上野国 長井坂城

長井坂城址碑

 所在地:群馬県

利根郡昭和村川額
渋川市赤城町棚下
(棚下地域:旧 群馬県勢多郡赤城村棚下)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★★☆
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長い坂の上に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
長井坂(ながいざか)城は関越自動車道の、その名も長井坂トンネルの真上にある。もちろん関越道から直接城跡に
乗り入れる事は出来ないので細かい細道を登って来るのだが、狭い道である上に経路上で目印となるような物が無く
(一応、別れ道ごとに小さな案内標識はあるようなのですが全然気づかない…)■■■■■■■■■■■■■■■
しかも城址外周は一面の畑になっている為、実に分かりにくいのが難点。車が無ければ行くのも厳しい場所なのだが
その車も畑の脇に路上駐車せねばならないので非常に心苦しい。その代わり、遺構の残り具合は素晴らしい。■■
城の起源については江戸時代前期に書かれた地誌「加沢記」の中で1560年(永禄3年)上杉謙信の手に拠るものだと
されてござる。小田原後北条氏に圧迫され逃亡した上野の国主・上杉憲政を救援する為、越後から関東征伐の軍を
発した長尾景虎すなわち謙信は、当時後北条氏のものであった沼田城(群馬県沼田市)を攻略すべく、沼田の南側へ
廻り込んで山上の要衝であるこの地に陣を張ったと言うのだ。この場所は沼田街道上にあり、山を抜けて沼田盆地へ
降りて行く地点を封鎖する意図があった上、沼田を望む北の眺めは手に取るように広がる一方、南には殆ど平坦な
土地が広がって補給や兵の駐屯が容易であったという立地である。盆地の南側を封じられ、本拠である小田原との
行き来がままならなくなった沼田城側としては、この城を攻めようにも断崖絶壁をよじ登るような形となってしまうので
それも簡単に出来る話ではない。まさしく「沼田の町の首根っこを締め上げる」為に築かれたのが長井坂城であった。
この戦略は見事に当たり、沼田城主・沼田顕泰(万鬼斉)は叶わじと見て謙信に降伏した。だが考えてみれば、これ程
沼田盆地を制圧するに適した地点がそれまで全く使われてこなかったというのも甚だ疑問である。戦の天才たる謙信
ならではの直感で好地を見つけたのか、或いはこんなに険しい断崖の上では誰も城を築こうとは思わなかったのか?
もしかして文献には載らないまでも何かしらの小砦などは以前からあったのかもしれない。ともあれ、地域の要衝たる
長井坂城には城将として長尾一族の白井長尾氏が任じられ、整備・維持された。謙信としては、越後から関東へ至る
沼田街道は欠損できぬ軍事街道であり、峠の上に位置しつつ大軍が収容できる広さを持つ長井坂城は要地以外の
何物でもなかった。これ以後、謙信は10年以上に渡って関東攻略の南征を繰り返すが、長井坂城は兵站拠点として
使われ続け申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

