下野国 宇都宮城

月夜に浮かぶ宇都宮城復元清明台櫓

 所在地:栃木県宇都宮市本丸町・中央・旭・天神

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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★★★☆



言うまでも無く宇都宮氏の本拠城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
かつては「関東七名城」の一つに数えられた下野国の巨城。中世の城主は歴代宇都宮氏当主、江戸時代に入ってからは
幕府譜代家臣が歴任してござる。亀ヶ岡城との別名を有す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
築城の起源は940年(天慶3年)俵藤太(たわらのとうた)こと鎮守府将軍・藤原秀郷(ひでさと)が居館を構えた事を創始と
するのが最も古い説であるものの、北関東とりわけ下野国に関しては秀郷に仮託する説が多く、伝説の域を出ない。平安
時代後期の1063年(康平6年)宇都宮氏の祖・藤原宗円(そうえん)が築いたというのが信に足る築城起源でござろう。■■
宗円は藤原摂関家のうち北家道兼流後裔とされ(秀郷築城説は、同じ藤姓である点で混同または粉飾されたものだろう)
関白・道兼の曾孫と言われる。この宗円が下野国へと下向し、前九年の役の折に下野国一宮である二荒山(ふたらさん、
ふたあらやまとも)神社に兇徒調伏の祈願を行った功績で下野国を与えられた、と言うのが通説だ。宗円による宇都宮城
築城は年代的にこの直後となる。二荒山神社への帰依を朝廷から認められた事で、宗円は下野一宮別当職に任じられ、
これが宇都宮姓の起こりとされ申す。即ち、「宇都宮」とは「いちのみや」が転じたものなのだ(異説あり)。現代、観光情報
などで紹介される二荒山神社と言えば日光東照宮の隣にある世界遺産の神社が有名だが、実は宇都宮市内にも二荒山
神社が鎮座する。正式には、日光の二荒山神社は「ふたらさんじんじゃ」、宇都宮二荒山神社は「ふたあらやまじんじゃ」と
区別されるそうで、宗円が別当職を得たのは当然ながら宇都宮の二荒山神社だ。■■■■■■■■■■■■■■■■
故に、一宮である二荒山神社の門前町が「宇都宮」と命名され、そこを本拠とした宗円の一族が「宇都宮氏」となったので
ある。宗円以降、宇都宮氏は戦国時代まで22代534年に渡って(一時的に退去する事もあったが)宇都宮城を拠点とし、
下野国南部の支配権を行使し続ける事になるのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
長きに渡る宇都宮氏歴代の業績を全て記す事は不可能だが、あらましを説明すると鎌倉時代、幕府の有力御家人に数え
られた宇都宮氏はその勢力ゆえに幕府執権・北条氏に敵視されつつも巧みな外交戦術で矛先をかわし、一門を北九州や
四国などに分派させる事に成功。南北朝期には南朝方に属した事もあったが北朝方の足利氏とは一定の関係を維持し、
南朝消滅後もそのまま支配権を残される。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この間、宇都宮氏から分家した結城氏・小山氏・塩谷(しおのや)氏などは北関東各地の国人としてそれぞれ土着。さらに
芳賀氏・壬生氏・武茂(むも)氏といった氏族は宇都宮宗家の家臣団として編成され、支配体制強化の一端を担っていた。

