確定的に言えるのは「太田氏の持城」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
岩付(岩附)城とも。他に浮城・白鶴城などの別称も。変わった所では「竹たばの城」とか。荒川(元荒川)に面した、水の名城。
軍記物「鎌倉大草紙」によれば、1457年(長禄元年)太田左衛門大夫資清(すけきよ)・備中守資長(すけなが)、即ち太田道真
道灌父子の手で築かれた城とされる。言わずもがな、扇谷(おうぎがやつ)上杉家中の切れ者として名高い彼らが築いた城は
河越城(埼玉県川越市)や江戸城(東京都千代田区)と並び評される名城である(3城とも太田道灌築城説を起源とする城)。
一面の沼沢地を防御に利用した城である反面、地盤の緩い土地である故に工事が難航する訳だが、道灌築城伝説に拠ると
沼の畔で2羽の白鶴が木の枝を水面に落とし、その上に舞い降りたという姿を見て、彼は竹の束を沼に沈めて埋め立てる事を
思い浮かんだとか。これが「白鶴城」「竹たばの城」という別名の起源となっている。それでも工事は長く続き、太田氏の築城は
1464年(寛正5年)になって完成したとする。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ただ、近年の研究成果では同時代の僧侶・玉隠(ぎょくいん)が記した文書「文明明応年間関東禅林詩文等抄録」の中にある
「自耕斎詩軸并序」における内容が注目されて、「武州騎西郡有村、曰岩付、又曰中扇、附者傅也、岩付左衛門丞顕泰公父
故金吾、法諱正等、挟武略之名翼、有門蘭乃輝、築一城」という一文から「岩付左衛門丞顕泰」なる者の父「正等」が武蔵国
騎西郡岩付村に城を築いたと解釈するようになってきている。この岩付顕泰は忍(おし)城(埼玉県行田市)主の成田下総守
顕泰を指すと考えられ、正等とは彼の養父・成田自耕斎正等(しょうとう)だとされる。つまり岩付城を築いたのは成田正等、
この説では1478年(文明10年)の事だと言う。ただし、これに付いても「正等」は成田顕泰の実父・長尾尾張守忠景の事と見る
説、または太田道真の事を指すとする説があり、確定には至っていない。よって、岩付城の築城者としては太田父子説・成田
正等説・長尾忠景説或いはその他の上杉氏家臣説という諸々の説が入り乱れている事になろう。もっとも、誰が造ったにせよ
15世紀に入る頃には太田氏がこの城を持っていたようでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
“出来過ぎる家臣”太田道灌を怪しんだ主君・扇谷上杉修理大夫定正は彼を粛清。岩付城は道灌の養子・資家(すけいえ)が
受け継ぐ事になり、更にその子・美濃守資頼(すけより)が城主になる。ところが上杉氏の領地は次第に南関東から伸張する
小田原後北条氏により侵食され、岩付城に対しても攻撃が加えられるようになった。扇谷上杉氏に従っていた資頼は1524年
(大永4年)2月に後北条方へ寝返り、城代であった渋江右衛門大夫を戦死させる。これに対し扇谷側は甲斐守護・武田氏に
助力を求め、それに応じた武田陸奥守信虎が岩付まで遠征し同年7月20日に太田資頼を攻略、再び彼を扇谷上杉氏へ臣従
させた。この成り行きに後北条氏は次の手を打ち、右衛門大夫の縁者である渋江三郎を懐柔し1525年(大永5年)2月に岩付
城を落としている。この戦いは両軍合わせて3000の兵を失った激戦だったそうな。戦後、後北条氏は三郎を城代に任じた。
一方、岩付城を失った資頼は復讐の機を待ち、1530年(享禄3年)9月に三郎を討ち取って城を奪還。このように江戸〜岩付
〜河越という一連の太田家城郭群は上杉・北条の争奪戦に晒される時代となっていた。■■■■■■■■■■■■■■■
後北条氏支配下に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1546年(天文15年)4月の河越夜戦で扇谷上杉家は滅亡。岩付城主も資頼からその子・左京亮資顕(すけあき)に代替わりし
主家の滅亡に伴って後北条氏へと傾倒していった。ところが、その資顕が嫡子無きまま没したために資頼の2男・美濃守資正
(すけまさ)が家督を継承。兄・資顕とは違い強硬に後北条家への臣従を拒んだ資正は、親後北条派と反後北条派の対立を
顧みずに自領の独立を保とうとした。これにより1564年(永禄7年)7月に岩付城内では内訌が発生する。結果、後北条氏に
与する太田大膳大夫氏資(うじすけ)が城を乗取り資正を追放。氏資は資正の嫡男、資正は実の子に裏切られたのである。
翌1565年(永禄8年)に資正は岩付城奪還を画策して城内の旧臣に内通者を募るも、この計画は資正によって阻止された。
