難読地名「上三川」の中心を為す城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上三川(かみのかわ)城は、この地の豪族・横田氏ならびにその後継である今泉氏の城。■■■■■■■■■■■■■
宇都宮掃部助頼綱(よりつな、下野国(現在の栃木県)太守である宇都宮氏第5代当主)の2男・越中守頼業(よりなり)は
はじめ横田城(栃木県宇都宮市兵庫塚)を居城としていたので横田姓を名乗ったが、1249年(建長元年)新たな城を築き
居を移した。これが上三川城で、以後歴代の横田氏が居城としたものでござれば、頼業より後は時業(ときなり)―親業
(ちかなり)―泰業(やすなり)―貞朝(さだとも)―泰朝(やすとも)―師綱(もろつな)と続いている。■■■■■■■■■
ところが7代・師綱とその長男・綱業(つななり)は1380年(天授6年/康暦2年)主家である宇都宮氏と下野国小山(栃木県
小山市)の名門豪族・小山氏が戦った裳原(もばら、宇都宮市茂原)の合戦にて重傷を負ってしまう。横田宗家危急の時
師綱の4男(綱業の弟)で近隣の今泉郷に居を構えていた元朝(もととも)が馳せ参じて瀕死の父と兄を介抱すると共に、
上三川城の統制を見事に取り仕切ったのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
斯くして今泉七郎兵衛尉元朝は8代目上三川城主を継承、以後は彼の後嗣がこの城の主となっていく。■■■■■■■
横田宗家は綱業の子・出羽守綱俊(つなとし)の子孫が相続し命脈を保つが、宇都宮家の内紛に加担して没落。綱俊は
城を捨てて流浪の身となり、その養子とされた越中守綱親(つなちか)は幼少の為に統治能力はなく、結果的に今泉氏の
保護下に置かれたのであった。斯くして横田氏は今泉氏の配下という地位に落ちていき、宇都宮家重臣としての立場は
上三川城を掌握した今泉家が有する事になるのでござる。横田氏は城内の三ノ丸に館を構えたそうだ。■■■■■■■
元朝から後、上三川城主は但馬守盛朝―安芸守盛泰―安芸守盛高―泰高―泰光―但馬守高光の順に代を継承。■■
戦国争乱が激化したのは四郎左衛門尉泰高ならびにその嫡子・但馬守泰光の頃で、北関東では越後の上杉氏・甲斐の
武田氏・相模の後北条氏・常陸の佐竹氏らが四方八方から攻勢に出る状況となっている。これら大大名から一歩遅れる
勢力になった宇都宮氏は防戦に手一杯で、何とか血脈を永らえるのみであった。泰高・泰光は主家・宇都宮氏のために
尽力し各地を転戦。しかし宇都宮家中では一門衆の芳賀氏が権力の簒奪に動く素振りを見せ、内憂外患の状態に陥る。
このように戦々恐々とした情勢に、心労が祟ったのか泰光は父に先立つ1577年(天正5年)8月に病没してしまう。■■■
残された泰高も1581年(天正9年)4月に没し、今泉家は大黒柱を失い申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
名門武家・宇都宮氏滅亡の端緒となった落城事件■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この隙を見て、1584年(天正12年)小田原後北条氏が下野国へと大攻勢をかけ、さらに1586年(天正14年)常陸国下館
(現在の茨城県筑西市)の水谷(みずのや)軍が上三川城へ攻撃を仕掛けてきた。今泉勢は辛くもこれを撃退したようだ。
そして運命の1590年(天正18年)天下人・豊臣秀吉により関東の平定が成る。北関東への進出を狙い続けた後北条氏は
滅亡、宇都宮氏は秀吉から本領安堵を受け、上三川城もそのままの状況が維持されたのでござる。■■■■■■■■■
この頃、泰光の遺児・高光がようやく成長し今泉氏の棟梁として動くようになり、宇都宮家臣の大任を務める。全国統一が
成った事で、秀吉は各地の大名に大坂詰めを命じ、宇都宮家の大坂屋敷に今泉高光が入ったのだ。■■■■■■■■