一族の離反に悩まされた宇都宮氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし1423年(応永30年)8月9日、宇都宮氏13代当主・常陸介持綱(もちつな)は謀略にかかって一族の塩谷駿河守教綱
(のりつな)の手で殺害された。嫡子・下野守等綱(ひとつな)は難を逃れるべく宇都宮を離れ諸国を流浪、宇都宮城は一時
教綱に与した庶流の宇都宮伊予守家綱によって占拠された。数年の後、勢力を回復した等綱が家綱を打倒してようやく
城主に復帰。ところが1456年(康正2年)、等綱は古河公方(関東統治機構の長、足利将軍家の分流)・足利左兵衛督成氏
(しげうじ)に攻められて出家隠居、宇都宮城を追われる事になる。結局、帰城できぬまま等綱は死去。■■■■■■■■
成り行きで新城主となった下野守明綱(あきつな、等綱の嫡男)は子が無いまま没し、16代当主・右馬頭正綱(まさつな)は
芳賀氏から養子入りして家督を継承、宇都宮城主になった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
おりしも時代は室町後期〜戦国動乱期という混迷の頃に突入。独立自尊の風潮根強い関東の武士によって下克上の嵐が
吹き荒れ、宇都宮氏もまた他勢力との領土争いのみならず正綱の養子入りを機に縁戚である芳賀氏や壬生氏からの家督
争いで苦難を味わう時代になっていく。正綱の次代、17代・右馬頭成綱(しげつな)の頃になると家中では芳賀氏の専横が
目立つようになり、成綱は誅罰の必要に迫られるが独力で為し得る実力はなく壬生氏などの力を借りてようやく成功した。
時に1514年(永正11年)の事である。この事件を宇都宮錯乱と言う。さりとて芳賀氏は滅亡した訳ではなく、この後も様々に
宇都宮氏との関係を連ねていく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ちなみに、宇都宮錯乱にかこつけて足利成氏は再び宇都宮城への攻撃を企図するが、これは成綱が撃退している。また、
1516年(永正13年)にも成氏の内意を受けた佐竹氏・岩城氏の連合軍が宇都宮城を攻めたが退けられている。このように
成綱は宇都宮家中の統率や戦闘の勝利によって少しずつ権威の回復を為した訳だが、成綱の子となる18代・左馬頭忠綱
(ただつな)は芳賀氏の反撃に遭い1526年(大永6年)宇都宮城を奪われて逃亡。忠綱の叔父・左衛門督興綱(おきつな)が
家督を奪取し19代当主を継承、宇都宮城主に収まるがこれも長く続かず、やはり芳賀氏にその座を追われ申した。■■■
興綱の子・下野守尚綱(ひさつな)は1541年(天文10年)芳賀氏を打倒して20代当主となるが、8年後の1549年(天文18年)
下野国北部を治める那須氏との戦いにおいて戦死してしまう。その子、弥三郎広綱(ひろつな)は当時まだ5歳で、今度は
壬生氏がこれを好機と見て反乱を起こし宇都宮城を占拠、広綱は芳賀氏に救援を求め真岡城(栃木県真岡市)へ退いた。
宇都宮城を乗っ取った壬生中務少輔綱房(つなふさ)が1555年(弘治元年)3月17日に死去した事で、綱房の嫡男・下総守
綱雄(つなたけ)に対して広綱らの攻勢がかけられ1557年(弘治3年)に奪還されてござる。■■■■■■■■■■■■■
綱雄は再起を図り1574年(天正2年)3月26日に宇都宮城下へ侵攻したが不首尾に終わった。■■■■■■■■■■■■

