武蔵国 岩槻城

岩槻城 現存長屋門(黒門)

 所在地:埼玉県さいたま市岩槻区太田・本丸・宮町・城町
(旧 埼玉県岩槻市太田・本丸・宮町・城町)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★☆■■



確定的に言えるのは「太田氏の持城」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
岩付(岩附)城とも。他に浮城・白鶴城などの別称も。変わった所では「竹たばの城」とか。荒川(元荒川)に面した、水の名城。
軍記物「鎌倉大草紙」によれば、1457年(長禄元年)太田左衛門大夫資清(すけきよ)・備中守資長(すけなが)、即ち太田道真
道灌父子の手で築かれた城とされる。言わずもがな、扇谷(おうぎがやつ)上杉家中の切れ者として名高い彼らが築いた城は
河越城(埼玉県川越市)や江戸城(東京都千代田区)と並び評される名城である(3城とも太田道灌築城説を起源とする城)。
一面の沼沢地を防御に利用した城である反面、地盤の緩い土地である故に工事が難航する訳だが、道灌築城伝説に拠ると
沼の畔で2羽の白鶴が木の枝を水面に落とし、その上に舞い降りたという姿を見て、彼は竹の束を沼に沈めて埋め立てる事を
思い浮かんだとか。これが「白鶴城」「竹たばの城」という別名の起源となっている。それでも工事は長く続き、太田氏の築城は
1464年(寛正5年)になって完成したとする。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ただ、近年の研究成果では同時代の僧侶・玉隠(ぎょくいん)が記した文書「文明明応年間関東禅林詩文等抄録」の中にある
「自耕斎詩軸并序」における内容が注目されて、「武州騎西郡有村、曰岩付、又曰中扇、附者傅也、岩付左衛門丞顕泰公父
故金吾、法諱正等、挟武略之名翼、有門蘭乃輝、築一城」という一文から「岩付左衛門丞顕泰」なる者の父「正等」が武蔵国
騎西郡岩付村に城を築いたと解釈するようになってきている。この岩付顕泰は忍(おし)城(埼玉県行田市)主の成田下総守
顕泰を指すと考えられ、正等とは彼の養父・成田自耕斎正等(しょうとう)だとされる。つまり岩付城を築いたのは成田正等、
この説では1478年(文明10年)の事だと言う。ただし、これに付いても「正等」は成田顕泰の実父・長尾尾張守忠景の事と見る
説、または太田道真の事を指すとする説があり、確定には至っていない。よって、岩付城の築城者としては太田父子説・成田
正等説・長尾忠景説或いはその他の上杉氏家臣説という諸々の説が入り乱れている事になろう。もっとも、誰が造ったにせよ
15世紀に入る頃には太田氏がこの城を持っていたようでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
“出来過ぎる家臣”太田道灌を怪しんだ主君・扇谷上杉修理大夫定正は彼を粛清。岩付城は道灌の養子・資家(すけいえ)が
受け継ぐ事になり、更にその子・美濃守資頼(すけより)が城主になる。ところが上杉氏の領地は次第に南関東から伸張する
小田原後北条氏により侵食され、岩付城に対しても攻撃が加えられるようになった。扇谷上杉氏に従っていた資頼は1524年
(大永4年)2月に後北条方へ寝返り、城代であった渋江右衛門大夫を戦死させる。これに対し扇谷側は甲斐守護・武田氏に
助力を求め、それに応じた武田陸奥守信虎が岩付まで遠征し同年7月20日に太田資頼を攻略、再び彼を扇谷上杉氏へ臣従
させた。この成り行きに後北条氏は次の手を打ち、右衛門大夫の縁者である渋江三郎を懐柔し1525年(大永5年)2月に岩付
城を落としている。この戦いは両軍合わせて3000の兵を失った激戦だったそうな。戦後、後北条氏は三郎を城代に任じた。
一方、岩付城を失った資頼は復讐の機を待ち、1530年(享禄3年)9月に三郎を討ち取って城を奪還。このように江戸〜岩付
〜河越という一連の太田家城郭群は上杉・北条の争奪戦に晒される時代となっていた。■■■■■■■■■■■■■■■

