武蔵国 忍城

忍城模擬三重櫓

 所在地:埼玉県行田市城南・本丸・水城公園

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★☆■■■
★★☆■■



関東武家の名門・成田氏の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
“忍(おし)の浮城”と称された堅城。別名で亀城とも。巨大な沼の中に浮かぶ姿から名付けられた。■■■■■■■■■■■■■■■
忍城のある埼玉県行田市には「埼玉」県名の由来となった埼玉(さきたま)古墳群があり、古代から大規模な集落が営まれ発展してきた
事を物語っている。中世の、武士による統治の時代になれば城が築かれるのは自然な成り行きであろう。が、忍城の正確な築城時期は
不明で諸説あり、文明年間(1469年〜1487年)とも、1489年(延徳元年)あるいは1491年(延徳3年)とも言われはっきりしない。築城者が
成田下総守親泰(なりたちかやす)である事だけは間違いないようだ。とりあえず、文献によれば1479年(文明11年)に発せられた足利
成氏(しげうじ)の書状に忍城と城主・成田氏に関する記載があるため、この時代までには創建されていたと思われる。■■■■■■■
また、1509年(永正6年)には連歌師の宗長(そうちょう)が忍城を来訪した記録も残っている。■■■■■■■■■■■■■■■■■
城主・成田氏は現在の埼玉県熊谷市上之(かみの)を本拠地とする武士団で、所謂「武蔵七党」の一つに数えられる古豪。室町期には
関東管領(室町体制における関東地方の統括者)・山内(やまのうち)上杉氏の被官となり勢力を伸張、文明の頃(1469年〜1487年)に
同じく武蔵七党の一家であった児玉氏を滅ぼし、埼玉郡を領有する事に成功する。これに伴って忍城が築かれたのであった。この城を
拠点とした成田氏は確固とした勢力基盤を得るが、逆に主家である上杉氏は小田原から伸張した後北条氏からの圧迫を受けて衰退、
遂に1552年(天文21年)3月、国を棄てて越後長尾氏の庇護を求めた。これにより1553年(天文22年)頃から成田氏は後北条氏に従う
ようになったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが、上杉氏の復権を大義に掲げた長尾氏はしばしば関東へ出征し、後北条氏との間に深刻な抗争を繰り広げるようになる。その
主戦場となったのは武蔵国で、精強な軍を擁する長尾氏と、深謀な戦略を駆使する後北条氏との狭間に立たされた成田氏は、去就に
苦慮する事態となってしまった。その最たる事件が1561年(永禄4年)の長尾景虎による“越山”、小田原攻めであろう。軍神と呼ばれた
景虎は諸勢力を糾合し後北条氏を倒すべく軍を進めて、小田原城(神奈川県小田原市)の攻略に取り組んだのである。流石に多勢に
無勢、この時は成田氏も景虎に従い小田原攻めに加わっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
されど小田原城は天下の堅城、景虎が大軍を率いても落とす事が出来ない。攻略を諦めた景虎は、鎌倉鶴岡八幡宮で関東管領職と
上杉氏の家督を相続する式典を執り行い、越後へと引き返すしかなかった。しかし、事件はここで起きた。儀式に参列した忍城主・成田
下総守長泰(ながやす)が、景虎に無礼を働いたとして衆目の面前で折檻を受けたのである。果たして本当にそんな咎があったのかは
定かでなく、諸将に景虎の尊大さを見せ付けるため長泰をスケープゴートにしたとも考えられよう。ともあれこの一件で恥をかかされた
長泰は、長尾景虎改め上杉弾正少弼政虎(後の謙信)が越後へ引き上げた直後、後北条氏への再度の帰属を決心。以後、成田氏は
後北条家中で他国衆上席に数えられる重臣として遇されるようになったのだった。1574年(天正2年)再び謙信が関東へ襲来、忍城にも
攻撃を仕掛けるが、この時に成田氏は城を堅く守り、謙信は収穫無く越後へと引き上げる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■

三成の水攻めを跳ね返す!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そんな成田氏と忍城の転機は、1590年(天正18年)。それまでに西国を平定した豊臣秀吉が、天下統一の総仕上げとして後北条氏の
征伐に取り掛かったのである。総勢20万にもなる大軍を率いた秀吉は小田原の町を取り囲み、後北条氏を締め上げる。それと同時に
関東各地へ攻略部隊を派遣し、後北条方の諸城を次々と攻めた。大軍に敵わず、こうした城は次々と落城していく。もちろん、忍城も
例外ではなかった。石田治部少輔三成率いる攻撃部隊に囲まれ、猛攻を受けたのである。折しも城主・成田左馬助氏長(うじなが)は
小田原城に詰めており、忍の城は主が不在だったのだが、しかし籠城軍は良く持ち堪えた。それというのも、忍城は周囲一帯を大きな
沼で護られ、外から直接攻撃する方法がなかったからである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
攻めあぐねる三成は、かつて秀吉が備中高松城(岡山県岡山市北区)を攻略した方法を再現し豊臣家の威光を関東に知らしめようと
した。水攻めを行おうとしたのだ。忍城に対する水攻めを命じたのが秀吉本人だと云う説もあるが、ともあれ三成は水を貯める堤防を
忍城の周囲一帯に構築。ところがこの策は失敗に終わった。満々と水を湛えたのもつかの間、堤防が決壊し、何と攻城軍側に甚大な
死傷者を出したのである。これにより三成の忍城攻めは大きく遅滞、逆に籠城側は勢い付きますます堅く城を守り、結局、後北条氏の
本城・小田原城が降伏してもなお忍城は耐え続けたのだった。小田原開城から6日後、成田氏長が帰還し城兵に開城を勧告。これで
ようやく戦いが終結し、忍城の門は開かれる。無論、大健闘の城兵は助命され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小田原陥落後まで生き延びた後北条方の城は忍城だけであり、この城が如何に堅固な水上要塞であったかが窺い知れよう。■■■

