古代烽火台を発祥とする城郭■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
鬼怒川の河岸段丘上に築かれた古代〜戦国期の城郭。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
もともとこの地には古代律令制における東山道の烽火(のろし)台があったので、烽山(とぶひやま)が訛って
飛山(とびやま)と呼ばれるようになった。畿内から東北地方への情報伝達拠点であった烽火台は、鬼怒川を
見下ろす台地という戦略拠点でもあった為、鎌倉時代後半の永仁年間(1293年〜1298年)現地の豪族・芳賀
左兵衛尉高俊(はがたかとし)が居館を構え築城したのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
芳賀氏の本姓は清原氏と言い、天武天皇の皇子・舎人親王(とねりしんのう)の子孫。元は京都の滝口武者
(内裏の警護を務める武士)であったが、平安時代後期の985年(寛和元年)に下野国へと流されて土着して
大内庄(現在の栃木県真岡市)の京泉屋敷を中心として芳賀郡を領有するようになった。それ以後、この地の
豪族として名を馳せたものの、近隣の名族・宇都宮氏が1051年(永承6年)に起きた前九年の役において功を
上げた事で二荒山神社の社務検校職に任命され権勢を誇るようになるや、これに従う。斯くして、芳賀氏は
宇都宮氏の家宰として名を連ね、こうした最中に飛山城が築かれたのだった。ちなみに、芳賀氏が飛山城を
本拠とした事からこの地は芳賀氏の旧姓から採り清原と呼ばれるようになっていて、1954年(昭和29年)8月
10日に宇都宮市へ編入されるまでは行政区域が芳賀郡清原村とされており申した。■■■■■■■■■■
さて、飛山城が本格的に城砦として機能するようになるのは南北朝時代以降だ。■■■■■■■■■■■
宇都宮氏は北朝に加担し芳賀氏もこれに従っていた為、南朝方の春日左近衛中将顕国(かすがあきくに)が
攻略、1341年(興国2年/暦応4年)に落城する。しかし南朝方は威勢が振るわず次第に衰退、程なく芳賀氏は
飛山城を奪還している。勢いに乗った芳賀氏は観応の擾乱(足利氏内部の権力闘争)でも活躍して、上野国
(現在の群馬県)と越後国(新潟県)の守護代に任じられる程であった。■■■■■■■■■■■■■■■■
芳賀氏・宇都宮氏の暗闘と共闘■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが16世紀になると、主家である宇都宮氏との対立関係が浮き彫りになる。元来、密接な間柄であった
宇都宮氏と芳賀氏は、時に互いの家から養子を受けて血脈を紡いでいたのだが、戦国乱世の時代になるや
これが裏目に出て、宇都宮氏は伸張著しい芳賀氏の勢力に脅かされるようになっていたのだ。■■■■■■
1512年(永正9年)、下剋上を恐れた宇都宮右馬頭成綱(しげつな、宇都宮氏17代)は芳賀左兵衛尉高勝を
殺害。実は成綱の父である下野守正綱(まさつな、16代)は芳賀氏から養子入りした人物で、成綱は父方の
実家に対して粛清を行った事になる。高勝を倒した成綱は、弟の左衛門尉興綱(おきつな)を芳賀家の後継に
入れ事態の収拾を図ったが、その興綱は結城左衛門督政朝(ゆうきまさとも、結城地方の名族)と結び主家に
叛し、今度は宇都宮家が乗っ取られる事件が発生。こうして芳賀氏から返り咲いた興綱は宇都宮氏の19代を
継いだ。それにより18代・弥三郎忠綱(ただつな、成綱の子)は追放されている。■■■■■■■■■■■■
ところがこれだけでは終わらず、興綱もまた1532年(天文元年)芳賀右兵衛尉高経(たかつね、高勝の弟)らの
反乱により失脚を余儀なくされた。こうした戦闘において、飛山城が重きを成した事は想像に難くない。鎌倉
武士の館に始まる城館は、南北朝の動乱を経て戦国時代に強化が図られたのである。■■■■■■■■■
とは言え、度重なる戦乱で芳賀氏と宇都宮氏は共に勢力を衰えさせた。宇都宮氏は21代・下野守広綱の時代
壬生氏(芳賀氏と並ぶ宇都宮家中の実力者)が大反乱を起こし、本拠である宇都宮城(栃木県宇都宮市)を
乗っ取られたのである。落ち延びた広綱は芳賀伊賀守高定(益子氏から養子入りした高経の後嗣)を頼ったが
芳賀氏も単独では壬生氏を倒す戦力がなかったため、常陸国(茨城県)の太守・佐竹右京大夫義昭に援助を
依頼。このため1557年(弘治3年)佐竹氏5000の大軍が飛山城に在陣、ようやく壬生下総守綱雄(つなたけ)の
手から宇都宮城を奪還した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さらに言えば、この頃の関東は相模から勢力を伸ばした後北条氏が活発に北伐を行っており、下野国近辺の
