上野国 箕輪城

箕輪城址石垣

 所在地:群馬県高崎市箕郷町東明屋・西明屋
 (旧 群馬県群馬郡箕郷町東明屋・西明屋)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★☆■■



上州屈指の強豪・長野氏の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国時代、この地方を治めた長野氏の居城。長野氏は「伊勢物語」の主人公とされる在原業平(ありわらのなりひら)の
子孫と言われる。右近衛権中将業平は平城天皇の孫、小倉百人一首の歌人としても有名だ。長野氏の通字に「業」と
あるのは、この在原業平に起源があると考えられている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
箕輪城の起源は1512年(永正9年)に長野伊予守業尚(なりひさ)が築いたという説と、その子・伊予守憲業(のりなり)が
1526年(大永6年)に築いたという説があるものの、正確な築城年代は不明。この他に、明応年間(1492年〜1501年)の
築城、或いは1505年(永正2年)頃など諸説入り乱れるが、文献に見られるのは1527年(大永7年)の事。いずれにせよ
業尚の築城というのが現在最も有力な説とされている。長野氏はそれまで鷹留(たかどめ)城(群馬県群馬郡榛名町)を
居城としていたが、箕輪城の完成に伴って本拠を移した。業尚以後、憲業―信濃守業政(なりまさ、業正とも)―弾正忠
業盛(なりもり)と長野氏4代に亘る居城となってござる。このうち最も有名な人物が業政で、室町幕府体制における東国
支配機関の実質的な首班である関東管領・山内(やまのうち)上杉氏の有力家臣となっていた長野氏の名を現代にまで
残す結果を出した。業政は12人の娘を近隣豪族に嫁がせて血脈を結び、その盟主として指導的な立場を得たが、彼の
才覚はそうした文治の面だけに留まらず、軍事においても絶妙なる用兵で他の将を圧倒している。さらに、故郷の信州
真田郷(長野県上田市)を追われ流浪していた真田弾正忠幸隆(ゆきたか)を箕輪に寄宿させて面倒を見るなど、情に
篤い人物でもあった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
このように政治・軍事・外交に秀でた業政は人望を集め、西上野の有力者として一目置かれるようになる。因みに真田
幸隆は長野氏の助力があって後年真田郷への帰参を果たし、甲斐武田氏配下の名将として名を馳せた。その子孫は
戦国末期に自立した大名となり、“真田日本一の兵(つわもの)”と謳われる真田幸村こと左衛門佐信繁(のぶしげ)を
輩出したり、江戸時代における有力大名家たる松代真田家へと血を繋いでいく。真田家の名を知らない歴史愛好家は
居ないだろうが、長野業政がその大恩人であった事はまだまだ広く認知されていないのが残念でござる。■■■■■■
話が逸れたので戻すと、業政の活躍はさらに続く。小田原後北条氏が南関東から勢力を伸張させつつあったこの頃、
突き上げを食らった上杉氏は領土を減少させ衰退の一途を辿っていた。これに対抗するため、1545年(天文14年)から
1546年(天文15年)にかけて上杉氏・足利氏らの連合軍が後北条方の最前線城郭・河越城(埼玉県川越市)を8万とも
いわれる大軍で包囲する。これに対する北条左京大夫氏康(うじやす、時の後北条氏当主)は連合軍の油断を誘う為
偽りの和議を模索。低姿勢の氏康に気を大きくした連合軍の盟主にして関東管領である山内上杉憲政(のりまさ)は
「もはやこの戦は勝利」と警戒を緩めてしまう。この陣の中、氏康の謀を看破したのは唯一、業政であった。連合軍が
油断した夜、後北条軍が手際よく夜襲をかけたため陣中は大混乱に陥り上杉軍は名だたる将が無残に討ち取られて
いく。あわや憲政も絶命の危機に瀕したが備えを怠らなかった長野軍が踏み止まったおかげで落ち延びる事に成功し
窮地を脱す。この激戦で業政も嫡男の吉業(よしなり)を失ったが、上杉軍の大敗が世に広まる中、その中で奮戦した
業政の声望も同じく広まっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

