下野国 唐沢山城

唐沢山城本丸石垣

 所在地:栃木県佐野市富士町・栃本町
 (栃本町地域:旧 栃木県安蘇郡田沼町栃本)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★■■■



秀郷伝説に彩られた古城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
伝承に基づけば平安中期に藤原秀郷が築城。これは秀郷が従五位下・下野国押領使に叙任されて、関東の支配者となった事で
唐沢山に居を構えたとする説である。古来より修験道の霊場だった唐沢山は不可侵の聖地であり、急峻な山岳に阻まれた天険の
要害だった。別名で俵藤太(たわらのとうた)、源氏・平氏に並ぶ武人として名高い秀郷が関東平野を睥睨する山峰に城を築いたと
あらば実に雄渾な話である。だが、この当時の秀郷は乱暴狼藉が過ぎて朝廷から罰せられたと言う事例もあり、一概に信じる事は
できない。真偽の程は兎も角、940年(天慶3年)2月には平将門の乱を秀郷らが平定した事で鎮守府将軍に任じられており、関東に
覇を唱える英雄であった事は確かだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
唐沢山築城は将門を倒した直後の940年〜942年(天慶5年)頃の事とされている。この後、秀郷の子孫5代がこの城に拠り、のちに
足利荘(栃木県足利市)へと移ったが、9代・藤姓足利俊綱の頃、その弟である成俊が唐沢山に入って代々の居城にしたと伝わる。
成俊が入城したのは源頼朝が鎌倉幕府を成立させつつあった1180年(治承4年)の事で、それから30余年をかけ徐々に城を整備し
姓も佐野氏を名乗るようになった。こうして唐沢山城は佐野氏累代の城として継承され、この地を領していく。佐野氏は鎌倉幕府で
御家人に列せられ(本家の藤姓足利氏は平氏方に与し滅亡)室町時代になっても勢力を保ち続けており、室町時代中期の1491年
(延徳3年)には佐野氏11代・盛綱が城の修築を行っている。藤原秀郷による築城説は伝承に過ぎず、また、近年の研究に拠れば
唐沢山城の使用年代は15世紀以前には考えられないとされている為、実際の築城はこれが正しい年代と比定できよう。■■■■
室町体制下、佐野氏は古河公方(こがくぼう、幕府の東国統治者)足利氏の支配下にあり、そのまま戦国時代を迎えるようになる。
乱世にあって旧体制の名目的な支配者である足利氏は次第に実権を失い、北関東諸豪族は北に越後の長尾(後の上杉)氏・南に
小田原の後北条氏という巨大勢力に挟まれた事で独自に生残りの道を模索せざるを得なくなり、佐野氏も時勢に応じて従う勢力を
変化させていかなくてはならなくなった。足利氏は動乱の中で後北条氏に吸収された為、佐野氏も当初はこれに追従し後北条氏に
服する。一方、関東の統治秩序を後北条氏が乱していると信じた長尾景虎つまり上杉謙信は1560年(永禄3年)小田原への侵攻を
計画、出陣する。越後から次第に南進し上野国(現在の群馬県)平定に時間を割く間、強大な長尾軍の進出を知った関東諸将は、
その配下として従う選択をするようになる。佐野氏15代・小太郎昌綱もまた同様に長尾方に属し、従来の後北条氏との関係は断絶
する事となった。故に、後北条氏は佐野氏への制裁として唐沢山城を攻め立て、包囲する。孤軍籠城する事態になった昌綱に対し
景虎は救援の軍を急派。自ら先頭を進み、援軍と言いつつも包囲する後北条軍よりも少ない兵で唐沢山城下に到着する。この時、
毘沙門天の化身を自認し“無敵”を信じる景虎は、鎧も着けないままごく少数の兵だけを引き連れて包囲軍の中を突破し、無事に
唐沢山城中へと乗り込んだと言う。この偉業(異業?)に肝を冷やした後北条軍は囲みを解いて引き上げたので、結果として景虎の
救援は成功した事になる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