後北条氏の侵攻に耐えるも、天下人の“鶴の一声”で名家衰亡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
このように宇都宮氏は城を落ち延び取り返す事を繰り返し、家中の統制に追われていた。館造りから始まった宇都宮城は
この過程で整備拡張され、宇都宮氏の本拠として守り通されてきたのである。平城として敷地を広げられる利点を最大限に
活かして多重の堀や土塁で囲う縄張りを構え、二荒山神社から延びる参道で直結していた城は、いつしか神社そのものを
取り込む程の大きさになっていた(神社本殿と宇都宮城本丸は南北同一線上にあり、その距離900mほど)。■■■■■■
しかし、宇都宮氏が御家騒動に揺れていた間に南からは関東武士の再編者である小田原後北条氏が急激に領土を拡大
していたのである。21代・広綱が病没し、下野守国綱(くにつな)が22代を継ぐ頃、既に後北条氏の勢力は下野国をも飲み
込もうとする勢いであった。地形的要害に頼れない平城の宇都宮城では後北条氏の戦力に敵わないのは明らかな上に、
城下は度重なる戦乱や後北条方に与した日光二荒山神社の僧兵により焼き討ちされ荒廃、国綱は山城の多気(たげ)城
(宇都宮市田下町)に本拠を移し国難が去るのを待つしかなくなっていたのである。斯くして、500年以上維持された宇都宮
城は(一時的であるが)主を失った。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが、1590年(天正18年)天下統一を成し遂げた豊臣秀吉によって後北条氏は滅亡、宇都宮氏を襲う脅威は消え去る。
これにより国綱は宇都宮に帰城。奥州諸大名の差配を行うべく東北へ赴く秀吉は7月26日に宇都宮城へ立ち寄り、改めて
国綱を下野国宇都宮18万石の大名として所領を安堵している。以後、国綱は豊臣政権に従って統治を進める予定だった。
されども1597年(慶長2年)10月13日、秀吉の命により国綱は突如改易されてしまう。豊臣政権の運営上、必須である太閤
検地の結果に大幅な不備があっただとか、政権中枢に居た浅野弾正少弼長政の子・長兵衛長重(ながしげ)と国綱の間に
養子縁組の約束が成された事が反故にされた怨恨とか、理由は様々に考えられており断定できない。ともあれ、これにより
宇喜多家へ預けられる事になった名門・宇都宮氏は、大名の地位を失ったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■
翌1598年(慶長3年)会津若松92万石から移された蒲生飛騨守秀行が18万石で入部。大幅な減封であるが、これは秀行が
若年であった事に加え、石田治部少輔三成による蒲生家を遠ざけようとした策謀があった為だと言われている。それでも
秀行は宇都宮城下の整備に心を砕き日野町・紺屋町といった町域の開拓で商業振興を成し遂げているが、こうした経緯に
より1600年(慶長5年)関ヶ原合戦時には当然、徳川家康に与した。関ヶ原合戦は会津を領した上杉左近衛権少将景勝を
征討する事が端緒となっており、宇都宮城には徳川軍主力部隊と言える徳川秀忠の軍が入っていた。秀忠らが西へと軍を
返した後、秀行が宇都宮に踏み止まり上杉軍の南下阻止や調略に備えた城下警戒の任に当たったのである。戦後、その
功が評価され1601年(慶長6年)8月に秀行は旧領の会津に復帰した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

