上野国 蒼海城

蒼海城跡 上野国総社

 所在地:群馬県前橋市元総社町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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上州の名門・長尾氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
おうみじょう、と読む。室町時代、この地に封を得ていた総社(惣社)長尾氏の城。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、前橋市内の町域となっている元総社町であるが、1954年(昭和29年)4月1日の市町村合併までは群馬郡元総社村であった。
「元総社」の名の通り、この地は「元々、上野国の総社があった場所」であり、律令制時代から続く地方行政区分上の中心地、即ち
上野国府の所在地だった(総社とは、その行政国の中の神社を全て合祀した神社の事)。武家政権の世になり、国府の存在意義は
薄れたものの、上野国総社をはじめとする名残は現在まで引き継がれている。加えて、この場所は周辺に大小河川が流入しており
こうした地形を要害として利用すべく築かれたのが蒼海城なのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
長尾氏の系譜は複雑多岐に渡っており簡単に説明する事は難しいが、とりあえず城主の総社長尾氏について記しておく。長尾氏は
遡ると坂東八平氏の一つに数えられる名門、相模国鎌倉郡長尾郷(現在の神奈川県横浜市栄区長尾台町)を始祖の地としていたが
鎌倉時代に上杉氏に属して以来、その配下として派生した。上杉氏は鎌倉幕府が親王将軍を京から向かえた際に、その随臣として
下向した一門。つまり、公家から武士へと転身した異色にして高貴な家柄だったのである。室町時代になると、上杉氏の血脈は足利
将軍家から尊重され、東国を束ねる要職の関東管領に抜擢されている。上杉氏もまた数々の分家を立てたが、本家筋となったのが
上野国を領国とする山内(やまのうち)上杉氏であった。その山内上杉氏が上野国の実質的支配を託したのが長尾家の分流である
白井長尾氏と総社長尾氏だったのである。こうした歴史を経た1429年(永享元年)、総社長尾景行(かげゆき)が蒼海城を築城した
(築城年は不詳ともされる)。なお、異説では鎌倉時代に関東の有力武将たる千葉常胤(つねたね)が旧国府地を改修して蒼海城を
築き、それを室町期に長尾景行が修築したとある。いずれにせよ、この城が本格的に用いられるようになったのは景行の手に拠る
ものであろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現状、上野国府の跡は宮鍋神社となり、その南東300mの位置に上野国総社が鎮座。当時もほぼ同じ状況であったと推測される。
ただし、景行の築城により総社が遷宮したという説もある。総社のすぐ東側には牛池川なる小河川が流れているが、当時はもっと
川幅が広く、風呂沼と呼ばれる沼地を形成していた。旧国府地の西側にも首洗池と言う大きな池を成す川が流れて、この地は大小
河川が入り組む水郷地帯になっていたのだ。こうした地形を防御の要と為した上、多くの神社の加護を受けつつ、由緒ある国府の
跡地を城として活用し蒼海城は構築されたのである。その結果、縄張りはおよそ東西1km×南北1.2km程の広さとなり、敷地内部は
(河川による細分化もあり)いくつもの細かい曲輪に分割され申した。この構造は中世城郭においては破格の大きさであり、まるで
近世城郭の縄張りを見るようである。満々とした水の中に浮かぶ様子から、蒼海城の名が付けられたとも言う。■■■■■■■■
斯くして大規模城郭となった蒼海城は総社長尾氏歴代の城として維持された。中世城郭としては大き過ぎる、しかも曲輪が複雑に
細分化された城は、ともすれば使いづらい状況だったようで景行の次代・忠房の頃には(あるいはその次代という説もあり)石倉城
(後記)を築いてそちらに居を移したようだが、石倉城は利根川の洪水が直撃する被害を被るので結局また蒼海城へ本拠を戻した
事もあった。このようにして総社長尾氏は蒼海城で代を紡いでいったのだが、この間、戦国の騒乱は激化し蒼海城も何度か戦火を
被っている。代表的なものが長尾景春(かげはる)の乱であろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