長野業政、孤軍奮闘■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、斜陽の山内上杉氏は次なる一手として信州への出兵を画策する。当時、信濃は甲斐の武田信玄が領土拡張の
場として攻め立てられており、反武田の諸氏は衰亡の危機に瀕していた。関東管領たる上杉氏がこの戦いを調停して
武田を降せば、自ずと後北条氏もその権威に服すると考えたのである。しかし、先見の明ある業政は上杉家中にあって
ただ一人この出兵に反対した。信濃に兵を出すのは単に武田を敵に回すだけであり、上杉には何ら利が無い。しかも
信玄は名うての名将、簡単に勝てるはずが無いと予測したのだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
自重する業政を他所に1547年(天文16年)憲政率いる上杉軍2万は揚々と出陣。その結果は、業政の予想通りだった。
後北条氏の北進を止めるどころか、武田氏という新たな強敵まで生む事になった憲政はとうとう領土を守る事が出来ず
1551年(天文20年)国を捨てて越後へと逃亡した。無論、上杉氏重臣もこれに従う。■■■■■■■■■■■■■■■
ところが唯一、上野国内に残ったのが長野業政であった。主君の去った上野国にあって、業政はあらゆる敵の矢面に
立たされたのである。南からは小田原後北条氏、西からは甲斐武田氏の猛攻が箕輪城に襲い掛かるも業政は巧みな
兵術でその都度、これらの敵を撃退した。特に武田方は1557年(弘治3年)4月に信玄の嫡男・太郎義信を大将とする
1万3000の兵が、1559年(永禄2年)9月には信玄自らが率いる1万2000の軍勢が攻めるも、精兵1万が守備する業政の
箕輪城は落とせず、甲府へ退却している。1557年は8月・10月にも武田軍が侵攻したが、やはり撃退され申した。■■
信玄は兵力に訴えるのみならず、河越夜戦の殊勲者として名を轟かせる有能な将・業政を自軍に取り込むべく、時に
降誘の手も伸ばしたが、自立を守る業政は頑として従わず、とうとう「業政が存命である限り、上野に手は出せぬ」と
諦めてしまった程である。信玄にそこまで言わしめた人物はそう居らぬでござろう。■■■■■■■■■■■■■■
その言葉通り、業政が健在のうちは武田軍が本格的に西上野へ進出する事はなくなった。箕輪城は上州の橋頭堡と
なり、いつしか業政の人望を頼った剣聖・上泉伊勢守信綱ら高名な食客が集まるようになっていた。上泉信綱はあの
新陰流剣術を興した当代一流の剣客でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが1561年(永禄4年)、業政は死去(1560年(永禄3年)説もあり)。遺言は「我が葬儀は不要、弔いには墓前に敵兵の
首を一つでも多く並べよ。決して降伏するべからず。力尽きなば、城を枕に討ち死にせよ」というものだった。当時14歳
(17歳とも)であった嗣子・弾正忠業盛(なりもり)は、この言葉を胸に箕輪城主の地位を継ぐ。業政の死を悟った信玄が
再び動き出し、たびたび上州を侵犯するも、業盛は奮戦し父に劣らぬ武勇を見せつけた。されど、この時既に信州の
大半を手中にし東国屈指の大大名となっていた武田家の軍事力に恐れを為した上州諸将は次第に長野家から離反、
1566年(永禄9年)遂に箕輪城は武田軍に包囲される。3万の攻城軍に対し、城兵は1500。頼みとした上杉家の後詰も
間に合わず、ここが潮時と覚悟した業盛は父の遺訓通り最期の奮戦を見せる。薙刀を手に討って出た業盛は1人で
28人もの敵を討ち取った後(「箕輪軍記」)、城内に戻り御前曲輪の持仏堂で自刃し申した。9月秋気の頃でござる。
業盛辞世の句は「春風に うめも桜も 散りはてて 名のみぞ残る 箕輪の山里」。■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、箕輪客将であった上泉信綱は長野業政と同じように信玄に見込まれ合戦後招聘されたが、長野家への恩義を
大事として武田家への仕官は断り、廻国流浪の剣術修行に旅立った。斯くして新陰流の剣技は全国へと広まっていき
新陰タイ捨流の祖・丸目蔵人佐長恵(まるめながよし)や剣豪の室町13代将軍・足利義輝、そして剣聖・柳生石舟斎
宗厳(むねよし)らとの邂逅を果たすのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

武田家臣団による維持■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、武田軍の手に落ちた箕輪城には城代として甘利左衛門尉昌忠(あまりまさただ、武田家宿老・甘利家の当主)や
真田幸隆(真田郷に帰郷後、武田重臣に)・浅利式部丞信種(あさりのぶたね、甲斐源氏浅利氏、武田家侍大将)らが
歴任した後、1570年(元亀元年)頃から内藤修理亮昌豊(まさとよ)が入った。内藤家は元来、甲斐国内の有力国人で
その器量を見込んだ信玄が家臣に迎え入れたのが昌豊でござる。まさに一国を任せられる人物と評された彼が城主
(城代とも)となり、武田家は西上野に確固たる地盤を築いたと言えよう。その昌豊が1575年(天正3年)5月21日、長篠
合戦で戦死した後、箕輪城主の地位は子の大和守昌月(まさあき)に継承され、同じく西上野に睨みを効かせ申した。
1560〜1570年代の上州は北に上杉謙信、南に小田原後北条家が逼迫し武田家と三巴の領地争いを繰り広げており
大国による戦乱に対処すべく、武田時代の箕輪城は本丸の拡張をはじめとする大改修が行われてござる。■■■■
1582年(天正10年)3月、織田信長によって武田家が滅亡すると、箕輪を含む上野国へは後北条氏が侵攻するものの
信長から関東管領に任じられた滝川左近将監一益(たきがわかずます、信長配下の智将)が平定。箕輪城は、一益が
居城とした厩橋(前橋)城(群馬県前橋市)の前哨基地として組み込まれたが、同年6月その信長も京都・本能寺にて
落命し織田政権は崩壊した。この機を逃さず後北条氏が大攻勢をかけ、滝川一益は伊勢国へと潰走する。その結果
箕輪城は後北条氏の持ち城となり内藤昌月もこれに服した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後、この城は北条安房守氏邦(うじくに、後北条氏当主・北条左京大夫氏政の実弟)の指揮下に置かれる。氏邦は
鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)を基幹とする方面軍“鉢形衆”の指揮官であり、上方で成立した豊臣政権との外交も
担当する政軍に明るい良将であった。ところが1590年(天正18年)豊臣秀吉は後北条氏を天下統一最後の敵と定め
関東への侵攻を開始した。氏邦は対豊臣軍最前線となる伊豆韮山城(静岡県伊豆の国市)の守備に就いたため、
箕輪城は戦闘らしい戦闘も無いまま、前田又左衛門利家・上杉左近衛権少将景勝ら所謂“北国軍”に接収される。
小田原戦役後、関東は徳川家康の所領にされ、箕輪城は12万石を以って徳川四天王の一人・井伊修理大夫直政に
与えられた。これは関東移封後の徳川家臣団中で最も多い石高でござれば、家康の信が篤かった事は勿論、北に
上杉氏、西には真田氏が控える上野国を守る重要性を鑑みた結果と言えよう。箕輪城はこうして直政の城となって、
近世城郭への改修が施された。城域の拡張のみならず、城門や櫓台近辺は石垣で固められ鉄砲による火器戦闘を
考慮した構造へと変貌し、これが現在に残る箕輪城址の最終形態となり申した。■■■■■■■■■■■■■■■
だが、そもそも箕輪の地は山深い盆地にあり近世城郭発展の基本となる城下町の発展や街道・水運経路の確保が
見込めない。このため1598年(慶長3年)直政は新たに高崎城(高崎市内)を築いて居を移し、箕輪城を廃城とした。
同時に箕輪周辺の集落を高崎城下町形成のために集団移転させ、箕輪の地は完全な農村集落へと姿を変えた。

