上野国 七日市陣屋

七日市陣屋 御殿式台

 所在地:群馬県富岡市七日市

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★★■■
★★☆■■



加賀前田家の分家陣屋■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
織田信長の忠臣として功を挙げ、豊臣秀吉の親友として加賀百万石の礎を築いた男・前田又左衛門利家。彼が病没した時、
天下の形勢は徳川家康へと流れる事になり、前田家を継いだ左近衛権中将利長(利家嫡男)は生き残りの為に実母・芳春院
(まつ、利家正室)と異母弟・利孝(利家5男)を家康の本拠である江戸へと差し出し、服従の証とした。これが元となり前田家は
関ヶ原後も旧領を安堵された。その利孝は長じて大坂の陣における戦功を挙げ、徳川将軍家の覚え目出度く晴れて1万石の
封を得、1616年(元和2年)12月26日に独立大名となったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
斯くして領地とされたのが上野国甘楽郡(現在の群馬県富岡市周辺)であり、この時に七日市藩が立藩され政庁となったのが
ここ、七日市陣屋でござる。以後、七日市前田家は大和守利孝から12代を数えて廃藩置県まで転封される事なくこの陣屋で
藩政を執り行っていく。歴代藩主は2代・右近大夫利意(としもと)―3代・右近大夫利広(としひろ)―4代・右京利慶(としよし)
5代・利英(としふさ)―6代・大和守利理(としただ)―7代・大和守利尚(としひさ)―8代・右近将監利見(としあきら)―9代・
大和守利以(としもち)―10代・大和守利和(としよし)―11代・丹後守利豁(としあきら)―12代・利昭(としあき)だが、最後の
藩主である利昭は明治新政府が版籍奉還をして後、1869年(明治2年)8月2日に就任しているので、正確には“藩主”ではなく
“知藩事”として七日市藩を継承した事になる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
七日市藩は本家である加賀前田家との親交が厚く、江戸時代を通じて資金援助や藩政後見など様々な支援を受けていた。
その一方、加賀前田家が参勤交代で江戸と加賀を往復する際、七日市を定宿として逗留する事も慣習になっていたそうだ。
斯くして、小藩ながら日本最大の外様大名の縁者として上州に根付いた七日市前田家でござるが、藩の財政状況は決して
良いものとは言えず、様々な苦労が。特に11代・利豁の御世である1841年(天保12年)1月8日、七日市の町は「燈籠火事」と
呼ばれる大火に襲われ陣屋も焼失してしまう。同年、七日市藩は大坂城警護を幕府から命じられた為に再建は遅れ、1843年
(天保14年)になってようやく陣屋建物の再建が成った。これが現在まで残る御殿建築(写真)だ。なお、利豁は陣屋再建より
前に人材育成を目的として1842年(天保13年)藩校・成器館を創設してござる(後に利昭が成器館を文武学校と改称)。■■
廃藩置県によって陣屋は不要のものになり、敷地は大半が転用され申した。現在、跡地は群馬県立富岡高等学校の敷地と
なっているが、その一角に僅かながら陣屋の遺構が残され、写真の御殿や黒門(かつての陣屋中門か)が現存する。近代に
なって整備されたものであるが、御殿の前にある庭の池には鯉が泳ぎ、ささやかながら藩主の生活を想像させてくれるのが
良い。また、御殿山と呼ばれる櫓台や部分的とは言え陣屋外周の土塁もあり、往時の威容を垣間見る事ができよう。この他
富岡市内に南門と裏門が、下仁田町に大手門が移築現存すると云う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
兎に角、現存する陣屋御殿建築は貴重であり、世界遺産となった富岡製糸場に負けず劣らず必見の城郭遺構でござろう。
学校敷地内ではあるが、開門時間中なら見学は自由に行える。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