後北条氏支配下に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1546年(天文15年)4月の河越夜戦で扇谷上杉家は滅亡。岩付城主も資頼からその子・左京亮資顕(すけあき)に代替わりし
主家の滅亡に伴って後北条氏へと傾倒していった。ところが、その資顕が嫡子無きまま没したために資頼の2男・美濃守資正
(すけまさ)が家督を継承。兄・資顕とは違い強硬に後北条家への臣従を拒んだ資正は、親後北条派と反後北条派の対立を
顧みずに自領の独立を保とうとした。これにより1564年(永禄7年)7月に岩付城内では内訌が発生する。結果、後北条氏に
与する太田大膳大夫氏資(うじすけ)が城を乗取り資正を追放。氏資は資正の嫡男、資正は実の子に裏切られたのである。
翌1565年(永禄8年)に資正は岩付城奪還を画策して城内の旧臣に内通者を募るも、この計画は資正によって阻止された。
城を失った資正は反後北条氏の同盟者であった常陸の佐竹氏を頼り落ち延びて行った。■■■■■■■■■■■■■■
ところが城を獲った氏資は、1567年(永禄10年)8月23日に遠征先の上総国三船山(千葉県君津市・富津市)で戦死。彼には
男子が居なかった為、主君の北条左京大夫氏政(うじまさ)は自身の子である国増丸を岩付太田家の後嗣として養子に入れ
その国増丸(改め太田源五郎)が1582年(天正10年)7月8日に早世すると、今度は源五郎の弟・十郎氏房(うじふさ)が後継に
据えられる。ただ、彼らはいずれも形式的に岩付太田家に入嗣したのみで、実質的には後北条家が岩付城を直轄支配する
状態になった。結果として、後北条氏が豊臣秀吉から“天下統一最後の敵”として攻められた1590年(天正18年)に岩付城は
豊臣軍に攻められる。この時、城主・氏房は小田原城(神奈川県小田原市)の防備へと赴いていたので、氏房の宿老だった
伊達与兵衛房実(ふさざね)が2000の兵で岩付城の留守を預かったものの、浅野弾正少弼長政らが率いる敵は2万にも及び
多勢に無勢、2日間の戦闘で1000近い犠牲者を出して5月22日に降伏の止む無きに至った。■■■■■■■■■■■■■

幕藩体制での岩槻城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
後北条家が滅亡した後、関東に封ぜられたのは徳川家康。それに伴い、家康家臣の高力河内守清長(こうりききよなが)が
岩付城に2万石で配される。清長は“仏高力”と評される程に温厚篤実な人物として知られるが、江戸幕府成立後もそのまま
岩付城主の座を維持、彼が1608年(慶長13年)1月26日に没すると跡は嫡孫の摂津守忠房(ただふさ)に受け継がれている。
代替わりから日の浅い1609年(慶長14年)岩付城は大火によって全焼してしまうが、家康が鷹狩りの際に宿所として供すべく
突貫で復興させ家康から褒められたと言う。更に忠房は大坂の陣に於いて戦功を挙げ、それを評し1619年(元和5年)9月に
遠江国浜松(静岡県浜松市)3万石へ加増転封されている。これで岩槻(江戸期に入って岩付から改められたと見られる)は
一時的に天領となるが、翌1620年(元和6年)10月20日からは青山伯耆守忠俊が5万5000石で城主を任じられた。前任地は
常陸国江戸崎(茨城県稲敷市)1万石だ。忠俊は2代将軍・徳川秀忠の信任篤く、将軍家嫡男・家光の傅役に任じられたが、
生真面目すぎる働きが仇となり、厳しい教育が家光に嫌われた。そのため家光が将軍に任じられるや左遷人事の仕打ちを
受け、1623年(元和9年)10月19日に老中罷免の上で上総国大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)2万石へ減封されてしまった。
入れ替わりで相模国小田原から5万5000石で阿部備中守正次が入って、対馬守重次(しげつぐ)―備中守定高(さだたか)と
継承。定高が没した際に、彼の嫡子・作十郎(のちの阿部正邦(まさくに))は幼少なので定高の弟・伊予守正春(まさはる)が
家督を継いだが、これには家中でも異論が噴出し騒動になっている。なお、正春の代になる1671年(寛文11年)岩槻区内の
観光名所・時の鐘が創建された(現在の鐘楼は後世に再建されたものだが、鐘は当時からのもの)。作十郎が長じて対馬守
正邦となり家督が戻されると正春は上総国大多喜へ転出。他方、正邦も1681年(天和元年)に丹後国宮津(京都府宮津市)
9万9000石へ移封されており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
同年2月、下野国烏山(栃木県那須烏山市)5万石から1万石を加増された板倉内膳正重種(しげたね)が岩槻城主になる。
だが、老中だった重種は将軍継嗣問題の責任を問われこの年の11月25日に職を解かれ、更に翌1682年(天和2年)1万石を
減封の上で信濃国坂木(長野県埴科郡坂城町)へ懲罰的転封を命じられている。後に、戸田越前守忠昌が入封するものの
1686年(貞享3年)1月21日に1万石加増の6万1000石で下総国佐倉(千葉県佐倉市)へ。続いて丹波国亀山(京都府亀岡市)
3万8000石から1万石加増され藤井松平伊賀守忠周(ただちか)が入るも、これも1697年(元禄10年)2月11日に但馬国出石
(兵庫県豊岡市)へ移される。4月19日に5万石で小笠原佐渡守長重(ながしげ)が岩槻城主を命じられた。長重の後は2男の
壱岐守長煕(ながひろ)に受け継がれるが、彼は1711年(宝永8年)2月11日に遠江国掛川(静岡県掛川市)6万石へと移封。
今度は信濃国飯山(長野県飯山市)3万3000石の主であった永井伊豆守直敬(なおひろ)が同石高で岩槻に入り、永井家は
伊賀守尚平(なおひら)―伊豆守直陳(なおのぶ)と続くが、直陳は1756年(宝暦6年)5月21日、美濃国加納(岐阜県岐阜市)
3万2000石(尚平の家督相続時に分知があった事による石高減)へと転封している。■■■■■■■■■■■■■■■■
そして永井家に替わり大岡家が2万石で岩槻に入封する。上総国勝浦(千葉県勝浦市)1万5000石から5000石を加増された
大岡出雲守忠光(ただみつ)が城主となったのである。彼は9代将軍・徳川家重の側近として重用され、言語不明瞭であった
家重の言葉を聞き分けられる唯一の人物と言われた。しかし将軍直属の地位に驕る事無く、慈悲深く身を慎んだという彼は
流石、名奉行と謳われた大岡越前守忠相と同族の名士と言えるだろう。忠光は岩槻藩主としても善政を敷いており、当時の
狂歌に「大方は 出雲のほかに かみはなし」(大岡出雲守と出雲大社以外に神と崇められる者は居ない)と称えられた程だ。
岩槻城主大岡家は兵庫頭忠喜(ただよし)―式部少輔忠要(ただとし)―丹後守忠烈(ただやす)―主膳正忠正(ただまさ)―
主膳正忠固(ただかた)―兵庫頭忠恕(ただゆき)―主膳正忠貫(ただつら)と続いて明治維新を迎えている。■■■■■■

