下野国 皆川城

皆川城址全景

 所在地:栃木県栃木市皆川城内町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★★☆



皆川氏の起こり■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現地の古豪・皆川氏の山城。皆川氏の出自は北関東の名族・小山(おやま)氏の分流とされる。源頼朝が反平氏の
旗揚げをした際にいち早く同調した小山下野大掾政光(まさみつ)、その長子・左衛門尉朝政(ともまさ)は小山氏を
継承し栃木県小山市周辺に勢力を築く。また、政光の3男・上野介朝光(ともみつ)は茨城県結城市に根付き結城氏を
興こす事になる。小山氏・結城氏と“鎌倉以来の名族”を生んだ兄弟の中、2男の淡路守宗政(むねまさ)は長沼氏を
名乗り下野国芳賀郡長沼荘(栃木県真岡市)に遇した。この長沼氏から派生したのが皆川氏だが、しかし皆川氏は
数度の興亡を繰り返しており、複雑な流れを見せている。成立当初の皆川(皆河)氏は長沼氏とは別流の土着豪族で
あったようだが、これは承久の乱で没落、それを長沼氏流が継いで再興したようだ。だがそれも南北朝期に中先代の
乱の混乱で衰退し、改めて長沼氏から家を立て直して新たな皆川氏が成立した。結果、この家が戦国末期まで続く
皆川氏となる訳でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて皆川城の話だが、創建年代に諸説ありこれまた判然としない。古いものでは長沼宗政の孫である皆川左衛門尉
宗員(むねかず)が寛喜年間(1229年〜1231年)頃に築いたと云う説がある。これは2つ目の皆川家の時期にあたるが
恐らくは今の城山でなくその南麓に築かれた武家居館を指して築城としているのだろう。現在、この館址と推定される
場所には栃木市役所皆川出張所が建てられており、鎌倉期の武家居館に典型的な方形の敷地が合致する。■■■
では城山に築城したのはいつかと言えば、室町時代に入ってからの応永年間(1394年〜1427年)頃、長沼紀伊守秀光
又はその子・淡路守秀宗の手によるものと伝わる。秀宗は3つ目の皆川氏の遠祖となる人物で、既に下野国芳賀郡の
本領を失って、分知である陸奥国長沼荘(現在の福島県会津地方)に居を移していた奥州長沼氏の当主だ。この奥州
長沼氏が下野国皆川荘へと返り咲く事で新たな皆川氏が成立(結果、陸奥長沼は庶流が継承)する。また、秀宗の子・
氏秀が1429年(永享元年)築いたとする説(「皆川正中録」による)もある。いずれの説が正しいかは分からないものの、
氏秀の子である宮内少輔宗成(むねしげ)から皆川の姓とし、この城が居城となる訳だ。■■■■■■■■■■■■■

