新田支族・江田氏の館■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上州新田荘の古い武家居館。典型的な方形館で、平安期〜鎌倉期における武家居館の形態を良く表している。
主郭は東西約80m、南北約100mの規模を有し、東面と西面のそれぞれ中間地点付近に屈曲を持たせて横矢を
利かせた作り。その四周はかなり立派な土塁で囲われ、外周を取り巻くように堀も掘削。出入口は南面(大手)と
東面に各1箇所ずつ土橋を架けている。これらの遺構はかなり良好に残されている上、復元工事も行われており
中世武家居館の様子を窺うに適した史跡となってござる。往時には主郭の西〜南をL字型に囲うような二ノ丸が
構えられ、主郭北東方面にはそれぞれ土塁で護られた黒沢・毛呂・柿沼屋敷群が設置されていたとの事。これら
屋敷跡の土塁・堀も残存してござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この館が築かれたのは鎌倉期、江田又二郎行義の館と伝えられている。新田氏始祖である新田左衛門尉義重
(八幡太郎義家の孫)の子、新田四郎義季(よしすえ)から4世にあたる人物が行義だ。行義の祖父である満氏
(義季の孫)の代から江田氏を名乗ったが、同じく義季から分かれた家には得川(とくがわ)姓や世良田(せらだ)
姓を名乗るようになったものがあり、これら得川・世良田の家は後世、徳川将軍家に連なる系譜となっている。
江田氏と徳川氏は遠く縁戚関係にある家柄だったのである(下記参照)。■■■■■■■■■■■■■■■
さて、そうした江田・得川らの庶家を多数分岐した新田氏において最も有名な人物が、鎌倉幕府打倒を為した
新田左近衛中将義貞だが、江田行義は義貞の鎌倉攻撃に参加、極楽寺坂の戦いにて大将を命ぜられ軍功を
挙げたのでござった。その後も義貞に従った行義であるが、南北朝動乱において義貞方は足利尊氏と対立し、
結果的に江田氏は室町幕府の追討を受けるようになってしまう。故に、父祖伝来の新田荘を離れた江田氏は、
備後国(広島県東部)へ落ち武士の身分を捨てて農業を営んだとされ申す。姓を守下(もりした)に改め、9代の
長きに渡り足利氏の目を逃れる暮らしを送ったが、足利幕府も滅んだ文禄年間(1592年〜1596年)の頃になり
10代目・大膳なる人物がようやく上州新田荘に帰参したと言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国期、後北条氏による再利用■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
では、それまで新田荘の江田館はどうなっていたかと言うと、戦国時代に金山城(太田市内)の出城として改修
され、金山城主・由良氏に仕えた四天王の1人・矢内(やない)四郎左衛門の居城となっていた。由良氏は北の
長尾氏、東の佐竹氏、西の武田氏、南の北条氏という4強勢力の狭間の中で独立を保っていたものの、次第に
小田原北条氏の圧迫を受けて臣従を余儀なくされる。その渦中の1584年(天正12年)北条氏が金山城を攻略
した際、江田館は北条軍により占拠され、金山城攻撃の前進基地として使われた。この戦いの後、由良氏は
北条氏に服従するようになったが、その北条氏も1590年(天正18年)豊臣秀吉の関東征伐を受け滅亡、これを
機に江田館は廃城とされた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
廃城の後、江田氏一門によって本丸跡中央土塁を義貞塚として祀り石宮を奉戴、江田氏の子孫が代々氏神と
して館跡共々保全してきた。この塚は新田義貞と江田行義を合祀し廃藩置県で全国の城が無用となった後の
1873年(明治6年)金山城本丸に移される。1875年(明治8年)には金山城山頂に社殿が造営され、新田神社と
されたのでござった。江田館の保全、金山城での新田神社創建など、新田荘では義貞や新田一門に対する
畏敬の念が強く、館跡や城跡などの史跡も丁寧に保存されてきたのだ。これが評価され、江田館跡は2000年
(平成12年)11月1日、国の史跡に指定され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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