上野国 金山城

金山城址

 所在地:群馬県太田市金山町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★★
★★★■■



東上野の重要拠点■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上野国(現在の群馬県)新田荘を俯瞰する金山(かなやま)城の創始は室町時代中期、応仁の乱とほぼ時を同じくした
1469年(文明元年)と言われる。新田家の流れを汲む岩松三河守家純の命により、世良田郷(群馬県新田郡尾島町)
臨済宗世良田山長楽寺の僧・松陰軒西堂が築城代官として縄張を担当、岩松家重臣・横瀬雅楽助国繁が築城した。
岩松氏は鎌倉幕府を倒した武家の名門・あの新田左馬助義貞に続く家系であり、金山城は岩松氏の新田荘統治基盤
強化の為に築かれたのだ。が、関東での戦国動乱が激しくなった頃の1495年(明応4年)、岩松家中には明応の乱と
呼ばれる御家騒動が発生。敵味方が複雑に入り乱れる中、金山城は佐野小太郎の攻撃を受けた。■■■■■■■
更に1528年(享禄元年)、享禄の変と言う下剋上が発生、金山城の実権は横瀬信濃守泰繁・成繁父子に奪われる。
泰繁は国繁の曾孫であり、元を辿ると横瀬氏も新田氏の傍流。1565年(永禄8年)頃、横瀬氏は由良氏と改姓した。
こうして金山城は東上野の国人・由良氏の城郭として発展を遂げていくようになる。由良氏の動向、そして金山城の
命運は「東上野」という地勢に左右される点が大きい。というのも、新田荘は西に甲斐・信濃の武田氏、北には上野や
越後で勢力を持つ上杉氏、東に常陸の佐竹氏、そして南に相模・武蔵の後北条氏と、“戦国関東の四強”に囲まれて
いたからだ。由良氏の領地は新田のみならず赤石(現在の伊勢崎)・桐生・館林・足利などにまで及んだが、それでも
上記の4勢力とは比ぶべくもない地方豪族に過ぎず、時にある勢力と結び、またある時は寝返りをする事で命脈を
保っていた。こうした過程に連れ金山城は整備拡張され、由良氏の本拠となる大規模な戦国山城へ成長していく。
その攻防の歴史を見てみると、1565年に南から後北条氏が新田荘を攻撃したが、成繁はこれを撃退。■■■■■
1573年(天正元年)由良式部大輔国繁(成繁の子)が桐生城(群馬県桐生市)を攻略し版図を広げるや、翌1574年
(天正2年)越後から上杉謙信が来攻して由良領は蹂躙される。1580年(天正8年)には西から武田勝頼が来襲し、
またもや由良領は攻撃に晒され、続いて1583年(天正11年)に常陸の佐竹常陸介義重が金山城を攻め立てた。
このように、金山城と由良氏の領土は四方八方から攻撃を受け、しかしその度に撃退の軍勢が金山城に籠もって
激烈な戦闘を繰り返していたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

堅固な石垣要塞■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし、標高235.8mの高さを誇る金山に築かれた城は一度も落ちる事は無く難攻不落の堅固ぶりを見せつけた。
その防衛力の高さは、縄張りの巧妙さや地形的効果の他、戦国期の関東において随一とも言える石垣設備による
所が大きい。城郭研究の通説として、西国の城郭では石垣が多用されたが、東国の城郭は土塁造りだとされ、特に
土木技術が未成熟であった戦国時代には、まだ関東地方で石垣が組まれる事はなかったと言われていた。実際、
東国城郭で石垣使用例は江戸城(東京都千代田区)・小田原城(神奈川県小田原市)・盛岡城(岩手県盛岡市)など
僅少で、それらはいずれも近世になってから築かれたものなのである。近年、この通説は再考されるようになって、
東日本の城、それも中世城郭であっても石垣を用いる例が検出されるようになっている。とは言え、金山城は別格で
関東の中世城郭でこれほど大規模な石垣を有した城は恐らくここだけでござろう。金山城を攻める者は、見た事も
無い石組みの塁が連なる堅い防備にさぞかし難渋した事が想像できる。そもそも、この金山は山自体が「金山石」と
呼ばれる凝灰岩で出来た山であったため石垣の材料となる石材が豊富に確保できたのである。こうした石垣を張り
巡らせた城郭であるが故、金山城は鉄壁の防備を示した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかも、金山城は石垣だけでなく縄張りもまた見事なものと言える。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
山頂部に実城(みじょう、金山城における本丸部分を意味する曲輪)を置き、その下へと降った場所に御台所曲輪
二ノ丸・三ノ丸などの小曲輪群を配置。さらに主登城路となる西尾根沿いには馬場曲輪、西矢倉台、西出城、見附
出丸といった曲輪や出丸を一列に並べ、加えて大掛かりな堀切も掘削。敵の攻城線を長引かせ撃退する典型的な
梯郭式の縄張りとなっている。また、それ以外の尾根にも多数の曲輪や砦が用意され、金山全体が巨大な要塞と
化している。山麓の平坦地にも防衛線が構築されており、その大きさは計り知れない。これらの要素が一体となり、
金山城は“四強”の攻撃を跳ね除けていたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

