鎌倉御家人・和田氏の子孫が創建■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国末期、関東へ移封された徳川四天王の一人・井伊修理大夫直政の築いた近世城郭だが、元来この場所には和田城と
呼ばれる古城が存在していた。その起源を紐解けば室町時代まで遡り、1428年(正長元年)に国人の和田義信が築城した
ものだと言う。一方で1774年(安永3年)に編纂された地誌「上毛伝説雑記」では1418年(応永25年)義信の子である信忠が
築城したと言う説を記している。いずれにせよ、この年代に和田氏の築城した城が和田城と言う事だろう。無論、和田氏の
祖先は鎌倉幕府草創期に源頼朝の宿老として隆盛を極めた和田左衛門尉義盛でござる。■■■■■■■■■■■■■
和田城の築かれた頃、関東地方の統制は室町幕府の出先機関・鎌倉府の長であるる鎌倉公方が行う事になっていたが、
実務を行ったのは鎌倉府の次官たる関東管領。この管領職は代々上杉氏が世襲しており、和田氏は一貫してその配下と
して行動していた。和田信忠は1438年(永享10年)に起きた永享の乱(鎌倉公方と関東管領の対立)で上杉方として参戦し
続く1440年(永享12年)の結城合戦でも上杉氏に従っている。結城合戦は、永享の乱で敗死した鎌倉公方・足利左兵衛督
持氏(もちうじ)の遺児が結城城(茨城県結城市)に拠って乱を起こしたものでござる。■■■■■■■■■■■■■■■
上杉顕定(上杉家の分家である越後上杉家の出自、山内(やまのうち)上杉家へ養子入り)が関東管領に就任する際には
和田城に逗留した後、鎌倉へ向かって就任の儀を執り行ったと言う。信忠の後、和田氏は信清―信種―信輝と代を継ぎ、
その右兵衛大夫信輝は1538年(天文7年)北条左京大夫氏綱と扇谷(おうぎがやつ)上杉修理大夫朝定(ともさだ)が戦った
折、やはり上杉方として戦に加わり戦死し申した。このように、和田城と和田氏は室町幕府体制が徐々に崩壊していく中で
戦歴を残していた訳だが、一方でこの頃から南関東には新興勢力である後北条氏が台頭し、同様に甲斐・信濃においては
武田氏が領土を広げつつあった。それに対する上杉氏は一族分家の集合離散で自らの力を失い、また旧体制での権益を
維持する方策は新たな時流から取り残されようとしていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
関東騒乱の激化と終焉■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1546年(天文15年)上杉氏やかつての鎌倉公方から流れを引く古河公方・足利氏ら旧体制の面々は、勢力挽回を目指して
後北条氏の最前線城郭・河越城(埼玉県川越市)を大軍で包囲した。もちろん、和田氏の軍もこれに付き従っていたのだが
戦略に長けた北条左京大夫氏康(この当時の後北条氏当主)は劣勢をものともせずに大打撃を与え、包囲軍を蹴散らして
しまうのである。遂に領国を支えきれなくなった関東管領・山内上杉憲政は本国の上野を放棄して越後へ逃亡、かの地で
勢力を蓄えていた長尾景虎に庇護を求めた。この結果、景虎が上杉氏に代わって関東へ出陣、後北条氏との戦いを繰り
広げるようになる。1560年(永禄3年)満を持して出兵した景虎は、関東諸勢力を糾合して翌1561年(永禄4年)に小田原城
(神奈川県小田原市)を包囲。無論、和田氏もこれに従っている。この時の和田氏当主は和田兵衛少輔業繁(なりしげ)だと
されている。ところが小田原城は天下の堅城、景虎と言えど落とす事は出来ずに撤退。■■■■■■■■■■■■■■
とりあえず小田原から退いた景虎は、憲政から上杉家の家督と関東管領の職を継承する事となり鎌倉で式典を行ったが、
その折、上杉方として参列していた武蔵国忍城(埼玉県行田市)主・成田下総守長泰が無礼を働いたとして、景虎あらため
上杉政虎から叱責されてしまう。面目を潰された長泰は政虎を見限り帰国する。これに伴い、参加していた関東諸将も兵を
引き上げた。和田業繁も政虎の傲慢に不信感を抱いたようで、以後、上杉氏には従わなくなる。■■■■■■■■■■■
