上野国 山上城

山上城址碑

 所在地:群馬県桐生市新里町山上
 (旧 群馬県勢多郡新里村山上)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★★■■



“藤姓”足利氏の末裔■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
群馬県桐生市はみどり市を挟んで市域が東西に分かれているが、このうち西側の地域は2005年(平成17年)6月13日に
市町村合併するまで勢多郡新里村と黒保根村であった。その中で旧新里村山上(やまかみ)に位置するのが山上城だ。
この城を築いたのは在地豪族の山上氏と言われるが、その家系を遡ると足利氏に行き当たる。足利氏と言っても室町
将軍家となる源姓足利氏ではなく、俵藤太(たわらのとうた、藤原秀郷)の血縁である藤姓足利氏である。東国武士団の
大親分の如く描かれる藤原秀郷から繋がる一族のうち現在の栃木県足利市近辺に勢力を築いたのが藤姓足利氏で、
同じく足利に所領を得ていた源氏の一党も足利氏を名乗り、後に藤姓足利氏が滅ぼされた故その名跡と所領を継いで
源姓足利氏に統一される訳だが、山上氏は滅亡以前に藤姓足利氏から分かれた一門である為、その血を後世に残した
訳だ。一説には足利俊綱の弟・高綱がこの地に根付いて山上氏を名乗るようになったとされているが、足利俊綱という
人物はその子・忠綱と共に源平合戦に於いて平氏方へ付いて戦った猛将で、結果的に源頼朝と敵対し滅ぼされ申した。
他方、山上五郎高綱は頼朝に与して所領を保ち、鎌倉幕府の御家人に数えられてござる。が、忠綱が頼朝軍に敗れて
落ち延びて行く際、一時この城に立ち寄って匿われたとする伝承もある。同時代の群雄である大庭氏が兄弟相克の上
兄・景義(かげよし)は頼朝に付き、弟・景親(かげちか)が平氏に従って戦ったように、或いは関ヶ原合戦に際して梟雄
真田一族が父(昌幸)弟(信繁)は西軍、兄(信幸)は東軍に分かれどちらが勝っても命脈を保った如く、忠綱と高綱は
生き残りを賭けて道を分かち、今生の別れをこの城で告げたのかも…などと考えるのも歴史の浪漫と言えようか。■■

度重なる争奪戦■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
高綱の後、高光―光高―時光―時定と代を重ねて室町時代を迎える。南北朝動乱期には一族の中で各々南朝方と
北朝方に分かれ、これまたどちらが生き残るか懸命に行く末を模索していたようだ。室町幕府内で起きた権力闘争の
観応の擾乱(かんのうのじょうらん)に於いて、山上十郎公秀は笠懸野(かさかけの、みどり市〜太田市一帯)にて
足利直義勢と戦っている。1351年(観応2年/正平6年)の事だ。この合戦で公秀は敗北したが、後には反攻に転じて
直義を死へと追い込んだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国時代になると小田原城(神奈川県小田原市)に本拠を置く後北条氏が関東を席巻。北進を続ける後北条氏の
影響力が上野国へと至り、1555年(弘治元年)時の山上城主・山上氏秀(道及)は城を追われた。紆余曲折あるも、
1560年(永禄3年)上杉謙信の越山(関東侵攻)に乗じて氏秀は山上城を奪還したのだが、次第に上杉家の影響力が
関東から薄れると、結局山上城は後北条氏に服属する事となっていく。1566年(永禄9年)山上氏は後北条方へ転じ
対する謙信は1569年(永禄12年)に上州へ再侵攻、山上城は落とされた。謙信は城主として大胡民部左衛門を入れ
後に木戸大炊頭、由良成繁の持城となったとも言われる。この後、後北条氏・上杉氏に加えて甲斐武田氏までもが
上州の争乱に加わり戦いは激化していく。1580年(天正8年)10月には武田勝頼がこの城へ攻め寄せた記録もある。
最終的に後北条氏が保持した山上城であったが、その後北条氏も1590年(天正18年)関白・豊臣秀吉による征伐を
受け滅亡。この小田原征伐時、山上城は秀吉麾下の将・片桐且元や郡宗保(こおりむねやす)らの攻略により落城。
そのまま廃城になったと見られてござる。なお、ここまで概略史を書いてきたものの、築城年については諸説紛々で
山上高綱が居を構えた平安末期や、 南北朝合一後の応永年間(1394年〜1428年)、はたまた戦国前期の大永年間
(1521年〜1528年)など様々に意見が分かれる。また、初期の山上氏の居館(高綱の館)と現在の山上城を別の物と
考える説もござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