この城をめぐる攻防戦■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし、いくら金山城が堅城でも、由良氏は上州の小豪族。次第に圧迫されるようになり天正後期には関東南部の
雄・小田原後北条氏への服属を余儀なくされる。だが、これは由良氏の本意でなく、出来れば独立を保ちたいのが
本心だった。故に、当時の由良氏当主・国繁とその弟で館林城(群馬県館林市)主であった長尾顕長(あきなが)は
後北条氏の支配下にありながら、時に反抗的態度をとる事があったとされる。これに立腹した後北条氏は、1584年
(天正12年)2月に国繁と顕長を小田原城に拘禁。由良氏の完全服従を求めた。ところがこれは火に油を注ぐ形で、
国繁・顕長兄弟を捕らえられた由良一門は激怒、両名の母・妙印尼を大将として一族郎党が金山城にて籠城し、
後北条氏への対決姿勢を顕わにしたのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この事態に困惑したのは後北条氏の方であった。たかが上州の小豪族と侮った由良氏が、徹底的な反抗の態度を
見せたのである。当時、後北条氏は佐竹氏と領土を接し、甲信越方面でも緊張した状態が続いた為、由良氏に兵や
時間を割く余裕は無かった。事態の収拾を図りたい後北条氏は、国繁・顕長の解放と引き換えに金山城の開城を
要求、由良一門との和睦を提案する。妙印尼はこの提案を呑んで、由良一族は桐生へと退去、金山城は後北条家
直属の城となったのだった。記録によれば同年8月、北条氏直(小田原後北条氏5代目当主)に命じられ大胡高繁が
金山城在番となったようだ。翌1585年(天正13年)11月には北条家臣の宇津木氏久が金山城北曲輪の在城、大井
豊前守が金山城根曲輪への在城、高山遠江守が金山城西城の在城を命じられる。さらに1587年(天正15年)8月、
清水正次を金山城主に命じた。金山城は、着々と後北条氏支配下に組み込まれつつあった。■■■■■■■■
ところがこの後、関東に威勢を張った後北条氏に重大な危機が訪れる。西日本を併呑し天下統一に王手をかけた
豊臣秀吉が後北条氏の討伐に取り掛かり、軍勢を差し向ける可能性が高まったのだ。これに対抗する後北条氏は
領内各所の防備を固めつつ、配下諸将の軍勢を小田原に結集させる。後北条氏により桐生に封じられた由良氏も
例外ではなく、1590年(天正18年)1月に止む無く由良国繁・長尾顕長兄弟も小田原城へと参陣する事になった。
しかし後北条氏の支配を排除したかった妙印尼は、前年の1589年から密かに外交工作を展開し国繁の子・貞繁を
豊臣政権の重臣・前田又左衛門利家に預け、反北条の軍勢に参加させたのである。■■■■■■■■■■■■
奇しくも親子に分かれる形となった国繁と貞繁であったが、この策は功を奏し1590年5月に貞繁の功労で金山城は
前田利家に接収され、6月には国繁・顕長の身柄を安堵する約定を利家から取り付ける事に成功する。その結果、
小田原城は7月に開城となり後北条氏は滅亡の憂き目を見たが、由良国繁・長尾顕長兄弟は豊臣政権から咎めを
受けることなく帰参したのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