有名な“宇都宮釣天井事件”の真相、新旧城主の相克■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
4ヶ月ほどは代官として徳川家臣の大河内金兵衛秀綱(おおこうちひでつな)が城を預かったものの同年12月28日、宇都宮
10万石の主として奥平大膳大夫家昌が任じられ翌1602年(慶長7年)1月25日に入部する。家昌は徳川譜代家臣・奥平家の
長子にして家康の外孫にあたる血筋である。だが大坂冬の陣の直前、1614年(慶長19年)10月10日に宇都宮城内で家昌は
病没し、跡を嫡男の九八郎忠昌が継承。しかしこの時彼はまだ7歳であったため、幼少である事を理由に1619年(元和5年)
10月13日、下総国古河(茨城県古河市)11万石へと転封。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
斯くして新たな宇都宮城主となったのが有名な本多上野介正純である。家康の謀臣として絶大な権勢を誇った彼は、家康
死後もなお隠然とした勢力を持ち下野国小山(栃木県小山市)5万3000石から宇都宮15万5000石へと加増転封されたのだ。
宇都宮城主となった正純は、城の近世城郭化と城下町の再編に着手。さらに日光街道・奥州街道といった主要幹線道も
整備拡張し、ここに近世宇都宮の町が確立された。宇都宮城は日光東照宮へ参詣する将軍の宿泊城とされ、城下もまた
街道宿場町としての機能を付与されたのだ。宇都宮が下野国の首府として確固たる地位を得たのは正純の功績であり、
この点はもっと評価されて然るべきであろう。宇都宮城には天守も揚げられ、将軍宿館の本丸御殿も造営されてござる。
当然、縄張りも更なる拡大が行われて鎌倉武家居館から始まった城は壮大華麗な近世城郭へと変貌した。■■■■■■
ところが1622年(元和8年)8月、正純は突然の改易を申し付けられてしまう。出羽国は山形(山形県山形市)、外様大身の
最上家が取り潰しになる際、上使として現地に赴いた正純に対して幕府から問責の使者が派遣され、山形の地で問答が
行われた。使者曰く、正純が宇都宮で城の改修を行った事などに不審の点多々あり、宇都宮15万5000石を召し上げ出羽
(羽後)国由利郡(秋田県南西部)5万5000石へと移封するとの事である。これに対して正純は、問責の罪状何ら身に覚え
無く、疑念に基づく知行ならば代替地も不要であると反論した為、改易の上で秋田藩佐竹家預かり、出羽国横手(秋田県
横手市)への流罪とされてしまった。この遣り取りに噂の粉飾が付き、将軍宿館たる宇都宮城の本丸御殿を改造し将軍を
暗殺せんと謀った、と言う有名な“宇都宮釣天井事件”と評される事になったのであるが、実際の所、宇都宮城本丸御殿は
釣天井などではなく(当然であるw)正純に対する問責は専ら冤罪であった。即ち、当時既に亡き家康の権勢を笠に幕閣
中枢を牛耳った正純に対し、それまで政権の隅に追いやられていた者たちが(これには将軍・秀忠も含まれる)反撃として
改易を画策したのが真相である。また、移封された奥平家の縁者も反本多家の怨嗟を募らせていたと言い、ここから出た
讒訴が正純改易の発端になったとの話だ。だとすれば、宇都宮城に封じられる栄誉を巡って新旧城主が相争った、という
事にもなろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