近世城郭へと進化■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて後北条氏亡き後の関東地方は秀吉の差配により徳川家康が入封する。忍城には徳川一門の深溝(ふこうぞ)松平主殿助家忠が
入城し、次いで1592年(文禄元年)からは家康の4男・松平下野守忠吉(ただよし)が10万石を以って城主に任じられた。しかし1600年
(慶長5年)の関ヶ原合戦後は忠吉が尾張国清洲(愛知県清須市)へと移された為、一時城番による管理とされる。1626年(寛永3年)
武蔵国深谷(埼玉県深谷市)から徳川譜代重臣の酒井讃岐守忠勝が5万石で入ったが、翌1627年(寛永4年)に酒井家は武蔵国河越
(埼玉県川越市)へと移されて、再び番城に。そして1633年(寛永10年)3万石の石高で松平(大河内)伊豆守信綱が入封、以後は徳川
譜代家臣が城主を歴任した。ちなみに忠勝は幕府大老を務め、信綱は“知恵伊豆”と呼ばれた幕閣の切れ者であり、水攻めを耐えた
堅城にして江戸の北面防備を担う忍城を任せる事が幕府にとってどれほど重要であったかが垣間見えよう。それはさて置き、1639年
(寛永16年)1月5日からは下野国壬生(栃木県下都賀郡壬生町)より移された阿部豊後守忠秋(ただあき)が5万石で城主になった。
以後、播磨守正能(まさよし)―豊後守正武(まさたけ)と代を重ねるが、この間に阿部氏は幕府に許可を得て1694年(元禄7年)から
城の大改修を行う。併せて城下町の再整備も行い、1702年(元禄15年)天守に相当する御三階櫓が創立した事でこの工事の完成を
見たのでござった。御三階櫓は三ノ丸外側に置かれる縄張上特異な事例であった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうして完成した近世忍城は本丸・二ノ丸・三ノ丸が南北方向で連郭式に並び、それらを囲うように多数の曲輪群がひしめいている。
無論、水城だけあってこれらの諸曲輪は水濠で分断され、特に主郭群の東側は巨大な沼が広がって対岸の城下町と隔絶した状況で
あった。城主の御殿は二ノ丸に置かれ、本丸内部は自然のまま森になっていたようだ。江戸から日光へ向かう街道に近い忍城は、
将軍が日光東照宮へ参詣する場合を考慮し、建物こそ建てられなかったものの本丸を将軍御成の空間と位置づけ、二ノ丸を藩主の
敷地としていたのでござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
忍城を完成させた阿部氏は更に豊後守正喬(まさたか)―飛騨守正允(まさちか)―能登守正敏(まさとし)―豊後守正識(まさつね)―
播磨守正由(まさより)―正権(まさのり)と代替わりし9代184年間に渡り忍城主を継承してきたのだが、1823年(文政6年)3月24日に
陸奥国白河(福島県白河市)へ移封され、それに代わって伊勢国桑名(三重県桑名市)から10万石で松平(奥平)氏が入り明治まで
続く。松平氏は5代48年の統治に及び、下総守忠堯(ただたか)―式部大輔忠彦(たださと)―左近衛少将忠国(ただくに)―下総守
忠誠(ただざね)―忠敬(ただたか)と家督を継いでいる。なお、松平忠堯は桑名から移るにあたり桑名城にあった東照宮を忍城内に
遷座させており、これは現在も忍東照宮として徳川家康と松平下総守忠明(松平(奥平)氏の始祖)を祀っているのでござる。■■■

