最初はあの「武田氏」による構築■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で大滝城、大田喜城。房総半島のほぼ中心、大多喜(おおたき)を守る城。■■■■■■■■■■■■■■■■
大多喜に城が築かれたのは1521年(大永元年)と言われ、上総武田氏の分流・真里谷(まりやつ)武田氏の一族、
真里谷武田信清によるものと言われる。上総武田氏は遡ると甲斐武田氏に繋がるが、甲斐からこの地に移ったのは
室町時代における関東地方の統治機関であった鎌倉公方と関東管領の度重なる騒動に与力した事による。結果、
武田氏は甲斐から枝分かれをし上総国一帯にかなり大きな領封を得たのだ。その上総武田氏は上記の通り真里谷
武田氏の他、庁南武田氏などの家を立てている。信清は上総武田氏3代目当主(真里谷武田氏始祖)信興の次男で
ここ大多喜に領を与えられた事で大多喜武田氏を名乗るようになった人物でござる。■■■■■■■■■■■■■
信清が築城した当初、城は小田喜(おたき)城と呼ばれていたようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
信清の後、城は武田直信(信清の子)、さらに朝信(直信の子)へと受け継がれたものの、1544年(天文13年)隣国の
安房国を治める大名・里見氏の家臣、正木大膳亮時茂によって奪われた。その前年(1543年(天文12年))苅屋原で
武田朝信と正木大膳(時茂の事)が戦いに及んだと「里見九代記」に記録があり、この戦いで敗北した朝信は城を
支えきれなくなったのでござる。以後、大多喜城は時茂・信茂・憲時の3代に渡って正木氏の支配下にあった。■■
平七信茂は時茂の嫡男であるが、1564年(永禄7年)の第二次国府台合戦で戦死。故に、時茂の弟・弾正左衛門
弘季の子である大膳亮憲時(同じく時茂の弟・左近大夫時忠の子とする説もある)が養子に入った。■■■■■■
しかしこの後、主家である里見家の中で内紛が勃発する。1578年(天正6年)里見氏当主の里見義弘が没し、その
跡を争い義弘の養子(本来は義弘の弟)義頼と、義弘晩年に儲けた実子・梅王丸が対立したのでござる。騒動に際し
里見家重臣であった筈の正木憲時は義頼に反抗、遂には独立の意思を見せた。憲時と義頼の対立は数年に及ぶが
次第に義頼方が優勢になり1581年(天正9年)9月、大多喜城内に内通者を得た義頼が憲時を謀殺、この地は里見氏
直轄となったのでござる。しばらく後、義頼の次男・弥九郎時堯(ときたか)が代官として派遣され、大多喜正木氏の
名籍を継いだ。斯くして時堯は2代目正木時茂と改名したのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで、戦国時代全般を通じて里見氏は小田原の後北条氏と抗争を繰り広げていた。その動向は一進一退、房総
半島の領有権を巡り両者は鎬を削っていたのでござる。その一方、里見氏は万喜城(千葉県いすみ市、下記)の土岐
頼春とも闘っていた。この為、大多喜城に拠っていた勝浦城主・正木頼忠(初代正木時茂の甥)は1588年(天正16年)
9月、里見勢を率いて万喜城攻略を行うが、城は落とせなかった。翌1589年(天正17年)6月と1590年(天正18年)の
正月にも正木勢を含む里見軍が万喜城に攻めかかったが、いずれも成功せず撤退の止む無きに至る。■■■■■
そうこうしている間に、天下統一に王手をかけた豊臣秀吉が小田原後北条氏の攻略に着手した。元々、後北条氏を
敵視する者同士として豊臣家と里見家は誼を通じていたが、万喜城攻略に手間取るあまり里見家は秀吉の参陣命令に
遅参してしまう。その結果、後北条氏降伏後の領土再編において秀吉から上総領を没収され里見家は安房一国のみを
安堵される事になったのでござった。これにより、正木氏は大多喜城から退去。2代目正木時茂(里見時堯)は実家の
里見家に復して安房国へと帰国、江戸時代に入り里見家が転封されるとそれに従って因幡国(鳥取県東部)へと移り、
かの地で没している。また、頼忠系の正木氏は徳川家に召し抱えられ紀伊徳川家の家老となった。■■■■■■■■
(頼忠の娘・於万の方が家康の側室になり紀伊藩祖・徳川頼宣を産んだ為)■■■■■■■■■■■■■■■■■■
本多忠勝により近世城郭へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて正木氏が去った後の上総国は徳川家康領となる。家康は里見氏の安房国と接する上総国に譜代の重臣を配置し
中でもここ大多喜には徳川四天王の一人、「家康に過ぎたるもの」と謳われた猛将・本多平八郎忠勝が10万石で入り
対里見氏の最前線を守る事となった。忠勝の入城により、城は中世城郭から近世城郭へと改変される。従来、真里谷
