上野国 高崎城

高崎城 移築東門と乾二重櫓

 所在地:群馬県高崎市高松町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
★★■■■



鎌倉御家人・和田氏の子孫が創建■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国末期、関東へ移封された徳川四天王の一人・井伊修理大夫直政の築いた近世城郭だが、元来この場所には和田城と
呼ばれる古城が存在していた。その起源を紐解けば室町時代まで遡り、1428年(正長元年)に国人の和田義信が築城した
ものだと言う。一方で1774年(安永3年)に編纂された地誌「上毛伝説雑記」では1418年(応永25年)義信の子である信忠が
築城したと言う説を記している。いずれにせよ、この年代に和田氏の築城した城が和田城と言う事だろう。無論、和田氏の
祖先は鎌倉幕府草創期に源頼朝の宿老として隆盛を極めた和田左衛門尉義盛でござる。■■■■■■■■■■■■■
和田城の築かれた頃、関東地方の統制は室町幕府の出先機関・鎌倉府の長であるる鎌倉公方が行う事になっていたが、
実務を行ったのは鎌倉府の次官たる関東管領。この管領職は代々上杉氏が世襲しており、和田氏は一貫してその配下と
して行動していた。和田信忠は1438年(永享10年)に起きた永享の乱(鎌倉公方と関東管領の対立)で上杉方として参戦し
続く1440年(永享12年)の結城合戦でも上杉氏に従っている。結城合戦は、永享の乱で敗死した鎌倉公方・足利左兵衛督
持氏(もちうじ)の遺児が結城城(茨城県結城市)に拠って乱を起こしたものでござる。■■■■■■■■■■■■■■■
上杉顕定(上杉家の分家である越後上杉家の出自、山内(やまのうち)上杉家へ養子入り)が関東管領に就任する際には
和田城に逗留した後、鎌倉へ向かって就任の儀を執り行ったと言う。信忠の後、和田氏は信清―信種―信輝と代を継ぎ、
その右兵衛大夫信輝は1538年(天文7年)北条左京大夫氏綱と扇谷(おうぎがやつ)上杉修理大夫朝定(ともさだ)が戦った
折、やはり上杉方として戦に加わり戦死し申した。このように、和田城と和田氏は室町幕府体制が徐々に崩壊していく中で
戦歴を残していた訳だが、一方でこの頃から南関東には新興勢力である後北条氏が台頭し、同様に甲斐・信濃においては
武田氏が領土を広げつつあった。それに対する上杉氏は一族分家の集合離散で自らの力を失い、また旧体制での権益を
維持する方策は新たな時流から取り残されようとしていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

関東騒乱の激化と終焉■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1546年(天文15年)上杉氏やかつての鎌倉公方から流れを引く古河公方・足利氏ら旧体制の面々は、勢力挽回を目指して
後北条氏の最前線城郭・河越城(埼玉県川越市)を大軍で包囲した。もちろん、和田氏の軍もこれに付き従っていたのだが
戦略に長けた北条左京大夫氏康(この当時の後北条氏当主)は劣勢をものともせずに大打撃を与え、包囲軍を蹴散らして
しまうのである。遂に領国を支えきれなくなった関東管領・山内上杉憲政は本国の上野を放棄して越後へ逃亡、かの地で
勢力を蓄えていた長尾景虎に庇護を求めた。この結果、景虎が上杉氏に代わって関東へ出陣、後北条氏との戦いを繰り
広げるようになる。1560年(永禄3年)満を持して出兵した景虎は、関東諸勢力を糾合して翌1561年(永禄4年)に小田原城
(神奈川県小田原市)を包囲。無論、和田氏もこれに従っている。この時の和田氏当主は和田兵衛少輔業繁(なりしげ)だと
されている。ところが小田原城は天下の堅城、景虎と言えど落とす事は出来ずに撤退。■■■■■■■■■■■■■■
とりあえず小田原から退いた景虎は、憲政から上杉家の家督と関東管領の職を継承する事となり鎌倉で式典を行ったが、
その折、上杉方として参列していた武蔵国忍城(埼玉県行田市)主・成田下総守長泰が無礼を働いたとして、景虎あらため
上杉政虎から叱責されてしまう。面目を潰された長泰は政虎を見限り帰国する。これに伴い、参加していた関東諸将も兵を
引き上げた。和田業繁も政虎の傲慢に不信感を抱いたようで、以後、上杉氏には従わなくなる。■■■■■■■■■■■
折りしも上州は西から武田信玄の猛攻に晒されている頃。業繁は破格の大将である信玄への服従へと心変わりし、それに
対し政虎は1563年(永禄6年)2月、1565年(永禄8年)、1566年(永禄9年)7月と何度も和田城を攻撃したが、信玄の後詰も
あって落城せず窮地を脱した。このように和田城は武田方の最前線城郭として上杉政虎、すなわち謙信の喉元に突きつけ
られていた城だったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、信玄没後は武田四郎勝頼が武田家の家督を相続。勝頼は西進策を採り東海地方へ進出し、織田信長と対立した。
1575年(天正3年)長篠で対陣した両軍の中、和田業繁も武田方の将としてその姿を現していた。この一大決戦において、
武田方は大敗を喫す。業繁は傷を負いながら戦場を脱したが、この怪我が元で没してしまう。後を継いだのは娘婿の和田
右近衛大輔信業(のぶなり)である。上杉謙信が病に斃れ、武田家もまた1582年(天正10年)3月に滅ぶと時流を見た彼は
織田信長に臣従。信長から関東管領に任じられた滝川左近将監一益(かずます)に人質を差し出したほどだ。■■■■■
ところが信長も同年6月、本能寺の業火と消えた。斯くして上野国は小田原後北条氏が進出する地となり、結局信業は北条
左京大夫氏直に従うようになった。以後、和田氏は後北条氏麾下として関東各地の戦いに赴くが、その後北条氏は1590年
(天正18年)、天下統一に王手をかけた豊臣秀吉から最後の敵として討伐を受ける。和田信業は後北条氏の本拠を守るべく
小田原城へ赴き籠城、和田城の留守は信業の子・業勝を擁した柴田弥次郎らが守備する。しかし豊臣軍の攻勢は容赦なく
和田城へも及び、前田又左衛門利家・上杉左近衛権少将景勝らいわゆる北国軍によって4月19日に攻め落とされ申した。
和田業勝は落ち延び、後に保科氏(武田遺臣にして徳川旗本となった)に仕えたそうだ。また、信業も小田原城から脱したと
言うが和田城には戻らず、高野山へ追放となった北条氏直に付き従った。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうして用済みとなった和田城は廃城となったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

