皆川氏の起こり■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現地の古豪・皆川氏の山城。皆川氏の出自は北関東の名族・小山(おやま)氏の分流とされる。源頼朝が反平氏の
旗揚げをした際にいち早く同調した小山下野大掾政光(まさみつ)、その長子・左衛門尉朝政(ともまさ)は小山氏を
継承し栃木県小山市周辺に勢力を築く。また、政光の3男・上野介朝光(ともみつ)は茨城県結城市に根付き結城氏を
興こす事になる。小山氏・結城氏と“鎌倉以来の名族”を生んだ兄弟の中、2男の淡路守宗政(むねまさ)は長沼氏を
名乗り下野国芳賀郡長沼荘(栃木県真岡市)に遇した。この長沼氏から派生したのが皆川氏だが、しかし皆川氏は
数度の興亡を繰り返しており、複雑な流れを見せている。成立当初の皆川(皆河)氏は長沼氏とは別流の土着豪族で
あったようだが、これは承久の乱で没落、それを長沼氏流が継いで再興したようだ。だがそれも南北朝期に中先代の
乱の混乱で衰退し、改めて長沼氏から家を立て直して新たな皆川氏が成立した。結果、この家が戦国末期まで続く
皆川氏となる訳でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて皆川城の話だが、創建年代に諸説ありこれまた判然としない。古いものでは長沼宗政の孫である皆川左衛門尉
宗員(むねかず)が寛喜年間(1229年〜1231年)頃に築いたと云う説がある。これは2つ目の皆川家の時期にあたるが
恐らくは今の城山でなくその南麓に築かれた武家居館を指して築城としているのだろう。現在、この館址と推定される
場所には栃木市役所皆川出張所が建てられており、鎌倉期の武家居館に典型的な方形の敷地が合致する。■■■
では城山に築城したのはいつかと言えば、室町時代に入ってからの応永年間(1394年〜1427年)頃、長沼紀伊守秀光
又はその子・淡路守秀宗の手によるものと伝わる。秀宗は3つ目の皆川氏の遠祖となる人物で、既に下野国芳賀郡の
本領を失って、分知である陸奥国長沼荘(現在の福島県会津地方)に居を移していた奥州長沼氏の当主だ。この奥州
長沼氏が下野国皆川荘へと返り咲く事で新たな皆川氏が成立(結果、陸奥長沼は庶流が継承)する。また、秀宗の子・
氏秀が1429年(永享元年)築いたとする説(「皆川正中録」による)もある。いずれの説が正しいかは分からないものの、
氏秀の子である宮内少輔宗成(むねしげ)から皆川の姓とし、この城が居城となる訳だ。■■■■■■■■■■■■■
戦国乱世と皆川氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
宗成以後、成勝―俊宗―広勝―広照(いずれも山城守を僭称)と代を重ねた皆川氏。その所領は戦国期、北に下野の
名族・宇都宮氏、東に小山氏・結城氏さらに常陸国(茨城県)の佐竹氏、南からは小田原の後北条氏が勢力を伸張する
激戦区にあり、加えて越後国(新潟県)からは関東管領(室町体制における関東の統治者)の復権を掲げる上杉謙信が
数度に渡って遠征を行う事で流動的な情勢が続いていた。順を追って説明すると、1523年(大永3年)下野守護・宇都宮
左馬頭忠綱が皆川領へと侵攻するも、宗成とその弟の成明が奮闘しこれを撃退。皆川氏は宇都宮氏との対立・迎合を
繰り返しながら代を重ね、俊宗の時代である1570年(元亀3年)には宇都宮家中が彼によって掌握されている。■■■
しかし長くは続かず反動を受け、暫く後に俊宗は失脚してしまった。この頃は後北条氏が北関東への橋頭堡を探して
いる時期だったので、宇都宮氏との対立において後援者を求めた俊宗は北条左京大夫氏康(時の後北条氏当主)と
比較的良好な関係を維持していたようだ。だが後北条氏に対して上杉謙信が対決施策を取り、1561年(永禄4年)以後
数次に及ぶ関東侵攻を行うと俊宗は上杉・佐竹・後北条各氏との間を渡り歩かざるを得ず、時に戦い、時に和を結ぶ
ようになっていく。更に、氏康から相模守氏政へと代替わりした後北条氏はいよいよ北関東攻略を本格化させていき、
その頃になると融和的ではなく強硬的な姿勢を見せた。広照が当主となった頃には、戦国乱世が加速度を増しており
織田信長も東海地方を制圧している。遠交近攻の処世術に従い、広照は信長と誼を通じ関東の強大勢力に拮抗する
外交努力を見せたが、しかし信長は本能寺の変で斃れ、皆川領周辺は遂に後北条氏からの圧力へ屈する事となる。
1584年(天正12年)北条氏政が一大攻勢を展開、佐竹軍と並んで皆川軍も防備に務めたのだが多勢に無勢で敵わず
以後、広照は後北条氏の配下として組み込まれたのだった。しかし一方、信長の跡を継いで天下取りへと動き出した
豊臣秀吉とも連絡を取っている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした激動の時代、皆川城は堅固な要塞へ逐次改修を受けていたであろう事は想像に難くない。1588年(天正16年)