幕藩体制の終わりを迎えて■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、幕末になると忍藩は様々な軍事動員に駆り出された。天保年間(1831年〜1845年)以降、たび重なる異国船出現に備えて房総
半島の警備任務を与えられ、江戸湾に品川台場(東京都港区)が構築されてからは第三台場の警備担当とされている。また、1864年
(元治元年)水戸天狗党の乱が勃発すると幕府追討軍の兵糧警備を行い水戸や那珂湊へ出陣。更に不穏な上方情勢に対処するよう
幕府から命じられ、松平忠誠は3度に渡って上洛を行ったのだった。このうち、3度目の上洛の時に鳥羽伏見の戦いが勃発し、忍藩も
佐幕か官軍参加かで揺れ動いたが、所領に戻った忠誠は新政府軍が熊谷まで進撃した情勢を見て倒幕側に立つ事を決意、以後は
官軍に参加した。忍藩の兵は北関東から南奥羽周辺に進軍、旧幕府軍残党や東北諸藩の軍勢と交戦したと言う。■■■■■■■■
明治政府に恭順した忍藩は1870年(明治3年)城の修理を今後行わない事を願い出ているが、その翌年である1871年(明治4年)7月
14日に廃藩置県が行われ忍県が設置された為、城の二ノ丸御殿が県庁として使用される事になった。ところがこの年の暮れに県が
整理され、それまで3府302県であったものが1使3府72県に統合された。忍県も埼玉県に編入され、僅か4ヶ月で消滅。結果、忍城は
完全に廃城とされる事になり、城内の建物は1873年(明治6年)に競売に掛けられ軒並み破却された。水城として有名であった城地も
大半が埋立てられ、宅地や耕作地となる。現在まで残る忍城の遺構は僅かな土塁、それに埋め立てられず残った外堀の一部のみで
ござる。この水濠は水城公園として開放されているがかつてはもっと広大な沼であったのは言うまでもない。建築物は唯一、競売で
移築された北谷(きたや)門だけが埼玉県加須市の真言宗玉オ山総願寺の黒門として残存している。この門は幅3.2m×高さ5.5mの
総欅造り、1960年(昭和35年)9月8日に加須市の指定文化財となっており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
殆んど旧状を残さない忍城だが、近年は史跡として整備が行われ、本丸跡に郷土博物館が建てられて1988年(昭和63年)2月17日に
開館した。この博物館は本館に付随する形で創立された模擬三重櫓(写真)があり、資料展示と共に行田市街を一望する展望台にも
なっている。ちなみに、この三重櫓は1873年に作成された忍城鳥瞰図の描写にある御三階櫓の姿を基にしている。しかし設置位置は
旧来の場所とは全く違う所なので正確な復元とは言えない。大きくて堂々とした風格ある櫓なのだが、こうした点から城愛好家からは
賛否両論あるようだ。個人的には悪くないとは思っているのだが…。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なおこの三重櫓の中に、かつて忍城二ノ丸に置かれ時鐘として用いられてた鐘が移設展示されている。忍城往時の様子を窺い知る
史料として、貴重なものでござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は県指定史跡

移築された遺構として
総願寺黒門(旧忍城北谷門)《加須市指定文化財》・時の鐘








武蔵国 石田三成陣城

石田三成陣城址 丸墓山古墳

 所在地:埼玉県行田市大字埼玉

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★★☆



古墳利用の陣所■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
行田市郊外、さきたま古墳群にはいくつもの墳墓が並び勇壮な景色を見る事ができる。その中にある丸墓山(まるはかやま)古墳は
直径102m×高さ18.9mの規模を誇り、日本最大の円墳とも言われてござる。発掘出土品から6世紀前半のものと推測されるが、その
丸墓山古墳が日本史の上で再び脚光を浴びるのは1590年の事。上に記した忍城攻防戦の折に、豊臣方の部将・石田三成が本陣を
置いたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
豊臣秀吉が天下統一の総仕上げに小田原の後北条氏を攻め、関東各地にある後北条方の諸城郭を攻略。その中の一つ、忍城も
攻撃対象となり部隊を率いる三成は一大包囲戦を展開するが、忍城近辺は低湿地帯の平地続きで周辺に眺望を確保する地点が
少ない為、忍城本丸から東南東2.3kmほど離れたこの丸墓山古墳に陣を構えたのだろう。古墳という人造物であるが、その大きさは
さながら天然の小山というほどの規模であり、当時は古墳の頂から忍城の中を見通せたのかもしれない。■■■■■■■■■■■
ところが、忍城は音に聞こえた水辺の堅城。包囲軍はなかなか攻めかかる事ができない。そこで計を案じた三成は、かつて秀吉が
備中高松城を包囲した時と同様に水利に長じた忍城を逆に水攻めで困窮させようと画策するのだった。斯くして、丸墓山から発する
土塁を構築し忍城を封鎖。この堤は全長38kmに及び、突貫工事の結果約1週間で完成。そこへ元荒川から水を引き込んで、忍城を
水没させようとした。これが成功すれば忍城は孤立し、籠城は不可能となる。この攻城堤防は石田堤と呼ばれている。■■■■■
しかし、水を湛えた石田堤は脆くも決壊して、籠城軍ではなく包囲軍の方に大いなる被害を出すに至った。突貫工事が祟り、強度が
不十分だったようだが、一説によれば忍城から放たれた忍びの者が堤防を破壊したとも言われる。ともあれ、これで大損害を被った
石田軍は忍城を攻めあぐね、対する籠城方は包囲軍の不手際に助けられて勢い付き、益々守りを堅くした。■■■■■■■■■■
結局、この戦いは小田原城の陥落後まで長引き、城攻めに失敗した三成は「計算ばかりの官僚で実戦の役に立たぬ者」との汚名を
着る事になる。その結果、関ヶ原合戦の際に三成の将たる器量が疑われ、これが数々の裏切りを招いたとも言われている。関ヶ原で
西軍が負けたのはここ、丸墓山古墳で三成が人望を失った事に端を発しているとも考えられよう。■■■■■■■■■■■■■■
さて陣所跡の現状は、やはり丸墓山古墳として史跡整備されており、1938年(昭和13年)8月8日には国の史跡に指定されたのだが、
ここが石田三成の陣城だったという事はなかなか知られていない。だが丸墓山古墳に続く遊歩道は石田堤の名残であり、その点に
注意して見ればなかなか面白いものでござろう。全長38kmの堤は部分的であるが行田市内各所に残存しているので、散策ついでに
探してみるのも良いだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
何はともあれ、丸墓山古墳を含むさきたま古墳群自体が一大観光名所。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
三成の戦跡は兎も角としても、ここを見る価値は十分あると思われる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

