関東武家の名門・成田氏の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
“忍(おし)の浮城”と称された堅城。別名で亀城とも。巨大な沼の中に浮かぶ姿から名付けられた。■■■■■■■■■■■■■■■
忍城のある埼玉県行田市には「埼玉」県名の由来となった埼玉(さきたま)古墳群があり、古代から大規模な集落が営まれ発展してきた
事を物語っている。中世の、武士による統治の時代になれば城が築かれるのは自然な成り行きであろう。が、忍城の正確な築城時期は
不明で諸説あり、文明年間(1469年〜1487年)とも、1489年(延徳元年)あるいは1491年(延徳3年)とも言われはっきりしない。築城者が
成田下総守親泰(なりたちかやす)である事だけは間違いないようだ。とりあえず、文献によれば1479年(文明11年)に発せられた足利
成氏(しげうじ)の書状に忍城と城主・成田氏に関する記載があるため、この時代までには創建されていたと思われる。■■■■■■■
また、1509年(永正6年)には連歌師の宗長(そうちょう)が忍城を来訪した記録も残っている。■■■■■■■■■■■■■■■■■
城主・成田氏は現在の埼玉県熊谷市上之(かみの)を本拠地とする武士団で、所謂「武蔵七党」の一つに数えられる古豪。室町期には
関東管領(室町体制における関東地方の統括者)・山内(やまのうち)上杉氏の被官となり勢力を伸張、文明の頃(1469年〜1487年)に
同じく武蔵七党の一家であった児玉氏を滅ぼし、埼玉郡を領有する事に成功する。これに伴って忍城が築かれたのであった。この城を
拠点とした成田氏は確固とした勢力基盤を得るが、逆に主家である上杉氏は小田原から伸張した後北条氏からの圧迫を受けて衰退、
遂に1552年(天文21年)3月、国を棄てて越後長尾氏の庇護を求めた。これにより1553年(天文22年)頃から成田氏は後北条氏に従う
ようになったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが、上杉氏の復権を大義に掲げた長尾氏はしばしば関東へ出征し、後北条氏との間に深刻な抗争を繰り広げるようになる。その
主戦場となったのは武蔵国で、精強な軍を擁する長尾氏と、深謀な戦略を駆使する後北条氏との狭間に立たされた成田氏は、去就に
苦慮する事態となってしまった。その最たる事件が1561年(永禄4年)の長尾景虎による“越山”、小田原攻めであろう。軍神と呼ばれた
景虎は諸勢力を糾合し後北条氏を倒すべく軍を進めて、小田原城(神奈川県小田原市)の攻略に取り組んだのである。流石に多勢に
無勢、この時は成田氏も景虎に従い小田原攻めに加わっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
されど小田原城は天下の堅城、景虎が大軍を率いても落とす事が出来ない。攻略を諦めた景虎は、鎌倉鶴岡八幡宮で関東管領職と
上杉氏の家督を相続する式典を執り行い、越後へと引き返すしかなかった。しかし、事件はここで起きた。儀式に参列した忍城主・成田
下総守長泰(ながやす)が、景虎に無礼を働いたとして衆目の面前で折檻を受けたのである。果たして本当にそんな咎があったのかは
定かでなく、諸将に景虎の尊大さを見せ付けるため長泰をスケープゴートにしたとも考えられよう。ともあれこの一件で恥をかかされた
長泰は、長尾景虎改め上杉弾正少弼政虎(後の謙信)が越後へ引き上げた直後、後北条氏への再度の帰属を決心。以後、成田氏は
後北条家中で他国衆上席に数えられる重臣として遇されるようになったのだった。1574年(天正2年)再び謙信が関東へ襲来、忍城にも
攻撃を仕掛けるが、この時に成田氏は城を堅く守り、謙信は収穫無く越後へと引き上げる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
三成の水攻めを跳ね返す!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そんな成田氏と忍城の転機は、1590年(天正18年)。それまでに西国を平定した豊臣秀吉が、天下統一の総仕上げとして後北条氏の
征伐に取り掛かったのである。総勢20万にもなる大軍を率いた秀吉は小田原の町を取り囲み、後北条氏を締め上げる。それと同時に