御殿・黒門・土塁

移築された遺構として
大手門・南門・裏門








上野国 小幡陣屋

小幡陣屋 喰い違い郭

 所在地:群馬県甘楽郡甘楽町小幡

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★★★



江戸時代、織田家が拠った陣屋■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
水郷の町として有名な甘楽町。市街地の中を「雄川(おがわ)堰」と呼ばれる疎水が流れ、生活用水としての利用はもちろん、
観光景観に大きな貢献を果たしてござった。その雄川堰から水を引き入れて、庭園の池泉に利用しているのが国指定名勝の
楽山(らくさん)園、すなわち小幡陣屋(幕末に小幡城と改称)の大名庭園でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■
近世小幡の歴史を紐解けば、徳川家康が関東に封じられた1590年(天正18年)徳川家臣・奥平美作守信昌が3万石で富岡へ
入った事に始まる。この時の小幡はまだ富岡領の一端に過ぎなかったのだが、富岡街道を経て武州〜上州〜信州へと通じる
陸上交通の要衝にして雄川〜鏑川〜利根川水系の水運も活用できる貴重な地であった。信昌は徳川家康の娘婿としてこの
要地を与えられた訳だが、1600年(慶長5年)9月15日の関ヶ原合戦で軍功を挙げ、更なる加増として翌1601年(慶長6年)3月
美濃国加納(現在の岐阜県岐阜市)10万石に転任。代わって1602年(慶長7年)小幡に入ったのが水野隼人正忠清(ただきよ)
石高は1万石でござった。その忠清も大坂の陣における功績で1615年(元和元年)三河国刈谷(愛知県刈谷市)2万石へと加増
転封、小幡は1616年〜1617年(元和3年)の間だけ徳川譜代大名・永井伝八郎直勝(なおかつ)に与えられた後、中納言織田
信雄(のぶかつ)が領す地となるのである。信雄は言うまでもなくあの右大将信長の実子(2男)であり、本領として大和国宇陀
(奈良県宇陀市)3万石を有す他に上野国甘楽郡2万石を加えられたものであった。■■■■■■■■■■■■■■■■■
そのため、信雄自身は宇陀に留まり、彼の4男・信良(のぶよし)が甘楽郡の統治に当たる事になった。故に、小幡藩織田家の
祖はこの因幡守信良とされている。信良は領内の福島村(現在の上信電鉄上州福島駅周辺)に居を構えたが、その子である
兵部大輔信昌の代になった1629年(寛永6年)小幡村に移り、陣屋を構えた。この陣屋は元々戦国時代に当地を支配していた
小幡氏重臣・熊井戸対馬守正満の屋敷だったと伝わるが、信昌が新たに築いたとする説もある上、さらに「楽山園由来記」に
拠れば1621年(元和7年)信雄が領有した時点から造営が始まったとされ(但し、信雄が小幡に入った記録はない)どのような
経緯であったのかは不明瞭である。ともあれ、これが小幡陣屋の創始で、以後明治維新まで小幡藩庁とされ申した。信昌の
次代、越前守信久(信昌の末期養子)の頃である1642年(寛永19年)9月に陣屋は完成、同時期に雄川堰も整備されたそうで
ここに、信長の名跡に由来する国主格大名・小幡織田家の統治体制が整えられたのでござった。■■■■■■■■■■■

名庭園を有する景勝地■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
陣屋は雄川(小幡領を南から北へ流れ、鏑川へと合流する利根川の支流)東岸に築かれ、主郭最大幅は東西×南北に其々
約230m。外郭部まで含めた全体的な敷地は東西およそ600m×南北760mとなる。藩邸(大名御殿)を中心に60もの建造物や
武家長屋が建てられ、城内鎮守となる神社も2箇所にあった。これらは西側を河岸で防備する作りだが、太平の時代の陣屋で
あるため、防御性は極めて低いと言わざるを得ない。川を挟んだ対岸、陣屋の西側には紅葉山なる丘陵があり、そこは陣屋
平面から60mも高い標高なので陣屋内部は丸見えになる。そもそも陣屋の“主郭”と言っても塀1枚を回しているだけ、しかも
その塀すら、完全に周囲を取り囲んでいた訳ではなく、城下町方向に面した北〜東面のみの構築でござった。よって、南面や
北西隅部については何ら仕切るものがなかったのである。また、土塁こそあったものの大規模な堀などは何も無く、仮に戦が
起きたとなれば、この陣屋の中で守備する事などは不可能だった筈だ。かろうじて、主郭の外縁や屋敷地内を鍵曲りにしたり
(よって、主郭は方形ではなく屈曲した敷地を為す)、武家屋敷群を集中配置する事で防御の体裁を保っていた反面、平和な
時代の陣屋だからこそ“茶人大名”だった織田信雄に由来する庭園が見事に設えられていた。これが小幡陣屋の最も特徴的な
所で、一説には信雄は京から茶人・庭園師として名高い藪内(藪中)剣仲(やぶのうちけんちゅう)を招き作庭に当たらせたとも。
小幡織田家はこの陣屋において政務を行い、信久の後は美濃守信就(のぶなり)―兵部大輔信右(のぶすけ)―和泉守信富
(のぶとみ)―美濃守信邦(のぶくに)と継ぎ、7代150年を数えたものの、信邦は家臣の登用で藩内に騒動をもたらしたため
1767年(明和4年)幕府から転封を命じられ、出羽国高畠(山形県東置賜郡高畠町)2万石へ飛ばされ、国主格の地位も剥奪
されてしまった。織田家による統治期間、藩財政は常に赤字状態で、毎年収入に対して支出が2倍に達していたという。■■
織田家に代わって小幡に封じられたのが奥平(松平)忠恒。上野国上里見(群馬県高崎市)2万石から転封されてきたもので
血縁を遡ればあの奥平信昌に行き当たる。166年ぶりに祖先の領地に還ってきた奥平家、摂津守忠恒は入封後2ヶ月にして
他界してしまうが、以後明治維新まで采女正忠福(ただよし)―玄蕃頭忠恵(ただしげ)―摂津守忠恕(ただゆき)と小幡陣屋を
継承していった。織田家の治世以来、巨額の借金を抱えた小幡藩の財政はどうにもならない状態を引きずっていたが、その
一方で忠福の時代の1791年(寛政3年)に藩校・小幡学校を創設、また忠恵は1848年(嘉永元年)10月18日に城主格大名へ
格上げされたため、小幡陣屋は小幡城を名乗る事が許されるようになり申した。されど、程なく明治維新・廃藩置県となり、
ここに小幡城の役割は終わって廃城とされたのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

