下野国 倉ヶ崎城

倉ヶ崎城 土塁・空堀

 所在地:栃木県さくら市喜連川
 (旧 栃木県塩谷郡喜連川町喜連川)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
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受け継がれた「喜連川塩谷氏」の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で大蔵ヶ崎城。喜連川(きつれがわ)城とも。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
由緒ある喜連川の地は古代「来連川」と表記され、「狐川」とも記されていた。1186年(文治2年)来連川に塩谷五郎
惟広(しおのやこれひろ)が入りこの城を築城、同時に「喜連川」の地名に改めたと言う。源姓塩谷氏は清和源氏の
後裔。八幡太郎義家の孫・堀江三郎頼純(ほりえよりずみ)が下野国塩谷郷へと下った事で塩谷姓を名乗り、これが
源姓塩谷氏の始まりだとされ、頼純の子、2代・左衛門尉惟純(これずみ、惟基とも)の2男である安房守惟広(つまり
頼純の孫)は喜連川へ入植して喜連川塩谷氏を興した(系譜には諸説あり)。惟広は源平合戦で源義経配下の将と
して参戦、屋島の戦いや一ノ谷の戦いで大いに武功を挙げ、その褒賞として源頼朝から喜連川の地を与えられた。
記録によれば惟広の所領は塩谷荘十五郷、あるいは塩谷三千町と言われ、この後に起きた頼朝の奥州征伐(義経
追討と奥州藤原氏打倒)にも従軍し活躍した事から、倉ヶ崎城が惟広の本拠地として重要な役割を果たした状況が
推測できよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
惟広以後、17代およそ400年に渡って倉ヶ崎城は喜連川塩谷氏の城となるが、その家系は御多分に漏れず、家督
騒動や戦国騒乱で紆余曲折を経てござる。惟広の兄で3代目の左衛門尉惟頼(これより)が継いだ源姓塩谷宗家は
惟頼の長男・左衛門尉正義(まさよし)が4代、2男・左衛門尉朝義(ともよし)が5代となった所で子が無く断絶。近隣
豪族の宇都宮氏から後嗣を取って家名を遺したが、宇都宮氏は藤原氏末裔の為、藤姓(とうせい)塩谷氏と変わる
事になった。喜連川塩谷氏もまた、5代目まで系譜を繋いだ所で嗣子無く断絶。同様に宗家である藤姓塩谷氏から
跡継ぎを得て家系を遺す事となり申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後、宗家と喜連川家との間で度々養子交換がされつつ時代は戦国時代へ突入する。この頃、特筆すべき事象と
言えば、塩谷義孝・孝信兄弟の内訌であろう。兄・伯耆守義孝が宗家を継承し、弟・安房守孝信が喜連川家に養子
入りした兄弟は、近隣豪族・那須氏との関係上から仲違いをするようになった。即ち、孝信の妻は那須氏の重臣・
大関氏の娘であり喜連川家は那須との関係を重視するようになっていた一方、塩谷宗家は那須氏との敵対関係を
深めていたのである。1564年(永禄7年)10月7日の夜、孝信は16騎という少数の手勢を連れ兄・義孝の居城である
川崎城(栃木県矢板市)へ侵入、義孝を殺害した。これで川崎城は孝信の手中に収まるが、1566年(永禄9年)義孝
嫡子の伯耆守義綱が宇都宮・佐竹などの援軍と共に川崎城を攻略し奪還、孝信は落ち延びて倉ヶ崎城へと戻った
ようである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
孝信の次代、安房守惟久の頃になると豊臣秀吉が全国の統一を成し遂げ、塩谷氏もその影響を受けるようになる。
1590年(天正18年)に秀吉が天下統一の最終戦とした小田原征伐時、命令を受けた兵糧供出に齟齬をきたした為、
惟久は秀吉の怒りを恐れて出奔。ここに名族・喜連川塩谷氏は滅亡、倉ヶ崎城は廃城となったのでござった。■■■