城を失った資正は反後北条氏の同盟者であった常陸の佐竹氏を頼り落ち延びて行った。■■■■■■■■■■■■■■
ところが城を獲った氏資は、1567年(永禄10年)8月23日に遠征先の上総国三船山(千葉県君津市・富津市)で戦死。彼には
男子が居なかった為、主君の北条左京大夫氏政(うじまさ)は自身の子である国増丸を岩付太田家の後嗣として養子に入れ
その国増丸(改め太田源五郎)が1582年(天正10年)7月8日に早世すると、今度は源五郎の弟・十郎氏房(うじふさ)が後継に
据えられる。ただ、彼らはいずれも形式的に岩付太田家に入嗣したのみで、実質的には後北条家が岩付城を直轄支配する
状態になった。結果として、後北条氏が豊臣秀吉から“天下統一最後の敵”として攻められた1590年(天正18年)に岩付城は
豊臣軍に攻められる。この時、城主・氏房は小田原城(神奈川県小田原市)の防備へと赴いていたので、氏房の宿老だった
伊達与兵衛房実(ふさざね)が2000の兵で岩付城の留守を預かったものの、浅野弾正少弼長政らが率いる敵は2万にも及び
多勢に無勢、2日間の戦闘で1000近い犠牲者を出して5月22日に降伏の止む無きに至った。■■■■■■■■■■■■■
幕藩体制での岩槻城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
後北条家が滅亡した後、関東に封ぜられたのは徳川家康。それに伴い、家康家臣の高力河内守清長(こうりききよなが)が
岩付城に2万石で配される。清長は“仏高力”と評される程に温厚篤実な人物として知られるが、江戸幕府成立後もそのまま
岩付城主の座を維持、彼が1608年(慶長13年)1月26日に没すると跡は嫡孫の摂津守忠房(ただふさ)に受け継がれている。
代替わりから日の浅い1609年(慶長14年)岩付城は大火によって全焼してしまうが、家康が鷹狩りの際に宿所として供すべく
突貫で復興させ家康から褒められたと言う。更に忠房は大坂の陣に於いて戦功を挙げ、それを評し1619年(元和5年)9月に
遠江国浜松(静岡県浜松市)3万石へ加増転封されている。これで岩槻(江戸期に入って岩付から改められたと見られる)は
一時的に天領となるが、翌1620年(元和6年)10月20日からは青山伯耆守忠俊が5万5000石で城主を任じられた。前任地は
常陸国江戸崎(茨城県稲敷市)1万石だ。忠俊は2代将軍・徳川秀忠の信任篤く、将軍家嫡男・家光の傅役に任じられたが、
生真面目すぎる働きが仇となり、厳しい教育が家光に嫌われた。そのため家光が将軍に任じられるや左遷人事の仕打ちを
受け、1623年(元和9年)10月19日に老中罷免の上で上総国大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)2万石へ減封されてしまった。
入れ替わりで相模国小田原から5万5000石で阿部備中守正次が入って、対馬守重次(しげつぐ)―備中守定高(さだたか)と
継承。定高が没した際に、彼の嫡子・作十郎(のちの阿部正邦(まさくに))は幼少なので定高の弟・伊予守正春(まさはる)が
家督を継いだが、これには家中でも異論が噴出し騒動になっている。なお、正春の代になる1671年(寛文11年)岩槻区内の
観光名所・時の鐘が創建された(現在の鐘楼は後世に再建されたものだが、鐘は当時からのもの)。作十郎が長じて対馬守
正邦となり家督が戻されると正春は上総国大多喜へ転出。他方、正邦も1681年(天和元年)に丹後国宮津(京都府宮津市)
9万9000石へ移封されており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
同年2月、下野国烏山(栃木県那須烏山市)5万石から1万石を加増された板倉内膳正重種(しげたね)が岩槻城主になる。
だが、老中だった重種は将軍継嗣問題の責任を問われこの年の11月25日に職を解かれ、更に翌1682年(天和2年)1万石を
減封の上で信濃国坂木(長野県埴科郡坂城町)へ懲罰的転封を命じられている。後に、戸田越前守忠昌が入封するものの
1686年(貞享3年)1月21日に1万石加増の6万1000石で下総国佐倉(千葉県佐倉市)へ。続いて丹波国亀山(京都府亀岡市)
3万8000石から1万石加増され藤井松平伊賀守忠周(ただちか)が入るも、これも1697年(元禄10年)2月11日に但馬国出石
(兵庫県豊岡市)へ移される。4月19日に5万石で小笠原佐渡守長重(ながしげ)が岩槻城主を命じられた。長重の後は2男の
壱岐守長煕(ながひろ)に受け継がれるが、彼は1711年(宝永8年)2月11日に遠江国掛川(静岡県掛川市)6万石へと移封。