武田(真田)家の沼田侵攻■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
長井坂城の転機となったのは謙信の死とそれに伴う武田家の介入である。既に天正年間(1573年〜1592年)初期、
この城は後北条氏が領有し地侍らに守らせていたようだが、1578年(天正6年)に謙信が病没し上野国から上杉家の
影響力が薄れるや、武田家臣である真田安房守昌幸が調略の手を伸し始め、同年中に沼田城は昌幸に奪われた。
このため長井坂城は後北条方の最前線となり、沼田城に相対する境目の城となったが、昌幸の攻略は更に進んで
1580年(天正8年)8月、この城を守る牧弥六郎・須田加賀守・狩野左近介・石田平左衛門らが排された。武田の手に
落ちた長井坂城であるが、1582年(天正10年)3月に武田家は滅亡、沼田周辺の遺領は真田家が独立勢力となって
継承。真田の占領に対し後北条方も反撃に転じて同年10月、鉢形衆(鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)隷下の軍団)を
率いる後北条家の重鎮・北条安房守氏邦が一大攻勢を敢行。城将の恩田越前守・下沼田豊前守らはこれに敵わず
城を落ちて行った。後北条氏は城主として猪俣能登守邦憲を入れている。この邦憲、後に“名胡桃城事件”を起こし
後北条氏滅亡の原因を作ったとされる人物だが、ともあれこれ以後は後北条氏が長井坂城を維持し続け、それに
伴って城内の整備・改修が行われた。“後北条流”に特徴的な矩形を多用した縄張り、複雑な折れ曲がりの横矢、
何より沼田街道を城内に取り込んで封鎖可能な構造は、まるで山中城(静岡県三島市)の作りを見るようでござる。
上杉謙信により築かれた城ではあるが、最終形態としてはすっかり後北条氏の城となっている。そもそもこの城は
沼田城を仮想敵として使われるべき城なので「北を睨む戦略配置」つまり南の後北条氏が北の敵(上杉や真田)を
圧迫してこそ効果を発揮するのは当然の流れでござろう。後北条氏によって守りを固め完成形となった長井坂城は
1583年(天正11年)沼田城から進発した真田軍によって攻められたものの、近隣の地侍・狩野隠岐守がこの城で
真田勢を撃退したと言う。しかし一方で後北条方も沼田城をなかなか落とせず、長井坂城と沼田城の間で泥沼の
攻勢が数年に渡って続いた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1589年(天正17年)関白・豊臣秀吉の裁定によって沼田城は後北条氏へと割譲される事になったが、上記した猪俣
邦憲が名胡桃城(群馬県利根郡みなかみ町)を奇襲で奪取、秀吉の怒りを買って後北条氏は討伐の対象とされた。
こうして1590年(天正18年)に後北条氏は滅亡、領内諸城も軒並み廃絶され、この時に長井坂城も破却され申した。
以来400年、城は眠りに就いた。城の外郭部は耕作地になったものの、主郭部はほぼ手付かずのままであったので
1980年(昭和55年)9月16日に群馬県指定史跡となっている。故に、関越自動車道建設工事に於いては史跡破壊を
避けるべく城地の地下をトンネルで通す経路が採用されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

非常識な縄張り(褒め言葉)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城地は西に利根川の大河道、北はその支流である永井川の渓谷に面する。2つの川は台地の隅部を強烈に削り、
末端崖は比高210mを数える激烈な急斜面を作り出していた。この台地が北西へ向かって突き出す三角形の先端、
その半分(北東側)が利根郡昭和村、残り半分(南西側)が旧勢多郡赤城村という“郡境”の敷地を使い長井坂城は
築かれている。必然的に北と西は崖に阻まれて絶対的な防御が可能である(軍勢が攻め登る事など出来ない)為
三角形の南側、平地続きの部分を堀や土塁で塞ぐ事で城の要諦を成す。城の大手、つまり攻め口は南となるが
仮想敵である沼田城からこの城を攻めるとなれば、一旦城の南側へ回り込まねばならぬ訳でそれ自体が難しい。
後北条が真田に対抗する状況は言うに及ばず、沼田城を攻めんとする謙信がこの構図に気付いた事が天才的で
あるが、そもそも沼田よりももっと北(越後)から来攻した謙信が、沼田を廻り込んでこの地に陣を張ると言うのが
驚異的な戦略眼を有した“軍事の大天才”と言えようか。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、通常このような三角形の「先細りする地形」に城を築く場合、突端部の最奥地点(この場合は北端)に主郭を
置き、その手前に二郭を並べ、更にその手前を三郭で塞ぐ「連郭式」の縄張がセオリーであろう。だが長井坂城は
城地の西隅に本郭を置き、東へと二郭・三郭を広げていく「輪郭式(を半分に切った形)」で構成されている。現地を
実際に歩いてみると、西の崖は崩落が激しく(見学時は非常に危険なので厳重に注意されたし!)、もしかしたら
当時はもっと広い敷地を有していたのかもしれない。だとすれば、輪郭式のような全周防御を施して、万が一にも
街道を突貫し北の崖から侵入するような敵が居たとしても対処できるような構造にしていた可能性もあろう。尤も
崩れてしまった西の遺構を復元するのは不可能なので、謎は謎のままである。■■■■■■■■■■■■■■
崩落した場所もあるが、城内各所には見事な空堀や土塁が残存。もちろん、曲輪は複雑な折れや食い違いが多く
やっぱり後北条流では?と思わされる綺麗な遺構だ。そして崖上から望む利根川の流れや上越線の線路は目が
眩む高さ。高所恐怖症の方にはオススメ出来ない(まぁ、そういう方は山城へは行かないかもしれないがw)が、
そうでなくても崖下に落ちたら命の保証は出来ないので、十分気を付けて見学して頂きとうござる。周囲の畑地も
荒らすような事の無きよう御注意あれ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は県指定史跡