公園の中に遺構が見え隠れするも、震災被害は大きく…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、城跡はお丸山公園として整備されている。建造物は何も残らないが城の縄張りは比較的良好に残存しており
城好きの人間ならばひと目見て堀や土塁の遺構が発見できるだろう。周辺は北に内川、南に荒川が流れ、両者が
城の東側で合流する地勢だ。つまり、2つの川に挟まれた細長い三角形の台地が倉ヶ崎城の城地なのである。この
台地、麓からの比高は最も高い所で60mほど。台地の先端が詰丸となる主郭で、そこから二郭・三郭・四郭・外郭が
一直線に並び郭間は深い空堀で仕切られる連郭式の縄張り。但し、主郭は既に麓に向かって傾斜している位置に
あるため、標高で言えば外郭部が最も高く、主郭は最も低い。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
四郭はお丸山公園の駐車場となり、三郭以内には温泉施設や喜連川スカイタワーと言った公園設備が建てられて
いるものの、堀や土塁に大きな改変を受けた様子は無い。三郭には外郭からの直線的侵入を阻むための捨堀が
あり、二郭には虎口に対する横矢掛かりの張出部などがある。これを見るだけで、この城が戦国期まで用いられて
いた状況が容易に確認でき、平安末期を創始とする城郭が4世紀に渡り継続使用されるにあたって時代に対応した
改修が逐次行われていた事がよく分かる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
公園整備に伴って郭間には橋が架けられているが、この橋の上から下を覗けばいずれの郭間も相当な高さがあり、
堀の深さも目を見張るものがある。都市公園として整備された城というと、大概が遺構を潰したり過剰整備したりで
元の城の状況が一変してしまうものだが、この城は予想とは違って遺構は遺構のまま手付かずにしている。■■■
(それもどうなの?と思わなくないがw)。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ただ、惜しくも2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災で公園内各所に地割れが発生、さらに同年の度重なる
台風被害により土砂崩れまでもが起きてしまい、現在は立入禁止区域になってしまっているとの事。復旧もかなり
困難な状況のようだ。市指定史跡となっている城跡なので、何とか往時の姿を取り戻して貰いたい。■■■■■■

余談:現代に繋がる喜連川の統治拠点■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、塩谷氏の滅亡後、喜連川には古河公方(室町体制下における関東統治者)足利氏の末裔が入部している。
才女として知られた惟久の妻・お嶋の方は秀吉の側室に迎え入れられ(秀吉はこればっか…)何とか所縁の者に
よる復興を願った事から、お嶋の兄弟であった足利右兵衛督国朝(くにとも)に喜連川領が与えられたのである。
これについても前段があり、古河公方家は戦国騒乱の中、分家である小弓(おゆみ)公方家と本家が勢力を争って
仲違いをしていた。国朝は小弓家の出自であるが、一方の本家は5代目・右兵衛佐義氏に男子が無く断絶し、唯一
女子のみが残されて血脈を保っていた状況にあった。秀吉は国朝にこの姫を嫁がせて古河公方家の和合を図り
名門・足利家を再興、喜連川へ入部させたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかしながら宗家の姫と小弓家の国朝は互いに「自らが古河公方家の嫡流」という意識が強く、夫婦仲は必ずしも
良くなかったという。このため、姫は喜連川へは来ず、旧居である古河御所(茨城県古河市)から動かなかったとの
事。さらに国朝は秀吉の朝鮮出兵に従った出陣途上に広島で没してしまったため、改めて国朝の弟である左馬頭
頼氏に未亡人となった姫を再嫁させ家名を存続させようとした。この政策は秀吉の没後、江戸幕府でも継承されて
名門・古河足利家改め喜連川家は小禄ながら幕府高家(こうけ、儀式典礼を司る要職)として重用されたのである。
喜連川家は倉ヶ崎城跡の麓に陣屋を構えて居館とし、明治まで続く。その陣屋跡は喜連川町役場、つまり現在の
さくら市役所喜連川庁舎となっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域内は市指定史跡








下野国 勝山城

勝山城空堀

 所在地:栃木県さくら市氏家
 (旧 栃木県塩谷郡氏家町氏家)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★★
★★■■■