郭・攻城堤防
城域内は国指定史跡








武蔵国 花崎城

花崎城跡

 所在地:埼玉県加須市花崎・花崎北

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 あり

★★☆■■
★★★☆



住宅街に異世界の城址公園■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
東武伊勢崎線の花崎駅から線路沿いに西へ500m、線路の南には花崎城山公園(写真)北には城跡公園がある。この一帯がかつて
花崎城があった場所なのだが、発掘調査によれば縄文時代から住居のあった痕跡が確認されている。故に、加須市ではこの場所を
城跡としてだけでなく広範囲な時代に跨る「花崎遺跡」として1981年(昭和56年)8月11日に史跡指定した。詳細は後程。■■■■■
(全くの余談だが加須を「かぞ」と読むのはかなり難解だと思うのだが…)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
とりあえず城の来歴を…と言いたい所だが、築城時期や築城者は不明。史上にその名が現れるのは1561年、長尾景虎が小田原へ
遠征を行った折の事である。この年の8月、上杉(長尾)方の木戸宮内少輔が花崎城を攻めたと言うもの。当時、花崎城は近隣にある
鷲宮神社(埼玉県久喜市)神官の細萱(ほそがや)氏支配下にあったが、時の細萱氏当主・細萱民部小輔光仲(みつなか)は小田原
後北条氏に従っており、彼は家臣70人を連れて小田原城防備に出征していた。故に花崎城を初めとする細萱領を守ったのは光仲の
子・半左衛門泰秀(やすひで)となったが、この時泰秀わずかに11歳。致し方ない事なのであろうが、少年城主に城を守るのは難しく
花崎城は燃やされ、落城したと云う。以後の歴史も不明だが、この落城より後の花崎城は没落したと思われる。■■■■■■■■
その一方で、1574年5月4日に記された白川義親(よしちか、白河左衛門佐義親)宛の北条左衛門大夫氏繁(うじしげ)書状文中には
「然而羽生被寄馬候処、近年向岩付取立候号花崎地、即時自落」と書かれている。羽生(はにゅう)へと馬を寄せた所、後北条方の
岩付城(岩槻城、埼玉県さいたま市岩槻区)に対向して上杉方が取り立てていた花崎城は直ぐに自落してしまったと言うのだ。■■
(自落とは城兵側が自ら落城させて攻め手への降伏を表明する行為)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
氏繁の進軍に恐れをなしたか、花崎城では守るに難しいと判断したのか、事の真意は不明なれども上杉軍は城を棄ててしまった、と
当時、後北条氏に誼を通じていた白河義親へ氏繁は報告したのである。花崎城を上杉勢がどの程度用いていたのかは分からぬが
1570年代、北関東と南関東の境目と言えるこの地域では後北条勢と上杉勢が鎬を削っていた様子を物語ってござる。■■■■■■
そんな城跡では1980年(昭和55年)から1981年にかけて発掘調査が行われ、障子堀・畝堀・馬出と言った城郭構造物や、弾丸・焙烙
板碑・擂鉢・常滑産や美濃産の陶器など、城が現役であった頃の生活遺物が出土した上、それだけではなく縄文時代の土器や石鏃
(せきぞく、石製の矢尻)、更に平安時代の住居痕や土師器・砥石・灰釉陶器なども確認。花崎の地では先史の頃から人間が生活し
その末に城郭を築くに至ったと推測できた。故に、市史跡としては城跡に限定せず「花崎遺跡」として指定した訳だ。■■■■■■■
線路の北側にある「城跡公園」はかつての馬出。他方、線路に沿った南側の敷地は“城山”公園とされているが山と言う地形に非ず
住宅地の中にある静かで平坦な児童公園の趣きだ。ただ、この公園内には明らかに堀跡と見受けられる起伏が残り、一部には水が
張り巡らされ、古から水利の便に恵まれた地である事を証明している。こうした堀がかつては障子堀だったと言うのなら、もしかしたら
水の入った障子堀?という驚愕的な情景を想像させてくれるのだが、実際はどうだったのだろうか?駐車場は無く、また近隣住民の
方々に迷惑とならぬよう配慮した来訪が必要とされるも、この光景を見るのはオススメでござる。何より、線路際にある住宅街の中で
幻想的な森林浴気分を味わえる異次元感が堪らない…。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡








