小山氏所領の辺縁部を守る重要な城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で亀城・栃井城・中岫城・岩壺城など。小山(おやま)市東端の中久喜にある城跡で、主郭からわずか200mほどの
地点が栃木・茨城県境、即ち小山氏領・結城氏領の境界。つまりこの城は同族でもある両氏の“境目の城”として重要な
存在意義を持っていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
元来この地には、俵藤太(たわらのとうた)こと坂東武士の首魁・藤原秀郷(ひでさと)により平将門の乱平定を祈念した
牛頭天王(ごずてんのう)が祀られていたという。秀郷の後裔にして小山の地に土着した平安末期の豪族・小山下野大掾
政光(まさみつ)は、祖先由来の地に築城。これが中久喜城の創始とされ、1155年(久寿2年)?の事とされてござる。■■
小山氏の本拠は祇園城(下記)であり(諸説あり)、中久喜城は祇園城の支城として用いられた。中久喜城曲輪V跡の
小字(あざ)名に「万年寺」とあるが、ここにあった小山氏の菩提寺である萬年(ばんねん)寺が後に祇園城へと移転した
(現在は曹洞宗祇園山天翁院(てんのういん)に改称)事を物語っており、両城の関係性を窺わせる重要な痕跡であろう。
小山氏は源頼朝の鎌倉幕府創設に功を挙げ、鎌倉時代には下野守護に任じられ隆盛を誇った。その分流として結城氏
(茨城県結城市に勢力を築いた一族)も派生した訳だが、鎌倉幕府が滅亡すると小山氏は近隣勢力との衝突を繰り返す。
これに憤激した鎌倉府(室町幕府の東国統治機関)は時の小山氏当主・下野守義政の下野守護職を剥奪した上、1380年
(天授6年/康暦2年)追討軍を差し向ける。防戦敵わぬ義政はいったん降伏したが、鎌倉府への謝罪には応じなかった為
翌1381年(弘和元年/永徳元年)再度の追討を受ける。戦に敗北した義政は鷲城(下記)を退去、出家して永賢と号した。
この時、中久喜城の萬年寺に蟄居したようである。しかし義政改め永賢は1382年(弘和2年/永徳2年)再挙兵、祇園城を
自焼し徹底抗戦の意思を示した。斯くして鎌倉府軍と小山軍の大規模交戦に発展、中久喜城周辺でも数度の戦いが繰り
広げられたのでござる。この一連の兵乱を小山義政の乱と呼び、彼は同年4月11日に戦死して果てたが、乱の史料上で
小山方の城は「鷲城・岩壺城・新々城・祇園城・宿城」の5城が記録されており、このうち岩壺城が中久喜城の事を指して
いると見られている。なお、義政の遺児である若犬丸が1390年代まで鎌倉府に抵抗を続け(小山若犬丸の乱)、混乱の
収束には時間がかかり、苦肉の策として鎌倉府は結城氏から泰朝を入れて小山氏を再興させ、義政・若犬丸の系譜を
絶つ事にしている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国末期まで実用に供されたが、結城氏転封で廃される■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
泰朝の後裔で下野の名族・小山氏は復活していくが、戦国時代へと本格的に突入すると、関東の争乱は相州小田原から
伸張した後北条氏の去就に左右されていき、小山氏と結城氏は後北条氏への対応で時に歩を同じくし、或いは対立する
事も多くあった。同族争う愚を見かねた近隣豪族の多賀谷氏・佐竹氏は、この城で両者和解の会談を開かせた。それまで
「北山」と呼ばれていたこの地が「中久喜」となったのは、これが契機だと言う。ところがそれでも争いは絶えず、1581年
(天正9年)の北条氏照書状や1584年(天正12年)の結城晴朝書状において中久喜城周辺が「半手」、つまり後北条氏と
反北条方との両属地域であった事が記されている。結局、小山氏は後北条氏へ従属、結城氏は反後北条の方針を取り、
祇園城は後北条方、中久喜城は結城氏のものとして反後北条方の最前線基地になっていた。■■■■■■■■■■■
然るに1590年(天正18年)豊臣秀吉の東征で小田原後北条氏は滅亡、小山氏も封を失い旧小山氏領は結城氏のものに
編入された。一方の結城氏、当主の結城中務大輔晴朝(はるとも)は所領安堵のみならず豊臣政権へより一層近づく為
秀吉の猶子・三河守秀康(実父は徳川家康)を自身の養子に貰い受ける事を希望。これにより秀康改め左近衛権少将
秀朝は結城家へ入り、晴朝は隠居する事になった。居城・結城城(茨城県結城市)を出た晴朝は、この中久喜城に居を
構えたのである。これは江戸時代後期の1852年(嘉永5年)に成立した「結城御代記(ゆうきごだいき)」の中で晴朝の城を
「中茎(中久喜)栃井城」と記している事が論拠になっているようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうして晴朝の隠居城となった中久喜城であるが、関ヶ原合戦後に結城秀康(秀朝から再改名)は越前国福井(福井県
