下野国 桜町陣屋

桜町陣屋跡 現存建築物

 所在地:栃木県真岡市二宮町物井
 (旧 栃木県芳賀郡二宮町物井)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
★★■■■



二宮金次郎の陣屋■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸時代中期〜末期の小田原城(神奈川県小田原市)主・大久保家の飛地陣屋として1699年(元禄12年)
築かれたもの。1698年(元禄11年)10月16日、時の小田原藩主・大久保加賀守忠朝(ただとも)が隠居して
長男・隠岐守忠増(ただます)へ家督相続した際に、忠増の弟(忠朝3男)・教信(のりのぶ)へ飛地であった
下野国芳賀郡内3ヶ村(物井村・横田村・東沼村)の4000石を分知。これに伴って翌年、物井村に知行地
統治の陣屋が作られた。これが桜町陣屋でござる。大久保家は本姓が宇都宮氏である為、教信は独立に
於いて改姓、宇津教信と名乗るようになった。以後、この陣屋は宇津氏の采地陣屋として明治まで続くが
旗本寄合の宇津家は江戸定府(江戸に常駐し在地には戻らない)とされていた為、桜町陣屋には役人を
派遣し、統治の実務に当たらせていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで陣屋成立から1世紀を経て、江戸時代後期になるとこの地の農村は荒廃を極め、4000石の石高は
公称で3000石、実高では800石程度にまで激減していたと伝わる。打ち続いた飢饉や圧政の結果、農民の
逃亡は相次いで、残されていた者も勤労意欲を失い、生産は上がらなかった。宇津家の困窮を見かねて
本家の大久保家からも財政回復の人材が度々送り込まれたが、いずれも上手く行かない。そんな中で、
宇津家5代目・教成(のりなり)の頃に小田原での財政再建で絶大な手腕を発揮した人物が桜町陣屋へと
やって来る。類稀なる農政家として名高い二宮金次郎こと二宮尊徳(そんとく)でござる。■■■■■■■
尊徳は小田原藩内の貧しい農民出身ではあるが、才覚を働かせて自身の家を復興させたのみならず、
近隣農村も発展させ、更には藩の重臣・服部家の負債を整理し“小田原にその人あり”と知られるように
なっていた。当時の藩主・大久保加賀守忠真(ただざね)は小田原藩の財政再建も彼に託そうとするが
藩内には農民出身の尊徳が藩の財務役に取り立てられる事を嫌う者もおり、まず実績を積ませる為に
桜町陣屋へ派遣したと言われている。斯くして1822年(文政5年)忠真は尊徳に桜町への赴任を下命。
翌1823年(文政6年)に名主役柄・5石取り2人扶持の待遇、移動料米50俵、仕度料の米200俵と50金を
与えられ現地へ入った尊徳は「報徳仕法」と呼ばれる農村経営術を実践して復興に着手する。1826年
(文政9年)には先任の宇津家家臣・横山周平が江戸へ転任となったため、尊徳が桜町陣屋主席となり
天保年間(1831年〜1845年)の頃には実高3000石を回復する程の成果を上げたのだった。後に尊徳は
小田原藩の御用、更には幕府直轄領の差配も任せられる程になっていき、桜町陣屋を離れる。■■■