“埼玉県”と岩槻城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大岡家の統治時代およそ110年の間、岩槻藩は天災や幕府への奉勤によって財政赤字に悩み続け、更に幕末となるや軍備
増強の要もあって藩財政は破綻寸前になってしまう。そこへ岩槻城で火災が発生、本丸御殿は焼け落ちた。その状態で明治
維新となり、政府の発した所謂「廃城令」でも廃城の扱いとなった為、岩槻城は早々に破却されていく。ちなみに、廃藩置県
時点で岩槻藩領は岩槻県となったが、実質的に機能する前に1871年(明治4年)11月14日の第一次府県統合を迎え、この折
岩槻城地を用いて埼玉県(旧埼玉県)が発足する事となった。この県が「埼玉」の名称を使う事になったのは、岩槻城のある
場所が武蔵国「埼玉郡」岩槻町であったからだ。ところが先述の通り岩槻城には適した建物が無く、代替措置として浦和宿に
県庁が置かれた。この後、旧埼玉県と旧入間県(現在の埼玉県西部を所管した県)が合併、現在と同じ埼玉県が成立するも
結局そのまま県庁は浦和に置かれ、長らく埼玉県の県庁所在地は浦和市となっていたのである。なお、浦和宿があったのは
足立郡なので、浦和は「埼玉」という県名とは本来無縁だったと言える。現在、行田市に「埼玉(さきたま)」の地名があるので
“埼玉県名発祥の地”として売り出しているが、元を辿ると「埼玉」と言う県名が採用されたのは岩槻城に由来する訳である。
もっとも、浦和市は他の市町村と合併してさいたま市となり、そこに岩槻市も加わったので現在は一体のものなのだが(笑)

