下野国 足利氏居館

足利氏居館跡 鑁阿寺

 所在地:栃木県足利市家富町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★☆■■■
★★■■■



寺?館跡?どちらを主として考えるべきか…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
足利市街地の中でも最中心部にある観光名所にして足利市の名を全国に広めている足利学校、その北に隣接している
平安時代〜中世にかけての武士居館である。言うまでもなく、後の世に室町幕府将軍となる足利氏が、一族の草創期に
居館とした城館でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
足利氏はもともと清和源氏から分かれた家柄。八幡太郎と尊称され、全国の源氏血統から源氏一門の太祖とされた源
義家。その孫にして下野国(現在の栃木県)南部の足利荘に封を得た足利陸奥守義康が足利家初代に当たる。義康の
嫡男・上総介義兼は大規模な邸宅を構え、武士居館としての体裁を整えると共に防備を固めて土塁や濠を構築した。
これが現在に残る足利氏居館の成立でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
時代はちょうど源平争乱期、全国の武士は自衛のみならず大乱に備える必要性に迫られていた時であった。このような
渦中で義兼は源頼朝の平家打倒に参加した上、後に鎌倉幕府執権となる北条四郎時政の娘・時子を娶り、源氏幕下の
中でも重い地位を占めるようになる。平氏が滅び、鎌倉に幕府が開設されると足利氏は足利荘の領地を安堵され、幕府
御家人の中で独自の地位を確立。足利一門は鎌倉に在府し幕府の政権運営に大きな力を及ぼすようになっていく。■■
このため、足利の居館は次第に武士居館としての性格を薄めていってしまった。■■■■■■■■■■■■■■■■■
義兼は1195年(建久6年)に出家、法名を鑁阿(ばんな)と称する。翌1196年(建久7年)彼は足利の邸内に持仏堂を建立、
更に足利氏3代・陸奥守義氏は伽藍を整備、足利一門の氏寺としたのである。こうして足利氏居館は寺として利用されて
いくようになり、1248年(宝治2年)寺院としての規模が確定した。以来、館址は武家居館たる敷地を原初とした寺として
存続し、1908年(明治41年)8月1日に本堂が特別保護建造物(現在の重要文化財に相当)となる。この本堂は戦後になり
文化財保護法の制定で1950年(昭和25年)から重要文化財とされ(それまでは古社寺保存法および国宝保存法で規定)
2013年(平成25年)8月7日には国宝となっている。他方、館址(敷地)自体は1922年(大正11年)3月8日「足利氏宅跡」と
して国の史跡に指定された。ただ、その指定理由としては「濠壘ヲ周ラシテ四門ヲ開キ往時居館ノ阯ヲ偲フニ足ル」とある
一方で、概ね寺としての要素を採り上げ「足利氏ノ氏寺ナリ」と言う所が要点となっている。■■■■■■■■■■■■■

現状ではすっかりお寺…でも百名城として採り上げられる貴重な存在■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そのため、現在の足利氏居館跡は真言宗金剛山鑁阿寺となっており、境内には多宝塔や経堂などの寺院構成建築物が
建ち並ぶ。こうして城館としての建造物は何もなくなってしまったが、それでも外周には比較的大掛かりな土塁や水濠が
取り囲んでいて、ここが中世武士の居館であった事を偲ばせている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
敷地は二町四方の台形。近世城郭の如く複雑な縄張り構成ではなく、また、横矢掛りなどの突起部もない綺麗な四方形
なのが逆に武士創世期の武家居館の姿を克明に表現していると言えよう。これほど大規模な鎌倉期の武家居館敷地が
綺麗に残存している点が評価され、足利氏館は財団法人日本城郭協会から2006年(平成18年)4月6日に日本百名城の
1つに選定され申した。栃木県内から百名城に選ばれたのはこの「足利氏館(鑁阿寺)」のみである。■■■■■■■■■
さて、足利氏は鎌倉時代を通じ鎌倉に常駐しており、この後に居館が実際に用いられる事はなかったようだ。室町幕府を
開いた足利尊氏も鎌倉で生まれ育ち、足利の地に足を踏み入れた事は一度もないという。■■■■■■■■■■■■■
そんな足利に歴史の脚光が当てられたのは室町時代中期。室町幕府の統治機構において、関東地方を統治する実務を
担った関東管領は代々上杉氏が世襲していたが、その中でも中興の名君として知られる上杉安房守憲実(のりざね)が
足利学校を再興・整備した事で日本全国から学問を志す者たちが足利を目指すようになったのでござる。そもそも、足利
学校の創建は諸説あり定かではないものの「坂東の大学」と呼ばれる由緒ある学校は日本初の総合大学であり、次第に
没落したものの、憲実の手によって復活した事で後に江戸幕府からも重い庇護を受けるようになる。■■■■■■■■■
足利将軍家発祥の地である足利は、学問の府として名を高めたのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その足利学校は鑁阿寺の南に隣接しており、これら2つの史跡は今や足利市が全国に誇る貴重な文化財・観光名所と
なっている。足利氏は室町幕府設立期に鎌倉や京都で激しい紛争を繰り広げ、上杉氏は鎌倉時代〜戦国時代にかけて
様々な戦乱に翻弄されたが、両者に関わりのある足利の地は大きな戦火にまみれる事もなく学問の府・観光都市として
発展したのは、何か複雑な意味を感じさせるものである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁
城域内は国指定史跡