繰り返す城主交代劇■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともかく、これで正純は宇都宮を追われ、古河から奥平美作守忠昌が11万石で再封。忠昌の治世はこの後46年の長期に
及んだが、その間に徳川将軍の日光参詣が13回も行われた為、宇都宮藩は対応に腐心し藩財政が逼迫した状況になって
いった。こうした中で、忠昌は1668年(寛文8年)2月19日に病死してしまうのである。忠昌の死を契機として、殉死者の発生
(当時、幕府は殉死を禁じていた)や家臣団の対立・刃傷事件が勃発した為、跡継ぎの大膳亮昌能(まさよし)は同年8月3日
2万石の減封で出羽国山形9万石へと除かれてしまう。入れ替わりで山形から宇都宮へ奥平松平下総守忠弘(ただひろ)が
入る。奥平松平家は忠昌の奥平家から見て分家に当たり、忠弘と忠昌は従兄弟同士の関係であった。その忠弘は1681年
(天和元年)7月27日、陸奥国白河(福島県白河市)15万石へと転封され、今度は白河から本多能登守忠平が入封。忠平は
本多姓だが正純系ではなく、“家康に過ぎたる者”本多平八郎忠勝の後裔。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
宇都宮城に入った忠平は善政に励み、それまで過酷な税制にあった領民へ年貢減免を認めた。忠平の宇都宮藩政は僅か
4年に過ぎず、1685年(貞享2年)6月22日に大和国郡山(奈良県大和郡山市)12万石へと移されるが、この功績から宇都宮
領民と大和郡山藩主となった忠平の交流は以後も続いたとの事でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、忠平移封により宇都宮城主となったのはまたも奥平氏であった。転封となった昌能の養子・美作守昌章(まさあきら)が
山形から復帰した。石高は9万石。1687年(貞享4年)10月14日に近隣の烏山藩が改易されると、昌章が幕命により烏山城
(栃木県那須烏山市)の受け取りを行っている。また、街道宿場町である宇都宮城下の旅病人対策として1689年(元禄2年)
医師20人を常駐させる順番医制度を創設してござる。しかし昌章は1695年(元禄8年)4月8日に僅か28歳で死去してしまう。
跡を継いだ2男・大膳大夫昌成(まさしげ)はたったの2歳。故に1697年(元禄10年)2月11日、丹後国宮津(京都府舞鶴市)に
移封され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
代わって宮津から10万石で阿部対馬守正邦(まさくに)が入るも、1710年(宝永7年)備後国福山(広島県福山市)へ。■■■
閏8月、6万7000石で戸田山城守忠真(ただざね)が越後国高田(新潟県上越市)から宇都宮城主になる。戸田家は宇都宮が
越後高田より雪の少ない事を非常に喜んだと言う。1714年(正徳4年)9月7日、8代将軍・徳川吉宗が日光参詣の折に宇都宮
城へ宿泊。この時、城主である忠真は老中として江戸に在府していた為、忠真の嫡子・越前守忠余(ただみ)が代理で接遇し
その折に日向守に任じられてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで、忠真の所領は家督相続の遅れや幕閣就任時の加増、逆に弟への分知などで増減を繰り返してきた結果、1718年
(享保3年)確定時に7万7850石とされている。1729年(享保14年)10月29日、忠真が死去したため忠余が家督を相続、以後
戸田家はこの石高が維持され申した。その忠余も1746年(延享3年)6月16日に死去。2男の日向守忠盈(ただみつ)が継ぐ。
忠盈は1748年(寛延元年)宇都宮領内に「御教条之趣」という御触書を発布し、荒廃した人心に忠孝を説いて領内振興を
果たそうとしている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかしその翌年、1749年(寛延2年)7月23日に戸田家は肥前国島原(長崎県島原市)へと転封され、入れ替わりで島原から
深溝(ふこうぞ)松平大炊頭忠祇(ただまさ)が6万6000石で入封。1762年(宝暦12年)9月に忠祇が隠居、家督を主殿頭忠恕
(ただひろ)に譲るが、忠恕の宇都宮統治時代は暗雲たる時期であった。深溝松平家は島原からの転居費用を工面する為
方々から借金を重ね、それでも足らぬ分を1764年(明和元年)宇都宮領内に対する重税で賄う政策に及んだ。過酷な課税に
耐えられない農民らは同年9月12日、籾摺(もみすり)騒動と称される一揆を起こして抗議したのである。それに対して忠恕は
藩兵300を出して武力鎮圧。この後、宇都宮領内は数度に渡る洪水被害や1773年(安永2年)3月の城下町大火など数々の
災害に見舞われ、人心国土大いに荒れ果ててござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

荒廃した藩領、財政難の戸田氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1774年(安永3年)深溝松平家は再び島原へ転封(この費用も問題になっている)。忠盈の弟で戸田家を継いでいた因幡守
忠寛(ただとお)が8万石で宇都宮城主に任じられ、以後明治維新まで戸田氏が城主であり続けた。忠寛は入部の後、城の
改修を行うと同時に寺社奉行、大坂城代、あるいは京都所司代といった要職を次々をこなしていた。宇都宮城の改修費用
5000両は幕府から借用したものの、幕府内の責務を果たす為に必要な金を捻出するのに苦労し、いよいよ宇都宮領内の
疲弊は頂点に達した。職責に齟齬を来たした忠寛は1798年(寛政10年)6月21日に隠居・致仕。跡を継いだ長男の能登守
忠翰(ただなか)は父の政策を改め、幕政から身を引いて質素倹約に努めた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
忠翰の次代、日向守忠延(ただのぶ、忠翰2男)は宇都宮領内の善行録を編纂し人心掌握を図り、家臣の俸禄を厳しく統制、
給米の削減を行って財政再建を目指したが、あまり効果は出なかった。そして忠延の弟・日向守忠温(ただはる)が1823年
(文政6年)4月に藩主を継承すると再び幕府内での立身出世を目指すようになり、宇都宮領の困窮はまたも度を深めていく。
忠温の3男・因幡守忠明(ただあき)が藩主になる頃、時代は幕末に突入。忠明は英明の君主で藩政改革を断行し、さらに
ペリー艦隊が来航した折にはいち早く幕府に対して武器弾薬を送り国防の要を説いている。ところが1856年(安政3年)6月
2日、18歳の若さで死去。弟の越前守忠恕(ただゆき)が宇都宮城主を継ぐも混乱が続き、藩内統制に苦慮している。不穏な
藩内情を幕府から危険視された忠恕は隠居謹慎を命じられ、分家から養子入りした安房守忠友(ただとも)が後嗣となるも、
更に幕府は戸田家に対し2万7000石の減封並びに陸奥国棚倉(福島県東白川郡棚倉町)への左遷を命令する。だがこれは
家老の戸田忠至(ただゆき、忠翰の甥)や、忠恕と親交のあった公卿・正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)の
尽力により撤回されている。忠友は忠至の忠勤を賞し1866年(慶応2年)3月に1万石を与え、その領地である高徳(たかとく、
栃木県日光市)に高徳藩を立藩。この為、戸田宗家の所領は6万7850石に減じた。ちなみに高徳藩は江戸幕府統治時代で
最後に成立した藩となる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