「れっきとした」城址公園■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城跡は前橋市と桐生市の境界付近、僅かに桐生市側の位置にある。桐生市立新里中学校の西側850m程の地点で
最寄駅と言えば上毛電鉄新里駅と膳駅のほぼ中間と言った感じ。城跡公園として綺麗に整備されており、駐車場も
完備されていて来訪は簡単。桐生市の元町集会所から北側150m程の所にその駐車場が用意されている。一見、
駐車場から望む風景は完全に公園化されてしまって摸擬感に溢れた“残念城”のように思えてしまうが、奥まで歩を
進めれば秀逸な遺構が丁寧に保存されていて、満足できること請け合い。城址公園として開放されているのは東西
200m弱×南北350m程であるが、想定される旧来の規模は南北650mと考えられており、非常に縦長の敷地を有する
城でござった。この敷地内を、北から順に笹郭(物見郭)・北郭・本丸(主郭)・二ノ丸・三ノ丸と一列に区切られていて
現地の説明で言う処の並郭構造、一般的には連郭式と分類される縄張になっており申した。更に南端部には南郭が
あったとされており、ここまで含めると南北650mの規模になる。この南郭は上記した元町集会所の近辺に該当する。
こうした縄張りからすると、城は南北に対して縦深を取った多重防御の構えと言う事になるが、それに対して東西は
各曲輪がそれぞれ外縁を直接城外に晒す構造になってしまっている。この弱点を補う為だろうか、山上城は西面に
笹郭から南郭まで達する長大な一直線の空堀を貫通させており、更にその外側にも帯曲輪状の構えと土塁を備えて
側面からの侵入者を阻む意図を感じさせる。ところが東側に対してはそれほど強固な陣地がなく、緩斜面に僅かな
腰曲輪を有する程度となっている。もっとも、城の東面には蕨沢川が北から南へと流れており、これが天然の水濠を
成していた事は間違いない。或いは、往時は蕨沢川のみならず周辺一帯が湿地帯だったとも想像でき、城の防備に
役立っていたのかもしれない。なお、城の西側にも蕨沢川の支流(天神川?)が回り込んでおり、山上城は2つの川に
挟まれた巧妙な立地に作られていた事が良く分かり申そう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現状で残る各曲輪はどれも往時の姿を想像させてくれる良好な状態。土塁や切岸、堀跡なども素晴らしく、縄張図
片手に散策すると実に楽しい。言わずもがな、城の中心となるのは主郭でござるが、その標高は海抜221.16mを
数える(櫓台土塁の最高地点)。城外はおよそ203m平均の標高なので、主郭とは20m弱の比高差となり申す。この
20mの高低差を上手く使って城地を作り上げており、もちろん城内には井戸跡も検出されて水利の便も良い場所を
確保した様子が垣間見える。一方、縄張はあくまで方形の曲輪を重ねただけの簡単な構造。城の縦深こそ稼げど、
食違いや横矢掛かりなどの技巧的な構造物は殆ど見受けられない。このあたりは鎌倉武士の方形居館を継承した
構造と言えるのかもしれないが、戦国期を生き延びるには心許ない縄張であり、実戦において山上城がどのように
防備を固めたのか、なかなか謎めいた感じでもある。なお、この井戸は人為的に埋められた痕跡が確認されており
廃城…というか破城?が行われた証拠とも言えよう。井戸を埋めた土の中からはカワラケや五輪塔、石臼が発見
されていて、埋没年代の参考になっているとか。井戸の深さは約8m、口径4mながら底径は1mと、所謂「ラッパ型」の
地山井筒朝顔型と呼ばれる断面になっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
宅地化された南郭に於いても元町集会所の脇に小高い丘が残されており、これまた櫓台土塁の跡のようだ。この
小丘も、頂点は標高205.1mを数え、周囲より3〜4mほど高い。時間があればこちらも訪れてみたい場所でござろう。
城跡は1948年(昭和23年)11月26日に群馬県史跡に指定されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域内は県指定史跡








上野国 膳城

膳城跡 史跡標柱

 所在地:群馬県前橋市粕川町膳
 (旧 群馬県勢多郡粕川村膳)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★★■■



森の中に見事な遺構が■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
2004年(平成16年)12月5日に市町村合併し、前橋市域となった旧勢多郡粕川村にあった城。前橋市に含まれた後
この地域は「粕川町」の町名が振られているものの、合併まで粕川村は町制を敷いておらず、あくまでも旧地名は
粕川村膳(ぜん)が正当である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上毛電鉄の膳駅から北へ500m程の場所に粕川歴史民俗資料館があり、その更に北側には膳城跡公園が作られて
さながらそこが城跡であるかのように思えるが、この一帯は膳城の北外郭部に過ぎない。ちなみに、膳城跡公園は
全くの児童公園で、そこに置かれた“模擬天守”が実に可愛らしい(笑)本来の主郭部は歴史民俗資料館の南側で、
その一帯だけが木立ちに覆われた森となってござる。とは言え、風化して荒れ果てた山林という訳ではなく、近年
綺麗に(そして過度でない形で)整備され、見事に「城跡だ!」と分かるような光景が広がっており素晴らしき限り。
さりとて、この森はあくまで主郭部の限られた範囲だけで、元々の城跡は周辺の住宅地までもが敷地内であった。
推定される旧城の最大範囲は東西およそ460m×南北600m弱はあったようで、主郭を中心としてその周りに二郭
三郭・北郭・南郭・東郭・西郭・追手郭・搦手郭・外曲輪…等々、いくつもの曲輪が取り囲んでいた。この点、直近の
山上城(膳城の北東わずか800mほどの位置で、隣接していると言っても良い位置)とは全く縄張が異なっている。
中心にある主郭に対し、どの方向から攻め込まれても前衛となる曲輪が機能する構造なのでござるが、その一方
曲輪の相互連携性はあまり良いように見えず、北東北や九州南部に見られる“群郭式”とも思える縄張。城地は
西から南へと兎川が流れ、東には蕨沢川の支流である童子川があり、2つの川は城の南端で合流する。この川が
天然の濠として城の3方を塞いでいる険要の地。そもそも城の立地が、これらの河川で形成された丘陵台地にあり
河川面よりも平均して4〜5mほど高い地形となっている。その中を曲輪取りするべく縦横に深い空堀で分割して
ザクザクと切り刻まれた堀の遺構を見るに、圧巻の一言に尽きよう。堀や土塁には横矢掛りの屈曲や要所要所の
櫓台(言わずもがな、火力拠点となる地点である)が配置され、非常に技巧的でもある。これも山上城と全然違う。
密接する隣同士の城なのに、何故ここまで相違点が出るのか不思議に思えるのだが…。■■■■■■■■■■

