上野国 松井田城

松井田城本丸址

 所在地:群馬県安中市松井田町新堀・松井田町高梨子
(旧 群馬県碓氷郡松井田町新堀・高梨子)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★★■■
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国境防衛の重要拠点■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上州三山の一つ妙義山。奇岩が群れをなすこの山の麓は天険・碓氷峠であり、昔から交通の難所であった。この峠を越えれば
信州に繋がり、難所であるが故、また要所でもある。平安の頃から関所が置かれ、松井田の町は中山道における関東地方の
防衛拠点であった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
松井田城の起源・築城主に関しては諸説あり判然としないが、一般的に言われるのが1560年(永禄3年)頃、碓氷郡に根を張る
国人領主・安中氏の手によるというもの。元来は越後国の出身と言う安中氏は室町中期に碓氷郡へ居を移したとされ、次第に
戦国武士化した。時の当主・安中越前守忠政は、松井田に隣接する安中に安中城(安中市内)を築いて嫡子・七郎三郎忠成を
入れ、自身は松井田に城を構えて信濃から迫り来る脅威に備えた。これが松井田城の創始とされるが、それ以前からここには
諏訪城と呼ばれる城があったとも言う。諏訪城は諏訪氏による築城だとされるが、詳しくは分からない。とりあえず、諏訪城を
改修・拡張する形で松井田城が築かれたのだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、信濃からの脅威というのは甲斐武田家の軍勢である。甲斐国内を統一し、信濃を併呑した武田大膳大夫晴信(信玄)の
勢いは北進して越後方面へと向かっただけでなく、東の上野国へも及ばんとしていたのだ。碓氷峠を突破し、信濃から上野へ
侵攻する武田軍が真っ先に攻略対象としたのが松井田城だった。1561年(永禄4年)、武田方は松井田城と安中城を分断する
位置に八幡平陣城(安中市内)を築いて安中領の撹乱を画策、安中方の疲弊を狙う。この長囲戦の結果、1564年(永禄7年)の
夏に松井田・安中の両城が落城。城主の安中忠政は自刃したとも、降伏したとも伝わり、斯くして安中領は武田の手に渡った。
信玄は市川国貞を松井田城代とする。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後、しばらくは武田氏による支配が続くも1582年(天正10年)3月、織田信長に敗れた武田勝頼(信玄没後の武田氏当主)が
自害したため空白地となった松井田には小田原の後北条氏が入る。ところが武田遺領には続々と織田軍が侵攻、松井田城も
織田方の手に落ち、いったん後北条氏は手を引く。しかしそれも長く続かず、同年6月2日に今度は信長が本能寺の変で落命、
織田領最東端だった上州は大混乱に陥り、織田家の関東方面軍司令官であった滝川左近将監一益は形勢を立て直せぬまま
領国を放棄し伊勢国へと退却してしまう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

大道寺政繁の去就■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
故に改めて後北条氏が松井田城を接収し、ここに後北条氏による松井田城支配が開始される。関東を手中にした後北条氏は
そのまま信濃の奪取も計画していたが、政治的駆引きによりそれは達成されなかった。このため、松井田城は安中時代と同様
信濃方面への最前線城郭として重きを為す事となる。松井田城の重要性を鑑みた後北条氏は、「後由緒家」と呼ばれる家格の
一家・大道寺(だいどうじ)氏を松井田城に配する。後由緒家とは、後北条氏創業の頃から家臣として仕えていた譜代重臣の
家柄を指し、特に大道寺家は後北条家臣団の中で宿老と呼べる最高家格を誇っていたのでござる。■■■■■■■■■■■
こうして大道寺駿河守政繁が城主となった松井田城は大規模な改修が行われた。旧来の縄張りを活用しつつ、戦国最末期の
城郭となった松井田城は安中時代から続く曲輪・安中郭と、大道寺氏によって新たに構築された曲輪の大道寺郭が並立する
“一城別郭”の様相を呈し、これにいくつもの付属曲輪や多重堀切などが配置されている。現在に残る城址遺構はこの改修の
結果によるもの。城域は東西1.5km×南北1kmにも及び、比高130m程の山が全山城郭化された総合要塞は信濃から関東を
睨む徳川家、次いで豊臣家に対する最前線として相応しいものと言えよう。なお、政繁とその養子・隼人直英は共に築城の
名手とされており、松井田城の改修工事にも彼らの手腕が存分に発揮されたと想像できる。■■■■■■■■■■■■■■
斯くして“関東の北辺を守る要衝”となった松井田城であるが、1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐に際して最初の
攻略地となる。秀吉は東海道・中山道の両方から兵を進め、信濃から侵入した前田又左衛門利家・上杉弾正少弼景勝・真田
安房守昌幸らから成る豊臣軍が松井田城に攻めかかったのである。碓氷峠での迎撃を果たせなかった政繁は籠城戦に切り
替えていて豊臣の大軍に備えており、数千とも言われる兵が松井田城に立て籠もっていた。3月20日、攻城側が総攻撃を
かけるが城は落城しない。このため、両者とも持久戦の構えとなった。およそ1ヶ月に及ぶ戦闘により、城は少しずつ曲輪を
占拠されていく。劣勢となりつつあった政繁は孫を城から脱出させたが、攻め手の真田昌幸は敢えてこれを見逃したと言う。
なおも続く攻撃で水脈を絶たれ、兵糧も焼き討ちされてしまい、万を越す大軍には敵わじと見た守将・大道寺政繁は4月22日
遂に降伏、開城したのだった。これにて松井田城は役目を終え、小田原戦役後に廃城となり申した。なお、城を出た政繁は
一転して他の後北条方支城への案内役を買って出ており、戦後に譜代重臣らしからぬその変わり身を秀吉から非難されて
切腹を命じられた。松井田城下、政繁の屋敷があったとの場所には曹洞宗大泉山補陀寺が開かれ彼の墓所となっている。
現在の城跡はほとんど誰も訪れない静かな山の中。ただ、城址として一応整備されており登城も比較的楽。竪堀や馬出の他
虎口なども原型を留めている。“山城に目覚め(てしまっ)た人”にはオススメの城跡でござろう。このため1974年(昭和49年)
6月27日、松井田城安中郭跡が当時の松井田町(現在は合併により安中市)指定史跡になっている。■■■■■■■■■
別名で霞ヶ城・小屋城・堅田城など。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等
安中郭は市指定史跡








