上野国 名胡桃城

名胡桃城跡 本丸空堀

 所在地:群馬県利根郡みなかみ町下津
 (旧 群馬県利根郡月夜野町下津)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★★■■



上州の“台風の目”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なぐるみじょう、と読む。戦国史上に名を残す「名胡桃事件」の舞台。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
利根川を望む段丘上にある崖端(がけはた)城であり、その縄張は舌状に突き出した台地の先端を連郭式に区切ったもの。
崖下との比高は30m以上で背後からの侵入は不可能である一方、戦闘正面にあたる台地との接合部に対しては多重防御を
構える堅城の体を為す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ここに城が築かれたのは1492年(明応元年)、小沢城(群馬県沼田市)主である沼田景久の3男・三郎景冬の手によると言う。
沼田氏は荘田城(沼田市内)が発祥、室町期に小沢城へ移り、更に沼田城(同じく沼田市内)へ本拠を移していくが、そこから
分家した景冬は名胡桃氏を名乗るようになり、この城は沼田城の支城として用いられた。そもそも沼田氏は平氏の後裔とも、
大友氏(豊後国(大分県)の大名)の縁者とも、相模国(神奈川県南西部)の三浦氏から流れを継ぐとも伝わり、正確な出自は
分からぬ一族だが源平合戦の頃から上野国利根郡沼田(群馬県沼田市)に勢力を築いていた。室町時代になると関東管領
(室町体制における実質的な東国支配権者)の上杉氏に従い有力被官に成長するのだが、関東の戦国化に伴い南関東から
後北条氏(本拠は神奈川県小田原市)が伸張するや、沼田氏の去就も激震に晒された。権勢を衰退させつつあった上杉氏に
従い続けるか、後北条氏に鞍替えするかで家中は二分され、上杉派であった当主・沼田勘解由左衛門尉顕泰(あきやす)が
城を追われ、代わって後北条家から入嗣した孫二郎康元(やすもと)が家督を継いでいる。沼田家の騒動に伴い名胡桃城の
支配権も同様の動きを辿ったと思われている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかしこの後、上州を巡る争奪戦は益々激しいものとなった。上杉家は越後の長尾家が後援して復活、最終的に長尾氏が
その家督を譲られ、かの上杉謙信が軍神となって関東へ来襲するようになる。一方で後北条氏も更に勢力を増して北上し、
更には西から甲斐(山梨県)の武田氏までが上野国へ兵を進め、沼田周辺は三つ巴の戦いが繰り広げられたのでござる。
1560年(永禄3年)沼田領は上杉氏が奪還。沼田康元は江戸城(東京都千代田区)へと引く事になり、顕泰が復権。謙信は
名胡桃城に対して防備の強化を命じており、従前は中世の武家居館程度であった城がこの過程で戦国城郭としての形態に
整えられたと見られている。ところが上杉謙信は1578年(天正6年)に没し、以後上杉氏は関東への遠征を行わなくなった。
これにより上州は在地豪族に対する後北条氏と武田氏の草刈場となり、沼田周辺へは後北条氏が進出するも、結果として
武田勝頼の意を受けた真田安房守昌幸(上田城(長野県上田市)主)が1579年(天正7年)名胡桃城を攻略する事に成功、
翌1580年(天正8年)には沼田城も真田氏の統治下に置かれ申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

