上野国 江田館

江田館跡 主郭入口

 所在地:群馬県太田市新田上江田町字堀の内
 (旧 群馬県新田郡新田町上江田字堀の内)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★★☆
★★■■■



新田支族・江田氏の館■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上州新田荘の古い武家居館。典型的な方形館で、平安期〜鎌倉期における武家居館の形態を良く表している。
主郭は東西約80m、南北約100mの規模を有し、東面と西面のそれぞれ中間地点付近に屈曲を持たせて横矢を
利かせた作り。その四周はかなり立派な土塁で囲われ、外周を取り巻くように堀も掘削。出入口は南面(大手)と
東面に各1箇所ずつ土橋を架けている。これらの遺構はかなり良好に残されている上、復元工事も行われており
中世武家居館の様子を窺うに適した史跡となってござる。往時には主郭の西〜南をL字型に囲うような二ノ丸が
構えられ、主郭北東方面にはそれぞれ土塁で護られた黒沢・毛呂・柿沼屋敷群が設置されていたとの事。これら
屋敷跡の土塁・堀も残存してござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この館が築かれたのは鎌倉期、江田又二郎行義の館と伝えられている。新田氏始祖である新田左衛門尉義重
(八幡太郎義家の孫)の子、新田四郎義季(よしすえ)から4世にあたる人物が行義だ。行義の祖父である満氏
(義季の孫)の代から江田氏を名乗ったが、同じく義季から分かれた家には得川(とくがわ)姓や世良田(せらだ)
姓を名乗るようになったものがあり、これら得川・世良田の家は後世、徳川将軍家に連なる系譜となっている。
江田氏と徳川氏は遠く縁戚関係にある家柄だったのである(下記参照)。■■■■■■■■■■■■■■■
さて、そうした江田・得川らの庶家を多数分岐した新田氏において最も有名な人物が、鎌倉幕府打倒を為した
新田左近衛中将義貞だが、江田行義は義貞の鎌倉攻撃に参加、極楽寺坂の戦いにて大将を命ぜられ軍功を
挙げたのでござった。その後も義貞に従った行義であるが、南北朝動乱において義貞方は足利尊氏と対立し、
結果的に江田氏は室町幕府の追討を受けるようになってしまう。故に、父祖伝来の新田荘を離れた江田氏は、
備後国(広島県東部)へ落ち武士の身分を捨てて農業を営んだとされ申す。姓を守下(もりした)に改め、9代の
長きに渡り足利氏の目を逃れる暮らしを送ったが、足利幕府も滅んだ文禄年間(1592年〜1596年)の頃になり
10代目・大膳なる人物がようやく上州新田荘に帰参したと言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

戦国期、後北条氏による再利用■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
では、それまで新田荘の江田館はどうなっていたかと言うと、戦国時代に金山城(太田市内)の出城として改修
され、金山城主・由良氏に仕えた四天王の1人・矢内(やない)四郎左衛門の居城となっていた。由良氏は北の
長尾氏、東の佐竹氏、西の武田氏、南の北条氏という4強勢力の狭間の中で独立を保っていたものの、次第に
小田原北条氏の圧迫を受けて臣従を余儀なくされる。その渦中の1584年(天正12年)北条氏が金山城を攻略
した際、江田館は北条軍により占拠され、金山城攻撃の前進基地として使われた。この戦いの後、由良氏は
北条氏に服従するようになったが、その北条氏も1590年(天正18年)豊臣秀吉の関東征伐を受け滅亡、これを
機に江田館は廃城とされた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
廃城の後、江田氏一門によって本丸跡中央土塁を義貞塚として祀り石宮を奉戴、江田氏の子孫が代々氏神と
して館跡共々保全してきた。この塚は新田義貞と江田行義を合祀し廃藩置県で全国の城が無用となった後の
1873年(明治6年)金山城本丸に移される。1875年(明治8年)には金山城山頂に社殿が造営され、新田神社と
されたのでござった。江田館の保全、金山城での新田神社創建など、新田荘では義貞や新田一門に対する
畏敬の念が強く、館跡や城跡などの史跡も丁寧に保存されてきたのだ。これが評価され、江田館跡は2000年
(平成12年)11月1日、国の史跡に指定され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域内は国指定史跡