長尾景春の乱とその後■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
権威ある関東管領たる山内上杉氏は、実質的な執務の多くを家宰(執事)に託していたが、この家宰職は白井長尾氏が代々引き
継いでいた。ところが1473年(文明5年)6月23日に白井長尾左衛門尉景信(かげのぶ)が没すると、当時の山内上杉氏当主である
顕定(あきさだ)は、総社長尾氏の尾張守忠景(ただかげ)を家宰職に任じたのである。景信の嫡子だった左衛門尉景春は、当然
自分が継ぐものと思っていた家宰職が総社長尾氏に移された事を不満として決起、主家である山内上杉氏や総社長尾氏に対し
攻撃を行った。顕定がなぜ家宰職を旧来の白井長尾氏から総社長尾氏へ移したのかは諸説考えられているが、最も有力なのは
このまま家宰職を白井長尾氏に与え続けるとあまりに力を持ちすぎて危険だと危惧した説と、景春の将器に疑念が持たれたとの
説である(実際、景春は短慮に走った訳だ)。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この騒乱は長きに及び、武略に長じた景春は散々に顕定や忠景を苦しめ、蒼海城にも攻撃が行われた。結局、乱を平定したのは
扇谷(おうぎがやつ)上杉氏(上杉家の分家)の家宰であった名将・太田道灌の差配に拠るものだった。その功績で道灌の声望は
非常に高まり、関東の諸将は道灌に一目置くようになる。しかし、これにより道灌は上杉家中から「出過ぎた杭」と見做されるように
なり、遂に1486年(文明18年)7月26日、道灌は主君である扇谷上杉修理大夫定正(さだまさ)によって謀殺されてしまうのだった。
その結果、道灌亡くして関東の平定は成らなくなり混乱の坩堝へ。山内上杉氏と扇谷上杉氏も相争うようになり、東国の戦国化は
一気に加速した。こうした状況下、山内上杉氏と総社長尾氏は上野国内の敵対勢力を鎮定する戦いに赴き、蒼海城は出撃拠点と
して重用された。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後も上杉氏や長尾氏は各地で戦闘を繰り返すが、この間に南関東から新興勢力として伸張したのが小田原の後北条氏である。
16世紀初頭〜中盤にかけて瞬く間に領土を拡大し、ために上杉氏は没落の一途を辿っていく。遂に領国を支えられなくなった山内
上杉憲政(のりまさ)は1552年(天文21年)上野を棄てて越後へ逃亡。憲政の救援を受けた越後国主・長尾景虎(後の上杉謙信)が
関東へ出兵するようになる訳だが、この頃の上野国は西から武田信玄の軍勢にも脅かされるようになっていた。無論、蒼海城も
後北条氏・武田氏・越後長尾氏など諸勢力からの脅威に晒されるように。斯くして1566年(永禄9年)、西上野の中心勢力であった
箕輪城(群馬県高崎市)の長野氏(詳細は箕輪城の頁を参照)が武田軍に滅ぼされると、そのまま蒼海城も武田方の城として占拠
されたのである。ここに、およそ1世紀半に渡った総社長尾氏の支配は終わり蒼海城は武田氏の城となった。とは言え、武田氏が
蒼海城を活用したかは定かでない。然る後、武田家も1582年(天正10年)3月に滅亡したため蒼海城は後北条氏の支配下に組み
込まれるも、これまた後北条氏がどの程度この城を使用したかは不明でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

近世の到来と共に廃絶■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
結局、1590年(天正18年)豊臣秀吉の天下統一で関東地方の大半は徳川家康の領地となり、1592年(文禄元年)家康配下の将で
あった諏訪安芸守頼忠(すわよりただ)・因幡守頼水(よりみず)父子が2万7000石で蒼海城の主とされた。頼忠は信州諏訪氏の
出自であり、武田信玄が諏訪郡へ進出して平定した後、諏訪本家に代わり諏訪の総領を認められた者。武田氏滅亡後は家康の
庇護下に置かれ、家康の関東移封に伴って国替えとなったのでござる。以後、頼水が実質的統治者として蒼海城下を治めたが、
城は荒廃に任せるまま特に改修はされなかったようだ。総社長尾氏同様、細分化された城郭は不便である上に地形上の制約が
厳しく、大名の居所としては適切でないと判断され諏訪氏は城に入らなかったとの事。■■■■■■■■■■■■■■■■■
関ヶ原合戦後の1601年(慶長6年)10月、頼水は父祖伝来の地である諏訪へと封じられ念願の諏訪領主復帰を果たした。一方、
蒼海城には同じく家康家臣である秋元越中守長朝(あきもとながとも)が1万石を領して入封するものの、やはり城の不便さや荒廃
具合に難を感じ、蒼海城の北2.5kmほどの場所に新城を構築した。これが総社城(前橋市内)である。総社城の築城工事期間も
長朝は近隣の八日市場城(元総社町域内、牛池川の対岸)に居を構え、蒼海城には入らなかった。■■■■■■■■■■■■
秋元氏の総社城移転により蒼海城は廃城とされ、以後その跡地は耕作地化・市街地化された。ちなみに、総社城下町が新たな
「総社町」となったため、旧来の蒼海城下が「元総社町」と呼ばれるようになる。現在ではすっかり都市化の波に飲まれた蒼海城
跡地は見るべき痕跡も無く、御霊神社付近に土塁の名残とされる遺構が残る程度。宮鍋神社付近が往時の本丸とされるのだが
ここも特に残存遺構は無い。若干の起伏が曲輪の雰囲気を見せるくらいか。上野国総社に蒼海城の縄張を解説する掲示板が
建てられているのみ。この縄張図を見る限り、かなりの規模の城郭であった事は推測できるのだが…。いかんせん巨大過ぎる
中世平城は往々にして都市化で壊滅するというのが典型的な話であり、蒼海城もそうした事例に該当するのでござろう。■■■
ちなみに総社神社拝殿は戦国期から残された古建築で1993年(平成5年)4月16日、前橋市指定重要文化財になっている。■■■