真田昌幸の独立、そして名胡桃事件■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後、沼田・名胡桃の両城は武田領最東端の備えとして戦略上の重要拠点となったが、一方肝心の武田勝頼は南西側から
織田信長・徳川家康の猛攻を受けて領土を減衰させていき、遂に1582年(天正10年)2月、本拠地の甲斐国を失う。これにて
名門・甲斐源氏武田氏は滅亡した。織田勢の侵略から離れた地にあった真田昌幸は主家の滅亡に巻き込まれる事無く生き
延びた為、その後は信州から上州にかけての自領を守る独立勢力として新たな一歩を踏み出す事になったのだが、本拠地
上田には北の上杉弾正少弼景勝・南の徳川右近衛権少将家康が睨みを利かせ、沼田・名胡桃には後北条氏が虎視眈々と
侵食の機を窺っていたのである。上杉・徳川・後北条という巨大勢力に挟まれた真田氏は、自立したとは言え風前の灯火と
いう状況にあり、その立ち回りには難しい舵取りが要求されていた。この時、昌幸はいったん家康と誼を通じて領土の保全を
図るが、その家康は後北条氏と関東の領土配分を独断で決定、昌幸に対して沼田領の割譲を命じたのだ。沼田は家康から
与えられた土地ではなく、先年に自力で勝ち取った領土であるとして昌幸はこの申し出を拒否。為に上田城は徳川軍の制裁
攻撃を受ける事になってしまったが、何と真田軍は徳川の大軍をものともせずに撃退、さらに上杉方へと鞍替えして所領の
安泰を成し遂げたのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その上杉氏は既に天下の主・豊臣秀吉と通じていた事から、真田家もまた秀吉の庇護を受ける事が可能となった。斯くして
家康はそれ以上の追及ができなくなり、真田領土は安堵される方向に落ち着いたが、しかし問題はそれで終わらなかった。
もう一人の当事者、後北条氏は豊臣家への臣従を良しとせず、対立の根は深く残されていたのだった。1589年(天正17年)
関白の立場で秀吉は沼田領の裁定を行い、後北条氏への配慮として昌幸にやはり領土の放棄を命じたのである。これに
対して昌幸は、沼田城の譲渡は認めるものの名胡桃については「父祖墳墓の地」として保有継続を願い出た。10年前に奪取
した名胡桃に真田家祖先の墓地がある筈もないのだが(異説として昌幸の曽祖父?海野棟綱の埋葬説あり)昌幸は秀吉に
これを認めさせ、沼田城は後北条方、名胡桃城は真田方という境界線が確定する。両城は利根川を挟んで僅かに5kmしか
離れておらず、名胡桃城は後北条氏への備えとして益々重要な戦略拠点となったのである。対する後北条方は沼田周辺の
完全掌握を狙っていたが、名胡桃城が“喉元に突きつけられた刃”として残された事に大きな不満を感じていた。■■■■■
何としても名胡桃城を排除したい後北条氏は、天下の権力者である関白の命令を無視する形で沼田城代・猪俣能登守邦憲
(いのまたくにのり)が名胡桃城奪取を画策する。昌幸は腹心の武将・鈴木主水正重則を名胡桃城代に任じて守りを固めて
いたが、邦憲は重則の配下・中山九郎兵衛を買収。同年11月、偽の手紙で重則を城外へと誘き出し、その間に九郎兵衛が
城を乗っ取り猪俣へ引き渡してしまうのである。時既に遅し、謀られたと気付いた重則は名胡桃城へ戻れず、昌幸に顔向け
できぬと恥じ入り割腹して果てたのでござる。これが冒頭に記した名胡桃事件だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
謀略で城を奪った後北条方に対し秀吉は激怒、遂に天下統一の最終戦として小田原征伐を決定。1590年(天正18年)春から
夏にかけて、後北条氏を屈服させる壮大な戦役が繰り広げられたのは周知の如くである。名胡桃城は日本史に大きな一石を
投じる城となった訳だが、この小田原平定後に沼田一帯は真田家へ戻され、安寧成った事で名胡桃城は廃城となった。■■

