始めは謎に満ちた城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
圧倒的な存在感を示す「土の城」で、遺構の残り具合も見事としか言いようがない名城でありながら、その来歴は然程わかって
いない謎の城郭でござる。築城の経緯には2つの説があり、1つは鎌倉時代(1220年(承久2年)頃?)に常陸南部の名族・小田
左兵衛尉知重(ともしげ)の3男である光重(みつしげ)が館を構えたとする説、もう1つは室町時代の1420年(応永27年)頃に
現地の国人領主・大掾詮幹(だいじょうのりもと)の3男として生まれた義幹(よしもと)が城を構えたとする説である。■■■■
まず小田氏による築城説であるが、知重の父・右衛門尉知家(ともいえ)は朝家とも記され、その名から分かる如く源頼朝から
鎌倉幕府創立時に常陸守護を命ぜられた関東武家の名門である。関東八屋形の中に数えられた小田氏が常陸の支配権を
広げる中でこの地にも館を築いたと考えるのは確かに自然なものと言えよう。だが小田氏は鎌倉末期から室町時代にかけて
没落の運命を辿っている。その本領は現在の茨城県つくば市にあった小田城の周辺であったが、霞ヶ浦の北岸である小幡の
地まで勢力を広げたのはごく一時期としか考えられず、恐らく光重の館は長く続くものではなかっただろう。他方、大掾氏だが
この一族は平安中期の開拓武士であった桓武平氏を始祖としたもので、古くから地元に根付いた土豪として諸家を分流させて
いた。こちらも、頼朝が鎌倉幕府を築いた折に常陸大掾職(大掾とは律令国支配序列における3等官のうち上位のもの)に任じ
られた由緒を持ち、これが契機となって「大掾」の姓を名乗るようになったもの。守護職として常陸の南部から支配権を行使した
小田氏とは対立する宿命にあり、一族内でも総領の地位を巡って内紛の絶えない家だったが、本拠地は現在の水戸周辺であり
それに程近いこの小幡城を築いたという説には「地の利」があったと思われる。但し、大掾氏の系図に「詮幹」なる者も「義幹」と
いう名も見えず、築城者の存在そのものに疑問符が付く。それでも室町時代、この地を大掾氏が支配していたのは間違いない
らしく、恐らく小幡城の創始に大掾氏が大きく関わっていた事は確定的であろう。この後、小幡城主となったのは小幡氏とされる
ようだが、この小幡氏というのは大掾氏の一門衆または家臣と思われる。小田光重の子孫が小幡氏を名乗っている為、それが
小幡城の築城説に含みを持たせているのかもしれない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大掾氏の衰亡と佐竹氏による大改造■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが、小幡城を築いた応永年間(1394年〜1428年)に大掾氏は激変に晒されて勢力を急速に衰えさせている。本拠地たる
水戸を江戸氏に奪われた上、1429年(永享元年)12月には当主の満幹(みつもと)とその子・慶松が暗殺されてしまう。那珂郡
江戸郷(現在の茨城県那珂市)から発生した江戸氏は室町中期から勢力を急激に伸ばし、水戸を手中にして常陸国中北部を
治めるようになった。常陸国内は大きく4分された勢力地図となり、北端を佐竹氏、中北部を江戸氏、中南部が大掾氏、南部が
小田氏の支配下に収まるようになっていたが、江戸氏は南進策を続けて大掾氏を圧迫していく。そのため、1481年(文明13年)
小幡城は江戸氏の攻勢を受けたと伝わる(この戦い自体が史実ではないという説もある)。この時、小幡城は守備側によって
何とか守られたが、その後も江戸氏による侵略は絶えず、とうとう1532年(天文元年)8月江戸但馬守通泰(みちやす)によって
落城、以後は江戸氏の持ち城となった。しかし落城についても諸説あり、通泰が1532年に行ったのは大洗(茨城町の隣町)の
