下総国 山川氏館

山川氏館跡土塁

 所在地:茨城県結城市大字上山川

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
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綺麗な四方形の堀と土塁が残る館跡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
結城市上山川、結城市立上山川小学校の南側にある曹洞宗光國山東持寺境内が城跡。廃城後、風化や
人為的な破壊工作が行われる前に寺の敷地となったので、四周を廻る土塁と堀が綺麗に残る。この土塁
(写真)は東西約148m×南北約195mという長方形を成し、鎌倉期以降の典型的な武家方形居館の体裁を
採っている。東持寺の南面と西面にそれぞれ出入口が開く様子は、恐らく往時からの虎口(大手と搦手)を
踏襲しているのだろう。南口から真っ直ぐ延びる道は、かつての馬場だったと推定されている。また、土塁
基底部の幅はおよそ12m、高さは2mを数えており、これも城館時代からの遺構をそのまま今に残したもの
(無論、当時はもっと高かった)だ。特に北東隅と北西隅は一段高くなっており、これは櫓台として使われて
いた可能性がござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
経年劣化でだいぶ埋もれてしまっているが、堀幅も最大部で約7m。現在、そのうちの南面は農業用水路と
して流用されている。但し、形態は旧態然とした単郭方形居館でしかなく、いつまで(本当に戦国期まで?)
この城が使用されていたのかは疑問が残る。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

山川氏の歴史■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その名の通りに、この居館は現地の豪族・山河氏の館として成立した。山河氏は下総の名族・結城氏から
分家した家系で、結城家祖・上野介朝光(ともみつ)の4男である五郎左衛門尉重光が初代に立つ。そんな
山河氏は室町時代から「山川」に改姓しているが、宗家筋である結城氏に従い、協力関係にあった一方で
半ば独立した家として動く事が多かった。15世紀後半、結城氏に後嗣が絶えた折、山川氏から継嗣を送り
込む事もあった訳だが、これは分家である山川氏が巧みに宗家を乗っ取らんと謀った節が見受けられる。
尤も、それに対する反動も起こっており、結城家側からの謀略によりこの入嗣を排斥されてしまったようで
(真相は謎だが)、以後は再び結城氏を宗主とし山川氏が従属するという体制に戻っている。■■■■■
さりとて、丁度この頃から関東は戦国時代に突入しており、山川氏は結城家中にあって半独立勢力として
行動、南から小田原後北条氏の勢力が伸びてくると、一時期結城家と山川家は後北条氏に対する態度を
異にしていた。それでも山川氏は初代の重光から15代(16代とも)・讃岐守朝貞(ともさだ)までの約4世紀
この地を守り通しており、豊臣秀吉の関東平定においても所領は安堵されている。■■■■■■■■■
但し、秀吉の裁定以後は完全に結城家臣として位置付けられる事となり、朝貞は関ヶ原合戦後の1601年
(慶長6年)、結城家の越前移封に従属している。斯くして父祖以来の領地を離れた山川朝貞であるが、
結城家の重臣として越前国吉田郡花谷(現在の福井県福井市北西部)1万7000石の大封を得た。■■■
さて、そうなるとこの館の使用時期が問題となるが、創始は恐らく初代の重光によるもので、1200年代初頭
(建仁年間(1201年〜1204年)か?)の事だと考えられている。山川氏館の形態は鎌倉時代の武家居館を
基本としているので、立地・構造ともに矛盾する話ではない。以後、山河(山川)氏はこの館を継承していく
訳だが、史料によれば14代・中務大輔駿河守氏重が1565年(永禄8年)に近隣の山川新宿で新城(下記の
山川綾戸(あやと)城、山川氏館から南西3.5km程の位置)を築いて移ったと伝えられる。しかし、単郭方形
居館である山川氏館が1560年代まで実用にあったと云うならば、むしろ驚異的な話だろう。結城氏は関東
争乱の中心にある家で、それに従う山川氏も数々の戦いを経験しており、それが鎌倉時代以来の構造を
維持する館で守りを固められたとは到底考え難いからだ。このあたりは発掘調査や史料の再検証が必要
かもしれない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