福井市)67万石へ加増転封となった為、晴朝もそれに同行する事となり、1601年(慶長6年)廃城になった。■■■■■■
以後、城跡は山林や耕作地へと変貌している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
後堅固の水城…の面影なし、それでも歴史的重要性から国史跡に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この城の立地であるが、舌状台地の先端部を利用した所謂“後堅固の城”。台地と言ってもせいぜい比高5〜10m程度の
低いものであるが、当時は城を囲うように西側を西仁連川が流れ、東側には谷戸田の沼地が広がっていたので、防御
効果はそれなりにあったと思われる。しかし現在は河川改修や耕地開発により西仁連川の流路は狭まった上、谷戸田の
湿地は消滅したので、往時の“水城”ぶりは想像できない。また現状、城跡を南北に分断するようにJR水戸線の線路が
横切ってしまっている。この水戸線の線路以南の敷地は手付かずの城跡が残されているようだが、反面何も整備されて
いない感じなので藪化が酷い。一方、線路以北は殆どが宅地化・耕作地化されているので遺構の残存状況は芳しくない。
お世辞にも、この城の保存状況は良好と言い難いものがござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の縄張りは舌状台地の南端部に主郭(「城の内(じょうのうち)」と呼ばれる)を置き、その北西側に南北に細長い5角形
(将棋の駒を逆さまに置いた感じ)の敷地とした曲輪U(西郭)が展開。そして曲輪Uの東側に曲輪V(旧萬年寺敷地)が
広がっていた。水戸線南側の部分がほぼ主郭敷地に該当(ごく一部、分断された部分が線路以北にも跨る)。ところどころ
屈曲があるものの、この主郭は大きく見て方形をしている事から鎌倉武士の館として創建された当城の起源に合致する。
しかし驚くべき事に、この主郭は2重の土塁で囲まれている。鎌倉時代の居館ではまだこうした構造は有さぬ筈なので、
明らかに後世の手が入った証拠であろう。2重土塁は戦国期の関東地方で特に発達した技法(上杉家〜後北条家の城に
顕著)なので、この城の修築時に、上杉家あるいは後北条家の影響を受けたのかもしれない。そもそも、主郭辺縁部に
多数見受けられる屈曲も、横矢掛かりや折邪(おれひずみ)といった戦国城郭の構築物なので、当城が実戦城郭として
整備拡張されていたのは明らかだ。更に、推定縄張図によれば虎口は曲輪南端部に開かれているだけなので、主郭への
出入りは曲輪Vから大きく外周を回りこんで来るしかなく(南側は崖端なので直接入れない)攻める敵兵に大きな犠牲を
強要する事になろう。この主郭は東西約180m×南北約120mの規模。線路北側に取り残された部分(主郭北西端部)は
一段高くなっており、櫓台になっていたと思われる。恐らくこの部分が一番見学し易い場所であろう。伝説によると、本丸
内にある巨岩の上(櫓台の事か?)で飛び跳ねれば音が響くという事で「岩壺城」という別名の由来になっているとか。■
曲輪Uは屋敷地になっていたと推測されている。現在でも曲輪U跡地の中心を縦貫する道路(農道だが)が使われて
いるが、往時もこの通路の両側に屋敷が建ち並んでいたらしい。昭和の高度経済成長期あたりまでは曲輪U外周の
土塁も残っていたと言うのだが、現在は風化し残念ながらその痕跡は見受けられない。■■■■■■■■■■■■■■
曲輪Vはその由来から万年寺曲輪とも称される。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城域全体の規模は東西400m×南北450mに及んだと推測されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この城の経歴は小山氏・結城氏と切り離せない重要性があり、既に国指定史跡とされていた祇園城・鷲城(共に小山氏
城郭群)と一体不可分のものと再考された事から、2001年(平成13年)8月7日に中久喜城も追加指定された。併せて、
史跡指定名称を小山氏城跡と改定。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
斯くして文化財としての重要性は認められた訳だが、遺構の保存状態は…。宅地となった所は仕方ないとして、残存する
部分の保全・清掃・整備・復元は急務だと思われる。ゴミの不法投棄が行われていた経緯もあるので、関係各所の適切な
手配を期待したい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、駐車場などはなく民家・耕作地に密接しているので来訪時は配慮が必要。干拓されたとは言え足を取られる湿地や
窪地が残っている他、かなり藪は深く、しかも線路を跨いだ敷地でもあるので、くれぐれも危険行為などは行わぬように!
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