その名の通り菖蒲咲く公園(菖蒲城)と、何も見つけられない住宅街(菖蒲陣屋)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在は市町村合併で久喜市となった旧菖蒲町内にあった城址。菖蒲は「あやめ」とも読むが、ここの地名としては「しょうぶ」である。
室町時代中期、応仁の乱に先行し関東の大乱が起きた頃から小田原後北条氏の滅亡まで存続したのが菖蒲城で、その支城として
存在していたのが菖蒲陣屋だと言う。菖蒲町新堀(にいぼり)、久喜消防署菖蒲分署の隣にあるあやめ園付近が菖蒲城址で、その
北東2km程の辺りに広がる巨大商業施設や写真にある真言宗熊野山長福寺一帯に菖蒲陣屋があったと伝承されている。■■■
室町時代、関東の統治は足利将軍家の分流である鎌倉公方足利家に託され、その補佐として関東管領の職を継承した上杉氏が
当たっていたが、鎌倉公方は常々京都の将軍に対抗心を燃やし独立の傾向を見せ、それを上杉氏が諫めるという構図が継続され
結果的に鎌倉公方と関東管領が対立するようになっていた。遂に鎌倉公方・足利成氏(しげうじ)は転戦の中で本拠地・鎌倉を離れ
下総国古河(こが、茨城県古河市)へ遷移し古河公方を名乗るようになるが、道中の1455年(康正元年)6月に成氏が「武州少府」に
逗留した記録が残り、この「少府」が「菖蒲」を指すと考える説が有力である。成氏は1456年(康正2年)配下の金田式部則綱に城の
構築を命じ、竣工したのが5月5日“菖蒲の節句”だったので菖蒲城の名が付けられたとも。だとすると「少府」=「菖蒲」は無関係と
言う事になる筈だが…まぁそれはさて置き、以後この城は歴代金田氏が守る事になる。金田氏は室町の名門・佐々木氏の分流と
され近江国守護の六角氏や京極氏と同族という事になるのだが、関東へと下向した詳しい経緯は不明。則綱の後、氏綱―顕綱―
定綱―頼綱と続くが、この地域は古河公方の勢力圏から次第に上杉氏の領国、更に戦国期となるや小田原後北条氏の領地へと
組み込まれた為、6代目・源四郎秀綱は忍(おし)城(埼玉県行田市)主・成田下総守氏長(うじなが)に従属した。当時の成田氏は
後北条氏に従っていたので、事実上金田氏も後北条氏に臣従した事になる。この間、1525年(大永5年)3月に北条左京大夫氏綱
(うじつな)の軍勢と扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の軍が戦い、1574年(天正2年)には後北条方となっていたこの城へと上杉謙信が
来攻し城下を焼き払ったとある。最終的に後北条氏が豊臣秀吉から攻められ滅亡した1590年(天正18年)菖蒲城も廃城となった。
主家の滅亡により金田氏は大塚と姓を改めて帰農したそうでござる。以来、城地は耕作地となって現在は辺り一面が田圃である。
また、菖蒲陣屋の近辺は急激な宅地化・商業地化が進み殆んど跡形もない状態。かろうじて長福寺の裏手あたりに畑として残った
土地があり、その隅にある農業排水溝がかつての堀跡を踏襲しているとか。ただ、実際これも良く分からない状態である。■■■
菖蒲城跡の中心地だけは上記のようにあやめ園として開放されているが、隣接する埼玉県道12号線の拡幅工事に伴って1996年
(平成8年)に発掘調査が行われ、平安時代の竪穴住居跡や中世の堀や土塁痕跡と見られる遺構が出土している。更に14世紀の
甕(常滑産)や1361年(延文6年)銘の板碑、16世紀の石臼・石硯・土器・陶磁器・古銭(永楽銭)や鉄砲の玉が掘り出されたそうだ。
なお、1998年(平成10年)には元は内藤氏陣屋(下記)にあった門が菖蒲城址のあやめ園内に再移築され現在に至っており、城址
公園としての風情はそれなりに感じられる。駐車場もあるので来訪は簡単。菖蒲の季節には見事な景観が広がるのだろう。拙者が
訪れたのは風まだ寒い晩冬の頃だったが…(爆)反対に、菖蒲陣屋跡は明瞭な遺構もなく住宅地内である事から、あまり大々的な
見学は憚られよう。節度ある行動を。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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