加賀前田家の分家陣屋■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
織田信長の忠臣として功を挙げ、豊臣秀吉の親友として加賀百万石の礎を築いた男・前田又左衛門利家。彼が病没した時、
天下の形勢は徳川家康へと流れる事になり、前田家を継いだ左近衛権中将利長(利家嫡男)は生き残りの為に実母・芳春院
(まつ、利家正室)と異母弟・利孝(利家5男)を家康の本拠である江戸へと差し出し、服従の証とした。これが元となり前田家は
関ヶ原後も旧領を安堵された。その利孝は長じて大坂の陣における戦功を挙げ、徳川将軍家の覚え目出度く晴れて1万石の
封を得、1616年(元和2年)12月26日に独立大名となったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
斯くして領地とされたのが上野国甘楽郡(現在の群馬県富岡市周辺)であり、この時に七日市藩が立藩され政庁となったのが
ここ、七日市陣屋でござる。以後、七日市前田家は大和守利孝から12代を数えて廃藩置県まで転封される事なくこの陣屋で
藩政を執り行っていく。歴代藩主は2代・右近大夫利意(としもと)―3代・右近大夫利広(としひろ)―4代・右京利慶(としよし)
5代・利英(としふさ)―6代・大和守利理(としただ)―7代・大和守利尚(としひさ)―8代・右近将監利見(としあきら)―9代・
大和守利以(としもち)―10代・大和守利和(としよし)―11代・丹後守利豁(としあきら)―12代・利昭(としあき)だが、最後の
藩主である利昭は明治新政府が版籍奉還をして後、1869年(明治2年)8月2日に就任しているので、正確には“藩主”ではなく
“知藩事”として七日市藩を継承した事になる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
七日市藩は本家である加賀前田家との親交が厚く、江戸時代を通じて資金援助や藩政後見など様々な支援を受けていた。
その一方、加賀前田家が参勤交代で江戸と加賀を往復する際、七日市を定宿として逗留する事も慣習になっていたそうだ。
斯くして、小藩ながら日本最大の外様大名の縁者として上州に根付いた七日市前田家でござるが、藩の財政状況は決して
良いものとは言えず、様々な苦労が。特に11代・利豁の御世である1841年(天保12年)1月8日、七日市の町は「燈籠火事」と
呼ばれる大火に襲われ陣屋も焼失してしまう。同年、七日市藩は大坂城警護を幕府から命じられた為に再建は遅れ、1843年
(天保14年)になってようやく陣屋建物の再建が成った。これが現在まで残る御殿建築(写真)だ。なお、利豁は陣屋再建より
前に人材育成を目的として1842年(天保13年)藩校・成器館を創設してござる(後に利昭が成器館を文武学校と改称)。■■
廃藩置県によって陣屋は不要のものになり、敷地は大半が転用され申した。現在、跡地は群馬県立富岡高等学校の敷地と
なっているが、その一角に僅かながら陣屋の遺構が残され、写真の御殿や黒門(かつての陣屋中門か)が現存する。近代に
なって整備されたものであるが、御殿の前にある庭の池には鯉が泳ぎ、ささやかながら藩主の生活を想像させてくれるのが
良い。また、御殿山と呼ばれる櫓台や部分的とは言え陣屋外周の土塁もあり、往時の威容を垣間見る事ができよう。この他
富岡市内に南門と裏門が、下仁田町に大手門が移築現存すると云う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
兎に角、現存する陣屋御殿建築は貴重であり、世界遺産となった富岡製糸場に負けず劣らず必見の城郭遺構でござろう。
学校敷地内ではあるが、開門時間中なら見学は自由に行える。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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