室町中期の築城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の創建は室町時代中期の嘉吉年間(1441年〜1444年)の頃、現地の豪族・膳(善)氏の手に拠るものだと言う。
膳氏の祖を遡ると、鎌倉幕府問注所(訴訟担当の役所)の初代執事である三善中宮大夫康信(みよしやすのぶ)に
あたり、康信の次子・大舎人丞倫行(行倫とも)が勢多郡の地頭に任ぜられ、この地に根付いたのが膳氏であった。
室町時代になると、関東の統治は足利将軍家の分家である鎌倉公方が執り行い、実権はその副官たる関東管領の
上杉氏が握っていくが、京都の将軍を絡めつつ鎌倉公方と関東管領はしばしば対立する。そのような渦中にあって
膳氏は関東管領に従って戦に赴き、膳城の築城もこうした戦乱に備えてのものだった。斯くして1455年(享徳4年)
所謂「享徳の大乱(鎌倉公方転じて古河(こが)公方・足利成氏(しげうじ)と関東管領との28年に及ぶ戦い)」の中で
公方方の赤堀時綱が管領方・膳信濃入道(倫隣か?)を2月15日の夜に攻めている。膳氏の館(膳城の事か)や村は
悉く焼落ち、一族は路頭に迷う事となった。1480年(文明12年)には赤堀氏と組んでいた佐野周防守が膳城を落とし
城主の膳三河守(信濃入道の子)は上杉氏の拠点である武蔵国五十子(いかっこ、埼玉県本庄市)へと逃亡した。
もはや独力で城を回復できない三河守は、金山城(群馬県太田市)主・横瀬信濃守成繁(よこせなりしげ)の援軍を
得て膳城を奪還したが、以降は横瀬氏の影響下で生き延びるようになり申した。■■■■■■■■■■■■■■
この他、1544年(天文13年)膳因幡守宗数の妹の夫で菱城(群馬県桐生市)主・細川内膳が桐生祐綱に討たれた際
膳勢は仇討として桐生へ攻め込んだものの、撃退されて膳城へ逃げ帰ったという記録もござる。■■■■■■■
戦国乱世が本格化すると、関東では小田原の後北条氏が伸張。横瀬氏も後北条氏に従うようになった為、膳氏も
それと同じ道を辿る。しかしその後北条氏を不倶戴天の敵と睨む越後(現在の新潟県)の上杉謙信が度々関東へ
来攻、1562年(永禄5年)膳氏は謙信へ従うようになった。1572年(元亀3年)謙信の指示で小俣城(栃木県足利市)
攻略戦に従軍した膳城主・膳備中守宗次は、城の搦手を急襲しようとして待ち伏せに遭い、返り討ちされ戦死して
しまう。剛の者として知られていた宗次だったが「大将妄に強くば却って軍法を破る」と勇猛ぶりが仇となった事が
語り継がれている。宗次を討ち取った小俣城主・渋川義勝は逆襲に転じ、近隣豪族の由良氏・桐生氏らを伴って
膳城を攻略、城は陥落し申した。宗次の一子・春松丸は老臣の斎藤右近に助けられ、謙信の本陣となっていた
沼田城(群馬県沼田市)へ脱出したものの、城に残った一族郎党は皆々討死して果てたと言う。落城した膳城には
大胡民部左衛門(上記、山上城の項で登場)が入った。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

甲冑も着けずに城攻め■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城を落ち延びた春松丸は謙信家臣の北条丹後守高広(きたじょうたかひろ)の猶子に迎え入れられ、謙信は膳城の
奪還を約束した。果たして1574年(天正2年)上杉軍が膳城を取り戻し、城代として木戸忠朝が入り、後年には河田
豊前守景親が城主となり申した。春松丸はまだ幼少であったため、こうした措置になったのであろう。だが、1578年
(天正6年)に謙信が急死すると上杉家中は跡目争いの大混乱に突入する。謙信の2人の養子、景勝と景虎が相争う
「御館の乱(おたてのらん)」が勃発し、特に河田一族は両派に分裂してしまうのだ。こうした情勢下、河田景親は
景虎派に属す事となり、更には小田原後北条氏へと従うようになった(景虎は元々後北条氏の出自)。転変は
更に続いて、1580年この地域は武田勝頼の支配下へと入る。この折、勢多郡を領有した勝頼が民心鎮撫の為に
鎧を着けず平服のまま領内を巡検していた所、膳城では酒盛りが行われていて酔った城兵が乱闘を始めた。
この騒ぎが広まり、城兵は城外にまで出て、行軍する勝頼の一行とも諍いを起こしてしまう。それに怒った
武田の軍勢は、その姿のままで膳城へ突撃し、城内で乱闘する者共を皆々討ち取ったのである。こうして城を攻め
落とした勝頼の攻撃は「膳城の素肌攻め」として伝説に残る事となり申した。この「素肌攻め」を最後に、膳城は
廃城になったとされている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後、城跡は風雪に紛れ、近代以降は徐々に宅地化されたのだが、膳氏の末裔と言う膳桂之助が太平洋戦争後に
残されていた本丸一帯を買い取って県に寄付したので、主郭付近は1949年(昭和24年)3月11日に群馬県指定
史跡となった。なお余談ではあるが、城を落ち延びた春松丸は長じて膳民部少輔宗広と名乗り、北条高広が
御館の乱の混乱で没した後は織田信長の家臣・滝川一益に服属。その一益も本能寺の変によって閉塞すると、
宗広は兵法の道を究めんと比叡山や高野山などで修行を積むも、最終的には帰農したそうである。この宗広の
血筋が桂之助へと繋がったのか否か、それは何とも分からない―――。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は県指定史跡