戦国乱世と皆川氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
宗成以後、成勝―俊宗―広勝―広照(いずれも山城守を僭称)と代を重ねた皆川氏。その所領は戦国期、北に下野の
名族・宇都宮氏、東に小山氏・結城氏さらに常陸国(茨城県)の佐竹氏、南からは小田原の後北条氏が勢力を伸張する
激戦区にあり、加えて越後国(新潟県)からは関東管領(室町体制における関東の統治者)の復権を掲げる上杉謙信が
数度に渡って遠征を行う事で流動的な情勢が続いていた。順を追って説明すると、1523年(大永3年)下野守護・宇都宮
左馬頭忠綱が皆川領へと侵攻するも、宗成とその弟の成明が奮闘しこれを撃退。皆川氏は宇都宮氏との対立・迎合を
繰り返しながら代を重ね、俊宗の時代である1570年(元亀3年)には宇都宮家中が彼によって掌握されている。■■■
しかし長くは続かず反動を受け、暫く後に俊宗は失脚してしまった。この頃は後北条氏が北関東への橋頭堡を探して
いる時期だったので、宇都宮氏との対立において後援者を求めた俊宗は北条左京大夫氏康(時の後北条氏当主)と
比較的良好な関係を維持していたようだ。だが後北条氏に対して上杉謙信が対決施策を取り、1561年(永禄4年)以後
数次に及ぶ関東侵攻を行うと俊宗は上杉・佐竹・後北条各氏との間を渡り歩かざるを得ず、時に戦い、時に和を結ぶ
ようになっていく。更に、氏康から相模守氏政へと代替わりした後北条氏はいよいよ北関東攻略を本格化させていき、
その頃になると融和的ではなく強硬的な姿勢を見せた。広照が当主となった頃には、戦国乱世が加速度を増しており
織田信長も東海地方を制圧している。遠交近攻の処世術に従い、広照は信長と誼を通じ関東の強大勢力に拮抗する
外交努力を見せたが、しかし信長は本能寺の変で斃れ、皆川領周辺は遂に後北条氏からの圧力へ屈する事となる。
1584年(天正12年)北条氏政が一大攻勢を展開、佐竹軍と並んで皆川軍も防備に務めたのだが多勢に無勢で敵わず
以後、広照は後北条氏の配下として組み込まれたのだった。しかし一方、信長の跡を継いで天下取りへと動き出した
豊臣秀吉とも連絡を取っている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした激動の時代、皆川城は堅固な要塞へ逐次改修を受けていたであろう事は想像に難くない。1588年(天正16年)
宇都宮勢が長年の怨嗟を晴らすべく皆川城へ来攻するも、数度の激戦を経て辛くも撃退に成功してござる。皆川城は
確実に実戦をくぐり抜けた城塞だった訳である。そして1590年(天正18年)秀吉による天下統一の総仕上げ、豊臣家の
小田原攻めが開始されるのだ。後北条氏に従わざるを得ない広照は、兵を率いて小田原城(神奈川県小田原市)へと
参陣。これで手隙となった皆川城は秀吉方の上杉左近衛少将景勝・浅野弾正少弼長政らに攻められ落城してしまう。
一方、小田原へ入った広照であるが、心底から後北条氏へ服従した訳でもなかったため小田原城包囲戦の早々から
秀吉方へと投降、豊臣政権における東国交渉役である徳川家康の陣所に出頭している。投降の時期には諸説あって
定かではないが、かねてから広照は秀吉と通じていた事から、本領3万5000石安堵の沙汰を受けた。また、皆川城も
発掘の結果で落城した痕跡が無い事から開城に留まったとする説も考えられている。■■■■■■■■■■■■■
ほどなく後北条氏は降伏して滅亡、その遺領である関東地方は大半が徳川家康の封とされ、皆川広照も家康配下に
位置付けられる。さりとて、落城した皆川城が荒廃した事によるものなのか、或いは広大な山城を家康に憚ったのか、
恐らくこの時に皆川城は廃城とされたようで、広照は新たに栃木城(同市内)を築き拠点を移してござる。■■■■■
この後、広照は家康6男・松平上総介忠輝の附家老となった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

見た目で分かる「法螺貝城」の別名■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
皆川城跡は栃木県栃木市、市街地から北東方向へ入った皆川地区にある。上記の通り市役所皆川出張所の裏手が
城山であり、登山道も整備されているので比較的容易に登城することができ申す。城山の半分は公園となっていて、
以前は子供用のアスレチック遊具などが置かれていた。この公園化で遺構が均されてしまった部分も見受けられるが
竪堀跡・虎口・曲輪群などはほぼ原型を残していて、保存状態も良い。度々この城跡を訪れているが、来訪する毎に
史跡整備が行き届くようになっており、城址としての保護が進められていると実感できる。2010年(平成22年)度には
発掘調査が行われ、小規模建物の柱穴や古銭(永楽通宝や宣徳通宝、寛永通宝も)・かわらけ等が検出されている。
そもそもこの山は東西2峰の山頂を持つ。前方後円墳のような山容の中で東山頂が主郭、西山頂を西郭とし、両峰の
間を繋ぐ平坦地が二郭と見られる。この二郭には糧秣倉や武器庫、井戸があったようだ。そこから山を一周するような
帯曲輪を何段にも山裾へと重ねていく縄張を取っており、全山を要塞化した堅固な構造。即ち、当時から段々畑の如き
形状で登山する状態を維持し(写真)現在の公園化においてもその遺構がそのまま活用されている訳である。こうした
様相を評して皆川城の別名は“法螺貝(ほらがい)城”とされるが、なるほど納得の命名でござろう。螺旋状に連なった
帯曲輪は、麓から迫る攻城軍に対して多重火網を形成できる立体構造の防衛線と言える。だが横に長く続く帯曲輪は
もし敵軍がそこへ侵入した場合に横方向への展開が懸念される訳だが、これに対しては山を縦貫する巨大竪堀を2条
削り込んで防止している。この竪堀は公園化された現在も健在(というか、整備保全されている)であり、見所の1つだ。
城山は東西約400m×南北300mほどの規模、麓の居館部から主郭(東峰山頂)までの比高は75m程度。戦国期の地方
武将が構える山城としては丁度良い大きさ…いや、少々大きいのではなかろうか?これだけ長大な帯曲輪をいくつも
重ねる縄張りだと、果たして曲輪ごとの防備に配置する兵力はどれほど必要になるのか、不安にも思えるが…。■■■
ともあれ、栃木県の百名城は足利氏館(鑁阿寺、栃木県足利市)だけが指定されているものの、個人的にはそれよりも
この皆川城の方が相応しいような気がする(あくまで個人的主観だがw)。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城跡は1964年(昭和39年)5月19日、栃木市史跡に指定された。また、市内大平町(旧西都賀郡大平町)西山田にある
曹洞宗太平山大中(だいちゅう)寺の山門は旧皆川城の搦手門が1616年(元和2年)に移築されたものと伝わり、今に
残る貴重な建築遺構である。この大中寺は、大御所となった徳川家康から天下大僧録(関三刹)の一つに指定された
名刹で、遡れば武田信玄が駿河今川氏への侵略を開始した事により急遽結ばれた上杉・後北条氏間の越相同盟に
おいて会談場所にもなった由緒ある古寺でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群
城域内は市指定史跡