城下町の風情を今に伝う■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この結果、城内の諸建築は悉く破却され荒廃に晒されたが、古くからの城下町の町割りや武家屋敷街は比較的良く残され、
現代でもその風情は陰る事がない。また、城跡も平成になって史跡復元の機運により再整備され、城址庭園2万3437.33uが
2000年(平成12年)3月30日、国指定の名勝になってござる。国指定名勝としては群馬県内で初めての指定で、これが冒頭に
記した楽山園として一般開放されている。“楽山”の苑名は「論語」の「知者ハ水ヲ楽シミ、仁者ハ山ヲ楽シム」という一節から
採られたもの。名勝指定に伴い園内整備が次々と行われ、城門や長屋建築、茶屋や塀といった建物が再建された。非常に
見事な庭園は、城郭愛好家ならずとも必見の観光名所であろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、武家屋敷群の中には「喰い違い郭」と呼ばれる石垣遺構(写真)が現存。これは屈曲させた通路を石垣で固めたもので
「郭」という程の広さではないが防備の手薄な小幡陣屋の中、ひときわ明確な防御構造を明示している。この郭は、一説には
上級武士とすれ違わないよう、下級武士が退避する場所として作られたものとも言われるが、真偽の程は定かではない。
ともあれ、こちらは城郭愛好家にこそオススメする小幡陣屋の“明瞭な遺構”でござる。■■■■■■■■■■■■■■■
公共交通機関ではやや行き難い場所ではあるが、城下町散策まで含めてじっくりと見学したい名城だ。■■■■■■■■