折りしも上州は西から武田信玄の猛攻に晒されている頃。業繁は破格の大将である信玄への服従へと心変わりし、それに
対し政虎は1563年(永禄6年)2月、1565年(永禄8年)、1566年(永禄9年)7月と何度も和田城を攻撃したが、信玄の後詰も
あって落城せず窮地を脱した。このように和田城は武田方の最前線城郭として上杉政虎、すなわち謙信の喉元に突きつけ
られていた城だったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、信玄没後は武田四郎勝頼が武田家の家督を相続。勝頼は西進策を採り東海地方へ進出し、織田信長と対立した。
1575年(天正3年)長篠で対陣した両軍の中、和田業繁も武田方の将としてその姿を現していた。この一大決戦において、
武田方は大敗を喫す。業繁は傷を負いながら戦場を脱したが、この怪我が元で没してしまう。後を継いだのは娘婿の和田
右近衛大輔信業(のぶなり)である。上杉謙信が病に斃れ、武田家もまた1582年(天正10年)3月に滅ぶと時流を見た彼は
織田信長に臣従。信長から関東管領に任じられた滝川左近将監一益(かずます)に人質を差し出したほどだ。■■■■■
ところが信長も同年6月、本能寺の業火と消えた。斯くして上野国は小田原後北条氏が進出する地となり、結局信業は北条
左京大夫氏直に従うようになった。以後、和田氏は後北条氏麾下として関東各地の戦いに赴くが、その後北条氏は1590年
(天正18年)、天下統一に王手をかけた豊臣秀吉から最後の敵として討伐を受ける。和田信業は後北条氏の本拠を守るべく
小田原城へ赴き籠城、和田城の留守は信業の子・業勝を擁した柴田弥次郎らが守備する。しかし豊臣軍の攻勢は容赦なく
和田城へも及び、前田又左衛門利家・上杉左近衛権少将景勝らいわゆる北国軍によって4月19日に攻め落とされ申した。
和田業勝は落ち延び、後に保科氏(武田遺臣にして徳川旗本となった)に仕えたそうだ。また、信業も小田原城から脱したと
言うが和田城には戻らず、高野山へ追放となった北条氏直に付き従った。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうして用済みとなった和田城は廃城となったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
井伊直政による新規築城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
前置きが長くなったものの、ようやくここで井伊直政が登場する。後北条氏の敗北により関東には徳川家康が入部。江戸に
入った家康は領内要所に家臣団を配置、上野国には12万石で直政が配された。当初、直政は上州屈指の城である箕輪城
(高崎市内)へと入城したのであるが、箕輪は山間地にあるため次代を睨めば大掛かりな城下町や耕作地が開けず、統治に
不向きと判断された。これにより1597年(慶長2年)家康の命に従って和田城の旧地に新たな城を計画したのである。■■■
省みれば和田の地は三国街道と中仙道(後に中山道と改記)の合流点にして江戸と越後・信濃へ至る交通の結節点であり
徳川領防衛における北の要だった。また、旧和田城は烏川(からすがわ)東岸の急崖にある天然の要害。城の西側の守りを
烏川の断崖に委ね、東側には広大な城下町を形成できる地形だったのである。近世城郭の築城適地とされた和田で直政は
工事に着工、まだ未完成ながら翌1598年(慶長3年)に早くも箕輪から居を移している。新城の誕生にあたり、直政は地名を
高崎に改称。当初、直政は「松ヶ崎」と命名しようと考えていたが箕輪城下にあった曹洞宗松隆山恵徳寺の龍山詠譚和尚が
「松は枯れる事がある、されど高さには限りがない」という吉祥を授けた事から「高崎」としたのである。■■■■■■■■■
これにより近世城郭としての高崎城が創建された。築城の際、直政は和田城の縄張りを一新して高崎城を構えた。よって、
旧和田城の遺構は殆んど残らず、新規築城として高崎の城が出来ていく。烏川に面した城の最西部は天然の地形に沿って