移築された遺構として
大中寺山門(伝搦手門)








下野国 西方城

西方城主郭址付近

 所在地:栃木県栃木市西方町元・西方町本城
 (旧 栃木県上都賀郡西方町元・本城)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★★☆
★☆■■■



宇都宮の“西方”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
西方(にしかた)城は栃木県栃木市の西方町、市町村合併以前の上都賀郡西方町に所在する城郭だ。その名の通り
現地の武士・西方氏の居城であるが、この西方氏の起こりには諸説ある。下野国南部には上記した小山氏や佐野氏、
足利氏などが割拠していた訳だが、下野国中部を治めた名族中の名族と言えば宇都宮氏であろう。鎌倉時代の後期、
その宇都宮氏の7代目当主となっていたのが下野守景綱(かげつな)で、景綱の3男・常陸介泰宗(やすむね)は下野国
武茂(むも)庄(栃木県那須郡那珂川町)へと入植して武茂姓を名乗った。その武茂泰宗の次子・遠江守景泰は京都
守護の職を任じられ烏丸の地に在住し烏丸景泰と称したが、彼が領国では西方城を築き、後に西方氏を名乗るように
なったとされている。故に西方城の構築は鎌倉時代後期の事だと考えられるが、近年の再考では泰宗の別子・貞泰が
西方氏の始祖とされ、実際には貞泰の子・宗泰の代になって下野西方氏が成立したという説が浮上している。その場合
鎌倉末期に京都の事務官僚となっていた在京御家人である西方一族の中から室町幕府の引付方へと抜擢された者が
室町体制に於ける東国統制機関である鎌倉府に配属されて下野国へと帰還して西方城を築いたいう計算になるので
この説に基づくならば築城は早くとも南北朝期以降という事になろう。さりとて、貞泰・宗泰の系譜は京から伊予国へと
移住し、後に伊予宇都宮氏(大洲城(愛媛県大洲市)を築いた一族)や九州へ渡って城井(きい)氏(豊前宇都宮氏)へ
分派したとも考えられている為、この説も予断を許さないものでござろう。また、系図上では武茂泰宗の弟にも景泰と
名乗る者が居る為「景泰」違いの可能性もあって相当に混乱を来たす様相になっている。「下野国誌」では烏丸景泰の
2男・綱景を西方氏の祖と記し、「西方記録」なる史書では綱景を西方氏の3代目と記す。まぁいずれにせよ宇都宮氏
庶流である武茂氏の中から何者かがこの地に入って(随分と乱暴なまとめ方だがw)城を築いたようであり、地勢から
捉えれば宇都宮の東を守る武茂氏に対し、宇都宮の“西方”にあるこの地を基盤とした事で西方氏になったと言える。