国史跡の名建築■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
残された桜町陣屋はその後も宇津家の陣屋として使用されるも、1868年(明治元年)廃止。古建築のうち
村役人詰所長屋や木小屋は取り壊された。また、敷地内には八幡宮と稲荷宮の2祠が祀られていたが
1905年(明治38年)両社を合祀し報徳二宮神社が創建された為、これらの祠も廃されている。■■■■■
なお、報徳二宮神社は1935年(昭和10年)桜町二宮神社と改称の上、陣屋敷地の隣に遷宮された。■■
結果として陣屋の主屋が残存し、敷地を囲う土塁も大半が残った。この主屋は二宮尊徳が着任した際に
建てられたもので、後年に増築やその部分の取り壊しを経ているが基本的に当時の規模を維持している。
18.86m×7.54m、床面積124.07u。棟高7.88mの平屋建てで、上段之間(8畳)・次之間(10畳)・4畳間・5畳間・
3畳間の5室から成り、その他に板の間や土間などが付属する間取り。茅葺の寄棟造だ。■■■■■■■
敷地内の状況や主屋建物の保存状態も良く、土塁の外周には濠も残るため、1932年(昭和7年)3月25日に
国指定の史跡に。陣屋そのものの敷地は2万1297.69uだが、史跡指定範囲は1万4322.46uである。国の
史跡としての整備は十分と言えるもので、上記の陣屋主屋は1997年(平成9年)〜2000年(平成12年)にかけ
解体修理が行われている。また、発掘調査も行われて往時の建物礎石などを検出。加えて、二宮金次郎
ゆかりの地として、1885年(明治18年)3月「報徳訓」の碑が陣屋前に建立されてござる。■■■■■■■
ちなみに、市町村合併前の行政区分「二宮町」というのは“二宮尊徳の恩義”に由来するもの。また、
旧二宮町域の配達業務を行う久下田(くげた)郵便局の風景印(地方の名物を絵柄にした日付印)は
桜町陣屋主屋を題材に取り入れてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

主屋・井戸跡・堀・土塁・郭群
陣屋敷地は国指定史跡







下野国 
真岡城(真岡陣屋)

真岡城跡 土塁

 所在地:栃木県真岡市台町字城内

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★☆■■■
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川沿いの起伏に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
当地の豪族・芳賀氏が南北朝期〜戦国期に用いた城郭。故に芳賀城との名も。他に舞が丘城の雅称が。
芳賀氏の起源を遡ると、天武天皇の末裔が流罪となり下野国(現在の栃木県)に流され土着したものと
伝わる。果たしてその伝承が真実なのか、或いは都の貴人に繋げて権威付けしようとしたものなのかは
分からないが、平安末期の頃から下野の太守・宇都宮氏の配下として一目置かれるようになる。更には
鎌倉幕府草創期、奥州藤原氏との戦いで大功を挙げた事で源頼朝から目を掛けられ、芳賀氏は宇都宮氏
家臣でありつつ、一種の独立勢力としても認知されるようになっていったのでござる。■■■■■■■■
さて真岡城の構築であるが、大きく3つの説があると言う。1362年(正平17年/貞治元年)芳賀氏15代・
高貞によるもの、1532年(天文元年)21代・高経の築城、1577年(天正5年)23代・高継が構築した説だ。
いずれが正しいのかは不明だが、高貞が築いた館を戦国期に整備拡張したと考えるのが有力視される。
戦国時代、特に後期になるとこの地域には小田原後北条氏が勢力を伸張させ、宇都宮氏は防勢一方に
なっていた訳だが、これに備えて高継が城の規模を拡大させて堅城たらしめようとしたのである。斯くして
戦国末期の拠点城郭となった真岡城は、南北およそ500m×東西最大160mの細長い楕円形をした縄張り。
この巨大な敷地を北から南に向かって主郭・2郭・3郭・4郭の4曲輪に分割、連郭式の構造としている。
大手口は4郭側、搦手口は主郭と2郭の間に開かれていたと言う。また、城の全周は急峻な切岸によって
隔絶し、外部からの侵入を難しくしている。この切岸には各所に腰曲輪や帯曲輪が築かれている。■■
城地の約800m東南側に五行川が流れているが、これを城の東渕に沿わせて分流させ(行屋川)水濠とし
更にそれを西側へも分岐させ、城全体を囲い込むようにして要害性を増していた。現在、行屋川の分流
地点や西側の水路は暗渠化されて地図上では判別できないが、それでも近隣の「外堀公園」など地名に
名残を見つける事ができよう。城の内部、主郭〜3郭までは真岡小学校の敷地となって完全に均されて
しまい、4郭も「城山公園」として整備されて(名前こそ「城山」なのだが、遺構は殆ど整地されてしまった)
曲輪としての情景は見受けられないものの、外縁部(小学校の東側など)は大半が手付かずで残り
城の土塁や切岸を感じられる(写真)状態。そもそも、真岡小学校校庭の標高は海抜75m〜76m、城山
公園は77mを数える一方、行屋川の河畔は66m。つまり、城の敷地だけが周囲より10m近く高い訳で、
この城が平山城としての天険さを兼ね備えたものだった状況が容易に確認できるのだ。城山公園から
行屋川を見晴らせば、目の前にある家屋の屋根が目線の下にあり、その高さを実感できる。芳賀高継の
城郭改修は、このような“高さ”と“水利”を存分に活用したものだったのでござろう。■■■■■■■■■