上野国 反町館

反町館跡 照明寺

 所在地:群馬県太田市新田反町町
 (旧 群馬県新田郡新田町反町)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
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新田氏の館だが、その主は?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江田館同様の中世武家居館跡。築造時期は鎌倉時代〜南北朝時代と見られ、伝承によれば新田義貞が館を
構えたとの事でござる。このあたり一帯は新田荘である故に、それは真実かもしれないし、周辺の別の場所が
義貞の居所であったかもしれないので、その伝承が正しいかどうかは判らない。ともあれ、ここ反町(そりまち)
館跡には「新田義貞古城跡」との標柱が立てられている。新田一門である大舘左馬助氏明(おおたちうじあき)
新田左兵衛佐義興(よしおき、義貞の2男)、矢内時英(やないときひで)が住んだという伝承も残される。■■■
その他、同じく新田一門の村田氏、堀口氏の館であったという説もある。■■■■■■■■■■■■■■■■
斯くして城の創建は不明瞭ながら、およそ新田氏に関連するものである事は間違いないようだ。さらに時代が
下り戦国時代になると三重の堀を巡らす平城として整備され、江田館と同じように金山城主・由良氏の出城と
なる。1584年の金山城攻防戦においては北条軍の総大将・北条安房守氏邦(うじくに)がこの反町館を占拠、
本陣とした。廃城時期も江田館と同様で、1590年に豊臣秀吉が関東仕置をした事による。■■■■■■■■
さて、江田館には義貞塚が祀られたが、こちら反町館跡では江戸時代に寺が置かれた。もともと、館の西側に
あった真言宗瑠璃山照明寺を1714年(正徳4年)火災に遭った件が契機となり館跡の敷地へ移転させ、それ
以来、地域の信仰を集めるように。照明寺の本尊は厄除薬師として有名との事で、毎年1月4日に行われる
縁日では多数の参拝者で大いに賑わうらしゅうござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城跡の現況は、寺の境内となっている敷地が本丸跡で、凸字形の縄張り。北面73m、南面120mの大きさで、
かつては南東隅と西に虎口を開いていた。周囲を囲うかなり大規模な土塁が残存しており、盛土の基底部は
10m〜13m、高さ4m〜5mはある。実際に目の当たりにすると実に高い土塁が真っ直ぐに延びていて、壮観な
眺めでござる。加えて、敷地を囲むかたちで水堀も残る。東面の堀は道路改修の際に拡幅されたものなので
旧状とはやや異なるが、それでも全周を囲む残り部分の堀は殆んど手付かずのまま。堀幅は10m〜20mにも
なり、この規模の館跡としては破格の大きさである。こうした現状から、新田荘遺跡の代表例として江田館と
共に2000年11月1日、国の史跡に指定され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡








上野国 新田氏館

伝新田氏館跡 総持寺

 所在地:群馬県太田市世良田町
(旧 群馬県新田郡尾島町世良田)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