上野国 女渕城

女渕城址 本丸跡石碑

 所在地:群馬県前橋市粕川町女渕
 (旧 群馬県勢多郡粕川村女渕)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★☆■■■
★☆■■■



こちらは湖沼を使った城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こちらも旧粕川村に所在する城跡。「おなぶち」の「渕」の字は「淵」とする場合もある。山上城が丘城、膳城が段丘を
利用した城であるのに対し、女渕城は水城として守りを固めている。場所は上毛電鉄の線路沿い、粕川駅と新屋駅の
ほぼ中間地点に位置するが、ここを地図で見れば「城跡」と言うよりも「遊水池」のように思えるのが正直な感想だろう。
北を上にして「し」の字の形の池があり、そこから川が流れ出ている上、周辺にも細かい池が点在。そもそもこの辺りは
その名も粕川という川の流域にあり、恐らく往時は池どころか全域が広大な湿地帯であった事が容易に想像できよう。
敵がこの城を攻めようとしても、泥田に足を取られ近づく事すら困難だったでござろう。現代では治水や干拓が進んで
こうした湿地は見かけなくなってきているが、古態を描いた縄張図に当てはめると、少なくとも池や河川は当時とほぼ
変わらず存在していたようだ。「し」の字の池に囲まれた中央部が本丸、その北側に北曲輪が存在。本丸の南側には
二ノ丸、更にその南に三ノ丸(現在、御霊神社が建つ敷地)が連なる。北曲輪から三ノ丸まで概ね一直線に並んでいた
連郭式を基本とした縄張りで、現状で女渕城址公園となっている広場(二ノ丸〜三ノ丸の西側)も、当時は巨大な濠に
なっていた。即ち、「し」の字は元々小文字の「h」を上下反転させたような形であった訳だ。東西方向で池の最大幅は
40mを超え、西への備えは万全だったと考えられる。しかし、謎なのが北曲輪の西側対岸にも一つ、西曲輪と呼ばれる
巨大な角馬出状の出曲輪を構えている事である。大きな池で西への備えを固めていながら、わざわざ飛地となる郭を
造成した意図が良く分からない。池を渡って本丸へ迫る敵がいた場合、側面射撃を加える陣地となる事もあろうが、
それならばむしろ真っ先に西曲輪が攻め落とされるであろうし、それを主城域側から救援するのも難しい位置にある
(何せ大きな池が割り込んでいるのだから)訳で、こうなると西曲輪は討死必至の“捨て曲輪”としてしか存在意義が
見い出せない。北曲輪〜三ノ丸までの主郭曲輪群はそれぞれ方形の単純な形状なのに対し、西曲輪だけは複雑な
横矢掛かりの屈曲が入ったり濠が入り組んだりして技巧的な構造になっているので、或いは何かしら独立した戦闘
任務を託されていたのかもしれないが、解釈に難しい位置に存在している。何はともあれ、現状の城址に於いては
これらの曲輪跡は殆どそのままの形で残存している。だが、残念な事に(池の管理上仕方がないのだろうが)どの
曲輪も護岸工事によってコンクリートブロックで固められてしまい、城跡としての雰囲気は皆無。航空写真で城跡を
眺めると、見事に縄張図と一致して面白い城なのだが…。城域全体は東西200m強×南北450m程の大きさがある。

獲って、獲られて、また獲って…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
築城時期は戦国中期の天文年間(1532年〜1555年)頃?だと見られるが、詳細は不明。それ以前の歴史としては、
南北朝時代に足利尊氏・直義兄弟が争った観応の擾乱にて、女渕で大合戦が行われたという記録がある。■■■■
城の来歴としては1561年(永禄4年)上杉謙信が占領し、館林城(群馬県館林市)代の毛呂(諸野とも)因幡守季忠に
与えられたが、彼は1566年に謀反を起こして滅された為、謙信配下にあった足利長尾景長(当長(まさなが)とも)の
家臣・荒井(新居)図書允長重が城代に任じられたとある。その後、矢場城(群馬県太田市)の横瀬繁勝が奪い取り
繁勝の家臣となっていた沼田景義が城代とされ申した。この景義、御家騒動で沼田城を追われて諸国流浪の中に
あった沼田平八郎の事で、その生涯は悲劇の人間模様に彩られた人物だが、それは沼田城の頁を参照されたい。
1574年に謙信は再び女渕城を攻略して攻め落とし、横瀬方城代の沼田景義は追放され申した。このように上州の
中心に位置する勢多郡は、南関東の雄・小田原後北条氏(に与する横瀬(由良)氏)と、北から旧秩序を回復せんと
する上杉氏が綱引きする場となっており、女渕城はそうした戦乱の舞台となっていたのでござる。謙信没後は更に
武田勝頼までもが食い込んできたが、1582年(天正10年)に武田氏が滅亡するとこの地域の奪還を図る後北条軍が
女渕城を占拠、北爪氏が守将として城に入る。その後北条氏も1590年に豊臣秀吉の攻略で滅ぼされると、女渕城も
豊臣軍に攻められ陥落し廃城になったと見られている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
昭和になってこの地域に大水害が発生、それが元で城跡は上記のような護岸工事で固められてしまったが、かつて
水郷だった様子は今なお健在で、1974年(昭和49年)5月1日に粕川村史跡に指定され申した。これは市町村合併後
前橋市に継承され、現在は前橋市指定史跡となっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ちなみに、上杉氏統治時代の城代であった荒井図書允の後裔が、徳川6代将軍・家宣の侍講となった新井白石。
5代将軍・綱吉の出身地たる館林に程近い上野国新田郡新井村(現在の群馬県太田市新井町)を祖地とする彼が
綱吉の治世を全て否定する家宣の政権中枢として活躍する事になると言うのも、ちょっと皮肉な話でござろうか?



