狐が教えた縄張り?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
正確な築城年代は不明だが、伝説に残る有名な経緯では1556年(弘治2年)赤井照康(しょうこう)が館林城を築いたとされて
ござる。他、1530年(享禄3年)若しくは1532年(天文元年)に赤井照光(同じくしょうこう)の手によるという説もある。赤井氏に
よる築城の伝説とは、新規築城にあたって縄張りに悩んでいた折、照光(照康)が怪我をした子狐を助けたところ、稲荷の
化身である白い霊狐が現れ、尾を曳いて縄張りの案を授けたというもの。このため館林城は別名で尾曳城と呼ばれるが、
「狐の尾曳伝説」は江戸時代になってから書かれた書物に記載があるだけで、もちろん信憑性は薄く、実際には築城時期や
築城者を明確にした記録は現在まで発見されていない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
館林城について書かれた最古の文書は、現在確認されているものの中では1471年(文明3年)上杉軍が赤井文六・文三の
居城である立林(館林)城を攻略したという記録である。当然、尾曳伝説より半世紀以上遡る年代であるため、やはり正確な
築城年代は不明としか言いようがない。ともあれ、赤井氏が城主を務めていた事は間違いないようで、館林と目と鼻の先に
居る古河公方(こがくぼう、室町幕府が東国支配のため設置した鎌倉公方が後に幕府から独立したもの)に従っていた赤井
一族は関東の覇権を争う争乱に巻き込まれていく。上野国南部の突端に位置する館林は足利・古河などと隣接する政治
経済・文化・交通の要衝であったからだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さらに、古河公方や関東管領(室町体制における実質的な関東の統括者)といった旧権力が有名無実のものとなり、南から
小田原の後北条氏、北から越後の上杉氏が勢力を伸ばした時代になるとこれら2大勢力の狭間にあった館林の地は重要な
戦略拠点として認識され、それに伴って何度も激しい戦いが繰り広げられた訳だが、1562年(永禄5年)に越後から越山して
関東へ侵攻した上杉謙信は、上野国(群馬県)南端の拠点として館林城を欲して軍を差し向けた。これに対して城主・赤井
照景は多勢に無勢と観念して城を放棄、利根川を渡った先の武蔵国忍城(埼玉県行田市)へと落ちていく。謙信は接収した
館林城を足利城(栃木県足利市)主であった配下部将の長尾但馬守景長(足利長尾氏)に与えた。景長の妻は照景の姉、
即ち照康の娘だと云うが、義兄弟の照景・景長は片や謙信に敵対し、片や謙信に従属し袂を分かったのである。これ以後、
館林城は足利長尾氏の持城になる。景長は1569年(永禄12年)7月15日に死去、養子の顕長が跡を継いだ。■■■■■■
翌1570年(元亀元年)越相同盟の成立で一時的に上杉氏と後北条氏が和睦すると、館林城主の座は謙信配下の広田直繁
(景長の娘婿)に交代したが1571年(元亀2年)北条左京大夫氏康が没した事で再び上杉氏と後北条氏が対立関係になるや
長尾顕長が城主に復帰。顕長は家名保持のため上杉と北条の両者に誼を通じており、由良氏が守る近隣の太田金山城
(群馬県太田市)と連携して防備を固めた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし、去就定まらぬ顕長を警戒、北伐の障害を除きたい後北条氏は直接戦闘ではなく謀略を以って城を奪う作戦を展開
した。即ち、金山城主・由良式部大輔国繁と館林城主・長尾顕長を小田原へと誘い出して軟禁、その隙に軍を送り両城を
奪取したのである。これにより城主に北条左馬助氏規(うじのり)が就き、城代として南条因幡守昌治が置かれた。1584年
(天正12年)の事だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
斯くして、後北条氏の支配下に置かれた館林城。ところがその後北条氏は豊臣秀吉の関東征伐によって倒されてしまう。
小田原攻めに連動して関東各地の後北条方城郭は豊臣軍の攻略を受けたが、館林城も例外でなく石田治部少輔三成や
大谷刑部少輔吉継が率いる1万9000の兵に包囲されている。もっとも、沼地に浮かぶ堅城である館林城は容易に落ちず、
力攻めではなく和議開城になった。ちなみに、攻城軍が沼に多数の丸太を浮かべて翌日の攻撃路を確保しようとした処、
翌朝にその丸太はことごとく底に沈んでしまっていたという。沈む筈のない木材が消え失せるとは、やはり館林城は狐の
