絶壁の山を背負った威容■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
甲斐武田氏滅亡の直前、稀代の謀将・真田安房守昌幸が主君の武田四郎勝頼を迎え入れ徹底籠城するよう進言したものの
結局、勝頼はそれを選ばずに敗北の途を辿ったという逸話で有名な上州の山城。巨大な絶壁の岩山としてその姿が印象的な
岩櫃山にある城だが、山の東側山腹〜山麓にかけて築かれた城なので、決して山頂にある訳ではござらぬ。だが最盛期には
その山腹一帯に街道や城下町、出城などを配置した壮大な規模を誇り、絶妙な立地を上手く利用した構えとなっていた。■■
城の起源は定かではない。鎌倉時代に当地を治めた吾妻太郎助亮なる者によって築城されたとの伝説があるも、確証はなく
そもそも助亮の子・四郎助光は1221年(承久3年)に起きた承久の乱において戦死、これで助亮系の前期吾妻氏は歴史上から
消え去っていく。結果、吾妻氏は一族の傍流である下河辺(下川辺)行家が名跡を継いで後期吾妻氏となるが、彼の孫である
吾妻太郎行盛の頃に南北朝動乱が到来、行盛もまた敗死して吾妻氏は没落していくのでござる。なお、北朝に与した行盛を
討ち果たしたのは碓氷郡里見郷(現在の群馬県高崎市、旧碓氷郡里見村周辺)の里見義時。里見氏は新田氏の分流なので
当然の如く南朝方であった。義時の後裔が後に安房国(千葉県南端部)に移り戦国大名里見氏になっていく訳だが、武田や
真田といった名が連なる岩櫃城の歴史に里見氏も関りがあると云うのは歴史の偶然か、それとも必然であろうか。■■■■
さて、これも伝承になるが行盛の子・千王丸は秋間斎藤氏の梢基(松井田城(群馬県安中市)主)によって助けられ、斎藤家の
後嗣に入り斎藤太郎憲行を名乗ったと云う。行盛の妻は斎藤梢基(季基とも)の姉であり、その縁からの成り行きでござった。
1357年(正平12年・延文2年)先の関東管領(室町体制における東国の実質的統括者)上杉憲顕(のりあき)の力を借り憲行は
義時を討伐、旧領を回復した。この折に岩櫃城を奪還したとも言われるが、となると伝承に過ぎない岩櫃築城説は事実だった
事にもなろう。以後、憲行は上杉氏に従い、1416年(応永23年)に起きた関東の大乱「上杉禅秀の乱」においても、関東管領
山内(やまのうち)上杉憲基(のりもと)の配下に斎藤憲行と思しき人物の名が入ってござる。■■■■■■■■■■■■■
ところが斎藤太郎憲行なる人物については全く異なる出自の記録もある。藤原秀郷の末裔と称する点は吾妻氏系と同一だが
元々は越前国大野郡(現在の福井県大野市)にて土着していたとするものだ。その越前斎藤氏、斎藤基国の子である憲行が
何故か上野国に入部し岩櫃城を築いたというのでござる。これが1405年(応永12年)の事で、岩櫃城の存在に関して確実視
できるのはその時なので、従前の伝記的築城説を除外し当年を以って岩櫃城の築城とする説もある。結果として吾妻氏系と
越前斎藤氏系の「斎藤太郎憲行」はここに一体化し、以後の岩櫃城主として血脈を繋いでいく。彼の子孫は多数に分岐して、
その中の大野氏が頭角を現すようになった。憲行の曽孫・大野下野守義衡は対立する家臣や一族を粛清し岩櫃城を居城に
したと云う。義衡の後は長男の治部太夫憲賢が岩櫃城主の座を継ぎ、更にその後は越前守憲直が継承。憲行の嫡子である
斎藤孫三郎憲実は大野家の家臣に成り下がっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
反逆の城主と調略の名手■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした状況の下で、大永年間(1521年〜1528年)に憲行の曾孫(大野義衡とは別系)・斎藤孫三郎憲次という人物が主君の