現存する遺構

楽山園庭園《国指定名勝》

移築された遺構として
大手門跡礎石








上野国 麻場城

麻場城址 空堀と土塁

 所在地:群馬県甘楽郡甘楽町白倉

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★☆■■



面白く、そして見事な縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現地の土豪・白倉(しらくら)氏の城だと伝わる。この城から東へ500mほどの位置には仁井屋(にいや)城もあり、2つの城を
合わせて一城別郭の白倉城と考える向きもござる。ただ、2つ纏めるにしては距離があるような気もするが。麻場城は守りの
城、仁井屋城は攻めの城、などという対比も為される(故に2つで1つの城なのだとか)が、そういう区分も良く分からない。
麻場城の所在地は上信越自動車道甘楽PAから北北西に750m程、対する仁井屋城跡は甘楽PAから北北東に750mという
具合だ。南から北へと突き出した舌状台地の先端部を利用し(仁井屋城も同様の構造)その台地内部を大きく2つの曲輪に
分けた縄張。台地の中心部、やや先端寄りの位置に台形(北面42m・南面60m×東西面各60m)の主郭を置き、その南側に
あたる舌状台地の根元に接続する部分が二ノ丸とされている。主郭の四周は深さ6m・幅15mもの空堀で隔絶、その周辺が
帯曲輪状に残されている。あるいは、これは通路として活用されていたのかも?通常、このように半島状の台地を利用した
城郭の場合、大根を輪切りにする如く堀切を穿ち細長い敷地を分断して曲輪を形成するものだが、この城の場合そうでは
なく、わざわざ横堀も構えて方形の主郭を作り出しているのが興味深い。城の起源が鎌倉時代の方形武家居館に由来して
いるという事ならばそれも有り得る話だが、当城の創始はそうではないので(詳細下記)、不思議な構造と言える。どうやら
鏑川(甘楽郡〜多野郡一帯を西から東へ流れていく利根川の支流)流域の河岸段丘に作られた城はこのような構造を持つ
傾向にあり、地域性が現れていると言う事なのだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、主郭の北面中央・東面中央にはそれぞれ架橋が据え付けられていたと考えられ、その部分の堀に柱穴の痕跡が
検出されている。また、大手と見られる入口は南面中央で、こちらは幅2mの土橋により二ノ丸と繋がっていた。この虎口は
桝形ではなく喰い違い虎口となっている。台地最先端部は物見だったと考えられ、恐らくここには井楼櫓のような監視哨が
建っていた。台地の麓と主郭の比高差は20m程。往時はそれなりに北側への眺望が開けていた事だろう。■■■■■■■
城の西側には白倉川が流れ、天然の外郭線を構築。東側にも谷戸が切り込む。ちなみに、仁井屋城の東側にはその名も
三途川(苦笑)という川が流れているので、大きく見た“白倉城”とは2つの川に挟まれた台地という、築城好地であった事に
なろう。このように、比高差も含め麻場城の西〜北〜東は地形により防御されているので、必然的に戦闘正面は南側だけと
限定される。この為、主郭の南側に二ノ丸が接続し更にその南に外郭(根小屋地区?)が構えられていたようだが、現状は
二ノ丸の南半分より外側が耕作地化・宅地化で滅失。その一方、二ノ丸以北は手付かずのまま旧状が残された為、主郭や
物見の残存状況は非常に良好でござる。よって、1989年(平成元年)8月24日に甘楽町指定の史跡となり、同年〜1991年
(平成3年)にかけて発掘調査・史跡整備が行われ、1992年(平成4年)4月に麻場城址公園として一般開放され申した。
この復元整備は非常に見事なもので、曲輪を囲う土塁や堀の姿が明瞭に確認でき、この城がどのような形であったのかが
一目瞭然だ。綺麗すぎる整備に異論を唱える方も居られるようだが、個人的にはここまで見事なのだからいっその事、塀や
柵・櫓や門、それに長屋の類まで再建しても違和感ないのでは?と思える。二ノ丸の奥手、主郭側に土塁が構えられており
(その土塁上から主郭が瞰通できてしまう状態)、この城を訪れる愛好家からは「なぜ外郭側ではなく主郭側に土塁が?」と
疑問の声が上がっているようだが、建造物まで含めて再現すれば、こうした謎を解く一助になるような気がする。■■■■
(個人的にこの土塁は主郭への入口を塞ぐ蔀土塁を大規模化したものだと思う)■■■■■■■■■■■■■■■■■
最寄駅は上信電鉄の上州新屋駅または上州福島駅。公園化で物見の麓(城山の北東側)に駐車場も完備されているので
比較的来訪しやすい。夏場は雑草が増えてしまう状態だが、藪に埋もれるほど酷くはないので、楽に見学できるのも良い。
ぜひとも現地を見て城の構造を隅々まで見分して頂きたい城址でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