井伊直政による新規築城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
前置きが長くなったものの、ようやくここで井伊直政が登場する。後北条氏の敗北により関東には徳川家康が入部。江戸に
入った家康は領内要所に家臣団を配置、上野国には12万石で直政が配された。当初、直政は上州屈指の城である箕輪城
(高崎市内)へと入城したのであるが、箕輪は山間地にあるため次代を睨めば大掛かりな城下町や耕作地が開けず、統治に
不向きと判断された。これにより1597年(慶長2年)家康の命に従って和田城の旧地に新たな城を計画したのである。■■■
省みれば和田の地は三国街道と中仙道(後に中山道と改記)の合流点にして江戸と越後・信濃へ至る交通の結節点であり
徳川領防衛における北の要だった。また、旧和田城は烏川(からすがわ)東岸の急崖にある天然の要害。城の西側の守りを
烏川の断崖に委ね、東側には広大な城下町を形成できる地形だったのである。近世城郭の築城適地とされた和田で直政は
工事に着工、まだ未完成ながら翌1598年(慶長3年)に早くも箕輪から居を移している。新城の誕生にあたり、直政は地名を
高崎に改称。当初、直政は「松ヶ崎」と命名しようと考えていたが箕輪城下にあった曹洞宗松隆山恵徳寺の龍山詠譚和尚が
「松は枯れる事がある、されど高さには限りがない」という吉祥を授けた事から「高崎」としたのである。■■■■■■■■■
これにより近世城郭としての高崎城が創建された。築城の際、直政は和田城の縄張りを一新して高崎城を構えた。よって、
旧和田城の遺構は殆んど残らず、新規築城として高崎の城が出来ていく。烏川に面した城の最西部は天然の地形に沿って
容取られ、西郭を形成。これが旧来の和田城地であるという。西郭の南部は西ノ丸・瓦小屋曲輪、西郭の北部が榎郭となり
時計回りに南から西ノ丸〜西郭〜榎郭と囲う真ん中に、ほぼ長方形を成す本丸が置かれている。本丸の東側出入口には
角馬出の梅ノ木郭、それを輪郭式に囲んで二ノ丸、さらに三ノ丸が広がる縄張りである。近世城郭らしく、不要な屈曲は廃し
直線を基調としながらも要所要所に入隅・出隅の横矢が掛かっており、高崎城の縄張りが計画的に行われた事を如実に
物語る。これらの曲輪は大半が土塁と堀によって固められているが、本丸の一部など重要な箇所には極めて限定的ながら
石垣も用いられていた。なお、高崎築城と共に箕輪城下町の移転が図られ、箕輪に在った町屋や寺社がこぞって高崎へと
移転し、近世高崎の町を形成している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その直政は1600年(慶長5年)関ヶ原合戦後に近江国佐和山(滋賀県彦根市)へ移封。佐和山は関ヶ原西軍の首領・石田
治部少輔三成の旧領だ。家康の信篤い直政は、三成の遺風を払底すると共に西国監視の任を任されてかの地に赴いた
訳だが、結果として高崎在城は3年ほどでしかなかった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1604年(慶長9年)下総国臼井(千葉県佐倉市)3万7000石から移され、新たに高崎城主となったのは酒井左衛門尉家次。
直政と共に徳川四天王と称えられた酒井左衛門督忠次の長男、高崎での石高は5万石。酒井家は徳川譜代功臣であり、
家次も大坂の陣で身を粉にして働き1616年(元和2年)越後国高田(新潟県上越市)10万石に加増転封された。高崎には
2万石で常陸国笠間(茨城県笠間市)から戸田松平丹波守康長が入府するものの翌1617年(元和3年)に7万石で信濃国
松本(長野県松本市)へ再移封。続いて常陸国土浦(茨城県土浦市)から入ったのは藤井松平安房守信吉、石高5万石。
ところがこれも僅か2年のみの話で、1619年(元和5年)10月に丹波国篠山(兵庫県丹波篠山市)へと移される。代わって
下総国小見川(千葉県香取市)より入ったのが安藤対馬守重信、5万6000石。安藤氏は3代に渡って高崎城主を継承し、
ようやく安定した統治期を迎えた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