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡








上野国 大胡城

大胡城本丸跡 標柱と土塁

 所在地:群馬県前橋市河原浜町
(旧 群馬県勢多郡大胡町河原浜)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★☆■■



とりあえずは「大胡氏」による築城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
勢多郡大胡(おおご)町は2004年(平成16年)12月5日に前橋市と合併。かつての大胡町役場、現在の前橋市役所
大胡支所の北側にある城跡が大胡城でござる。この位置はすぐ東側に荒砥川が流れ、更にはその支流が食い込み
城地を複雑に分断する状況になっている。現状で城址として公開されているのは支所の直近北側敷地だけであるが
往時はその北、今では大胡幼稚園や大胡神社が鎮座する場所も曲輪となっていた。総て合わせると城の敷地は東西
約310m×南北は600m以上にもなるが、これだけの規模になったのは最終形態である江戸時代に入ってからの事。
なので、まずはこの城の来歴から説明するようにしたい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
築城時期は戦国中期の天文年間と言われる。城主はもちろん大胡氏。大胡氏も藤原秀郷からの血縁となる豪族で
平安期からこの地域一帯を支配した古豪のようだ。大胡氏の発祥に伴い、初期の段階から大胡城を居城とした説が
唱えられているが、この原初となる大胡城とは現在の場所とは別のもので、城址の西にある浄土宗無量山養林寺の
付近に存在した中世武家居館であると考えられている。大胡氏は鎌倉時代に御家人として勢力を維持したものの、
南北朝期に一旦没落し滅亡、その名跡は支流の一族が継承したとされたが、新系統の大胡氏も室町〜戦国期には
周辺諸勢力の圧迫を受け何度となく所領を追われている。更に付け加えると、この新生大胡氏は藤原秀郷流でなく
箕輪(上野国群馬郡長野郷、現在の群馬県高崎市箕郷町一帯)から進出した長野氏の系統であるとの説もある。
何はともあれ上記の通り天文年間になるとこの城が築かれたようであるが、1541年(天文10年)頃に太田金山城の
横瀬雅楽助泰繁が大胡城を攻略し城は奪われ、城主であった大胡宮内少輔重行・勝行父子は落ちていった。後に
大胡父子は小田原の後北条氏に匿われ、後年には勝行が武蔵国豊島郡牛込(現在の東京都新宿区)の地に封を
与えられ牛込氏と改姓(牛込城の項を参照)、江戸時代には徳川家旗本として存続している。■■■■■■■■■
さて泰繁が奪った大胡城には城代として家臣の益田(増田)繁政が入る。この益田氏というのは秀郷流大胡氏の
分流とも言われており、益田氏によって戦国期城郭としての改修を受けたようでござる。益田氏の系譜である史書
「藤原姓益田氏系図略記」に於いては繁政から遡って室町中期の人物である益田行綱なる者が大胡城を築いたと
されており、築城の由緒に諸説乱立する事になるが、少々乱暴な纏め方をすれば“大胡氏(のいずれか)が築城”と
集約されよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

