台地利用の名城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
2009年(平成21年)6月1日、高崎市に編入された多野郡吉井町には数多くの名城跡が存在する。この頁では、それら旧吉井町の
中にある諸城郭を紹介いたし候。まずは新堀(にいぼり)城、別名で多比良(たいら)城。吉井町多比良、天台宗瑠璃山普賢寺から
北側の畑地一帯が城跡だ。ここは東に土合川、西にその支流である杉井戸川が流れて、2つの川に挟まれた南から北へと延びる
舌状台地という地形になっている。土合川の河畔は標高120m前後、台地上は概ね160mなので比高差は40mにもなる。普賢寺は
この舌状台地の根元に当たり、ここから北側の平面にいくつかの曲輪を造成し、城を構築している。台地中央部にほぼ正方形の
主郭、これは東西80m×南北90m程の大きさ。舌状台地の真ん中に四角形があるとなれば、切り分けられた東西南北それぞれの
残りが小曲輪として使われるようになっている。西側は塁壁のような細長さしかないが、むしろ比高二重土塁のような効果を出す。
東側と北側は比較的大きな曲輪となり、主郭の前衛・後衛を為す。北側は台地先端になる為、物見の笹曲輪と脱出用の搦手口を
兼ねたものでござろう。水の手はこの北側を下った所とも、或いは西側だったとも伝わる。南側、普賢寺に連なる面には馬出状の
小さな曲輪を重ねていて舌状台地へ入る者を看視・阻害する構造。城域全体の大きさとしては東西200m×南北250mと公称されて
いるが、これら南の馬出曲輪群も含めると南北はもう少し大きい(300mほど)計算になろう。主郭が方形と言う縄張は中世武士の
方形居館を由来とするのか、鏑川(かぶらがわ、旧吉井町内を西から東へ流れる利根川支流)の南岸にある舌状台地を利用した
城砦は同じような構造が多いものの、例えば甲信地方にある武田氏系の台地城郭だと、細長い台地を輪切りにして曲輪を構成し
連郭式の縄張にする事が大半なので地域性の差が見受けられる。このように新堀城は西上野の典型的な台地城郭として貴重な
遺構が残されているのだが、いかんせん整備は行われず、しかもほとんどが耕作地に変貌している為、あまり明瞭な形状が確認
できない。畑の中にある堀跡や切岸・土塁はまだ雰囲気で察する事が出来るものの残りの部分は概ね藪だらけで踏み入る事すら
難しいのが残念。そもそも畑地は私有地であるため、荒らすような事は控えるべきでござろう。■■■■■■■■■■■■■■■
地元豪族の館城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この城は現地の国人・多比良氏の城である。上野国は関東管領(室町体制における関東の統括者)・山内(やまのうち)上杉氏の
領国であり、多比良氏は当然ながら山内上杉氏の配下に組み込まれていた。その上杉氏が、当時の居城としていたのが平井城
(群馬県藤岡市)で、新堀城はその支城として築かれたとする説に拠れば、平井城の構築年代と同一の1438年(永享10年)前後が
この城の築城年という事になる。また、上州の争乱が本格化するのは戦国時代の事なので天文年間(1532年〜1555年)の築城と
考える説も有力だ。ただ、いずれにせよ起源は多比良氏の方形居館でござろう。それを城郭化したのが新堀城であり、この城は
一郷山城(下記)と「一城別郭の城」だと紹介される事から、周辺の城と連動して使うのを念頭に置いた存在だったと言える。なお
「一城別郭」とは「1つの城の中で主郭となる曲輪が2つある」と言う意味なのでこの用法は正しくない。新堀城と一郷山城を上手く
まとめて使用する、と言いたいのであろうから、状況から考えて台地上の平坦な敷地を持つ新堀城を平時の居館として、険峻な
山上にある一郷山城は戦時に立て籠もる「詰めの城」にした…とするのが正しい説明であろう。■■■■■■■■■■■■■■
山内上杉氏は戦国後期になると小田原後北条氏や甲斐武田氏に圧迫され没落。当主・山内上杉憲政は1552年(天文21年)に
平井城を支えられなくなり退去、上野国を捨てて逃亡した。この為、西上野は箕輪城(高崎市内)の長野信濃守業政(なりまさ)が
憲政に代わる盟主となり武田信玄の攻勢を防ぐ体制に移行していく。時の新堀城主・多比良豊後守友定は業政の従兄弟とされ
箕輪城と共に武田軍へ備えていた。しかし相手は戦国最強と謳われる武田軍。1563年(永禄6年)2月15日、遂に新堀城は落城し
友定は自刃して果てたと言う。この時、新堀城には上杉憲政が預けた上杉家累代の家宝を保管していたとの事だが、敵の手に
奪われるのを恥とした友定は、宝物ごと自ら城を焼き払ったとか。また、この武田軍の城攻めによって城下や普賢寺も焼け落ちた
そうでござる。一方、多比良氏の血はその後も続き、関東が小田原後北条氏のものになるとそれに従属し、1590年(天正18年)に
豊臣秀吉が全国統一の総仕上げとして後北条氏を討伐した際、新堀城主だった多比良友定は3月25日に上杉弾正少弼景勝の
配下にあった藤田能登守信吉(のぶよし)へ降伏を申し入れ開城、以後廃城になった。ここで指す友定は武田の攻撃で自刃した
友定とは別人(2代目友定?)と考えるか、或いは武田軍の攻撃時に生き残っていたと考えるか評価の分かれる所なのであるが
藤田信吉に降ったのを多比良豊後守友忠とする向きもあり、詳しい事は良く分からない。■■■■■■■■■■■■■■■■
1971年(昭和46年)6月29日、吉井町指定史跡(現在は高崎市が継承)になってござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■
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