容取られ、西郭を形成。これが旧来の和田城地であるという。西郭の南部は西ノ丸・瓦小屋曲輪、西郭の北部が榎郭となり
時計回りに南から西ノ丸〜西郭〜榎郭と囲う真ん中に、ほぼ長方形を成す本丸が置かれている。本丸の東側出入口には
角馬出の梅ノ木郭、それを輪郭式に囲んで二ノ丸、さらに三ノ丸が広がる縄張りである。近世城郭らしく、不要な屈曲は廃し
直線を基調としながらも要所要所に入隅・出隅の横矢が掛かっており、高崎城の縄張りが計画的に行われた事を如実に
物語る。これらの曲輪は大半が土塁と堀によって固められているが、本丸の一部など重要な箇所には極めて限定的ながら
石垣も用いられていた。なお、高崎築城と共に箕輪城下町の移転が図られ、箕輪に在った町屋や寺社がこぞって高崎へと
移転し、近世高崎の町を形成している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その直政は1600年(慶長5年)関ヶ原合戦後に近江国佐和山(滋賀県彦根市)へ移封。佐和山は関ヶ原西軍の首領・石田
治部少輔三成の旧領だ。家康の信篤い直政は、三成の遺風を払底すると共に西国監視の任を任されてかの地に赴いた
訳だが、結果として高崎在城は3年ほどでしかなかった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1604年(慶長9年)下総国臼井(千葉県佐倉市)3万7000石から移され、新たに高崎城主となったのは酒井左衛門尉家次。
直政と共に徳川四天王と称えられた酒井左衛門督忠次の長男、高崎での石高は5万石。酒井家は徳川譜代功臣であり、
家次も大坂の陣で身を粉にして働き1616年(元和2年)越後国高田(新潟県上越市)10万石に加増転封された。高崎には
2万石で常陸国笠間(茨城県笠間市)から戸田松平丹波守康長が入府するものの翌1617年(元和3年)に7万石で信濃国
松本(長野県松本市)へ再移封。続いて常陸国土浦(茨城県土浦市)から入ったのは藤井松平安房守信吉、石高5万石。
ところがこれも僅か2年のみの話で、1619年(元和5年)10月に丹波国篠山(兵庫県丹波篠山市)へと移される。代わって
下総国小見川(千葉県香取市)より入ったのが安藤対馬守重信、5万6000石。安藤氏は3代に渡って高崎城主を継承し、
ようやく安定した統治期を迎えた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
安藤氏による改修の様子■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
高崎に入った重信は高崎城の改修工事に着手、この工事は安藤氏3代の間継続され、合計77年の長きに及んでござる。
1621年(元和7年)6月29日に重信が死去すると、家督を養嗣子の右京亮重長(重信の外孫)が継ぎ、1657年(明暦3年)に
重長が没すると、同様に嫡孫の対馬守重博(重博の父・式部少輔重之(重長嫡男)は早世していた)が跡を継承。■■■
この頃の高崎城で特筆すべき事件と言えば、1631年(寛永8年)5月に驕暴の振る舞いで3代将軍・家光の勘気を被った
駿河大納言・徳川忠長(家光の実弟)が、所領の駿河を没収されて翌1632年(寛永9年)高崎に幽閉された事であろう。
重長の統治時代の話である。忠長は何度となく赦免を乞うが許されず、遂に1633年(寛永10年)12月6日、蟄居先の高崎
城内で自刃するに至った。享年28歳。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ここで高崎城本丸の櫓群について説明したい。南北に細長い本丸の中央部西端には天守代用とされる御三階櫓が聳え
高崎の町を睥睨。この3重櫓は「御櫓」という敬称で呼び習わされていた。また本丸の四隅(北東・南東・南西・北西)には
隅櫓が建てられていた。安藤時代の改修工事によりこの隅櫓にも手が加えられたようで、少なくとも移築現存する乾櫓
(北西隅櫓、詳しくは後記)に関してはそれまで土蔵同然の平櫓であったものが重博の頃に2重櫓へ改築されたと、享保