廃城後の経緯■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
秀吉の小田原平定後、関東地方の大部分は徳川家康の領土となり、金山城も廃城との沙汰が下された。しかし、
前田利家の約定通り由良氏は豊臣政権下でも生き残って、常陸国牛久(茨城県牛久市)に5435石の知行を得た。
斯くして、由良氏は牛久へと国替えされ、同時に金山城は破却される事となり120年余りの歴史に幕を閉じた。
江戸時代に入ると、1688年(元禄元年)に金山は幕府御用林の指定を受け、立ち入りは厳しく制限された。その為
旧金山城の遺構は手付かずで残され、近代にまで保全される形となる。ちなみに、金山はアカマツ林が多いので
松茸の特産地となり、1629年(寛永6年)から幕末の1867年(慶応3年)まで将軍家への献上品とされていた。徳川
将軍家への松茸献上は金山からのみ行われていたという。明治以降は皇室への献上品とされて、これは1964年
(昭和39年)まで続いた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、1872年(明治5年)金山は明治政府から民間に払い下げられ、1875年(明治8年)新田義貞を祭る新田神社が
山頂の実城跡に建立される。さらに時代が下り1934年(昭和9年)12月28日、金山城跡は国の史跡に指定された。
この時の史跡指定は山頂の実城域から西城域までの西尾根部分の18.3haが対象。これは群馬県で初めての国
史跡指定にござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで、金山城の二ノ丸付近には日の池と呼ばれる溜め池があり、また、大手口の脇には月の池という同様の
溜め池がある。国史跡指定を受けて、1937年(昭和12年)に日の池を発掘調査したが、この時は目新しい発見は
なかった。しかし、史跡整備のため1992年(平成4年)から金山城各所を再調査し、日の池も掘り起こした所、平安
時代以降に祭祀として用いられた遺構が発見された。よって、日の池は金山城の築城以前から存在する水場で、
単なる貯水池ではなく宗教的意味を持つ祭事の場ではないかと見られるようになった。一方、月の池は金山城の
築城と関連した貯水池と思われるものの、発掘結果の精査はまだ為されていないため、詳細は不明である。
ともあれ、金山城の発掘調査が進むにつれ新たな発見も多く、また、先に史跡指定された西尾根以外にも遺構は
残され、金山全山に及んでいるため2002年(平成14年)9月20日、国史跡の追加指定を受け申した。追加範囲は
北尾根・八王子山砦・大手士卒屋敷部分など79.5haにもなる。昭和の史跡指定部分と合わせると、実に97.8haと
いう広大な領域に広がった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした史跡追加指定と発掘調査結果を踏まえ金山城跡は大規模な史跡整備が行われ、往時を推定した立派な
石垣が復元された。これは単に「形を整えた」というだけでなく、石垣改修の経歴を保全したり地盤強化の目的に
使用されていた山岳城郭の特性とも言うべき排水路まで再現するという念の入った作業が為されており、敬服に
値する復元工事である。史跡をただ放置するだけの保存とは異なり、当時の姿を忠実に再現するこの方法は
山中城(静岡県三島市)などと同様に、今後の史跡整備のモデルケースになると思われる。あまりにも大規模な
改修工事である為、その是非は賛否両論分かれる所なのだが、城郭愛好家のみならず、観光客や初心者にも
「ひと目見て城跡を確認できる」というものなので、個人的にはこの方法は非常に有効であろうと考える所だ。
なお、金山城の発掘調査と復元作業は今後もさらに続けられる予定であり、最終的に戦国山城たる金山城の
雄姿が完全復活する事が大いに望まれる。駐車場なども用意されているので、登城するのは大変に楽な城跡。
2009年(平成21年)5月30日には金山城跡のガイダンス施設も開館。城の全容を学ぶ事ができる。また、それに
先立つ2006年(平成18年)4月6日、財団法人日本城郭協会から日本100名城の1つに選定され申した。■■■
上記の通り、初心者でも楽しめるように整備されており城跡からは太田の町を手に取れるような眺望が広がって
いるので、マニアにも初心者にもオススメしたい城郭でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
蛇足だが、三ノ丸の下段に「馬場曲輪」と呼ばれる曲輪があるものの、この場所は実際には馬場ではなかったようで
伝承に基づいて便宜的に使用されているだけの呼称である事を補記しておく。加えて、「金山城」と名の付く城は
全国各地にある為、この城は「太田金山城」と称される事も記しておく。■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡








上野国 小泉城

小泉城跡 内堀と主郭櫓台出隅

 所在地:群馬県邑楽郡大泉町城之内

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
★☆■■■



その名の如く、小泉氏の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で富岡城とも言うが、これは歴代城主である小泉氏が富岡氏とも名乗った事に由来する。その小泉氏、遡れば
関東武士の名門・結城氏へと辿り着く。即ち、1440年(永享12年)〜1441年(嘉吉元年)にかけて起こった結城合戦
(鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)の遺児が結城城(茨城県結城市)で室町幕府に挙兵した反乱)で反幕府勢の中心
人物となったのが結城中務大夫氏朝(うじとも)だが、その甥にあたる直光が小泉氏の祖であった。直光の父・久朝
(ひさとも、氏朝の弟)は結城合戦において戦死しており、当時まだ幼少の直光は乳母に抱かれながら結城城を逃れ
領国である西之山入琴辻なる場所へ落ち延びる。この後、成長した直光は領内の小泉郷で1489年(延徳元年)に
築城し小泉氏を名乗るようになったと言う。これが小泉城と小泉氏の始まりでござる。また、直光の父・久朝は足利
義政(室町幕府8代将軍)から上州甘楽郡富岡郷(群馬県富岡市)を拝領していた為、富岡の姓も有したとされる。
直光は小泉城を拠点に勢力を広げて、佐貫郡や吾妻郡、武蔵国深谷郡などに領土を拡大。この結果、古河公方
足利政氏に重用されるようになった。関東戦国化の機運に在って、斜陽の一途を辿っていた古河公方にとっては
奇跡的な復活を遂げた直光の存在は心強いものであったろうし、結城合戦以来、小泉氏側としても一貫して古河
公方家に忠勤していたようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
斯くして、主税介直光を初代とする小泉(富岡)氏は本拠・小泉城を代々受け継いでいく。直光の後、2代・玄蕃允
秀光は城下の用水路を整備し寺社の建立にも力を注いで、民心の安定に努めた。3代・主税頭秀信の頃になると、
上州をめぐる攻防戦は風雲急を告げる。1560年(永禄3年)、関東管領復興の大義を掲げた長尾景虎が越後から
関東へ侵攻、小田原の後北条氏を攻めようとした。関東の諸勢力は軒並みこれに臣従、小田原へ兵を進めたが
古河公方家に仕える秀信は(当時、既に古河公方家は有名無実化していたが)あくまでも公方家にのみ従う道を
選び、景虎には協力しなかった。しかし景虎は(後北条家の打倒こそ為せなかったが)関東管領上杉家の家督を
継承、上杉政虎(後の謙信)へと改名。名実共に“関東の守護者”を自認するようになった事で上野国へ大きな
影響力を発揮し、とうとう秀信もその配下に属するようになる。1562年(永禄5年)頃の事のようだ。■■■■■■
よって、小泉氏の軍勢は横瀬氏(上記金山城の項を参照)らと共に謙信の命令に従い西の武田氏(甲斐国)や
南の後北条氏(相模国・武蔵国)らと干戈を交えるようになる。上杉家の軍事命令書の中には小泉(富岡)氏の
動員兵力について記載されたものがあり、それによると近隣の横瀬氏や佐野氏(栃木県佐野市の国人領主)、
結城氏(小泉氏の宗家)等と比べかなり少ない人員を供出していたようだが、その反面、これらの諸家とも肩を
並べていた状況から“少数精鋭”だった事が窺える。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