氏家氏が築城し、芳賀氏の持ち城へと移り変わる■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名を氏家城。建久年間(1190年〜1199年)、氏家兵衛尉公頼(うじいえきみより)の築城とされる。■■■■■■
公頼の出自には諸説あるが、最有力の説は宇都宮左衛門尉朝綱(ともつな)の子とするもの。藤原摂関家、道兼の
子孫が下野国一宮(「いちのみや」が訛って宇都宮になったとされる)・二荒山神社別当となった事から宇都宮氏が
発生、朝綱はその3代目。朝綱の子、五郎公頼が氏家に入部、氏家24郷およそ2000余町を支配した事で氏家姓に
改姓、氏家氏の祖となった。(但し、氏家氏はそれ以前から現地に居た豪族で公頼が承継したとする説もある)■■
いずれにせよ、この地で勢力を固めた公頼は源頼朝の随臣として重用され、鎌倉幕府内の有力者となってござる。
以後、氏家氏は勢力を拡大し鎌倉時代中期の3代・美濃守経朝(つねとも)の頃には北陸地方にも所領を得て転出
している。下野から離れた氏家一門は室町時代に入るとさらに発展し、羽州探題(東北地方の統括官)の斯波氏や
大崎氏に従った奥州氏家氏(戦国期には山形城(山形県山形市)主・最上氏の家臣として有名)に代を繋いだり、
美濃国(岐阜県南部)の国人として織田弾正忠信長に臣従した“美濃三人衆”の1人として高名な氏家貫心斎卜全
(ぼくぜん)を輩出する一族となっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが肝心の下野氏家氏は4代・長門守公宗が勝山城に帰還し復興した(これを以って勝山築城とする説もある)
ものの、嗣子を残せずに6代・三河守綱元で断絶。時代はちょうど南北朝騒乱の頃で、氏家氏なき後の勝山城には
宇都宮氏配下の武将・芳賀氏が入った。飛山城(栃木県宇都宮市)主・芳賀駿河守高家の子である駿河守高清が
入城する事により改修された勝山城。芳賀氏は宇都宮氏の最有力家臣であると共に、互いの家系を補完する親族
衆であった為、時に宇都宮氏に従い勇戦し、また時に宇都宮氏に対して下克上を成さんとする事もあった。■■■

戦国時代に数々の戦歴を経た実戦城郭■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした中、勝山城は宇都宮勢力圏で北辺を守る重要な城とされ、敵対勢力である那須氏との攻防に明け暮れる。
特に有名なのが1549年(天文18年)早乙女(そうとめ)坂合戦だ。烏山城(栃木県那須烏山市)主・那須氏と連携して
いた倉ヶ崎城(上記)の塩谷氏を攻めるために宇都宮軍と芳賀軍が集結したのがここ勝山城で、城を出た連合軍は
喜連川領内に入った早乙女坂(五月女坂とも記す)で那須勢と遭遇、交戦に及んだ。数では宇都宮・芳賀連合軍が
勝っていたものの、伊王野氏(北那須の豪族)らの援軍で奮戦した那須軍が敵の総大将である宇都宮右馬頭尚綱
(ひさつな)を討ち取る事に成功、連合軍は壊走する事になる。遺された尚綱の子・弥三郎広綱はまだ5歳の幼児で
あり、宇都宮家中は家督騒動に見舞われた。その結果、宇都宮家臣の壬生氏が下克上をして実権を掌握、広綱は
本拠であった宇都宮城(栃木県宇都宮市)を追われて逃亡、真岡で芳賀氏の庇護下に置かれて復権の時節を待つ
事になるが、こうした混乱の端緒となったのが勝山城だったと言えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
宇都宮勢が衰退の期に入った事を見逃さず、1559年(永禄2年)には結城城(茨城県結城市)の結城左衛門督晴朝
(はるとも)が氏家郡内に進軍、勝山城下を焼き払ったとの記録が残る。また、那須軍も1573年(天正元年)に勝山
城下へ侵攻。1585年(天正13年)には那須勢の奇襲を受けた宇都宮・芳賀軍が勝山城で籠城し、辛くもこれを撃退
している。度重なる戦歴が残る勝山城であるが、いずれも落城はしておらず、かなりの堅城であった事が推測でき
申そう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかしこの堅城も勝てない相手が現れる。言わずもがな、天下統一をした豊臣秀吉である。宇都宮氏は戦国騒乱を
何とか切り抜け秀吉政権に従ったが1597年(慶長2年)、時の当主・宇都宮下野守国綱が突然秀吉の勘気を被って
改易され領内の諸城が破却されたのだ。この時、勝山城も廃城とされてしまった。■■■■■■■■■■■■■■