戦国乱世の争奪戦■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この後、戦国の争乱が激化すると上野国内は小田原後北条氏と越後上杉氏の“草刈場”と化していく。由良姓へと
改めた泰繁は上杉謙信に従属し窮地を凌ぐが、次代・由良信濃守成繁(膳城の項で出た横瀬成繁とは別の者)は
後北条氏へと服従先を替えた為、1566年に謙信から攻められ、大胡城は落城した。謙信は配下の将・北条高広を
入れるが、翌年に高広は上杉家に叛し後北条方へと通じる。結局、甲斐武田氏に備える外交方針の転換に伴って
宿敵であった後北条氏と上杉氏との間で和議が成立、高広は上杉家へと帰参して厩橋(前橋)城(前橋市内)へと
移る事になったが、1574年に隠居し家督を嫡男の丹後守景広へと譲ると厩橋城は景広の居城となり、高広は再び
大胡城へ戻って隠居城とした。しかし1578年から謙信没後の家督騒動「御館の乱」が起きると高広は上杉景虎方に
与し、故に景広は戦死し、行き場を失くした高広は武田勝頼へと身を寄せるのである。斯くしてこの一帯は武田家の
領有する地となった訳だが、勝頼も1582年に没すると最終的に後北条氏が治めるようになる。その過程に於いて、
大胡城には大胡常陸介高繁なる者が入るようになったが、この人物は大胡姓とは言え本姓が毛利氏となっており、
藤姓大胡氏や長野大胡氏ではなく、北条高広の縁者(北条家も本姓は大江毛利姓)ではないかと考えられる。■■
この他、上泉(かみいずみ)氏(下記、上泉城の項にて詳細)の記録によると上泉伊勢守信綱が大胡城主であったと
記してもいるようだが、真偽の程は良く分からない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
豊臣秀吉による小田原征伐の折、城主の高繁は小田原城へと入城。結果、後北条氏の滅亡に殉じて高繁の所領は
没収されてしまう。1590年、新たに関東の主となったのは徳川家康で、大胡城には家康家臣である武勲の将・牧野
右馬允康成が2万石で封じられ申した。牧野家は1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦時、中山道を征く徳川秀忠に従い
行軍するも、上田城(長野県上田市)の真田家によって引き起こされた戦闘で血気に逸り勝手に応戦してしまった為
秀忠軍の第2次上田城合戦敗北、引いては関ヶ原遅参という大失態を招く契機となってしまった。よって、牧野康成は
上田合戦の直後から蟄居している。なお、康成出陣中に大胡城の留守を守ったのは牧野家の臣・稲垣長茂であった。
長茂は論功行賞で翌1601年(慶長6年)佐位郡(現在の群馬県伊勢崎市)にて1万石を与えられ伊勢崎城主に昇進。
一方の牧野康成は1604年(慶長9年)徳川将軍家の嫡子である竹千代(後の3代将軍・徳川家光)の誕生により恩赦、
ようやく蟄居を解かれたが、その時から彼は閑居し、嫡男の駿河守忠成が職務を代行するようになる。■■■■■■
1609年(慶長14年)12月12日に康成が没すると正式に忠成が家督を継承した。大坂の陣に於いて、牧野家は関ヶ原の
汚名を雪ぐべく奮戦、その功が評価され忠成は1616年(元和2年)7月に越後国頸城郡長峰(現在の新潟県上越市)に
5万石で加増転封された。程なく長峰から長岡(新潟県長岡市)6万4000石に変更された為、結果的に忠成は大胡から
直接長岡へと居を移しており申す(但し、近年の再研究によって異論も唱えられている)。北条高広統治期に続いて
牧野家の居城時代にも城の大改修が行われ、近世城郭化されてきた大胡城であったが、これによって廃城とされ、
以後、大胡の地は前橋藩領に併合されている。大胡城内の建造物は撤去され、前橋城の建材として転用されたとか。
なお、牧野家の退去直後には前橋藩主・酒井家から城代・高須隼人が派遣され統治実務を執り行い、その酒井氏が
1749年(寛延2年)に播磨国姫路(兵庫県姫路市)へと移封された時に廃城となったとする説もある。■■■■■■■

川沿いの大造成■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
では改めて城の縄張りを。南北に長い丘陵を利用した平山城で、ほぼ中央に位置する最高標高地点を主郭として
その北〜西〜南を取り囲むように二郭を造成。この二郭の北側に北城(越中屋敷とも)・近戸曲輪が並び、反対に
南側へは三郭・四郭(南郭)が繋がる連郭式の縄張。三郭・四郭の西面を塞ぐように西郭があったとも。北城には
大胡幼稚園、近戸曲輪は大胡神社が建っている。同様に三郭が庭球場、四郭が大胡支所、西郭は前橋市立大胡
小学校・同中学校の敷地だ。ちなみに「越中屋敷」の名の由来は、江戸時代に牧野家の家臣・真木越中守の屋敷が
あったと考えられている事に拠る。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
各曲輪の間は堀によって分断されているが、二郭と北城の間が一直線の巨大な堀切でぶった切る中世的構造に
なっているのに対し、三郭の外縁や近戸曲輪の北端(恐らく搦手口)近辺は複雑な屈曲や虎口構造になっていて
近世城郭としての技巧的改修が導入されている相違点が面白い。また、城内の要所要所には石垣の遺構も残され
明らかに牧野氏時代まで城の整備工事が続いていた様子が見受けられる。その反面、城の主要部を構成している
丘陵部と荒砥川の間にある細長い平野部は根小屋の跡だったと言われ、地図上で中世城郭の気風も感じ取れる。
そして何より圧巻なのが主郭を囲繞する分厚く高い土塁!これを実際に見てみれば、圧倒的な土木工事量に感心
させられる事間違い無し。城はフィールドワークで体感するものなのだと、改めて思い起こしてくれる貴重な遺構と
言えよう。土塁の最高所は海抜180m、荒砥川の河畔が海抜160mなので、比高20mを数える事になる。この土塁の
上から眺めれば、城内へと入ってくる登城路を管制できる構造になっている事にも注目して頂きとうござる。■■■
大規模な発掘調査は1999年(平成11年)9月30日〜2000年(平成12年)3月25日にかけて行われた。これは二郭の
北側にある大堀切を中心として採掘したもので、この大堀切から三郭〜四郭へと入り込んでいく堀跡水路、通称
風呂川の治水工事に伴って行われた。風呂川が流れ込む荒砥川は昔から土石流が頻発する暴れ川で、排水に
難のある(しかも市街地を流路としている)風呂川の根本的な砂防工事が急務とされていた事による。この工事の
結果、北城の西側へ回り込む緊急放水路が構築され、あたかも北城を守る堀のような形状を成すようになったが
これは元来の大胡城にあった水路ではない。話が逸れたが、発掘によって現地からは陶磁器片・かわらけ・古銭
石臼・擂鉢と言った生活用具や、石塔などの遺物が出土。また、縄文時代に遡る出土品も確認され、大胡城址が
それ以前からも生活の場となっていた事が裏付けられ申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城址へ至る道がわかりにくいのが難点であるものの、鉄道でも車でも行ける場所なので(狭い荒れ道なので運転注意)
是非ご来訪あれ。1967年(昭和42年)2月24日、群馬県指定史跡になっている。■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は県指定史跡








上野国 上泉城

上泉城跡 上泉郷倉遺構

 所在地:群馬県前橋市上泉町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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★☆■■■