安藤氏による改修の様子■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
高崎に入った重信は高崎城の改修工事に着手、この工事は安藤氏3代の間継続され、合計77年の長きに及んでござる。
1621年(元和7年)6月29日に重信が死去すると、家督を養嗣子の右京亮重長(重信の外孫)が継ぎ、1657年(明暦3年)に
重長が没すると、同様に嫡孫の対馬守重博(重博の父・式部少輔重之(重長嫡男)は早世していた)が跡を継承。■■■
この頃の高崎城で特筆すべき事件と言えば、1631年(寛永8年)5月に驕暴の振る舞いで3代将軍・家光の勘気を被った
駿河大納言・徳川忠長(家光の実弟)が、所領の駿河を没収されて翌1632年(寛永9年)高崎に幽閉された事であろう。
重長の統治時代の話である。忠長は何度となく赦免を乞うが許されず、遂に1633年(寛永10年)12月6日、蟄居先の高崎
城内で自刃するに至った。享年28歳。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ここで高崎城本丸の櫓群について説明したい。南北に細長い本丸の中央部西端には天守代用とされる御三階櫓が聳え
高崎の町を睥睨。この3重櫓は「御櫓」という敬称で呼び習わされていた。また本丸の四隅(北東・南東・南西・北西)には
隅櫓が建てられていた。安藤時代の改修工事によりこの隅櫓にも手が加えられたようで、少なくとも移築現存する乾櫓
(北西隅櫓、詳しくは後記)に関してはそれまで土蔵同然の平櫓であったものが重博の頃に2重櫓へ改築されたと、享保
時代(1716年〜1736年)の著作「高崎城大意」に記されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1695年(元禄8年)5月、加増され6万5000石とされた安藤重博は備中国松山(岡山県高梁市)へ転封。同月10日、下野国
壬生(栃木県下都賀郡壬生町)から5万2000石で高崎へ入った大河内松平右京大夫輝貞は次々と加増を重ね、1701年
(元禄14年)に6万2000石、1704年(宝永元年)12月26日に7万2000石とされ申した。輝貞は1710年(宝永7年)いったん
越後国村上(新潟県村上市)へに転封されていき、代わって5月23日に高崎へ入ったのが、かの有名な間部越前守詮房
(まなべあきふさ)、石高5万石。6代将軍・家宣、7代将軍・家継の側用人として権勢を振るった詮房は、猿楽師であったと
いう出自から昇進して、将軍の信任により北関東枢要の地たる高崎城主にまでなったのだ。ところが、8代将軍・吉宗の
時代になるとその権勢は失われ、高崎を追われる事となる。1717年(享保2年)越後村上5万石に転封され、村上にいた
輝貞が高崎に返り咲いた。以後、大河内松平家が幕末まで城主の座を維持。■■■■■■■■■■■■■■■■■
老中格にまでなった輝貞の隠居後は養嗣子の右京大夫輝規(てるのり)が相続し、さらにその後を継いだ右京大夫輝高
(てるたか、輝規長男)は寺社奉行や大坂城代、京都所司代など要職を歴任して老中にまで出世、1779年(安永8年)12月
15日には1万石を加増され合計8万2000石にまで所領を増やしている。一方、領内の特産品である絹に課税を行なおうと
したところ大反対となり、1781年(天明元年)7月に一揆を起こした農民らは高崎城下で打ちこわしを働き遂には高崎城へ
攻め掛かったという。これを絹一揆と呼び、結局課税は撤回された。太平の世にあって高崎城は一揆勢相手の攻防戦を
経験したのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この騒動に困憊した輝高はその年の内に死去。後を嫡子の右京大夫輝和(てるやす、輝高2男)が継ぐ。以後、右京大夫
輝延(てるのぶ、輝高の3男)―右京亮輝承(てるよし、輝延の3男)―右京亮輝徳(てるあきら、輝承の養子)―右京亮輝充
(てるみち、輝徳の養子)―右京亮輝聴(てるとし、輝充の養子)―右京亮輝聲(てるあき、輝聴長男)と続き明治維新を
迎えている。版籍奉還後も輝聲は知藩事の座にあったが、廃藩置県により東京へ移住した。■■■■■■■■■■■