武田氏〜正木氏時代の中世大多喜城は現在の場所とは異なり大多喜根古屋城(夷隅郡大多喜町泉水字岡部台)を
用いていたと言われていたが、近年発掘調査が行われ、近世大多喜城の地下に大規模な中世城址の痕跡が発見された
事から、中世大多喜城と近世大多喜城はほぼ同じ場所(完全に一致する訳ではない)に置かれていたと考えられるように
なってきている。この工事で新生なった大多喜城、城山の麓には城下町も築かれて名実共に近世城郭となったのである。
現在に残る大多喜城の遺構はほとんどこの段階で整備されたものと言えよう。蛇行する夷隅川を天然の外郭濠とし、
その外縁部にそびえる半島状の小高い山の上に建つ大多喜城は、北西の頂部に本丸を用意し、一段下がって二ノ丸、
更に下がって三ノ丸を構えた連郭式平山城。各曲輪の間は空堀で区切られ、三ノ丸の前面には大きな水濠が。二ノ丸に
城主の御殿と重臣屋敷、三ノ丸には馬場や米倉、火薬庫などの重要施設と家臣屋敷が置かれていた。大手は三ノ丸の
南に開き、2重の櫓門で固めていた。また、二ノ丸に4基、三ノ丸に5基の隅櫓が配されていたとの事である。本丸には
3重4階の天守が建てられたと言われているが、異説を唱える研究者もおり、判然としない。その根拠は、ドン=ロドリゴ
(下記)一行が大多喜城を訪れた際の記録に天守を示すものがない、という点と発掘調査の結果、天守台に相当する
ような基壇が検出できなかった事に拠る。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、城を整備した中務大輔忠勝は関ヶ原合戦後の1601年(慶長6年)伊勢国桑名(三重県桑名市)へと移る。■
大多喜城は彼の次男・出雲守忠朝(ただとも)が5万石で継承、本多家の分家として立藩する事になった。忠朝は検地を
行い大多喜藩の基礎を築いたのだが、その最中の1609年(慶長14年)、フィリピン群島臨時長官の任を離れメキシコへ
帰国する途中であったロドリゴ=デ=ビベロ、通称ドン=ロドリゴの乗る戦艦サン・フランシスコ号が嵐に遭って遭難し
9月30日に大多喜藩領の上総国岩和田村(夷隅郡御宿町)田尻の浜に漂着した。地元民に救助された一行約300名は
大多喜城へ歓待され、その際に記録書「日本見聞記」を残しており、大多喜城に関しては■■■■■■■■■■■■
「第一の門の外に深い堀があり、吊橋を架けていた」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「鉄製の城門はいかめしく、約15mの高い城壁を構築していた」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「大きな切石で積んだ城壁の手前に幅が広くて深い空堀がめぐる」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「御殿は金銀で装飾」などの記述がある。彼らはこの後に江戸へ上り徳川家康とも対面、帰国の許しを得て1610年
(慶長15年)に太平洋を横断した。幕末以後、列強各国と不平等条約を結ぶ事になる日本であるが、メキシコだけは
当初から平等条約を締結。これは、ドン=ロドリゴが日本で厚遇され、記録に残る外交事象を示したからでござる。■
近代史にも大きく繋がる実績を残したのが、この大多喜城であった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
譜代大名が配される要地■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが、藩主・忠朝は1615年(元和元年)の大坂夏の陣で戦死してしまう。大多喜藩は甥の甲斐守政朝が継ぐも、
1617年(元和3年)9月に播州龍野(兵庫県たつの市)へ移封され、代わりに武蔵国鳩ヶ谷(埼玉県鳩ヶ谷市)から阿部
備中守正次が3万石で入府した。その正次も1619年(元和5年)9月、相模国小田原へと移転。大多喜は幕府直轄の
領地となってしまった。1623年(元和9年)10月に徳川3代将軍・家光の勘気を被った事で老中を罷免された青山伯耆守
忠俊が武蔵国岩槻(埼玉県さいたま市岩槻区)5万5000石から減封され2万石で入るも、わずか2年で再度移封され
1625年(寛永2年)下総国網戸(あじと、現在の千葉県旭市)へ更迭されてしまい、大多喜は再び天領に。この後も
譜代大名がめまぐるしく城主を交代する大多喜城。1638年(寛永15年)4月、阿部播磨守正能(まさよし、正次の孫)が
祖父から1万石を分与されて大多喜藩主となる。1651年(慶安4年)阿部家本領から6000石の加増を受け1万6000石と
なるも、翌1652年(承応元年)にこの加増分を返還し再び1万石に。正能は1671年(寛文11年)5月に阿部家本領の
武蔵国忍藩(埼玉県行田市)を相続し移封、代わって阿部家一門の阿部伊予守正春が岩槻から1万6000石を以って