日本百名城に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以来およそ400年、箕輪城は沈黙の眠りに就き部分的に田畑や果樹園へと改変されたが、大半は手付かずのまま
放置されていた。結果的に良好な保存状態を維持した箕輪城は、中世(戦国期)中枢城郭の形態を現代に伝える
史跡として1987年(昭和62年)12月17日に国史跡の指定を受け、2018年(平成30年)10月15日に追加指定も。更に
2006年(平成18年)4月6日には財団法人日本城郭協会から日本百名城に選定され、一躍知名度が向上し申した。
2014年(平成26年)から伝統的工法で復元を進めていた郭馬出西虎口門も2016年(平成28年)11月に完成しており
一般公開されてござる。この復元門は幅5.73m×奥行3.48m×高さ6.3mの2階建て櫓門。屋根は板葺きで、中世から
近世への過渡期にある城郭建築の好例となっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在残る城域は東西500m×南北1100m、面積47haに及びとにかく広大。構造的にはほぼ中心に大空堀が切られ、
城を南北に分けている。このうち北側曲輪群が主郭部で、中心に本丸、その北に長野業盛が自刃した御前曲輪が
連結。御前曲輪では1927年(昭和2年)の発掘調査で井戸が検出されて、中から投げ入れられた五輪塔などの墓石が
発見された。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
他方、本丸の南側には二ノ丸が連接するが、両者の間を分けるように馬出状の小曲輪が置かれる。この小曲輪に
建てられた城門は礎石作りのもので、現在もその石が残されている。さらにその小曲輪から東へ抜ける道が、この
城の搦手口でござる。長野氏時代には、こちらの出入口が大手とされており申した。■■■■■■■■■■■■■■
二ノ丸の西に続く三ノ丸は、そのまま本丸西側まで包み込む。三ノ丸の北端は蔵屋敷・通仲郭と称される階段状の
曲輪群となっていき、御前曲輪の北端と並んで城域北部の守りを固め申す。通仲郭や御前曲輪の北には小規模な
丸馬出や三日月堀があったとされるが、現状では判然としない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
御前曲輪の東には稲荷郭、さらにその外周は新郭が取り巻いて箕輪城北東の外郭線を形成していた。三ノ丸の西、
一段下がった場所には鍛冶曲輪が。その西南隅、搦手口と対を成す位置にあるのが虎韜(ことう)門。古代中国の
名軍師として知られる太公望呂尚(りょしょう)が記した兵法書「六韜(りくとう)」の中の「虎韜の章」から名付けられた
門であり、長野時代にはこちらが搦手とされていたとの事。現在の状態に改修されたのは井伊期である。ここまでが
大空堀北側の曲輪群。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
他方、大空堀南側は二ノ丸からの土橋(大空堀を渡る道はこの1本のみ)が延び、そこには角馬出が睨みを利かせて
いる。この角馬出を取り囲み木俣郭。木俣の名の由来は、そこから放射状に曲輪が広がる事で、さながら木の俣の
如くとされた様子を採ったとも言われるが確証は無い。ともあれ、木俣郭からは東〜南〜西の各方面へと小曲輪が
続いており、特に南面は段丘を利用した細長い腰曲輪が多重防御を構えている。この防御面を抜けた南端が城の
大手口。また、木俣郭の東側は椿名沼と呼ばれた大きな沼が外濠を成していた(現在は埋め立てられている)。
大空堀は幅30m・深さ10m・長さ240mを数えるが、発掘調査の結果、本来はさらに6mほど掘り込まれていたようだ。
この大空堀のみならず、どの地点の堀も概して深く広い。長野時代の城は、現在の本丸と御前曲輪それに二ノ丸を
加えた程度の大きさであったと言われ、武田時代に大拡張を受け、それを井伊期に手直ししたと考えられてござる。
だとすれば、これだけの大土木工事を行ったのは武田と井伊の手であると推測できよう。さすが甲信の雄・武田氏と
近世徳川時代の礎となった井伊直政である。築城当初、一地方豪族の城に過ぎなかった箕輪城が軍事大国の波に
飲み込まれ、さらには近世へと繋がる時代の転換点を乗り越えた証がこうした土木工事の痕跡なのでござる。■■
本丸は東西65m×南北100m程の大きさ。最高所の標高は281m地点だが(城内案内板には270mとあるが、大空堀
南側の三角点273mから推測したのだろう)城の西側を流れ外濠の役割を果たしていた榛名白川の河原からは40m
程度の比高を有する。長野氏時代、本丸は堀によってもっと細分化されていたようだが、武田時代の改修によって
統合され、大型化した。武田の城は本拠地・甲府から遠ざかるほど兵站集中拠点として大規模化される傾向にあり
箕輪城本丸の改修も、こうした流れに基づいたものでござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、本丸東面に長く続く土塁は井伊時代のものと見られている。高さは平均して2m程で、それほど高いものとは
言えないが、鉄砲戦術を基本とする近世城郭の防御理論に対応すべく本丸内に於いて最も城外から瞰視され易い
(=城外に至近する)東面に塹壕状の土塁を構え火器射撃網を形成しようとしたと思われる。土塁により堀底からの
高さは増し、搦手口からの侵攻は本丸東面一列に並んだ鉄砲隊で阻止できる事になる。■■■■■■■■■■■■
近世城郭改修を受け、それまでの実戦経験を経た箕輪城はより一層強固な防御力を備えた。しかし、直政が如何に
守りを固めようと、軍事だけでなく政治・経済の発展が必須とされる近世城郭への変化には抗えず、遂に箕輪城は
“時代の流れ”に敗北し、使命を終えたのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお余談だが、内藤昌月の2男・五郎左衛門信矩(のぶのり)は井伊直政に仕え、子孫は彦根藩士になっている。■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・石垣・郭群等
城域内は国指定史跡