上野国 白井城

白井城跡 史跡標柱と土塁・石垣

 所在地:群馬県渋川市白井
(旧 群馬県北群馬郡子持村白井)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★★■■
★★☆■■



白井長尾家の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しろいじょう、と読む。現在は渋川市白井という地名であるが、2006年(平成18年)2月20日に市町村合併するまでは
北群馬郡子持村の白井、更に遡ると1960年(昭和35年)9月1日に長尾村と合併する以前は白郷井(しろさとい)村で
あった。この白郷井と言う村名は、上白井村と中郷村が1889年(明治22年)4月1日の町村制施行時に合併成立して
出来た合成地名で、「白」「井」の「中」に「郷」を入れて「白郷井」とした機知に富んだ命名でござる。だが逆説的には
白井城の所在地である白井という字(あざ)は、村名が改まるに連れて埋もれていった古の地名だとも言えよう。
正確な築城年は不明。白井の地に根を張った白井長尾家の持城だ。長尾家は上杉謙信を生み出す越後長尾家が
最も有名だが、それ以外にも諸家を分流させ北関東〜北陸一帯に分家を行き渡らせた名族である。白井長尾家も
そういった家の一つで南北朝時代に長尾左衛門尉景忠がこの地に入った事から発祥したものだが、この時はまだ
城が築かれた訳ではなく、恐らく室町中期の永享年間(1429年〜1441年)長尾景仲の頃に築城されたと見られる。
室町時代の関東は、京都に居る足利将軍家の分家である鎌倉公方足利氏の統治下にあったが、実質的にはその
副官である関東管領・上杉氏が政務を執り行っていた。京都の将軍に対して常に対抗心(と言うか敵愾心)を抱く
鎌倉公方と、上杉氏の中でも本家筋たる山内(やまのうち)上杉氏と庶流である扇谷(おうぎがやつ)上杉氏、更に
それらを取り巻く周辺諸勢力の動向は、数年毎に兵乱を呼び込む体制となってしまっていた。景仲は山内上杉氏の
家宰として活躍、その声望は広く轟いた名将でござれば、白井城の構造が上杉氏の当時の本拠である五十子陣
(いかっこのじん、埼玉県本庄市)に似通うのも必然と言えよう。生涯を戦いに費やした景仲は1463年(寛正4年)に
76歳で大往生を遂げ、山内上杉氏の家宰職はその嫡男・左衛門尉景信に引き継がれる。景信も山内上杉家中で
辣腕を振るい、上杉氏と敵対していた古河公方(鎌倉公方から変化)の足利成氏(しげうじ)を本拠地である古河城
(茨城県古河市)から追い落とす事に成功する程であった。しかし景信が没すると、白井長尾家の家督は彼の嫡男
左衛門尉景春が継ぐものの、山内上杉の家宰には任じられず、景信の弟・長尾修理亮忠景(総社長尾氏当主)へ
移される事になる。これに憤激した景春は1475年(文明7年)険峻の地である鉢形へと居を移して鉢形城を築城、
翌1476年(文明8年)6月に挙兵し主家への反乱を明らかにした。戦上手たる景春の謀叛は、総社長尾家の増長を
危惧する周辺諸豪族を取り込み、また再起を図る古河公方の思惑も絡み大規模兵乱へと発展。長尾景春の乱と
呼ばれるこの大乱によって山内上杉氏は本拠の五十子陣を落とされる事になったが、一方で白井長尾家の拠点
白井城は、その五十子陣から退却した上杉左馬助定昌(越後上杉氏)の軍勢によって1477年(文明9年)正月に
奪われ申した。以後、景春は鉢形城を中心として主に南関東で暴れ回り、白井城は定昌が駐屯し続けていく。■■

