南総里見氏の本拠となった城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
南総の太守、里見家の居城。しかしこの城の歴史は戦国末期に始まり江戸時代初期に終わるという短命な
ものでござる。近隣の岡本城(千葉県南房総市富浦町豊岡)に居を構えていた里見氏8代当主・左馬頭義頼
(よしより)が、守りを固める為1578年(天正6年)家臣に命じて築城させたのが始まり。その当時は小規模な
支城という位置づけであったが、1580年(天正8年)一応の完成を見て城番を置いた。■■■■■■■■■
これが館山城の起源である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
里見家は安房国(千葉県南部)を本拠に戦国時代を通じて北進政策を採り続け、房総半島のほぼ全域を
手中に治めるまで成長していたが、その先には関東の雄として名を馳せた小田原後北条氏が立ち塞がり
血で血を洗う激戦を繰り返していた。だが天正年間(1573年〜1592年)になると強大な後北条氏の攻勢に
歯止めが掛けられず、また里見家中においても家督騒動などが頻発し防備を固める事に主眼が置かれる
ようになっていたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
義頼は1587年(天正15年)10月26日に没し(異説あり)、9代目の家督を長男の左馬頭義康(よしやす)が
継承した。館山城の拡張工事は以前から継続されており、これもまた義康によって引き継がれた。そして
1590年(天正18年)豊臣秀吉の関東征伐が行われる。秀吉は全国の諸大名に小田原へ参陣するよう命じ
後北条氏の制圧と同時に豊臣政権の全国支配を完成させる目論見であった。斯くして戦役後、命令に
従わなかったり遅参した勢力は悉く改易(領地没収)され、北関東や東北地方の名族大名らが滅亡の
憂き目を見ている。里見氏は小田原への到着が遅れた為、同様の処罰を受ける可能性があったものの
義頼時代から豊臣氏と誼を通じ、後北条氏に対する提携を結んでいたため改易は免れ、上総国および
下総国(合わせて現在の千葉県北部)における領土を減封される処分に留まった。没収された上総国や
下総国は旧後北条領と共に徳川家康の領地になっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうして中央政権から安房国4万石の領主と認められた里見義康は、ここ館山の地を新たな府城と定めて
先祖伝来の領地経営に専念した。これにより館山城は近世山城へと変貌を遂げている。城山の東にある
天王山と御霊山や、現在は消滅した大膳山なども城郭として取り込まれ、安房一国の太守として相応しい
大がかりな城に仕上げたようだ。なお、御霊山の東側には今も堀跡がはっきりと残されている。豊臣政権
体制に組み込まれた里見氏は秀吉の朝鮮出兵に従って兵を出し、また、太閤検地の導入が図られた。
これで石高は再計算され、1597年(慶長2年)9万1000石に改められている。■■■■■■■■■■■■■
秀吉の没後、義康は隣国の主にして天下第一の実力者であった徳川家康へと接近。1600年(慶長5年)の
関ヶ原合戦では下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)の防備を任されて、会津の上杉氏や常陸国(茨城県)の
佐竹氏に対する睨みを利かせたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
積極的な領国経営が徒に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦後、この功績により常陸国鹿島郡(茨城県鹿嶋市周辺)3万石を加増され、里見氏の所領は12万石に。
義康は新領地である鹿島の民を用い、館山城の総構えとなる新たな堀を城山の南東に掘削した。この堀は
それを由来として鹿島堀と呼ばれている。館山城は標高72m(当時)の小山を用いた連郭式の山城。これに
上記の通り周辺の山々を出城として加えて防御線を構成している。更に総構えとなる鹿島堀が加わった事で
城としての体裁はさぞかし大きなものに仕上がったであろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だがそれは、隣国である徳川家にとってむしろ脅威として映ったに違いない。1603年(慶長8年)江戸幕府が
