武蔵国 菖蒲城

菖蒲城址

 所在地:埼玉県久喜市菖蒲町新堀
 (旧 埼玉県南埼玉郡菖蒲町新堀)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は町指定史跡




武蔵国 菖蒲陣屋

菖蒲陣屋比定地 長福寺

 所在地:埼玉県久喜市菖蒲町菖蒲
 (旧 埼玉県南埼玉郡菖蒲町菖蒲)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

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その名の通り菖蒲咲く公園(菖蒲城)と、何も見つけられない住宅街(菖蒲陣屋)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在は市町村合併で久喜市となった旧菖蒲町内にあった城址。菖蒲は「あやめ」とも読むが、ここの地名としては「しょうぶ」である。
室町時代中期、応仁の乱に先行し関東の大乱が起きた頃から小田原後北条氏の滅亡まで存続したのが菖蒲城で、その支城として
存在していたのが菖蒲陣屋だと言う。菖蒲町新堀(にいぼり)、久喜消防署菖蒲分署の隣にあるあやめ園付近が菖蒲城址で、その
北東2km程の辺りに広がる巨大商業施設や写真にある真言宗熊野山長福寺一帯に菖蒲陣屋があったと伝承されている。■■■
室町時代、関東の統治は足利将軍家の分流である鎌倉公方足利家に託され、その補佐として関東管領の職を継承した上杉氏が
当たっていたが、鎌倉公方は常々京都の将軍に対抗心を燃やし独立の傾向を見せ、それを上杉氏が諫めるという構図が継続され
結果的に鎌倉公方と関東管領が対立するようになっていた。遂に鎌倉公方・足利成氏(しげうじ)は転戦の中で本拠地・鎌倉を離れ
下総国古河(こが、茨城県古河市)へ遷移し古河公方を名乗るようになるが、道中の1455年(康正元年)6月に成氏が「武州少府」に
逗留した記録が残り、この「少府」が「菖蒲」を指すと考える説が有力である。成氏は1456年(康正2年)配下の金田式部則綱に城の
構築を命じ、竣工したのが5月5日“菖蒲の節句”だったので菖蒲城の名が付けられたとも。だとすると「少府」=「菖蒲」は無関係と
言う事になる筈だが…まぁそれはさて置き、以後この城は歴代金田氏が守る事になる。金田氏は室町の名門・佐々木氏の分流と
され近江国守護の六角氏や京極氏と同族という事になるのだが、関東へと下向した詳しい経緯は不明。則綱の後、氏綱―顕綱―
定綱―頼綱と続くが、この地域は古河公方の勢力圏から次第に上杉氏の領国、更に戦国期となるや小田原後北条氏の領地へと
組み込まれた為、6代目・源四郎秀綱は忍(おし)城(埼玉県行田市)主・成田下総守氏長(うじなが)に従属した。当時の成田氏は
後北条氏に従っていたので、事実上金田氏も後北条氏に臣従した事になる。この間、1525年(大永5年)3月に北条左京大夫氏綱
(うじつな)の軍勢と扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の軍が戦い、1574年(天正2年)には後北条方となっていたこの城へと上杉謙信が
来攻し城下を焼き払ったとある。最終的に後北条氏が豊臣秀吉から攻められ滅亡した1590年(天正18年)菖蒲城も廃城となった。
主家の滅亡により金田氏は大塚と姓を改めて帰農したそうでござる。以来、城地は耕作地となって現在は辺り一面が田圃である。
また、菖蒲陣屋の近辺は急激な宅地化・商業地化が進み殆んど跡形もない状態。かろうじて長福寺の裏手あたりに畑として残った
土地があり、その隅にある農業排水溝がかつての堀跡を踏襲しているとか。ただ、実際これも良く分からない状態である。■■■
菖蒲城跡の中心地だけは上記のようにあやめ園として開放されているが、隣接する埼玉県道12号線の拡幅工事に伴って1996年
(平成8年)に発掘調査が行われ、平安時代の竪穴住居跡や中世の堀や土塁痕跡と見られる遺構が出土している。更に14世紀の
甕(常滑産)や1361年(延文6年)銘の板碑、16世紀の石臼・石硯・土器・陶磁器・古銭(永楽銭)や鉄砲の玉が掘り出されたそうだ。
なお、1998年(平成10年)には元は内藤氏陣屋(下記)にあった門が菖蒲城址のあやめ園内に再移築され現在に至っており、城址
公園としての風情はそれなりに感じられる。駐車場もあるので来訪は簡単。菖蒲の季節には見事な景観が広がるのだろう。拙者が
訪れたのは風まだ寒い晩冬の頃だったが…(爆)反対に、菖蒲陣屋跡は明瞭な遺構もなく住宅地内である事から、あまり大々的な
見学は憚られよう。節度ある行動を。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■