謙信を撃退、後北条氏との因縁、秀吉との交誼■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが長尾軍は翌1561年(永禄4年)小田原城(神奈川県小田原市)を攻めるも、満足な成果を出せぬまま越後へと引き上げた。
関東での求心力を失った上杉謙信に対し、北関東の諸豪族は離反し、昌綱もまた再び後北条氏への服従を選んだ。これに怒った
謙信は、以後数度に渡り唐沢山城を攻めるが、後北条方も北関東の要衝であるこの城を死守するべく兵を出す。昌綱は時に徹底
抗戦し、時に開城する臨機応変なる対応で両者からの攻略をかわした。軍神の生まれ変わりと称される上杉謙信の猛攻を見事に
撃退した唐沢山城は関東一の山城としてその名を轟かせ、関東七名城の一つに数えられるようになる。■■■■■■■■■■■
昌綱の死後、城主となった但馬守宗綱は東関東の雄・佐竹氏と盟して後北条氏の支配から脱却し独立を狙った。これにより今度は
後北条氏が唐沢山城を攻める番となり、1585年(天正13年)に足利長尾氏(越後長尾氏と同族だが後北条氏に従属)の新五郎顕長
(あきなが)が唐沢山城下へと迫る。長尾勢を侮った宗綱は無謀にも単騎で城を出たが、銃撃を食らい討死してしまう。この須花坂
(彦坂)合戦で当主を失った佐野氏は嫡子の居なかった宗綱の後嗣として後北条氏から左衛門佐氏忠(うじただ、北条氏康の6男)を
迎え入れざるを得なくなった。斯くして佐野氏、ひいては唐沢山城は後北条氏の支配体制に組み込まれたのだ。こうした流れに対し
反北条氏の立場を貫かんとした修理大夫房綱(ふさつな、宗綱の弟)は唐沢山を出奔し、上方に出て豊臣秀吉に仕えている。その
秀吉は天下に王手をかける頃であり、1590年(天正18年)全国統一の最終戦として後北条氏討伐の大軍勢を動員した。当然ながら
房綱はこれに従い、果敢に戦功を挙げ、戦後高野山へ追放となった氏忠に代わり佐野家3万9000石の継承を許された。なお、彼は
「天徳寺了伯(てんとくじりょうはく、宝衍(ほうえん)とも)」の号が名高い剣豪としても知られている。■■■■■■■■■■■■■
房綱も宗綱同様に男子がなかったため、秀吉の家臣であった富田信濃守信高(とみたのぶたか)の弟・修理大夫信吉(のぶよし)を
養子に迎え入れている。1592年(文禄元年)房綱は信吉に家督を譲って隠居。この頃、唐沢山城は改修を受け石垣造りとなったが
これは豊臣家臣の経歴を持つ房綱・信吉父子が、いわゆる“織豊系”の技術を用いて整備を行った為だろう。現在も唐沢山一帯は
石垣遺構がそこかしこに残る。(ただし、全てがこの時期のものという訳ではなく明治以降の近代改造も含まれる)■■■■■■■