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新田義重の館?義貞の館?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
旧尾島町の世良田、早川の袂にある真言宗威徳山総持寺境内が新田氏館の跡だと伝わる。早川に架かる橋は
その名も「舘橋」かつて武家居館があった伝承を物語るもので、総持寺の敷地は東西100m×南北130m程、鎌倉
武士の館としては丁度良い大きさであろう。或いは、往時の規模はもっと大きかった可能性もある。現在、早川は
太田市と伊勢崎市の境界となっているが、総持寺の近辺で対岸側に太田市の飛地を有してござる。新田氏館は
川の対岸にも出郭を備えていたと考える向きもある為、もしかしたらこの飛地部分がその地籍なのかも。■■■
寺伝によればこの地は新田家始祖の義重が館を構え、以後累代の新田氏が居館にした場所とされる。一説に、
館の創立は1157年(保元2年)の事だと云うが、これは義重が新田荘を正式に領有した年を根拠とするもので、
実際にはもっと早い段階から在住し開墾を始めたとも考えられるので正確な築城年代は分からない。また、この
館の来歴を義重の創立ではなく世良田氏(下記、世良田氏館の項を参照)、または新田義貞の手に拠るものと
考える説もある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
とりあえずここでは新田義重創立説として話を進めるが、義重は源平争乱期を当館を本拠に生き抜く事となる。
平治の乱で平家が優勢な世の中になると、義重は平氏政権に接近していき、それが元で源頼朝が平家打倒に
挙兵した際には日和見的な態度を取って頼朝と平家を量りかねる様子を見せた。故に頼朝から不興を買う事に
繋がったとも言われる。一方で、頼朝が1193年(建久4年)那須野・三原にて狩りを催した際、帰途の4月28日に
「式部大夫入道上西新田館」へ立寄って懇談したと鎌倉幕府の公式史書「吾妻鑑(あづまかがみ)」に書かれて
おり、それはこの新田氏館の事だと考えられている(式部大夫入道上西というのが義重を指す)。数々の経歴が
この館を彩るものの、頼朝の不興に始まる新田氏への冷遇は北条氏が執権となって以降顕著となり、鎌倉時代
末期の1333年(元弘3年/正慶2年)、得宗(とくそう、北条家における最高権力者)・北条修理権大夫高時は新田
義貞に過大な軍資金供出を命じ、新田荘に使者を派遣して無法な譴責を加えたと云う。これを嘆いた義貞は、
「我が館の辺を雑人の馬蹄にかけさせつることこそ無念なれ」と怒り、使者を捕らえて1人を世良田の郷に梟首
したと「太平記」にある。この「我が館」というのも、新田氏歴代の居館であった新田氏館の事であろう。結果、
新田義貞は倒幕の兵を挙げ、鎌倉幕府崩壊へと至る訳なれば、歴史の転換点となったのが当館なのかも。ただ
以後の来歴は不明にして、総持寺として現在に繋がるのみ。この総持寺は別名「館の坊」と言われている事から
新田氏館における寺堂が発展して寺になったものだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
総持寺としての所有文化財はいくつもあるのだが、新田氏館たる遺構はほぼ湮滅している。昭和の初期までは
堀や土塁が残されていたと云うが、現在それらは確認できない。そもそも新田氏館の「伝承地」である訳だから、
真偽の程もどこまでなのか疑わしくもなるが、新田氏関連の史跡である事は間違いないので、ここも2000年11月
1日、国の史跡に指定されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
写真は総持寺の山門と鐘楼。なかなか趣がある景観だ。境内には「新田氏館」の石碑もある。■■■■■■■■



現存する遺構

郭群
城域内は国指定史跡








上野国 世良田氏館

世良田氏館跡 世良田東照宮境内

 所在地:群馬県太田市世良田町
(旧 群馬県新田郡尾島町世良田)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

