下野国 烏山城

烏山城址石垣

 所在地:栃木県那須烏山市城山・中央
 (旧 栃木県那須郡烏山町城山・中央)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★★☆
■■■■



内紛ばかりの那須氏による築城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名、臥牛城。戦国時代から江戸時代にかけて、数々の城主が興亡を繰り広げた城。その創建は1418年(応永25年)
那須五郎資重(すけしげ)の手によるが、これも那須氏の内訌を発端としている。遡れば平安末期、屋島合戦における
「扇の的」を射落とした弓の名手・那須与一宗隆が有名な那須氏は、鎌倉御家人を経て、室町体制下では守護職には
ないものの独自の地盤を築き上げ、近隣守護大名と肩を並べる大勢力となっていた。こうした中で、那須氏12代目の
家督を継いでいた那須太郎資之(すけゆき、平安時代の3代目・五郎資之とは別人)は沢村家に入っていた弟・五郎
資重(すけしげ)と不和になる。兄から攻められるようになった資重は独自に那須氏継承を果たし、資之は上那須家、
資重は下那須家とされた。ここに那須氏は二分され、互いに争う事となったのである。丁度この頃に発生した上杉禅秀
(ぜんしゅう)の乱(鎌倉公方足利家と関東管領上杉家の対立)で上那須家は上杉方、下那須家は足利方に就くなどし
対立を激化。遂に1414年(応永21年)資之は資重の居城・沢村城(栃木県矢板市)を攻撃、城を落ちた資重は稲積城
(同じく那須烏山市内)に仮宿する事となった。これに伴って資重は新たな城の構築に着手し、1417年(応永24年)から
工事を行い翌年に完成を見た。これが烏山城の起源でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以来およそ100年、那須家は上下に分かれて争い、烏山城は下那須家の居城であり続けた。資重の子(孫とも)・太郎
資実(すけざね)は明応年間(1492年〜1501年)に烏山城の拡張工事を行っている。■■■■■■■■■■■■■■
1514年(永正11年)上那須家当主の播磨守資親(すけちか)が病没すると、養嗣子だった大膳大夫資永(すけなが)と
資親晩年に生まれた実子・資久(すけひさ)を担ぐ勢力が家督争いを始め、結果として資永と資久の両者共に死亡し、
上那須家は断絶する。そのため、下那須家が上那須家の遺領・遺臣を吸収する形で那須家の合一が成り、烏山城は
改めて統一那須家の本城として使用される事となり申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかしこの後、時代は戦国乱世に突入していく。那須領には北方の白川氏と岩城氏が連合で侵攻し、上下那須家を
統一した修理大夫資房(すけふさ)はその撃退に腐心する事になった。さらに資房の隠居後、那須家はまたも内紛を
起こし資房の子・壱岐守政資(まさすけ)と孫の修理大夫高資(たかすけ、政資の嫡男)が家督を争う事態になる。
政資は近隣勢力・宇都宮氏と共同し、高資は小田原後北条氏の後援を受けていたため、この家督争いは宇都宮氏と
後北条氏の代理戦争という側面もあった。高資が烏山城から政資を追い落とし、1539年(天文8年)には逆に政資が
高資の籠もる烏山城を攻め立てたが、これは落ちず最終的に高資が父・政資を打ち負かし(敗死させた?という説も)
家督争いは高資の勝利に終わった。ところが敵対する宇都宮氏は謀略を巡らし、高資は1551年(天文20年)1月22日
家臣の千本常陸介資俊(せんぼんすけとし)に暗殺されてしまう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
このため、那須氏当主の座は高資の弟・修理大夫資胤(すけたね)が継ぐ事になった。■■■■■■■■■■■■■