その後の山川領■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、山川氏移封後の当地は江戸幕府の天領とされた。関東郡代・伊奈備前守忠次が統括し、その
代官である伊東備前守・横田次郎兵衛らが山川氏館跡に居館を構えている。故に、山川氏館を代官屋敷
とも称する。しかし1604年(慶長9年)徳川家康の甥に当たる久松松平越中守定綱が5000石で山川へ封じ
られ、更に1609年(慶長14年)1万石を加増(合計1万5000石)された事で大名へ昇格、山川藩が立藩した。
この時、山川氏館が藩庁になったとする説もあるのだが、現状の遺構では江戸時代に入ってからの改変は
見受けられない。定綱は1616年(元和2年)下妻2万石へ加増転封、代わって水野監物忠元が3万5000石で
封じられた。1620年(元和6年)忠元は没し、跡を長男の忠善(ただよし)が継いでいる。その忠善は1635年
(寛永12年)1万石を加増され駿河国田中(静岡県藤枝市)に転封している。水野時代の経緯は不明だが、
横田次郎兵衛が退去して後、館跡地は東持寺へ寄進され(それまで東持寺は別の場所にあった)1626年
(寛永3年)に寺が当地へ移転しており、以来ここが東持寺の境内として使われ続けた訳である。■■■■
なお、水野氏転封後の山川は天領や旗本領に組み込まれ、再び大名領となる事は無かった。■■■■■
それでも水野氏は大名に列せられた事を記念して山川に菩提寺を建立、移封して後も歴代当主はここに
葬られている。斯くして水野家の墓所が山川に残存しているが、その中には江戸時代後期、幕府老中に
就任し天保の改革を断行した越前守忠邦が居る。尤も、菩提寺は幕末の火事で焼失、廃寺となったので
歴代水野家の墓石だけが野晒しになっているのみ。専制を敷いた老中の墓が放置されている様子は、
諸行無常の念を抱かせる。山川に地を訪れる際は水野家墓所も見学するのが宜しかろう。水野家墓所は
山川綾戸城跡のすぐ傍だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で山川城。上記の通り、代官屋敷の別称もある。山河重光が地頭として入った由緒から地頭屋敷とも。
土塁の残存状況が良好である事から、1964年(昭和39年)9月1日に結城市指定史跡となっているが、その
史跡名称は「中世武家屋敷跡」とされてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域内は市指定史跡








下総国 山川綾戸城

山川綾戸城跡 土塁

 所在地:茨城県結城市大字山川新宿

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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戦国乱世に対応した水城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
山川氏館の項で流れを記したが、戦国時代最盛期の1565年(頃)に山川氏14代目・氏重が新しく築いた城。
近隣にある山川不動尊(真言宗明王山大栄寺)の寺伝によれば、平安期に平将門が守り本尊とした不動尊を
祀るとしており、また将門の愛妾が「綾戸に囲われた」との伝承もある為、綾戸城の創始をその時代に求める
説があるものの、これは伝説に過ぎないものだろう。但し、何かしらの砦が存在し、それが戦国時代になって
改修された可能性は残る。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
結城市立山川小学校(山川氏館跡に隣接の「上山川」小学校とは異なるので注意)の南南西550m程の地点、
或いは今宿上坪集会所から北に220mと言うべきか、そこにある交差点では茨城県道20号線から南西へと
同県道23号線が分岐する。この23号線を進むと、山川不動尊の前を過ぎて新堀川を渡る新宿橋を越えるの
だが、良く見れば不動尊前でも小さな用水路を渡っている事に気付く。用水路も新堀川も南へと流れて行き
県道の渡河地点から約800m〜900m南で合流している。城があった当時、この用水路〜新堀川までが大きな
沼(山川沼)となっており、その間に挟まれた微高地が半島状の敷地となっていた。この半島が山川綾戸城の
敷地で、半島先端(陸地として最も奥まった場所)が主郭、そこから半島の根元に向かって二郭・三郭が構成
されていたと推測される。山川不動尊から南におよそ900m行くと稲荷神社の小さな祠が置かれているのだが
この祠が半島の突先(つまり城地南端)、不動尊が城の北限あたりに相当するので、この城は南北だいたい
1km超もの距離があった大掛かりな城郭だったようだ。戦国争乱に対応した山川氏が、古い方形居館を捨て
“本気の城造り”をした結果でござろう。今ではなかなか想像出来ないが、この城は湖に浮かんだ水城として
堅い守りを誇っていたらしい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この城の構築後、1570年代になると小田原後北条氏が結城・山川領を狙って攻撃を加えてきた。特に1577年
(天正5年)の攻勢では山川晴重と結城左衛門督晴朝(はるとも、当時の結城氏当主)が連携するのみならず、
宇都宮・佐竹・那須と言った北関東の諸勢力にも援軍を求めて、後北条軍を撃退している。集合離散が常の
北関東の武将らが結束した結果だが、攻撃に持ち堪えた山川綾戸城の堅さも、この成果を引き出した一因で
あろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