そのスジの方々には“聖地”?!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上記、大胡城の支城と伝わる古城。大胡氏の支族と伝わる上泉氏の城と言われる。上泉氏と来れば、剣聖として
名高い上泉伊勢守信綱がピカ一で知られているが、まずは遡ってその起源を紐解きたい。■■■■■■■■■■
大胡城の項で大胡氏の発祥について概説したが、藤原秀郷から連なる系統の大胡本家は南北朝期で絶える事に。
しかしながら支流に於いては命脈を保ち、上泉氏はこうした藤姓大胡氏の血縁であると伝わる。だが異説もあり、
江戸中期の1786年(天明6年)に編纂された上泉家の家譜には、室町幕府四職の家柄である一色(いっしき)家の
一色義直が、遠戚である大胡氏の没落を見かねて孫の義秀を遣わし大胡義秀と成し、大胡本家が復興した後に
義秀は身を引いてその家臣となった為、上泉に改姓したとある。これが大胡上泉家の興りであり、上泉義秀以降
時秀―秀継―信綱と繋がっていく事になっているが、これまた眉唾物な話。一色義直なる人物、そして義秀の父
義春という人物(確かに、丹後一色家の義直は嫡男が義春となっている)は丹後一色家に名が残る者と年代的・
年齢的に一致せず、また義春は早世している為に義秀という子が産まれたという記録も無い。地方の豪族が、
権威付けの為に出自を名門武家に粉飾する事は良くある話なので(そもそも、俵藤太伝説は殆どそれである)
上泉氏も「足利氏」を辿って遡り一色家と遠戚であるように見せかけたと言うのが事の次第であろうが、それでも
大胡氏が藤姓足利氏の一門なのに対し、一色氏は源姓足利氏の親類なのだからかなり無理矢理なこじつけだ。
真偽は兎も角、この説に拠ると一色義秀は1453年(享徳2年)に大胡氏を再興、僅か2年後の1455年(康正元年)
辞去して上泉に隠棲。これが上泉城の創始とされる。一方、大胡氏の分流がそのまま上泉家になったとするなら
戦国時代、おそらく天文年間の築城と考えられてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

武田信玄 vs 上泉信綱■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その戦国時代、大胡家臣である上泉氏は関東管領・上杉氏に従属していた。ところが時の関東管領であった山内
(やまのうち)上杉憲政は小田原後北条氏の圧迫に耐え切れず、国を捨てて逃亡。上州を治めるのは憲政の重臣・
長野信濃守業政(なりまさ)になり、上泉氏もそれに従う。この後、憲政の無念を晴らすべく越後から長尾景虎が
1561年に関東へ襲来した際にはその幕下に参陣。景虎が配下武将の要覧として作成した文書「関東幕注文」に
「上泉大炊介」の名があり、それに先立つ長野業政の軍制記録「長野信濃守在原業政家臣録(着到帳)」では
「上泉伊勢守時則」、更には京の公家・山科言継(やましなときつぐ)の日記「言継卿記」の中には「大胡武蔵守」
或いは「上泉武蔵守」の名が出てくる。年代的に考えて、恐らくこれらは上泉伊勢守信綱の事を指していると
考えられ(逆に言えば“伊勢守信綱”の名は史料上に現れない)大胡家中にて上泉氏、信綱の存在が大きかった
事を示している。大胡城の項で大胡城主として信綱を充てる説を紹介したが、こうした状況の中で混同されたの
ではないだろうか?さりとて、長野家「着到帳」の記載においては上泉伊勢守時則を下柴(しもしば、下芝とも)砦
(群馬県高崎市箕郷町下芝)の主としており、上泉家は後北条氏との抗争中、既に本拠である上泉城を喪失して
いたのではないかと見る向きもある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この後、上州には武田氏の勢力も食い込んで来る。武田信玄は西上野への侵出を目論んで数度に渡り軍勢を
派遣したが、名将・長野業政の巧みな采配によってその都度撃退される。遂に信玄は音を上げ「業政が居る限り
上州には手が出せぬ」と諦めたとも。上泉勢は業政の配下にあって奮戦し、“長野十六人槍”の1人と数えられた
のみならず“上野国一本槍”との感状も与えられた。だが1561年に業政が病没すると、前言の通り信玄は上野への
侵攻を再開。業政の跡を継いだ嫡男・弾正忠業盛(なりもり)も、父に劣らず勇戦し武田勢を度々食い止めたが、
武田家の執拗な調略によって周辺国人が徐々に離反。とうとう支えきれなくなり1566年9月29日、居城の箕輪城
(群馬県高崎市)の落城と共に自刃して果てた。享年23。長野氏を滅ぼした事で武田家は西上野を領有するように
なり、生き残った信綱にも再三に渡って仕官を求めた。だが忠義の将・信綱はこれを固辞。国を捨て、諸国遍歴の
武者修行の旅に出たのである。ちなみに信綱は元々の名を秀綱と言ったが、才を惜しみつつも門出の贐として
信玄が諱の一字を与え、信綱と改名したそうでござる。この時点で上泉城の城主であったかどうかは不明だが、
いずれにせよ信綱が国を離れた事を契機に、城は廃城になったと考えられている。■■■■■■■■■■■■