■■■■
★★★■■



世良田郷、新田一族による入植■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江田館の項で名の出た新田義季は、新田義重の4男ではあるが兄(義重嫡男)・三郎義兼(よしかね)の同母弟で
一門の中で高い地位を得てござった。そもそも義兼も義重の2男であり、その上に長男の太郎義俊(よしとし)が
いたものの、義俊は庶子であったために新田の家督を継げず分家(里見氏)を興し、正室の子であった事により
義兼が新田氏総領の地位を受け継いでいる。斯くて総領・義兼に最も近い血縁者である義季は新田荘の中でも
世良田郷と徳河(得川)郷を分知され、そこに入植していく。このため、義季は在郷名から世良田二郎あるいは
得川四郎を名乗るようになったとされている。更にこの後、義季の長男・頼有(よりあり)は得川の封を受け継ぎ、
次子・弥四郎頼氏(よりうじ)は世良田の家督を継承した。世良田郷は肥沃な穀倉地帯で、義季・頼氏父子は財を
成して新田一族の中でも有力者となってござる。鎌倉幕府成立後、新田宗家総領・政義(まさよし、義兼の孫)が
数々の失態を犯して没落すると、それに代わって幕府から世良田頼氏が新田総領職の代行を命じられた程だ。
この後、頼氏も鎌倉幕府内の権力闘争に巻き込まれ失脚してしまうものの、世良田の家督は彼の嫡男・教氏へ
継がれ、更にその後は家時へと継承される。家時の子・孫次郎満義(みつよし)は新田義貞の鎌倉攻めに参加
以後も義貞に従い南朝方の雄として名を馳せるが、義貞が越前藤島の戦い(福井県福井市)で討ち死にすると
満義は帰郷し、世良田に戻ったと言う。その一方、頼氏の庶長子である有氏(ありうじ)の家系も名を残し、彼の
猶子となった義政(女系で有氏の曾孫に当たる)も鎌倉幕府打倒に功を挙げた他、こちらの系譜は北朝方として
勇戦した事で上総守護職や伊予守に任じられている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、世良田氏館は当然ながらその世良田氏の居館址という事になるが、創建年代や築城主は良く分からない。
世良田氏の勃興年代からして鎌倉時代のものという事になろうが、頼氏を築城者とする説、若しくは義政を主と
する説(旧世良田村では「世良田義政館址」としていたそうである)もあり、更にはこの地が新田義重の居館跡と
考える向きもあって(但し、新田義重館は上記の通り近隣の総持寺境内とする説が有力である)詳細は不明だ。
1221年(承久3年)世良田義季はこの場所に臨済宗(江戸時代に天台宗へ改宗)世良田山長楽寺を開いているが
館あっての寺なのか、それとも寺が先行するものだったのかも分からない。世良田義政は後に南朝への内通を
疑われて室町幕府から追討を受け長楽寺内で切腹。義政の後継は新田一族山名氏に臣従する事となり、後に
山名氏が因幡・伯耆守護となったために彼の地へ移住し(因幡徳川氏となる)世良田郷を離れた。また、満義の
子・大炊亮政義は南朝方として各地を転戦の後、信濃国浪合(なみあい、長野県下伊那郡阿智村)で戦死する。
政義の庶長子・修理亮親季(ちかすえ)も同じく浪合で戦死。親季の子だと言う左京亮有親(ありちか)は出家し
長阿弥と名乗り、三河国へと落ち延びて行ったとか(この人物に関しては諸説紛々、創作も入って不詳)。結局、
どの家系を辿っても世良田氏は没落し消息不明、世良田氏館の廃絶時期も分からないままでござる。■■■■