武蔵国 門井館

門井館

 所在地:埼玉県加須市南大桑

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★☆■■■
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今なお現役の居館■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こちらも花崎駅を起点に考えて、駅から北へ約1.4kmの地点にある中世以来の武家居館。現在でも御子孫の方がお住まいなので、
“居館址”ではなく現役の館だと言える。埼玉県道370号線を進むと、その道沿いに水堀跡の水路が出現。ここが門井(かどい)館だ。
敷地の大きさは最大部で東西150m強×南北190mほどの台形。この敷地内は南北2区画に分けられており、現状でもその仕切部に
堀が食い込んでいる。また、仕切の中央部(出入口)に写真の長屋門が設置されていて、敷地の広さを測る良い目印になろう。この
門は歴史的建造物ではないものの、景観に馴染み往時の雰囲気を上手く醸し出す。無論、この門の内側は個人宅になるので中に
入るのは遠慮すべし。その他、敷地の随所に土塁などの断片が残存しているようだが、なにぶん私有地なので深入りは無用。■■
歴史的経緯を見てみれば、最後の古河公方(こがくぼう)・足利左馬頭義氏(よしうじ)が1582年(天正10年)に家臣の石川信濃守へ
発給した所領安堵状で「殊御代官所は南大桑に前々の如く仰せ付けられ候」とあり、この“南大桑の代官所”が門井館に相当するの
ではないかと推測されているそうだ。古河公方とは室町体制下において関東の統括者とされた鎌倉公方が騒乱激化に伴って居所を
下総国古河(茨城県古河市)へ移したもので、戦国末期の天正年間(1573年〜1592年)にもなると実力を失い有名無実化していたが
それでも代官所機能を維持するべく書状を発していた様子と地方武士の居館が結びつく点が興味深い。なお、発掘調査では1321年
(元亨元年)銘の板碑が出土している事から、既に鎌倉時代にはこの館が作られていたとも考えられ申そう。■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等








武蔵国 騎西城

騎西城址土塁

 所在地:埼玉県加須市根古屋
(旧 埼玉県北埼玉郡騎西町大字根古屋)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★☆■■■
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上杉謙信の「八つ当たり」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
古くは私市城と称す。騎西、私市ともに「きさい」と読む。その他、根古屋城とも。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
正確な築城年代は不明であるが、文献上の初出は1455年(康正元年)に上杉勢力の長尾左衛門尉景仲(ながおかげなが)・庁鼻和
(こばなわ)上杉憲信(のりのぶ)らが守る城を古河公方・足利成氏が攻撃した事でござる。この後、古河公方方の前線基地となった
騎西城であるが、1502年(文亀2年)に奪還され、山内上杉四郎顕定配下の小田伊賀守顕家(あきいえ)が城主として入る。顕家は
忍城主・成田親泰の次男である助三郎を養子に迎えて引退し、以後はこの助三郎朝興(ともおき)が城主となり城を守った。■■■
忍城の項で記した通り、成田一族は小田原後北条氏と上杉の家督を継承した越後長尾氏の間で翻弄され、1561年に長尾景虎が
小田原へ遠征した折には兄・成田長泰ともども朝興も兵を出し、小田原城攻撃軍に参加している。しかし結局、成田氏は後北条氏
外様衆として生きる道を選ぶ訳だが、故に長泰の忍城と朝興の騎西城は上杉謙信の執拗な攻撃に晒される事となるのだった。
1563年(永禄6年)、上杉方の重要拠点であった武蔵松山城(埼玉県比企郡吉見町)が後北条氏と甲斐武田氏との連合軍によって
包囲される事件が発生。上杉輝虎(謙信)は慌てて救援軍を発するが時既に遅く、上杉軍が松山に到着したのは落城の後だった。
武蔵国の要衝を失った輝虎は大いに怒るが、堅城たる松山城の奪還は望むべくもなく、その怒りの矛先は騎西城へと向けられる。
朝興は防戦に努めるものの、荒れ狂う上杉軍の猛攻を留める事は成らずに落城。この年の3月の事である。■■■■■■■■■
輝虎は書状に「四方の沼が浅深限りなく、一段と然るべき地で、調儀叶い難し」と記しており騎西城の堅城さに手を焼いたようだが
それでも力攻めで蹂躙した。籠城戦に敗れ討たれた城兵は3000名にも上ったという。更に1574年にも謙信が襲来、騎西城下は焼き
討ちされ滅しているが、しかしこの後に上杉軍の関東侵攻は沙汰闇となり、後北条氏による武蔵国支配が確定的になるのだった。
騎西城主も成田左衛門尉泰喬(やすたか)に代替りし、1576年(天正4年)泰喬が家臣に知行を宛がったという記録が残っている。
斯くして後北条氏庇護下で騎西城は安穏なる日々を送るようになったが、その後北条氏も豊臣秀吉の全国統一により関東太守の
地位から追われ、江戸の徳川家康が新たなる支配者となった。騎西は2万石を以って松平周防守康重が領有し、関ヶ原合戦後の
1602年(慶長7年)からは大久保加賀守忠常が入封。1606年(慶長11年)に、忠常が領内正能(しょうのう)村の検地を行ったという
記録が残る。忠常が没した後は1611年(慶長16年)に息子の大久保加賀守忠職(ただもと)が相続して、1627年(寛永4年)領内の
久伊豆(ひさいず)大明神(玉敷神社)に社領を寄進している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