現存する遺構

土塁








上野国 石倉城

石倉城址石碑

 所在地:群馬県前橋市石倉町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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利根川を利用し、利根川と戦った城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
前橋市石倉町4丁目〜5丁目あたりを城域とした中世城郭。即ち、利根川を挟んで群馬県庁(前橋城跡地)の対岸に位置した城で
ある。と言っても、かつては厩橋(まやはし、うまやばしとも)城(前橋城の旧名)そのものが石倉城とされた時代があった。これは
利根川の流路改変が大きく影響している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
最初の石倉城が築かれたのは上記・蒼海城の項で説明した通り総社長尾忠房またはその嫡子・憲景の手によるもので、1485年
(文明17年)とされる。この当時の利根川は現在よりもかなり東を流れており、広瀬川(上毛電鉄中央前橋駅前を流れる川)より
更に東を流路としていた。この為、創建当初の石倉城は今現在の利根川にかかるような位置にあり、石倉城三ノ丸部分が近世
前橋城の主郭部分であったと推定されている。橘山(たちばなやま、前橋市と渋川市の境にある山)の麓において、利根川から
分流した久留馬川という支流(運河)へ水を引き込み、その水利で石倉城は濠を形成していたのでござる。■■■■■■■■■
さて、石倉城が築かれた時代は関東騒乱が激化する頃で、総社長尾氏や山内・扇谷両上杉氏は各所で戦いを行っていた。その
間隙を衝き伊豆から伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)が関東へ北進してくるのである。小田原城(神奈川県小田原市)を奪取し、
相模全土を制覇せんとする盛時は三浦半島に籠もる古豪・三浦氏の打破を目論み攻撃開始。三浦氏は扇谷上杉氏の勢力下に
あったため、上杉軍は三浦軍救援の出兵を行っている。1512年(永正9年)この救援軍に加わって新井城(神奈川県三浦市)へ
出陣した石倉城主・総社長尾憲景は戦死。新たな石倉城主として急遽3男の長景が後継者となった、と現地案内板にある。■■
長景の代、城は享禄・天文・弘治年間(全て合わせて1528年〜1558年)に度重なる洪水被害を受けた。特に1534年(天文3年)の
洪水が酷かったようで、久留馬川が利根川の本流となり石倉城の敷地は川で東西に分断される事態に及んだ。結局、石倉城は
放棄されて総社長尾氏の本拠は蒼海城に戻るのだである。斯くして石倉城は主要部が利根川の底に沈み、残存した三ノ丸部分
(旧石倉城の東端部)が上記の通り厩橋(前橋)城として活用されるようになった。このような利根川流路の変更に伴って、改めて
厩橋城の対岸(新たな利根川の西岸)に新しい石倉城が建て直される。これが現在に伝わる石倉城でござる。■■■■■■■

