長い坂の上に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
長井坂(ながいざか)城は関越自動車道の、その名も長井坂トンネルの真上にある。もちろん関越道から直接城跡に
乗り入れる事は出来ないので細かい細道を登って来るのだが、狭い道である上に経路上で目印となるような物が無く
(一応、別れ道ごとに小さな案内標識はあるようなのですが全然気づかない…)■■■■■■■■■■■■■■■
しかも城址外周は一面の畑になっている為、実に分かりにくいのが難点。車が無ければ行くのも厳しい場所なのだが
その車も畑の脇に路上駐車せねばならないので非常に心苦しい。その代わり、遺構の残り具合は素晴らしい。■■
城の起源については江戸時代前期に書かれた地誌「加沢記」の中で1560年(永禄3年)上杉謙信の手に拠るものだと
されてござる。小田原後北条氏に圧迫され逃亡した上野の国主・上杉憲政を救援する為、越後から関東征伐の軍を
発した長尾景虎すなわち謙信は、当時後北条氏のものであった沼田城(群馬県沼田市)を攻略すべく、沼田の南側へ
廻り込んで山上の要衝であるこの地に陣を張ったと言うのだ。この場所は沼田街道上にあり、山を抜けて沼田盆地へ
降りて行く地点を封鎖する意図があった上、沼田を望む北の眺めは手に取るように広がる一方、南には殆ど平坦な
土地が広がって補給や兵の駐屯が容易であったという立地である。盆地の南側を封じられ、本拠である小田原との
行き来がままならなくなった沼田城側としては、この城を攻めようにも断崖絶壁をよじ登るような形となってしまうので
それも簡単に出来る話ではない。まさしく「沼田の町の首根っこを締め上げる」為に築かれたのが長井坂城であった。
この戦略は見事に当たり、沼田城主・沼田顕泰(万鬼斉)は叶わじと見て謙信に降伏した。だが考えてみれば、これ程
沼田盆地を制圧するに適した地点がそれまで全く使われてこなかったというのも甚だ疑問である。戦の天才たる謙信
ならではの直感で好地を見つけたのか、或いはこんなに険しい断崖の上では誰も城を築こうとは思わなかったのか?
もしかして文献には載らないまでも何かしらの小砦などは以前からあったのかもしれない。ともあれ、地域の要衝たる
長井坂城には城将として長尾一族の白井長尾氏が任じられ、整備・維持された。謙信としては、越後から関東へ至る
沼田街道は欠損できぬ軍事街道であり、峠の上に位置しつつ大軍が収容できる広さを持つ長井坂城は要地以外の
何物でもなかった。これ以後、謙信は10年以上に渡って関東攻略の南征を繰り返すが、長井坂城は兵站拠点として
使われ続け申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
武田(真田)家の沼田侵攻■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
長井坂城の転機となったのは謙信の死とそれに伴う武田家の介入である。既に天正年間(1573年〜1592年)初期、
この城は後北条氏が領有し地侍らに守らせていたようだが、1578年(天正6年)に謙信が病没し上野国から上杉家の
影響力が薄れるや、武田家臣である真田安房守昌幸が調略の手を伸し始め、同年中に沼田城は昌幸に奪われた。
このため長井坂城は後北条方の最前線となり、沼田城に相対する境目の城となったが、昌幸の攻略は更に進んで
1580年(天正8年)8月、この城を守る牧弥六郎・須田加賀守・狩野左近介・石田平左衛門らが排された。武田の手に
落ちた長井坂城であるが、1582年(天正10年)3月に武田家は滅亡、沼田周辺の遺領は真田家が独立勢力となって
継承。真田の占領に対し後北条方も反撃に転じて同年10月、鉢形衆(鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)隷下の軍団)を
率いる後北条家の重鎮・北条安房守氏邦が一大攻勢を敢行。城将の恩田越前守・下沼田豊前守らはこれに敵わず
城を落ちて行った。後北条氏は城主として猪俣能登守邦憲を入れている。この邦憲、後に“名胡桃城事件”を起こし
後北条氏滅亡の原因を作ったとされる人物だが、ともあれこれ以後は後北条氏が長井坂城を維持し続け、それに
伴って城内の整備・改修が行われた。“後北条流”に特徴的な矩形を多用した縄張り、複雑な折れ曲がりの横矢、
何より沼田街道を城内に取り込んで封鎖可能な構造は、まるで山中城(静岡県三島市)の作りを見るようでござる。