徳川将軍家の“聖地”に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
真偽はともかく、世良田氏の後裔に当たるとされたのが徳川将軍家(詳細は下記、得川館にて)で、江戸時代に
入ると世良田郷は“一族発祥の地”として聖地化される。斯くして1644年(寛永21年)世良田氏館跡の伝承地には
東照宮が創建された。これが現在に続く世良田東照宮の境内で、長楽寺の境内地に隣接しており申す。世良田
東照宮の主要建造物は創建当初の日光東照宮にあった建築物を移築したもの。現在、世界遺産とまでなった
日光東照宮は寛永期に3代将軍・徳川家光が大改修したもので、創建当初(2代将軍・徳川秀忠が造営)にあった
“オリジナルの東照宮”は世良田に移されたのだ。よって、本殿・拝殿・唐門の3棟は1956年(昭和31年)6月28日
国の重要文化財に指定されている。世良田と言うとこの東照宮が最も有名で、館跡というのは知名度が低い。
世良田東照宮・長楽寺共に2000年11月1日、新田荘遺跡の構成要素として国史跡に指定されたが、これも其々
寺社の存在を新田一族所縁のものとした為である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1987年(昭和62年)〜1988年(昭和63年)にかけて館跡周辺で発掘調査が行われ、北辺郭・東辺郭と考えられる
部分での堀跡、そして更に古い時代の小溝跡が検出されたそうだ。堀は北辺部で幅およそ6m×深さ約3mの
規模を確認。東辺の堀は長さ約100mを数え、北東隅から30m迄が幅およそ6m×深さ約3m、それより南側では
幅およそ4m×深さ約2.5mと小さいものに変化。南端で東側へ折れていく形状だったようだが、それ以上詳しい
把握はされなかった。小溝は幅1m×深さ1m程度、恐らく館が築かれる以前、世良田郷内を区画分けする為に
作られた構造物と考えられる。北辺部や東辺部の堀はこの小溝と同じ方向に掘られていた。この他、土塁状の
起伏も見られたようだが、明確な解明は為されていない。東照宮の裏手(西側公園内)や長楽寺の参道付近に
こうした堀跡や土塁痕跡が散在し、一部は復元整備され見学し易くなっているが、そもそも館の規模や構造が
不明で、どのような縄張だったとか、堀や土塁がどちら方面に対する守りになっていたのかすら判然としない。
何から何まで分からない事づくめな館跡ではあるが、しかし東照宮や長楽寺と言った寺社は見応えがある上
一帯は史跡公園として整備され、雰囲気は抜群だ。何より、鎌倉幕府を打倒し足利将軍家とも血縁に当たる
新田氏の傍流だった世良田得川氏が江戸幕府の開祖となる歴史の流れは壮大な物語であろう。その故地に
立ってみれば、嘘か真かなど関係なしに“歴史の現場”を体感できる筈。物語を楽しむのにうってつけな館跡。



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡








上野国 得川(徳川)義季館

得川義季館跡 徳川東照宮

 所在地:群馬県太田市徳川町
(旧 群馬県新田郡尾島町徳川)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

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新田一族“得川氏” = 江戸幕府将軍家“徳川氏”?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
得川、すなわち徳川将軍家発祥の地とされる武家居館址。徳川家康の出自である三河松平家は三河国加茂郡
松平郷(現在の愛知県豊田市松平町)の国人である訳だが、その系譜を遡ると平安時代初期の歌人・在原業平
(ありわらのなりひら、平城天皇の孫)から派生、三河に土着した豪族だとされる。(松平氏の創始は諸説あり)
この松平家へ、室町時代の初期に放浪僧が養子入りして中興の祖となった。その名を松平太郎左衛門尉親氏
(ちかうじ)、旧名を徳阿弥(とくあみ)と言った遊行僧は上州新田郷世良田家の末裔と名乗り、その世良田家を
興したのが得川義季(上記、江田館の項で示した新田義季)だと繋がる。無論、こうした伝承には多分に創作や
誤伝も含まれて、必ずしも正確な話とは言えないが、家康の祖父・松平次郎三郎清康(きよやす)も世良田姓を
自称しており、“嘘から出た真”として誤伝だろうといつの間にかそれが本当であると信じられるようになった訳
なれば、江戸期を通じ得川義季の館跡は「徳川将軍家発祥の聖地」として手厚い保護を受けていたのである。
そもそも得川義季は新田義重の4男であり、つまるところ源氏の嫡流・八幡太郎義家の子孫という事だ。よって
徳川(松平)氏は新田氏後裔、源氏嫡流から繋がる家であると称する事が可能となり、これが故に徳川家康は
朝廷から征夷大将軍の宣下を受ける要件を満たした訳でござれば、徳阿弥や得川義季さまさまと言うところで
あろう(豊臣秀吉は出自が卑しい為に将軍の要件を得られなかった)。■■■■■■■■■■■■■■■■

