下野国 轟城

轟城址入口

 所在地:栃木県日光市轟・町谷
 (旧 栃木県今市市字轟・町谷)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★■■■
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植林された林の中に土塁が■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
2006年(平成18年)3月20日の市町村合併で新生なった日光市とされたが、旧来の今市市北部、轟(とどろく)に
所在する典型的な中世の豪族居館址でござる。国道461号線(日光北街道)の途上にある館坂上バス停付近の
交差点を東へ250mほど入り、民家の脇にある立て看板(写真)から更に北へ100mほど分け入った山林が城跡。
高さ2m程度の土塁に四方を囲まれた、一辺が約80mの正方形をした鎌倉時代の方形居館跡で、同時代初期の
御家人・畠山重忠の末子である畠山重慶(ちょうけい)の館と伝えられている。■■■■■■■■■■■■■■
土塁は北西側・南西側・南東側の3箇所に切れ目が入り、これは虎口の跡と推測できるが、このうち、北西側が
元来の大手と見られる。現在の入口(上記の経路)は南西側に通じ、しかも旧来の虎口とは数mの間隔を置いた
位置に接続しているが、恐らくこれは近代になって山林整備の為に付け替えられた道筋だろう。敷地内の状態は
悪くないが、一面に植林され木々が等間隔で生育している状態。およそ史跡としての保護が為されている様子は
ないものの、こうして植林地となった事により、必要以上の破壊は免れたと思われる。土塁の外周には明瞭に
掘削された堀が確認できており、この地域には水源が豊富である事から堀跡が川となって(つまり水濠になって)
要害性を高めているのが分かる。鎌倉武士の館は単郭方形館で外周に堀を穿つのが通例ではあるが、ここまで
見事な水流となっている例は稀有であろう。また、南東側虎口のすぐ内側には井戸跡と思しき穴が残されており、
轟城が水に恵まれた館であった事が想像できる。なお、館跡の北側は急な崖となり、その比高は10mを数える。
地形や水利を最大限に利用した武家居館だったようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
発掘の結果、構内で縄文中期の加曾利・阿玉台両様式の土器も出土している。■■■■■■■■■■■■■■

父子揃って無実の罪に散る■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、畠山重忠は源頼朝が平家打倒の旗揚げをして以来の功臣にして、“鵯越”で名高い一ノ谷合戦では愛馬を
慮って騎乗で崖へ飛び込まず、むしろその馬を背負って谷を駆け下りたという逸話が残る厚情にして豪胆な将で
あった。ところが平家滅亡の後、幕府機構の生成期においては勇猛な気質と高い人望を危険視され、頼朝没後に
権力独占を図ろうとする執権(将軍を補佐する実質上の最高権力職)・北条氏の姦計に嵌り1205年(元久2年)
無実の罪で賊徒とされ討ち滅ぼされてしまう。これが所謂「畠山重忠の乱」で、重忠本人の他、一族全てが討たれ
唯一生き延びたのが重慶だったのでござる。その重慶が出家隠棲し、日々の暮らしを送っていたのが霊場日光に
近いここ轟城だと伝わる。しかし重慶もまた■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「1213年(建保元年)、畠山重慶が日光山麓に謀反を企てたと日光山別当・弁覚が鎌倉に通報し、将軍・源実朝は
長沼五郎宗政に逮捕を命じたが、宗政は生け捕りにせず首を持参した為、実朝は不快に嘆息した」と■■■■■
吾妻鏡第20巻に記録されているように、謂れのなき罪で討たれてしまったのである。実朝は■■■■■■■■■
「重忠は元々罪無くして誅殺され、その末子である重慶が何らの謀議を図ろうとも何事やあらんか、命に従いまず
その身を生け捕りとして陰謀の如何によって処分すべきであった」と■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
宗政の行き過ぎた行動を嘆いたと云う。実朝が宗政に捕縛を命じたのが9月19日、宗政が鎌倉へと帰参したのが
同月26日の事と伝わるが、一方でこれに先立つ同年5月初旬に北条氏の専横を打倒せんとする和田義盛一族が
挙兵するも敗退する和田合戦が勃発、親族が次々と討死する中、類稀なる豪腕ぶりにて和田方の中で唯一生き
延びた朝比奈三郎義秀(あさひなよしひで)が轟城の畠山重慶を頼って下野へ落ちたという伝説も残されている。
この話は根拠の無い巷説に過ぎないようだが、弁覚が■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「畠山重慶が幕府転覆の祈祷を行い、牢人を集め叛乱を企んでいる」とした讒訴も、或いはこうした政治情勢の中で
仕組まれたものだったのかもしれない。ともあれ、轟城は歴史の闇に消え去り、今は黙して語らず真相は謎のままで
ござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1966年(昭和41年)12月10日、今市市(現在は日光市が継承)指定史跡となっている。■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁
城域内は市指定史跡




川連城・榎本城  足利氏居館・足利陣屋