関ヶ原で守りの要となった城が戊辰戦役では実戦に供される■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした中で、戊辰戦争が勃発する。忠友は幕臣として15代将軍・徳川慶喜の助命嘆願に走り京を目指すが、近江国大津
(滋賀県大津市)で足止めを余儀なくされる。この間に関東へは新政府の追討軍が迫り、藩主不在の宇都宮では家臣らが
奔走し藩論を尊王で統一する。一方、時代の激変に乗じた農民一揆が全国で多発する中、下野国内でも“野州世直し”と
称した農民暴動が発生、1868年(明治元年)4月初旬3万もの民が宇都宮城下で暴れまわっている。対応に苦慮した宇都宮
藩は東山道板橋宿(東京都板橋区)まで進軍していた新政府軍に援助を依頼、諸国鎮定の任を帯びていた東山道総督府は
これを受諾し救援軍を派遣する。この折、潜伏中であった新撰組局長・近藤勇が捕縛され処刑されてござる。■■■■■■
4月7日、新政府軍が宇都宮城に入り一揆を鎮討。ところがこれに対し、近藤を討たれた新撰組の残余や旧幕府軍伝習隊、
さらに桑名藩兵(佐幕軍)らが攻撃を企図する。同じく佐幕の会津藩兵も南下して宇都宮城攻撃の動きを見せている。■■■
新政府軍と旧幕府軍は4月中旬から北関東各所で交戦を開始。18日には前宇都宮藩主・戸田忠恕や新政府軍先鋒、援軍の
烏山藩兵が宇都宮城で籠城の構えを取り、旧幕府軍の攻略を待ち構えた。それに対して翌19日、土方歳三を指揮官とする
旧幕府軍前軍が大攻勢を展開。旧幕府軍はフランス式の兵装・軍事教練を受けていた精鋭であったのに対し、宇都宮城に
籠もる新政府軍・宇都宮藩兵は武器調達に遅れ、劣勢を余儀なくされた。それでも良く城を守り健闘したが、旧幕府軍は
城下各所に火を放ち籠城軍を追い立てる。町屋は勿論、二荒山神社や城内建造物にまで延焼が及ぶに至り、継戦困難と
なった籠城軍は城を放棄して戦線離脱、宇都宮城は旧幕府軍の手に落ちたのである。宇都宮の町はひと晩燃え続けた後、
20日には後軍も入城。この際、旧幕府軍は城内に残された蔵米を焼け出された庶民に配布した。■■■■■■■■■■■
21日、旧幕府軍は宇都宮城を出てさらに近隣の新政府軍を攻撃。作戦後再び宇都宮城へ帰還している。■■■■■■■■
新政府軍を破った事で旧幕府勢は気炎を上げ、一時的ながら東北諸藩における反転攻勢の気運が高まった。宇都宮城の
攻防戦は、あまり有名ではないが戊辰戦役の流れに一石を投じたのだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
他方、一旦は宇都宮城を失った新政府軍であるが態勢を立て直して23日に宇都宮城下へ迫った。この戦いは一進一退を
繰り返したが同日午後、新政府軍主力の薩摩藩兵が合流するに及び事態が急転、新政府軍が勝利を収める。戦線後退の
必要に駆られた旧幕府軍は宇都宮から撤退、戊辰戦争は宇都宮から白河・会津へと主戦場を移す事になっていく。■■■
5月7日、藩主・忠友が宇都宮に帰還。5月19日には忠恕も宇都宮城に入り戊辰戦役の混乱は収束した。1869年(明治2年)
6月2日、忠友はこれら宇都宮戦争の功績を称えられ明治新政府から1万石を加増される。紆余曲折があるものの同年6月
24日の版籍奉還後も宇都宮知藩事の座に納まったが、1871年(明治4年)7月15日の廃藩置県で職を免じられた。■■■■