幕府に目を付けられた山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
秀吉没後、天下分け目の関ヶ原合戦では東軍に与し佐野氏は本領を安堵された。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1601年(慶長6年)房綱が没しいよいよ信吉の時代になるが、翌1602年(慶長7年)江戸に幕府を開きつつあった権力者・徳川家康は
佐野家に唐沢山城の廃城を命じたと言う。これは、この年に江戸で大火が発生し、それが唐沢山城から望めた事で信吉が即座に
救援を発した件を契機として「江戸を俯瞰する山城は不敬である」と処された、と伝わるものだ。信吉としては家康への忠誠を示す
つもりであったのだろうが、逆に唐沢山城を危険視されてしまったのだから皮肉なものである。尤も、大火事を見て見ぬふりなどした
ならばそれはそれで咎められただろうから、いずれにせよ泰平の時代の到来と共にこの城は消え去る運命だったのかもしれない。
また、廃城の理由には幕府による江戸20里(約80km)四方の山城禁止令があったとする説もある。兎にも角にも、唐沢山城は徳川
幕府の安定には相容れない存在であった。幕命に従わざるを得ない信吉は、山麓で新たに平城の佐野城(春日城、佐野市内)を
築城、1607年(慶長12年)に居を移した。これにより古くからの名城である唐沢山城は廃されたのである。■■■■■■■■■■
城の縄張りは、標高242mの唐沢山山頂を啓開して本丸とし、そこから大きく3方へ延びる尾根にそれぞれ曲輪群を構築するもの。
これに帯曲輪・腰曲輪などが付随し、山域一帯は全体として強固な要塞群を成している。特筆すべきは「大炊井(おおいのい)」と
呼ばれる大井戸の存在で、ほぼ山頂に近い高所ながら満々とした水を今なお湛える。この他、城中各所に井戸が掘られている。
城の生命線として絶対要件となるのが水の確保だが、唐沢山ではその心配が無く、為に謙信の猛攻を10回に亘って凌ぐ堅城たら
しめたのだ。大手枡形虎口付近には「天狗岩」という巨岩もそびえ訪れる者を威圧する。江戸を望む光景とは、この岩の上からの
ものであろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

国史跡、そして続百名城、まだまだ続く整備発見■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1883年(明治16年)、この本丸の跡に唐沢山神社が創建された。祭神として祀られたのは伝説の築城主・藤原秀郷。平将門を討ち
倒した功績は即ち天皇を援けた忠臣とされ、国家神道推進期にあった明治の世で神と崇められたのでござる。神社創建に伴い、
山域は整備され、部分的に旧城の改変が行われ(上記した石垣などはこの事)、現在は神社へ至る車道や駐車場も敷設されて
いる。されども城跡の基本的な構造は残され、石垣ほか山中には堀切や竪堀、土塁の痕跡などが見て取れる。道路や駐車場の
設置も、逆に言えば車で楽々と登城できるのだから良しとすべきでござろう(笑)これだけの規模の城でありながら日本百名城に
選ばれなかったのがつくづく不思議である (^ ^;;;■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
正直、栃木県で唯一選ばれている足利氏館(栃木県足利市)よりよっぽど…などと思っていたのだが、2017年(平成29年)4月6日
改めて続日本百名城には入選。やはり、見るべき人が見れば当然の選定だという事なのだろう。■■■■■■■■■■■■■■
唐沢山は1965年(昭和30年)栃木県立自然公園になっている。その一方、城跡は特に史跡指定等を受けていなかった。百名城の
件と同様、これまた何とも不思議な話だったが、佐野市は唐沢山城の国史跡指定を目指し、平成に入ってから数次の発掘調査を
行った。従前、佐野市と田沼町の境界が入り混じっていた事が(両市町の連携が難しかった)唐沢山城の史跡指定に足枷となって
いたものの、平成の市町村大合併によって佐野市に統一されたため、史跡指定事業に拍車をかける一助になった。とかく問題の
多かった市町村合併であるが、佐野市の場合は良い結果を出したようだ。こうした努力の結果で、2014年(平成26年)3月18日に
晴れて国史跡に指定されている。唐沢山の中では新たなる発見が続いており、今後もまだまだ埋もれた遺構が整備事業に伴って
発見されて、大きな進展があるかもしれない。とは言え、2001年(平成14年)大雨災害により天狗岩付近で土砂崩れが発生する等
危機的状況を孕んだ唐沢山城跡において、こうした保全事業が一刻も早く貫徹される事を期待したい。■■■■■■■■■■■
別名で栃本城・根古屋城・橡木城・牛ヶ城など。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群
城域内は国指定史跡




小幡城周辺諸城郭  佐野城