水郷に浮かぶ巨大な城郭■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
東北自動車道佐野藤岡ICから栃木市街地へ向かう栃木県道11号線(栃木藤岡線)の途上、栃木市大平町
川連(かわつれ)と片柳町の境界付近に所在した城跡。この境界を跨ぐ陸橋の袂、川連八幡宮にひっそりと
標柱が立つ。旧大平町指定史跡。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
推定縄張図によれば、標柱の立つ川連八幡宮は城域の南西隅に当たるようで、主郭はそこから北東方向、
片柳町内に置かれてござった。この主郭はほぼ正方形を成し、それを綺麗に取り囲むように二郭と三郭が
輪郭式の縄張を形成。この縄張図を見るだけならば、さながら駿府城(静岡県静岡市葵区)や丹波篠山城
(兵庫県丹波篠山市)のような美しい方形曲輪群が作られていた事になる。■■■■■■■■■■■■■
(もちろん、規模や構造は全く異なるであろうが)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
川連城では更に三郭の北〜東面を巨大な馬場曲輪で塞ぎ、西側には西城なる出曲輪を置く。大手は南側に
開いて角馬出で塞いでいた上に、その前衛として外郭を設置。つまり、馬場曲輪や外郭も三郭を取り囲んで
輪郭式を生成している事になり、川連城は都合4重の曲輪群で作られていた巨大城郭だった訳でござる。■
推定される規模は東西×南北各600m程度はあろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この付近は一面の水田地帯、即ち当時は泥湿地だった事を意味する訳だが、そこに築かれた広大な平城は
さながら水面に写る浮城だったのだろう。城址のすぐ西側には渡良瀬川の支流である永野川が流れており、
それを利用して水濠が造られたと推測できる。また、川連周辺では古代からの住居痕が多数検出されていて
現在では大型トラックが行き来する主要地方道の脇で目立つ存在ではないものの、遥か古の中世では確かに
ここで生活が営まれていたのでござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小野寺氏分流・川連氏の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の起源は応仁年間(1467年〜1469年)頃、現地の豪族・川連伊賀守仲利が築いたとされる。川連氏は藤原
秀郷後裔・下野小野寺氏の分流と推測され、この小野寺氏は鎌倉時代に出羽国雄勝郡にも分知を得た事で
かの地にも一族が派生。これが出羽の戦国大名・出羽小野寺氏に繋がる訳だが、故に雄勝郡内にも川連と
呼ばれる地名が存在する。現在の秋田県湯沢市川連町がそれだが、下野の川連は「かわつれ」と読む一方
出羽の川連は「かわつら」と読む差がある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
川連城の周辺は佐野氏・皆川氏など近隣に大規模豪族が並び立つ地で、川連氏は佐野氏に従属する事で
命脈を保っていた。しかし1563年(永禄6年)に皆川城(同市内)主の皆川弾正忠俊宗(としむね)がこの城を
落とし、皆川城の支城として整備する。上記の大規模な縄張はその時に成立したものだろう。こうした経緯で
川連氏は皆川氏に臣従する事と成った為、今度は佐野氏と対立するようになる。■■■■■■■■■■■
1578年(天正6年)城主の川連仲重は佐野方の粟野城(栃木県鹿沼市)主・平野大膳亮久国との戦いに敗れ
遁走(戦死とも)、川連城は平野氏が占拠する事態となり申した。しかしその後、皆川領へ侵攻した平野軍を
返り討ちにした事で皆川勢が川連城を奪還している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
結局、川連城は皆川氏の城として維持された訳だが廃城の時期は明確ではない。1590年(天正18年)豊臣
秀吉の天下統一時に廃城となった説と、江戸時代初頭に廃城されたという2説が有力だ。■■■■■■■■
佐野氏と対立していた皆川山城守広照(ひろてる、俊宗2男)は、1586年(天正14年)関東の巨大勢力である
小田原後北条氏への従属を余儀なくされた。秀吉は天下平定において最後の敵を後北条氏と定めたため、
1590年廃城説が浮上するのだろう。しかし一方で広照は秀吉と誼を通じ、小田原征伐時も早々に徳川家康
(豊臣方重鎮)へと投降していた事で、1590年の時点では改易を免れている。皆川氏の所領1万3000石は
安堵され、後に徳川家臣へ編入され家康6男・松平上総介忠輝の附家老に抜擢されている事から、広照が
7万5000石で信濃国飯山(現在の長野県飯山市)へと加増転封された1603年(慶長8年)迄は川連城が存続
していたと見るのが後者である。どちらが正しいのかは定かでないにせよ、江戸時代に入った頃には廃城と
されており、以後は耕作地化されたようだ。さらには度重なる永野川の氾濫、近代に入ってからの鉄道敷設
(敷地内をJR両毛線線路が縦貫)や道路建設といった事跡が重なり、今やほぼ全ての遺構が消失したと
されている。ただ、周辺敷地を探し回ってみればごく一部に土塁や堀の残欠が散見できるという。さらに
面白いのは片柳町と大平町川連の境界線(旧大平町と栃木市の境)が川連城の縄張に沿ったかのように
引かれている点である。特に大手口部分の屈曲が不自然な感じに残されているのが特徴的。■■■■■
縄張図や地図を見ながら城巡りする意義を感じる城跡…と言うのは褒め過ぎか?(爆)■■■■■■■■
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