こちらも「東照宮」だが…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「聖地」であるが故、ここには東照宮が建てられておりその門前には「得川義季公館址」の標柱が立つ(写真)。
徳川家発祥地の東照宮なので徳川東照宮と言う訳だが、近隣の世良田にも東照宮(こちらは世良田東照宮)が
あり(上記、世良田氏館の敷地)、そちらの方が遥かに立派な境内となってござる。とりあえず徳川東照宮には
目ぼしい館跡の遺構はなく、正確に言えば東照宮の東側にある畑一帯が本来の館跡だったようだ。江戸時代、
この館地には生田(しょうだ)氏が代官として入り、徳川郷の管理を行っていたと伝わる。徳川氏の関東入府時
この地に居住していた土豪・生田義豊なる者が家康に拝謁して新田・徳川郷の由緒を語り、そのまま代官職を
拝命したという。そもそも生田家は新田義重家臣の家が代々続いていた家系との事だが、程なくして生田氏は
正田氏と改姓し、一族の者の中から上野国館林(現在の群馬県館林市)へと移住して商いを興した者が出た。
その家系が明治時代から醤油製造を行うようになる。斯くして正田醤油は上州の一大ブランド商品となり発展、
館林正田家から皇室へ嫁いだのが上皇陛下の夫人、美智子上皇后陛下である。徳川家所縁の地から皇室へ
繋がる系譜があるというのも、なかなかに面白い話だ。現在の徳川東照宮があまりにも寂れているのに対し、
実に華やかな縁があると言うものでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その一方、東照宮よりもその南側にある時宗の寺・徳川山満徳寺の方が史跡としては有名で、江戸時代から
鎌倉の東慶寺と並ぶ縁切り寺として一目置かれていた。当時の習慣では、女性の側から離縁を申し出る事は
できなかったのだが、この寺に入って修行すれば夫に離縁状を書かせる事が可能とされたのでござる。これは
徳川2代将軍・秀忠の娘である千姫(せんひめ)が、豊臣秀頼に嫁いだものの大坂の陣によって死別したため、
再嫁する前にこの寺で身を清めた事に由来する。つまり、満徳寺の修行を経て正式に「秀頼と離別した」と言う
事になり、再婚できる身になったとの意味で、これ以後は一般庶民の女性にも「夫と離別する」資格を得る為の
寺として幕府公認が与えられた訳だ。徳川氏創始の地にある寺が、徳川将軍家の女性を救済したという所縁も
興味深いものでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、新田氏関連の城館であるためこの頁に併記したが、得川義季館は一連の国指定史跡「新田荘遺跡」の
構成要件には含まれていない事を注記しておく。それどころか、この館跡は県史跡や市史跡の指定をも受けて
ござらぬ。東照宮境内に置かれた伝・新田義重宝塔が1989年(平成元年)2月1日、当時の尾島町指定文化財に
指定されたのみ。これは市町村合併で太田市の管轄となった2005年(平成17年)3月28日、改めて太田市の重要
文化財になっている。他方、満徳寺境内は1956年(昭和31年)6月20日、群馬県史跡に指定。1990年(平成2年)
9月25日に追加指定を受けており申す。やはり館跡より縁切寺の方が著名という事か…。■■■■■■■■■