武田・上杉・後北条の睨み合い■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国後期になると総社長尾氏をめぐる戦いはますます激化し、上州は北の上杉謙信・西の武田信玄・南の北条左京大夫氏康が
三つ巴で争う地となる。旧石倉城地を利用して築かれた厩橋城は上杉謙信の関東出兵における前哨基地として重きを為したが、
1563年(永禄6年)上野に出兵した武田信玄は利根川を挟んだ厩橋城の対岸まで進出。西上野の要である箕輪城と謙信の拠点
城郭・厩橋城の分断を図った。石倉城主たる長尾長景は厩橋城の防衛に就いていたために留守となった城を武田軍が占拠し、
城代として曽根七郎兵衛・與左衛門兄弟を置いて改修した。(これを以って新たな石倉城の築城と考える説もある)■■■■■■
上杉勢力は1565年(永禄8年)に兵を出して石倉城を奪還し、荒井甚六郎を城代として守らせる。これに対して信玄は翌1566年、
上州へ再出兵して7月に石倉城を落としている。この戦いでは箕輪城など西上野地域が軒並み武田方の支配地域として確定し、
利根川を挟んで武田・上杉の勢力範囲が対峙するようになった。つまり、上杉方の厩橋城と武田方の石倉城は互いを監視し合う
最前線(しかも距離は僅か400m程しかない)となったのである。重要拠点となった石倉城には武田家中の重臣である内藤修理亮
昌豊(まさとよ)・外記親子が入城している。なお、その当時の厩橋城は後北条方と上杉方とが奪い合いを繰り返しており、まさに
この地域は武田・上杉・後北条が鎬を削っていた場所だったと言えよう。こうした兵乱により当時の記録は史書毎に異なっている
混乱を来たしている。上記の経歴は石倉城址にある案内板を元にしたものだが、「上州故城塁記」なる書物では、1565年6月に
上杉方が武田方から石倉城を奪還した際、城代として阿老神六郎なる人物を入れたが武田軍の再奪還は僅か1ヶ月後、1565年
(1566年ではない)7月の事でこの時に曽根七郎兵衛が入ったと記している。この他、様々な記録で違った事が記載されている為
正確な状況を確定できぬが、何にせよ1560年代に武田・上杉が石倉城を奪い合い、その傍らで後北条氏が動き続けていたのは
間違いないようでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
内藤昌豊は武田四天王の一人に数えられる名臣であるが、1575年(天正3年)長篠の合戦で戦死。後を守る事となった外記は、
厩橋城主であった北条(きたじょう、後北条氏とは無関係)丹後守高広(たかひろ)の降誘に応じて武田家を裏切る。高広は元々
越後上杉家臣であったが時節により武田家や後北条家へ鞍替えした去就定かならぬ人物で、この時は後北条家に従っていた。
当時既に武田信玄はこの世を去っており、長篠で大敗を喫した武田勝頼に武田領国諸将が不信感を募らせていた時期である。
この寝返りによって石倉城は後北条方の城となり、後北条家臣である寺尾左馬助(石倉治部)が城将となり申した。ただし、寺尾
左馬助の名は小林左馬助とも伝わり、はっきりとしない。また、別の伝承によれば石倉治部こそが北条高広に降伏して石倉城を
与えられた人物であるとも言われている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、これを機に後北条方の城となったようだが、その後も石倉城・厩橋城は数々の大名が入れ替る係争地となっている。

廃城に至るまでも諸説あり…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1582年3月に武田家が織田弾正忠信長によって滅亡すると、厩橋城へは信長配下の滝川左近将監一益(かずます)が入ったと
されているため、当然ながら石倉城も同様の運命を辿ったと思われる。しかし僅か3ヵ月後の同年6月、今度は信長が本能寺で
落命し、一益は上野国を棄てて本領の伊勢国へと逃げ帰っており、再びこの地は後北条氏のものになったのであった。そして
1590年、豊臣秀吉は天下統一の仕上げとして小田原後北条氏の追討を決定。豊臣方にあった諸将の軍勢が関東各地を平定
する中、石倉城へは徳川家康配下の将である松平修理大夫康国・新六郎康寛兄弟の軍勢が攻めかけた。寺尾左馬助は城を
出て井野川の戦いで奮戦したが、多勢に無勢で敗北。石倉城に戻り籠城の構えを取る。それに対して康国・康寛の軍が追撃し
康国が戦死したものの康寛の手によって城が落とされ左馬助は討死した。これには異説があり、城を囲んだ康国・康寛の軍に
対し左馬助は開城を決意したが降伏時の手違いにより康国が左馬助に刺殺されたと言うのである。左馬助はその場で康寛と
その配下武将・依田筑後守昌種によって成敗され、石倉城の受け渡しは史上類を見ない騒動を伴ったとされている。■■■■
さてはて、いったいどこからどこまでが真実を伝えているのか解らないが徳川軍の平定以後、石倉城は廃城となった。以来400
余年、城跡は宅地化や利根川の浸食によってすっかり元の姿を失った。かつて、河岸の崖を背にして本丸を置いて、その周りを
輪郭式に二ノ丸・三ノ丸・外郭が囲繞したという縄張りは今や全く痕跡を残していない。往時の二ノ丸があったという場所に現在
「石倉城二の丸公園」という小さな児童公園が置かれ、そこに城址碑(写真)と案内板があるだけでござれば、利根川の対岸に
そびえる群馬県庁舎(厩橋城跡)を睥睨し、互いの城の距離感を味わうくらいが城の名残を感じる方法であろう。■■■■■■