水に囲まれた縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、岩槻城の構成だが、城地は荒川が半円形に蛇行する地点の内側を利用した敷地で、川沿いには自然堤防が成立し、
その地形を外郭線として活用しつつ半円内部にいくつもの曲輪を並べた構造。自然堤防の内側にも水が入って大きな沼が
あり、そこに浮かぶ島々が曲輪となっていた。この荒川は江戸時代前期の河川改修で本流から切り離された為“元荒川”と
呼ばれるようになり、更に治水工事で流路が直線化している上、城内の沼も明治以降に埋め立てられてしまったのであまり
当時の「水城」という風情は感じられなくなっている。ただ、地図を見てみれば古の流路に沿って町割や道路が存在するので
古地図と対査しながら現状を確認するのが良うござろう。沼の内部には北から天神曲輪〜御茶屋曲輪〜竹束曲輪〜本丸〜
樹木屋敷〜三ノ丸が連なり、本丸の東面を塞いで二ノ丸と竹沢曲輪が並ぶ。水の中に曲輪が浮かぶという立地は、忍城と
共通するものがあり、成田氏による築城説も頷けるものがある。一方で曲輪の並び方自体は原初的な江戸城に近く、太田
道灌の築城説というのも外れていないような気もする。築城者の話はさて置き、主要な曲輪には馬出や出隅部などが附属し
防御力を高めているが、そもそも沼に囲まれた地で出隅まで構えるのは念を入れ過ぎている過剰防備な雰囲気さえある。
一方で川に沿った自然堤防地形には北側に新正寺曲輪、南側に鍛冶曲輪が置かれ、鍛冶曲輪の手前(西側)に新曲輪が
並ぶ。現状、岩槻城址公園として一般開放されているのは鍛冶曲輪と新曲輪の周辺のみだが、これらの内部には空堀や
土塁が縦横に張り巡らされ、しかも直線と屈曲を基調とし部分的には比高二重土塁となる箇所もあるので、後北条氏により
城が整備された戦国期の遺構が近世まで使用され続けた様子を確認できよう。分厚い土塁に直角の折れを組み合わせた
構造は、まるで小田原城の外郭部を見るような錯覚さえ感じられる程だ。発掘調査によれば、空堀は障子堀であった事が
確認されており、やはり後北条氏の手が入っていたのは間違いないだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この城に天守は無かったが、江戸時代に天守代用の櫓として本丸に2重2階の櫓があったとの事。この櫓は瓦葺であった。
その他、本丸内には柿葺の2重2階の櫓と、同じく柿葺きの平櫓(櫛形櫓)が建っていたそうな。■■■■■■■■■■■■
三ノ丸の南面、西に寄った地点に大手門が。そこから南西へ向かって城下町が広がっているが、この城下町にも鉤折れの
街路や寺町(城の出曲輪として機能する)が散在する。更に城下町全体を囲み込む“大構”と呼ばれる総構えも作られており
岩槻の町は城を中心に荒川と大構で独立した敷地を構成していたのである。現状、大構は大半が埋め立てられたものの、
断片的に残る部分もあって、またこれも地図上では町区の区切りとしてなぞる事が出来るので面白い。さりとて、主郭部や
城下町までが現在では市街化されてしまったので、あまり明瞭な遺構が残る訳ではないのが残念な処だ。昭和の頃までは
それなりに残存する情緒も見られたというのだが…。ともあれ、鍛冶曲輪〜新曲輪は1925年(大正14年)3月31日に埼玉県
指定史跡に、市内愛宕神社付近に残る大構遺構は1974年(昭和49年)9月26日に市の史跡となっている。■■■■■■■

移築現存する建物が■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現存する建築物は大手門前にある時の鐘。阿部正春の創建後、天保年間(1831年〜1845年)に鐘楼は焼失したが幕末の
大岡忠恕の時代に再建されている。内部の鐘は創建以来の物なので、1958年(昭和33年)2月21日に岩槻市(当時)の有形
文化財となり、現在はさいたま市の文化財として継承されている。加えて、藩校の遷喬館(せんきょうかん)も残存しており、
1939年(昭和14年)3月31日に埼玉県の史跡指定を受けている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
移築建築としては岩槻城址公園内にある門が2棟現存。1つ目は黒門、城内のどこにあったか不明だが(大手門とする説も)
下見板張の長屋門で、この下見板部分が黒く塗られている事からその名が付けられた。桁行およそ13m×梁間3.7mの規模、
寄棟造で門扉の両側に小部屋が用意されている。廃城後、浦和に移され旧県庁や県知事公舎の正門とされたり、更に岩槻
市役所の通用門に転用されたりという歴史を経た後、1970年(昭和45年)現在地に設置された。修理・改修を多々受けたが、
概ね城門時代の古材が残され、1958年2月21日に岩槻市有形文化財とされている。もう1つの門は裏門と呼ばれる薬医門。
裏門と言われるが、これも元来の設置位置は明らかでない。廃城後に城下の民家に払い下げられたが、1980年(昭和55年)
所有者から市に寄贈され現在地に移設されている。門の間口は3m、奥行きは約2m、向かって左側の袖塀に潜戸を有する。
切妻造の瓦葺、1981年(昭和56年)5月12日にこれまた岩槻市の有形文化財に指定されている。左右の柱にあるホゾに墨書
銘が記され、それによると1770年(明和7年)大岡家家臣・武藤弥太夫(やだゆう)を奉行に修造され、更に1823年(文政6年)
板谷官治(かんじ)を奉行として修理が行われた事が判明している。加えて、さいたま市南区にある細淵家住宅の長屋門は
岩槻城からの移築城門と伝承されており、2006年(平成18年)3月2日に国の登録有形文化財となった。この長屋門は瓦葺の
切妻造、建物の南半分は門口、北半分が部屋になっている。門扉の北側には潜戸。欅材を用い、乳金具や八双金具も多く
付けられており、門構えは堂々とした雰囲気だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
写真は岩槻城址公園内の黒門。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