江戸時代の郷村史跡(城とは無関係)、そして城の縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお江戸時代中期の1796年(寛政8年)上泉城本丸跡地に前橋藩の郷蔵(ごうぐら、写真)が建てられた。郷蔵は
一般的に年貢米の一時貯蔵場所として用いられた蔵だが、寛政の改革以降は飢饉に備えるべく米麦を備蓄して
凶作時にそれを開放するようにした地域共同体が管理する穀物蔵だ。上泉郷蔵は江戸期から現存するもので、
それに附随する古文書と共に1951年(昭和26年)6月19日、群馬県指定史跡とされている。現状、城のよすがを
感じさせるものは殆ど残っておらず、上泉ではむしろこの郷蔵の方が著名な歴史遺産になっている。余談だが
「郷蔵」を「郷倉」の字で表記する場合もあるが、群馬県指定史跡としての上泉郷蔵は「蔵」で記される。■■■■
城跡は南西の桃ノ木川とそれに合流する東側の藤沢川に挟まれた三角形の地形内に収まっている。上記の通り
上泉郷倉の建つ場所が本丸跡、その南にある上泉町自治会館が二ノ丸跡で、自治会館には広い駐車場もある上
信綱を顕彰するたいそう立派な銅像やら碑文やらが並んでいるので、観光客も問題なく来訪できる。実はこの碑が
なかなかにクセモノなのだが、まぁそれは置いといて(苦笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現地案内図に拠ると、この本丸・二ノ丸を囲う形で西に一の郭(曹洞宗恵雲山東寿院西林寺の一帯)、東に二の郭
北に三の郭があったとされている。本丸・二ノ丸がある他に一の郭・二の郭とはどういう命名?と考え込んでしまうが
本丸・二ノ丸が主郭部、他は外郭という感じなのだろう。これらの主要曲輪群を総じれば、城の規模は東西およそ
350m×南北280m程度の大きさ。地方豪族の城館としては手頃な規模だろう。明瞭な城の遺構は見受けられないが
郷蔵のある本丸は二ノ丸より僅かに高く、周辺にある斜面ももしかしたら曲輪の切岸か?と感じさせてくれるものの
確信が持てるようなものではない。なお、桃ノ木川の河畔は海抜98m、郷蔵は海抜102mで確かに高い位置だが
(故に、水害の難を逃れるべく高台に郷蔵が建てられたのだろう)北側の三の郭あたりは海抜105m程で更に高い。
まぁ、それほど険要な高低差という訳でも無いので、土塁や堀があれば十分に備えられたであろうが…。この他、
郷蔵から西北西へ350mほど離れた位置にある真言宗赤城山玉泉寺は上泉城の出丸と伝わる。この寺は結構な
高台にあり、周辺の田圃とは比高5m程とは言え急崖で隔絶し周囲の見晴らしは良い。主郭部は川に挟まれた
“後ろ堅固の城”を成し、前衛となる出丸は絶壁で防御するというのが上泉城の要諦と言えよう。■■■■■■■■

剣術諸流派の太祖と言える名将■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さてここまで話を引っ張ってきたのだが「そもそも上泉信綱って誰?」という方の為に。義秀からの歴代上泉家は剣豪の
家として知られる中で、信綱も若い頃から剣術の研鑚に励み名を上げた。真偽の程は定かでなく、諸説あるものの
伝承に拠れば信綱は愛洲移香斎久忠(あいすいこうさいひさただ)から陰流(かげりゅう)を、松本備前守政信
或いは塚原卜伝(つかはらぼくでん)から天真正伝香取神道流(てんしんしょうでんかとりしんとうりゅう)を、更には
念流(ねんりゅう)をも修めたと言う。陰流・神道流・念流は兵法三大源流とされ、信綱はその全てを会得。それを
基に独自の創意工夫を加え、信綱の流派である新陰流を編み出し全国行脚の武者修行に出るのである。上洛し
京都では剣豪将軍として知られる足利義輝に剣技を施したほか、その道すがらで北畠具教(とものり)・宝蔵院胤栄
(ほうぞういんいんえい)・丸目蔵人佐長恵(まるめながよし)と言った錚々たる面々に新陰流を教授した。具教は
伊勢(現在の三重県主要部)の大名にして剣の達人、胤栄は槍術の使い手、長恵は九州出身の凄腕で信綱の
演武における相手役を務めた人物。信綱の高弟には疋田文五郎景兼(ひきたかげとも)・神後伊豆守宗治(じんご
むねはる)などが居り、新陰流の伝播に貢献しているが、その中でも最も名高いのが柳生宗厳(やぎゅうむねよし)。
宗厳は若き頃に信綱を打ち負かすべく勝負を挑むが、弟子の景兼(宗治だったとも)に呆気なく惨敗。信綱一門の
強さに心服し、弟子入りして新陰流を学ぶ事になる。腕を上げた後は「東の日本一は柳生、西の日本一は丸目」と
信綱から評せられるようになり、入道し石舟斎と号した頃になると宗厳は新陰流を発展させ、柳生新陰流を作り
上げていく。柳生新陰流は江戸時代になると尾張藩の御家流として広まる尾張徳川家お抱えの尾張柳生と、
江戸にて徳川将軍家代々の剣術となる江戸柳生に二分されるが、いずれにせよ一刀流と並んで江戸時代の
二大流派として名を残している。また、“西の日本一”丸目長恵は郷里に戻った後、領内へ忍び込んだ忍者を
抹殺する「隠密狩り」で恐れられ、17人もの忍びを切り捨てたそうだ。彼もまた独自の流派である新陰タイ捨流
(しんかげたいしゃりゅう)を作り上げたが、タイ捨流を更に発展させたのが、かの有名な薩摩示現流である。■■■
古武術である兵法三大源流を集約させて、江戸時代のスタンダードとなる柳生新陰流や示現流へと繋げた人物、
それが剣聖・上泉伊勢守信綱なのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等




岩櫃城・中山城  長井坂城・白井城