長尾景春の乱後■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
景春の不運は、同時代の英雄・太田道灌が上杉氏に従っていた事でござろう。道灌は景春勢を叩き続け、徐々に
景春方は劣勢となっていく。遂に1482年(文明14年)11月27日、景春に与していた足利成氏が上杉方と和睦に至り
景春は組織的抵抗を図る事が不可能となってこの乱は収束。しかしその後も景春は諸国を流浪しつつ上杉家との
軋轢を抱えたままだった為、白井城への復帰は果たせずにいた。一方、白井城は定昌の入城以後、越後上杉家に
関する内紛に振り回されるようになっていて、白井城内で1488年(長享2年)3月24日に定昌が僅か36歳の若さで
謎の自害を遂げた後、山内上杉憲房が入っていた。これは越後国内で長尾為景(上杉謙信の実父)が下克上を
起こし守護である越後上杉氏を放逐、それに対する上杉方が為景討伐の軍勢を整えるべく白井城を拠点に構え
山内上杉氏が支援に当たっていた状況による。ところが為景討伐は上手く行かず、山内上杉勢は敗退。上杉家の
弱体化を見た景春は好機到来とばかりに白井城奪還に動き、1510年(永正7年)8月に白井城を攻めた。この結果
白井城は白井長尾家の下に戻ったものの、その後の景春の動向については諸説あって判然としない。白井城で
没したとも、或いは再び白井城を出奔して他国で没したとも考えられているが、景春の嫡子・景英(かげひで)は
上杉氏との和解を果たして重臣に復帰、以後は彼の後裔が白井城を維持し申した。■■■■■■■■■■■
景英の嫡男・孫四郎景誠(かげのぶ)は嗣子なきまま家臣によって殺され、養子として憲景(のりかげ)が入嗣する。
憲景の出自は総社長尾氏と言われるが不明。この頃の上野国の実力者・長野信濃守業政(なりまさ)の斡旋により
白井長尾家を継いだ。既に関東管領たる上杉氏の威光は地に落ち、かつて上杉氏に叛した長尾為景の子である
長尾景虎が軍事力を以って台頭、山内上杉家の家督を継承し上杉謙信と名を変えた頃である。憲景は越後から
関東へと出征して来る謙信に従属して所領を保ったが、次第に甲斐の武田家も上州へ侵攻して来るようになり、
1567年(永禄10年)3月、白井城は武田信玄の家臣である真田弾正忠幸隆・左衛門尉信綱父子に攻略された。
信玄は城将として甘利昌忠を入れたが、一方で憲景は謙信を頼って越後へと逃れ、上杉麾下として転戦を重ね
1569年(永禄12年)上杉家と小田原後北条家の間で結ばれた同盟(越相同盟)によりようやく白井城への復帰が
叶った。1572年(元亀2年)再び武田家は白井城を奪って憲景は降伏。後に武田家が滅亡する際、憲景は織田
信長の重臣・滝川一益に近づいて再度白井城を回復したが、織田家も本能寺の変で弱体化するや後北条氏の
勢力が上野国を統べるようになり、左衛門尉輝景―左衛門尉景広と代替わりした白井長尾氏は後北条家へと
服属している。その後北条家が関白・豊臣秀吉から討伐を受けた1590年、白井城も豊臣軍の攻略目標とされて
前田利家・上杉景勝・真田昌幸らが率いる北方攻略軍に攻められた。5月15日に城は開城、城主の白井長尾家
一党は放逐され、輝景・景広兄弟は後に上杉景勝の配下として生き永らえる事になったのでござる。■■■■■

