常陸国 下館城

下館城址碑

 所在地:茨城県筑西市甲
 (旧 茨城県下館市甲)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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結城氏と共に生きた水谷氏の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
下館駅から真北に約1.3km、国道50号線〜城山八幡神社境内一帯が城跡。写真の城址碑は八幡神社の脇に置かれているもの。
現在の地名としては甲(こう)に所在するものの、地元ではこの町域を本城町(もとしろちょう)と呼ぶ事が城の存在を物語る。■■
伝説に拠れば940年(天慶3年)頃、平将門の乱を鎮圧する為に藤原秀郷が上舘・中舘と共に下舘を築いたとされる。この下舘が
即ち下館城だというものであるが、信頼できる伝承ではやはり戦国時代になってからの創始と考えられよう。1478年(文明10年)
水谷伊勢守勝氏(みずのやかつうじ)が主君・結城左衛門督氏広(ゆうきうじひろ)から下館領を与えられて当城を築いたとされて
いる。水谷氏は藤原秀郷の後裔を称していた事から、先の伝説が生まれたのではなかろうか?■■■■■■■■■■■■■■
当時、水谷氏は結城氏(茨城県結城市に勢力を持つ名族)に従っていた。武功著しく、また結城氏も同じ秀郷の血縁とされていた
事から“結城四天王”の一角とされていたそうだ。長沼12郷および伊佐33郷を治める事になった水谷氏は、勝氏の後に兵部少輔
勝国―伊勢守勝之―兵部大輔勝吉―伊勢守治持と代を重ねる。この治持、時の結城氏当主・左衛門督政朝(まさとも)の先陣と
して下野国の大名・宇都宮氏へ攻め懸かり、結城氏の旧領であった中村12郷の奪還を果たした為、そのうちの6郷も恩賞として
手にして益々水谷氏は隆盛する。しかし治持には実子がなかったので、兄・勝吉の子(つまり治持の甥)の出羽守(伊勢守とも)
正村(まさむら)を養子に迎え入れて跡を継がせた。この正村こそ、水谷氏の全盛期を築き上げる名将でござる。■■■■■■

智・勇・信、三拍子揃った名将の水谷正村■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
正村は養子入りした直後(まだ幼名の玉若丸を名乗っていた頃だそうな)治持に従って初陣を果たし、敵対していた武蔵国大串
(現在の埼玉県比企郡吉見町大串)領主の大串武成・重義父子を散々打ち負かす。更にその手柄を横取りしようとした結城氏の
家老・多賀谷氏に対しても抗議の為に挙兵する程の剛勇さだった。この争いで多賀谷軍が下館城の城門突破を図るが、正村は
逆に返り討ちとし、攻城兵を追い返したと記録される。1540年(天文9年)の事だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
結局、両者の争いは主家である結城氏が介入して事なきを得たのだが、以後も正村の辣腕は留まる事を知らず、北を向いては
宇都宮氏に従う中村氏や八木岡氏を壊滅させて、東に対しては佐竹氏(常陸国の大半を制していた大大名)の客将・太田氏らと
覇を競う。家督相続直後は1万3000石ほどだったと言う正村の所領は、最終的には5万石近くにまで増大していた。さらに、武辺
一辺倒ではなく政治にも細やかな配慮を成した事でも知られる。1541年(天文10年)、長雨が続いて食料や燃料が枯渇する事に
なってしまった水谷領。生活に困った領民は、遂に下館城の塁壁になっていた竹垣を破壊して燃料にしてしまった。だが正村は
「領民の困窮に手を打てない自らの不徳である」としてこれを罰する事はなかった。また別の年の事、不作によって年貢が収め
られない状況となった折、正村は税率を減免し3分の1とし、足りない費用は家宝の刀を売却して用立てた。翌年は豊作となり、
家臣らは売り払った家宝の買戻しを提案したところ、正村はそれを不要としたのみならず、領民を思ってその年も同じ年貢率で
良い、としたそうである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
彼は1544年(天文13年)主君・結城政勝の娘・小藤姫を娶ったが、姫は翌年に産後の肥立ちが悪く17歳の若さで没してしまう。
それを悲しんだ正村は入道し、あっさりと家督を弟の伊勢守勝俊(かつとし)に譲った。隠居となった事を機に下館城主は勝俊と
なり、正村改め道号・蟠龍斎(ばんりゅうさい)は久下田城(筑西市内)を築城してそちらへ移ったが、何とこの時、蟠龍斎もまだ
21歳と言う若武者であった。以後、生涯妻を娶らずに実子も儲けなかったというのだから、蟠龍斎という人はよほど小藤姫を
大切にしていたのだろう。いや、多賀谷氏との“名誉を賭けた戦い”と言い、領民への逸話も含め、彼は大変に「情熱の人」で
あったと言えよう。伝承がどこまで本当かは分からぬが、これ程の名将が昨今の歴史ブームの中で然程の脚光も浴びないと
云うのは不思議な事でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