昭和の改変をバネにして、見事な整備に生まれ変わる■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以来、勝山城は沈黙の眠りに就き一部が畑などの耕作地と化したが、明治維新後は地元の豪農・黒須家が私財を
投じて敷地を買い取り、保存に努めた。しかし、昭和になると脚光が当てられる。1975年(昭和50年)勝山城の本丸
跡地に突如レジャー施設が建築され、外観6層の模擬天守までもが建てられた。勿論、戦国期城郭である勝山城に
天守が在った史実はない。それどころか6層の天守というもの自体、日本史上ほとんど類例のない奇妙な建物だ。
安土城(滋賀県近江八幡市)天主・越前北ノ庄城(福井県福井市)天守が望楼部含めて7層と言い、家康期駿府城
(静岡県静岡市葵区)の天守が御殿部を含めて同様と推測されるが、他の城はいずれも5層以下の天守である事を
考えれば、言わば“天下人の城”に匹敵するのが6層天守なのである。こんな珍妙な建物が勝山城に建てられても
不相応なのが当然で、このレジャー施設は数年と経たず廃業してしまった。結局これを契機とし勝山城の“正しい”
史跡保護活動が動き出し、1981年(昭和56年)城跡は公有地化され、勝山公園として整備・公開されている。■■■
無論、史実に違える模擬天守は撤去されてござる(苦笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
勝山城は鬼怒川に面した河岸段丘上に築かれた崖端城だ。現在では、城跡の北東端部へ江戸時代に整備された
(大正時代に延伸)市の堀用水が流れ込んでいるので、さながら2つの川の合流地点に城が築かれているようにも
見える。さりとて、(用水は後から流れるようになったものだとしても)水利の便に富み、城を囲うように低湿地帯が
広がっていた要害の地である事の証明にはなろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在確認されている城域は、現地案内板によれば南北450m×東西が北辺で325mを有し、段丘先端部(縄張りの
北東隅)にほぼ正方形の本丸が置かれ、その南面と東面を覆うようなL字型の二ノ丸が控える。詳しく言えば、本丸
南側が二ノ丸南郭で、本丸・二ノ丸南郭の東面を占める広大な敷地が二ノ丸東郭となっており、其々の曲輪間には
空堀や土塁が横たわって防備を固めている。さらに二ノ丸の南には三ノ丸が広がる連郭式の縄張り。また、本丸の
北側に出曲輪のような二ノ丸北郭も付属して搦手側の防備を厚くしている。■■■■■■■■■■■■■■■■■
本丸の大きさは東西80m×南北70m。この敷地を高く分厚い土塁が四周囲んでおり、その状況は全く圧巻と呼べる。
更にこの土塁の外側には深く広い空堀が存在する。本丸へと至る虎口は東西それぞれ1箇所ずつ。このうち、東側
(二ノ丸東郭と連結)は巨大な木橋が架けられ、それを狙うように大きな横矢掛かりの張出部がある。写真は橋から
その横矢掛かりを俯瞰したもの。夏場だったので下草がびっしり生えているが、それでも堀の深さや屈曲がハッキリ
見て取れ申そう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在架けられている橋は復元されたもので、幅2mはある大型の四脚橋ではあるが、発掘調査の結果ここには同じ
規模での四脚柱穴が検出されており、決して誇大な復元ではないようである。一方、西側の虎口は土橋で二ノ丸
南郭に繋がっている。この土橋は本丸に対して斜めに架かる状況となっており、食い違い虎口の形状で本丸上から
侵入者への射撃が行える。とは言え、この虎口は搦手方向への道となっており、本丸西虎口から出た場所からすぐ
傍に鬼怒川の河川敷へ抜けられる路が続く。即ち、落城の可能性が高い場合の脱出路か、或いは逆に河川流通を
利用した物資搬入路だったと考えるべきだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで、現状では勝山城の北端(二ノ丸東郭の北隅)土塁は2重構造になっているように見える。まるで後北条系
城郭の比高二重土塁のようだ。勝山城の歴史上、後北条氏に関連する事象は無いのだがこの共通性は一体?
廃城後の改変、という可能性もあるので断定的な事は言えないが…。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、城内各所はかなり良好な状態で土塁や堀が残されていて感動的。■■■■■■■■■■■■■■■
二ノ丸東郭からは縄文時代の生活痕も検出されており、大河川に面したこの場所が古代から人類の営みに適した
所であった事を物語っている。眼下に望む鬼怒川の景色は「栃木県景勝百選」に選ばれ、二ノ丸東郭にはさくら市
ミュージアムが建つ。さらに外縁部には市内各所から移築された古建築、森家長屋門・手塚家板倉・大島家住宅の
3棟が保存されており、歴史自然公園として勝山城址が上手く活用されている。このため、駐車場も完備されており
国道4号線バイパスに程近く、JR東北本線氏家駅からも歩いて行ける距離なので、ふらりと散策がてらに訪れても
十分堪能できる城址でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等




烏山城  宇都宮城