地中に埋もれた遺構■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし1632年(寛永9年)忠職が美濃国加納(岐阜県岐阜市)へ移封された事で騎西城は廃され、以後は順次城跡が切り崩されて
いった。もともと、騎西城は沼地の中に立つ要害の城で、本丸・二ノ丸・天神曲輪(三ノ丸相当)が連郭式に並びつつ、その3曲輪が
すっぽり囲まれるほどの巨大な池(水濠)が周囲に広がっていたのだが、そうした湿地は悉く田畑へと開拓されたのである。■■■
寛保年間(1741年〜1744年)には本丸・二ノ丸の土塁も崩されて主郭部の構造が滅失し、安政年間(1854年〜1860年)には城跡の
竹林までが伐採されて畑へと転用されていく。江戸末期にはすっかり田畑と化し、近代になると都市化の流れで道路などが敷設され
城跡は跡形も無くなった。現在に残る城の遺構は、わずかに天神曲輪近辺の部分的な土塁(写真)のみだ。史跡保護の観点から、
この土塁は1998年(平成10年)に延長復元が行われている。こうして残る土塁部分は、1992年(平成4年)3月16日に騎西町の指定
史跡となっている(現在は加須市が継承)。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ちなみに、埋蔵されている城の遺構はかなり優れたもので、県道敷設工事に先立ち行われた発掘調査によって戦国期の騎西城を
囲んでいた障子堀の存在が明らかになってござる。障子堀とは、後北条氏の城郭に特有な構造で、堀底に小さな土塁をいくつも
設置し、さながら障子の如き状態にした空堀の事。こうする事で堀に落ちた敵兵の動きを封じ、確実に討ち取れるようになるのだ。
その他、井戸跡や土壙(どこう、落とし穴状のもの)、建物跡などが検出されている上、先述した土塁も数次に渡る嵩上が行われた
事が判明している。度重なる上杉軍の襲来に備えて度々補修され、より防備を強くする為に更に高くしていったのだろう。騎西城が
激戦をくぐり抜けた歴戦の城郭である証明である。しかしこれらの痕跡は発掘調査終了後に埋め戻されたため、現在目にする事は
できない。それなりに保全すれば名城の風格も出ようが、市街地開発の為には致し方無いのだろう。■■■■■■■■■■■■
なお、1975年(昭和50年)に婦人会館として天守風建物が建てられたが、本来の騎西城に天守は無く、これは全くの模擬建築物で
ござる故、注意されたい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

土塁《市指定史跡》








武蔵国 種垂城

種垂城跡 種足城址公園

 所在地:埼玉県加須市上種足
(旧 埼玉県北埼玉郡騎西町上種足)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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とりあえずは城址公園■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
今の表記では「種『足』」と書くが、当時の表記は「種垂」、これを「たなだれ」と読む。現在は加須市に含まれるが旧騎西町の西端に
位置した平城で、周囲一面が田圃(低湿地)となっている中に微高な台地となっている地形を利用した“浮き島”のような城だったと
推測されるが、現状では全く遺構が残らず、往時のよすがは感じられない。発掘調査の結果では室町時代の陶磁器や漆椀などが
出土したそうで、ここに何かしらの生活痕があったのは確かなようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
詳しい来歴は分からず、創建年なども不明。室町時代の城郭だったようで、一説には近隣にある菖蒲城(埼玉県久喜市)の支城で
あったとも。伝承では騎西城主の小田顕家が成田助三郎(小田朝興)を養子に迎え入れ隠居した際、上種足の百石(ひゃっこく)を
隠居所にしたと言い、これが種垂城の事だと考えられている。周辺にはシロンチ(「城の内」が訛ったもの?)・八幡山・天神・枳立
(からたち)など、城郭に関連する地名が残っており、種垂城の存在を裏付けていよう。ちなみに枳(一文字で「からたち」と読む)は
蜜柑科の樹木で棘が非常に多く通常は嫌われる木だが、城郭としては逆茂木(伐採した樹木をそのまま阻障として転がした物)に
使用できるため城に関連するものと言える。この城で余生を過ごした顕家は1539年(天文8年)に亡くなり、自身が開基した曹洞宗
龍嶋山雲祥寺に葬られた。雲祥寺は種垂城の北北西2.3kmほどの位置にある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後の経緯も不明なので廃城の時期も分からない。現在は街区公園である種足城址公園となっている。この公園は面積7246u
1987年(昭和62年)5月1日の開園。駐車場が数台分あるので来訪はし易くて有り難い。ただ、どこまで城址を踏襲しているのか?







武蔵国 伝源経基館

伝源経基館跡

 所在地:埼玉県鴻巣市大間字城山

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★★■■
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高校の裏の林■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
埼玉県鴻巣市、埼玉県立鴻巣高校の南側に「城山ふるさとの森」と呼ばれる自然林がある。城山、或いは浅間(せんげん)山とも
称されるこの山林が伝源経基館(でんみなもとのつねもとやかた)跡である。他に箕田城、または浅間城の名前が使われる事も。
東西およそ95m×南北85m程の敷地を有する単郭構造の居館址で、低湿地に面した西側以外の三方(北〜東〜南)にはぐるりと
堀と土塁が巡っている。北東隅と南東隅の2箇所は折れて切り欠いた形状で、北面中央よりやや西側へ偏位した位置には櫓台と
思しき大きな土塁の塊がある。堀幅は約10m(東面の堀)、堀底から土塁の褶(ひらみ、上面)までの高さは3m程度だとか。1987年
鴻巣市教育委員会によって発掘調査が行われ、この堀は箱薬研堀であったと確認されている。北面の堀は西へと向かうにつれて
深さが増し、そのまま館外の低湿地に落ちていったと考えられている。館の西面は高低差4.5mを数え、この部分は土塁が無くとも
十分に防備できたようである。これらの土塁や空堀は明瞭に残されており、保存状態は良好でオススメの城跡だ。ただ、その他に
目立った遺構がなく、発掘でも年代特定が出来るような出土物が無かったため、この館がどのようにして使われていたのかは良く
分からない。詳細な来歴も不明だ。(発掘調査はその後も度々行われている)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