時代(1716年〜1736年)の著作「高崎城大意」に記されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1695年(元禄8年)5月、加増され6万5000石とされた安藤重博は備中国松山(岡山県高梁市)へ転封。同月10日、下野国
壬生(栃木県下都賀郡壬生町)から5万2000石で高崎へ入った大河内松平右京大夫輝貞は次々と加増を重ね、1701年
(元禄14年)に6万2000石、1704年(宝永元年)12月26日に7万2000石とされ申した。輝貞は1710年(宝永7年)いったん
越後国村上(新潟県村上市)へに転封されていき、代わって5月23日に高崎へ入ったのが、かの有名な間部越前守詮房
(まなべあきふさ)、石高5万石。6代将軍・家宣、7代将軍・家継の側用人として権勢を振るった詮房は、猿楽師であったと
いう出自から昇進して、将軍の信任により北関東枢要の地たる高崎城主にまでなったのだ。ところが、8代将軍・吉宗の
時代になるとその権勢は失われ、高崎を追われる事となる。1717年(享保2年)越後村上5万石に転封され、村上にいた
輝貞が高崎に返り咲いた。以後、大河内松平家が幕末まで城主の座を維持。■■■■■■■■■■■■■■■■■
老中格にまでなった輝貞の隠居後は養嗣子の右京大夫輝規(てるのり)が相続し、さらにその後を継いだ右京大夫輝高
(てるたか、輝規長男)は寺社奉行や大坂城代、京都所司代など要職を歴任して老中にまで出世、1779年(安永8年)12月
15日には1万石を加増され合計8万2000石にまで所領を増やしている。一方、領内の特産品である絹に課税を行なおうと
したところ大反対となり、1781年(天明元年)7月に一揆を起こした農民らは高崎城下で打ちこわしを働き遂には高崎城へ
攻め掛かったという。これを絹一揆と呼び、結局課税は撤回された。太平の世にあって高崎城は一揆勢相手の攻防戦を
経験したのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この騒動に困憊した輝高はその年の内に死去。後を嫡子の右京大夫輝和(てるやす、輝高2男)が継ぐ。以後、右京大夫
輝延(てるのぶ、輝高の3男)―右京亮輝承(てるよし、輝延の3男)―右京亮輝徳(てるあきら、輝承の養子)―右京亮輝充
(てるみち、輝徳の養子)―右京亮輝聴(てるとし、輝充の養子)―右京亮輝聲(てるあき、輝聴長男)と続き明治維新を
迎えている。版籍奉還後も輝聲は知藩事の座にあったが、廃藩置県により東京へ移住した。■■■■■■■■■■■
廃藩後は軍用地、そして公共施設群に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1871年(明治4年)10月、高崎城を利用して群馬県庁とされたが、一方で1873年(明治6年)の廃城令において存城の扱い
(軍管理地となった城郭)となった城内には陸軍第1軍管区第3師団分営所(東京鎮台高崎分営第9大隊)が設置された。
その結果、手狭となった城から県庁機能が移転する事となり前橋へ。当時、群馬県と埼玉県および栃木県は統廃合を
繰り返しており、1876年(明治9年)再び高崎に県庁機能が戻るものの既に城内は陸軍の占有地となっていて、庁舎を
設置できなかった。紆余曲折の末、群馬県の県庁所在地は前橋となったが、住民には大きな混乱があったという。■■
ともあれ、陸軍管轄となった高崎城は敷地の改変・建造物の処分が行われ、堀の埋め立てや土塁の切り崩し、櫓などの
破却・売却が進められた。こうして確保された空間は練兵場となったり兵舎の建築が為され、明治初年に撮られた高崎
城内の古写真には、天守代用三重櫓の前に洋風の兵営が立ち並ぶ姿が納められている。もっとも、この三重櫓も破却
対象となり滅失。1884年(明治17年)歩兵第15連隊が置かれて以後、1945年(昭和20年)8月15日の終戦まで、城地は
軍のものであった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦後、城の敷地内には高崎市役所をはじめとする公共建造物が建築されるようになった。現在、高崎城の遺構として残って
いるのは三ノ丸外縁の土塁と堀だけである。この土塁と堀は幅・高さ共に往時の規模を維持しており、城郭愛好家としては
