受け継がれた「喜連川塩谷氏」の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で大蔵ヶ崎城。喜連川(きつれがわ)城とも。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
由緒ある喜連川の地は古代「来連川」と表記され、「狐川」とも記されていた。1186年(文治2年)来連川に塩谷五郎
惟広(しおのやこれひろ)が入りこの城を築城、同時に「喜連川」の地名に改めたと言う。源姓塩谷氏は清和源氏の
後裔。八幡太郎義家の孫・堀江三郎頼純(ほりえよりずみ)が下野国塩谷郷へと下った事で塩谷姓を名乗り、これが
源姓塩谷氏の始まりだとされ、頼純の子、2代・左衛門尉惟純(これずみ、惟基とも)の2男である安房守惟広(つまり
頼純の孫)は喜連川へ入植して喜連川塩谷氏を興した(系譜には諸説あり)。惟広は源平合戦で源義経配下の将と
して参戦、屋島の戦いや一ノ谷の戦いで大いに武功を挙げ、その褒賞として源頼朝から喜連川の地を与えられた。
記録によれば惟広の所領は塩谷荘十五郷、あるいは塩谷三千町と言われ、この後に起きた頼朝の奥州征伐(義経
追討と奥州藤原氏打倒)にも従軍し活躍した事から、倉ヶ崎城が惟広の本拠地として重要な役割を果たした状況が
推測できよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
惟広以後、17代およそ400年に渡って倉ヶ崎城は喜連川塩谷氏の城となるが、その家系は御多分に漏れず、家督
騒動や戦国騒乱で紆余曲折を経てござる。惟広の兄で3代目の左衛門尉惟頼(これより)が継いだ源姓塩谷宗家は
惟頼の長男・左衛門尉正義(まさよし)が4代、2男・左衛門尉朝義(ともよし)が5代となった所で子が無く断絶。近隣
豪族の宇都宮氏から後嗣を取って家名を遺したが、宇都宮氏は藤原氏末裔の為、藤姓(とうせい)塩谷氏と変わる
事になった。喜連川塩谷氏もまた、5代目まで系譜を繋いだ所で嗣子無く断絶。同様に宗家である藤姓塩谷氏から
跡継ぎを得て家系を遺す事となり申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後、宗家と喜連川家との間で度々養子交換がされつつ時代は戦国時代へ突入する。この頃、特筆すべき事象と
言えば、塩谷義孝・孝信兄弟の内訌であろう。兄・伯耆守義孝が宗家を継承し、弟・安房守孝信が喜連川家に養子
入りした兄弟は、近隣豪族・那須氏との関係上から仲違いをするようになった。即ち、孝信の妻は那須氏の重臣・
大関氏の娘であり喜連川家は那須との関係を重視するようになっていた一方、塩谷宗家は那須氏との敵対関係を
深めていたのである。1564年(永禄7年)10月7日の夜、孝信は16騎という少数の手勢を連れ兄・義孝の居城である
川崎城(栃木県矢板市)へ侵入、義孝を殺害した。これで川崎城は孝信の手中に収まるが、1566年(永禄9年)義孝
嫡子の伯耆守義綱が宇都宮・佐竹などの援軍と共に川崎城を攻略し奪還、孝信は落ち延びて倉ヶ崎城へと戻った
ようである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
孝信の次代、安房守惟久の頃になると豊臣秀吉が全国の統一を成し遂げ、塩谷氏もその影響を受けるようになる。
1590年(天正18年)に秀吉が天下統一の最終戦とした小田原征伐時、命令を受けた兵糧供出に齟齬をきたした為、
惟久は秀吉の怒りを恐れて出奔。ここに名族・喜連川塩谷氏は滅亡、倉ヶ崎城は廃城となったのでござった。■■■
公園の中に遺構が見え隠れするも、震災被害は大きく…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、城跡はお丸山公園として整備されている。建造物は何も残らないが城の縄張りは比較的良好に残存しており
城好きの人間ならばひと目見て堀や土塁の遺構が発見できるだろう。周辺は北に内川、南に荒川が流れ、両者が
城の東側で合流する地勢だ。つまり、2つの川に挟まれた細長い三角形の台地が倉ヶ崎城の城地なのである。この
台地、麓からの比高は最も高い所で60mほど。台地の先端が詰丸となる主郭で、そこから二郭・三郭・四郭・外郭が
一直線に並び郭間は深い空堀で仕切られる連郭式の縄張り。但し、主郭は既に麓に向かって傾斜している位置に
あるため、標高で言えば外郭部が最も高く、主郭は最も低い。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
四郭はお丸山公園の駐車場となり、三郭以内には温泉施設や喜連川スカイタワーと言った公園設備が建てられて
いるものの、堀や土塁に大きな改変を受けた様子は無い。三郭には外郭からの直線的侵入を阻むための捨堀が
あり、二郭には虎口に対する横矢掛かりの張出部などがある。これを見るだけで、この城が戦国期まで用いられて
いた状況が容易に確認でき、平安末期を創始とする城郭が4世紀に渡り継続使用されるにあたって時代に対応した
改修が逐次行われていた事がよく分かる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
公園整備に伴って郭間には橋が架けられているが、この橋の上から下を覗けばいずれの郭間も相当な高さがあり、
堀の深さも目を見張るものがある。都市公園として整備された城というと、大概が遺構を潰したり過剰整備したりで
元の城の状況が一変してしまうものだが、この城は予想とは違って遺構は遺構のまま手付かずにしている。■■■
(それもどうなの?と思わなくないがw)。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ただ、惜しくも2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災で公園内各所に地割れが発生、さらに同年の度重なる
台風被害により土砂崩れまでもが起きてしまい、現在は立入禁止区域になってしまっているとの事。復旧もかなり
困難な状況のようだ。市指定史跡となっている城跡なので、何とか往時の姿を取り戻して貰いたい。■■■■■■
余談:現代に繋がる喜連川の統治拠点■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、塩谷氏の滅亡後、喜連川には古河公方(室町体制下における関東統治者)足利氏の末裔が入部している。
才女として知られた惟久の妻・お嶋の方は秀吉の側室に迎え入れられ(秀吉はこればっか…)何とか所縁の者に
よる復興を願った事から、お嶋の兄弟であった足利右兵衛督国朝(くにとも)に喜連川領が与えられたのである。■
これについても前段があり、古河公方家は戦国騒乱の中、分家である小弓(おゆみ)公方家と本家が勢力を争って
仲違いをしていた。国朝は小弓家の出自であるが、一方の本家は5代目・右兵衛佐義氏に男子が無く断絶し、唯一
女子のみが残されて血脈を保っていた状況にあった。秀吉は国朝にこの姫を嫁がせて古河公方家の和合を図り
名門・足利家を再興、喜連川へ入部させたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかしながら宗家の姫と小弓家の国朝は互いに「自らが古河公方家の嫡流」という意識が強く、夫婦仲は必ずしも
良くなかったという。このため、姫は喜連川へは来ず、旧居である古河御所(茨城県古河市)から動かなかったとの
事。さらに国朝は秀吉の朝鮮出兵に従った出陣途上に広島で没してしまったため、改めて国朝の弟である左馬頭
頼氏に未亡人となった姫を再嫁させ家名を存続させようとした。この政策は秀吉の没後、江戸幕府でも継承されて
名門・古河足利家改め喜連川家は小禄ながら幕府高家(こうけ、儀式典礼を司る要職)として重用されたのである。
喜連川家は倉ヶ崎城跡の麓に陣屋を構えて居館とし、明治まで続く。その陣屋跡は喜連川町役場、つまり現在の
さくら市役所喜連川庁舎となっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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