今度は信濃国飯山(長野県飯山市)3万3000石の主であった永井伊豆守直敬(なおひろ)が同石高で岩槻に入り、永井家は
伊賀守尚平(なおひら)―伊豆守直陳(なおのぶ)と続くが、直陳は1756年(宝暦6年)5月21日、美濃国加納(岐阜県岐阜市)
3万2000石(尚平の家督相続時に分知があった事による石高減)へと転封している。■■■■■■■■■■■■■■■■
そして永井家に替わり大岡家が2万石で岩槻に入封する。上総国勝浦(千葉県勝浦市)1万5000石から5000石を加増された
大岡出雲守忠光(ただみつ)が城主となったのである。彼は9代将軍・徳川家重の側近として重用され、言語不明瞭であった
家重の言葉を聞き分けられる唯一の人物と言われた。しかし将軍直属の地位に驕る事無く、慈悲深く身を慎んだという彼は
流石、名奉行と謳われた大岡越前守忠相と同族の名士と言えるだろう。忠光は岩槻藩主としても善政を敷いており、当時の
狂歌に「大方は 出雲のほかに かみはなし」(大岡出雲守と出雲大社以外に神と崇められる者は居ない)と称えられた程だ。
岩槻城主大岡家は兵庫頭忠喜(ただよし)―式部少輔忠要(ただとし)―丹後守忠烈(ただやす)―主膳正忠正(ただまさ)―
主膳正忠固(ただかた)―兵庫頭忠恕(ただゆき)―主膳正忠貫(ただつら)と続いて明治維新を迎えている。■■■■■■
“埼玉県”と岩槻城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大岡家の統治時代およそ110年の間、岩槻藩は天災や幕府への奉勤によって財政赤字に悩み続け、更に幕末となるや軍備
増強の要もあって藩財政は破綻寸前になってしまう。そこへ岩槻城で火災が発生、本丸御殿は焼け落ちた。その状態で明治
維新となり、政府の発した所謂「廃城令」でも廃城の扱いとなった為、岩槻城は早々に破却されていく。ちなみに、廃藩置県
時点で岩槻藩領は岩槻県となったが、実質的に機能する前に1871年(明治4年)11月14日の第一次府県統合を迎え、この折
岩槻城地を用いて埼玉県(旧埼玉県)が発足する事となった。この県が「埼玉」の名称を使う事になったのは、岩槻城のある
場所が武蔵国「埼玉郡」岩槻町であったからだ。ところが先述の通り岩槻城には適した建物が無く、代替措置として浦和宿に
県庁が置かれた。この後、旧埼玉県と旧入間県(現在の埼玉県西部を所管した県)が合併、現在と同じ埼玉県が成立するも
結局そのまま県庁は浦和に置かれ、長らく埼玉県の県庁所在地は浦和市となっていたのである。なお、浦和宿があったのは
足立郡なので、浦和は「埼玉」という県名とは本来無縁だったと言える。現在、行田市に「埼玉(さきたま)」の地名があるので
“埼玉県名発祥の地”として売り出しているが、元を辿ると「埼玉」と言う県名が採用されたのは岩槻城に由来する訳である。
もっとも、浦和市は他の市町村と合併してさいたま市となり、そこに岩槻市も加わったので現在は一体のものなのだが(笑)
水に囲まれた縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、岩槻城の構成だが、城地は荒川が半円形に蛇行する地点の内側を利用した敷地で、川沿いには自然堤防が成立し、
その地形を外郭線として活用しつつ半円内部にいくつもの曲輪を並べた構造。自然堤防の内側にも水が入って大きな沼が
あり、そこに浮かぶ島々が曲輪となっていた。この荒川は江戸時代前期の河川改修で本流から切り離された為“元荒川”と
呼ばれるようになり、更に治水工事で流路が直線化している上、城内の沼も明治以降に埋め立てられてしまったのであまり
当時の「水城」という風情は感じられなくなっている。ただ、地図を見てみれば古の流路に沿って町割や道路が存在するので
古地図と対査しながら現状を確認するのが良うござろう。沼の内部には北から天神曲輪〜御茶屋曲輪〜竹束曲輪〜本丸〜
樹木屋敷〜三ノ丸が連なり、本丸の東面を塞いで二ノ丸と竹沢曲輪が並ぶ。水の中に曲輪が浮かぶという立地は、忍城と
共通するものがあり、成田氏による築城説も頷けるものがある。一方で曲輪の並び方自体は原初的な江戸城に近く、太田
道灌の築城説というのも外れていないような気もする。築城者の話はさて置き、主要な曲輪には馬出や出隅部などが附属し
防御力を高めているが、そもそも沼に囲まれた地で出隅まで構えるのは念を入れ過ぎている過剰防備な雰囲気さえある。
一方で川に沿った自然堤防地形には北側に新正寺曲輪、南側に鍛冶曲輪が置かれ、鍛冶曲輪の手前(西側)に新曲輪が
並ぶ。現状、岩槻城址公園として一般開放されているのは鍛冶曲輪と新曲輪の周辺のみだが、これらの内部には空堀や