宇都宮勢が長年の怨嗟を晴らすべく皆川城へ来攻するも、数度の激戦を経て辛くも撃退に成功してござる。皆川城は
確実に実戦をくぐり抜けた城塞だった訳である。そして1590年(天正18年)秀吉による天下統一の総仕上げ、豊臣家の
小田原攻めが開始されるのだ。後北条氏に従わざるを得ない広照は、兵を率いて小田原城(神奈川県小田原市)へと
参陣。これで手隙となった皆川城は秀吉方の上杉左近衛少将景勝・浅野弾正少弼長政らに攻められ落城してしまう。
一方、小田原へ入った広照であるが、心底から後北条氏へ服従した訳でもなかったため小田原城包囲戦の早々から
秀吉方へと投降、豊臣政権における東国交渉役である徳川家康の陣所に出頭している。投降の時期には諸説あって
定かではないが、かねてから広照は秀吉と通じていた事から、本領3万5000石安堵の沙汰を受けた。また、皆川城も
発掘の結果で落城した痕跡が無い事から開城に留まったとする説も考えられている。■■■■■■■■■■■■■
ほどなく後北条氏は降伏して滅亡、その遺領である関東地方は大半が徳川家康の封とされ、皆川広照も家康配下に
位置付けられる。さりとて、落城した皆川城が荒廃した事によるものなのか、或いは広大な山城を家康に憚ったのか、
恐らくこの時に皆川城は廃城とされたようで、広照は新たに栃木城(同市内)を築き拠点を移してござる。■■■■■
この後、広照は家康6男・松平上総介忠輝の附家老となった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
見た目で分かる「法螺貝城」の別名■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
皆川城跡は栃木県栃木市、市街地から北東方向へ入った皆川地区にある。上記の通り市役所皆川出張所の裏手が
城山であり、登山道も整備されているので比較的容易に登城することができ申す。城山の半分は公園となっていて、
以前は子供用のアスレチック遊具などが置かれていた。この公園化で遺構が均されてしまった部分も見受けられるが
竪堀跡・虎口・曲輪群などはほぼ原型を残していて、保存状態も良い。度々この城跡を訪れているが、来訪する毎に
史跡整備が行き届くようになっており、城址としての保護が進められていると実感できる。2010年(平成22年)度には
発掘調査が行われ、小規模建物の柱穴や古銭(永楽通宝や宣徳通宝、寛永通宝も)・かわらけ等が検出されている。
そもそもこの山は東西2峰の山頂を持つ。前方後円墳のような山容の中で東山頂が主郭、西山頂を西郭とし、両峰の
間を繋ぐ平坦地が二郭と見られる。この二郭には糧秣倉や武器庫、井戸があったようだ。そこから山を一周するような
帯曲輪を何段にも山裾へと重ねていく縄張を取っており、全山を要塞化した堅固な構造。即ち、当時から段々畑の如き
形状で登山する状態を維持し(写真)現在の公園化においてもその遺構がそのまま活用されている訳である。こうした
様相を評して皆川城の別名は“法螺貝(ほらがい)城”とされるが、なるほど納得の命名でござろう。螺旋状に連なった
帯曲輪は、麓から迫る攻城軍に対して多重火網を形成できる立体構造の防衛線と言える。だが横に長く続く帯曲輪は
もし敵軍がそこへ侵入した場合に横方向への展開が懸念される訳だが、これに対しては山を縦貫する巨大竪堀を2条
削り込んで防止している。この竪堀は公園化された現在も健在(というか、整備保全されている)であり、見所の1つだ。
城山は東西約400m×南北300mほどの規模、麓の居館部から主郭(東峰山頂)までの比高は75m程度。戦国期の地方
武将が構える山城としては丁度良い大きさ…いや、少々大きいのではなかろうか?これだけ長大な帯曲輪をいくつも
重ねる縄張りだと、果たして曲輪ごとの防備に配置する兵力はどれほど必要になるのか、不安にも思えるが…。■■■
ともあれ、栃木県の百名城は足利氏館(鑁阿寺、栃木県足利市)だけが指定されているものの、個人的にはそれよりも
この皆川城の方が相応しいような気がする(あくまで個人的主観だがw)。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城跡は1964年(昭和39年)5月19日、栃木市史跡に指定された。また、市内大平町(旧西都賀郡大平町)西山田にある
曹洞宗太平山大中(だいちゅう)寺の山門は旧皆川城の搦手門が1616年(元和2年)に移築されたものと伝わり、今に
残る貴重な建築遺構である。この大中寺は、大御所となった徳川家康から天下大僧録(関三刹)の一つに指定された
名刹で、遡れば武田信玄が駿河今川氏への侵略を開始した事により急遽結ばれた上杉・後北条氏間の越相同盟に
おいて会談場所にもなった由緒ある古寺でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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