近世陣屋となるも、廃絶し跡形も無い■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そんな山川氏が豊臣秀吉の全国仕置で結城氏配下に位置付けられ、更に関ヶ原合戦後には結城家に従って
越前へ去ったのは上記の通りだ。この時に山川綾戸城も廃城になったと見られている。然る後、松平定綱が
山川藩を立藩し、その藩庁となったのはこちらの山川綾戸城の方だったと言う。但し、一度廃城となった城の
全域を復興させたのではなく、小藩の役所に必要な陣屋機能をかつての三郭付近に置いた程度だったようだ。
更に水野家も同様に三郭の陣屋を補修し利用したが、駿河田中への移封に伴い山川藩は消滅する。この後
壬生(みぶ)藩(栃木県下都賀郡壬生町)の飛び領になり支配陣屋として旧山川藩の陣屋が使われたそうだが
明治の廃藩置県でそれも無用のものとなり、廃絶している。以後、陣屋を含む城の跡地はほぼ全て耕作地と
なり、また山川沼も大規模に干拓され、水城だった様子は全く分からなくなった。■■■■■■■■■■■■
ただ、地籍図(現在での詳細地名入りの地図)を見てみれば山川沼の跡地には「新宿新田」の地名が振られ、
山川沼の姿が目に見える形で残っている。と言う事は、そこから残された部分(大字「山川新宿」の南端部)が
沼に突き出た半島、即ち城地であった事でもある。心の目で見れば、山川綾戸城の広さが把握できる訳だが
その反面、現実の城址には遺構が皆無(何せ畑地だらけである)、目に見える唯一の残欠が写真にある土塁。
これは先ほど説明した県道23号線「筑西三和線」が、山川沼名残りの「用水路」を渡る地点にある交差点から
斜めに分かれる脇道(県道より1本北側)へ入り、そのまま西へ向かっていくとある。脇道は途中で北西へと
逸れて行ってしまうのだが、そのカーブの根元にある西へ進む小路へ入っていくべし。非常に説明し難い所に
ある土塁は、一見するとタダの藪(土盛り)にしか見えないので見付けるのも難しく、結城市の教育委員会が
設置してくれた立て看板が無ければ本当に気付かず通り過ぎてしまう程だろう。然るに、その立て看板には
「結城市史跡 山川綾戸城跡 <ここは綾戸の土塁の一部です>」と記されている。そう、断片だけ残る土塁は
1967年(昭和42年)2月9日、結城市史跡に指定されている。ちなみに、山川氏館の項で記した水野家墓所は、
この土塁から西北西へ650m位の畑の中にある。これまた行き難い場所なのだが、水野家の墓所も2013年
(平成25年)1月28日に結城市史跡の指定を受けている。そうなると…知名度の低い城の土塁より、江戸三大
改革を行った老中の墓の方が、ダントツに史跡としての環境が良いようで(以下、自主規制)■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁
土塁は市指定史跡