「県庁所在地の城」の末路■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、城は1873年(明治6年)1月14日に発せられた所謂「廃城令」の下で存城の扱いとされたが、戊辰戦役以来新政府軍の
一大根拠地となっていた当城には陸軍東京鎮台歩兵第2連隊本部が置かれる事になる。■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、宇都宮戦争によって城も町も焦土と化した事から、廃藩置県後の宇都宮は急速に近代的都市へと変貌、城下町と
しての様相を消してしまった。1884年(明治17年)6月に鎮台連隊が千葉県印旛郡佐倉町(現在の佐倉市)へと移転するや、
宇都宮城跡地も存続の意義を失い、1890年(明治23年)城地一帯は民間地として払い下げられてしまう。本丸のごく一部
のみが御本丸公園(後の宇都宮城址公園)として残されたが、曲輪や土塁は次々と整地され残存建築物も破却されていく。
それでも、部分的に内堀が魚の養殖池として再利用され太平洋戦争後まで形をとどめていた(古写真などで確認できる)
ようだが、昭和30年代になると池に湧く害虫が伝染病の素になるとする衛生上の理由から完全に埋め立てられてしまった。
往時の宇都宮城は、中心に本丸を置き、その周りを囲んで二ノ丸、さらに三ノ丸、外郭が取り囲む輪郭式の縄張りで、都合
4重の水濠が掘られていた。外郭大手は城域北端、二荒山神社の目前に切られ、そこから三ノ丸に入る太鼓門虎口には
見事な丸馬出が構えられている。太鼓門からなお中へ入り二ノ丸に至る表門は、堀を渡る橋の前後に枡形を有する警戒
厳重な作り。これ以外の城内各所の門も、全て枡形虎口や食違い虎口を構えており容易に突破できないようになっている。
本丸には合計5基、二ノ丸には3基の二重櫓が土塁上に建てられていた上、この塁線は技巧的に屈曲して横矢を全方位へ
かける仕組みになってござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
それに加えて、2006年(平成18年)には前田育徳会尊経閣文庫(加賀藩前田家の収蔵書物を保管する東京の団体)の中で
「野州宇津宮之城図」なる絵図が発見され、それによれば城域全体で27基(!)もの二重櫓が記録されている。これらの櫓は
多聞櫓で連結していたと見られ、さすが関東七名城と思える作りであり、戊辰戦争時もこの城が一大決戦場となった理由も
頷けるというもの。それだけに都市化の波で壊滅したのが悔やまれる。旧来の遺構で今も残存するのは、本丸内部の土塁
(それも極々わずかな部分だけ)と、移築された今小路門のみでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
(他に古材が寺の山門に転用された物があるとも言われるが、詳細不明)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