関東戦乱に振り回された歴史■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
白倉氏の出自は武蔵七党(平安期、桓武平氏から分流した関東の土着豪族)の一派・児玉氏から分流したものだと伝わり、
同じく甘楽郡の土豪・小幡氏と並ぶ在地豪族。白倉氏は小幡氏に従い、室町期には関東管領・山内(やまのうち)上杉氏の
幕下にあったとされる。麻場城が築かれたのはこうした時代背景の中、通説では文明年間(1469年〜1487年)の事と考え
られている。文明の時代と言えば応仁・文明の乱の直後であり、室町幕府体制が崩壊し、戦国争乱が本格化する折。この
城も幾多の戦いに直面した事は想像に難くない。白倉氏は16世紀の中盤、五左衛門重佐(しげすけ)の代に上杉四宿老の
1人と数えられたが、この当時の上杉氏は小田原から伸張する後北条氏の圧迫を受け劣勢にあり、重佐とその子・左衛門尉
道佐(みちすけ)は忠勤に励み斜陽の上杉家を支えていたようだ。程なくして山内上杉氏当主・憲政は領国を追われ、越後
長尾氏を頼って落ち延びていく。そうした過程で麻場城もいったんは後北条氏の手に落ち、1560年(永禄3年)に長尾景虎
即ち上杉謙信によって上州が回復されると、再び白倉道佐の城に戻る。しかし南上州はこれ以後、後北条氏や上杉氏に
加えて甲斐の武田信玄までもが奪い合う激戦の地となっていき、白倉氏も去就に悩む事となった。1563年(永禄6年)から
1566年(永禄9年)に武田軍の上州攻略が本格的に進み、この頃に白倉氏は武田方に鞍替えしたらしく道佐は武田氏重臣
内藤豊前守昌豊の旗下に組み入れられている。然るにその武田氏が織田信長によって滅ぼされ、上州が織田家の関東
方面軍団長・滝川左近将監一益のものになると同様に白倉氏は一益の配下に収まる。さらに信長が本能寺の変で横死、
一益が関東を放棄した為、最終的に白倉家は小田原後北条氏に従うようになり申した。1590年、天下統一に王手をかけた
豊臣秀吉は後北条氏を討伐すると、この戦いで時の白倉氏当主・掃部助重家は小田原城(神奈川県小田原市)に参陣。
麻場城は重家の弟である重高が守備するも、前田利家・上杉左近衛権少将景勝・真田安房守昌幸らを主力とする豊臣家
北陸軍が攻撃して落城する。結果、後北条氏と共に白倉氏も滅亡する事になり、ここに麻場城は廃城。近代の史跡整備を
受けるまで、城跡は耕作地・山林へと変容していったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は町指定史跡








上野国 庭谷城

庭谷城跡 土塁遺構

 所在地:群馬県甘楽郡甘楽町大字庭谷

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★☆■■■
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川崖に沿った城砦■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「庭谷(にわや)」は「庭屋」とも。甘楽町の北端、鏑川に沿った崖端に位置する城郭。■■■■■■■■■■■■■■■■■
正確な築城年は不明、戦国時代のものとか。現地の武士・庭谷氏の城。庭谷氏は近隣にある国峰城(甘楽町内)主・小幡氏の
重臣となっていたそうで、この城は国峰城の支城となっていたとか。小幡氏は元々箕輪城(群馬県高崎市)主・長野氏の縁戚と
して西上野の重鎮であったが、武田信玄の上州侵略にいち早く従い武田家臣に転属。一説に、小幡尾張守信貞(のぶさだ)は
武田二十四将に数えられる程、信玄の信任篤かったと言われる。ところが武田氏が滅亡するや織田氏に、織田氏が関東から
去ると後北条氏に鞍替えし、過酷な生存競争を必死に生き延びようとした。その信貞が1590年、秀吉の小田原征伐に際して
小田原城の防備に参加すると、留守を預かったのが庭谷氏だった。庭谷城主・庭谷左衛門尉兼行は国峰城と自身の庭谷城を
共に守る事となるが、当然ながら豊臣方の大軍に敵う筈も無く、上杉景勝配下にあった藤田能登守信吉(のぶよし)によって
国峰城は落城した。これにより庭谷城も同じ運命を辿ったと思われ、それ以後は廃城になったと考えられている。■■■■■
現状、庭谷城の主郭跡は赤城神社の境内になっている。この場所は鏑川が大きく弧を描く地点で、川の浸食によって出来た
断崖を利用し後背地を固めた“後ろ堅固の城”である。川側の断崖は10m超の高低差で屹立し、こちら側から侵入するのは
まず不可能であろう。主郭の東に川、北〜西〜南の三方には二郭を啓開、更にその西側には城下の町屋。城域の南側は
奈免沢(なめさわ)という小渓谷がこれまた谷を削る断崖を作り、北側にも小さな川が流れて周囲と分断していた為、ちょうど
城を築く部分が切り出されたような敷地になっていた。主郭は東西40m×南北50m程の長方形。川側以外の三方には土塁を
巡らせ(写真)それが現存している。往時はその外周に堀、更に二郭の曲輪取りにも外堀が掘られていたのだが、耕地化で
埋められてしまった。話に拠れば内堀は昭和初期まで残っていたらしい。そのような経緯があって、二郭は今や完全に畑と
宅地になってござる。城域全体としては東西80m超×南北140m程度を擁した事だろう。■■■■■■■■■■■■■■■
神社の脇に数台は駐車可。ただ、辺りは畑や民家が並ぶのでやたらに踏み込まぬよう注意。対して神社境内は森に囲まれ
良い風情を醸し出している。1972年(昭和47年)9月6日、甘楽町指定史跡になっており申す。■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

土塁・郭群等
城域内は町指定史跡




安中城・磯部城  岩櫃城・中山城