小幡氏を攻めた戦いであり、小幡城が落ちたのは1481年の戦い(小幡城の現地案内板では1481年説が記してある)だとする
説があるので断言はできない。ともあれ、16世紀中庸からは江戸氏が小幡城を領有するようになったのは間違いないようだ。
それまで大掾氏(小幡氏?)が北の江戸氏に備える城だった筈のこの城は、江戸氏が南の敵である大掾氏との攻防に最前線
基地として用いる城へと役割が変わっていく。その過程で小幡城は防備を強化する普請が施され、次第に強固な備えを成す
ようになっていった。江戸氏は佐竹氏との協調関係にあり、さらには佐竹氏に臣従して佐竹氏の南下政策の先鋒を担うように
なっていった事から、こうした小幡城の拡張工事では佐竹氏による築城技術の導入も行われたようだ。これらの整備工事は
1570年代に為されたとされており、それらは佐竹氏による常陸統一事業の時期と一致する。安土・桃山時代に入った1585年
(天正13年)の書状には小幡城将として大塚弥三郎と小幡孫二郎の名が見える。この頃、城の守りを強化するため当番制で
涸沼(ひぬま、茨城町〜大洗町にかけて横たわる湖)周辺の土豪らが動員されている。これ即ち、佐竹氏による常陸支配で
集権化が達成された事を意味し、小幡城の普請工事がそれに利用され、云わば「地方大名版の天下普請」の様相を呈して
いた訳である。一方、小幡城の守りをこの時代でも強化していたというのは、その南側に佐竹氏と対立する強敵が存在して
いた事も物語っている。つまり小田氏とその背後に控える小田原後北条氏だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大大名の集約と戦国乱世の終焉■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
南関東に覇権を確立した後北条氏は北関東へも進出の手を伸ばし、既に小田氏は実質的にその配下に収められていた。
鎌倉時代から大掾氏や佐竹氏と対立関係にあった小田氏としても、行き掛り上、巨大勢力となった後北条氏の後援を得て
400年来の宿敵である佐竹氏との戦いに臨む立場に追い込まれていた訳である。ところが、こうした北関東の騒乱は1590年
(天正18年)思わぬ形で終焉を迎えた。天下統一に王手をかけた巨人・豊臣秀吉が後北条氏討伐を戦国乱世の最終戦として
掲げたからだ。佐竹氏は早い段階から秀吉と誼を通じており、小田原征伐にも参陣。関東の雄であった後北条氏と言えども
秀吉には敵わず滅亡した。そうした経緯により、佐竹氏は常陸一国の領有を中央政権から認められたのである。これにより
小田氏も所領を没収され、大名としての地位を失っている。大掾氏も同じ運命を辿る。そこで最後に残るのが江戸氏である。
江戸氏は佐竹氏に臣従する地位にはあったが、一応は独立した勢力と見られていた。しかし秀吉傘下には加わらなかった。
故に、常陸の支配権を公認された佐竹氏は“秀吉に敵対した”事を大義名分に掲げ、江戸氏の追討を行ったのである。近世
大名として家臣団の集約を図る佐竹氏は、秀吉の政策を盾に“外部勢力”でしかなかった江戸氏を都合良く粛清した訳だ。■
1590年の12月、時の江戸氏当主・但馬守重通(しげみち)は居城の水戸城(茨城県水戸市)を追われ逃亡。この折、江戸氏の
持ち城であった小幡城も落とされ、当主・佐竹右京大夫義宣(よしのぶ)の直轄領とされた。城は佐竹家臣の和田掃部助昭為
(あきため)が管理するようになったものの、佐竹氏も関ヶ原合戦の後に秋田への転封を命ぜられ、1602年(慶長7年)昭為も
それに同行して小幡城を去っていく。これを以って小幡城は廃城になったと言われるが、その前段階として江戸氏が放棄した
時点で廃されたとする説もある。以後、城跡はそのまま放置され現在に至っている。■■■■■■■■■■■■■■■■■
巨大な土の壁、何周も張り巡らされた空堀、方向感覚が狂う正真正銘の巨大迷路■■■■■■■■■■■■■■■■■