対外戦争にも忙殺される那須家■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
図らずも家督を得た資胤は資俊を重用して家臣団の統制に乗り出したものの、対外的には宇都宮氏との対立が続き、
後北条氏との縁も切れた上、御家騒動での弱体化を横目に見ていた常陸国の戦国大名・佐竹氏からの侵攻も受ける
ようになって四面楚歌の状況に陥っていく。さらには1560年(永禄3年)3月、那須領へ侵攻して来た白河左京大夫晴綱
(しらかわはるつな)・蘆名修理大夫盛氏(あしなもりうじ)らの軍勢と交戦した際の不手際をきっかけに、那須家重臣の
大田原氏・大関氏らが資胤から離反するようになってしまった。大田原氏や大関氏は元来、上那須衆であった事から
佐竹氏との関係が深く、これを機にして大関氏は資胤を那須氏当主の座から落とし、佐竹家からの新当主を迎え入れ
ようと画策する。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
このため1563年(永禄6年)3月、佐竹の援軍を得た大関氏の軍勢が烏山城下に侵攻(大海の戦い)、1566年(永禄9年)
8月には佐竹・宇都宮連合軍が烏山城南西の治部内山へ攻め寄せている。治部内山の戦いでは、佐竹方の将・佐竹
左近将監義堅(よしかた)が烏山城の支城である千本城・茂木城(共に栃木県芳賀郡茂木町)を攻略する猛攻を見せ、
資胤は窮地に陥った。義堅は佐竹分家・東家の当主である事から東義堅とも称され、佐竹家中での支柱となる有力な
武将である。支城を落とした佐竹軍は勢いを増したが、逆に攻勢限界を超え、義堅の部隊は那須軍の中に孤立して
しまう。これにより義堅は降伏するしかなくなり、千本資俊の軍勢により生け捕りにされた。重臣である東家の当主が
欠けた佐竹軍は撤退。那須軍は見事に城を守りきったのだ。義堅が降参した事を由来として、治部内山は降参嶺とも
呼ばれるようになったと言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
佐竹氏の攻勢はそれでも続き、翌1567年(永禄10年)2月に大崖山の戦い、更に同年4月は霧ヶ沢の戦いが展開された
ものの、那須軍の計略や奮戦によりいずれも撃退されており、これは険峻な山城たる烏山城の要害性がいかに優れて
いたかの証でもあろう。結局、何度戦っても烏山城を落とせない事に音を上げた上那須衆は資胤の臣・興野弥左衛門
義成が働きかけて資胤の下に帰参する。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方で佐竹氏との関係はこじれたままであった。1572年(元亀3年)那須資胤の娘が佐竹家嫡男・佐竹右京大夫義宣の
正室になる事で一応の和睦が成ったものの直ぐに破綻し1573年(天正元年)1月、佐竹常陸介義重(義宣の父)配下の
松野讃岐守篤通・武茂左衛門尉守綱らが烏山城を攻撃、1578年(天正6年)5月には東中務大輔義久(義堅の2男)が
烏山城下の幕焼沢へ侵攻している。また1583年(天正11年)2月には佐竹・宇都宮連合軍が烏山を攻撃。これは直前に
那須資胤が死去、大膳大夫資晴(すけはる)に代替わりしたばかりの状況を狙われたもので、資晴は兵1200を動員して
守りを固めたが数に劣り苦戦。宇都宮軍の動きに備えて別働隊となっていた上那須衆の蘆野大和守資泰(すけやす)・
大関右衛門佐高増(たかます)勢が救援に加わり、那珂川の河原で決戦に及びようやく撃退したのである。これは烏山
川原表の合戦と呼ばれる。このように烏山城は幾度も侵攻を受け、その都度敵を撃退する歴史の繰り返しであった。
それは即ち、城主・那須氏が家内不和や後継争い、それに伴う外敵侵略に振り回された歴史と言えよう。■■■■■■