大野憲直を討ち岩櫃城を奪った。近隣の植栗(うえぐり)城(東吾妻町内)主・植栗河内守元吉と対立した憲直が、重臣だった
憲次に植栗討伐を命じたものの、憲次は植栗を攻めると見せかけつつ逆に元吉と通じて憲直を急襲し大野一族を根絶やしに
したと伝わっている。憲次の後は嫡子・太郎憲広がその地位を相続した。憲次・憲広は関東管領山内上杉氏に従属しており
後に関東士族の銘譜として編纂された「関東幕注文」には憲広を斎藤越前守と記している。上級権力である関東管領に吾妻
地方の主と認められた憲広は、次第に所領拡大を目論んで地域争乱の火種に介入。沼田地方(群馬県沼田市)の沼田氏と
対立する一方で、三原庄(群馬県吾妻郡嬬恋村)における羽尾(はねお)氏と鎌原(かんばら)氏の領地争いにも口を出した。
羽尾氏・鎌原氏ともに北信州の名族・海野(うんの)氏の血脈である。斎藤憲広は羽尾氏に味方したが、それを形成不利と
見た鎌原氏の鎌原宮内少輔幸重は同じく海野氏系の実力者・真田幸隆を頼った。言わずもがな、武田信玄の配下にあった
智将“攻め弾正”こと真田弾正忠幸隆でござる。1561年(永禄4年)鎌原幸重は幸隆を通じて武田家に臣従し、それに対して
翌1562年(永禄5年)斎藤憲広と羽尾氏は共同で鎌原城(嬬恋村内)を攻略して鎌原氏を信濃に追放した。だがこれは逆に
武田軍を呼び込む契機となってしまい、同年5月に信玄の命を受けた真田幸隆3000の軍が侵攻して来る。憲広はこれをよく
防ぎ、また関東管領の職を継いだ上杉謙信からの援軍も訪れた事で一旦は和議を結ぶに至ったが、調略に長けた幸隆が
そう簡単に諦める訳がない。和睦する裏側で幸隆は岩櫃城内に内応者を募り、憲広の甥・則実と斎藤方に従っていた海野
長門守幸光・能登守輝幸兄弟を篭絡していた。1563年(永禄6年)10月、真田軍の攻勢が再開され、力攻めに敵わずと見た
斎藤憲広は岩櫃城に籠城する。しかし城内の協力者であった則実と海野兄弟が火を放ち城方は大混乱に陥り、結果として
憲広はこの城を捨てて落ち延びるしかなかった。それでも憲広の末子・城虎丸(じょうこまる)は、近隣の嵩山(たけやま)城
(群馬県吾妻郡中之条町)へと逃れ真田軍に抗戦し、1565年(永禄8年)には憲広の嫡男(城虎丸の兄)・憲宗が越後から戻り
これに合流する。真田軍と激戦を繰り広げたが、池田佐渡守重安が真田方へと変心しまたもや城内に内応者を出し、それが
契機となって嵩山城は落城。斎藤兄弟は自害し、ここに斎藤氏は滅亡したのでござった。■■■■■■■■■■■■■■
岩櫃城を手にして、信玄から吾妻一帯の統治を任せられた幸隆は城代として三枝(さいぐさ)・鎌原・湯本の3氏を命じたが、
その中の三枝土佐守虎吉は後に駿河侵攻へと転任し岩櫃城代には海野兄弟が任じられるようになった。1567年(永禄10年)
幸隆は隠居し嫡男の信綱が家督を相続、岩櫃城主の座も継承したが、左衛門尉信綱と2弟の兵部少輔昌輝は共に1575年
(天正3年)5月21日の長篠合戦で戦死。そのため、3弟で武藤家の養子になっていた喜兵衛が真田家に復帰し当主を継いだ。
この武藤喜兵衛こそ、即ち真田昌幸でござる。城主が転々とする一方で、城代である海野兄弟は斎藤氏時代から続く岩櫃と
沼田との対立関係においてよく城を守り、遂には1581年(天正9年)の2月に幸光が謀略を用いて沼田平八郎景義を暗殺する
功績を挙げ申した。同年、増長した海野兄弟は謀叛の嫌疑で誅殺されてしまうが、昌幸は勢力を拡大して沼田城をも手中に
収め北信濃〜西上野〜北上野までの東西に長い領地を擁するようになる。今や真田領は、本拠が上田城(長野県上田市)、