上野国 後閑城

後閑城址公園 妙義山遠望

 所在地:群馬県安中市中後閑・下後閑

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★★★



美麗に整備された山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
安中市立後閑(ごかん)小学校の裏山、後閑城址公園として綺麗に整備されている一帯が後閑城址で、遊歩道や駐車場なども
総て揃っており実に来訪しやすい山城である。しかも遺構を棄損するような過度に手を入れた整備でないため、実に見やすくて
秀逸な城跡となってござる。さながら、山城の整備例として名の挙がる山中城(静岡県三島市)を彷彿とさせてくれる。■■■■
標高274mを数える山頂を啓開し主郭と成し、そこから東側へ降りる斜面も造成して東郭を構築。この東郭は上段と下段に分割、
二段構えの曲輪となっている。東郭より先は尾根が二手に分かれるので、その支尾根も同じように段曲輪としているが、支尾根
外辺は急峻な崖となって周りと隔絶している。現在、南側の支尾根にある二郭に摸擬の井楼櫓が建てられているが、戦国時代の
物見櫓と言うにはいささか立派過ぎて少々不釣合い(笑)一方、主郭から西側に対しても斜面を削って平場を作り、西一郭さらに
西二郭を作ってござる。西側の曲輪群は東側に比べて大きな面積を有しているが、これは山容そのものが西斜面において緩い
傾斜になっている事を利用したものだ。緩斜面である分、切岸の造成は急角度で切り立っている。西三郭が現状で駐車場に。
この他、北側や南側にも支尾根が出ており、そこにもそれぞれ曲輪群が形成されているので全山において城址遺構が堪能でき
素晴らしい山城だ。曲輪毎の間には巨大な堀切を穿ち、侵入経路を分断するようになっているが、特に北郭側の堀切は深い。
写真はまさしく主郭と北曲輪群の間に掘られた大堀切で、深さはゆうに5mを越えており、幅も非常に大きい。さがなら小田原城
(神奈川県小田原市)の小峰大堀切…とまではいかないが、それくらいのスケール感がこの堀切で味わえる。と云うか、写真の
通り遥か彼方には妙義山が見渡せる為、眺望まで含めればこちらの方が雄大な感覚を楽しめよう。これらの曲輪は自然地形を
上手く削り取って形造られ、無理に成形していないのに折れ邪がかかったりしていて“天然と人工の融合”が実に良く出来ている。
要所要所を見るに感嘆する構造だが、但し散策路の掘削で虎口などは潰されてしまった状況が何とも惜しい。■■■■■■■
主郭は東西30m×南北60mという長方形。城全体としては東西350m×南北220mほどに至っている。■■■■■■■■■■■