関東各地へ攻略部隊を派遣し、後北条方の諸城を次々と攻めた。大軍に敵わず、こうした城は次々と落城していく。もちろん、忍城も
例外ではなかった。石田治部少輔三成率いる攻撃部隊に囲まれ、猛攻を受けたのである。折しも城主・成田左馬助氏長(うじなが)は
小田原城に詰めており、忍の城は主が不在だったのだが、しかし籠城軍は良く持ち堪えた。それというのも、忍城は周囲一帯を大きな
沼で護られ、外から直接攻撃する方法がなかったからである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
攻めあぐねる三成は、かつて秀吉が備中高松城(岡山県岡山市北区)を攻略した方法を再現し豊臣家の威光を関東に知らしめようと
した。水攻めを行おうとしたのだ。忍城に対する水攻めを命じたのが秀吉本人だと云う説もあるが、ともあれ三成は水を貯める堤防を
忍城の周囲一帯に構築。ところがこの策は失敗に終わった。満々と水を湛えたのもつかの間、堤防が決壊し、何と攻城軍側に甚大な
死傷者を出したのである。これにより三成の忍城攻めは大きく遅滞、逆に籠城側は勢い付きますます堅く城を守り、結局、後北条氏の
本城・小田原城が降伏してもなお忍城は耐え続けたのだった。小田原開城から6日後、成田氏長が帰還し城兵に開城を勧告。これで
ようやく戦いが終結し、忍城の門は開かれる。無論、大健闘の城兵は助命され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小田原陥落後まで生き延びた後北条方の城は忍城だけであり、この城が如何に堅固な水上要塞であったかが窺い知れよう。■■■
近世城郭へと進化■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて後北条氏亡き後の関東地方は秀吉の差配により徳川家康が入封する。忍城には徳川一門の深溝(ふこうぞ)松平主殿助家忠が
入城し、次いで1592年(文禄元年)からは家康の4男・松平下野守忠吉(ただよし)が10万石を以って城主に任じられた。しかし1600年
(慶長5年)の関ヶ原合戦後は忠吉が尾張国清洲(愛知県清須市)へと移された為、一時城番による管理とされる。1626年(寛永3年)
武蔵国深谷(埼玉県深谷市)から徳川譜代重臣の酒井讃岐守忠勝が5万石で入ったが、翌1627年(寛永4年)に酒井家は武蔵国河越
(埼玉県川越市)へと移されて、再び番城に。そして1633年(寛永10年)3万石の石高で松平(大河内)伊豆守信綱が入封、以後は徳川
譜代家臣が城主を歴任した。ちなみに忠勝は幕府大老を務め、信綱は“知恵伊豆”と呼ばれた幕閣の切れ者であり、水攻めを耐えた
堅城にして江戸の北面防備を担う忍城を任せる事が幕府にとってどれほど重要であったかが垣間見えよう。それはさて置き、1639年
(寛永16年)1月5日からは下野国壬生(栃木県下都賀郡壬生町)より移された阿部豊後守忠秋(ただあき)が5万石で城主になった。
以後、播磨守正能(まさよし)―豊後守正武(まさたけ)と代を重ねるが、この間に阿部氏は幕府に許可を得て1694年(元禄7年)から
城の大改修を行う。併せて城下町の再整備も行い、1702年(元禄15年)天守に相当する御三階櫓が創立した事でこの工事の完成を
見たのでござった。御三階櫓は三ノ丸外側に置かれる縄張上特異な事例であった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうして完成した近世忍城は本丸・二ノ丸・三ノ丸が南北方向で連郭式に並び、それらを囲うように多数の曲輪群がひしめいている。
無論、水城だけあってこれらの諸曲輪は水濠で分断され、特に主郭群の東側は巨大な沼が広がって対岸の城下町と隔絶した状況で
あった。城主の御殿は二ノ丸に置かれ、本丸内部は自然のまま森になっていたようだ。江戸から日光へ向かう街道に近い忍城は、
将軍が日光東照宮へ参詣する場合を考慮し、建物こそ建てられなかったものの本丸を将軍御成の空間と位置づけ、二ノ丸を藩主の
敷地としていたのでござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
