寺?館跡?どちらを主として考えるべきか…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
足利市街地の中でも最中心部にある観光名所にして足利市の名を全国に広めている足利学校、その北に隣接している
平安時代〜中世にかけての武士居館である。言うまでもなく、後の世に室町幕府将軍となる足利氏が、一族の草創期に
居館とした城館でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
足利氏はもともと清和源氏から分かれた家柄。八幡太郎と尊称され、全国の源氏血統から源氏一門の太祖とされた源
義家。その孫にして下野国(現在の栃木県)南部の足利荘に封を得た足利陸奥守義康が足利家初代に当たる。義康の
嫡男・上総介義兼は大規模な邸宅を構え、武士居館としての体裁を整えると共に防備を固めて土塁や濠を構築した。■
これが現在に残る足利氏居館の成立でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
時代はちょうど源平争乱期、全国の武士は自衛のみならず大乱に備える必要性に迫られていた時であった。このような
渦中で義兼は源頼朝の平家打倒に参加した上、後に鎌倉幕府執権となる北条四郎時政の娘・時子を娶り、源氏幕下の
中でも重い地位を占めるようになる。平氏が滅び、鎌倉に幕府が開設されると足利氏は足利荘の領地を安堵され、幕府
御家人の中で独自の地位を確立。足利一門は鎌倉に在府し幕府の政権運営に大きな力を及ぼすようになっていく。■■
このため、足利の居館は次第に武士居館としての性格を薄めていってしまった。■■■■■■■■■■■■■■■■■
義兼は1195年(建久6年)に出家、法名を鑁阿(ばんな)と称する。翌1196年(建久7年)彼は足利の邸内に持仏堂を建立、
更に足利氏3代・陸奥守義氏は伽藍を整備、足利一門の氏寺としたのである。こうして足利氏居館は寺として利用されて
いくようになり、1248年(宝治2年)寺院としての規模が確定した。以来、館址は武家居館たる敷地を原初とした寺として
存続し、1908年(明治41年)8月1日に本堂が特別保護建造物(現在の重要文化財に相当)となる。この本堂は戦後になり
文化財保護法の制定で1950年(昭和25年)から重要文化財とされ(それまでは古社寺保存法および国宝保存法で規定)
2013年(平成25年)8月7日には国宝となっている。他方、館址(敷地)自体は1922年(大正11年)3月8日「足利氏宅跡」と
して国の史跡に指定された。ただ、その指定理由としては「濠壘ヲ周ラシテ四門ヲ開キ往時居館ノ阯ヲ偲フニ足ル」とある
一方で、概ね寺としての要素を採り上げ「足利氏ノ氏寺ナリ」と言う所が要点となっている。■■■■■■■■■■■■■
現状ではすっかりお寺…でも百名城として採り上げられる貴重な存在■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そのため、現在の足利氏居館跡は真言宗金剛山鑁阿寺となっており、境内には多宝塔や経堂などの寺院構成建築物が
建ち並ぶ。こうして城館としての建造物は何もなくなってしまったが、それでも外周には比較的大掛かりな土塁や水濠が
取り囲んでいて、ここが中世武士の居館であった事を偲ばせている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
敷地は二町四方の台形。近世城郭の如く複雑な縄張り構成ではなく、また、横矢掛りなどの突起部もない綺麗な四方形
なのが逆に武士創世期の武家居館の姿を克明に表現していると言えよう。これほど大規模な鎌倉期の武家居館敷地が
綺麗に残存している点が評価され、足利氏館は財団法人日本城郭協会から2006年(平成18年)4月6日に日本百名城の
1つに選定され申した。栃木県内から百名城に選ばれたのはこの「足利氏館(鑁阿寺)」のみである。■■■■■■■■■
さて、足利氏は鎌倉時代を通じ鎌倉に常駐しており、この後に居館が実際に用いられる事はなかったようだ。室町幕府を
開いた足利尊氏も鎌倉で生まれ育ち、足利の地に足を踏み入れた事は一度もないという。■■■■■■■■■■■■■
そんな足利に歴史の脚光が当てられたのは室町時代中期。室町幕府の統治機構において、関東地方を統治する実務を
担った関東管領は代々上杉氏が世襲していたが、その中でも中興の名君として知られる上杉安房守憲実(のりざね)が
足利学校を再興・整備した事で日本全国から学問を志す者たちが足利を目指すようになったのでござる。そもそも、足利
学校の創建は諸説あり定かではないものの「坂東の大学」と呼ばれる由緒ある学校は日本初の総合大学であり、次第に
没落したものの、憲実の手によって復活した事で後に江戸幕府からも重い庇護を受けるようになる。■■■■■■■■■
足利将軍家発祥の地である足利は、学問の府として名を高めたのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その足利学校は鑁阿寺の南に隣接しており、これら2つの史跡は今や足利市が全国に誇る貴重な文化財・観光名所と
なっている。足利氏は室町幕府設立期に鎌倉や京都で激しい紛争を繰り広げ、上杉氏は鎌倉時代〜戦国時代にかけて
様々な戦乱に翻弄されたが、両者に関わりのある足利の地は大きな戦火にまみれる事もなく学問の府・観光都市として
発展したのは、何か複雑な意味を感じさせるものである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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