見えにくいが実は崖端城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国時代から(一時中断期あり)明治維新まで続いた安中の城郭。最終的な(江戸期の)縄張は現在の安中市図書館や
安中市立安中小学校を中心とし、安中3丁目の町域全体が城地だったと推定される。一帯は東西に長く延びた台地で、
北に九十九川・南に碓氷川がそれぞれ西から東へ流れ、両川に挟まれた中心部が削り残された河岸段丘となっている。
その断崖は比高20mもあり、天然の城壁を成す。当然、川は濠として機能しており、急流の正面に屹立する崖を登るのは
難しく、南北から渡河して攻城する途は閉ざされる事となろう。自然に侵攻路は東西両面のみに限られ、城砦を築くのに
適した地形であった様子が推測でき申す。この台地の中心部(図書館周辺)に本丸、その南側には二ノ丸を置き、さらに
全体を外郭が取り巻く縄張(輪郭式を半分に切った感じ)で曲輪間は空堀で分断した上、東西の出入口の外側は自然の
地形で下り傾斜となる状態を利用し防備を固めていたと考えられている。また、城の東門を出た一帯には天台宗東光院
浄土真宗東臨山西廣寺・浄土宗無邊山大泉寺、逆の西側には真言宗久光山妙光院・日蓮宗法昌山蓮久寺・時宗碓氷山
長徳寺・天台宗常香山安楽寺・浄土真宗一心山清照寺といった寺社群が集中配置されており、恐らくは出城として活用
する事を意識していたように思われる。江戸時代の安中城は実質的に陣屋程度の構えしか設けられなかったと言われて
いるので、これらの寺社町が実戦時には最前線の防衛線として効果を発揮したであろう事は想像に難くない。また、この
寺社群を抜けて城の主郭部へと至る道筋はあちらこちらで鉤曲りの屈曲を見せており(これらは現在も残存)、いわゆる
“昔ながらの城下町”に見られる仕掛けを備えていた状況が手に取るように分かる。近代の都市化により、土塁や堀と
いった「明確な遺構」はほとんどが滅失してしまっているが、城の立地そのものを把握し、屈曲路などの「隠れた遺構」を
見て回るのが安中城の楽しみ方ではなかろうか。なお、ごくごく断片的ではあるが土塁の残されている部分がある上に、
城内要所毎に簡単なものながら立て札が建てられ、安中市が旧城の名残りを多少なりとも明示しようとしている雰囲気
だけは感じられ申す。写真の石碑は安中小学校の正門脇に建立されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■
安中氏による築城、井伊氏による再興■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の起源は1559年(永禄2年)、それまでは野尻と呼ばれていた当地を治めていた窪庭図書を安中越前守忠政が討ち
倒し築城した事に始まると言う。忠政は上野国の強豪・長野氏に従属し、安中〜碓氷峠周辺を固めた。これは西上野へ
侵略しようとした甲斐(山梨県)の武田信玄に備えるもので、天険の要害である松井田城(安中市内、旧松井田町)の
強化も同時期に行い、後年、忠政は最前線の松井田城へと移り安中城は嫡子の忠成に任せている。一方、戦に長けた
信玄は西上野を徐々に侵食し、1561年(永禄4年)安中・松井田両城を分断する位置に八幡平陣城(安中市内)を築いて
安中父子の連携を妨げる。いよいよ信玄の攻略に歯止めが利かなくなった1564年(永禄7年)武田軍は総攻撃を行い、
松井田城は陥落し忠政は自害して果てた。対して安中城は開城を余儀なくされ、忠成は降伏してござる。斯くして安中
左近大夫忠成は景繁と改名、以後は武田家臣団に編入され申した。しかし信玄没後の1575年(天正3年)5月、有名な
長篠合戦にて景繁は討死、安中の士卒も悉く戦死した為、もはや安中領の統治はおぼつかなくなり、安中家の家督は
七郎三郎久繁が継いだものの、城が維持できず事実上の廃城となっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸時代に入ると安中周辺は彦根藩(滋賀県彦根市)17万石・井伊家の分封地に。井伊家は徳川四天王に数えられた
井伊修理大夫直政から隆盛する将軍家譜代の名門でござる。その直政は1602年(慶長7年)2月1日に死没。長男の兵部
少輔直継が後継となるも、彼は病弱で実質的に異母弟の掃部頭直孝(直政2男)が政務・軍事を取り仕切った。この為、
大坂冬の陣の後に徳川家康の裁定で直孝が正式に彦根藩を継ぐ事とする一方で、分知の安中3万石を独立させ、その
主として直継を立てたのである。この時、直継は直勝と名を改め、安中城の再興に着手している。斯くして安中城が復活