諸勢力は南の勇・後北条氏、北の軍神・越後上杉(長尾)氏、東の巧者・佐竹氏という強大な3勢力の狭間に
あって去就を決めねばならない状況に置かれていたのである。佐竹氏との連携を深めた芳賀氏・宇都宮氏は、
外交関係の延長線上にある中央政権・豊臣氏との接近を果たし、結果的には1590年(天正18年)豊臣秀吉が
小田原後北条氏を征伐し天下を平定した後も所領を安堵された。が、小勢力入り乱れる北関東の安定を狙う
秀吉は、宇都宮氏・芳賀氏に対し領内の城を整理するよう命令。このため、歴史ある飛山城は廃城となった。■
直線を基調とした飛山城の縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、飛山城は北・西の2面を鬼怒川の川縁に突き出しており、川岸からの比高は約25mを数える断崖となって
いる。これが築城に適した“後ろ堅固”の要害とされているわけだが、反面、東と南はほぼ平坦で平城のような
構造だ。そのため、こちら側には2重の深い堀を掘削し版築の堅く高い土塁を積み上げている。また、外縁部の
土塁には、要所に横矢が掛けられる張り出し部(写真)があり、この上に櫓が建てられていたと考えられている。
こうした櫓台は合計5箇所ある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
堀の内部、内郭となる敷地は中央部分を東西に走る堀で分断され、南側がY郭とされている。北側の内部は
さらに細かく堀で分断され、東半分がX郭となり、西半分がW郭、V郭、U郭、T郭と分けられており申す。■■
このうち、北端の最奥部になるのがT郭。その南西側にU郭があり、以下、南側へV郭、W郭が広がっている。
まるで定規で線を引いたかと思わせる直線的な縄張りは中世城館の名残なのだろうか?もしそうだとしたら、
旧態を維持したまま戦国城塞化させた手法はかなり強引なものだと思えるが、その一方で堀や土塁の高さは
並みの物ではない為、侵入者に効果的な横矢を掛ける防御拠点と相俟って、土の城として高い完成度を達成
している点に敬服するばかりでござる。堀の幅は最も広い所で15m、深さは4mもある。城地は東西240m×南北
420m、面積14ha。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
見事な復元整備と万人受けする公園化■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
廃城以来約400年に渡って手付かずであった飛山城址は、結果として良好な保存状態を保っていた為、1977年
(昭和52年)3月8日に国の史跡と指定された。1992年(平成4年)から1997年(平成9年)にかけて発掘調査が
行われ、掘立柱建物跡・竪穴式建物跡・木橋などの痕跡が検出され、武具・古銭・陶磁器などが出土。これに
基づき飛山城址の史跡整備が確定し2005年(平成17年)3月19日、飛山城史跡公園として一般公開された。■■
W郭に掘立柱建物、Y郭に竪穴式建物(古代式と中世式の2形式)が再現され大手口には木橋も架けられて
いる。また、外縁部から内郭へ入る出入口に門を復元。これは古形式の塀重門(へいじゅうもん)で、飛山城が
古く鎌倉期の武家居館から始まった事を暗に物語っているようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その他、浚渫された堀や整地された土塁も実に見事なもの。城マニアの間ではあまりに綺麗すぎる整備状況は
行き過ぎだという意見も囁かれるが、一般の人に広く中世城郭を理解して戴くには非常に効果的な手法であり、
また、風化したまま史跡を放置するのは忍びがたいものでもあるため、個人的には飛山城の美麗な改修事業は
大歓迎したいものだと思っている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
外堀の脇には、とびやま歴史体験館なる資料館があり城の資料が用意されているため、見学前に立ち寄る事を
お勧めする。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、発掘調査により城跡から「烽家(とぶひや)」と記された墨書土器が出土。平安時代初期において、ここが
烽火台であったことが確認された。「飛山」の名の由来は間違いなかった訳である。■■■■■■■■■■■■
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