現存する遺構

伝新田義重宝塔《市指定重文》








上野国 大舘館

大舘館跡

 所在地:群馬県太田市大舘町
(旧 群馬県新田郡尾島町大舘)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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新田支族・大舘氏の館■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
新田家祖である義重の曾孫が新田政義、その政義の2男が大舘家氏(おおたち(おおだちとも)いえうじ)なる者で
大舘氏の始祖になる人物。この大舘氏の居館と伝わるのがここ、大舘館だ。そもそも、「大舘」の地名が史料上に
現れるのは1168年(仁安3年)に記された「新田義重置文」(国指定重文)からで、義重が子の“らいおうごぜん”と
その母に所領を譲り渡す約束をした文書であり、この“頼王御前”とは先程から何度となく名前の出ている世良田
義季の事だ。それによると、「おおたち」は空閑の郷(新規開墾地)で、他の18郷と共に世良田義季や彼の母へと
譲られる筈だったのだが、後の事情で新田宗家に伝えられる事となったらしい。最終的には家氏がこの地に入り
大舘氏を興すのでござる。年代的に元徳年間(1330年頃?)の事のようだ。■■■■■■■■■■■■■■■
家氏の子である又次郎宗氏の頃、鎌倉幕府の倒幕運動がここ新田荘から巻き起こる。新田宗家の当主・義貞は
一族を率い鎌倉へ進軍、これに宗氏とその子・氏明と幸氏が従った。宗氏を頭とする大舘勢は鎌倉の極楽寺坂
切通しを攻略する一軍の指揮を任せられる。これによって1333年5月18日、大舘軍は稲村ヶ崎への攻撃を開始。
一旦は鎌倉市街地へ突入を敢行するが幕府方の反撃に遭い、この渦中で宗氏は討死してしまう。大将を失った
大舘軍は混乱するも、嫡子・氏明が指揮を受け継ぎ軍の立て直しに成功する。とりあえず極楽寺の外へ撤収し
改めて再攻略を企図するが、宗氏戦死の報を聞いた総大将・新田義貞が駆けつけ、以後の指揮は義貞自身が
行ったという。大舘軍はその麾下に入り、義貞もまた亡き宗氏の攻略法を踏襲して稲村ヶ崎を再攻撃、斯くして
見事に鎌倉陥落を果たしたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
鎌倉幕府滅亡後、今度は南北朝の動乱が始まる。大舘氏の総領となった氏明は一貫して南朝方に属し、義貞と
共に転戦。義貞が領国の越前(福井県)へ落ち延びて再起を図ろうとした折は京都に残り後醍醐帝に随身した。
結果、義貞はかの地で敗死するが氏明は生き延びている。この後、北朝方の足利尊氏と和した事もあったが、
最期まで南朝に尽くした人生だった。南朝から伊予国(現在の愛媛県)守護職に任じられ、そこで大勢の挽回を
図った氏明であったが、世田城(愛媛県西条市)にて北朝方の大軍に包囲され、自刃したとされている。■■■

南朝方から北朝方へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その氏明の嫡子が義冬(よしふゆ)である。義冬は九州に匿われていたが、彼の存在を知った北朝方の実力者
佐々木道誉(どうよ)は足利幕府への服属を取り成し、以後の大舘氏は幕府奉公人に名を連ねる事となる。元来
新田一門たる大舘氏は詰まるところ足利氏とも同族という事になるのだから、この服属は当然の流れと言えた。
治部少輔に任じられた義冬、その後を継いだ氏信(義冬長男)は室町幕府3代将軍・足利義満の近侍になり幕府
奉公衆番頭まで取り立てられた。氏信の子の刑部少輔満信は義満から片諱を受けている。満信の子・刑部大輔
持房は4代将軍・義持から8代将軍・義政の時代まで幕政に参与し、さらにその孫・伊予守尚氏(ひさうじ)は有職
故実に詳しく能筆でもあった事から幕府と朝廷の連絡役として活躍。加えて、各地で力を持つようになった戦国
大名と足利将軍家との外交も担っている。こうした歴史を紡ぐ中、新田荘大舘郷の所領は16世紀初頭の頃までは
大舘氏が領有し続けていた事が確認されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし現状の館跡は完全に畑となっている。かつては御堀・御蔵・馬場・鍛冶屋と言った城館に関係した小字名が
残っていたらしいが、今や遺構らしい遺構は全く見受けられない。一面の畑が広がる中、諏訪神社の小さな祠が
ポツンと建てられており、その傍らに「大舘氏館跡」の標柱と案内板があるだけ(写真)だ。しかも、この祠は微妙に
生垣で隠れるような状態になっている為、畑の中に孤立しているにも関らず非常に見つけ難い。周囲をぐるぐると
探し回り、それでもなかなか見つからないような有様で、発見するまでかなりの時間がかかった覚えがある(苦笑)
この祠は群馬県道298号線に面した天台宗薬王山東楊寺からほぼ真北に200m程の位置にある。或いは上記の
徳川東照宮から真東に1.2kmと言うべきか?近隣には大舘八幡宮という社もある(早川の北岸)のだが、そこでは
ないので注意して頂きたい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■





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