廃藩後は軍用地、そして公共施設群に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1871年(明治4年)10月、高崎城を利用して群馬県庁とされたが、一方で1873年(明治6年)の廃城令において存城の扱い
(軍管理地となった城郭)となった城内には陸軍第1軍管区第3師団分営所(東京鎮台高崎分営第9大隊)が設置された。
その結果、手狭となった城から県庁機能が移転する事となり前橋へ。当時、群馬県と埼玉県および栃木県は統廃合を
繰り返しており、1876年(明治9年)再び高崎に県庁機能が戻るものの既に城内は陸軍の占有地となっていて、庁舎を
設置できなかった。紆余曲折の末、群馬県の県庁所在地は前橋となったが、住民には大きな混乱があったという。■■
ともあれ、陸軍管轄となった高崎城は敷地の改変・建造物の処分が行われ、堀の埋め立てや土塁の切り崩し、櫓などの
破却・売却が進められた。こうして確保された空間は練兵場となったり兵舎の建築が為され、明治初年に撮られた高崎
城内の古写真には、天守代用三重櫓の前に洋風の兵営が立ち並ぶ姿が納められている。もっとも、この三重櫓も破却
対象となり滅失。1884年(明治17年)歩兵第15連隊が置かれて以後、1945年(昭和20年)8月15日の終戦まで、城地は
軍のものであった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦後、城の敷地内には高崎市役所をはじめとする公共建造物が建築されるようになった。現在、高崎城の遺構として残って
いるのは三ノ丸外縁の土塁と堀だけである。この土塁と堀は幅・高さ共に往時の規模を維持しており、城郭愛好家としては
必見の見所であろう。また、明治にいったんは売却されて城外へと移された建造物が、僅かながら城地に再移築されて
残存する。一つは三ノ丸東門、もう一つは本丸乾櫓だ。東門は大手門の南およそ240mの位置、出枡形の東面を塞いだ
平屋門で、脇にくぐり戸が附された通用門であった。築城以後、1798年(寛政10年)の正月と1843年(天保14年)12月の
火災で焼失したが建て直されたもの。こうした修築履歴により、築城当初のものより低くされ、乗馬では通り抜けられぬ
高さになってござる。その一方で、くぐり戸は乗籠がそのまま通れる大きさとなっており、江戸時代を経て太平の気風に
合わせた変化が感じられると言えよう。明治維新の後、下小鳥町(高崎市内)の名主・梅山邸に払い下げられていたが、
1980年(昭和55年)2月、高崎和田ライオンズクラブの手によって譲渡を受け高崎市へ寄贈、現在の場所に再移築となった。
同年3月11日、高崎市指定重要文化財に。一方、乾櫓は本丸の北西に置かれていた2重櫓だ。上記した「高崎城大意」には
「もとこの櫓こけらふきにて櫓作りになし二階もなく土蔵などの如くなるを先の城主腰屋根をつけ櫓に取り立て」とある。
(先の城主とは安藤重博の事)つまり、それまでは粗末な土蔵程度の規模だった隅櫓を改修して現在の様式に改めた訳で、
2重2階、腰屋根を廻らせた白漆喰塗込の大壁で固められて、本瓦葺入母屋造りの屋根を乗せている。屋根の切妻は
狐格子の紋様で飾られ、破風板には懸魚がかけられていた。現在ではこの屋根に鯱が揚げられているが、これは市内
栗崎町の五十嵐邸に保管されている旧遺構の鯱を複製したもの。また、屋根瓦の大半は下滝町(同じく高崎市内)の
天田氏が所有していた旧高崎城の残存品を集めて葺かれている。建物の構造は初重と2重目が同じ面積の、いわゆる
“重箱櫓”で、梁間2間×桁行3間の大きさ。初重東面は左側に鉄格子を組み込んだ窓1箇所、右側に引き戸の戸口が
切られ、他の壁面(北・西・南の上下階と東面2階)にはそれぞれ2箇所ずつ、同様の窓が開いていた。東門と同じように、
明治期に梅山邸へと移され、農業を営んでいた同家の納屋として利用されていたのだが、1974年(昭和49年)9月6日に
現存する群馬県内唯一の城郭櫓建築として県の重要文化財に指定されたため、梅山氏から高崎市へと寄附を受けて、
東門に先立つ1977年(昭和52年)高崎城旧三ノ丸跡地へ移設されてござる。こうした経緯より、現状では乾櫓と東門が
並ぶように建てられているが、どちらも本来は別の場所にあったものを展示のために1箇所にまとめて現在地へ移した
ものである。また、乾櫓は東西南北を回転させているため、戸口が西面になっている。加えて書き記すと、納屋として
使われた際に改変を受けた為、西面(旧来の東面)初重の窓は廃され、本来右脇にあった戸口が壁面中央に切られた
状態で現在は保存されており申す。なお、両建築物の周りに建てられている鉄砲狭間を切った塀は景観を整えるべく
増築された模擬建築物であって、残存遺構ではない。櫓が石垣の上に建てられている状況も、土台固定のためであり
この石垣は本来なかったものだという点に注意されたい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
他、市内にある曹洞宗赤坂山長松寺の庫裡は徳川忠長が自刃したという書院が移築されたものだという。修景のため
乾櫓や東門に接続して建てられた塀は、市内金古町の天田邸(乾櫓の瓦を提供した天田氏とは別の宅)に移築された
旧城の塀を参考にしているとの事。城地が潰されてしまったのは残念であるが、このように点在する遺構が残されている
高崎城。何より、三ノ丸の土塁と水堀の作り出す景観は圧巻で、よく市街地のド真ん中にこれだけの規模で残っていると
(市街交通上では一番邪魔な場所なので)感心させられる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この土塁・堀を代表とした高崎城址は1982年(昭和57年)2月17日、高崎市の史跡になっており申す。■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁
城域内は市指定史跡