する訳だが、石高3万石の安中藩庁としては城を大規模なものとする必要がなく、陣屋作り程度の規模でしかなかった。
(詳細は冒頭の通り)以後、この城を拠点とした安中藩は幕末まで代を重ねる。■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸時代の歴代城主■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
直勝が隠居した後は長男・兵部少輔直好(なおよし)が継いだものの、その直好が1645年(正保2年)6月に三河国西尾
(愛知県西尾市)に移されると、代わって安中城主には水野備後守元綱(もとつな)が三河国新城(愛知県新城市)から
2万石で任じられた。ところが、元綱の跡を継いだ2男の信濃守元知(もととも)は1667年(寛文7年)5月23日に発狂して
妻に斬りつけるという事件を起こし同月28日、改易処分となって信濃国松本(長野県松本市)藩にお預けとなり申した。
よって同年6月8日、1万3000石を取っていた下総国守谷(もりや)城(茨城県守谷市)主の堀田備中守正俊(まさとし)が
2万石で安中城主に封じられる。1679年(延宝7年)7月には老中に就任した事で2万石の加増を受けて、石高は合計
4万石になった。この正俊、徳川4代将軍・家綱の逝去にあたりその弟・綱吉を5代将軍に推挙した人物である。斯くして
新将軍の参謀役として勇躍する事になり大老格へと昇進、1681年(天和元年)2月には下総国古河(茨城県古河市)で
13万石を有する大幅な加増転封を受けた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
正俊に代わって同年5月21日、1万5000石で安中に入ったのは板倉伊予守重形(しげかた)。その没後は養子である
伊予守重同(しげあつ)が継ぐものの、1702年(元禄15年)7月4日に陸奥国泉(福島県いわき市泉)へ移封され申した。
入れ替わりで泉2万石から内藤丹波守政森(まさもり)が同じく2万石で入封。政森は城主格大名となっていたために、
安中城は正規城郭としての格を復権する事になった(しかし、特に城の拡張などは行われていない)。■■■■■■■
内藤家は山城守政里(まささと)―丹波守政苗(まさみつ)と代を継いだのだが、1749年(寛延2年)2月6日三河国挙母
(ころも、現在の愛知県豊田市)へ転封される。斯くして2万石で安中城主となったのが板倉佐渡守勝清(かつきよ)。
前任地は遠江国相良(現在の静岡県牧之原市相良)、彼は内藤家以前の城主・重同の長男だ。その勝清は幕閣として
活躍、1767年(明和4年)に西ノ丸老中格となった事で1万石が加増され、板倉家の所領は都合3万石になる。これ以後
幕末までこの石高を維持、安中城主の座を継承していき、勝清の後は肥前守勝暁(かつとし)―伊予守勝意(かつおき)
伊予守勝尚(かつなお)―伊予守勝明(かつあきら)―主計頭勝殷(かつまさ)と相続。板倉家は代々学識に秀でた者が
多く、勝尚は1808年(文化5年)3月に藩校の造士館を創設し藩士子弟の教育に力を注ぎ、勝明は1855年(安政2年)に
藩士の心身鍛錬を目的として安政遠足(とおあし)を開催。この遠足は安中城から碓氷峠にある熊野権現神社までの
およそ30kmを、藩士数名を一組とし組内毎の順位を競わせて走る競技。云わば“日本初のマラソン”でござれば、安中
城址には「日本マラソン発祥の地」の石碑が残っており申す。さりとて、安中城が時代に名を残すのはここまでで、明治
維新後、板倉勝殷は1869年(明治2年)6月20日付で安中知藩事に任じられるも、直後の1871年(明治4年)7月14日に
廃藩置県で免官。この為、安中城は用済みとなって廃城となった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城内諸建築は破却され(門3棟が市内各所に移築され現存と伝わるが、検証されていない)、城地は急激な宅地化で
滅失され申した。斯くして上記の通り、現状では市内の所々にその名残を見るのみとなっている。ただし、安中藩士の
武家屋敷や郡奉行の役宅が保存されており、城よりもその方が藩政時代の確かな遺構として観光名所となっている。
また、明治期の旧碓氷郡役所などの古建築も付近にあるので、こうした史跡めぐりをしつつ市内主要部に広がる城の
構えをぐるりと見て歩くのが良うござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
|