経基王の館…ではなさそうだが?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて館の名にある「源経基」であるが、彼の父は清和天皇の第6皇子・貞純親王(さだずみしんのう)。つまり経基は清和帝の孫に
当たる人物とされ(異説あり)、“六孫王(ろくそんのう)”を名乗っていた。皇籍を離れて臣下となり、源姓を賜った事で清和源氏の
始祖とされており、平安後期に武家の棟梁として名を馳せた八幡太郎義家も、鎌倉幕府を創設した征夷大将軍・源頼朝も、室町
幕府を開いた足利尊氏も、全て経基の後裔だ。臣籍降下の後、武蔵介となって938年(承平8年)に関東へ下向した経基であるが
赴任早々、従前から武蔵国の統治にあたっていた足立郡司・武蔵武芝(むさしのたけしば)と対立。経基と共に武蔵国へと入った
武蔵権守・興世王(おきよおう)と図って武芝へ攻撃を行った。武芝は逃れて平将門に仲裁を依頼、武力に秀でた将門が仲立ちし
武芝と興世王の間には和議が成るも、経基は武装したまま比企郡の狭服山(さふくやま、さやきやまとも)に立て籠もっていた。
そのため、武芝の軍勢が経基を追って狭服山を取り囲む。形勢不利と見た経基は山を脱出して都へ逃げ戻るのである。この後、
彼は朝廷に平将門らが謀反を企んだと訴えるが、この戦いは興世王と経基の横暴から始まった事なので訴えは退けられ、逆に
讒言の罪によって939年(承平9年)左衛門府に拘禁されてしまった。しかし同年の内に将門が決起、関東の独立を掲げて本当に
反乱を起こすのである。これによって経基の罪は解かれ、むしろ追捕凶賊使として取り立てられ、最終的には鎮守府将軍にまで
昇進していく。これが武家の棟梁としての源氏が創始されるきっかけとなる訳だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
話を館跡に戻すが、伝来不詳なこの館が「新編武蔵風土記稿(江戸時代後期に幕府が編纂した地誌書)」の中で“狭服山”では
ないかと推測された為「源経基の陣所であろうと伝わる地」という事になった。故に、確かな確証はないもののここが源経基館と
伝わる史跡、即ち“伝”源経基館と称されるようになったのである。但し、狭服山の比定地は他にも色々ある上、逆にこの史跡は
古代の陣跡と言うよりは中世(室町期?)の城郭遺構としての構造的特徴が多く、経基の館とするには無理があると考える説も
根強い。何より、「新編武蔵風土記稿」では室町時代の守護大名・扇谷(おうぎがやつ)上杉家の家臣である箕田氏の城だという
異説も掲載しており、むしろそれが正しいのではないか?と思えなくもない。「鴻巣市史」では、主を変えながら使われ続けた居館
だったと結論している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
事の真偽は不明なれど、遺構の素晴らしさは格別。そのため1941年(昭和16年)3月31日に埼玉県指定史跡となっている。また、
長らく私有地であった館跡の土地は、史跡公園として保存する事を条件として敷地の大半が1994年(平成6年)8月に所有者から
市に寄贈された。今後の史跡整備が期待される名所でござるな。住宅や文教施設が並ぶ一角にあるので、来訪時には配慮を。
民家の隙間を抜けるような道沿い、写真の標柱が立つ位置(館跡東端部)に2〜3台分の駐車余地あり。折れを伴った見事な堀と
土塁は必見!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群
館域内は県指定史跡








武蔵国 羽生城

羽生城址石碑

 所在地:埼玉県羽生市東

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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埋め立てられた水城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「はぶ」「はしょう」「はねう」など様々に読み方が考えられる表記「羽生」だが、埼玉県羽生市の読みは「はにゅう」。当然、この城の
読み方も「はにゅう」城である。羽生市役所のある辺りが「東」なる地域にて、市役所庁舎の北側にある古城天満宮境内に写真の
城址碑が建立されている。往時はこの「東」地域一帯が城の敷地だったと言われ、忍城にも負けないような水城が構えられていた
ようなのだが、現在は完全に遺構が湮滅し、城址碑のみが歴史を伝えるだけだ。現地案内板を見てみると、中世の羽生一帯には
蓮池と呼ばれる大きな湖があり、この湖に面し城は築かれていた。城の北〜東に蓮池を背負い、その畔に円形をした本丸があり
それを囲うように「C」の字をしたいくつもの帯曲輪が、開口部を互い違いにするように西面〜南面を多重防御する縄張り。本丸の
大きさは東西65間×南北46間と記され、また「新編武蔵風土記稿」でも東西60間余としているので、概ね110m×80mほどと云った
感じであろうか。城全体も多層の帯曲輪が囲む関係で1km四方にも及んだと推測され、西側と南側にはそれぞれ小沼という2つの
細長い池が並び、城域の前衛となる水濠を形成していたようだ。ところが、廃城から近代化を経てこれらの池や濠は全て均され、
今は全くの平地が北に流れる利根川まで続いている。昭和の頃までは池の名残があったそうなのだが…。■■■■■■■■■
「新編武蔵風土記稿」では1556年(弘治2年)に木戸伊豆守忠朝(きどただとも)が築城したとあるが、実際にはもう少し早い時代に
築かれていたらしい。現地案内板には1540年代に忠朝とその兄・広田出雲守直繁が築城と記されており、他の史料に基づけば
更に早い1536年(天文5年)の時点で直繁・忠朝兄弟がこの地を治めていたと推測される。恐らくは彼ら兄弟の父・木戸大膳大夫
範実が築き、父子揃って羽生城を守っていたのだろう。ちなみに木戸氏は遡ると熱田大宮司(尾張・熱田神宮の神職)藤原氏に
行き当る。この熱田大宮司家は源頼朝の生母を輩出した家で、関東武士団とも繋がりが深い。大宮司家の中から下野国足利荘
木戸郷に入った者がおり、それが縁で木戸姓を名乗るようになった。範実の祖父・三河守孝範は、江戸城(東京都千代田区)主と
して有名な太田道灌の客将となっていたと言い、必然的に木戸氏は関東管領・上杉氏の家臣として羽生の地を守っていた訳だ。
また、羽生は利根川を挟んで古河とも近い位置にあり、古河公方の影響力も及んでいた。羽生城、そして木戸氏は関東の微妙な
政治バランスの中心地にあって難しい舵取りを要求されていた状態だったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■