徳川譜代大名が城主を歴任■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、水谷家は隠居後も実質的に正村が上手く立ち回り、後北条氏の北上に対抗したり宇都宮氏・佐竹氏との戦いを勝ち抜く
のみならず、早くから豊臣秀吉や徳川家康との友好関係を構築していた。そのため、1590年(天正18年)豊臣秀吉が全国統一を
果たした時も下館領の本領安堵を受けている。それだけではなく、結城氏から独立した大名としての扱いとなって、ここに近世
大名・水谷氏が成立するのである。正村は1598年(慶長3年)6月20日に没したが、跡を継いだ勝俊も関ヶ原合戦で東軍に就き
徳川家康から本領安堵を受けた。関ヶ原の折、勝俊は西へ向かう徳川秀忠の軍に加えられ、下館城に秀忠が宿営したという。
勝俊の後は伊勢守勝隆(かつたか)が継ぐ。その勝隆は1639年(寛永16年)6月に備中国成羽(なりわ、岡山県高梁市成羽町)
5万石へ転封。下館城には松平右京大夫頼重(よりしげ)が5万石で入封した。この頼重、“水戸黄門”こと権中納言徳川光圀の
実兄。即ち、水戸徳川家初代・徳川左近衛権中将頼房(よりふさ)の長男であるが、様々な経緯があって家督を継げなかった
不遇の人物であった。これを不憫と思った時の将軍・徳川家光が取り計らって下館5万石の主とされたのであり、さらに1642年
(寛永19年)5月28日に讃岐国高松(香川県高松市)12万石の太守として加増転封を受けた。これにより下館は天領となるが、
1663年(寛文3年)7月11日に三河国西尾(愛知県西尾市)2万石から転封された増山兵部少輔正弥(ましやままさみつ)が2万
3000石で入封。増山家は4代将軍・徳川家綱の生母であるお楽の方の縁者、徳川譜代大名の扱いである。■■■■■■■■
その正弥は1702年(元禄15年)9月1日に伊勢国長島(三重県桑名市長島町)2万石に転封、丹波国亀山(京都府亀岡市)から
井上大和守正岑(まさみね)が入るも同月28日に常陸国笠間(茨城県笠間市)へ移されて、下館は再び天領に。更に1703年
(元禄16年)1月9日、1万5000石で黒田豊前守直邦(なおくに)が入封し、1707年(宝永4年)1月9日には5000石が加増されるも
1732年(享保17年)3月1日、上野国沼田(群馬県沼田市)2万5000石へ加増転封。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
このように、下館城主の座は転々としてなかなか定まらない状態が続くのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■