上州の要地である沼田城、その中間を繋ぐ「真田領の中心」となる結節点が岩櫃城という位置づけになっていた。それ故に、
岩櫃城は真田の重要城郭として大規模な拡張が行われたのである。なお、海野兄弟の後任は真田一族の老鎮・矢沢薩摩守
頼綱が城代を引き継いでいる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
真田家の自立■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした中、冒頭に記した甲斐武田家滅亡の危機を迎えた岩櫃城。1582年(天正10年)2月、昌幸は勝頼が武田家の本拠地
新府城(山梨県韮崎市)から岩櫃へと向かう事を見越して岩櫃山の南側山麓に勝頼用の居館(潜龍院)を構築。そして同月、
織田信長の甲信侵攻が現実のものとなり、当時まだ工事中なので未完成だった新府城では戦えないので険峻な要害にして
城下町も含めた長期的な籠城作戦が採れる岩櫃城で武田家の再起を図るべし、と勝頼に進言したのだ(諸説あり)。されど
勝頼は甲斐郡内都留の小山田左兵衛尉信茂を頼り岩殿山城(山梨県大月市)へ向かい、その手前の天目山にて織田軍に
囲まれ自刃。信茂は土壇場で勝頼を見限り岩殿山への入城を拒んだと伝わり、その変心を信長に咎められ処刑されている。
結局、勝頼が外様国衆の昌幸を信じず譜代家臣の信茂を選んだのが徒になった訳だが、例えば信茂が裏切らず岩殿山城で
籠城していたら、或いは昌幸の岩櫃城を選択していたら、勝頼の命脈はどうなっていたであろうか?■■■■■■■■■■
さて、これにより昌幸は独力で岩櫃城での生き残りを図る事となり、それまで武田家に従っていた国衆という立場から徐々に
独立大名として変貌を遂げて行く。表向きは周辺の大大名である後北条氏・上杉氏・徳川氏など大勢力の間を渡り歩きつつ
その実、北信濃〜上野一帯の確保に心を砕いたのだが、領国重心に当たる岩櫃城は少しずつ意味合いを変化させた。即ち
豊臣秀吉の全国統一に伴い昌幸は上田城を居城とし、昌幸の長男・伊豆守信幸が沼田城を預かる事になった為、岩櫃城は
沼田城の支城という扱いになったのでござる。つまり、それまでは東西を繋ぐ要所であった吾妻地方だったのに対し、今度は
東西のそれぞれが本拠となったために相対的な地位を下げ、沼田城の出城という形になったのだ。1590年(天正18年)以降
吾妻では岩櫃城を除いた他の城や砦が破却されている。だが、逆に言えば吾妻での拠点城郭は岩櫃城に集約された訳で、
岩櫃城の価値そのものが減じたのではなく、中世山城であった岩櫃山中腹の城域一帯は近世城郭にも通じる城郭都市へと
進化していたのだ。街道や城下町をも内包した構えは、沼田〜上田を往来する物流の中継地点として隆盛を見せた。沼田
支城時代の城代には真田家股肱の臣・出浦対馬守盛清(いでうらもりきよ)が任じられている。■■■■■■■■■■■■
1600年(慶長5年)関ヶ原の合戦において昌幸と信幸は東西に分かれて対立する。どちらが勝っても真田家を存続させる策で
あったとも言われるが、結果として東軍側についた信幸が勝者となり、真田領の全てを統べる事になった。これにて改めて
岩櫃城は沼田城の支城として再編されたものの天下泰平が成った1615年(元和元年)徳川幕府から諸国の城郭を整理する
「一国一城令」という法令が発せられた事によって岩櫃城は廃城(廃城年は前後数年で諸説あり)となっている。廃城後、
信之(信幸から改名)は原町(東吾妻町内)に陣屋を置いて吾妻地方統治の政庁と為し、岩櫃城下町もそちらへ移転した。