上野国 和田館

和田館跡

 所在地:群馬県高崎市箕郷町和田山中和田
 (旧 群馬県群馬郡箕郷町和田山中和田)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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箕輪城の傍らに、名族の隠棲地が■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
和田山館、和田の館とも。高崎市役所の鎮座する高崎城も旧名で和田城と言うが、それとは別物で箕輪城主郭から
2.5km南、榛名白川に架かる中和田橋の西側がその敷地にして、住所表示も高崎市箕郷町「和田山」でござる。
高崎城(和田城)と和田館、実は大いに関係するのだが、まずはその始まりから。鎌倉幕府草創期に武勇を以って
重鎮となった武将として和田小太郎義盛(よしもり)がいる。熱情溢れる人柄で初代将軍・源頼朝からの信頼を受け
幕府侍所(軍事・警察権の統括組織)の初代別当(長官)となった人物だ。義盛は一族を大きく発展させ、和田氏は
血族で一大勢力を有するようになったが、幕府の拠り所であった頼朝が没すると権力闘争が勃発。将軍は名目的
存在となってしまい、執権(鎌倉幕府で政務を統轄する役職)の北条氏が自身の権力を強化する為に他の氏族を
次々と排斥していく。斯くして1213年(建暦3年)5月に和田合戦と呼ばれる戦いが起こり、義盛も北条氏との対決に
引きずり込まれた。結果として義盛は5月3日に敗死し、和田一族も悉く亡き者とされてしまったのだが、そんな中で
義盛の6男・六郎兵衛尉義信、またはその子である正信(つまり義盛の孫)、或いは義盛8男・杉浦(杉本)八郎義国
だけは生き残り、旧領だったこの和田山の地に隠棲したとされる。江戸中期の1774年(安永3年)に上野国世良田郷
(群馬県太田市)の史家・毛呂権蔵(もろごんぞう)が著した地誌「上野国誌」では義信と記し、上野和田氏に関して
高崎市内にある曹洞宗白龍山興禅寺の僧侶が上野国誌と同様江戸期に記した「上野国赤坂庄和田記」の中では
義国を始祖とする。なお、鎌倉幕府の公式史書「吾妻鏡(あづまかがみ)」は義信を和田合戦で討たれたと書く。
いずれが正しいのかは分からぬものの、義盛の子孫の誰かがここに在住したと言い伝わり、それを指して和田館と
される訳だ。この場所は大きく見て榛名山系の山岳地から関東平野へ至る傾斜地の末端にあたり、細かく見れば
上記の榛名白川が削り出した小河岸段丘上である。緩傾斜と段丘が折り重なり、水利にも恵まれた土地と言うなら
開拓領主の性格を持つ鎌倉時代の武士が在住するのに相応しい。然るにこの館の主は1230年(寛喜2年)若しくは
1243年(寛元元年)山を下った赤坂庄へと居を移した。赤坂庄と言うのが現在の高崎市中心部であり、つまるところ
高崎城へと繋がる新たな和田館=和田城を築いた事になるのだ。山間に逼塞していた武士が大平野へ進出したの
だから、和田氏が勢力を回復していったとの推測が成り立つ。高崎駅周辺には「和田町」「上和田町」「下和田町」
「和田多中(たなか)町」など「和田」と付く町名が附されているのだが、これらは和田氏が入渠した由緒により後世
名付けられた地名である(当時からのものではない)。和田氏の復活を地名に見る訳だが、実際に上野和田氏は
後に新田小太郎義貞(これも上州に蟠踞した源氏分流)が鎌倉幕府打倒に挙兵するや、それに加わって鎌倉攻めを
行っている。両者とも源氏将軍をないがしろにし、他氏排斥を繰り返し権力独占を図った北条氏に対する恨み骨髄と
言った所だったのだろうか。この後、和田氏はそのまま南朝方として混乱の時代を歩んでいき申した。■■■■■■
一方、主の居なくなった和田山の和田館であるが、どうやら上野和田家の分流である(そして家臣となった)松本氏が
住み着いたとか。松本氏は戦国時代になると箕輪城主・長野氏の配下として戦い、江戸期には苗字帯刀を許された
土着の農民となったそうな。江戸末期には松本道雲なる人物が寺子屋の師匠となっていたそうで、松本家が文化人・
知識人としてこの地の有力者になっていた様子が分かる。明治維新後には松本一族が和田山村(当時の村組織)の
名主・組頭・百姓代を占め、1873年(明治6年)には松本恒吉が戸長(名主から改められた村役人)になった。■■■
そんな松本家が現在でも館跡に在住されているので、来訪時には無暗に荒らしたりしないように。特に目立つ遺構も
無く、もちろん駐車場なども無く(単なる民家であって観光地ではない)、写真の案内板が1枚あるのみ。一応、当時の
箕郷町教育委員会が設置したものだが(年代物なので、もうかなりかすれている)特に史跡指定などはされていない。