後北条方に与する■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかしこの後、関東を巡る政治情勢は大きな変化を迎える。武田氏・後北条氏と駿河国の今川氏は三国同盟を
結んでいたが、今川治部大輔義元が桶狭間合戦で戦死した後、精彩を欠く今川氏に対して1567年(永禄10年)
武田信玄が同盟を破棄して侵攻を開始した。後北条氏は武田氏の裏切りに対抗して手切れを行い、長年の宿敵
だった上杉氏との同盟に転向する。このため、それまで緊張状態であった上野国では上杉家の影響力が引いて
いったのである。これにより秀信は、実質的な関東地方の太守となっていた後北条氏に対して服従する道を選ぶ。
それというのも、この頃になると由良氏が小泉氏の領土を侵犯していたので、領土奪還の為には後北条氏という
強大な勢力を後ろ盾にする必要があったからだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
秀信は間もなく高齢で死去、後を継いだ4代・清四郎(せいしろう)大炊介秀親(ひでちか)は1569年(永禄12年)
合戦中に矢が命中し、25歳の若さで戦死してしまう。秀親に子は居らず、難局の最中に当主を失った小泉氏は
遠戚に当たる小山氏(栃木県小山市の古豪、結城氏と小山氏は同族)から彦太郎重朝(しげとも)を養子に迎え
入れ、5代目当主とした。なお、重朝は秀高あるいは秀長とも記録されていてどれが正当な名か判然としない。
とりあえずここでは、対馬守秀長としておく。小泉氏の家督継承に当たり、主家である後北条氏からは1570年
(元亀元年)祝いの品として太刀一腰一文字が贈られたという。上杉氏から鞍替えし、上野国進出のみならず、
関東地方の要を制する小泉氏に対して後北条氏が神経を遣っていた様子が垣間見えよう。■■■■■■■■■
後北条氏の期待に対し秀長は存分に応え、数々の戦いに従軍した。1573年(天正元年)2月に足利・佐野勢を
撃退、1578年(天正6年)に起きた御館(おたて)の乱(謙信没後の上杉家における家督騒動)では北条安房守
氏邦(うじくに、鉢形衆を率いる後北条氏の大将)に従って遠征し、1584年(天正12年)には金山城を攻略、3代・
秀信以来の宿願であった由良氏降伏を達成させたのである。このように秀長は武勇に優れて、後北条氏から感状
(戦功を評価する書状)を幾度か受け取っている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
後北条氏に属していたこの期間、小泉城も大規模な改修が行われた。平城たる小泉城は中心にほぼ四角形を
した主郭(本丸)を置き、前衛となる東側に角馬出を構え、それらを囲うように大規模な二ノ丸が、さらにそれを
囲む三ノ丸が用意された囲郭式(輪郭式)の縄張りだ。各曲輪は幅の広い水堀で隔てられ、戦国末期の城郭
形態を見せる。主郭の規模は1辺およそ100mほどもあり、周囲を大掛かりな土塁が取り囲んでいる。特に北東
隅部には櫓台と思しき大きな嵩上げが成され、濠に突き出した横矢掛りの出隅(写真)までも用意されている。
また、主郭南西部は入隅の横矢折れになってござる。主郭を囲む水堀は幅がゆうに10mはあって、いずれも
鉄砲戦を考慮した形状だ。二ノ丸内部は隔壁となる土塁が随所に構えられ、部分的に北郭・西郭と呼ばれる
敷地を構成する。三ノ丸の外周には城下を北西から東へ分断する分水堀(龍泉院川)と、南西から南東へと
横切る立合堀(常光寺用水)が流れており、これらが天然の総堀となってござる。全体的に角ばった縄張り、
しかも総堀となる用水を取り込んでいる状況は如何にも“後北条流”の築城術を髣髴とさせる。現在は外堀の
殆どが埋め立てられ、二ノ丸以遠の曲輪は宅地造成されてしまったが、内堀よりも内部は完存に近い状態を
維持し、評価できる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

廃城、そして歴史公園へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、その後の小泉氏であるが、対馬守秀長が隠居した後、6代目・六郎四郎秀長(秀朝とも)が家督を継承。
織田信長が関東へ兵を向けて西上野を併呑した際には、滝川左近将監一益(織田家の関東方面軍団長)に
従ったとも言われるが、織田家の支配はごく僅かな期間だけであった為すぐに後北条家へ帰参。秀長は北条
陸奥守氏照(八王子城(東京都八王子市)主)に従い、各地を転戦し武功を上げたとされる。ところが1590年
豊臣秀吉が天下統一の為に小田原後北条氏への攻撃を開始。秀長は弟・新三郎秀高と共に500騎を率いて
小田原城へと向かう。(館林城の守備隊であったとも言われる)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城主不在となった小泉城には豊臣方の浅野弾正少弼長政・前田孫四郎らが攻め寄せた。圧倒的な兵力差の
前に、城方は戦いを諦め降伏。斯くして、小泉城は廃城の運命を辿るのだった。一方、小泉城から離れていた
秀長は宛てを失い、後に大坂夏の陣で徳川方として参戦したが討死した。ここに、小泉城と小泉氏は歴史の
舞台から消え去ったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、二ノ丸の西郭部分は北中学校の敷地になっている。主郭部と二ノ丸北郭は城之内公園になっており、
周囲は閑静な住宅街。史跡保護の為、ブロック積み等の補強が入っているものの、この部分に関して言えば
遺構の残存状況は極めて良好だ。江戸時代から明治時代にかけて、民間信仰により城址土塁周辺に多数の
庚申塔が設置されたが、1974年(昭和49年)このうちの85基が二ノ丸北郭部分に集中移設されている。■■■
また、そのすぐそばには近隣住宅地にあった城之内古墳が1978年(昭和53年)に移設された。古墳は5.4mの
石室を持つ横穴式石室古墳、その形状や太刀・耳環などの出土品から7世紀後半の築造物と見られている。
(古墳の移設、というのもあまり聞かない話だが…)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小泉城址、ならびに城之内古墳は一体のものとして1979年(昭和54年)11月30日に大泉町の指定史跡に指定
されている。余談であるが「大泉町」にある「小泉城」というのは不思議な話なのだが、「大泉」の町名は1957年
(昭和32年)3月31日の町村合併で当時の「大川村」と「小泉町」が合体した為に生まれた新地名なので、元々
この場所の地名は「小泉」であった事を補記しておく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は町指定史跡




松井田城・後閑城  新田荘遺跡