戦国末期に右往左往■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
兎にも角にも、西方城の名が文献上に出てくるのは戦国時代の1573年(天正元年)頃と推定される9月7日付の書状
「徳雪斎周長(とくせっさいしゅうちょう)書状写」の中(つまる所、要するにこの城は戦国期城郭なのである)での事で、
小田原後北条氏からの攻勢が強まる中、西方氏が城を堅持している様子が同盟相手の佐竹氏へと伝えられている。
しかし1585年(天正13年)後北条方へと転じた皆川広照が宇都宮氏に対して攻勢を開始、この戦いの過程に於いて
西方城下は焼き討ちされ、同年中に落城した。その後、1588年に宇都宮軍は佐竹の援軍を得て西方城を奪還。再び
西方城は宇都宮方の城となっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐に宇都宮勢も参加。西方城主・西方太郎左衛門綱吉はこれに従ったので、戦役後も
所領を安堵されたが、直後の宇都宮仕置によって西方周辺の土地は結城氏の所領へ加えられてしまい、結局綱吉は
宇都宮氏から下野国芳賀郡赤羽(現在の栃木県芳賀郡市貝町)を代替地として与えられ、そちらへ移る事になった。
西方氏の所領は後北条氏の攻勢に曝されて宇都宮勢力圏の中でも飛び地となっていたため、それを整理した結果と
見られているが、一方で綱吉は秀吉の小田原参陣命令に従わず懲罰的国替えを命じられたと考える説もある。なお、
綱吉は1587年(天正15年)の段階で宇都宮氏に叛いており、時の宇都宮家当主・下野守国綱(くにつな)に捕らえられ
獄死したと言う説もあったが(この説に拠ると、赤羽に移封されたのは綱吉の子・綱清とされる)近年、西方町内にある
旧家・三澤毅氏宅で「西方綱吉官途状(中新井主水丞宛)」「西方綱吉官途状(渡辺四郎兵衛宛)」という古文書2点が
発見され、その内容によって綱吉が江戸時代にまで存命していた事が証明されており、“西方崩れ”と呼ばれる前述の
綱吉刑死は誤った伝承と考えられるようになった。なおこの官途状2点は他の古文書と合わせて2003年(平成15年)に
西方町(当時)の有形文化財に指定され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
秀吉の仕置によって西方城を有した結城左近衛権少将秀康は、実父が徳川家康、養父が豊臣秀吉、再養子として
結城家に宛がわれた人物だ。天下人を父に持つ秀康の手により、所領を固める重要拠点・西方城は大改造されたと
考える向きもあるが、一般的には西方氏の退去において廃城になったと見られている。■■■■■■■■■■■■

国史跡を目指す史跡整備■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城は西方町内の北部、「真名子カントリー倶楽部」と「トムソンカントリー倶楽部」という2つのゴルフ場に挟まれた標高
221.3mの城山山頂一帯に築かれていた。南北に細長い山の中、ほぼ中央部にある山頂部に主郭を構え、そこから
南北それぞれの斜面を削平していくつもの曲輪を造成する梯郭式の縄張。主郭から北へは二ノ丸・北一郭・北二郭・
北ノ丸・堡塁・水ノ手が、南へは屈曲進入路(写真のあたり)を経て枡形虎口や南ノ丸が連なっている。また、一連の
山容から東側へ突出した大きな尾根があり、そちらには東ノ丸という大きな曲輪を接続し、その下段には大手口に
比定できる厳重な腰曲輪群が繋がっている。こうした曲輪はどこを見ても見事な土塁や空堀で囲われ、尾根を遮断
する要所要所には堀切を掘削。何より規模が大きく、城の南北全長は600m近くに及んで、さながら「天空の城」として
近年大人気の竹田城(兵庫県朝来市)を土の城として置き換えたような壮大堅固さに見える(個人的感想)。かつては
西側へも尾根が張り出ていて、そこには西ノ丸と呼べる曲輪群が置かれていた様子が古絵図に記録されているが、
現在ではゴルフ場の造成によって尾根ごと削り取られてしまい、湮滅してしまった。尾根が削られた事により主郭から
西の眼下を覗き込むと遥か下にゴルフコースが見え隠れするのだが、つまりこの城はそれだけの比高で隔絶した山
だったと言う訳か。何とも要害としか例えようがない山城だ。この規模の大城を整備維持したとは、国衆に過ぎない
西方氏単独のものとも思えず、後北条氏との一大決戦に備えた宇都宮氏が集中開発したか、それとも結城秀康が
設備増強したものなのか?と色々考えされられる城跡でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で鶴ヶ岡城・西堀山城。草木に覆われた城山へ歩を進めるのは難しい状況にあったようだが、ここ数年は現地の
有志の方々が城跡を整備し、徐々に訪れやすい環境へと整えて下さった。そして2019年(令和元年)から発掘調査が
行われ、劇的に綺麗な遺構が目に入るようになったとの事。地元有志の方々や市教育委員会に大いなる感謝を申し
上げたい。調査の結果としては曲輪の造成状況や土塁内部の石積み、排水用の暗渠の痕跡などを確認。白磁皿や
土器・天目茶碗などが出土し、柱穴痕と思われる小さな穴や礎石痕も認められている。この調査は以後も継続予定。
2021年(令和3年)初頭の段階で文化財指定はされてござらぬが、発掘調査の成果を携えて行く行くは国史跡指定を
目指している模様。その進展に期待したい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群