名胡桃城の遺構■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後、名胡桃城跡の敷地は完全な耕作地へと変貌していき申した。このため、土塁の殆んど全てが崩され、曲輪内を均して
(恐らくそれまでは起伏や高低差、障害物や水路などがあったと思われるが)畑作が行われるようになってしまった。また、
二ノ郭から本郭へ至る路として土橋が架けられ、旧来の遺構が改変されたようである(写真位置)。しかし一方で、城跡保全を
図る動きが大正時代頃から活発化し、大正13年(1924年)には地元有志により名胡桃城址保存会が発足。思想家・徳富蘇峰
揮毫の城址碑が本丸跡に建立されている。また1949年(昭和24年)12月20日には群馬県指定史跡となった。1980年代になると
国道17号線月夜野バイパスが旧三ノ丸敷地を掠めるように敷設され、馬出をはじめとする外縁部分が損なわれてしまったが
保存会による城址の保護活動は着実に進められ、大変見学し易い城となっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■
名胡桃城は本格的な戦国城郭化されて以後、主に武田氏時代・真田氏時代・後北条氏時代の3期を経過しているが、其々の
時代において適宜改修が行われてきた。武田氏時代は敷地末端部から順に物見郭・笹郭・本郭・二ノ郭が連郭式に繋がり、
二ノ郭の前衛に丸馬出、さらに二ノ郭の北側に般若郭が並ぶ構造だったようだが、真田氏時代になると二ノ郭前の丸馬出は
廃され、三ノ郭を増備しその前に丸馬出を置くようになる。これを名胡桃事件で後北条氏が奪った後、豊臣軍が来攻する直前
までに急改造を施したのが最終形態で、丸馬出を削って角馬出に改変、各曲輪外縁部の土塁を延長し全周への備えを考慮
している。昨今の城郭研究論においては“武田流築城術”“後北条流築城術”といった概念が否定され軍学論的考察を排する
傾向にあるが、しかし名胡桃城においては武田流の特徴である丸馬出、後北条流に欠かせぬ角馬出といった形態が確かに
用いられており、こうした軍学論が必ずしも「机上の空論」ではない事を実証していよう。特に後北条氏は、短期間にわざわざ
馬出の改変を行っており、自軍の運用に適した城郭構造が必須であった事を物語っている。■■■■■■■■■■■■■
この他、バイパス建設に前後して行われた発掘調査にて、城内に掘立柱建築が建てられていた事(逆に礎石建築は無い)、
部分により腰巻石垣が用いられていた事、二ノ郭内には長さ40m×幅3mの長大な中央通路が敷設されていた事などが確認
された。また、現在は農業改変によって三ノ郭〜二ノ郭〜本郭の曲輪間を土橋で連結しているが、当時はそうではなく木橋を
架けて通行していた事も判明している。現状の名胡桃城はこのような農業改変の結果により土塁のない平坦な曲輪敷地が
広がった状態にあるのは残念である。しかし堀跡は綺麗に残され(勿論、往時はもっと深く掘り込まれていた)本郭や笹郭、
物見郭などは比較的良好な残存状況を誇っている。何より、バイパスが通じた事により城跡までの経路が非常に良い。関越
自動車道の月夜野ICを出たらそのまま北上、月夜野大橋を渡ってすぐの位置が名胡桃城址。無論、駐車場もきちんと用意
されている(般若郭を潰している訳だがw)。初心者にも分かりやすく、かつ危険もなく安心して見学できる城跡なのだ。況や
上級者も納得の遺構である。2017年(平成29年)4月6日には財団法人日本城郭協会から続日本百名城に選出されている。
眼下に広がる利根川河畔は壮大な景色であり、そこを通り抜けるJR上越線には観光列車としてSLが運行し、運が良ければ
その汽笛を城跡から聞く事もできる(体験談)。この城の仮想敵である沼田城は地形の制約により直接見る事はできないが、
距離感は感じる事ができるので、戦国の実戦城郭がどのような緊張感にあったのかを容易に想像できる名城と言えよう。■■



現存する遺構

堀・郭群等
城域内は県指定史跡








上野国 小川城

小川城址

 所在地:群馬県利根郡みなかみ町月夜野
 (旧 群馬県利根郡月夜野町月夜野)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
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現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は町指定史跡