上野国 白川陣屋

白川陣屋跡

 所在地:群馬県高崎市箕郷町白川
 (旧 群馬県群馬郡箕郷町白川)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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和田館の傍らに、江戸時代の陣屋が■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
和田館の前の道をそのまま南に下って来ると、白川集会所と白川辻集会所を結ぶ道路との交差点近くに写真の標柱と
案内板がある(交差点からやや西に入った場所)。この付近が白川陣屋跡でござる。現地案内板に拠れば、白川陣屋は
安房勝山藩(千葉県安房郡鋸南町)の飛地支配陣屋だったそうな。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
安房勝山藩主は酒井家である。徳川家康の重臣、東三河衆筆頭そして徳川四天王に数えられる酒井左衛門督忠次が
有名(酒井左衛門尉家)な酒井家だが、安房勝山藩の酒井家は忠次とは異なる系統(同族ではある)の酒井雅楽頭家で
この雅楽頭家は江戸幕府の確立期に若狭国小浜(福井県小浜市)へと封じられ、その初代藩主・左近衛権少将忠勝は
徳川3代将軍・家光〜4代将軍・家綱の頃に大老となっている。忠勝には長男にして嫡男である備後守忠朝(ただとも)が
居たものの、原因不明ながら廃嫡され、小浜藩は忠勝の4男・修理大夫忠直(ただなお)が継ぐ事となった。されど忠直は
忠朝の子・越前守忠国(ただくに)に1万石を分け与え、新たな藩を作らせた。この忠国による立藩が安房勝山藩だ。■■
1668年(寛文8年)に成立した安房勝山藩は、更に1682年(天和2年)11月に上野国群馬郡などで5000石を加増された。
安房勝山藩が得た群馬郡の所領は和田山・富岡・上高浜・下高浜・本郷・西明屋・白川の7箇村3000石で、これらの村を
統治するため白川村に作られたのが白川陣屋だった。敷地は北面12間余・南面27間×西面17間という台形をしており、
玄関は南面中央に開口、北面の東隅に裏門が小さく開いていた。敷地中央に東西6間×南北5間の建物があり、これが
大きく6つの部屋から成る陣屋主屋となっている。その中心部には中庭を開き、西南隅部には御白州・真砂(まなご)が
用意されていた。時代劇でお馴染み、奉行や代官が裁きを下す法廷の御白州(真砂)であり、この陣屋内で訴訟を処理し
罪人も吟味していた様子が覗える。また、主屋の東隣(台形突出部)には2間半×4間の蔵も。年貢の収納実務を行った
ものであろうか。安房勝山藩のうち3000石分を統治するに必要不可欠な陣屋だったと想像できよう。主屋の北東隅には
土間があり、それと向かい合わせに井戸も。陣屋敷地の南西隅には小さな稲荷の祠もあって、生活感も滲ませる。■■■

代官・下田家と、陣屋のその後■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、文頭に紹介した“交差点”の傍らには「當地御代官 安藤弥四郎火葬塔」と記された石碑がある。この安藤弥四郎と
言う人物は安房勝山藩から派遣された代官らしい。どうやらこの地で亡くなり、遺体をそのまま勝山に戻す訳にもいかず
当地で荼毘に附したそうだ。勝山藩の記録では最幕末期の安政年間(1855年〜1860年)から明治にかけて盾石徹なる
者も代官として派遣されていたとある。しかしながら、白川陣屋では廃絶まで主として西明屋村の下田家が現地の代官と
して任じられていた。もともと、下田家は伊豆の下田を出自とする家で、戦国時代に下田大膳政勝が関東管領・山内上杉
憲政に従い上野国へ移住した。北条早雲が奪取するまで伊豆は山内上杉家の領地だったので、何かしらの縁があって
つてを頼ったのか?しかし憲政は(箕輪城の項で記した通り)国を棄てて逃げる事となり、政勝は長野業政の配下に。
その長野家も武田信玄に滅ぼされ政勝も自刃したが、彼の子である右馬之丞善春はこの地に土着し、江戸時代になると
下田家は酒造を生業とする富農となっていた。そして安房勝山藩が群馬郡を所領にすると、善春を初代と数えて7代目に
あたる理大夫政広が藩の家臣に取り立てられ、代官職を襲職するのでござる。以後の下田家は8代・連蔵知広―9代・
敏一郎知顕―10代・連蔵智房―11代・純一郎智康と続き明治維新を迎えた。なお、正確な事を言えば11代目の智康は
代官見習であった(10代・智房が維新時にまだ現役の代官)。ついでに言うと、初代代官となった政広は18世紀の人間
なので、陣屋が創設された1682年の時点から下田家が代官だった訳ではなさそうだ。■■■■■■■■■■■■■■
ところで、安房勝山藩はその名の通り安房国、房総半島にあった藩である。明治維新の際、将軍職を失った徳川宗家が
駿府藩(静岡県静岡市)に封じられた事で駿遠両国の大名が房総半島へ押し出され、一時的に所領が煩雑化したため
廃藩置県に先立って領地の整理が行われた。それ故、白川陣屋統治下の所領は1868年(明治元年)の時点で返納され
岩鼻県(明治初期にだけ存在した県)に収公されている。下田家もこの年の12月に代官職を辞して帰農し、白川陣屋は
1870年(明治3年)に破却された。以来、跡地は大半が耕作地となり、近年では住宅も建つようになったのだが、陣屋の
存在が確実な史跡を後世に残す為1974年(昭和49年)10月22日、当時の箕郷町が史跡に指定。後に市町村合併を受け
現在は高崎市の史跡となり、最近では(写真のように)史跡標柱と解説板が新しく作り直された。史跡指定されていない
和田館では箕郷町教育委員会が立てた看板のまま朽ちていっているのと対照的でござる…。■■■■■■■■■■■