戦国の終わりと共に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この後、後北条氏は豊臣秀吉の関東平定によって滅亡する。後北条氏に抗い続けていた宇都宮氏は
秀吉から本領安堵を受け、その配下にあった芳賀氏も6万石の旧領をそのまま維持できた。ところが、
伊賀守高継の養子となった左兵衛尉高武(たかたけ)が家督を継承した頃、宇都宮家の家督相続に
端を発した騒動が1597年(慶長2年)に起こるや、豊臣政権は宇都宮氏・芳賀氏を共に改易し、所領
没収となってしまった。この時に、真岡城も廃城とされる。先述の通り、現状における城跡敷地は大半が
真岡小学校と城山公園になっているが、土塁や切岸遺構が残存するため、市指定史跡になっている。
廃城後、1601年(慶長6年)に真岡2万石は浅野采女正長重に与えられた。長重は1611年(慶長16年)
父の遺領を継ぐ形で常陸国真壁(茨城県桜川市)5万石へ転封、代わって2代将軍・徳川秀忠の直臣
堀美作守良政が1万2000石で入封するも、1627年(寛永4年)に下野国烏山(栃木県那須烏山市)へ
2万5000石に加増で移った。今度は2万石で稲葉佐渡守正成が入り、彼の死後は嫡男・丹後守正勝が
自身の領地と遺領を加え4万石として真岡を統治。3代将軍・徳川家光の乳母として知られる春日局が
産んだ正勝は、幕府に重用されて立身出世し、1632年(寛永9年)小田原城(神奈川県小田原市)主へ
転任して石高は8万5000石に激増、真岡は小田原藩の飛地として扱われた。だが稲葉家は後に転封、
新たに小田原藩主となった大久保家は飛地の領地替えを行い、1783年(天明3年)から真岡は天領に
なる。これにより幕府代官の支配地になった訳だが、天領となった当初は代官が江戸詰めとされており
実態なき真岡の支配は荒廃していくのだ。しかし、1793年(寛政5年)新たに真岡代官と任じられた竹垣
三右衛門直温(たけがきさんえもんなおひろ)はその状況を憂い、現地での支配が必要と考えて1797年
(寛政9年)真岡城の跡地に陣屋を構築、在地統治を開始する。これが真岡陣屋でござる。■■■■■■
陣屋敷地は3反7畝20歩、単純計算で約3735.5uだと記録され、建坪67坪。真岡の支配は近隣領地と
統合支配されるようになっていくが、竹垣が建てた陣屋御用達場(役所建築部)は1851年(嘉永4年)2月
火災で焼失、当時の代官・山内総左衛門董正(やまうちそうざえもんただまさ)とその協力者である二宮
尊徳や原類助(はらるいすけ)が中心となり建坪55坪ほどに縮小し同年中に再建。ところが再建建築も
1868年(明治元年)5月17日に焼失しており、この年に江戸幕府も滅亡した為そのまま陣屋廃止となった。
なお、1868年の消失は戊辰戦争によるもの。戊辰戦役においては比較的平穏であった北関東ながら、
新政府に与した佐賀藩(佐賀県佐賀市)兵が乱暴狼藉を働いて真岡陣屋を襲撃、焼き討ちしたのだ。
この時、代官の山内源七郎(董正の子)が捕らえられ即日処刑されるという悲劇も起きている。■■■■
結果として陣屋遺構は何も残らぬが、竹垣が描いた創建当初の陣屋建築図面が現存。この絵図は市の
有形文化財に指定されてござる。また、再建陣屋の図面は「二宮尊徳全集」の中に収録されている。



現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域内は市指定史跡




上三川城・児山城  館林周辺諸城郭