下野国 二条城(西方陣屋)

二条城址 残存石垣

 所在地:栃木県栃木市西方町元・西方町本城
 (旧 栃木県上都賀郡西方町元・本城)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★☆■■
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京都ではない二条城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
二条城と言うと京都?と思われる方も多いであろうが、こちらは栃木県の二条城。どうやら「新城(にいじょう)」が訛り
にじょう、二条城へ転化したと推測する説が幅を利かせている。西方城の直近、主郭から東へ500mほどの位置にあり
西方城の支城(と言うか、もはや出城)と考えられている。西方城に対する新城、という事ならばこちらの方が新しいと
思いがちだが、実際の所どちらが先に築かれたものなのかは良く分からない。西方城よりも標高が低く、また主郭が
方形を成しているので、二条城が平時の居館・西方城が詰めの城と考える向きもござる。■■■■■■■■■■■■
とりあえず、結城氏に与えられた西方の地がその後どうなったかと言えば、1600年(慶長5年)9月15日の関ヶ原合戦で
勝者となった徳川家康が天下の主に収まると、その実子である結城秀康は越前国北ノ庄(福井県福井市)68万石へと
大加増の上で転封して往く。それに代わって入封したのが藤田能登守信吉(ふじたのぶよし)、石高は1万5000石だ。
藤田氏は元々、関東の名族である武蔵七党の一つ・猪俣氏の流れを受け継ぐ家で、古く平安時代から武蔵国寄居庄
(埼玉県大里郡寄居町)周辺を領土としていた豪族である。戦国時代、そこへ後北条氏が勢力を伸ばした事によって
北条安房守氏邦(うじくに、北条氏康の4男)が藤田家に養子入りする形(事実上の乗っ取り)で跡を継ぎ申した。この後
氏邦の隷下には“鉢形衆”と言う後北条家の地方軍が組織され、北関東(特に上野国方面)への進撃基盤を築くのだが
本来藤田家の家督を継ぐ筈の立場であった信吉はあぶれる事になり、故郷の寄居を捨てて甲斐武田氏を頼った。だが
武田氏も織田信長の侵攻で滅亡すると、今度は越後の上杉氏の家臣に。豊臣秀吉の全国統一後、上杉家は会津へと
国替えとなったため信吉もそれに追従したものの、秀吉没後の主導権争いで上杉家と徳川家は対立状態になった。
信吉は家康に逆らう愚を悟り主君・会津中納言景勝へ融和を説くのだが、上杉家中では開戦派が主流となってしまい
やむを得ず出奔、家康の庇護を求めた。実はこれに先立って秀吉の朝鮮出兵政策の行軍時、上杉軍が宿泊しようと
していた宿場へ徳川軍が先に入ってしまい、いきり立った上杉軍が徳川軍へ攻めかかろうとする騒動になったのだが
信吉が「軍を退くのは不吉であるが、先へ進めば吉となる」と諭し、上杉勢はもっと先の宿場に泊まるよう取り決めて
事なきを得た。後からその事件を知った家康は信吉の機知に感謝したという恩義があり、徳川家は藤田信吉を保護し
なおかつ敵対する上杉家の内情を探り出したのである。これが関ヶ原合戦へと繋がり、家康が天下人になる契機と
なった訳だ。斯くしてその功労者・藤田信吉は独立大名として取り立てられ、西方藩を創設するに至る。■■■■■■