必見の見所であろう。また、明治にいったんは売却されて城外へと移された建造物が、僅かながら城地に再移築されて
残存する。一つは三ノ丸東門、もう一つは本丸乾櫓だ。東門は大手門の南およそ240mの位置、出枡形の東面を塞いだ
平屋門で、脇にくぐり戸が附された通用門であった。築城以後、1798年(寛政10年)の正月と1843年(天保14年)12月の
火災で焼失したが建て直されたもの。こうした修築履歴により、築城当初のものより低くされ、乗馬では通り抜けられぬ
高さになってござる。その一方で、くぐり戸は乗籠がそのまま通れる大きさとなっており、江戸時代を経て太平の気風に
合わせた変化が感じられると言えよう。明治維新の後、下小鳥町(高崎市内)の名主・梅山邸に払い下げられていたが、
1980年(昭和55年)2月、高崎和田ライオンズクラブの手によって譲渡を受け高崎市へ寄贈、現在の場所に再移築となった。
同年3月11日、高崎市指定重要文化財に。一方、乾櫓は本丸の北西に置かれていた2重櫓だ。上記した「高崎城大意」には
「もとこの櫓こけらふきにて櫓作りになし二階もなく土蔵などの如くなるを先の城主腰屋根をつけ櫓に取り立て」とある。
(先の城主とは安藤重博の事)つまり、それまでは粗末な土蔵程度の規模だった隅櫓を改修して現在の様式に改めた訳で、
2重2階、腰屋根を廻らせた白漆喰塗込の大壁で固められて、本瓦葺入母屋造りの屋根を乗せている。屋根の切妻は
狐格子の紋様で飾られ、破風板には懸魚がかけられていた。現在ではこの屋根に鯱が揚げられているが、これは市内
栗崎町の五十嵐邸に保管されている旧遺構の鯱を複製したもの。また、屋根瓦の大半は下滝町(同じく高崎市内)の
天田氏が所有していた旧高崎城の残存品を集めて葺かれている。建物の構造は初重と2重目が同じ面積の、いわゆる
“重箱櫓”で、梁間2間×桁行3間の大きさ。初重東面は左側に鉄格子を組み込んだ窓1箇所、右側に引き戸の戸口が
切られ、他の壁面(北・西・南の上下階と東面2階)にはそれぞれ2箇所ずつ、同様の窓が開いていた。東門と同じように、
明治期に梅山邸へと移され、農業を営んでいた同家の納屋として利用されていたのだが、1974年(昭和49年)9月6日に
現存する群馬県内唯一の城郭櫓建築として県の重要文化財に指定されたため、梅山氏から高崎市へと寄附を受けて、
東門に先立つ1977年(昭和52年)高崎城旧三ノ丸跡地へ移設されてござる。こうした経緯より、現状では乾櫓と東門が
並ぶように建てられているが、どちらも本来は別の場所にあったものを展示のために1箇所にまとめて現在地へ移した
ものである。また、乾櫓は東西南北を回転させているため、戸口が西面になっている。加えて書き記すと、納屋として
使われた際に改変を受けた為、西面(旧来の東面)初重の窓は廃され、本来右脇にあった戸口が壁面中央に切られた
状態で現在は保存されており申す。なお、両建築物の周りに建てられている鉄砲狭間を切った塀は景観を整えるべく
増築された模擬建築物であって、残存遺構ではない。櫓が石垣の上に建てられている状況も、土台固定のためであり
この石垣は本来なかったものだという点に注意されたい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
他、市内にある曹洞宗赤坂山長松寺の庫裡は徳川忠長が自刃したという書院が移築されたものだという。修景のため
乾櫓や東門に接続して建てられた塀は、市内金古町の天田邸(乾櫓の瓦を提供した天田氏とは別の宅)に移築された
旧城の塀を参考にしているとの事。城地が潰されてしまったのは残念であるが、このように点在する遺構が残されている
高崎城。何より、三ノ丸の土塁と水堀の作り出す景観は圧巻で、よく市街地のド真ん中にこれだけの規模で残っていると
(市街交通上では一番邪魔な場所なので)感心させられる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この土塁・堀を代表とした高崎城址は1982年(昭和57年)2月17日、高崎市の史跡になっており申す。■■■■■■■■■
|