上野国 真田伊賀守陣屋

真田伊賀守陣屋跡

 所在地:群馬県利根郡みなかみ町月夜野
 (旧 群馬県利根郡月夜野町月夜野)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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沼田氏分流・小川氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小川城も沼田景久の子が築いた城郭。1492年に景久の2男・次郎景秋がこの地に700貫匁(約3500石)を分知され築城した。
沼田氏の領土における西の備えとされて、景秋の系譜は小川氏を名乗るようになる。ところが景秋の跡を継いだ小川氏2代
三郎景祐は素行悪く、数々の乱行狼藉を働いた為1502年(文亀2年)1月26日に城を追放されたと言う。それでも彼の行いは
改まらず、遂に本家である沼田家に対して兵を起こした事で討ち滅ぼされたそうだ。小川氏の3代目を継いだのは景祐の弟・
秀泰(岡林斉と称す)で、こちらは勇将にして家中の信望を集め、“沼田七騎”と呼ばれる沼田家臣団の名将に数えられた。
その秀泰は1522年(大永2年)に没す。小川家4代目を継いだのは彦四郎景奥だが、この頃から沼田には後北条氏の侵攻が
始まっており、1524年(大永4年)戦の最中に彼は煮えたぎった甕の中に落ちて落命したそうである。小川城も焼亡している。
それに先立つ1520年(永正17年)9月5日の夜に景奥の長子・景季も戦死している。話によれば、景季は戦の中で焼死したと
いうのだから、この時も城に火をかけられたのか。景季・景奥が相次いで亡くなったため小川家は一時断絶し、城は一門の
北能登守や南将監らが修復をし、守るようになる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところでこの頃、小川家の客分武将として赤松捨五郎祐正なる人物が居た。上方より来たれり、室町幕府の重鎮・赤松則村
(のりむら、法号の円心が有名)の後裔で、元は北面の武士(宮中警固の侍)だったものを浪人して東国へ流れてきたという。
祐正は頭角を現し、次第に小川家の軍議に加えられるようになり、遂に小川軍の軍師のような役割を果たし家中の信頼を
得た。そして小川家が断絶するに至り、亡き景季の未亡人と縁組する事となったのである。後北条家に抗していた小川家は
必然的に上杉謙信を頼る事になり、謙信は祐正に小川家の相続を許した。こうして小川家5代目となったのが赤松祐正改め
小川可遊斎である。可遊斎は謙信存命中上杉家から軍事支援を受け、後北条家に対する最前線を守る役目を果たしていた
ようだが、謙信が没して上杉家が「御館の乱(おたてのらん)」と呼ばれる家督相続に揺れると、支援が当てにならなくなって
しまう。このため1579年頃から甲斐武田家へ接近、武田家の上野方面先鋒となっていた真田昌幸に従うようになった。但し
後北条家とも誼を通じ、何とか自領を守るべく腐心していたらしい。地方豪族の悲哀と言った処であろう。さりとて1579年10月
21日に後北条軍は小川城を攻撃。この時は城を守り切ったが、関東制覇を志す後北条家が上杉や武田に媚びる一国人を
許しておかない姿勢を鮮明にしていくのである。一方、真田昌幸と連携した小川可遊斎は1580年1月に後北条方の明徳寺城
(みなかみ町内)を攻め落としている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
斯くて後北条家は上州攻略に固執、いよいよ1580年3月に後北条軍は菩提木(現在のみなかみ町上津付近)へ攻め寄せて
来る。実は菩提木での合戦は2度目、1度目は1547年(天文16年)3月15日の事で、その時は沼田勢の敗北で終わっている。
然るに今次の戦いでは小川可遊斎率いる軍勢が後北条軍を打ち負かした。可遊斎は見事、関東の太守である後北条勢に
泥を付けたのだ。これにて可遊斎の声望は一気に高まった。だが、苦杯を嘗めさせられた後北条勢は復讐に燃える事となり
同年10月、再度の侵攻を行う。北関東攻略を担当の北条安房守氏邦(うじくに)率いる大軍が可遊斎を攻め立て、小川軍は
地の利を生かして大岩や大木を落とす防戦を行うが、遂に敗北。標高700mを超す高地ゆえ、水や兵糧の調達がままならず
小川軍の継戦が不可能となったためであった。可遊斎は降伏を願い出たとも言うがそれは許されず、往く当てが無くなって
旧主・上杉家を頼り越後へと落ち延びて行ったそうだ。小川家の末裔は上杉家臣になったとも考えられているが、可遊斎の
以後の動向は不明である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