“西方藩庁”として近世陣屋に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
近世大名として、また1万5000石という小さな石高の大名として西方藩が藩庁を置いたのは二条城であった。それは
あくまでも陣屋としての形態を採ったため、ここは西方陣屋と呼ばれるようになる。西方城は石高に対して巨大過ぎ、
また山深い位置にあった事から、藩庁としては二条城の位置・規模が適切であった訳だ。二条城の跡地には現状で
石垣の遺構(写真)が残るのだが、これは近世の西方陣屋を構築する構造物であると考えられる。西方陣屋の麓には
小規模ながら城下町も拓かれたようでござる。現在も二条城の東側(東北自動車道を越した更に東)には栃木県道
177号線(の旧道、上久我都賀栃木線)が北から南へと走り、稲荷神社という小さな社を避けるように折れ曲がった上
栃木市立西方中学校の北面〜東面へ抜けているが、これは旧来の宿並(しゅくなみ)街道と呼ばれる道で、その道を
中心に集落が築かれている。これがかつての西方城下町(恐らくは戦国期から逐次開発されていたもの)である。■■
ついでながら城の縄張も紹介。どこまでが中世二条城でどこからが近世西方陣屋なのかは分からぬが、標高136mの
山頂部をほぼ正方形に造成して主郭とし、その山裾全周を取り囲んで下段の曲輪を重ねている。縄張図を平面的に
見るだけだとまるで輪郭式の城だと思えてしまう構造だ。主郭の一辺は35m程で北西隅にひときわ大きな土塁の塊が
あり、恐らくここは櫓台であったと推測できる。そして主郭全周は勿論、各曲輪毎(つまり山の段毎を一周するよう)に
土塁が取り囲み、また曲輪内にも随所で段が構えられて複雑な縄張を作り出す。切岸は急峻なので、上の曲輪へと
登るのは実に難儀するようになっているのだが、拙者が登城した当時の城山はまるっきり藪だらけで道はなく、この
切岸を無理矢理直登するしかなかった(苦笑)。曲輪の外縁は細かく屈曲し横矢掛かりが意識されていると見られ、
城山の随所に竪堀も掘られ、敵勢が回り込むのを阻止している。今でも城山へ近づく最も簡単な方法がこの竪堀を
伝って行く事でござるが、当然それは城方が敵を誘導する目的であるので、待ち伏せされて討ち取られるのが確実。
主郭北面の山裾は大きく広がっているので、そこは半分に割るように大きく人工的な谷で削られている。これもまた
竪堀と同様の効果を狙ったものであろう。より大きな山容を有する西方城と繋がる西側斜面は堀切で分断している。
主郭と城下町との比高差は55m程あり、小さいながらも立派な山城だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

しかし短命に終わった西方藩■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1603年(慶長8年)2月9日付の「藤田信吉知行宛行状(中新井九右衛門宛)」では、藤田信吉が旧臣の中新井氏に領地
70石を安堵した様子や、藩領が小山市北西部の大内川集落まで及んでいた状況が確認できると言う。また、信吉宛に
2代将軍の徳川秀忠から発給された黒印状もあり、藤田家が江戸幕府生成期から着々と藩政を固めていった様子が
伺えよう。西方陣屋一帯の水田は小倉堰と呼ばれる思川(栃木市を通過する渡良瀬川支流の一級河川)から分水した
用水によって賄われているが、この小倉堰を設けたのも信吉。城下周辺の寺社を建立したのも信吉だ。当時の寺社は
地域の学校・病院・行政役所のような役割を果たしており、これを整備するのは治世の一環として重要だった。現在も
西方町では信吉を“地域の偉人”として称えている。ところが藤田信吉は1615年(元和元年)に突如改易されてしまう。
この年に起きた大坂夏の陣にて、彼は上野国館林城(群馬県館林市)主・榊原遠江守康勝(さかきばらやすかつ)勢の
軍監を務めていたのだが、その際に様々な不手際を為し、故に榊原勢は大損害を被ったとされ、その叱責を受けての
改易と言われている。信吉の退去で西方陣屋(二条城)は廃城。以後、用いられる事は無かった。また、信吉も改易
翌年の1616年(元和2年)7月14日に嗣子無く死去し、藤田家は絶家となった。二条城と信吉は時を同じくして歴史の
彼方に消え去ったのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
昭和の頃まで内部の平坦地は耕作地になっていたらしく、多少の改変は受けているようだが、全体的に保存状態は
良好。何より、竪堀を登って城内に至ると目の前を塞ぐように立ちはだかる巨大な切岸に圧倒される。これを登らねば
主郭には辿り着けないのか…と想像するに愕然となる訳だが、西方城と同様に地元有志の皆様方が少しずつ手入れ
して下さった後、2019年には発掘調査で整然とした環境に整えられたとの事。こちらも今後に期待したい。■■■■■



現存する遺構

石垣・堀・土塁・郭群




佐野城  川連城・榎本城