12月に入封した。1699年(元禄12年)正春は荒廃していた大多喜城を再整備する。但し、これは大多喜藩の禄高が
当初の10万石から1万6000石へと減少していた事により幕命を受けて城の規模を縮小した工事でござる。その正春も
1702年(元禄15年)9月7日、三河国刈谷(愛知県刈谷市)へと異動。阿部氏と交代で大多喜城主となったのは若年寄
稲垣和泉守重富でござった。石高は2万5000石。ところが重富は、城が手狭だという理由でわずか21日後に再移封、
下野国烏山(栃木県那須烏山市)へ移った。何とも珍妙な話だが、代わって相模国玉縄(神奈川県鎌倉市)から1703年
(元禄16年)に2万石で大河内長沢松平家の松平備前守正久が大多喜へと入る。■■■■■■■■■■■■■■■
以後、幕末まで長沢松平家が9代に渡って城主を継承、ようやく安定した治世を敷くに至ったのでござる。正久の後は、
1720年(享保5年)6月に備中守正貞(まささだ)、1749年(寛延2年)に弾正忠正温(まさはる、正貞の養子)、1767年
(明和4年)9月に備前守正升(まさのり)、1803年(享和3年)5月に兵部少輔正路(まさみち)、1808年(文化5年)織部正
正敬(まさかた)、1826年(文政9年)9月に備中守正義(まさよし、正敬の弟)へと相続されている。正義の代、城内
三ノ丸に望庵堂なる学問所を設置。これが後に藩校・明善堂となり藩士の教育にあたった。■■■■■■■■■■■
正義の後は1837年(天保8年)に織部正正和(まさとも)が松平氏8代藩主に就任。正和は6代藩主・正敬の長男である。
正敬が隠居した時、まだ幼少であったため家督を継ぐ事ができなかったようだ。ようやく藩主の座に就いた正和だったが
彼の代は不幸が重なってしまう。1842年(天保13年)火災により天守と御殿を滅失。結局、天守の再建は成らず1844年
(天保15年)8月、天守跡地に神殿と称する建築物を建てるに留まった(御殿は再建されている)。更に1846年(弘化3年)
閏5月、洪水が発生して大多喜藩領は大被害を被ったのでござる。正和自身も嫡男に恵まれぬ不運に直面し1862年
(文久2年)9月29日に40歳で没してしまった。そのため、城主の座は婿養子として迎えた豊前守正質(まさただ)が継ぐ。
正質は幕末の動乱期、奏者番、続いて若年寄へと出世し、最終的には老中格になる。ところがこれが災いし、1868年
(明治元年)1月に起きた鳥羽伏見の戦いで幕府方指揮官に任じられてしう。幕府方は敗北、敗戦の責任を追及され
江戸へ逃亡、しかも新政府側からも朝敵として糾弾され、同年官位と所領を没収され佐倉藩(千葉県佐倉市)に預け
られたのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
蟄居から程なくして赦免され藩主に復帰し、翌1869年(明治2年)の版籍奉還で大多喜知藩事に任命された正質だったが
1871年(明治4年)の廃藩置県で職を解かれた。大多喜藩は廃藩、大多喜県が設置されたが城は廃城。城内の建築物は
ほとんどが破却された。以後、城跡は桑畑にされ今ではそれほど目立つ遺構は残らない。1966年(昭和41年)5月20日、
本丸跡が千葉県指定史跡になり城址公園として整備されたが、二ノ丸は千葉県立大多喜高校の敷地となっている。■■
1975年(昭和50年)、本丸に千葉県立総南博物館として鉄筋作りの復興天守が建てられた。これは1827年(文政10年)に
描かれた絵図にある天守の姿を模したものだが、基台石垣を含めて全くの模擬建築だ。なお総南博物館は現在、県立
中央博物館大多喜城分館と改称されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この他、城址である事を匂わせるものとして二ノ丸の大井戸と移築された薬医門が残る。大井戸は築城時に掘られた
ものと伝わり、周囲10m、深さ20m、日本一の大井戸といわれている。現在も水を湛え大多喜高校の敷地内に大きな口を
開けており申す。一方の薬医門は、元々二ノ丸の御殿裏門であった門を保存するために移築したもの。こちらも大多喜
高校の校庭にあり、井戸と共に千葉県指定文化財となっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
このように細かく色々な文化財が残されている大多喜城。何より、模擬とは言え天守が聳える姿は壮観だ。城下を走る
いすみ鉄道の鉄橋越しにその天守を望む光景は、房総随一の城郭として知られている。そうした事もあってか、財団法人
日本城郭協会から2017年(平成29年)4月6日、続日本百名城の一つに選出されてござる。■■■■■■■■■■■■
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