城は寛政(かんせい)川の南岸にある台地を利用した立地。東関東自動車道の茨城町JCT〜茨城空港ICのほぼ中間地点に
隣接する位置にあり、現状ではその部分だけが孤立した森になっていて一目瞭然。寛政川河畔が海抜11m、城の主郭部は
25m〜26mの標高を数えるので、比高15m程の台地であるが、その内部は大きく分けて7つの曲輪に分割されている。しかも
それらの曲輪は深い空堀と巨大な土塁によって分断されている上に(写真)、求心性の乏しい縄張りになっているため、どの
曲輪が主郭として機能しているのか、一目見ただけでは判断が付かないだろう。曲輪間の連絡性も薄く、もし防備するならば
それぞれの曲輪が「各自で勝手に防衛する」という感じの戦い方になるであろう。しかし、それを逆説的に言えば攻め手の側も
「どの曲輪を落とせば良いのか分からない」と悩む事になる。事実、小幡城の縄張図を見ても迷路にしか思えず、どこをどう
攻め進めば主郭に辿り着くのか、皆目見当が付かないのだ。しかも城内の作りはどこを見ても同じような構造になっていて、
縄張図を用意して進入していても、自分が現在どこにいるのか迷う程なのである。況や、縄張図など持たずに初見で攻める
軍勢だったならば、もはやどうすれば良いのか全く判断できぬ大混乱に陥る事は間違いなかろう。深い堀底から曲輪の上へ
直接登るのは不可能な急傾斜と高さ、導線は複雑に屈曲して見通しも利かず、この城は天守のような高層建築物など無くとも
土塁と堀だけで十分守れるような堅城なのだ。廃城以来殆ど手付かずの上、自然災害による遺構破壊も見受けられないため
今なお“現役の城郭”としてそのまま使えそうな状態なのも驚き。小幡城を散策すべく、都合3重に取り巻く空堀を順に回ったが
1巡目では見事な遺構に感動し、2巡目では自分の現在地を見失うような錯覚に悩まされ、3巡目ではどこを見ても同じ光景が
ひたすら続くのに…正直辟易した事を覚えてござる。城内各所には土橋・折邪(おれひずみ)・井戸跡などが明瞭に残っており
特に主郭(本丸)と六ノ郭とを分断する空堀の中に仕切りとして構築された大土塁の上面には、塁線の内部を武者走り状の
帯曲輪にした“変形武者走り”と称される平場が確認できるのも必見の見所だ。1970年(昭和45年)1月12日、茨城町史跡に
指定されているが、これだけ見事な城跡が国史跡どころか県史跡にすらなっていないのは意外に思える。城郭愛好家ならば
是非ともこの城を見聞し、素晴らしい遺構に感激し、そして呆れる程の無機質な構造に困惑…もとい、驚愕して欲しい(苦笑)
公共交通機関を利用して来訪するのは少々難儀な場所なので、自動車を使って赴かねばならぬのが難点か?されど、車を
そのまま堀底内に乗り付けて停められるようになっているので(それほど巨大な空堀なのである)駐車場の心配は無用だ。■
この場合、城の北東側(香取神社が鎮座する)から城内に向かい突入する経路になるが、車を止める堀底部から内部へ入り
最初に現れる堀底の枝分かれ部分は後世になって城内経路を確保する為に掘削されたものなので、当時の姿ではない事を
注記しておく。また(落城譚にありがちな話ではあるが)本丸内の井戸は落城時に姫が金の鳥を抱いて入水した伝説が残る。
なお、城の西側直近を上記した東関東自動車道が縦断しているが、この道路建設に先立って2005年(平成17年)〜2006年
(平成18年)にかけて発掘調査が行われてござる。それによると、やはり築城年代は15世紀と見られ(つまり大掾氏説が正当)
現在残る城跡台地の前哨地点に、2重3重の前衛防塁が構築されていたであろう事が推測された。しかし残念ながらこうした
防塁は東関道によってほぼ全滅状態になってしまっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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