武蔵国 内藤氏陣屋

内藤氏陣屋跡

 所在地:埼玉県久喜市菖蒲町下栢間
 (旧 埼玉県南埼玉郡菖蒲町下栢間)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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徳川十六神将の一家が…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
栢間(かやま)陣屋・下栢間陣屋とも。菖蒲町の下栢間にある久喜市立栢間小学校の敷地が陣屋跡。小学校の南側には用水路が
流れており(写真左隅)、これが往時の濠跡とも考えられている。当時は二重の濠が構えられていたと言う。■■■■■■■■■■
1590年に小田原後北条氏が滅び、関東の太守となったのが徳川家康。その家康が家臣の内藤四郎左衛門正成に菖蒲・新堀・小林
(おばやし)・栢間・三箇(さんが)の各村を知行所として与え、合計5000石の統治拠点として築いたのがこの陣屋である。正成は徳川
十六神将の1人に数えられる弓の名手だそうで、彼の武功に対しこの石高は非常に少ない待遇だったと言える。旗本として処された
内藤家は城を構える訳にもいかなかったのか、菖蒲に入封しても菖蒲城を使わずに廃し、改めて陣屋を構えたのであろう。不遇の
正成は失意の末に病を得、徳川秀忠が侍医の久志本左京亮常衡を差し向けたが治療の甲斐なく1602年(慶長7年)4月12日に没。
正成には長子の甚一郎正貞(まささだ)が居たものの、彼は父から放逐されていたので正成の次子・右京進正成(父と同名)が旗本
内藤家の家督を継いだ。3代目となったのがその子・図書助忠俊(ただとし)だが、家督継承時に弟の織部正正成(これまた同名)に
2000石を分知するも、書院番として働いた長年の間に不正を行ったとして1631年(寛永8年)2月4日に改易されてしまった。さりとて
“軍神四郎左兵衛門”と讃えられた家祖・四郎左衛門正成の武功を以って特別の計らいが行われ、内藤家は正貞の子・外記正重
(まさしげ)による再興が許されている。この時、正重は忠俊の妹を娶って家督を継承する形を取り、四郎左衛門正成の領していた
各村5000石が与えられた。1654年(承応3年)に隠居して子供の正吉へ旗本内藤家5代目を継がせ、その正吉は1682年(天和2年)
上野国や下野国で700石を加増され、合計5700石を有するようになる。こうして大身旗本となった内藤家は14代・正從(まさとも)が
明治維新を迎えるまで家名を遺した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
維新後、陣屋は廃絶し建造物などは破却され、上記の通り現在では栢間小学校となっている。往時の規模は小学校の周囲まで
含んだ大掛かりなものだったらしく、東西200m×南北280m程はあった。小学校の南側には太陽光発電施設が並んでいるのだが
ここも陣屋の外郭部として用いられていた。ただし、この発電施設敷地を貫通する道路計画があるようで、これからの陣屋跡地が
どのように保全されるのかは不透明である。移築された遺構としては裏門と称される薬医門が残存。明治になって、名主であった
近隣の豪農・三須家に譲渡された門であるが、1998年に御当主から菖蒲町に寄贈され菖蒲城跡に移築されたのは記した通りだ。