鎌倉時代からこの地方を押さえる要害の城は、斯くして元の山林へと戻っていき申した。■■■■■■■■■■■■■■
岩櫃城の全容■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
岩櫃山頂は標高802.8mという非常に高い場所となるが、岩櫃城の本丸は東側尾根の小ピーク上にあり、標高594m地点。
よって、遥か山頂まで登る(しかも絶壁が織り成す奇岩の上まで行く)つもりで山に入っても、案外手近な所で城の主要部を
制覇できてしまうのでそれほど登城に難儀する事はない(とは言え、山登りを甘く見てはいけないが)。この本丸から東へ
尾根を下るように数段の曲輪が重ねられた梯郭式の縄張り。本丸より上が急峻な崖になっているのに対し、城域となった
尾根部分からは削平された緩斜面となっているので大軍を収容できる大きめの曲輪が並んでいる。また、尾根上の曲輪を
守るように斜面上には幾つもの腰曲輪が段を成しており、その造形美には感心させられよう。圧巻なのは尾根を断ち切る
大堀切で、そのまま脇の斜面を真っ直ぐに落ちていく竪堀となっているのだが、この「真っ直ぐさ」が半端ない!余りにも
一直線な竪堀に「何のひねりもないのか?」と疑わせつつ、逆にこの見通しの良さが「真田ならではの罠なのか?」と、変に
勘ぐってしまうのが狙いなのだろうか(苦笑) また、竪堀から分岐する形で横堀も掘削されており、その仕切りにより曲輪が
あちこちに分立するようにもなっている。平城にある迷路的な構造を、山中の斜面で作り上げている訳である。しかもこの
空堀は通路や防御陣地としても活用できるようになっており、さながら縦横に張り巡らされた塹壕なのでござるが、あまり
他の山城では見かけない構造なので「これも何かの罠なのか?」と、とにかく徹底的に悩ませる縄張なのが特徴的。ただ、
決して技巧的という芸当ではないので、勝頼が逃げ込むための“決戦城郭”という割にはやや大味にも感じられてしまう。
それもまた真田の罠なのであろうか…。城の周辺には柳沢城や郷原城と言う出城群が分散しているので、そういう出城も
含めた総合的な山城として考えれば、或いは防御立案も変わってくるのかもしれないが?何はともあれ、城下町や数々の
出城・出曲輪まで統合した岩櫃城は山城としては破格の広大さを誇る一大拠点であった事は間違いない。■■■■■■
1972年(昭和47年)3月1日、当時の吾妻町(現在は東吾妻町が継承)史跡に指定。とにかく保存状態が良く、また整備も
行き届いていて見学し易い美麗な城跡だ。岩櫃山の直下にはJR吾妻線が走っているのだが(その下は吾妻川の断崖)、
やはり岩櫃城へは車を使って直近まで赴くのが簡単。国道145号線を善導寺の付近から平沢集落方面への脇道に入り、
岩櫃神社南西にある岩櫃城駐車場を目指せば、登城口に到着する。国道を離れた所からは少々心細い程の細道なので
運転には注意が必要。ただ、2017年(平成29年)4月6日に財団法人日本城郭協会から続日本百名城に選定された事で
駐車場が拡張されたり各種施設が設置されたりしているので、城好きならば是非とも訪れておきたい名城でござる。■■
なお地元が編纂した地誌「原町誌」においては斎藤憲行以降の城主を憲行―行禅―行弘―行基―行連―憲広(基国)と
伝えているものの、これが上記の斎藤憲行〜大野憲直〜斎藤憲広の誰に対応するものなのか良く分からない。結局の所、
真田家が奪う以前の岩櫃城については謎が謎を呼ぶ事ばかりでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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