秀吉の天下統一で飛ばされる那須氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この後、資晴は勢力の回復に邁進し佐竹領や宇都宮領への進出を成し遂げるに至る。彼は武略に秀でた豪将であり、
それまで他勢力に付け込まれてきた那須家から集権的戦国大名へと転化を図ろうとした人物であった。しかし、時既に
戦国終盤。1590年(天正18年)天下統一に王手をかけた豊臣秀吉は小田原後北条氏を最後の敵と定め討伐を開始、
全国の諸大名に参集を命じる。秀吉を“成り上がり者”と軽んず者はこれを拒み、逆に中央政権へ参与を目指す者は
これに応じた。その波は、当然ながら北関東諸将にも及んでいたのである。宇都宮氏や佐竹氏、那須家臣の中でも
大関氏らは秀吉の軍門に下り臣下の礼を取ったのだが、領内での自立を目指す資晴は豊臣政権の介入を嫌い、遂に
小田原へは参陣しなかった。これに秀吉は怒り、那須家は8万石の領地を没収され、烏山城も追われてしまう。■■■
資晴は領内の佐良土(さらど)城(栃木県大田原市(旧那須郡湯津上村)佐良土)に蟄居し、代わって烏山城には織田
左近衛権中将信雄(のぶかつ、信長の2男)が入り申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
信雄の入部はいわく付きのもので、秀吉は元々信雄を徳川家康の旧領である東海地方へ入れ大封を与えるつもりで
あったが、信雄自身が移封を拒んだので懲罰として烏山2万石へ大減封されたとの事。しかも烏山在府僅か2ヶ月で
再転封となり、出羽国秋田(秋田県秋田市)へ飛ばされた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
改めて1591年(天正19年)、成田下総守氏長が2万石で烏山城主に。成田氏長と言えば小田原征伐時に武蔵国忍城
(埼玉県行田市)の主であったあの人物。豊臣の大軍に水攻めされそれでもなお落城せず持ち堪えた“忍の水城”の
功績は後北条方にあって秀吉を唸らせ、名門である事も幸いし氏長は見事大名として取り立てられ、烏山に封じられ
たのである。1595年(文禄4年)氏長は没し、弟の左衛門尉長忠が後嗣に。1600年(慶長5年)関ヶ原合戦時、長忠は
東軍に与して、会津の上杉軍への備えとなった事で戦後に1万7000石を加増され、石高は3万7000石になる。1614年
(慶長19年)の大坂冬の陣でも成田軍は徳川方として参戦し、1616年(元和2年)12月18日に長忠が亡くなった後には
2男の左馬助氏宗が家督を継ぐ事を許されている。ところが氏宗の代、成田家中は家督騒動に揺れ、幕府から減封
処分を受け1万石に転落。更に氏宗が1622年(元和8年)11月7日に病没しても新たな家督騒動が起きた為、成田家は
改易処分となってしまった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

近世城郭として再編された城域■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
翌1623年(元和9年)3月15日、新たな烏山城主として松下右兵衛尉重綱(しげつな)が2万800石で常陸国小張(茨城県
つくばみらい市)から封じられる。1627年(寛永4年)重綱が陸奥国二本松(福島県二本松市)へと転封されると、今度は
下野国真岡(栃木県真岡市)から2万5000石で堀美作守親良(ほりちかよし)が烏山へやって来た。治世10年、1637年
(寛永14年)5月13日に親良が没すると長男の美作守親昌(ちかまさ)が家督を継承、烏山城主になる。親昌は2人の
弟に3000石・2000石を分知する一方で、領内の検地を行い殖産に努める。また、江戸幕府の山城禁止令に合わせて
烏山城の再整備を行い、1659年(万治2年)城山の麓に居館政庁部となる三ノ丸を築いた。これにより、山深き旧来の
主郭部は使用されなくなる。このように、烏山城が近世大名の居城として整えられたのは堀氏の統治時代であったと
言えよう。そもそも烏山藩主は城主格大名(城主大名ではない)とされているため、正式には城を有する事ができない。
旧来から城があるためそれを維持していたに過ぎず、陣屋構えにすべき格式に準えて、近世再整備に合わせ三ノ丸を
主体とし山上部を不使用とする体裁に改めたのだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その親昌は1672年(寛文12年)閏6月1日、信濃国飯田(長野県飯田市)へ転封。今度は板倉主水佑重矩(しげのり)が
三河国中島(愛知県岡崎市)から烏山に入る。重矩は京都所司代や幕府老中を歴任、清廉を旨とした傑物と言われる。
惜しくも翌1673年(寛文13年)5月29日に没するが、跡を継いだ3男の石見守重種(しげたね)は重矩の政策を継承して
城下町の整備・農村の再編・宗門改めなどを行っている。これが烏山藩政の重要な基礎固めとなった事は言うまでも
無い。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