上野国 前橋(厩橋)城

前橋城車橋門跡

 所在地:群馬県前橋市大手町・千代田町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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古代駅伝制度由来 「うまや」の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
元来の創建は旧石倉城であるが、利根川の氾濫で破壊されたのは上記の通り。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1534年、改めて築き直されたのが厩橋城(近世に前橋城と改称)であるが、この城もまた、一度は破棄された後に再築を受けた
経歴がござる。以下、厩橋城としての経歴を記す事にする。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
古代律令制の駅伝制度(都から地方への交通・通信伝達官制)によりこの地には上野国群馬の駅が置かれた。駅とは都からの
伝達使が中継する場所で駅家とも記されたが、当然ながら当時の速達交通手段は馬を乗り継ぐ事であるため、駅家には交代の
馬が常備してあった。よって、駅家と書いて「うまや」と読む慣わしがあり、「群馬うまや」の地であった事が「厩橋」地名の起こりで
ある。石倉城の水没後、1534年利根川左岸(東側)に築かれた城は、斯くして厩橋城と命名された。この城の築城主は箕輪城主
長野氏(箕輪城の頁を参照)一族の長野左衛門尉方業(かたなり)。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
当時、上野国は山内上杉氏の領国であったが、その統治実務は配下の白井長尾氏・総社長尾氏に託されていた一方で国内の
国人衆は箕輪城主・長野信濃守業政(なりまさ)を中心として結束しつつあった。方業は業政の叔父に当たる人物とされ、別名で
賢忠(けんちゅう)、法号を固山宗賢と称し“厩橋長野氏”として基盤を築いた。箕輪長野氏と厩橋長野氏は結束し、長尾氏との
競闘あるいは結束を繰り返し上野国内の覇権を競っていたのだ。しかし一方で山内上杉氏そのものが小田原後北条氏からの
圧迫を受け、上野国は国内騒乱のみならず南から後北条氏が領土拡張を狙う地となっていた。こうした状況により、次第に山内
上杉氏の権威は低下し、それに伴って後北条氏の支配地域が拡大していく。遂に1552年、領国を支えきれなくなった山内上杉
憲政は国を捨て越後へ逃亡、かの地の有力者である長尾景虎(後の上杉謙信)を頼った。業政は箕輪城に留まり死守したが、
方業は憲政に従って越後へ下る。その結果、方業の子・道安は後北条氏に従う事となったため厩橋城は後北条氏の城になり、
福島(くしま)頼季・師岡山城守・高福祉といった後北条氏の将が進駐したのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■

謙信越山の拠点■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、上杉憲政は景虎に庇護を求めた上で関東の奪還を請願。権威ある関東管領の要請に応えるべく、景虎は上野国ひいては
小田原への進出を企図。いったんは後北条氏の支配地域となった厩橋周辺だが、今度は景虎が南進する事で戦火絶えぬ場所と
なっていく。両者の間で厩橋城を巡る争奪戦が繰り広げられ、1560年(永禄3年)長尾軍が占領し長野方業が復帰する。この城を
足掛りとして長尾景虎は翌1561年(永禄4年)にかけ小田原遠征を敢行、関東諸将の服属を目指した。結局、小田原後北条氏の
打倒や関東全域の制圧は成らず、山内上杉家督の継承と関東管領襲職のみに終わった遠征であったが、越後軍の年を越した
長征に加え関東全域からの軍勢結集となった一大偉業を果たすに当たり、厩橋城は兵員・物資の集積基地として大きな役割を
担ったのであった。越後長尾景虎あらため上杉謙信(当時まだ謙信の法名は名乗っていないが、以下この名で統一する)による
関東遠征、いわゆる“越山”はこの後もたびたび行われ、その都度厩橋城が前進基地として用いられている。■■■■■■■■
上杉軍の南征に欠かせない存在となった厩橋城だが、それ故に後北条氏やその同盟者である甲斐武田氏からの攻撃目標とも
なった。1563年、武田・後北条連合軍が上州へ侵攻、この時は厩橋城を陥落させている。これに対し上杉軍は即座に対応し城を
奪還したが、利根川を挟んだ対岸の石倉城は武田方の占領地域となった。謙信は緊迫した状況にある厩橋城に家臣団の中でも
屈強な将である北条高広を入れて守りを固めさせている。なお、正確な年代は不明であるがこの頃に旧城主である長野方業は
謙信から粛清された。方業が謙信の命に叛いたためとか、方業の子息が謀反を疑われたためなどの理由が考えられているが、
詳細はわからない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、これで厩橋城は北条高広が城代となった訳だが、この高広という者は腕っ節に長ける分、人格には難があった人物の
ようで主君に反抗し容易く寝返るきらいがあった。厩橋城に入った後、後北条氏に目を付けられた高広は遂に1567年(永禄10年)
後北条方へと鞍替えしてしまった。こうして厩橋城は難無く後北条氏の手に落ちた訳だが、そののち、後北条氏と武田氏の間が
険悪となった事から1569年(永禄12年)6月に上杉氏と後北条氏の間に不戦同盟が成立し、この約定に基づき厩橋城ならびに
北条高広は上杉方へと帰参している。1571年(元亀2年)10月、謙信は厩橋城に入って武田軍制圧地域への進出を画策し、同月
11日に城を出て箕輪城への攻撃を行ったという。謙信はそのまま厩橋城で年を越し、翌1572年(元亀3年)1月3日には石倉城を
攻撃している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

