“藤姓”足利氏の末裔■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
群馬県桐生市はみどり市を挟んで市域が東西に分かれているが、このうち西側の地域は2005年(平成17年)6月13日に
市町村合併するまで勢多郡新里村と黒保根村であった。その中で旧新里村山上(やまかみ)に位置するのが山上城だ。
この城を築いたのは在地豪族の山上氏と言われるが、その家系を遡ると足利氏に行き当たる。足利氏と言っても室町
将軍家となる源姓足利氏ではなく、俵藤太(たわらのとうた、藤原秀郷)の血縁である藤姓足利氏である。東国武士団の
大親分の如く描かれる藤原秀郷から繋がる一族のうち現在の栃木県足利市近辺に勢力を築いたのが藤姓足利氏で、
同じく足利に所領を得ていた源氏の一党も足利氏を名乗り、後に藤姓足利氏が滅ぼされた故その名跡と所領を継いで
源姓足利氏に統一される訳だが、山上氏は滅亡以前に藤姓足利氏から分かれた一門である為、その血を後世に残した
訳だ。一説には足利俊綱の弟・高綱がこの地に根付いて山上氏を名乗るようになったとされているが、足利俊綱という
人物はその子・忠綱と共に源平合戦に於いて平氏方へ付いて戦った猛将で、結果的に源頼朝と敵対し滅ぼされ申した。
他方、山上五郎高綱は頼朝に与して所領を保ち、鎌倉幕府の御家人に数えられてござる。が、忠綱が頼朝軍に敗れて
落ち延びて行く際、一時この城に立ち寄って匿われたとする伝承もある。同時代の群雄である大庭氏が兄弟相克の上
兄・景義(かげよし)は頼朝に付き、弟・景親(かげちか)が平氏に従って戦ったように、或いは関ヶ原合戦に際して梟雄
真田一族が父(昌幸)弟(信繁)は西軍、兄(信幸)は東軍に分かれどちらが勝っても命脈を保った如く、忠綱と高綱は
生き残りを賭けて道を分かち、今生の別れをこの城で告げたのかも…などと考えるのも歴史の浪漫と言えようか。■■
度重なる争奪戦■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
高綱の後、高光―光高―時光―時定と代を重ねて室町時代を迎える。南北朝動乱期には一族の中で各々南朝方と
北朝方に分かれ、これまたどちらが生き残るか懸命に行く末を模索していたようだ。室町幕府内で起きた権力闘争の
観応の擾乱(かんのうのじょうらん)に於いて、山上十郎公秀は笠懸野(かさかけの、みどり市〜太田市一帯)にて
足利直義勢と戦っている。1351年(観応2年/正平6年)の事だ。この合戦で公秀は敗北したが、後には反攻に転じて
直義を死へと追い込んだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国時代になると小田原城(神奈川県小田原市)に本拠を置く後北条氏が関東を席巻。北進を続ける後北条氏の
影響力が上野国へと至り、1555年(弘治元年)時の山上城主・山上氏秀(道及)は城を追われた。紆余曲折あるも、
1560年(永禄3年)上杉謙信の越山(関東侵攻)に乗じて氏秀は山上城を奪還したのだが、次第に上杉家の影響力が
関東から薄れると、結局山上城は後北条氏に服属する事となっていく。1566年(永禄9年)山上氏は後北条方へ転じ
対する謙信は1569年(永禄12年)に上州へ再侵攻、山上城は落とされた。謙信は城主として大胡民部左衛門を入れ
後に木戸大炊頭、由良成繁の持城となったとも言われる。この後、後北条氏・上杉氏に加えて甲斐武田氏までもが
上州の争乱に加わり戦いは激化していく。1580年(天正8年)10月には武田勝頼がこの城へ攻め寄せた記録もある。
最終的に後北条氏が保持した山上城であったが、その後北条氏も1590年(天正18年)関白・豊臣秀吉による征伐を
受け滅亡。この小田原征伐時、山上城は秀吉麾下の将・片桐且元や郡宗保(こおりむねやす)らの攻略により落城。
そのまま廃城になったと見られてござる。なお、ここまで概略史を書いてきたものの、築城年については諸説紛々で
山上高綱が居を構えた平安末期や、 南北朝合一後の応永年間(1394年〜1428年)、はたまた戦国前期の大永年間
(1521年〜1528年)など様々に意見が分かれる。また、初期の山上氏の居館(高綱の館)と現在の山上城を別の物と