城址再生、その厳しい道のり■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ここまで湮滅してしまった宇都宮城に対し、復興の機運が巻き起こったのは平成に入ってからの事。1996年(平成8年)から
1999年(平成11年)にかけ「御本丸公園再整備調査検討懇談会」や「御本丸公園整備調査検討委員会」が設置されるに至り
御本丸公園の再整備・建築物復元が企画され申した。2000年(平成12年)〜2002年(平成14年)の間に基本計画が策定され
公園名称を宇都宮城址公園へと改称。2003年(平成15年)に公園敷地の土木工事着工、翌2004年(平成16年)からは櫓の
建築工事も開始され、2007年(平成19年)3月25日に竣工・公開されている。この整備で供用されたのは旧来の本丸の西端
部分にあたり、かつての宇都宮城址全体から見ればごく一部分に過ぎないのだが、それでも南北およそ300m×東西150m
(最長部)、面積3.7haを誇る広大なものだ。ここに清明台(せいめいだい、清明台櫓とも呼ばれる)と富士見櫓という2基の
二重櫓が建てられ、両者の間を長塀が繋いでいる。北側の清明台(写真)は木造2階建て本瓦葺、5.9m×6.9mの敷地を有し
高さ約10m。南側の富士見櫓は同じく木造2階建て本瓦葺、高さも同様に約10mだが少し大きく、5.9m×7.9mの寸法。控え柱
付きの土塀も含め建築物はいずれも土壁白漆喰塗りの木造建築であり、伝統工法に忠実な作りだ。この土塀は途中に歪
(ひずみ、射撃箇所としてわざと屈曲させた部分)まで再現され、宇都宮市が復元にかけた熱意を垣間見る事ができる。
一方、今回の復元工事で論争の種になったのがこれら建築物の土台となる土塁部分。高さおよそ10m、基底幅20m、長さ
230mに及ぶ壮大なもので、急傾斜な法面に芝草を植えた外観は、なるほど往時の守りを想像させてくれる好材料だ。■■
しかし土塁とは名ばかりで、その内部は鉄筋コンクリートで固められた「現代建築物」なのである。しかも、総延長の中間
部分にはトンネルが大きく開口して、巨大な埋門であるかの如き威容…いや異様?を呈している。無論、当時の土塁に
このような開口部は存在しない。さらに公園敷地内側には土塁上へ上がるためのエレベータまで設置されており、城郭
愛好家からは「これでは城郭復元ではない」との非難轟々だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ただ、個人的にこの再建は“21世紀の新規築城”としてアリなのではないかと思っている。と言うのも、宇都宮城址公園の
整備計画は当初より都市防災の観点に基づいて立案されているからである。コンクリ造りの土塁は内部を防災倉庫兼
災害時の周辺住民退避空間として確保しているもので、トンネル開口部も防災車両進入路、備品搬入口として構えられて
いるのだ。エレベータがあるのも、21世紀の公共施設として必須のバリアフリー対応装備。構造不況真っ只中の御時世、
県庁所在地の広い空間を「史跡」と言うだけで占有するような公共投資では予算など認められる筈も無かろう。城址公園の
整備とは、城マニアの独善的観点だけで進めて良いものではないのである。むしろ、防災活用を積極的に考慮した複合
施設であるからこそ、城址公園が見事に再生したのである。災害に備える城ならば、これぞ「真に活きた城造り」であり
まさに“現代の堅城”と賞するに相応しいものだと前向きに評価しとうござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかしその一方で再整備から20年の時を経て見えてきた「本当の問題点」も徐々に顕在化しつつある。復元された水濠で
酷暑時における水の大量消費が確認されるようになったのだ。元来の(戦国期以来の)水濠では地下水脈を利用し、水の
補充が自然と行われていたようなのだが、都市化の後に「改めて作った機械的な濠」ではその機能がなく、徒に水道水を
浪費するだけの状態に陥っているとの事。今後はその改善が求められる事になろうが、改めて考えるに古来の築城術は
「地の利、水の理、人の和」を見抜いて行われていた事実に驚かされる。古きに学ぶ事はまだまだ多いようだ。と同時に、
失われた史跡を復活させるのは並大抵のことで無い、とも思い知らされる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

土塁

移築された遺構として
今小路門




倉ヶ崎城・勝山城  小山市周辺諸城館