次々と変わる支配者■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その謙信が1578年(天正6年)に病没すると、上杉家は家督騒動を引き起こす。謙信の甥であった上杉弾正少弼景勝と、養子で
あった上杉三郎景虎の2派に分かれて家臣団は争ったのである。この騒乱に於いて、厩橋城にあった北条高広は景虎を支持し
出陣したが、翌1579年(天正7年)3月24日に景虎は敗死。上杉家中での立場がなくなった高広は、1567年と同様に寝返りを決め
武田勝頼に臣従するようになったのだった。こうして厩橋城は武田家の持ち城となる。ところが1582年3月、武田家は織田信長に
攻められて滅亡。高広は信長が関東へ派遣した将・滝川一益に帰順し厩橋城を開城。これにより一益は関東支配の拠点として
厩橋城を用い始めたが、直後の6月に今度は信長が本能寺で横死する。この報を知った後北条氏は即座に対応し、上野国へと
大攻勢をかけた。滝川一益は応戦間に合わず、神流川(かんながわ)合戦で大敗し厩橋城を放棄して伊勢国へと逃げ帰る。
高広は後北条氏に降伏して厩橋城はまたも後北条方の拠点となったのであった。この後、関東甲信地域は武田・織田亡き後の
再編が行われ、関東の大半が後北条領、甲信地方は徳川家康領になったが、両者の間に揺れ動いたのが沼田の真田安房守
昌幸である。昌幸は真田家が代々に渡って勝ち取った領土の保全を画策したため、後北条・徳川の両方から敵視されるように
なった。昌幸に通じた厩橋城の北条高広は後北条家に従いながら真田領に対する出兵を拒否。この流れで高広はまたも寝返り
同年12月に旧主・上杉家へ接近した。度重なる翻意に不信感を募らせた後北条方は高広の征伐を断行、1583年(天正11年)の
9月に厩橋城が落城する。以後、後北条氏の城である事が確定した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
これに対しての転機は1590年。豊臣秀吉が天下を統一を懸け関東征伐を行い後北条領各所に豊臣軍を派遣した。厩橋城へは
浅野弾正少弼長政らの軍勢が攻めかかり、4月に落城している。後北条氏が滅亡した後、旧北条領は徳川家康の領土になって
家臣の平岩主計頭親吉(ちかよし)が8月に3万3000石で入城。関ヶ原合戦を経て家康が天下を握ると1601年(慶長6年)親吉は
甲斐国甲府(山梨県甲府市)6万3000石へと移される。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
代わって徳川譜代の重臣・酒井河内守重忠(しげただ)が武蔵国川越(埼玉県川越市)から3万3000石で厩橋城に入封。重忠は
城の大改修に取り掛かり、3重3階の天守をはじめとする建築物を創建し、厩橋城は近世城郭へと変貌した。この頃の厩橋城は
利根川に接した西端を本丸とし、そこから東側へと二ノ丸・三ノ丸・外郭が梯郭式に連なっていた。外郭の構えは比較的大きめ
だったが、それに対する二ノ丸・本丸はかなり小規模で、戦国期の縄張を踏襲したまま近世城郭化が図られたと推測できよう。
しかし、利根川に面した小さな本丸はこの後、水害によってどんどん削られていってしまうのである。改修されたとは言え、中世
城郭から脱却しきれなかった城が自然災害には打ち勝てなかった典型例と言えるだろう。■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、雅楽頭系酒井家の厩橋在城は重忠の後に右兵衛大夫忠世(ただよ)―阿波守忠行(ただゆき)―左近衛権少将忠清
(ただきよ)―左近衛権少将忠挙(ただたか)―内匠頭忠相(ただみ)―内匠頭親愛(ちかよし)―雅楽頭親本(ちかもと)―左近衛
少将忠恭(ただずみ)と9代148年に及んでいる。忠世の代、1617年(元和3年)7月に知行は8万5000石となり、さらに加増を受けて
12万2000石に。忠行の頃、1636年(寛永13年)3月には15万2500石になり、その後も分知などがあっても概ね13万石〜15万石を
維持した。そんな酒井家9代のうち最も有名な人物が4代・忠清だ。徳川4代将軍・家綱の治世下で大老職に就任し専制を振るい
“下馬将軍”とまで俗称された。あまりに権力を持ちすぎたために、後世の評価では徳川将軍家を傀儡にせんとした奸臣とまで
言われるほどだが、5代将軍・綱吉の就任に伴い職を解かれている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