時鐘櫓《鐘は市指定文化財》・堀・土塁・郭群等
城址公園内は県指定史跡
大構(部分)は市指定史跡

移築された遺構として
黒門・裏門《以上市指定文化財》
細淵家住宅長屋門(伝岩槻城門)《国登録有形文化財》








武蔵国 大和田陣屋

大和田陣屋跡 土塁(現在は湮滅)

 所在地:埼玉県さいたま市見沼区大和田町
(旧 埼玉県さいたま市大和田町/埼玉県大宮市大和田町)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

■■■■
■■■■



「駿河伊達家」の陣屋■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1590年の岩槻城攻防戦の際に名前の出た伊達房実が江戸時代になってから領地を治める為に構えた陣屋。伊達陣屋とも。
房実の血筋である駿河伊達家は遡れば仙台藩主の伊達家と同族だとか。常陸国伊佐荘(茨城県筑西市)を発祥の地として
伊達姓を称した伊達家始祖が遠江守朝宗(ともむね)。その嫡流となる次郎宗村(むねむら、朝宗2男)の系統が陸奥国へと
進出して後の仙台伊達家になる訳だが、宗村の弟(朝宗4男)・四郎左衛門為家(ためいえ)の後裔が駿河伊達家の系譜で、
南北朝動乱期に伊達右近将監景宗(かげむね)が足利尊氏に臣従して駿河守護・今川五郎範国(のりくに)の奉行人に取り
立てられた事が駿河で土着する契機になったとされている。以後、歴代駿河伊達氏は今川家に所領安堵を受けていく一方、
戦国争乱激しくなる中、一門の中には他家に仕える者もいたようだ。房実の祖父・政充(まさみつ)は後北条氏の家臣にして
その子(房実の父)である宗春(むねはる)は今川家臣、今川家の没落後は徳川家臣となっていた。与兵衛宗春は家康の2女
督姫(とくひめ)が北条左京大夫氏直に嫁ぐ際、彼女の従者として後北条家に入り、以後は後北条家臣となっている。こうした
経緯から房実は北条氏房(太田氏房)付の家老とされ、件の岩槻城攻防戦を指揮する事になるのであった。■■■■■■■
1590年7月に小田原城が開城、8月に氏直が高野山へ隠棲する事になって戦国大名としての小田原後北条氏は滅亡したが
関東の地を預かる事になった徳川家康は後北条の遺臣を積極的に登用している。房実もこの8月、家康に召し抱えられた。
岩槻城攻防戦での奮戦ぶりを評されての事と言われるが、父・宗春が元々家康の家臣であったという縁もあってだろうか、
彼の居城・伊達城(さいたま市見沼区大和田町内、岩槻城の支城)があった大和田村250石の所領を1591年(天正19年)に
安堵されている。伊達城は既に廃されていたのか、或いは新規家臣が大々的に城へ入る事を遠慮したのか、房実は村の
統治と自身の居館になる小規模な陣屋を構えた。これが大和田陣屋である。後年、房実は常陸国鹿島郡(茨城県鉾田市)
200石を加増され合計450石を取る旗本とされ、その系譜は幕末まで続いて陣屋を維持したと言うが、廃絶の様子は不明で
もっと早い段階で無くなっていたのではなかろうか。江戸時代後期に編纂された幕府の地誌書「新編武蔵風土記稿」の中、
大和田村の項目では「陣屋蹟 村の西寄にあり、今は陸田及竹藪の地となり、境界さへさだかならず」と記されており、既に
江戸後期の時点で陣屋が廃絶した様子が描かれている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