二宮金次郎に教えを乞うた愛民家・石川氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そして伊勢国神戸(かんべ、三重県鈴鹿市)から石川近江守総茂(ふさしげ)が2万石で入り、その後は明治維新まで石川家が
下館を治める事になる。この総茂なる人物は善政を敷く名君で、国替えに際して神戸の領民が移封反対の嘆願書を出す程で
あったと言う。総茂の跡は播磨守総陽(ふさはる)―内膳正総候(ふさとき)と継ぎ、石川家4代・若狭守総弾(ふさただ)の頃に
下館は綿花・木綿の特産地として栄え、城下町も大いに繁栄した。が、その総弾の時代は不幸も続き洪水・大火や飢饉などの
災害が多発して農村が疲弊。中務少輔総般(ふさつら)―近江守総親(ふさちか)―播磨守総承(ふさつぐ)の代を経過し、8代
近江守総貨(ふさとみ)が統治する頃には莫大な借金で藩財政が破綻寸前となる。この為、総貨は農政家・二宮尊徳の教えを
実践して農村復興を図るなど、石川家は下館藩初代・総茂より仁政を旨とする統治に励んでいた。ところが、9代・若狭守総管
(ふさかね)は幕末動乱に閉塞し、明治維新で下館知藩事となるも廃藩置県で職を辞する事になる。■■■■■■■■■■■
故に下館城は1873年(明治6年)のいわゆる「廃城令」に先立つ1869年(明治2年)の時点で廃城処分とされ、戦国時代から続いた
名城は寂しく終焉を迎えた。以後、城跡は急激な近代化や宅地化の波に飲まれていき、現在では殆んど原型を留めないほどに
変貌してしまっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

今は宅地化に飲まれた城跡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国城郭から近世城郭へと進化した下館城は、下館の町を南北に縦貫する五行川の流れを背にし、大きく見て北から南へ出丸・
本丸・二ノ丸・三ノ丸が一直線に並ぶ連郭式の縄張であった。また、本丸〜二ノ丸の西側に蔵屋敷地や西城と呼ばれる曲輪を
配置。本丸が狭隘であったので、城主の御殿はこの西城部分に建てられていたようだ。これらの曲輪群は東側が川で守られ、
北と西には人工的な溜池を配置して外周と隔絶させていた為、必然的に南側だけが周囲と陸続きになる構え。三ノ丸の南には
侍屋敷地が置かれ、更にその南側が城下町となって大手口を開くようになっていた訳だが、これらの曲輪間には空堀を穿って
敵軍の侵入を妨げる備えである。古地図によると、侍屋敷地へと入る大手口は左へ直角に曲る土橋を渡って門に至る構えと
なっており、かなり技巧的な防備となっていたようだ。当然、城下町の街路や曲輪内での通路も複雑に屈曲して、特に二ノ丸は
石垣で固めて鉄壁の防御を見せ付けていた。この二ノ丸は事実上、本丸の前衛となる馬出であったと考えられる。■■■■■
城域全体は周辺の平地に比べて僅かに標高が高い微高地だが、五行川の河原からは10m程度の比高差があり、またそれは
屹立する崖となっていた事から、こうした地形と屈曲通路や溜池と言った人工障壁を上手く組み合わせた守りを演出していた
城と言えよう。南の大手から北の本丸へと進むにつれ先細りとなって締め付ける縄張は、曲輪を仕切る何重もの堀との様相も
相俟って「法螺貝城(螺城)」の別名を付けるに相応しいものだ。本丸跡地には城山八幡神社が建っているが、これは石川氏が
氏神として京都から勧進した岩清水八幡宮の名残である(石川氏は清和源氏の末裔=八幡宮は源氏の守り神)。それ以外にも
二ノ丸〜三ノ丸付近が下館小学校に比定される他、城下の屋敷地にあった薬師堂は現在もその場所に残されている。しかし
現状これ以外に城の名残は全く見分けがつかない。恐らく往時の堀跡を踏襲して現在の車道が敷設された?と考えられるが
古地図(縄張図)と現状の地形は全く以って照合しにくいものになってしまっている。城跡の東側、五行川に至る地形が今でも
急峻な傾斜地になっているので、それを見て当時の堅城ぶりを想像するしかない。とりあえず、八幡神社裏手に回ると五行川
河畔に建ち並ぶ家々が眼下に見て取れるので、住宅丸々1軒分の高さが城跡の台地となっていた点に注目してみよう。■■■
城跡は1976年(昭和51年)6月28日、当時の下館市指定史跡となっている。また、八幡神社の本殿も翌1977年(昭和52年)3月
24日に市指定文化財となっており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