旧主・那須氏が返り咲くも、またまた家督相続に泣く■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
堀氏によって烏山城が近世城郭化され、板倉氏によって統治基盤が整えられた後、満を持して烏山に入ったのは旧主・
那須氏である。1681年(延宝9年)2月25日、板倉重種が武蔵国岩槻(埼玉県さいたま市岩槻区)に移り、那須右衛門佐
資弥(すけみつ)が2万石で入部。言わずもがな、資弥は資晴の後裔(青山家から養子入りし、資晴の義孫に当たる)。
秀吉による改易からおよそ90年を経て再び那須氏が烏山城主の座に返り咲いたのだ。■■■■■■■■■■■■■
ところが1687年(貞享4年)6月25日に資弥が死去、養嗣子であった主殿資徳(すけのり)が家督を継ぐや、またも御家
騒動が勃発する。資徳は弘前城(青森県弘前市)主・津軽越中守信政(のぶまさ)の3男で、女系血縁に基づいて資弥
晩年の養子に入ったが、実は資弥には存命する実子が残されていた為、家督を争う事になったのである。何より問題と
なったのが、資弥が資徳を養子として迎え入れる際、幕府に実子のある事を申告しなかった点で、数々の不行届きを
咎められる事態となり同年10月14日、那須家は改易となってしまった。つくづく、那須家は家督相続に凶相が出るようで
ある。これにより、烏山城には3万石で永井伊賀守直敬(なおひろ)が入城する。前任地が河内国(大阪府南部)だった
永井家は徳川幕府譜代の家柄で、直敬も寺社奉行や奏者番といった要職を歴任する。しかもこの直後、忠臣蔵事件の
発端となる“松の廊下”の刃傷が発生、取り潰された赤穂藩の後事を任されたのが直敬でござった。■■■■■■■■
よって1701年(元禄14年)9月1日、永井家は烏山から播磨国赤穂(兵庫県赤穂市)へと移封。■■■■■■■■■■■
代わって1702年(元禄15年)に入ったのは稲垣和泉守重富(しげとみ)、上総国大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)から
2万5000石を以っての転封である。重富も幕府若年寄を務める重役であり、1710年(宝永7年)4月17日38歳の若さで
没すると長男の和泉守昭賢(てるかた)が跡を継ぐ事を認められた。その昭賢は1725年(享保10年)10月18日、伊勢国
鳥羽(三重県鳥羽市)へ移る。今度は大久保佐渡守常春(つねはる)が近江国から烏山へとやって来た。石高は2万石。
転変を繰り返した烏山城主の座は大久保氏でようやく固定化され、明治維新へと至るのでござる。■■■■■■■■■
常春も後に老中へと昇進、1万石を加えられ石高は3万石に。この後、山城守忠胤(ただたね)―山城守忠卿(ただあき)
―山城守忠喜(ただよし)―佐渡守忠成(ただしげ)―近江守忠保(ただやす)―佐渡守忠美(ただよし)と代を重ねて、
最後の城主は佐渡守忠順(ただより)であった。江戸後期以降、烏山藩は荒廃した農村の立て直しに力を注いだものの
保守派の反対が強く、改革は不成功に終わっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ここまで列挙した烏山城の歴史を見てみるに、戦国期における侵略受難にはじまり、江戸期では改易・転封の繰り返し、
農村改革の失敗、そして全般を通じ言えるのが家督相続時の御家騒動三昧と、烏山城は苦難続きの歴史にまみれて
ござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