移築された遺構として
本丸乾櫓《県指定重文》・三ノ丸東門《市指定重文》
長松寺庫裡(旧高崎城御殿書院)・金古町天田邸塀(旧高崎城塀)
栗崎町五十嵐邸保管鯱瓦








上野国 下斎田城

下斎田城跡

 所在地:群馬県高崎市下斎田町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★■■■
■■■■



今なお現役の居館■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
関越自動車道下り線の高崎玉村SIC出入口から南南東へ丁度500m、高崎市下斎田町(しもさいだまち)の中にある
1軒の民家がそのまま下斎田城(下斎田館)址でござる。築城年代は恐らく戦国時代、この地の土豪・田口氏の館で
現在もなお、その御子孫の方の御住居となっているという“現役の城館”だ。田口氏は鎌倉時代の有力御家人として
有名な安達藤九郎盛長(あだちもりなが)の家臣だったという一族で、高崎市周辺一帯には田口姓の一門衆が多数
居住していた。即ち、田口氏の城館は他にも多数ある中の1軒がこの下斎田城という訳である。下斎田城の田口家は
後に帰農し、江戸時代になると名主を務めるようになった為、ここは城であると同時に名主屋敷でもあった。幕末の
奇才・小栗上野介忠順(おぐりただまさ)の采地はこの下斎田田口家の管理下にあったと言う。■■■■■■■■■
敷地は東面が約80mの長辺、西面が65m程の短辺となる台形。この四角形の敷地をぐるりと濠が囲い、今なお水が
満々と湛えられている。敷地の内側を固める法面には石垣も構築されているが、工法から見てこれは後世のもので
あろう。さりとて、水濠に石垣の組み合わせは館の威厳をより一層増して見え(写真)、初見にて感動を味わえること
請け合いだ。やや荒れた石垣が更に郷愁を誘い、風情を醸してまた良し。しかしそこは現役の住宅、濫りに騒いだり
立ち入ったりしないよう十分配慮すべし。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、この田口氏宅の入口(そう、水濠を越えて立ち入るので一般民家ながら「大手口」が存在するのである)には
長屋門が構えられている。この門は1938年(昭和13年)に建てられたもので、住居や作業小屋等の部屋を両側に
備え、欅の一枚板を使った豪華な門扉を有する重厚な建物だ。城郭時代の遺構ではないものの、存在感は十分で
これまた館の威容を増しており申す。この長屋門をして、下斎田城の光景は1998年(平成10年)第3回たかさき都市
景観賞を受賞している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭








上野国 倉賀野城

倉賀野城趾碑

 所在地:群馬県高崎市倉賀野町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 あり

■■■■
■■■■



河越夜戦での敗死が有名な倉賀野氏…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
鎌倉時代からここに土着していた豪族・倉賀野(くらがの)氏累代の城館。武蔵国北部〜上野国西部の武士団として
児玉党があり、その中にいた秩父三郎高俊がこの地に入部、倉賀野氏を称したのが始まりで、鎌倉幕府成立期には
将軍・源頼朝の随臣として倉賀野三郎の名がある。即ち、この倉賀野三郎高俊が館を構えたのが倉賀野城の創始で
構築年代は恐らく治承年間(1177年〜1181年)の頃ではないかと見られてござる。■■■■■■■■■■■■■■
高俊以後、秀行―行澄―行泰と代を重ね、南北朝時代である光行もしくは頼行の頃、応永年間(1394年〜1428年)に
館を大改修して城郭化、これにて倉賀野城の築城とする説もある。この時代になると倉賀野氏は関東管領・上杉氏の
配下として活動しており、例えば結城合戦において「倉賀野左衛門五郎」が上杉軍の一角として結城城攻めに参加。
頼行以後の代は且行―綱泰―近行―行信―行政と続くが、この左衛門五郎は近行の事か?■■■■■■■■■
戦国時代も中庸になると、新興勢力である小田原後北条氏と関東旧体制である関東管領・上杉氏の対立が先鋭化。
失地回復を目論む上杉氏は諸勢力と一大連合軍を編成して後北条方の河越城を包囲、これに倉賀野勢も上杉方の
配下として参戦している。しかし後北条軍は10倍とも言われる兵力差を跳ね除けて夜襲を敢行、連合軍は大混乱に
陥り潰走する事になった。この河越夜戦において、何と倉賀野家当主・三河守行政は戦死してしまうのである。彼の
後継である為広も程なく没したため、倉賀野城主の座は幼少の左衛門五郎尚行(なおゆき)が継ぐ事になり申した。