現存する遺構

堀・土塁等

移築された遺構として
旧三須家屋敷門(陣屋裏門)








武蔵国 足利政氏館

足利政氏館址 空堀

 所在地:埼玉県久喜市本町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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関東地方を引っ掻き回した人物■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
古河公方としては2代目となる足利左馬頭政氏(まさうじ)晩年の居館址。鎌倉公方が変移して古河公方となった経緯は上記の
菖蒲城・菖蒲陣屋の項に示した通りだが、成氏の長子として古河公方の職を継いだ政氏も上杉氏との共闘・対立を繰り返した他
南関東から勢力を拡大させつつあった小田原後北条氏との関係も複雑に絡み、各種外交上の懸案を巡って自身の長男である
高基(たかもと)や次子の右兵衛佐義明(よしあき)らと対立する。野心高き義明は自分の権力基盤を欲して古河を離れ、下総国
小弓(おゆみ、千葉県千葉市)へ流れ着き小弓公方を僭称、独立勢力となった。高基も味方勢力を募り家督を簒奪し3代目古河
公方となり、その結果として政氏は居所を失って流浪する事になる。1512年(永正9年)下野国小山(おやま、栃木県小山市)へと
逃れたが、そこも安住の地ではなく1518年(永正15年)頃に久喜へやってきたようである。こうして政氏の居館となったのがこの
城館跡であるが、政氏が新設したものなのか従前からある館に入ったのかは不明だ。鎌倉時代の遺物が出土している事から、
古態の武家居館があったとも推測されるが、いずれにせよ政氏の入部に伴って現状に残る構造物が整備されたのだろう。後年
彼は高基と和解するも古河には戻れず、1531年(享禄4年)7月18日ここ久喜の居館で没した。生前の1519年(永正16年)政氏は
居館を寺に改装し、末子(弟との説もあり)の貞巖昌永(ていがんしょうえい)を開基としている。この寺が現在にまで残る臨済宗
永安山(えいあんざん)甘棠院(かんとういん)で、境内には政氏の墓(五輪塔)も残されてござる。■■■■■■■■■■■■
館の敷地は基本的に方形居館の形式を踏襲しているが、所々に屈曲もあり侵入する者へ横矢を掛ける構造を有していた。寺の
境内となっている敷地が主郭、その北側には二郭を置いた複郭構造で、往時は他の曲輪も付随していた可能性もある。こうした
曲輪群はいずれも堀で区分けされ、現状では空堀だがその頃には水が入っていたとか。また、館の北側には大浦沼と呼ばれた
湿地帯があり、館を守る要害となっていた。甘棠院は1548年(天文17年)に焼失(戦火の可能性も?)したが、1552年(天文21年)
再建が成り、江戸時代には徳川将軍家からの保護を受け近代に至る。ただ、明治以降は外周が全て宅地化され、また大浦沼も
干拓・排水された為(中落堀川がその名残り、この川には「大浦橋」が架かる)外郭部が滅失し、主郭付近も部分的に破壊を受け
現在では甘棠院境内だけが“陸の孤島”のように取り残された様子となっている。逆に言えば、主郭一帯だけは手付かずなので
敷地を囲む堀は現存(写真)し、故に1925年(大正14年)3月31日「足利政氏館跡及び墓」は埼玉県指定史跡となった。あまりにも
手付かず過ぎてきちんとした史跡整備がされていないように見受けられなくもないが、住宅街の中にこの規模の武家居館跡地が
残されているのは奇跡的と言えよう。史跡調査の結果、堀は大きな所で幅10m×深さ5mもあったらしく箱薬研堀の断面を有した。
主郭の大きさは東西140m×南北170mほどと推定され、そこを中心に二郭や外郭が囲繞、その敷地は概ね大浦沼に突き出した
半島状台地だったようだ。即ち、方形居館の体をしながらも激化する関東騒乱に対応した堅固な城館として政氏がこの隠居館を
造成した様子が立地から見受けられる訳だ(宅地化で現在はそれが感じられないのが残念)。出土遺物として室町〜戦国期の
かわらけや内耳土器などが確認されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
寺としての甘棠院も数々の文化財を有しているが、不運にも足利政氏木像は1967年(昭和42年)不審火によって焼失したとか。
そのため、寺は防犯対策を厳しく取っているそうなので拝観時には節度のある行動を心掛けたい。場所はJR久喜駅から北西に
約1.2km程の地点。地図を見れば位置は分かると思うが、そこへ至る道は住宅街の細い路地ばかりなので迷ったり事故の無い
ように御注意を。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
館域内は県指定史跡