城域内は市指定史跡








常陸国 伊佐城

伊佐城址碑

 所在地:茨城県筑西市中舘
 (旧 茨城県下館市中舘)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

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伊達氏の“本流”、伊佐氏の城館■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
下館城の冒頭に記した伝説の「藤原秀郷が築いた中舘」と比定される城。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
(ちなみに、水谷蟠龍斎の隠居城である久下田城が上舘と伝わる)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この地の古豪・伊佐(いさ)氏の城と言われるが、この伊佐氏とは奥州の大大名・伊達氏と同族。伊達氏は仙台藩祖“独眼竜”
政宗を輩出するあの伊達氏である。よって伊佐城も伊達氏と少なからず縁を有している。まず伊佐氏について紐解くが、藤原
摂関家の分流・藤原山蔭(ふじわらのやまかげ)の後裔とされる常陸入道念西(ひたちにゅうどうねんさい)なる者が、この地に
威勢を張った事で伊佐氏や伊達氏の流れが始まったとされている。説明すると、念西は一族郎党を引き連れ、源頼朝の奥州
藤原氏征伐にて軍功を挙げた。頼朝はこれを賞して、元来の伊佐郡(下館周辺)に加えて陸奥国の伊達郡・志信(しのぶ)郡
(現在の福島県中通地方)や但馬国・出雲国など各地の地頭職に任じる。この為、念西の子等が其々の地頭職を分担し相続。
伊達郡・志信郡に入った系譜が伊達氏となり、本領の伊佐郡を継承したのが伊佐氏とされる。■■■■■■■■■■■■■
さてその念西とは何者かという事になるが、伊達氏の祖・伊達常陸介朝宗(ともむね)に比定するのが一般的だ。しかし異説も
様々あるので、断定はできない。また、上記の経緯に拠れば伊達郡を領したのは念西の2男・兵部少輔宗村(むねむら)からと
いう事になるため、朝宗の本姓は旧領に因み伊佐となるべきであろう。彼の嫡男(長男)・為宗(ためむね)が本領の伊佐郡を
相続したのはやはり伊佐を治める者が嫡流、という意味であろうか?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