幼児当主を守るため家臣奮戦■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし戦国乱世の中、幼い子供が城主とあっては城を守るのもままならない。普通ならば城が落とされ没落するか、
さもなくば内乱でも起こって城が乗っ取られるものだが、倉賀野家中では“倉賀野十六騎”と呼ばれる家臣団が団結、
幼君を補佐して城を守ったのである。尚行は上杉謙信の関東出兵に度々従って出陣する等して変わらず上杉家への
忠誠を果たし、また甲斐の武田信玄が何度も上野国を侵犯せんとする中、箕輪城主の長野信濃守業政(なりまさ)と
共同して武田軍の撃退に働いている。謙信(上杉氏)の本拠は越後国であるため、実質的に上野国を統括するのは
業政と位置付けられ、倉賀野城は箕輪城の支城として機能するようになっていった。謙信の関東出兵を押し返す如く
後北条氏が上州へ出兵し、1561年12月に倉賀野城も包囲されたが落城せず持ち堪えている。1562年(永禄5年)には
武田軍が倉賀野城下に迫り苅田狼藉を行うも効果なく、翌1563年になると後北条・武田共同軍が倉賀野城に迫るも
これは“十六騎”の橋爪若狭守らが奮戦し、また上杉謙信が後詰を出した事もあって包囲を解くに至った。■■■■
ところが孤高の名将・長野業政が病没すると、武田軍の攻勢に上野国の防衛はおぼつかなくなる。倉賀野十六騎の
1人であった金井小源太秀景(かないひでかげ)は次第に信玄へ内通し、遂に武田方へ寝返る。その上、あろう事か
旧主・尚行に対して牙を剥き、1565年に倉賀野城を攻め落としたのだった(城の陥落はその前年とする説もある)。
先に記した「城が乗っ取られる」という事例が、尚行の擁立から約20年を経て現実のものとなってしまったのである。
謙信は尚行が「若輩故、油断を以て地利を兇徒に奪はれ候」と評したようだが、城を奪われた尚行は越後へ逃亡し、
後に倉賀野城奪還を目指して東上野に潜伏した事もあったが、果たせぬままに終わった。■■■■■■■■■■■
一方、武田家の城となった倉賀野城に於いては1570年(元亀元年)あの金井秀景に城が与えられた。しかもこの折、
秀景は名族である倉賀野家の名跡も継承、姓を改め倉賀野淡路守秀景と名乗るようになる。武田家の滅亡後、彼は
織田信長の関東方面軍司令官・滝川一益へと臣従するも、直後に本能寺の変が起こって織田家が東国から手を退く
事になり、以降は後北条家へ服従するようになり申した。なお、関東から撤退する一益は倉賀野城に立ち寄り別れの
杯を交わした後、信濃へ落ち延びて行ったと言う。これに対し秀景は、信濃までの道中に警護役として付き従ったとの
逸話が残る。他方、後北条氏に与した後の倉賀野城へは垪和(はが)伯耆守広忠なる人物が派遣されて、上野国の
統治を統括したとか。垪和広忠とは、後北条家重臣・垪和伯耆守康忠の事か?■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、その後は1590年の小田原征伐により倉賀野城も豊臣勢に攻められ、降伏・開城したものと思われる。城主
倉賀野秀景は小田原城の防備に赴いていたが、後北条氏の降伏直後に死没している。これにより倉賀野城は廃絶。
秀景の血統は以後、歴史の表舞台から消え去った。一方で上杉家に帰属する事になった尚行は、主家の転封に従い
越後から会津、更に米沢へと移って行ったものの命脈を繋ぎ、どこまでも上杉家臣として後裔を残したそうな。■■■

川の合流地点という要地だが■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の場所はJR倉賀野駅の南方、烏川が粕沢(かすざわ)川と合流する地点の北岸一帯。ここで烏川は大きく曲がり、
あたりは自然堤防の起伏を成しており、この地形を利用し川を背後に背負った“後ろ堅固の城”となっている。現状で
雁児童公園となっている部分を主郭として、そこから西〜北〜東を覆うように二郭が囲い、同様にその外側を三郭や
外郭が巡っていた輪郭式(を半分に切った)縄張だったそうで、城全域の規模は東西に約740m×南北370mほどの、
かなり大きなものだった。東西は横町公民館〜倉賀野神社、南北は旧中山道(群馬県道121号線)の1本北側にある
路地から烏川の河岸崖面まで、と推測される。無論、倉賀野高俊が築いた当初の“倉賀野館”は主郭部一帯のみの
単純な方形居館であっただろうから、戦国時代にかけて相当な拡張が行われた事になる。しかしながら、今ではその
全てが宅地化され、ほぼ全域で土地が均されてしまったので遺構らしきものは見受けられないようでござる。ごくごく
断片的ながら、堀や土塁の痕跡が広範囲に点在しているそうだが、それを探すとなるとなかなか根気が要るような…
むしろ、雁児童公園からすぐ直下に烏川の川面を見るに、断崖で守られこちら側からは敵が攻め寄せられない情景を
想像する方が面白かろう。河畔と公園の比高差は10mを越え、崖端城としての効果は抜群だ。ちなみに、児童公園の
名前が「雁」となっているのは倉賀野城の別名が雁城である事に由来してのもの。■■■■■■■■■■■■■■
写真はその雁児童公園にある倉賀野城趾碑。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁








上野国 木部城

木部城(木部館)跡 心洞寺

 所在地:群馬県高崎市木部町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

■■■■
■■■■



“蒲冠者”源範頼の後裔■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この地の国人・木部(きべ)氏の城館と伝わる。木部氏は源頼朝の弟・三河守範頼から繋がる系譜の吉見(よしみ)氏が
石見国木部荘(現在の島根県鹿足郡津和野町)に派生してその姓を名乗るようになり、後に上野国緑野(みどの)郡へと
移ったものだと云う。これは木部範時の娘が古河公方・足利成氏(しげうじ)に嫁いだ縁から移居したとの話だが、一方で
武蔵国の武士団・猪俣党から分流する一族の中にも木部氏を名乗る者がおり、出自は不明と言わざるを得ない。当然、
この城の創建についても、年代・築城主ともに不詳でござる。一般的に木部城跡とされているのが現在の曹洞宗龍谷山
心洞寺の境内一帯で、この寺には城主・木部氏の墓所も構えられているが、他方、ここは木部氏の館跡であり、城郭は
寺の南西側に、館とは別の形で造成されたとする説もある。確かに、その一帯の地割を見ると方形主郭の周りを外郭が
取り囲んでいるような様態に見えなくもないが、いずれにせよ木部町域が全体的に木部氏の城館跡だったのだろう。
ともあれ戦国時代の木部氏について記すと、木部駿河守範虎は箕輪城主・長野業政の4女を娶った事で長野家臣団の
有力者に組み込まれる。必然的に木部城も箕輪城の支城化した事だろう。上記した、館と城が別だとする説に於いては
木部城の築城(館はそれ以前から在ったと云う事になろう)が永禄年間(1558年〜1570年)とされるので、この頃の話に
該当する。箕輪城攻略を進める武田信玄は木部城へも攻撃を行い、木部勢はその撃退に活躍していたという。さりとて
相手は戦国最強と謳われる武田軍。1563年の倉賀野城攻めにおいて、武田軍は木部城を占拠し本陣にしたと言うから
木部一党は城を捨て、箕輪城へ退却したようでござる。その後も箕輪に拠った木部勢は武田方へ抗していたが、肝心の
箕輪城が落城してしまい長野氏が滅びると、範虎は武田軍の囲みを突破して逃亡しようと図ったそうだ。この際、業政の
娘である範虎夫人は武田軍の跳梁に絶望し御付きの腰元と共に榛名湖に入水してしまったとか。結局、範虎は囲みを
抜け出ることが出来ず武田軍に捕まったが、その剛勇ぶりを信玄に見込まれ武田家臣に取り立てられたそうだ。■■■
これ以後、木部氏は武田氏に追従するようになるものの、その武田氏も1582年に織田信長から一大攻勢を掛けられて
滅亡の時節を迎える。この折、範虎は落ち延びる武田勝頼に最後まで付き従って天目山まで戦い続け、勝頼に殉じた。
武田譜代家臣や一門衆までが勝頼を見捨てるようになった天目山の戦いにおいて、外様(しかも他国衆)の木部範虎が
主君と死出の旅路を共にしたというのは驚愕すべき話であろう。単に逃げる機会を逸したのか、それとも勝頼が然程に
慕うべき主君だったのか、範虎が忠義に篤い人物だったのか、或いは何か裏があったのか…。■■■■■■■■■■
範虎は没したが、嫡男・宮内少輔貞朝(さだとも)は武田家を滅ぼした信長側つまり滝川一益の号令下に従い、滝川が
関東を去った後は小田原後北条氏に臣従し、木部家の命脈を繋いでいる。その後北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、
高野山へ追放された北条左京大夫氏直に付き従い、貞朝も高野山へ赴いている。伝承では、貞朝は京で病死したとか
それとも氏直の病死に殉じて追腹を切ったとか。結果、木部家の家督は貞朝の弟・小次郎直高が継ぎ、その嫡子たる
藤左衛門直時は2代将軍・徳川秀忠に仕え江戸幕府の幕臣となったのだが、直時の曾孫・直年の代に不祥事を起こし
改易されてしまったそうだ。とまぁ、ここまで木部氏の歴史を記してはみたが、武田軍に占拠されてから後、どのように
この城が使われたのかは皆目分からない。現状、心洞寺の境内には断片的に土塁の欠片が見受けられ、城の遺構と
言われるが、果たしてその信憑性はどれほどのものか検証が必要でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■
それにしても、木部範虎は服従先の武田家に心中するする形で命を落とし、貞朝も鞍替えした北条氏直に殉死したと
伝わり、直年も徳川家から改易されるなど、とかく木部氏歴代の当主は主君のあおりを食って損をする事例の多い事…
(当人はそう思ってなかったのかもしれないが)。顧みれば、祖先の源範頼が兄・頼朝へ従順に従いながら、ちょっとした
不手際で歴史上から抹殺された訳で、もはやこれは木部氏の血筋なのであろうか?真摯と言えば真摯、愚直と言えば
愚直なのが木部氏と言う事か。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで江戸時代になると榛名湖の水を汲んで田畑に撒くと雨が降るという雨乞信仰が流行るようになり、関東各地で
榛名神社へ詣でる為の宗教集団「榛名講」が組織されるようになった。こうした榛名信仰の中、木部城の所在地だった
木部村は榛名湖の神と特別な繋がりがあると信じられて、木部村の民は各地の村々から榛名講の代理人を依頼される
事が多かったという。また、木部村の中では榛名神社の御神水を木部城主の墓前に供えると雨が降るとの雨乞祈願が
信じられていたとも。これらは総て、木部範虎の妻で長野業政の娘である長野姫(木部姫)が榛名湖に身を投げたとの
悲話から生まれた民間伝承でござれば、城は滅んでも人々の心に生き続けた事を物語っている。■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群








上野国 山名城

山名城址碑

 所在地:群馬県高崎市山名町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
■■■■



あの「山名氏」発祥の地?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で寺尾城・寺尾下城・寺尾前城など。この山塊一帯にいくつかの城塞があり、それを総称して寺尾城としているので
寺尾城砦群の中で下城あるいは前城と呼ばれるのがここ山名城の事のようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■
この城の来歴についてはいくつかの伝承が綯い交ぜになっているようで、その話は1本の糸に束ねる事は出来ないらしく
あくまで「あの話」「この話」が別々に存在してござる。まず最初の伝承から挙げると、古来から上野国の名族として名を
馳せたのが源姓新田氏、源氏棟梁・八幡太郎義家の孫である太郎義重が新田荘(群馬県太田市)へと入封した事から
新田姓を名乗ったものにして、その子孫が鎌倉幕府の打倒で有名な小太郎義貞だが、新田義重の庶子・太郎三郎義範
(よしのり)は山名郷に分知し、山名姓を名乗るようになった。この山名伊豆守義範の築いた城が山名城だと云うもの。
父・新田義重は源頼朝が平氏打倒の旗揚げをするに際し、傘下に入る事を渋り不興を買ったが、子の義範はいち早く
頼朝に帰順し、「父に似ず殊勝」と褒められたそうだ。これは山名氏が新田氏と対立関係にあった足利氏と遠戚関係を
結んでいた為らしい。義範の後、義節―重国―重村―義長―義俊―政氏―時氏と続いて室町時代を迎えるのだが、
山名城はこの山名氏8代の間、その居城として使われていた…と言うのが山名氏創建説の結び。なお、山名政氏・時氏
父子は南北朝対立において一貫して北朝方、即ち足利氏方として行動し、南朝方に与した新田宗家とは立場を異にして
いる。これまた、時氏の母(政氏の正室)が上杉左衛門督重房の娘であり、足利尊氏の母・清子(きよこ)は上杉重房の
孫娘だという血縁関係に拠るもので、山名氏は新田家の分流とは言え足利氏の方が重要な縁戚だと認識していた事の
現れだろう。結果、山名氏は室町幕府の中で三管四職(さんかんししき)の1家に数えられる実力者にして、最盛期には
全国の6分の1の令制国において守護職を任じられる「六分の一衆」と呼ばれるまでの隆盛を見せた。そう、応仁の乱で
西軍の総帥となった山名宗全(そうぜん)を生み出した山名氏、その起源となる城が山名城だったのでござる。■■■■