乱世の終結と共に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
後北条家滅亡後、関東を治めたのは徳川家康。白井城には家康配下の本多豊後守康重が2万石で封じられた。
関ヶ原合戦の戦功にて1601年(慶長6年)康重は三河国岡崎(愛知県岡崎市)5万石へと加増転封。これ以後、
白井城主はコロコロと変わっていく。康重に代わって戸田松平氏の松平丹波守康長が2万石で入るも、翌1602年
(慶長7年)下総国古河(茨城県古河市)へと移封。ちなみに康長は秀吉の小田原征伐時、白井城攻略に加わって
いた。続いて1万石で白井城主になったのは井伊掃部助直孝。直孝は徳川四天王に数えられた赤鬼・井伊直政の
2男で、この当時は兄の直継が父の遺領を継いで彦根藩主となっていた為、白井1万石の小領を与えられていた。
井伊兄弟の家督相続はこの後に幕府の裁定を受ける事となり、1616年(元和2年)直孝が彦根15万石を相続し、
逆に直継(この時に直勝と改名)は飛地領であった上野国安中(群馬県安中市)3万石へと移された。■■■■■
然る後、武蔵国原市(はらいち、埼玉県上尾市)1万2000石から西尾丹後守忠永が2万石に加増されて白井へ入封。
ところがこれも長く続かず2年後の1618年(元和4年)3月5日に常陸国土浦(茨城県土浦市)へと移される。■■■
今度は本多備前守紀貞(のりさだ)が1万石で封されたが、この紀貞は康重の3男。康重の長男である兄・伊勢守
康紀が岡崎藩を継承していたが、紀貞も取り立てられて白井城主に任じられたのだ。しかし、1623年(元和9年)
4月26日に44歳で死去してしまう。彼には嗣子が無かったため、白井藩本多家は断絶。これに伴って白井藩は
廃藩となり、白井城も破却され申した。斯くしてこの城の歴史は幕を閉じるのであるが、室町時代から江戸時代
初頭まで継続して使われた城は、中世城館から戦国期城砦を経て近世城郭まで進化する整備拡張が行われ、
天下泰平の世となった瞬間に廃絶するという運命を辿った訳である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■

城跡の遺構■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城は東に利根川、西には吾妻川が流れる両川の合流地点に沿った舌状台地に作られている。この台地には現在
国道17号線が縦貫しているのだが、当時も沼田街道が走っており、白井宿が置かれていた。その宿場町の西側、
吾妻川を背にして城は築かれ、城地の規模は東西350m×南北1km程の細長い敷地。河原の断崖に切り立った
中心部に本丸を置いて、そこから北側へと二郭・三郭・北郭・金毘羅郭(外郭)が梯郭式に並ぶ一方、本丸の
南〜東を南郭が塞ぎ、その南郭を取り巻いて新郭という帯曲輪を構える縄張り。城域はとにかく広いのだが、
とりわけ本丸の解放感は圧倒的だ。そして本丸を囲う土塁(特に南側〜東側)の分厚さや高さに驚かされる上に、
その周りをぐるりと回っている堀の存在感にも感心する。この堀、現状では空堀に見えるのだが往時は泥田堀の
ようだったらしく、昭和40年代くらいまではぬかるんだままの様相を保っていたそうである。加えて、近世城郭と
しての構築物も残されており、要所要所に石垣(写真)があったり、食い違いとなる技巧的な虎口を配置して
いたりと、実に良い遺構が残されてござる。白井宿も良い風情を湛えており、城と合わせて見物すると良い。
宿場散策には道の駅「こもち」から歩いて回れるが、城の主郭部まで至るのであれば、本丸内に数台の車を
停める余地があるので、直接乗り付けた方が便利でござろう。但し、近隣住民の生活道路を抜けて行く事に
なるので、運転には注意して頂きたい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
2004年(平成16年)3月31日、本丸部分が当時の子持村指定史跡とされ、現在は渋川市史跡となっている。



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡




勢多郡諸城郭  旧吉井町内諸城郭