考える説もござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「れっきとした」城址公園■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城跡は前橋市と桐生市の境界付近、僅かに桐生市側の位置にある。桐生市立新里中学校の西側850m程の地点で
最寄駅と言えば上毛電鉄新里駅と膳駅のほぼ中間と言った感じ。城跡公園として綺麗に整備されており、駐車場も
完備されていて来訪は簡単。桐生市の元町集会所から北側150m程の所にその駐車場が用意されている。一見、
駐車場から望む風景は完全に公園化されてしまって摸擬感に溢れた“残念城”のように思えてしまうが、奥まで歩を
進めれば秀逸な遺構が丁寧に保存されていて、満足できること請け合い。城址公園として開放されているのは東西
200m弱×南北350m程であるが、想定される旧来の規模は南北650mと考えられており、非常に縦長の敷地を有する
城でござった。この敷地内を、北から順に笹郭(物見郭)・北郭・本丸(主郭)・二ノ丸・三ノ丸と一列に区切られていて
現地の説明で言う処の並郭構造、一般的には連郭式と分類される縄張になっており申した。更に南端部には南郭が
あったとされており、ここまで含めると南北650mの規模になる。この南郭は上記した元町集会所の近辺に該当する。
こうした縄張りからすると、城は南北に対して縦深を取った多重防御の構えと言う事になるが、それに対して東西は
各曲輪がそれぞれ外縁を直接城外に晒す構造になってしまっている。この弱点を補う為だろうか、山上城は西面に
笹郭から南郭まで達する長大な一直線の空堀を貫通させており、更にその外側にも帯曲輪状の構えと土塁を備えて
側面からの侵入者を阻む意図を感じさせる。ところが東側に対してはそれほど強固な陣地がなく、緩斜面に僅かな
腰曲輪を有する程度となっている。もっとも、城の東面には蕨沢川が北から南へと流れており、これが天然の水濠を
成していた事は間違いない。或いは、往時は蕨沢川のみならず周辺一帯が湿地帯だったとも想像でき、城の防備に
役立っていたのかもしれない。なお、城の西側にも蕨沢川の支流(天神川?)が回り込んでおり、山上城は2つの川に
挟まれた巧妙な立地に作られていた事が良く分かり申そう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現状で残る各曲輪はどれも往時の姿を想像させてくれる良好な状態。土塁や切岸、堀跡なども素晴らしく、縄張図
片手に散策すると実に楽しい。言わずもがな、城の中心となるのは主郭でござるが、その標高は海抜221.16mを
数える(櫓台土塁の最高地点)。城外はおよそ203m平均の標高なので、主郭とは20m弱の比高差となり申す。この
20mの高低差を上手く使って城地を作り上げており、もちろん城内には井戸跡も検出されて水利の便も良い場所を
確保した様子が垣間見える。一方、縄張はあくまで方形の曲輪を重ねただけの簡単な構造。城の縦深こそ稼げど、
食違いや横矢掛かりなどの技巧的な構造物は殆ど見受けられない。このあたりは鎌倉武士の方形居館を継承した
構造と言えるのかもしれないが、戦国期を生き延びるには心許ない縄張であり、実戦において山上城がどのように
防備を固めたのか、なかなか謎めいた感じでもある。なお、この井戸は人為的に埋められた痕跡が確認されており
廃城…というか破城?が行われた証拠とも言えよう。井戸を埋めた土の中からはカワラケや五輪塔、石臼が発見
されていて、埋没年代の参考になっているとか。井戸の深さは約8m、口径4mながら底径は1mと、所謂「ラッパ型」の
地山井筒朝顔型と呼ばれる断面になっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
宅地化された南郭に於いても元町集会所の脇に小高い丘が残されており、これまた櫓台土塁の跡のようだ。この
小丘も、頂点は標高205.1mを数え、周囲より3〜4mほど高い。時間があればこちらも訪れてみたい場所でござろう。
城跡は1948年(昭和23年)11月26日に群馬県史跡に指定されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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