次々と替わる城主■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、後閑城なのだから後閑氏の城、と云う訳ではなさそうなのが難しい処。元を辿るとこの城を築いたのは信濃の国人・依田
内匠頭忠政(よだただまさ)という人物だそうで、1441年(嘉吉元年)から1447年(文安4年)頃まで(年代には諸説あり)掛かった
らしい。信濃の依田氏と言えば武田信玄に従い、その系譜は後に徳川家臣となった一族だが、後閑に入った系統の依田氏は
異なる道を歩んだようで、忠政―信濃守政知―光慶と続き、光慶は箕輪城(群馬県高崎市)主・長野信濃守業政(なりまさ)の
11女を娶った事で長野氏配下となり、1538年(天文7年)に板鼻鷹巣城(群馬県高崎市)へと居を移した。代わって後閑城には
北条四郎政時なる者が入ったようだが、その詳しい経緯は分からない。政時と云うのは鎌倉幕府執権(幕府の最高統括者)で
あった北条陸奥守政村(第7代執権)の後裔なんだとか。恐らくこの時点までは、後閑城は箕輪長野氏の影響下にあったと言う
事なのでござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1555年(弘治元年)又はその翌年、北条政時を滅ぼして新田主水正景純が後閑城を奪った。新田姓である事から分かるように
景純は上州新田荘(群馬県太田市)の新田氏、鎌倉幕府を倒した新田左馬助義貞に繋がる一族なのだとか。新田義一―重兼
兼重―義景―義行―行兼―景純という系譜が示されているものの、最初の義一なる者は新田義貞の子だとも、或いは里見氏
(新田家の分流)から始まる者だとも言われて判然としない。また、新田義貞の弟に義重がおり、そこから義兼―兼義―義景
義行―行崇―景純と繋がる説もある。さらにさらに、太田金山城(群馬県太田市)を築いた岩松氏(これも新田家分流)からの
子孫が景純だとするものも。どれが本当なのかさっぱり分からないが、とりあえず“新田の者”と言う事だけは共通してござる。
いずれにせよ、景純の跡を継いだ伊勢守信純は後閑に改姓、ようやく後閑氏の登場となる。■■■■■■■■■■■■■■
そしてここからも話が分かれる。まず、信純は長野氏に従っていたものの武田信玄が信濃から上野へ侵攻、1563年(永禄6年)
後閑城が武田軍に落とされ服従するようになったとする説。もう一つは、信純は独立自尊を保っていたが上杉氏の圧迫を受け
(長野氏は上杉方の重鎮)1559年(永禄2年)の時点で国を捨て武田信玄の下に逃れたという説。1559年から越後の長尾景虎
(上杉謙信)が関東への攻勢を強め、1560年〜1561年にかけて小田原後北条氏に対する攻略を行っており、この際に関東の
諸勢力は従属を余儀なくされているが、後閑信純はそれに従わなかったため長野氏から攻めかけられ、武田の庇護を求めたと
されている。前者と後者、どちらが真実かは分からないが状況から考えて後者の方が順当?北条政時(長野氏方)の後閑城を
後閑氏が奪ったのだから、長野方(上杉氏)に敵対していたのが筋書きとしてあり得るのではないかと思われる。■■■■■■
後閑信純が頼った武田信玄は上州への攻勢を強めて、前者の説にある通り1563年に西上野を領国化した。この折、後閑城は
信純に戻されて、城主に復帰。城を取り返した信純は真純と改名している。そして1582年、武田家が滅亡すると後閑氏も分岐。
真純の長男・下野守信重は厩橋城(群馬県前橋市)に居た北条丹後守高広(きたじょうたかひろ)に従い、真純の2男・形部少輔
重政が後閑城主の座を継承、3男の宮内少輔信久は重政に与した。後閑氏は信重の系統と重政の系統に分かれて「両後閑」と
称されるようになるが、いずれにせよ小田原後北条氏に従うようになっていったようだ。豊臣秀吉の小田原攻略時、両後閑は
小田原城での籠城を命じられており、留守になった後閑城は松井田城(上記)の大道寺政繁が統括しているものの、豊臣軍の
攻略で松井田城が落ちると、同様に後閑城も廃されたと言う。以後、特に再利用などもされずに現代へ至り、冒頭に記した
城址公園として整備される事になるのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、後北条氏滅亡と共に両後閑も歴史上から姿を消すが、後閑氏の縁戚と見られる後閑善兵衛・新兵衛の名が井伊家の
家臣の中に残されてござる。井伊家は徳川家康の関東移封後、箕輪城へ入っており、後閑氏の残党がそれに含まれた事は
想像に難くない。結局、後閑城は最初から最期まで箕輪城と切っても切れない関係にあったと言う事なのだろう。■■■■
1969年(昭和44年)6月30日、安中市史跡に指定されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡




館林周辺諸城郭  金山城・小泉城