明治維新に消え、今では草木に埋もれた山城だが■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1869年(明治2年)の版籍奉還時、城は廃城となった上に1872年(明治5年)大雪の積雪で三ノ丸御殿が崩壊。翌1873年
(明治6年)には山上にあった旧主郭部の建物が失火により悉く焼失したのである。以来、城跡は眠りに就いて現在に
至っている。搦手門だけが、市内の民家に払い下げられて今でも残されているのみだ。■■■■■■■■■■■■■
戦国時代から使われた山上の縄張りは、古本丸と称されるいびつな四辺形の曲輪を山頂に構え、その南側に一回り
大きな長方形の本丸(那須時代の二ノ丸)が連結する連郭式を基本構造とする。古本丸と本丸の間は空堀で仕切られ
一本の土橋で行き来するようになっている。一方、古本丸の北側には同じく空堀で仕切られた中城と呼ぶ長方形の
曲輪が置かれているが、この間には土橋が無く本丸・古本丸の外側から回り込む帯曲輪的な通路から入るしかない。
おそらく往時は架橋され、非常時に撤去する構造だったのだろう。その中城の北側には北城なる曲輪があり、北城―
中城―古本丸―本丸が一列に並ぶ形状となってござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
これらの曲輪群の脇に更なる曲輪が連接する事で、山上曲輪群が構成されている。北城の西には大野曲輪、古本丸の
西に西城、本丸の南西側に若狭曲輪・武器庫郭が、古本丸の東は厩屋郭、本丸の南東側に二ノ丸、といった具合だ。
二ノ丸は那須時代に常盤曲輪と呼ばれていた。その常盤曲輪、つまり近世二ノ丸から南側へ道が通じ、それを下った
位置には鼓楼が。さらにそこから山を下りて至った麓に、堀親昌時代に整えられた近世三ノ丸が構えられている。この
三ノ丸は現在、寿亀山神社の境内。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
山上曲輪群を纏めて五城三郭と総称しているが、実際にはこの他にも多数の付曲輪や帯曲輪などがあり、山城として
かなりの規模を有した縄張り。現地説明版では城跡の敷地を東西約370m×南北約510m、面積約88haと記している。
要するに、山頂に繋がる全ての尾根を曲輪として削平し全周を警戒できる規模。さすが室町中期から幕末まで延々と
使われ続けた古城、という風格であろうか。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
これらの敷地では随所に堀・石垣・土塁などが残り、保存状態も悪くない。特に北関東の近世城郭で石垣が用いられて
いる事は特筆に価しよう。(しかも関東で廃絶しなかった近世山城…山城禁止令の中、貴重な存在でござる)■■■■■
ただ、県立自然公園とされている割には全くの放置という状況で、登山路こそ用意されているものの敷地内は荒れ放題、
藪や倒木が激しく見学し難い事この上なし。那須烏山市の案内では市役所隣にある八雲神社の北側から入山できる、と
あるが、この登山路はいくつものピークを越えてようやく山上曲輪群に到達する道程なので、険しい山越えを強いられる
事になる(←拙者はこのルートで入って軽く死亡w)。寿亀山神社(三ノ丸)の裏から城跡へと至る登山路を使った方が
確実だろう。遺構が色々と残されているだけに、見学し辛い状態なのがつくづく惜しまれる。■■■■■■■■■■■■
また、移築された搦手門も一般民家の物なので、節度を持った見学を心がけるべし。この搦手門、旧城時代から改変を
受けず当時と同じままの姿で残されているとの事。高麗門形式、門扉の上部が透かし戸になっており、柱の太さや梁の
高さなど質実剛健な様子が確認でき、市の有形文化財に指定されている。加えて、烏山郷土資料館には大手門の主柱
基石が移設展示されており、これも市有形文化財。この石には(主柱基石とだけあって)きれいに柱をはめ込む角穴が
穿たれている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等

移築された遺構として
搦手門・大手門主柱基石《以上市指定文化財》




飛山城  倉ヶ崎城・勝山城