後北条氏との争奪戦■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1554年(天文23年)北関東への進出を図る小田原後北条氏は古河公方を攻撃、この戦いの中で羽生城は落とされ木戸氏は城を
逃れる事になる。後北条方は羽生城の城代として中条出羽守を入れた。ところが1560年(永禄3年)関東管領を奉じる長尾景虎が
後北条勢力を押戻すべく上野〜武蔵へと南征、これにより羽生城は上杉勢力に奪還され木戸忠朝が城主に復帰する。既に上杉
憲政(当時の山内上杉家当主)は国を失い実力なく、翌1561年に景虎が小田原城攻撃の功を以って上杉家の家督を継承。よって
忠朝はこれ以後、景虎改め上杉政虎(謙信)へ従う事に。1561年6月に謙信が皿尾(さらお)城(埼玉県行田市)も落とすと、忠朝は
皿尾城主に転任、羽生城は広田直繁が預かる。その直繁は1570年(永禄13年)2月、謙信から館林城(群馬県館林市)を与えられ
再び羽生城主には忠朝が就任している。こうして、直繁・忠朝兄弟とその一族は一貫して上杉方に与し後北条勢に備えていたが、
1572年(元亀3年)8月・1573年(天正元年)8月と立て続けに羽生城は攻撃を受けて、越後に本拠を置く謙信は南関東への援軍が
なかなか出せず、羽生城は孤立無援の状況に傾いていた。遂に1574年閏11月、謙信は忠朝に上野国膳城(群馬県前橋市)への
撤収を命じ羽生城は放棄され、破却される事になり申した。例年のように関東出兵をしていた謙信ではあったが、何度遠征しても
後北条討伐の成果は出ず、また南征の負担が大きかった為に武蔵国の橋頭保となっていた羽生城は諦められたのだろう。以後、
謙信は関東遠征を行わなくなっている。城や領土は打ち棄てて、せめて忠臣である忠朝だけは指揮下に維持しようとした苦肉の
人事であったと想像されよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この後、羽生城は忍城の成田氏一門(後北条方)が奪い取り、城将として成田大蔵少輔長親(ながちか)・桜井隼人佐・田中加賀
善照寺向用斎・野沢民部らの名前が挙げられている。この地に残った木戸氏の旧臣もこれに従ったようだ。だが1590年、忍城が
豊臣軍から攻められた際、長親は城主・氏長に代わって忍城籠城軍の総指揮官となり、羽生城代の善照寺向用斎も兵を率いて
忍城の防備に加わっている。結果として羽生城は空城となり放棄され戦う事無く豊臣方に接収されたとの事。結局、後北条家が
滅んだ後に関東は徳川家康が入封、7月26日に羽生領は徳川家臣・諏訪安芸守頼忠(よりただ)へ与えられた。ところが、翌月に
これは覆されて、羽生城は家康の腹心・大久保治部少輔忠隣(ただちか)が城主とされている。石高は2万石。とは言え、忠隣は
側近として家康と共にあったため羽生城に入る事は無く、城代として忠隣家臣の鷺坂軍蔵や徳森伝蔵らが統治に当たった。■■
関ヶ原合戦の後、大久保家は小田原藩主に任じられ合計6万5000石の大封を得たが、この折に羽生領もそのまま維持された。
が、1614年(慶長19年)1月19日に忠隣は改易処分を受けている。理由は諸説紛々、どうやら幕閣闘争に敗れたためのようだ。
これにより小田原城が召し上げられたのみならず、羽生城は破却廃城の処分とされた。以来、羽生の地は幕府領になっており、
城跡の西に小さな陣屋が構えられ統治実務が執り行われている。その為、旧城地は耕地化され、更に近代には市街地となる。
現状では冒頭に記した通り、遺構らしきものは何も無い。城址碑のある古城天満宮はかつての天神曲輪跡とされるが、これとて
土塁や堀といった構造物は見受けられない。ただ、羽生市では歴史を残す意義から1971年(昭和46年)12月5日に城を市史跡に
指定している。また、羽生警察署の近くにあるのは「城沼団地」「城沼公園」―――城の名残は地名に生きてござる。■■■■■



現存する遺構

城域内は市指定史跡




武蔵松山城・松山陣屋・青鳥城・高坂館  鉢形城周辺諸城郭