利根川と戦い、利根川に敗れた城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その子・忠挙は厩橋の名を前橋に改称した。酒井家の統治下、厩橋は上州の一大商業都市として発展しており繁栄を祝しての
改称とされる。この改称は1649年(慶安4年)の事と言われるが、祝慶の念とは裏腹に利根川水害による前橋城の被害は抜き
差しならない状況に達していた。毎年のように起こる洪水で15万坪あったという城地は次第に削られ、遂に1706年(宝永3年)
本丸にあった天守(三重櫓)が倒壊してしまう。前橋城の維持に巨額の費用を必要とした前橋藩は、次第にそれよりも他地への
転封を望むようになり、老中首座の地位を勝ち得た忠恭の代、1749年(寛延2年)播磨国姫路(兵庫県姫路市)への移転を為す
事となる。しかしこの当時、姫路も凶作や財政悪化のあおりを受けており酒井家は転封後も赤字に悩まされ続けた。■■■■
それは兎も角として、前橋には入替わりで姫路から越前松平氏の大和守朝矩(とものり)が15万石で入る。酒井家統治時代の
後期、既に本丸は事実上機能を失っており移転していたが、松平朝矩の入城後に前橋城の破壊は一層深刻なものとなって、
1767年(明和4年)本丸が完全に水没してしまった。越前松平家は創始以来朝矩の代までに10度もの転封を受けており、城を
修繕する財力は全くなかったと言われる。事ここに至り、前橋城に居を構えるのが不可能となった朝矩は、幕府へ移転を願い
出て同年閏9月15日に分知の川越へ去っていった。1769年(明和6年)、1534年以来使われ続けた前橋(厩橋)城は廃城され、
前橋の町は川越藩の支藩として陣屋代官支配に拠るものとなったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし大名の居城として繁栄していた前橋は、城と城主を失った事で次第に衰退していく。民衆は城主の復帰を請願、およそ
100年間こうした状態が続いた訳だが、一方で天保年間(1830年〜1844年)郡代奉行・安井政章(与左衛門)が利根川の堤防
工事を成し遂げて治水を整備、氾濫の危険性は一気に低減した。また幕末開国により生糸貿易が隆盛を極め、前橋は物流の
集積拠点として活況を呈す。こうした時代背景があって1863年(文久3年)、時の藩主・松平大和守直克(なおかつ)は川越から
前橋への帰転を決意する。幕府も開国後の江戸北方防備を固める必要からこれを許可し、同年12月、前橋城の再築工事が
起工された。これが新たなる前橋城で、現在に残る遺構はこの時に作られたものだ。工事は3年8ヶ月に渡り1867年(慶応3年)
3月に一応の完成をみる。城地は旧前橋城本来の大きさとほぼ同等であったと言われ、かなり巨大な城郭なのが推測できる。
これだけの城を4年弱で築いたのはかなりの突貫工事だったが、それを可能にしたのは城主復帰を望む前橋の商工業者が
巨費を献金し領民が積極的に工事に協力した点が大きい。最幕末期に築き直された城だけあって、あまり知られていないが
設計思想は西洋の稜堡式を取り入れているのが前橋新城の特徴。旧城の三ノ丸を本丸とし、旧本丸の残存部分は利根川に
面した帯曲輪のような状態になっている。本丸の南側を囲うのが二ノ丸、北側は三ノ丸が取り巻き、その東側は北郭・外郭・
南郭が広大な敷地を占める渦郭式の縄張り。各曲輪の外縁は比較的直線で形取られ単純な様相を見せるが、隅部は鋭角な
突先となり、砲座を構える形式となっているのが稜堡式らしい城の作りと言えよう。こうした外縁部はいずれも高さ5mを超える
土塁で縁取られ堀がその周りを守る。石垣はほとんど用いられていないが、砲撃戦を主任務とする稜堡式なのだから当然の
事である。石材を用いた場合、被弾時に破片が兆弾として飛び散り被害を拡大するからだ。この点、土塁ならばむしろ着弾の
衝撃を吸収する事になり防備が堅くなるのである。同様に、砲撃時の目標となる危険性を考慮し稜堡式城郭では高層建築が
建てられないのが通例だが、前橋城の場合は工事を急ぐが為に大きな建造物を建てなかったというのが正直なところだろう。
御殿や門など最小限の建築物だけは用意されたが、天守や重層櫓は建てられていない。まさしく幕末動乱期、生糸物流の町を
統治し関東北辺の守りを固めんが為に駆け足で作られた城だったのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