土塁が縦横に張り巡らされ、しかも直線と屈曲を基調とし部分的には比高二重土塁となる箇所もあるので、後北条氏により
城が整備された戦国期の遺構が近世まで使用され続けた様子を確認できよう。分厚い土塁に直角の折れを組み合わせた
構造は、まるで小田原城の外郭部を見るような錯覚さえ感じられる程だ。発掘調査によれば、空堀は障子堀であった事が
確認されており、やはり後北条氏の手が入っていたのは間違いないだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この城に天守は無かったが、江戸時代に天守代用の櫓として本丸に2重2階の櫓があったとの事。この櫓は瓦葺であった。
その他、本丸内には柿葺の2重2階の櫓と、同じく柿葺きの平櫓(櫛形櫓)が建っていたそうな。■■■■■■■■■■■■
三ノ丸の南面、西に寄った地点に大手門が。そこから南西へ向かって城下町が広がっているが、この城下町にも鉤折れの
街路や寺町(城の出曲輪として機能する)が散在する。更に城下町全体を囲み込む“大構”と呼ばれる総構えも作られており
岩槻の町は城を中心に荒川と大構で独立した敷地を構成していたのである。現状、大構は大半が埋め立てられたものの、
断片的に残る部分もあって、またこれも地図上では町区の区切りとしてなぞる事が出来るので面白い。さりとて、主郭部や
城下町までが現在では市街化されてしまったので、あまり明瞭な遺構が残る訳ではないのが残念な処だ。昭和の頃までは
それなりに残存する情緒も見られたというのだが…。ともあれ、鍛冶曲輪〜新曲輪は1925年(大正14年)3月31日に埼玉県
指定史跡に、市内愛宕神社付近に残る大構遺構は1974年(昭和49年)9月26日に市の史跡となっている。■■■■■■■
移築現存する建物が■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現存する建築物は大手門前にある時の鐘。阿部正春の創建後、天保年間(1831年〜1845年)に鐘楼は焼失したが幕末の
大岡忠恕の時代に再建されている。内部の鐘は創建以来の物なので、1958年(昭和33年)2月21日に岩槻市(当時)の有形
文化財となり、現在はさいたま市の文化財として継承されている。加えて、藩校の遷喬館(せんきょうかん)も残存しており、
1939年(昭和14年)3月31日に埼玉県の史跡指定を受けている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
移築建築としては岩槻城址公園内にある門が2棟現存。1つ目は黒門、城内のどこにあったか不明だが(大手門とする説も)
下見板張の長屋門で、この下見板部分が黒く塗られている事からその名が付けられた。桁行およそ13m×梁間3.7mの規模、
寄棟造で門扉の両側に小部屋が用意されている。廃城後、浦和に移され旧県庁や県知事公舎の正門とされたり、更に岩槻
市役所の通用門に転用されたりという歴史を経た後、1970年(昭和45年)現在地に設置された。修理・改修を多々受けたが、
概ね城門時代の古材が残され、1958年2月21日に岩槻市有形文化財とされている。もう1つの門は裏門と呼ばれる薬医門。
裏門と言われるが、これも元来の設置位置は明らかでない。廃城後に城下の民家に払い下げられたが、1980年(昭和55年)
所有者から市に寄贈され現在地に移設されている。門の間口は3m、奥行きは約2m、向かって左側の袖塀に潜戸を有する。
切妻造の瓦葺、1981年(昭和56年)5月12日にこれまた岩槻市の有形文化財に指定されている。左右の柱にあるホゾに墨書
銘が記され、それによると1770年(明和7年)大岡家家臣・武藤弥太夫(やだゆう)を奉行に修造され、更に1823年(文政6年)
板谷官治(かんじ)を奉行として修理が行われた事が判明している。加えて、さいたま市南区にある細淵家住宅の長屋門は
岩槻城からの移築城門と伝承されており、2006年(平成18年)3月2日に国の登録有形文化財となった。この長屋門は瓦葺の
切妻造、建物の南半分は門口、北半分が部屋になっている。門扉の北側には潜戸。欅材を用い、乳金具や八双金具も多く
付けられており、門構えは堂々とした雰囲気だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
写真は岩槻城址公園内の黒門。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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