霊力に守られているともっぱらの噂になったようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
幕府重鎮が城主歴任■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、1590年(天正18年)秀吉の命により後北条家旧領へ徳川家康が入ると、館林城は徳川四天王の一人・榊原式部大輔
康政の預かりとなった。10万石で入府した康政は城下町の整備を行い、館林城を近世城郭へと生まれ変わらせる。康政の
隠居・死没によって1606年(慶長11年)榊原遠江守康勝が跡を継ぎ、さらに1615年(元和元年)には式部大輔忠次へと代が
替わるものの榊原氏の治世は3代で終わり、1643年(寛永20年)陸奥国白河(福島県白河市)へ移されてしまった。館林は
一時的に天領となるが、翌1644年(正保元年)新たに館林城主となったのが大給(おぎゅう)松平和泉守乗寿(のりなが)。
石高は6万石、遠江国浜松(静岡県浜松市)からの移封でござった。1654年(承応3年)に没するとその遺領(5万3000石)は
宮内少輔乗久(乗寿の長男)が相続したものの、下総国佐倉(千葉県佐倉市)へ1661年(寛文元年)閏8月に移される。■■
それに替わり館林城主となったのが松平右馬頭綱吉、後の徳川綱吉だ。3代将軍・徳川家光の4男にして、4代将軍・家綱の
弟である。もともと綱吉は将軍家末子として分散した所領15万石分を与えられていたが、それらを整理の上10万石を加増し
館林で25万石を保持するようになった。こうして綱吉は一大名として家を立てた事になり、館林徳川家が成立したのだ。■■
ところが、程なくして家綱が嗣子の無いまま危篤となり、急遽養嗣子にされ徳川宗家を継ぐ立場になった。このため、綱吉は
江戸城(東京都千代田区)に入り館林徳川家は当時まだ3歳であった徳松(綱吉の子)が相続。時に1680年(延宝8年)5月の
事でござる。家綱は同月8日に死去し綱吉が5代将軍の座に就任。館林城は将軍輩出の城として重きを為すようになるが、
1683年(天和3年)閏5月28日まだ5歳の徳松が病死してしまい、悲嘆に暮れた綱吉は館林徳川家を絶家とし、城も破却して
しまった。このため、館林はまたもや天領に。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その後、1707年(宝永4年)館林領は2万4000石を以って越智松平出羽守清武に与えられた。これにて廃城だった館林城が
再興され、1710年(宝永7年)には1万石、1712年(正徳2年)さらに2万石が加増され、合計5万4000石の所領となる。清武の
死没によってこの所領が1724年(享保9年)養子の肥前守武雅(たけまさ)へ受け継がれたが、1728年(享保13年)武雅が
死去した事により養子の武元(たけちか)が越智松平家を相続する折、陸奥国棚倉(福島県東白川郡棚倉町)へと移され、
代わってその棚倉から太田備中守資晴(すけはる)が5万石で館林に入封する。だが資晴は1734年(享保19年)大坂城代に
任じられた為、館林領はまたも天領化。1740年(元文5年)資晴の子である摂津守資俊(すけとし)が館林に復するも1746年
(延享3年)遠江国掛川(静岡県掛川市)へ移されてしまい、結局松平武元が棚倉から戻る。その石高は5万4000石。1769年
(明和6年)7000石を加増され6万1000石に。これが1779年(安永8年)に右近将監武寛(たけひろ)に相続され、継いで1784年
(天明4年)主計頭斉厚(なりあつ)へ受け継がれる。しかし1836年(天保7年)石見国浜田(島根県浜田市)へ移封となった為
代わって井上河内守正春が6万石で館林城主に就く。こちらも陸奥国棚倉からの転封だった。その正春は1845年(弘化2年)
遠江国浜松(静岡県浜松市)へ。実にめまぐるしく変遷する館林城主の座であったが、秋元但馬守志朝(ゆきとも)が出羽国
山形(山形県山形市)から6万石で入ったのが最後の転封となった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
実はこの志朝、秋元家には養子で入った人物で、実父は周防徳山藩(山口県周南市)主の毛利大和守広鎮(ひろしげ)で
ある。時は幕末、幕府と長州藩の関係が悪化、遂に1864年(元治元年)7月19日に蛤御門の変が起きると志朝は毛利家へ
内通を疑われてしまった。幕府としては、江戸の北辺を守る館林に謀反の芽があっては一大事という事だったのだろう。