下総国 結城朝光館

結城朝光館跡 土塁

 所在地:茨城県結城市大字結城

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★■■■
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名族・結城氏創始の館!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上記、山川氏館の項で名の出た結城氏始祖・朝光の居館跡。城ノ内(しろのうち)遺跡とも。■■■■■■■
結城氏は“関東八屋形”の1つに数えられる下野の名門・小山氏からの分流である。詳しく記せば、小山四郎
政光の3男として生まれたのが七郎朝光であり、その生母・寒河尼(さむかわのあま)は源頼朝の乳母だった
事から、朝光は頼朝から大いに引き立てられた。以来、彼は頼朝の近習として目覚しい活躍をし、源平合戦や
奥州藤原氏討伐での戦功・壇ノ浦から凱旋する義経への使者・梶原平三景時弾劾・そして承久の乱参戦など
鎌倉幕府草創期における重大事件に悉く関わりを持つ。源平合戦の論功により結城郡の地頭職に任じられ、
以後は結城姓を名乗り結城氏の始祖となった訳でござる。この城館は、その朝光が築いた居館とされている。
館跡の規模は東西約178m×南北約128m、山川氏館と同じく単郭方形居館で、如何にも鎌倉武士の館という
敷地である。外周を土塁で固め、その外側には堀を構えるのも同様。■■■■■■■■■■■■■■■■■
1995年(平成7年)度に発掘調査が行われ、堀の上幅が約5mもあったのに対し、底幅は僅か40cm程度のみで、
断面がV字型になる薬研堀(やげんぼり)だった事が判明した。堀の深さは1.8m程、それに面した土塁の高さは
1.3m程度あった為、堀底から土塁上面までは合計して3mを越す高さを有した訳だが、狭隘な薬研堀で敵兵を
絡め取りその上から弓矢を浴びせるのは防備としてそれなりに有効だった事だろう。現在は風化により土塁が
低くなり、堀跡も埋もれてしまってはいるが、それでも威容を忍ぶに十分な残存状態を誇っているので(写真)
かつての鎌倉武家居館がどのような規模であったかを推し測る事ができ申そう。■■■■■■■■■■■■
発掘調査は2019年(令和元年)にも行われた上、2022年(令和4年)2月1日に「城の内遺跡」の名称で結城市の
史跡に指定された。出土遺物としては刀のハバキ(刀身の固定具)・硯・陶器・古銭といった物がある。■■■
この居館は鎌倉期を通じて結城氏が用いたようだが、室町時代になって新たに結城城(下記)が築城された為
廃城になったと推測されている。以来、600年以上の歳月を越して現在は結城市が管理する敷地となり、史跡
整備ならびに公園としての活用が行われた。近隣には一般民家が密接しているので見学には配慮が必要だが
このように見事な史跡が有意義な形で開放されている事に敬意を表したい。■■■■■■■■■■■■■■
場所は国道50号線結城バイパスの南側、「文化センター南」交差点から200mほど南下した地点。敷地内には
立木之地蔵尊なる小さな祠が祀られており、趣きがある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ちなみに、結城市では10月2日を「結城朝光の日」としているそうである。1180年(治承4年)のこの日に朝光が
初めて源頼朝に拝謁したからなんだとか。武家の棟梁に引き立てられ、結城の隆盛が始まった日を記念して…
嗚呼、素晴らしき郷土愛!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群
館域内は市指定史跡








下総国 結城城

結城城跡 切岸

 所在地:茨城県結城市大字結城

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
★☆■■■



結城合戦で有名な堅城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
結城氏の城なのは言わずもがなであるが、創建の由緒として1181年(養和元年)頃に結城朝光が築城したと
いう通説は上記の結城朝光館と結城城を混同したものでござろう。南北朝期、又は室町時代に入ってからの
構築と考えるべきであり、史上に名が出るのは有名な結城合戦からなのも、丁度その前に築かれたからなの
ではなかろうか。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さてその結城合戦について記すと、室町幕府の東国統治機関の長であった鎌倉公方(足利将軍家の分家)は
常々本家である京都の将軍家に取って代わろうという野心に燃え、第4代鎌倉公方の左馬頭持氏(もちうじ)は
遂に1438年(永享10年)幕府方と合戦するに及んだ。これを永享の乱と言うが、圧倒的大軍で返り討ちにした
幕府軍に敵わず翌1439年(永享11年)2月10日に持氏は敗死してござる。ところが強権の6代将軍・足利義教
(よしのり)の専制を嫌った関東の武士らは持氏遺児の春王丸・安王丸兄弟を奉戴し、1440年(永享12年)3月
挙兵したのだった。春王丸・安王丸を匿いこの乱を主導したのが、時の結城氏当主である結城中務大夫氏朝
(うじとも)・右馬頭持朝(もちとも)父子で、幕府に反抗する関東の武士はここ結城城に集い立て籠もったので
ある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
これが結城合戦の発生であるが、永享の乱よりも遥かに大規模な兵乱となり、幕府軍は城の攻略に難渋する
事になる。その籠城戦はおよそ1年にも及び、結城城が当時の戦術ではなかなか落とせない堅城だった様子を
物語る。1441年(嘉吉元年)4月16日に落城。氏朝・持朝父子は戦死、春王丸・安王丸兄弟は俘虜の身となった
上で斬殺。幼い兄弟を政争の露と消した結城合戦は、勝者である筈の義教の冷酷さを際立たせる結果となり
同年6月24日、今度は義教自身が暗殺される憂き目を見る事になるが、兎にも角にも結城城は室町中期での
実戦城郭として日本中にその名を轟かせたのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