上杉謙信により築かれた城ではあるが、最終形態としてはすっかり後北条氏の城となっている。そもそもこの城は
沼田城を仮想敵として使われるべき城なので「北を睨む戦略配置」つまり南の後北条氏が北の敵(上杉や真田)を
圧迫してこそ効果を発揮するのは当然の流れでござろう。後北条氏によって守りを固め完成形となった長井坂城は
1583年(天正11年)沼田城から進発した真田軍によって攻められたものの、近隣の地侍・狩野隠岐守がこの城で
真田勢を撃退したと言う。しかし一方で後北条方も沼田城をなかなか落とせず、長井坂城と沼田城の間で泥沼の
攻勢が数年に渡って続いた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1589年(天正17年)関白・豊臣秀吉の裁定によって沼田城は後北条氏へと割譲される事になったが、上記した猪俣
邦憲が名胡桃城(群馬県利根郡みなかみ町)を奇襲で奪取、秀吉の怒りを買って後北条氏は討伐の対象とされた。
こうして1590年(天正18年)に後北条氏は滅亡、領内諸城も軒並み廃絶され、この時に長井坂城も破却され申した。
以来400年、城は眠りに就いた。城の外郭部は耕作地になったものの、主郭部はほぼ手付かずのままであったので
1980年(昭和55年)9月16日に群馬県指定史跡となっている。故に、関越自動車道建設工事に於いては史跡破壊を
避けるべく城地の地下をトンネルで通す経路が採用されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
非常識な縄張り(褒め言葉)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城地は西に利根川の大河道、北はその支流である永井川の渓谷に面する。2つの川は台地の隅部を強烈に削り、
末端崖は比高210mを数える激烈な急斜面を作り出していた。この台地が北西へ向かって突き出す三角形の先端、
その半分(北東側)が利根郡昭和村、残り半分(南西側)が旧勢多郡赤城村という“郡境”の敷地を使い長井坂城は
築かれている。必然的に北と西は崖に阻まれて絶対的な防御が可能である(軍勢が攻め登る事など出来ない)為
三角形の南側、平地続きの部分を堀や土塁で塞ぐ事で城の要諦を成す。城の大手、つまり攻め口は南となるが
仮想敵である沼田城からこの城を攻めるとなれば、一旦城の南側へ回り込まねばならぬ訳でそれ自体が難しい。
後北条が真田に対抗する状況は言うに及ばず、沼田城を攻めんとする謙信がこの構図に気付いた事が天才的で
あるが、そもそも沼田よりももっと北(越後)から来攻した謙信が、沼田を廻り込んでこの地に陣を張ると言うのが
驚異的な戦略眼を有した“軍事の大天才”と言えようか。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、通常このような三角形の「先細りする地形」に城を築く場合、突端部の最奥地点(この場合は北端)に主郭を
置き、その手前に二郭を並べ、更にその手前を三郭で塞ぐ「連郭式」の縄張がセオリーであろう。だが長井坂城は
城地の西隅に本郭を置き、東へと二郭・三郭を広げていく「輪郭式(を半分に切った形)」で構成されている。現地を
実際に歩いてみると、西の崖は崩落が激しく(見学時は非常に危険なので厳重に注意されたし!)、もしかしたら
当時はもっと広い敷地を有していたのかもしれない。だとすれば、輪郭式のような全周防御を施して、万が一にも
街道を突貫し北の崖から侵入するような敵が居たとしても対処できるような構造にしていた可能性もあろう。尤も
崩れてしまった西の遺構を復元するのは不可能なので、謎は謎のままである。■■■■■■■■■■■■■■
崩落した場所もあるが、城内各所には見事な空堀や土塁が残存。もちろん、曲輪は複雑な折れや食い違いが多く
やっぱり後北条流では?と思わされる綺麗な遺構だ。そして崖上から望む利根川の流れや上越線の線路は目が
眩む高さ。高所恐怖症の方にはオススメ出来ない(まぁ、そういう方は山城へは行かないかもしれないがw)が、
そうでなくても崖下に落ちたら命の保証は出来ないので、十分気を付けて見学して頂きとうござる。周囲の畑地も
荒らすような事の無きよう御注意あれ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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