志朝は強制的に隠居させられ、同年10月27日に養子であった秋元但馬守礼朝(ひろとも)が家督を継ぐ。さりとて、時代の
流れは倒幕に傾き、1868年(明治元年)戊辰戦争において礼朝は早々に新政府軍へ恭順。そのまま版籍奉還を経て廃藩
置県に至り、ここに館林城の役割は終わった。館林県が設置されるも、1874年(明治7年)の大火で城の建物は焼亡し、
結局は県も統合されて群馬県の一部になったため城地の意味はなくなり、旧来の館林城遺構はほとんど滅してしまった。
現在の館林城跡地には館林市役所や文化会館などの施設が建ち並んでいる。■■■■■■■■■■■■■■■■■
沼に守られた縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて城の縄張りはと言えば大半を沼地に面した水城の作り。館林近辺は利根川・渡良瀬川流域にあるため湿地・湖沼が
多く(近世館林が隆盛したのも、利根川の水運の益による点が大きい)城は天然の沼をそのまま濠として活用している。
濠代わりの沼、その名も城沼(じょうぬま)の中心部に本丸が浮かび、その南・東側を包むように八幡郭が連なっていた。
本丸には三層の天守代用櫓が建てられていたと言う。八幡郭の西に二ノ丸、そのまた西へと三ノ丸が連結する連郭式の
縄張り。三ノ丸の西がようやく沼の西岸に繋がっており、主郭部は北・東・南が沼によって陸地から隔絶した状態になって
いる。確かに、石田三成が攻めようにも簡単にはいかなかった事だろう。さらに、三ノ丸の北側(城沼の北岸)に外郭が
置かれ、その外郭は東に向かって稲荷曲輪や尾曳郭が接合。つまり、横一列に並ぶ三ノ丸〜二ノ丸〜八幡郭・本丸の
一群と、外郭〜稲荷曲輪〜尾曳郭が並列している。この構造を見ると、一城別郭のようにも思える。あるいは、主郭群の
北に防波堤のような外郭群が横たわっていると言うべきであろうか。加えて、城下を囲い込んだ巨大な外郭線も構成して
いたらしい。平城の強みで外郭を大きく拡張でき、湿地帯をも要害として取りこみ、石垣がなくとも土塁は幅広く強固に
固められていたので関東でも有数の堅城であった。湖沼に浮かぶ水城であるため、防波堤の意味を含めたこの土塁は
かなりの規模を誇ったようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、城沼は干拓や埋め立てにより大半が陸地となってしまい、城跡と連接する部分は残っていない。また、城跡自体も
破却や明治以降の市街化により残存する遺構が殆んど無い。しかし全滅した訳ではなく、本丸・三ノ丸の土塁、尾曳郭の
塁線などが残る。これが館林城の姿を思い起こさせる一助となっているが、特に三ノ丸土塁は高さ5m近くもある巨大な
もので、さすが水城の堤だと感心させられる。館林城跡を見学するにあたって、最も見所になっている点と言えよう。その
三ノ丸土塁に付け加える形で、三ノ丸土橋門と土塀が1983年(昭和58年)復元された(写真)。これは前年の発掘調査に
基づいて再建されたもので、控扉を備えた堂々たる四脚門。門礎は3基を数え、三ノ丸西端にある通用門として用いられ
その名の由来となった土橋が城の外側に延びていた。土橋は城沼利用の濠をまたいでいた訳だが、その幅は20m近くも
あったという。門扉には防御用に黒色の鉄板が打ち付けられていたため、地元では「黒門」とも呼んでおり申す。なお、
門の内側には蔀(しとみ)土居があり、開放的ながら内枡形を形成しているのだが、珍しい事にその枡形内に井戸が設置
されている。通常、生命線である井戸は城の奥深くに置かれ最外部に近い門の目前に作る事例はあまり無い。もっとも、
水城なので他にいくらでも用水を調達する手段はあっただろうから、当城の場合は井戸の位置にそれほど神経質になる
必要は無かったのかもしれない。それよりも注目すべきは蔀土居だろうか。開門時に城外から内部を見透かされぬように
した目隠し土塁の事だが、群馬県内唯一の遺構と言われており、それなりに価値のあるものだろう。1973年(昭和48年)
4月1日、城跡は市指定史跡となり1987年(昭和62年)8月7日、本丸土塁と八幡宮が追指定になっている。また、館林城で
用いられていた城鐘が城下の時宗館林山応声寺(館林市西本町)に残されており、こちらは1953年(昭和28年)8月25日に
群馬県指定重要文化財となっており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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