真田家による領有■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この戦いの後、真田昌幸が小川城奪還の兵を出して後北条家による小川城占領は阻止された。昌幸は小川家の遺臣・北
能登守(恐らく、先に名の出た能登守の子孫であろう)を城代に任ずる。小川城は真田家の城となったのである。能登守は
真田家の治める沼田衆の中で重鎮となっていき、後に吾妻の奉行として辣腕を振るう事になった。能登守の事はさて置き、
これ以後、沼田〜名胡桃〜小川の周辺は真田家と後北条家が境界を接する緊張状態の渦中に陥っていき、1589年に関白
豊臣秀吉が領土裁定を行ったのは名胡桃城の項で記した通りである。この裁定で小川城は後北条家のものとされており、
城代として富永又七郎が入っている。されど、それも長く続かずに名胡桃事件が発生、後北条家は討伐されてしまい、結局
小川城は真田家の下に返還された。再び北能登守が城代となり1592年(天正20年)頃まで在城していたと言うが、その後の
経歴は不詳だ。恐らく、上州での戦国争乱が落ち着いた事で不要となったのでござろう。■■■■■■■■■■■■■■
時は移って江戸時代。独立大名となった真田家は、徳川家康の娘婿である伊豆守信之(昌幸嫡男)が上田から沼田までの
横に長い所領を治めるようになっていた。ところが1622年(元和8年)10月、上田を召し上げられる代わりとして信濃国松代
(長野県長野市)を与えられた。この時、沼田領はそのまま真田家のものとして残された為、所領は分断される形になった。
信之は松代を本拠とし沼田3万国は分封という扱いになる。これにより沼田領を治める沼田城主として信之の長男・河内守
信吉(のぶよし)が入る事になった。その信吉は父に先立ち1634年(寛永11年)11月28日に病没する。沼田の地は彼の長男
熊之助が継ぐ事になるも、この時まだ熊之助は僅か4歳。当然、政務など執れる筈がなく、沼田の統治は信之2男の大内記
信政(のぶまさ)が後見人として行った。だが、熊之助は1638年(寛永15年)11月6日に夭折してしまい、結局信政が正式に
沼田城主となって引き続き治世を施している。これに伴って、1639年(寛永16年)6月20日3万石のうち5000石を熊之助の弟
(信吉の2男)兵吉に分与している。兵吉の所領となったのが小川村で、旧小川城三ノ丸の地に陣屋を築いた。この時、兵吉
3歳。後に伊賀守信利(のぶとし、信直とも)を名乗る事になるため、この陣屋を真田伊賀守陣屋と呼んでいる。■■■■■
1656年(明暦2年)真田信之が隠居、これにより松代藩を信政が相続する事になった。そのため、兵吉長じて信利は晴れて
沼田3万石全域を治める事になった。よって翌1657年(明暦3年)信利は沼田城に居を移し、陣屋は廃され申した。陣屋の
存続期間は18年の短命なものだったが、この間、信利とその生母・慶寿院はここで暮らしていた。なお、沼田藩主となった
後の信利は家を滅ぼす暗君となっていくのだが、その話は沼田城の頁を参照されたい。陣屋廃止後の城跡は、殆んどが
農地となっていき、現状では国道291号線の車道が二ノ丸を縦貫するように敷設されている。■■■■■■■■■■■■

見事な遺構が残る小川城跡、何もない伊賀守陣屋址■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城跡は上越新幹線上毛高原駅から東へ250mの地点。この駅は上越新幹線専用の駅で、他路線は乗り入れていないので
小川城の最寄駅へ至るには新幹線に乗るしかないという変わり種である。その分、駅からは徒歩圏内の“駅近物件”だ(笑)
他方、乗用車で行くには上記のように国道291号線が通っているので直行できる。定まった駐車場はないものの国道沿いに
駐車余地はあるので問題ないだろう。この道路から東側が城地として保存されている。利根川河畔に突き出した、断崖の
舌状台地先端を利用した立地で、台地の北側は古城沢・南側には八幡沢という小渓谷が削り込み天然の堀を成している。
利根川の河原は標高380m、城内は425mを越し、比高差40mを超える高さを稼いでいるために河原側(東側)からの侵入は
不可能だ。必然的に戦闘正面は西側からに限られる。故に、台地の突端が笹郭(物見)、その手前に主郭を置き、そこから
西側に堀を穿ち二ノ丸、更に三ノ丸(外郭)を構成していた。名胡桃城と同様の縄張であるが、名胡桃が細長い半島状の
地形であるのに対し、小川城は根元に広がりがある扇型の敷地といった差異がある。こうした広がりを持つ部分が二ノ丸や
三ノ丸であり、その内部はほぼ平坦な地形である為、大兵力の駐屯には向いていよう。その分、主郭は極限される敷地で
しかも外周を深い堀や高い土塁で囲んでいたので強固な守りを発揮したと見受けられる。主郭周りの遺構は現在も綺麗に
残存しており(写真)ひと目見て驚愕する事だろう。しかも主郭の中に入るには堀底に降り、また上がらねばならないので
実際の規模を体感できるのである。これだけ素晴らしい遺構が残されているので、小川城は1970年(昭和45年)4月1日に
月夜野町指定史跡(現在はみなかみ町が継承)となってござる。上州の隠れた名城としてオススメである。■■■■■■
一方で国道より西側は完全に耕作地となってしまって整地されている。故にこの部分には遺構が殆んど見受けられない。
真田陣屋はこの範囲にあるので、往時を推測するものは何も無い。ただ、地元の保存会の方々が精力的に活動しておられ
二ノ丸や陣屋跡地などに説明の案内板(写真)を設置して下さっている。これがあるお陰で、遺構は無くとも当時の規模は
推測できる。城好きには大変ありがたく、感謝の極みだ。保存会の方々、誠にかたじけのうござりまする m(_ _)m■■■■





前橋市内諸城郭  沼田城・幕岩城