近代化の波にも敗れる■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし急造した城も半年で使命を終える事となる。城が完成した1867年は10月に15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を宣言して
朝廷に政権を返上している。武家政権は終焉を迎え、戊辰戦争の動乱も前橋藩はいち早く朝廷側に就く事を表明し戦闘には
至らなかったのである。1871年(明治4年)の廃藩置県後は前橋県が成立し、前橋城の本丸御殿が県庁舎として再利用される
事になったが、それ以外の諸建築は軒並み破却され、前橋新城は短期間で消え去る運命となった。前橋県は程無く群馬県と
して再編されたが、県庁機能は高崎と前橋の間で移転を繰り返し、最終的に1881年(明治14年)に前橋城本丸御殿を庁舎と
する事で確定した。この決定においては高崎と前橋の間で“誘致合戦”とも呼べる激しいやり取りが行われ、県庁機能を失った
高崎は、以来前橋を敵視するようになったという。結局、前橋城は県庁が入った本丸御殿を除いて破却されたために、敷地は
大半が市街地化され、特に外郭遺構は殆ど残されていない。その本丸御殿も老朽化の為に1928年(昭和3年)取り壊された。
現状、本丸御殿があった所に1999年(平成11年)竣工の群馬県庁舎ビルが建ち、その周辺に群馬県警本部などの主要官庁が
並ぶ。これが前橋新城の本丸跡地で、同様に二ノ丸跡地の東脇が前橋市役所、三ノ丸跡地が前橋地方裁判所となっている。
これら現代建築の隙間を縫うように分厚い土塁が取り囲んでいるのが城跡の名残であるものの、道行く人はこれが城郭遺構
だとは気づかず通り過ぎている。また、官庁街から少し東へ行った場所(商店街裏手の住宅地内)に車橋門の石垣(写真)が
残されている。旧前橋城時代から使用され一時廃城期を経て前橋新城となった後まで存続したのが車橋門。前橋城における
数少ない石垣遺構で、酒井忠清城主時代にそれまで冠木門形式の簡素な門だった建物を渡櫓門の大規模建築に改修した
ものだとされている。前橋新城においては外郭部と主郭部を隔てる重要な門とされ、城の縄張のほぼ中心点に存在しており
石組の大きさは7.7m×4.25m、高さ1.4m。これが櫓門の左右両端を支えるべく2基(つまり1組)構築されており、構造は切込
ハギの精緻なもの。1964年(昭和39年)市街地の区画整理事業によって西側の基台が8m詰められ、門としての通路部分が
狭められてしまった(よって、現状の見た目は非常に違和感がある)が前橋城の残存遺構としての貴重さは評価され、この
年の12月22日に前橋市の史跡として指定され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この他、市内総社町の民家に移築された冠木門建築が残されているが、遺構らしい遺構はこの程度しかない。幕末竣工の
最新鋭巨大城郭にしてはあまりにも少ない残存状況と言えるだろう。石倉城以来の旧城は利根川の洪水に押し流された上、
稜堡式で復活した新城は明治近代化以後の激流に流されてしまったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・石垣・郭群等
車橋門跡は市指定史跡

移築された遺構として
市内総社町某民家門(城内冠木門)




箕輪城・里見城  名胡桃城・小川城・真田伊賀守陣屋