宅地に戻った跡地■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現状で陣屋跡は完全に宅地化されてしまった。埼玉県立大宮商業高校の南に隣接する民家一角がそれで、往時の規模は
東西およそ200m×南北80m程という長方形の敷地を有し、土塁で全周が囲まれていたようだが、詳しい構造は分からない。
陣屋の西側には見沼が入り込んでいて(現在は無い)、当時は船着場があって水運を活用していたと推測されている。また
この一帯は微高地となっており、現在も陣屋跡地西側の三角点は海抜18.2mを指すさいたま市内の最高地点となっている。
見沼から延びる南北方向の芝川が水運航路、陸路は大宮宿と日光街道を東西方向に結ぶ中継地点となる所なので、水陸
両路の交差地点を押さえた立地だったと言えよう。しかし政令指定都市となったさいたま市では爆発的に宅地開発が進み
この周囲は軒並み住宅地に変貌。陣屋の一角には僅かに土塁(写真)が残されていたものの、これも2017年(平成29年)の
秋頃から削り取られてしまった。よって、現在はもうこの写真の姿は見られない。大変残念ではあるが、現代に生きる人々の
営みを妨げる訳にもいかないので致し方ない話でござろう。ともあれ、このような宅地整備に先立って大宮市時代の1995年
(平成7年)を第1次として、以降2015年(平成27年)1月まで合計6次に及ぶ発掘調査が行われている。それによれば、中世〜
近世に至る集落痕(掘立柱建物・柱穴列・土坑・井戸・溝を検出、陶磁器や土器・板碑を出土)が確認され、その後に土塁が
構築されたという歴史が判明している。城館遺構としては土坑や溝を確認、羽口(はぐち、鍛冶に使う送風管)・土器・陶磁器
銭貨・砥石・瓦といった品が出た。また、縄文集落の存在も確認されたとの事。この地は先史の頃から「住宅地」だった訳だ。







武蔵国 伊奈氏屋敷

伊奈氏屋敷跡 土塁

 所在地:埼玉県北足立郡伊奈町大字小室字下丸の内

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★☆■■
■■■■



関東郡代・伊奈氏の陣屋■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こちらも江戸時代になってからの陣屋。伊奈氏屋敷とあるように、その主となったのは関東郡代として有名な伊奈備前守忠次
(ただつぐ)と彼の子孫である。忠次は民政の達人であり、卓越した土木知識と農村経営技能を活かし関東地方各所において
新田開発・河川改修・検地・寺社政策・農業指導など多くの功績を働いた能吏だった。その活躍は枚挙に暇がない上、関東
郡代の職は彼の子孫にも受け継がれていく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1590年、徳川家康が関東に入封。家康配下の官僚であった忠次は武蔵国小室・鴻巣など1万3000石(1万石とも)を与えられ
1591年6月に小室で陣屋を構えた。これが伊奈氏屋敷、伊奈陣屋・小室陣屋・伊奈城・丸山城とも呼ばれる居館である。当時
この場所には閼伽井坊(あかいぼう)と呼ばれる真言宗西光山安養院無量寺があったのだが、忠次は陣屋構築に際しその
寺坊を倉田村(埼玉県桶川市倉田)の真言宗五大山明星院に移したと言う。ところでこの「閼伽井坊」に関してだが、家康が
関東へ入る以前の太守である小田原後北条氏が纏めた軍役帳「小田原衆所領役帳」の中に御馬廻衆として「閼伽井坊」の
名前がある。記載された閼伽井坊と伊奈氏屋敷となった閼伽井坊が同一の物かは不明なのだが、可能性として閼伽井坊が
軍事的機能を果たしていた組織、つまり城塞であったとする説があって「丸山城」の名はその頃のものとも考えられている。
他方、この地域は岩槻城主太田氏が治めていた場所なので、太田氏や後北条氏から「赤井坊」「閼伽井坊」に対する数々の
安堵状や禁制(きんぜい、戦時の安全保障を約する命令書)が発給されており、更に「小田原衆所領役帳」以外には一切の
軍事記録に記載がない事から、閼伽井坊は単なる寺に過ぎないと見る説もある。忠次が元々あった城を改造したのか、又は
新規に陣屋を構えたのかは分からないものの、この陣屋は中世城館の雰囲気を色濃く残しており「伊奈城」「丸山城」などと
城構えとして表現されるのも肯けるものがござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
陣屋の敷地は細長い五角形をしており、北西隅部を根元とし南東側に突き出す半島状の地形となっていた。当時、周辺は
全て湿地帯に囲まれ、まさに半島そのものという要害の立地だったようで、寺坊を退去させてでも城を構えたくなる場所だ。
敷地の中央付近に主郭、東側に二郭、北側に三郭。これらの他に蔵屋敷や馬出状の曲輪が付属、曲輪の外縁部は土塁で
囲まれている。曲輪の形状も複雑に屈曲して出隅部が多く構えられ、横矢を掛ける構造だ。やはり陣屋というよりは立派に
城郭の体を成している。表門は南東隅、搦手(裏門)は北西隅とされ、陣屋の外周全体も大きく堀で囲まれていた。驚く事に
発掘調査の結果こうした堀は障子堀の構造になっていたと確認されており、これが後北条時代の旧城(丸山城?)を踏襲し
陣屋が再構築されたと考える説の一助となっている一方、関東ローム層の土質を最大限に活用できる後北条流築城術を
採用したものの陣屋自体は新しいものだと見る説もあるので、由来はよく分からないのが現状だ。また、各所に残る土塁は
近代の農地造成時に盛られたものもあるそうで、必ずしも目に見える全ての残存構造物が当時のものでは無い事に注意が
必要であろう。陣屋の跡地全体は横方向(北東〜南西)約550m×縦方向(北西〜南東)1000m弱という大規模なものだ。