下野国 
足利陣屋

足利陣屋跡 現存長屋門

 所在地:栃木県足利市雪輪町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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江戸時代に入ってからの足利統治■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
中世までの足利は上記のような歴史を辿った訳だが、豊臣秀吉の全国統一、そして江戸幕府の成立を経てこの地は天領
(徳川家直轄地)となった。そして5代将軍・徳川綱吉の時代になって、本庄因幡守宗資(ほんじょうむねすけ)が足利へと
封じられる。宗資の異父姉が綱吉の生母・玉(桂昌院)である事から、遠戚人事として加増を受けて1万石の大名となった
ものだ。斯くして1688年(元禄元年)足利藩が立藩する。宗資はその後も加増を繰り返し、4万石となった1692年(元禄5年)
11月11日に常陸国笠間(茨城県笠間市)へ移された。これで再び足利は天領となるも、1705年(宝永2年)1月に将軍世子・
徳川左近衛権中将綱豊(家宣)の家老である戸田大炊頭忠時(ただとき)に足利一帯を含む下野国足利・河内・都賀3郡の
うち1万1000石が与えられた。こうして足利藩が復活する事になる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戸田家の血筋は忠時から後に、大隅守忠囿(ただその)―出雲守忠位(ただたか)―大炊頭忠言(ただとき)―大炊頭忠喬
(ただたか)―長門守忠禄(ただとみ)―大炊頭忠文(ただあや)―長門守忠行(ただゆき)と続く。この中での4代目、忠言の
時代となる1758年(宝暦8年)戸田家は足利に陣屋を築く。城主格大名ではない戸田家としては、領地支配に置ける役所は
陣屋構えに限られたからである。こうして成立したのが足利陣屋で、鑁阿寺の西側一角を占める位置にそれは設置された。
幕末期、戸田家の家臣は166人いたとされ、歴代当主は大坂定番や奏者番等を務める要職にあった。最後の当主・忠行は
幕府の陸軍奉行並の役職に就いている。しかしその忠行も、明治維新そして版籍奉還によって足利知藩事となり、更には
廃藩置県でその職も免ぜられた。当然、陣屋も無用の長物となり、一部の建物は破却・転売されてしまうのでござる。■■■
足利藩は足利県となり、第1次府県統合時に栃木県へ編入された。これで統治役所の機能を失い、その上1876年(明治9年)
市街で火災が発生、陣屋跡地は丸焼けになってしまう。その後、近代化によって遺構は殆んど消滅し現在に至る。■■■■
現状、足利市の雪輪町(ゆきわちょう)となっている一角が陣屋跡であった。この町名は戸田家の馬印である雪輪紋を由来と
しているそうで、それが陣屋跡地である一番の証明と言えるのかも。それ以外に、民家の裏に陣屋井戸が残る他、雪輪町の
一番端(家富町へ突出している部分)にある榮富稲荷神社は、陣屋の鬼門除けとして建立されたものが起源だと言う。■■
移築された遺構としては、写真にある長屋門が1棟。こちらは雪輪町(陣屋跡)から鑁阿寺を挟んだ反対側、足利市旭町の
民家(阿部家)に移されたもので、かつては足利陣屋の表門であった。入母屋造り桟瓦葺、桁行4間×梁間2間の規模、即ち
間口9.6m×高さ5.2m×奥行3.8mの大きさだ。総欅(ケヤキ)建ての古風な門建築は1876年の大火前に移転していた事で
焼失の難を逃れたのだが、現状では管理する者が居なくなってしまったようで、朽ちて崩壊の危機にある。陣屋の名残りを
今に伝える貴重な文化財なのだが、足利市でも緊急の対応を検討しているものの、未だ有効な対策は打てていない。■■
保全が間に合うか、倒壊が先か、ギリギリの攻防戦を繰り広げているこの移築門。せっかく廃藩置県や大火焼亡の危機を
回避したのだから、何とか救う道が開ける事を祈りたい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
陣屋一帯は住宅地なので観光するような場所では無い。また、移築門も民家の敷地内なので同様。ただ、鑁阿寺の傍には
足利市の広大な観光駐車場があるので、足利氏居館と合わせて徒歩散策の途上に立ち寄る事は可能だ。■■■■■■



現存する遺構

井戸跡

移築された遺構として
阿部家長屋門(陣屋表御門)




轟城  飛山城