武蔵国 天神島砦

天神島砦跡

 所在地:埼玉県幸手市大字天神島字丸曲輪

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

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幸手一色氏の出城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
圏央道の幸手ICは倉松川を跨いでいる。この川沿い、圏央道のすぐ北側に小さな天神神社があり、その境内一帯が天神島砦の
跡だとされている。天神島城とも呼ばれるこの小城は、幸手市内にあった幸手城の支城だと言い、幸手城ともども幸手一色氏の
支配下にあった。一色氏と言えば室町体制における名族として知られるあの一色氏、足利氏の分流にして三河国吉良荘一色
(愛知県西尾市)を発祥として三河国や若狭国・丹後国などを支配した一族であるが、一色氏始祖とされる一色公深(こうしん)が
幸手に所領を持っていた縁から公深の孫・宮内少輔直氏(ただうじ)の系譜より当地に土着する者が現れた。これが幸手一色氏
(関東一色氏)の始まりで、鎌倉公方(後に古河公方)に仕える家柄となり、幸手城を本拠にしたと言う。■■■■■■■■■■
さて天神島という場所は、古くは菅霊島(すがたまじま)と呼ばれていたそうだが、幸手一色氏が鎌倉にあった荏柄天神を分霊し
天神神社を勧請したため天神島と名を変えたらしい。また、砦の所在地を細かく見れば、字「丸曲輪」とある。要するに、古来から
この辺りは江戸川(旧来の利根川)やその支流である倉松川などによって沼沢地だった中、丸い小島として浮いていた微高地を
利用して天神神社を創建し、更に険要地である点に注目し幸手城の支城となる砦に変化させたと言う事だろう。■■■■■■■
古河公方に従っていた一色氏だったが、1554年(天文23年)10月に後北条氏が時の公方・足利左兵衛督晴氏(はるうじ)を攻略。
この時に幸手一帯も攻撃され、幸手城・天神島砦ともに攻め落とされた。当時の城主とされる一色直高は芦の原野に潜んで逃れ
以後は芦葉姓を名乗って生き延びたと伝承されるが、これも当地が湿地帯にあった事を物語る逸話であろう。その一方、一色家を
復興させた直勝は1555年(天文24年)小田原後北条氏3代当主・左京大夫氏康(うじやす)から幸手の所領安堵を受けているので
この戦いを契機とし古河公方から後北条氏へと鞍替えしたようである。落城した天神島砦は廃絶したとも、1587年(天正15年)に
再興されたとも言われるが、いずれにせよ1590年の後北条氏滅亡によって城の機能は失われただろう。■■■■■■■■■■
なお、幸手一色氏は新たな関東の太守となった徳川家康に召し抱えられ、一色宮内大輔義直(よしなお)が5160石の交代旗本に
取り立てられた他、古河公方勢に残留していた右衛門佐氏久(うじひさ)の系統は足利家の後継となる喜連川(きつれがわ)藩の
家老として存続している。それに対して、天神島砦の跡は神社としてのみ残り、周囲も治水整備された現代では島のような地形も
見受けられなくなった。僅かに土塁や濠の名残と思しき起伏が感じられるも、果たしてどこまでが当時の物なのかは分からない。
ただ、川沿いにある古社の境内は風情があり、かつての城跡の趣きを肌で感じるには上々の史跡だと言える…かも?■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等




岩槻城周辺諸城館  大多喜城・万喜城