国境防衛の重要拠点■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上州三山の一つ妙義山。奇岩が群れをなすこの山の麓は天険・碓氷峠であり、昔から交通の難所であった。この峠を越えれば
信州に繋がり、難所であるが故、また要所でもある。平安の頃から関所が置かれ、松井田の町は中山道における関東地方の
防衛拠点であった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
松井田城の起源・築城主に関しては諸説あり判然としないが、一般的に言われるのが1560年(永禄3年)頃、碓氷郡に根を張る
国人領主・安中氏の手によるというもの。元来は越後国の出身と言う安中氏は室町中期に碓氷郡へ居を移したとされ、次第に
戦国武士化した。時の当主・安中越前守忠政は、松井田に隣接する安中に安中城(安中市内)を築いて嫡子・七郎三郎忠成を
入れ、自身は松井田に城を構えて信濃から迫り来る脅威に備えた。これが松井田城の創始とされるが、それ以前からここには
諏訪城と呼ばれる城があったとも言う。諏訪城は諏訪氏による築城だとされるが、詳しくは分からない。とりあえず、諏訪城を
改修・拡張する形で松井田城が築かれたのだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、信濃からの脅威というのは甲斐武田家の軍勢である。甲斐国内を統一し、信濃を併呑した武田大膳大夫晴信(信玄)の
勢いは北進して越後方面へと向かっただけでなく、東の上野国へも及ばんとしていたのだ。碓氷峠を突破し、信濃から上野へ
侵攻する武田軍が真っ先に攻略対象としたのが松井田城だった。1561年(永禄4年)、武田方は松井田城と安中城を分断する
位置に八幡平陣城(安中市内)を築いて安中領の撹乱を画策、安中方の疲弊を狙う。この長囲戦の結果、1564年(永禄7年)の
夏に松井田・安中の両城が落城。城主の安中忠政は自刃したとも、降伏したとも伝わり、斯くして安中領は武田の手に渡った。
信玄は市川国貞を松井田城代とする。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後、しばらくは武田氏による支配が続くも1582年(天正10年)3月、織田信長に敗れた武田勝頼(信玄没後の武田氏当主)が
自害したため空白地となった松井田には小田原の後北条氏が入る。ところが武田遺領には続々と織田軍が侵攻、松井田城も
織田方の手に落ち、いったん後北条氏は手を引く。しかしそれも長く続かず、同年6月2日に今度は信長が本能寺の変で落命、
織田領最東端だった上州は大混乱に陥り、織田家の関東方面軍司令官であった滝川左近将監一益は形勢を立て直せぬまま
領国を放棄し伊勢国へと退却してしまう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大道寺政繁の去就■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
故に改めて後北条氏が松井田城を接収し、ここに後北条氏による松井田城支配が開始される。関東を手中にした後北条氏は
そのまま信濃の奪取も計画していたが、政治的駆引きによりそれは達成されなかった。このため、松井田城は安中時代と同様
信濃方面への最前線城郭として重きを為す事となる。松井田城の重要性を鑑みた後北条氏は、「後由緒家」と呼ばれる家格の
一家・大道寺(だいどうじ)氏を松井田城に配する。後由緒家とは、後北条氏創業の頃から家臣として仕えていた譜代重臣の
家柄を指し、特に大道寺家は後北条家臣団の中で宿老と呼べる最高家格を誇っていたのでござる。■■■■■■■■■■■
こうして大道寺駿河守政繁が城主となった松井田城は大規模な改修が行われた。旧来の縄張りを活用しつつ、戦国最末期の
城郭となった松井田城は安中時代から続く曲輪・安中郭と、大道寺氏によって新たに構築された曲輪の大道寺郭が並立する
“一城別郭”の様相を呈し、これにいくつもの付属曲輪や多重堀切などが配置されている。現在に残る城址遺構はこの改修の
結果によるもの。城域は東西1.5km×南北1kmにも及び、比高130m程の山が全山城郭化された総合要塞は信濃から関東を
睨む徳川家、次いで豊臣家に対する最前線として相応しいものと言えよう。なお、政繁とその養子・隼人直英は共に築城の
名手とされており、松井田城の改修工事にも彼らの手腕が存分に発揮されたと想像できる。■■■■■■■■■■■■■■
斯くして“関東の北辺を守る要衝”となった松井田城であるが、1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐に際して最初の
攻略地となる。秀吉は東海道・中山道の両方から兵を進め、信濃から侵入した前田又左衛門利家・上杉弾正少弼景勝・真田
安房守昌幸らから成る豊臣軍が松井田城に攻めかかったのである。碓氷峠での迎撃を果たせなかった政繁は籠城戦に切り
替えていて豊臣の大軍に備えており、数千とも言われる兵が松井田城に立て籠もっていた。3月20日、攻城側が総攻撃を
かけるが城は落城しない。このため、両者とも持久戦の構えとなった。およそ1ヶ月に及ぶ戦闘により、城は少しずつ曲輪を
占拠されていく。劣勢となりつつあった政繁は孫を城から脱出させたが、攻め手の真田昌幸は敢えてこれを見逃したと言う。
なおも続く攻撃で水脈を絶たれ、兵糧も焼き討ちされてしまい、万を越す大軍には敵わじと見た守将・大道寺政繁は4月22日
遂に降伏、開城したのだった。これにて松井田城は役目を終え、小田原戦役後に廃城となり申した。なお、城を出た政繁は
一転して他の後北条方支城への案内役を買って出ており、戦後に譜代重臣らしからぬその変わり身を秀吉から非難されて
切腹を命じられた。松井田城下、政繁の屋敷があったとの場所には曹洞宗大泉山補陀寺が開かれ彼の墓所となっている。■
現在の城跡はほとんど誰も訪れない静かな山の中。ただ、城址として一応整備されており登城も比較的楽。竪堀や馬出の他
虎口なども原型を留めている。“山城に目覚め(てしまっ)た人”にはオススメの城跡でござろう。このため1974年(昭和49年)
6月27日、松井田城安中郭跡が当時の松井田町(現在は合併により安中市)指定史跡になっている。■■■■■■■■■
別名で霞ヶ城・小屋城・堅田城など。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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