開闢した年の11月16日に、安房侍従義康は31歳の若さで急死。その嫡子・安房守忠義(ただよし)が家督を
継承した。この時、忠義はまだ10歳。政務を執るのもまま成らぬ幼い子供が12万石という大藩の主、しかも
国持大名となった訳で、御家安泰の為に家康の重臣である大久保忠隣(おおくぼただちか)の孫娘を娶り、
強力な後ろ盾にしようと図ったのでござった。が、その後に起きた幕閣の権力闘争に敗れた忠隣は、何と
1614年(慶長19年)に陰謀の疑いで改易されてしまう。同年9月9日、忠義も大久保一派に連座させられ、
僅か4000石で伯耆国倉吉(鳥取県倉吉市)へ移封を命じられている。■■■■■■■■■■■■■■■
同月13日、内藤金一郎家長(徳川家重臣)が館山城の受取に来訪。里見家に残る書状からは、18日には
本多藤左衛門定勝・嶋田次兵衛重次らの幕府役人が忠義たちの荷物を運び出す段取りをしている事が
判る。斯くして、里見氏は父祖の地である安房国を失った。御家安泰を図った政略結婚はむしろ逆効果に
なった訳だが、しかしこれは改易の一因に過ぎなかったとも言えよう。幕府の本拠地である江戸の眼前で
館山城が巨大城郭として整備拡張されたのは明白な軍事的脅威であったし、加えて、幼君の下にあった
(だからこそ一致団結せねばならない筈の)里見家臣団は派閥に分かれて権力闘争を行い、常に館山藩の
治世は不安定であった。こうした状況は、幕府としては目障りな外様大名を追い払う恰好の口実を与えた。
これを機に館山城は廃城。築城から40年足らずの短い命でござった。■■■■■■■■■■■■■■■
ちなみに、この忠義が失意のうちに29歳で亡くなると、遺臣8人が後を追って殉死。悲劇の君主に殉じた
里見八賢士が滝沢(曲亭)馬琴の名作「南総里見八犬伝」の題材である。■■■■■■■■■■■■■■
模擬天守を擁する城山公園■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、城山一帯は公園化され、主郭であった山頂付近で1982年(昭和57年)3月30日に犬山城天守を模した
模擬天守が竣工しており、その内部は里見八犬伝の資料館になってござる。正しくは館山市立博物館分館と
言い、492u(約150坪)の面積に19.1mの高さで建てられた鉄筋コンクリート造り3層4階の望楼形模擬天守は
城郭建築の第一人者であった故・藤岡通夫工学博士の考証によるもの。藤岡博士による模擬天守建築は
愛媛県四国中央市にある川之江城にも建てられているが、いずれも2重櫓の入母屋に望楼が載る形式。
天正年間の天守と言うと、これがお約束の定番なのか?(笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、現在の館山城山の標高は65.7m。東〜北〜西にかけては周囲が隔絶した急崖で、これが城地として
適した要害と判断されたものだが、同様の理由で太平洋戦争中には高射砲陣地が構えられた。そのため
山頂近辺が7mも掘り崩されてしまったのである。戦時中の改変は多岐に渡り、また、公園整備による造成
等もあって、城山内部で往時の遺構を残す部分はあまり多くない。ごく僅か、山腹付近に切岸や空堀等が
見受けられるのみである。但し、よくよく見れば山麓の城下町があった部分に往時の総構えが痕跡として
残っている。こうした城下の地形も干拓や農地開拓で多大な改変を受けてはいるが旧来の古図面などの
資料を用意してじっくりと散策してみれば“宝探し”的に見つけられよう。■■■■■■■■■■■■■■
城域は1960年(昭和35年)6月16日に館山市史跡となり、1978年(昭和53年)〜1980年(昭和55年)にかけて
発掘調査も行われたが、南側中腹における御殿跡のみが検出され、その曲輪跡では各種の陶磁器片が
出土している。すっかり“城跡”というより“公園”として定着した感がある館山城址だが、公園の頂からは
館山の町や東京湾が一望できる。天然の良港として中世から多くの船舶の停泊地となっていたその姿は、
江戸期以降の地震による海岸隆起や近代市街地化での変貌はあったものの、城があった当時を推察できる
希少な情景なのではなかろうか。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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