現存する遺構

陣屋域内は市指定史跡








上野国 北新波砦

北新波砦跡 出隅部土塁

 所在地:群馬県高崎市北新波町字古城

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★★★



長野郷の中心に所在する砦■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、上記の箕輪城冒頭の行で長野氏について触れたが、この長野氏が勢力圏に置いた地域を長野郷と称する。
現在の地図で言えばJR信越本線の線路以北・上越新幹線の線路より西側の高崎市域が概ねそれに当り、かなり
広大な範囲を領有していた(だとすれば、箕輪城はかなり山に偏った地勢にある)訳だが、その上越新幹線と北陸
新幹線の分岐点から西へ目をやると、北陸新幹線の線路に沿って早瀬川と言う小河川が流れている事に気付く。
この川が群馬県道10号線と交差する地点には高崎市立長野小学校があって、まさにこの周辺こそが長野郷だった
事の証になるのだが、その小学校のすぐ北側にあるのが北新波(きたあらなみ)砦である。砦跡と小学校の間には
天台宗新波山満勝寺があり、その寺も土塁で囲まれていたとの事で、2つの囲繞された構造物が並ぶ軍事拠点を
構成していた可能性もござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
とは言え、砦の来歴は殆んど不明である。長野氏発祥の地なので、周辺には環濠遺跡が数多く点在し、また農業
用水確保の為の溜池が今でも残る地域(長野小学校の南側にも現存する)。環濠は戦時の砦と平時の治水機能を
兼ねた構造物で、現在確認されているだけで13箇所を数えると言うが、北新波砦は環濠と言うには平坦な地形で
少々性格を異にするようだ。ちなみに高崎市の道路台帳に書かれている標高を見ると、北新波砦中心点の標高は
122.2m、すぐ隣(東側)を流れる関端(せきはた)川河畔は120m程度、早瀬川も同等で2mの差しか無い。2mあれば
水利の管理は十分可能とも思えるが、砦の裏(北側)にある住宅地は何と122.9mで曲輪より高い数値を指す。更に
北側にある田圃は既に123mを越えるので、環濠を形成し得ない地形なのだ。単純に“微傾斜地”にある砦である為
形状から察するに、ここは微高地に築かれた武家居館と見るのが妥当であろう。■■■■■■■■■■■■■■
然るにその主は誰かと言う話になるのだが、1558年(永禄元年)長野氏の家臣録には新波新右衛門と言う給人が
記されている。地名から察するにこの者であろうか?新波氏は1563年(永禄6年)武田勢の先手である那波無理助
宗安が箕輪城と鷹留城(高崎市内、箕輪城の支城)との間を分断しようとした際、これを撃退したとか。また、新波
新右衛門自身は箕輪城の陥落時に戦死している。それ以上の事は分からぬまま廃絶した砦跡だが、周辺の遺跡と
併せれば、開拓領主から始まった長野氏(とその家臣団)が発展・興亡していく過程を示す史跡と言えよう。■■■
ちなみに、長野氏(新波氏)滅亡後の1576年(天正4年)この地を征服した武田四郎勝頼(信玄後継)が家臣の大井
小右兵衛尉満安に北新波で39貫文の所領を与えている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

実に綺麗な方形居館跡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
古くから館跡の存在は知られていたようだが、昭和後期まであたりは一面の耕作地であった。明治の地図を見れば
周りは桑畑、1970年代の航空写真を見ると砦の敷地(堀跡で四角く囲われている部分だけが目立つ)内にも細かく
作付けされていた様子が分かる。これに対して1981年(昭和56年)度から長野北部土地改良事業が始まり、砦跡は
1984年(昭和59年)〜1985年(昭和60年)度にかけて発掘調査が行われる事となった。断片的な範囲ではあったが、
その結果、砦の使用年代は15世紀後半から16世紀中頃、すなわち長野氏が勃興し箕輪城での決戦へ至る時代に
一致し、建物跡・井戸跡と言った構造物、土鍋・常滑焼の壺・こね鉢・茶臼などの生活用具類、古銭や墓石等が出土
している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
敷地は約75m四方の正方形をしており、南面中央部に出隅となる突出部が付く。現況で敷地4面(東西南北各面)に
出入口があるものの、東西は公園整備で作られたものだろう。北面はあったとしても搦手、元来の入口は南側のみ
だろうが、そこに対してこの出隅がガッチりと横矢をかけ、侵入者に対する睨みを利かせる構造。とは言え、形態と
しては典型的(伝統的)な方形居館であり、北新波「砦」と言う名になっているが実態は北新波「館」である。そんな
方形居館の要となるのが堀と土塁だが、発掘により堀は幅5m×深さ1.5mあったと推測され、土塁は2m程だった。
(堀の深さや土塁の高さはもっとあったと思うのだが…)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この結果を受けて1988年(昭和63年)8月2日、群馬県史跡に指定。更に1991年(平成3年)〜1992年(平成4年)の
工事を経て、美麗な歴史公園として整備されている。遺構保護として、堀跡には砂利が敷かれ、土塁上には生垣が
植えられて踏み荒らす事の無いような構造になっているが、それはそれで公園らしい景観を生み出していて安心
感がある。何より、公園化されているので駐車場・御手洗・東屋までもが完備だ。この東屋の中には北新波砦や
長野郷に関する展示物が並んでいて、歴史好きには“良く出来た公園”と感じられ申す。■■■■■■■■■■■
車が無いと辿り着くのに難儀する場所ではあるが、箕輪城へ行くのならここへも訪れて欲しい名城…いや、名砦?
いやいや、名居館である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域内は県指定史跡








上野国 保渡田城

保渡田城址 土塁

 所在地:群馬県高崎市保渡田町
 (旧 群馬県群馬郡群馬町保渡田)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