江戸時代全般を通じて維持■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
忠次は1610年(慶長5年)6月13日に死去、その跡は嫡男の筑後守忠政(ただまさ)が継ぎ父に劣らぬ才覚を発揮した。だが
彼は1618年(元和4年)3月10日に数え34歳の若さで亡くなり、伊奈家の家督は僅か8歳の忠勝(ただかつ、忠政の長男)が
受け継いだ。されど、幼少過ぎる忠勝が関東郡代の要職に就ける筈がなく、その職は忠政の弟・半十郎忠治(ただはる)が
継ぐ事になる。以降、関東郡代職は忠治の系統が継承していくのだが、伊奈氏屋敷の主である忠勝は翌1619年8月16日に
夭折、当然ながら子など居る訳もなく大名としての伊奈家は無嗣断絶の処分が下される事になった。しかしながら、父祖の
功績多大なる事を勘案し亡き忠勝の弟・五郎左衛門忠隆(ただたか)に小室周辺1186石が残される事になった為、伊奈氏
屋敷は小室藩の藩庁ではなく旗本伊奈熊蔵家(歴代伊奈氏当主は熊蔵を名乗っていた)の居館として存続していった。
忠隆の後、伊奈熊蔵家は十左衛門宗英(むねふさ)―甚太郎貞長(さだなが)―十左衛門忠義―主馬忠豊―五郎助忠賢
卯之助忠孚―熊蔵忠寛―十左衛門忠昶と続いて明治維新を迎える。但し、関東郡代職の本拠としては1629年(寛永6年)
忠治の館である赤山陣屋(埼玉県川口市)に移る事となった上、伊奈熊蔵家は旗本となってから江戸屋敷に居住しており
伊奈氏屋敷の管理は在地の家臣団に委ねられるようになった。しかも、1660年(万治3年)には小室郷の知行取扱地代官
鈴木八郎右衛門が江戸屋敷詰とされ、それを契機として事実上陣屋機能は停止したようだ。鈴木家に代わって内村家が
地代官を継承したと言うが、陣屋敷地の管理は現地の豪農・田中家に任され、以後は細々と屋敷地が維持されたらしい。
記録を追えば、1733年(享保18年)陣屋の大橋・蔵屋敷・裏門前の橋を石橋に架け替えたと言い、「新編武蔵風土記稿」は
「今構の内にも民戸十二軒散在して陸田及び松杉の林多し」とあり、陣屋働きをする者らが構えの内側に在住するものの
田や植林地として敷地を改変していった様子が描かれている。1849年(嘉永2年)陣屋内改めが行われ敷地の測量を為し
翌1850年(嘉永3年)2月19日には近郷8箇村の負担により濠の浚渫が行われたそうだが、前年に行われた測量の結果を
別所村の組頭・田中庄兵衛(御林山預かり)が作成した絵図面の上では、既に陣屋建築物は門しか残されておらず、荒廃
極まっていた様子が確認できよう。幕末の風雲告げる1863年(文久3年)3月、近隣4箇村の手に拠って陣屋の修復工事を
行ったが、程なく武家政権の崩壊を迎え1870年(明治3年)4月に伊奈氏屋敷跡の開墾願いが出され、明治政府が収公した
土地の払い下げが行われている。そのため明治初頭に各所の門も破却され、陣屋内の建築物は全て廃された。■■■■

