きな部類に入り、傾斜した土塁内部にあるため城外側と城内側でかなり様相が
異なっている。初重の立ちが異様に高く、この部分で内部階の調整を行っていた状況が伺えよう。外壁は
白漆喰だが初重の下部3分の2程は下見板張。内部は武器庫として使用されていた。■■■■■■■■■
また、本丸北西端部には6間四方の正方形敷地を有する銅櫓が建つ。その名の通り銅瓦葺きの2重櫓で、
小天守としての役割も持っていた。江戸城(東京都千代田区)の、静勝軒(せいしょうけん)と呼ばれる太田
道灌時代の高楼建築を移築したものだと言う伝承があり、格式の高さを示す証拠として2階外周に高欄が
あった。江戸城から移した際、もともと3重であったものが2重になったとか。■■■■■■■■■■■■■
本丸東隅には角櫓。こちらは千葉氏の根古屋城から移築との説があり7間×6間、白漆喰塗り込めの瓦葺
2重櫓。角櫓の両脇に、本丸一ノ門(北側)と台所門(南側)が虎口を開く。一ノ門は真壁(しんかべ)造りの
大型櫓門。8間×4間の瓦葺入母屋造りで、左脇に潜戸が付され、左右に各2間の番所がある。台所門は
それよりやや小ぶりだが、いずれの門に対しても角櫓が横矢を利かせるようになっている絶妙の間合いだ。
この他、三ノ丸にある姥ヶ池は城内の水源であると共に、名前の通り老女が入水したという伝説が残る事が
有名なので佐倉城の名所の一つである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
歴代の佐倉城主■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
これだけの規模の城を整えた利勝は、家康・秀忠・家光の徳川3代に仕え江戸幕府草創期の屋台骨を支えた
重鎮とされており、佐倉城の構築に力が入っていた事も肯ける。入府当初は3万2000石とされていた石高も
加増を重ねて14万2000石にまで栄達している。その利勝は1633年(寛永10年)下総国古河(茨城県古河市)へ
移った為、今度は石川主殿頭忠総(ただふさ)が豊後国日田(大分県日田市)より7万石で佐倉城主に。■■
しかし長くは続かず、翌1634年(寛永11年)に近江国膳所(ぜぜ、滋賀県大津市)へ移され、佐倉には1635年
(寛永12年)摂津国高槻(大阪府高槻市)から4万石で松平(形原(かたのはら)松平)家信が入った。家信が
1638年(寛永15年)1月14日に没した後はその2男である若狭守康信が遺領を継承。1640年(寛永17年)形原
松平家は高槻へ戻され、1642年(寛永19年)信濃国松本(長野県松本市)から堀田加賀守正盛が11万石で
佐倉へ入っている。この正盛、1651年(慶安4年)に3代将軍・徳川家光が薨じるとそれに殉死し、後を継いだ
上野介正信は1660年(万治3年)幕政に不満を抱いたとして江戸から無断帰国した為、改易処分となっている。
そのため1661年(寛文元年)新たな佐倉城主として松平(大給(おぎゅう)松平)宮内少輔乗久が5万5000石で
上野国館林(群馬県館林市)から入府するも、1678年(延宝6年)肥前国唐津(佐賀県唐津市)へ。唐津から
入替わりで大久保加賀守忠朝が8万3000石を有し佐倉に来るが、老中に昇格した事を機に1686年(貞享3年)
相模国小田原(神奈川県小田原市)へと移封。まだまだ城主は代わり続け、今度は戸田越前守忠昌が武蔵国
岩槻(埼玉県さいたま市岩槻区)から6万1000石(後に加増され7万1000石)で入るも、次の能登守忠真の代
1701年(元禄14年)越後国高田(新潟県上越市)へ移される。この年、高田から稲葉内匠頭正往(まさずみ)が
10万2000石で入り、後を継いだ丹後守正知(まさとも)は1723年(享保8年)山城国淀へ。これまた淀から交代で
佐倉へ入ったのが松平左近衛将監乗邑(のりさと)、6万石。乗邑は乗久の孫であり、8代将軍・徳川吉宗の
右腕として享保の改革を手助けした人物として知られる。次代・和泉守乗祐(のりすけ)は1746年(延享3年)
出羽国山形(山形県山形市)へ。代わって山形から10万石を以って堀田相模守正亮(まさすけ)が佐倉に入府。
以後、明治まで堀田家が佐倉城主を継承していく。正亮は老中首座に就いた為1万石を加増され、11万石に。
しかしこの所領は飛び地が多く、特に旧領・山形近辺には4万石もの領地があった。この為、堀田家は山形にも
陣屋を置いている。ともあれ、1761年(宝暦11年)2月8日に正亮が死去した事でその遺領は6男の相模守正順
(まさなり)が相続。彼の治世下、1792年(寛政4年)佐倉学問所・温故堂が設立され、更には総合大学として