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■■■■



その始まりは明らかでないが…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、こちらは長野氏が滅んだ後の城郭。箕輪城の項にて、武田信玄の攻略を経て1570年頃から内藤昌豊がこの地に
入ったと記したが、その内藤昌豊が新たに築いた城である。場所は箕輪城から南東へ約3.4km、現在は保渡田(ほどた)
北部公会堂(公民館)の建つあたりだ。もっとも、昌豊の築城以前にも何かしらの城砦があったと考える説もあり、昌豊は
“改修”したと言う事だったのかもしれない。築城時期が特定されていないものの、明治初期に地誌制作を命じた太政官
布告を受けて編纂された「上野訓郡村誌(こうずけのくにぐんそんし)」では、保渡田城を「永禄年間箕輪城主長野信濃守
 業政ノ保砦タリ」と記し「長野氏滅亡後武田氏ノ臣内藤修理亮昌豊城代トシテ在住シ…」と説明する。また、長野業政の
跡を継いで武田軍と壮絶な死闘を繰り広げた業盛は、「保渡田腹」つまり保渡田氏の娘から産まれたとされているので、
長野氏縁戚である保渡田氏と言う一族がこの辺りに居を構えていたと考えられよう。■■■■■■■■■■■■■■■

内藤家の城 ――― “武田流”の「丸い城」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、内藤正豊が改修?築城?した保渡田城は、主郭を中心として、そこから時計回りに曲輪が渦を描き広がって
いく“渦郭式”とも呼べる縄張りで築かれている。渦郭式は世界遺産となった姫路城(兵庫県姫路市)や、天下の首府と
して徳川将軍家が都市整備した江戸城(東京都千代田区)と、限られた巨大城郭にのみ見られる構造であるが、流石に
保渡田城がそんな広大な規模を有した訳では無い。想定される城域はせいぜい東西300m×南北400m弱と言う程で、
主郭に限って言えば保渡田北部公会堂がある一角、東西75m×南北80mに過ぎない。では渦郭式の何に注目すべきか
考えれば、円弧を重ねて作る縄張り、即ち“丸い城”武田流築城術が大きく影響していると言う点だろう。やはりこの城は
内藤正豊の手によって作られた城なのでござろう。内藤正豊は信玄から箕輪城(この地域の拠点城郭)城代に任じられ
一方では保渡田城に「在住シ」たとあれば、箕輪城が公邸・保渡田城が私邸…と言った使い分けだったのだろうか。■■
長篠合戦で昌豊が戦死し、昌月がその地位を継ぎ、武田家が滅び織田家の占領を経て後北条家の配下になった経歴は
箕輪城の項で記した通りだが、箕輪城が北条氏邦の手に渡ったのに対し、保渡田城はそのまま内藤家の城として残った
ようでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで、江戸時代中期の1774年に曹洞宗鷲霊山釈迦尊寺(群馬県前橋市元総社町)の12世住職・泰亮(愚海)和尚が
記した上野の地誌「総社記」に拠れば、厩橋堀廻の城主・中川武蔵守に攻められ保渡田城は落城、城主の内藤外記は
1589年(天正17年)7月11日に曹洞宗満行山善龍寺(保渡田城の近くにある内藤家の菩提寺)で自刃したとされ申す。
内藤昌月はその前年、1588年(天正16年)5月25日に亡くなっているので、外記と言うのは後継者・源助直矩の事か?
いや、直矩も戦死した経歴では無いので一族の別の者か?厩橋堀廻の城と言うのは厩橋(前橋)城(群馬県前橋市)?
中川武蔵守なる者は…加賀前田家重臣の中川清六郎光重であろうか?何とも要領を得ない表現ばかりなのだが、もし
これが正しいなら、後北条家が豊臣秀吉から討伐される1590年に先立って上野国内では戦闘が始まり、内藤家の守る
保渡田城は前田家に攻め落とされた事になる。箕輪城は戦わず1590年に接収されただけなのだが、果たして…?■■

古墳と共に生きる城跡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城址のある保渡田町は、上越新幹線と北陸新幹線の線路が分かれた「Y」字の合間にある。この合間には井野川と言う
川があり、その支流である東谷川と大清水川が並走する中に挟まれた敷地が城地だった。城域に示した「東西300m」は
2つの川の距離そのものである。城の生存に必須なのが水利であるが、保渡田城はまずその条件を満たす場所を選び
かつ、この川を東西方向に対する天然の濠として利用したのだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、保渡田北部公会堂は南側に駐車余地となる広場があり(車はここに停められる)、その更に南に小高い丘がある。
この丘は主郭の南端を守った「天主山」と伝承される櫓台だが(実際に天守があった訳では無く、大きめの櫓程度だろう)
元々は天子塚古墳と言う墳丘(写真)である。内藤昌豊は古墳を転用して櫓を構えた訳で、そう聞くと如何にも罰当たりな
印象を抱くかもしれないが、当時は古墳を城として活用するのは当たり前の事なので、他にも例はいくらでもある。むしろ
ここで問題提議したいのは「何故この古墳なのか」と言う点だ。実は、保渡田の地は古墳群の町で、天子塚古墳どころか
もっと巨大な前方後円墳がゴロゴロ転がっていて、そっちの方が曲輪や濠が「既に用意されている」環境にある。八幡塚
古墳や二子山古墳は共に墳丘長が100mに達し、高さも10m近くあって、これを城として使わない手は無かっただろうに、
昌豊はそうしなかった…?直近に水(川)を欲したのか、それとも曲輪を大きく広げる為、むしろ固定された前方後円墳は
使いづらかったのか、「私邸」の城ゆえに居住性を優先したのか、色々考察できるのが面白い所だ。ともあれ、公会堂の
周辺にも断片的に土塁や堀跡が残るようだが、いずれも私有地(民家敷地)内なので余りじっくり見学する訳にいかない
保渡田城。どちらかと言うと、古墳群の方が明確な観光地となっているので(様々なTV広告などでも登場する)、そちらを
堪能する方が宜しいかと。もし保渡田城を重点的に見学するとしても、周辺住民の方に御迷惑をかけぬよう気を付けて。