遺構の残存状況■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
民有地となった陣屋跡地は開拓や住宅建設が行われたが、各所の土塁や堀は概ね残存。故に1934年(昭和9年)3月31日
埼玉県の史跡に指定され申した。とはいえ、史跡として手入れされる事は殆どなく高度成長期を迎え、陣屋跡地は大半が
宅地・農地として放置されていた。この状況が変わるのが1980年代以降。東北・上越新幹線の敷設工事に伴って、1981年
(昭和56年)に発掘調査が行われ、上記の障子堀が確認されたのである。以後、1984年(昭和59年)・1985年(昭和60年)
1988年(昭和63年)・1991年(平成3年)・1992年(平成4年)・2001年(平成13年)・2002年(平成14年)・2005年(平成17年)
2006年(平成18年)・2011年(平成23年)・2015年(平成27年)・2017年(平成29年)・2018年(平成30年)更に改元し2019年
(令和元年)と立て続けに発掘調査が継続されており(記載は2021年(令和3年)現在の時点)、障子堀の他に溝や硬化面、
井戸跡・柱穴跡・土坑・堀跡を確認、陶器片・磁器片や銭貨(永楽銭)・木製品などが出土している。荒廃こそすれ、ここが
開発などで荒らされた訳ではなくそのまま保存された結果と言え申そう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
半面、民有地であるが故に跡地は他者の侵入を拒み、それは史跡整備においてもネックとなっていた。県の史跡となった
後も陣屋跡地は史跡としての研究・開発・整備は行われず、そうした行為を行おうとしても住民の方々から反発が多かった
らしい。よって、見学には細心の注意が必要である。むやみに敷地の中へ立ち入らず、また民家や個人を特定するような
写真撮影は厳に慎むべきであろう。ただ、史跡活用を図る伊奈町と住民の方々との対話が進展したおかげで、ここ数年で
徐々に“雪解け”が始まったようでもあり、2017年には陣屋散策路が整備され、仮設の駐車場も用意された模様。今後とも
史跡の利用が良い方向に進む事を祈りたい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
場所は東北新幹線と上越新幹線の分岐点付近、埼玉新都市交通(ニューシャトル)伊奈線の丸山駅東側。駅を出て東北
新幹線の向こう側へ向かえばそこが陣屋裏門の地点であり、散策路を往けば風景を眺めながら陣屋遺構を確認できる。
写真は散策路内の案内板。土塁がはっきりと見て取れよう。くれぐれも住民の方の迷惑にならないよう気を付けて。■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
陣屋敷地内は県指定史跡








武蔵国 加納城

武州加納城跡 土塁

 所在地:埼玉県桶川市大字加納字常敷

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

■■■■
■■■■



地元武士・本木氏の城館■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
室町時代〜戦国時代にかけて使用されたと見られる城館跡と言われるが、詳しい来歴は不明。場所柄、岩槻城の支城だと
考えられ、この地に在住し岩槻城主・太田家に仕えていた本木氏の城ではないかとの説もある。この本木氏は“鴻巣七騎”と
謳われた豪族だが、徳川家康が関東入封する頃には既に帰農していたらしく、江戸時代には加納村の名主として存続した。
帰農に及んで本木氏は城を退去していたとの事で、廃城も家康入封以前という事になろう。■■■■■■■■■■■■■■
加納城は北を流れる赤堀川が作り出す低湿地を防御に取り込んだ立地で、川沿いから広がる谷間(湿地帯)が曲輪の東西
両脇まで広がり、敵を寄せ付けない要害の構えとなっていた。内郭の周りを外郭が取り囲む輪郭式の縄張りで、内郭は東西
約80m×南北60m程の長方形に北東隅の出張が付属した形状、外郭はこれを大きく囲繞し東西180m?×南北150m程度は
あったようだ。この外郭は北西隅が斜めに欠けた五角形のような敷地だったと推測されている。内郭は1万1400u、外郭まで
含めると4万2898uの敷地を有したようである。こうした構造物が昭和30年代までは残されていたのだが、昭和40年代からは
宅地造成が始まり、大半が湮滅してしまった。この宅地開発に伴い、1967年(昭和42年)に発掘調査が行われている。■■■
城跡は桶川市の北部、加納地区の中。埼玉県道12号線と同311号線が交わり、圏央道が被さる「桶川高校入口」交差点から
真北400mの所にある城跡団地の一帯が跡地である。団地と言うが高層住宅が並ぶ訳ではなく、戸建て住宅が密集している
“住宅団”というような環境だ。現状、これらの住宅建設によって堀や土塁は整地されたが、街路は曲輪の形を踏襲したので
外郭の北西隅を切り欠いた形状や、南端部の道に「折り歪(ひずみ)」と呼ばれる鉤折れの名残りが残されている。これらの
道は堀を埋めて作られたので地下にはその遺構が埋没しているとの事だ。また、内郭の南端部に相当する土塁と堀の跡が
薄っっっすらと残存(写真)している。桶川市は1997年(平成9年)10月1日に城跡を市指定文化財に指定しており、この残存
土塁部分を頑張って保全している(宅地開発で見事な土塁が失われた大和田陣屋とは対照的だ…)。よって、土塁の見学は
可能ではあるが、民家の間を縫ってそこへ辿り着く事になるので、くれぐれも騒ぎ立てたりしないよう配慮をお願い申す。■■



現存する遺構

堀・土塁等
城域内は市指定史跡




深谷城  埼玉県北部諸城館