丁度その頃、時の宇都宮氏当主・下野守国綱には男子がなかったため秀吉の斡旋で五奉行・浅野弾正少弼長政の3男・
長兵衛長重(ながしげ)を養子に入れる話が持ち上がった。大坂に居た高光は、当然ながらその取り次ぎ役となる訳で、
太閤秀吉の威勢に逆らう事は得策でなく、これを承諾し国許へ連絡した。ところが国綱の弟で芳賀氏に入嗣していた芳賀
左兵衛尉高武(たかたけ)は、名門・宇都宮氏には多数の分家があり、血縁者も多いのにわざわざ他家から養子を迎える
必要はないと猛反対し、この養子縁組を破談にしてしまう。驚いた高光は急遽領国へ引き返したが、それを狙って1597年
(慶長2年)5月、高武の軍勢が上三川城を取り囲んだのである。多勢に無勢、この戦いで上三川城は落城し高光は自刃。
高光の子・宗高は当時6歳、辛くも戦火を脱し、叔父・今泉五郎(高光の弟)の屋敷に匿われたがこの時を以って今泉家は
滅亡、上三川城も廃城となり申した。なお、高武の行いに激怒した秀吉はその年の10月に宇都宮家を取り潰した。結局、
国綱は浪々の身となり復権叶わぬままに病没。高武も同じ運命を辿っている。高武は血縁を重視したようだが、上方情勢
特に秀吉の意向に気を払っていた高光は政局に敏感だった訳で、結果的には彼の意見を通していれば宇都宮家が没落
する事もなかったかもしれない。もっとも、長重の曾孫は江戸時代になって狂乱の刃を振り回し、御家滅亡の事件を引き
起こす。忠臣蔵事件で名高い浅野内匠頭こと長矩がその人物で、仮に長重が宇都宮家を継いでいたとしても、約100年後
同じように改易に至ったのかも。ただ、そうなると仇討ちをするのは“赤穂浪士”ではなく“宇都宮浪士”だった…のか?■
少々綺麗すぎる整備が行われた城址公園■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在は都市整備されているが、当時の上三川一帯は東に江川、更に鬼怒川が流れ、反対の西側には田川が流れる水郷
地域だった。この開けた平野部に平城として築かれた上三川城は、元々東西400m〜500m×南北1kmという広大な敷地を
有したと言う。一地方豪族の城でkm単位の城域を確保したというのは桁違いの巨大さでござろう。この内部を多重の堀や
土塁で分割し曲輪群を構成していたようだが、今では都市化で本丸部分を残すのみだ。そもそも、落城以後は今泉氏の
子孫が農地に改変していたと言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その本丸は、東西100m×南北120m程度の長方形。これに横矢懸かりの屈曲がつけられやや不定形な形になっているが
敷地そのものは良く残され公園整備されている。周囲はぐるりと土塁が取り囲むが、高さ4m〜5m程はある巨大なもので、
これが現状の上三川城で一番の見所となっている。ただ、土塁の側面は公園整備にて石垣で固められ当時の姿を大きく
損なっている。しかもこの石垣、明らさまな“作り物”という構造で、「城の石垣に似せよう」ともしていない所に思わず苦笑い
するしかない。まぁ、似せたら似せたで、逆に誤解を招くだけであろうが…兎に角、景観には殆んど配慮されていないのだ。
町の中心部にある都市公園化だと、所詮この程度なのかな?と少々失望するのが残念。■■■■■■■■■■■■■■
もっとも、駐車場が完備されていたり綺麗な緑地化が行われていたりするのは公園化の恩恵なので、気軽に来訪するには
うってつけの城址と言えるだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城址は特に史跡指定を受けていないのだが、横田家(臨済宗大雲山善應寺)と今泉家(曹洞宗瑞龍山長泉寺)それぞれの
累代の墓は上三川町指定史跡となっており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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