伊佐氏の系譜と南北朝の戦い■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、伊達氏と分流した事で改めて為宗の系譜を伊佐氏と定義するのが通説。されど、そもそも朝宗以前からこの一族が
伊佐の領主となっていた訳で、伊佐姓だと認められるのは朝宗の4代前に当たる常陸介実宗(さねむね)が最初とされている。
実宗が常陸介に任じられたのは1111年(天永2年)。秀郷築城伝説は置いておくとして、伊佐城の起源となる中舘はこの時に
実宗が居館を構えたものと考える事ができるかもしれない。但し、正確な築城年代は不明でござる。■■■■■■■■■■
実宗以降、下野守季孝(すえたか)―下野守家周(いえちか)―大舎人光孝(みつたか、光隆とも)―(伊達)朝宗そして為宗と
続く伊佐氏。以降の系譜は混乱し史書により家督を継いだのが為家?とも為綱?とも伝わる。為綱の後、宗行―行方―時方と
記録されるようだが、この過程で伊佐城は規模を拡大していったと考えられる。年代的には鎌倉幕府が衰退する頃に当たろう。
その幕府は後醍醐天皇や足利尊氏らの討幕運動によって崩壊するが、直後から天皇と尊氏は統治の主導権を巡って対立を
始める。斯くして、尊氏は室町幕府を立ち上げるために京都で新たな天皇を擁立(北朝)。他方、後醍醐天皇は吉野に逃れて
それに対抗(南朝)。いわゆる南北朝時代の到来である。これにより全国に散らばる在地武士団もそれぞれ南朝方と北朝方に
分かれて争う事となる。伊佐郡周辺は南朝方に与し、伊佐氏も当然の如くその勢力に参加したが、その周りには北朝勢力が
根強かった。この為、伊佐城にはかつて分流した伊達氏から援軍がやって来る。即ち、朝宗から数えて7代目の伊達氏当主・
左近蔵人行朝(ゆきとも)が陸奥国から南征、伊佐城で北朝勢力に睨みを利かせたのでござる。■■■■■■■■■■■■
これを解説しよう。奥羽で南朝勢力の中心人物となっていた鎮守府大将軍・北畠顕家(あきいえ)は、かの地の有力武士団を
従えて京都へ進撃、いったんは足利軍を打ち破り九州へ駆逐。一方、東国で足利方が勢力を蓄えたため、顕家はこれを追討
すべく関東まで戻るが、尊氏が九州から京都へ戻る気配を見せたので再度京都へ遠征した。しかし今度は打ち破られ、顕家は
和泉国堺(現在の大阪府堺市)で戦死してしまったのである。この遠征に行朝が参加していた訳なのだが、総大将たる顕家が
亡くなったために領国へ戻った後、伊佐城で奮戦する南朝勢力に合流し再戦を図ったのだった。■■■■■■■■■■■■
当時、近隣の小田城(茨城県つくば市)には顕家の父・北畠親房(ちかふさ)が入城しており南朝方諸将に檄を飛ばしていた。
これに同調した伊佐城は、北朝方の勇将・高三河守師冬(こうのもろふゆ)が盛んに攻め立てるも長く持ち堪えていた。1338年
(延元3年/暦応元年)?から始まった師冬の攻勢に対して伊佐城は5年近く抵抗し続け、1343年(興国4年/康永2年)に行朝が
合流するのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

南朝衰退と廃城、そして現代の姿■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし、年月の経過により全国的には南朝が劣勢となっていき、北朝の勝利は確定的になっていく。このため同年11月、遂に
伊佐城は開城。行朝は自領の伊達郡へ退去し北朝方へ転属、伊佐城も廃城となった。■■■■■■■■■■■■■■■■
以来、伊佐氏は没落し歴史の表舞台から消え、城跡は転用されてしまう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城は東に五行川が流れる河岸段丘上にある。現在、二ノ丸跡と伝わる場所に天台宗施無畏山(せむいざん)延命院観音寺が
建ち、その北側の隆起部が主郭だったようだ。また、観音寺から南へ200mほどの位置にある中舘観音寺本堂近辺は別郭と
思われ、この周囲には往時の堀跡を利用した?と思われる道路が横断している。主郭から別郭まで都合300m程ある南北に
長い敷地が、起伏を活用した連郭式の縄張で区切られていたと想像され、断片的には土塁跡のようなものも見受けられる。
道路は連郭式縄張を区切る堀底を転用したものだ。城地の西側一帯は水田(というか泥沼地)だったようで、地勢を巧みに
活用して防備を固めていたと推測できる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
が、殆どは風化や後世の土地造成によって土地が均されてしまい、現状では見る影も無い状態。まぁ、何せ南北朝期に廃城
された古城であるためそれも致し方ないとは思うが…。それでも一応、歴史の重要性に鑑みて1935年(昭和10年)11月26日に
茨城県指定史跡となっている。また、観音寺本堂の裏手には伊達行朝の供養塔(墓ではないようだ)があり、江戸時代最後の
下館藩主だった石川総管の墓も建てられている。写真の城址碑も1937年(昭和12年)の建立という古いものらしく、この城は
遺構そのものよりも、このような建立物を確認する事で歴史の深さを感じた方が分かりやすいのかもしれない。■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域内は県指定史跡




結城市内諸城館  小幡城周辺諸城郭