忍城を完成させた阿部氏は更に豊後守正喬(まさたか)―飛騨守正允(まさちか)―能登守正敏(まさとし)―豊後守正識(まさつね)―
播磨守正由(まさより)―正権(まさのり)と代替わりし9代184年間に渡り忍城主を継承してきたのだが、1823年(文政6年)3月24日に
陸奥国白河(福島県白河市)へ移封され、それに代わって伊勢国桑名(三重県桑名市)から10万石で松平(奥平)氏が入り明治まで
続く。松平氏は5代48年の統治に及び、下総守忠堯(ただたか)―式部大輔忠彦(たださと)―左近衛少将忠国(ただくに)―下総守
忠誠(ただざね)―忠敬(ただたか)と家督を継いでいる。なお、松平忠堯は桑名から移るにあたり桑名城にあった東照宮を忍城内に
遷座させており、これは現在も忍東照宮として徳川家康と松平下総守忠明(松平(奥平)氏の始祖)を祀っているのでござる。■■■
幕藩体制の終わりを迎えて■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、幕末になると忍藩は様々な軍事動員に駆り出された。天保年間(1831年〜1845年)以降、たび重なる異国船出現に備えて房総
半島の警備任務を与えられ、江戸湾に品川台場(東京都港区)が構築されてからは第三台場の警備担当とされている。また、1864年
(元治元年)水戸天狗党の乱が勃発すると幕府追討軍の兵糧警備を行い水戸や那珂湊へ出陣。更に不穏な上方情勢に対処するよう
幕府から命じられ、松平忠誠は3度に渡って上洛を行ったのだった。このうち、3度目の上洛の時に鳥羽伏見の戦いが勃発し、忍藩も
佐幕か官軍参加かで揺れ動いたが、所領に戻った忠誠は新政府軍が熊谷まで進撃した情勢を見て倒幕側に立つ事を決意、以後は
官軍に参加した。忍藩の兵は北関東から南奥羽周辺に進軍、旧幕府軍残党や東北諸藩の軍勢と交戦したと言う。■■■■■■■■
明治政府に恭順した忍藩は1870年(明治3年)城の修理を今後行わない事を願い出ているが、その翌年である1871年(明治4年)7月
14日に廃藩置県が行われ忍県が設置された為、城の二ノ丸御殿が県庁として使用される事になった。ところがこの年の暮れに県が
整理され、それまで3府302県であったものが1使3府72県に統合された。忍県も埼玉県に編入され、僅か4ヶ月で消滅。結果、忍城は
完全に廃城とされる事になり、城内の建物は1873年(明治6年)に競売に掛けられ軒並み破却された。水城として有名であった城地も
大半が埋立てられ、宅地や耕作地となる。現在まで残る忍城の遺構は僅かな土塁、それに埋め立てられず残った外堀の一部のみで
ござる。この水濠は水城公園として開放されているがかつてはもっと広大な沼であったのは言うまでもない。建築物は唯一、競売で
移築された北谷(きたや)門だけが埼玉県加須市の真言宗玉オ山総願寺の黒門として残存している。この門は幅3.2m×高さ5.5mの
総欅造り、1960年(昭和35年)9月8日に加須市の指定文化財となっており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
殆んど旧状を残さない忍城だが、近年は史跡として整備が行われ、本丸跡に郷土博物館が建てられて1988年(昭和63年)2月17日に
開館した。この博物館は本館に付随する形で創立された模擬三重櫓(写真)があり、資料展示と共に行田市街を一望する展望台にも
なっている。ちなみに、この三重櫓は1873年に作成された忍城鳥瞰図の描写にある御三階櫓の姿を基にしている。しかし設置位置は
旧来の場所とは全く違う所なので正確な復元とは言えない。大きくて堂々とした風格ある櫓なのだが、こうした点から城愛好家からは
賛否両論あるようだ。個人的には悪くないとは思っているのだが…。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なおこの三重櫓の中に、かつて忍城二ノ丸に置かれ時鐘として用いられてた鐘が移設展示されている。忍城往時の様子を窺い知る
史料として、貴重なものでござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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