盛徳書院(せいとくしょいん)も創立されると蘭学医・佐藤泰然(たいぜん)が招聘され、城下に病院と学校が
開かれた。これが後の順天堂大学である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1805年(文化2年)正順が没すると、弟の正時(まさとき)が養嗣子となり家督を相続。官職は同じく相模守。
その正時も1811年(文化8年)に死去したので、甥の相模守正愛(まさちか)が受け継いだ。正愛の時代、
佐倉城は天守を焼失してしまう。これは天守内の武具を狙って盗賊が押し入り、火を放ったものだという。
譜代大名の城に賊が入るなど信じ難い話であるが…1813年(文化10年)の事だ。■■■■■■■■■■■
既に天守は飾りでしかなくなっていた時代の事、以後は再建されなかった。■■■■■■■■■■■■■■
幕末維新の荒波が襲う■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1825年(文政8年)3月、正愛が病死し養子の備中守正睦(まさよし、正時2男)が家督を相続。ペリー来航後の
混乱期、老中首座に就任し条約締結をめぐって幕府と朝廷の間を奔走した人物として有名でござる。国の
行く末を左右する重大な局面に携わった者が佐倉の城を有していた訳で、有能な人材を出自に関わり無く
取り立てんとする先見の明も持つ非凡の人だったが残念ながら政争に破れ、井伊掃部頭直弼が大老となるや
失脚。隠居を余儀なくされ1859年(安政6年)相模守正倫(まさとも、正睦の4男)が家督相続となる。彼もまた
幕府滅亡の荒波に呑まれたが、明治維新後に佐倉知藩事に就任している。■■■■■■■■■■■■■
しかし、廃城令によって1871年(明治4年)頃から城内の建築物は順次破却。江戸湾防備の責務を負っていた
佐倉藩は財政難で、城の補修がされず建物が老朽化していた事も一因であった。廃藩置県により佐倉城は
陸軍に接収され存城の扱いとなるも1873年(明治6年)1月に第一軍管区東京鎮台佐倉分管(第2歩兵連隊)が
城地に置かれ、軍施設建築のため旧来の城郭建築物はさらに解体の運命を辿るのでござった。その後、通称
“佐倉連隊”と呼ばれた営所は改変を重ね、歩兵第57連隊・近衛第5連隊などが駐屯している。■■■■■■
太平洋戦争後、陸軍施設は全て撤去され、城址は公園に変貌。部分的に陸軍設営時の改変を受けていたが
現在も土塁や堀跡が実によく残っており、曲輪構成などが見てとれる。このため1962年(昭和37年)3月28日
佐倉市の史跡に指定。1980年(昭和55年)には本丸の発掘調査が行われる一方、1981年(昭和56年)には
三ノ丸椎木曲輪跡(近衛第5連隊跡地)に国立歴史民俗博物館が建てられ申した。また、博物館のすぐ隣は
角馬出が構えられていた場所で(陸軍設営により埋められていた)こちらも1971年(昭和46年)から2度に渡る
発掘調査が行われ、長辺121m×短辺40mの「コ」の字型、深さ5.6mの規模であった事が確定。遺構保護の為
深さを3mにした状態で綺麗に復元されている。この他にも城内の至る所で見事な空堀や土塁が保全され、
これが佐倉城址最大の見所になっている。大都市近郊の土の城というと、往々にして潰されてしまうのが
明治近代化以降の流れだが、こうした状態が評価され2006年(平成18年)4月6日、財団法人日本城郭協会は
日本百名城の一つに選定している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城址の一角には三逕亭(さんけいてい)と呼ばれる茶室が建てられている。これは重要文化財である京都
大徳寺孤蓬庵の茶席を模したもので、東京の乃木神社にあったものを当地に移築した。日曜・祝日にはここで
茶会が開かれている。一方、外郭部を利用して運動公園も設置。佐倉城址は今でも文武の気風を色濃く映し
出しているのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
場所は京成電鉄京成佐倉駅の南側。城下には武家屋敷が今でも残っているので、ちょっとした歴史散策を
楽しんでみては如何であろうか。なお、本丸直下の出丸には城内にあったと伝わる門が移築保存されているが
この門の来歴は不明との事で、具体的にどのような物だったかは分からない。■■■■■■■■■■■■■
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