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等








上野国 里見城

里見城址外郭部 城山稲荷神社

 所在地:群馬県高崎市下里見町
(旧 群馬県群馬郡榛名町下里見)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★☆■■■
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里見と言えば■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
里見の名で分かるように、房総の戦国大名・里見氏出自の地と伝わる城郭。■■■■■■■■■■■■■■■■
源氏分流である新田氏の始祖・新田左衛門尉義重の庶長子(3男とも)、太郎義俊(よしとし)は新田荘内の高林郷を
領した為、竹林(高林)六郎太郎とも呼ばれていた。その義俊は妾腹である事から新田の家督を継がず分家を興し、
上野国碓氷郡里見郷に所領を得て里見の家を成したのである。これが里見氏の創始として伝わる伝承で、この折に
義俊の館として築かれたのが里見城とされる。築城年は1154年(久寿元年)ないし1156年(保元元年)と言われるが
里見城を築いたのは義俊の子・里見氏2代の伊賀守義成(よしなり)で1192年(建久3年)の事とする説もあり、判然と
しない。いずれにせよ里見氏はこの城で代を繋ぎ、源平争乱期〜鎌倉時代〜南北朝期を過ごす。義成が源頼朝の
随臣となり里見氏は鎌倉幕府の有力御家人となるも、新田一族である事で分かるように鎌倉倒幕戦では新田左馬助
義貞(鎌倉攻撃を成功させた討幕軍の首領)に従い、そのまま南朝方へ与した。しかし最終的に北朝の足利幕府が
全国支配体制を確立させた為、里見氏もまたそれに従属、幕府の関東出先機関である鎌倉府からの統制を受ける
立場となり申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした中、鎌倉府の長である鎌倉公方・足利左兵衛督持氏(もちうじ)が京都の将軍に対して反旗を翻し討伐される
いわゆる永享の乱が1438年(永享10年)に発生。鎌倉府の指揮下にあった里見氏10代・民部少輔家基(いえもと)は
幕府軍と戦い敗退、続く1440年(永享12年)持氏の遺児らが挙兵した結城合戦にて敗死するのだった。■■■■■■
これで本領を失った里見氏は、家基の子で11代を継いだ刑部少輔義実(よしざね)が翌1441年(嘉吉元年)に安房国
白浜(現在の千葉県南房総市)へ渡り、かの地で再起を果たす事になるのである。斯くして里見氏は南総の雄として
戦国時代を生き延びていくのであるが、これにて里見城は主を失い廃城になったようだ。但し、義実の出自や経緯に
ついては諸説異論あり不明な点も多い。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、里見一族の中には当地に残留した者もいたようで、戦国争乱が激化していた時期の1558年頃に里見河内なる
者が里見城に入り、上野国の実力者である長野業政(なりまさ、上記の箕輪城主)の配下となっていた記録が残る。
しかし上野国には甲斐の武田信玄が侵攻の手を伸ばしており、遂に1566年長野氏に対する総攻撃が行われる中、
箕輪城に先立って里見城が陥落した。この城を落としたのは武田方の将・小宮山氏と言われ、これで完全に廃城と
なった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

里見城の構造■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
里見城の所在地は旧榛名町(現在の高崎市)内、国道406号線と群馬県道132号線の交差点から南西およそ250mの
位置にある小山。山城に分類できる城ではあるが、麓からの比高は最大で35m程、しかも山頂部はほぼ平らな平面を
成している為、丘城程度の構えである。なれど、周囲はかなりの急傾斜面で囲まれており要害性はそれなりにある。
平安末期の武家居館を起源とするならば、かなりの防御を整えた堅城だったと見る事もできよう。この山の北側には
西から東へと里見川が流れ、天然の濠も成している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の縄張は大きく見て2つの曲輪から構成されている。西側(最高所一帯)を東西100m×南北70m程の長方形をした
主郭として造成し(かつての方形居館の名残であろうか?)、その東側にはもっと細長い長方形の外曲輪を置く構造。
(ただし、古城とも称されるのでむしろ外曲輪こそが旧来の居館址なのか?)この2つの曲輪の南側全体を塞ぐように
腰曲輪が取り巻く。主郭の東〜南〜西にかけては高さ2.5mくらいの土塁が築かれて、外部との遮断を図った。また、
外曲輪との間は堀切を穿ち東西方向に長い城山の尾根を絶つ様子を見せている。このあたりはさすが山城といった
感じが見受けられよう。その外曲輪の北東隅、すなわち城全体の鬼門に当たる位置には稲荷大明神を置き、城内
鎮守としていた。この社は現在まで引き継がれ城山稲荷神社(写真)となっている。城山稲荷神社の前からは急な
坂道が麓に下っており、この神社までが城域であった事を如実に物語る。写真からも僅かに窺える通り、この社から
北側の眺望は抜群であり、往時は物見の役割も果たしていたように思える。ちなみに、里見川を挟んで北側、城の
主郭から真北300mの位置にももう1つ神社があり、そこは郷見(これも「さとみ」)神社と呼ばれている訳だが、城山
稲荷神社とは別物なので来訪時には混同せぬよう注意した方が良い。尤も、郷見神社もちょっとした丘に立地して
おり、そこは里見城の出城と考えられているので、こちらも訪れて損はないだろう。郷見神社には里見城の由来を
記した案内板も立てられている。逆に、城山稲荷には当社の由緒書きがあるだけで城についての説明板は無い。
城跡は1988年5月16日に当時の榛名町指定史跡となり、現在は高崎市が承継。■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡




高崎市南部諸城郭  前橋市内諸城郭