南朝方の抵抗拠点??■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
次なる伝承は南北朝時代、尹良(ゆきよし、これなが、或いはただながとも)親王なる人物が築城したという話。この尹良
親王は宗良(むねよし)親王の子と言われ、宗良親王の父は後醍醐天皇であるため、系図上は後醍醐帝の孫という事に
なる。南北朝の動乱に際し、後醍醐天皇は自身の皇子を全国各地に派遣して地方勢力を糾合しようとしたが、その中で
宗良親王は遠江国井伊谷(いいのや、静岡県浜松市北区)に赴いて現地の豪族・井伊氏の娘を娶り、そこで生れたのが
尹良親王だとされている。尹良親王も長じて南朝方隆盛のために全国を飛び回り、1398年(応永5年)8月もしくは1400年
(応永7年)1月に「寺尾城」へ入ったと言うのである。この寺尾城と言うのが、冒頭に記した寺尾城砦群を指すと考えられ
親王の入城に際し、城砦群の一角を構成する山名城が構築されたとするもの。新田荘に根付く新田氏(南朝方)と共に
北関東の覇権を握ろうとした戦略だったようだが、肝心の新田氏が没落したために功を奏せず、親王は信濃へと落ちて
行ったという筋書きだ。確かに、近隣に所在する城郭と併せて南朝方の巨大要塞として築いたという話は寺尾城砦群の
存在と合致するし、新田氏との共同戦線というのもあり得る戦略だろうが、反対に「北朝方の山名氏が有していた城」の
伝承とは矛盾する上(勿論、山名氏発祥の地という伝承の方が間違いの可能性もある)、そもそも尹良親王なる人物の
存在がマユツバもので、本当に実在したのか分からないため、親王の築城説自体が不確定な伝承なのである。しかも
尹良親王の活動したとされる年代は既に南北朝合一後の事なので、この戦いは無為なものだったような?■■■■■

木部氏の詰城???■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そして戦国時代になると、上記の木部城を居城とした木部氏が詰の城としてこの城を用いたとする伝承が。それでいて
武田氏による縄張と推測する向きもある為、長野氏滅亡後に武田へ服従した木部氏が改造したと考える説もある。この
説では、更に武田氏が滅亡し木部貞朝が後北条家に従属するようになってから、1590年の豊臣秀吉による関東征伐を
受けて廃城されたとの結末だ。山名城の縄張は、細長い尾根状の山における山頂部を啓開し主郭とし、その全周を囲い
横堀が巡り、その東側下段に二郭を置く。この二郭の東側に対しても横堀と土塁、更に三郭と横堀が…と続く梯郭式の
構えで、傾斜面の随所に竪堀が落ちている。これら横堀の連鎖と竪堀の組み合わせが武田の山城に共通する縄張で、
故に山名城も武田流の築城術が使われていると推測されるのでござる。主郭から西側、山塊主部へと繋がる尾根筋も
多重の堀切で断ち割り、その間の空間が小曲輪として活用されている。構造的に無駄がなく、明らかに戦国時代の城と
考えられるため、むしろ尹良親王の築城説や山名氏草創期の城と言うには異論があろう。■■■■■■■■■■■■
一体どの伝承が正しいのか、それとも創作なのか。或いはどの時代とどの時代が繋がるのか、それとも無関係なのか。
謎ばかりの山名城であるが、個人的には「あの山名氏発祥の地」という点には興味が惹かれ申した。場所は上信電鉄の
山名駅から西へ800m弱、若しくは高崎商科大学前駅から南へ550m程の山中。駅を基点にした位置を示したが、正直、
駅から直接歩いて行く経路がなく、だいぶ遠回りする事になる。目印としては国の特別史跡「山上碑(やまのうえひ)」に
10台程度停められる駐車場があり(御手洗もそこに)、そこから20分ほど歩いて行くのが一番分かり易かろう。山名城の
二郭(二ノ丸)は1973年(昭和48年)1月31日に市指定史跡とされて、主郭(本丸)は1986年(昭和61年)2月13日に追加
指定となってござる。ちなみに、その主郭には展望台らしき土台が作られているのだが…これが御世辞にも良い展望が
望めるような物じゃない(爆)いったい何なんだコレ?と、歴史のみならず現状も謎だらけの山名城である(苦笑)■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡




新田荘遺跡  箕輪城・里見城