“室町流”の作り、戦国争乱を懸命に乗り切る■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の所在地は結城市街地の北端部、つまり台地先端を利用した崖端城としての体裁を持つ。■■■■■■
結城城の北側〜東側にかけて比高差5m程度の切岸となっており(写真)、逆に陸続きとなる南側〜西側には
堀を掘削して防備を固めている。現状ではこの敷地内がさらに多重の堀で分割されており、館(たて、主郭)を
北東隅部に置いて西館(U郭)・中城・東館など大きく5つほどの曲輪群が構成されていたようであるが、結城
合戦時にはどの程度の縄張であったかは分からない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
結城城の曲輪群は主郭の求心性に乏しく見え、いわゆる「群郭式」の縄張りに近いものがあり、こうした古式な
構造は創建当初に遡って確立していた可能性も無くはないだろうが、しかし戦闘が先鋭化する戦国時代でも
ないので、室町時代の城がそこまで大規模な構えだったとは考え難い。さりとて、鎌倉以来の単郭方形居館に
比べれば立地も構造も遥かに進歩したもので、幕府軍の攻勢を跳ね除けたというのも納得である。特に切岸で
守られた北側〜東側については、崖下は流入する田川(下総・下野国境を成す川)の流れを利用した泥湿地と
なっていた筈なので、騎馬武者の突撃など不可能だったに違いない。現在、曲輪群を隔てる堀は殆んどが宅地
造成によって埋められ結城城の全体像を把握するのは困難であるが、これら切岸近辺はかなり良好に遺構が
残されており、城跡を見学する際は最大の見所になる事でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■

復興直後から下剋上、波乱万丈な結城氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて結城氏は合戦後に一時断絶するも、復興した鎌倉公方家により再興を果たしている。しかし時代は泥沼の
戦国時代へと移行していき、結城氏も周辺諸勢力との攻防に揉まれながら生き残りの道を模索するようになる。
結城合戦から5年後に結城家を復活させた13代・中務大輔成朝(しげとも、氏朝の4男)は、鎌倉公方改め古河
(こが)公方(鎌倉から下総国古河(茨城県古河市)へ遷移)・足利左馬頭成氏(しげうじ)に従って転戦し、獅子
奮迅の活躍を見せるものの、1462年(寛正3年)12月29日に結城城内で家臣の多賀谷和泉守高経に暗殺されて
しまう。成氏と成朝の間に微妙なすれ違いが生じ、そこに突け込んだ高経が結城氏の家勢を乗っ取ろうと行った
下克上であった。これでいったん結城氏は衰退するが、結城氏15代・左衛門尉政朝(まさとも)は親族衆である
山川氏や近隣豪族である水谷(みずのや)氏、多賀谷氏の再編に成功、結城氏を戦国大名化させた上で3男・
六郎高朝(たかとも)を小山氏の養子に送り込んで後顧の憂いを絶った。■■■■■■■■■■■■■■■
多賀谷氏はなお時宜により結城氏への反抗を企図したが、政朝の子である16代・左衛門督政勝(まさかつ)は
1537年(天文6年)1月に小田城(茨城県つくば市)の小田左近衛中将政治(おだまさはる)が多賀谷下総守家重
(いえしげ)と謀って結城城を攻めた折、これを撃退して武威を示してござる。この戦いで結城勢は小田・多賀谷
軍の首級を300も挙げたという。さらに、1539年(天文8年)には烏山城(栃木県那須烏山市)の那須壱岐守政資
(なすまさすけ)・修理大夫高資(たかすけ)と宇都宮城(栃木県宇都宮市)の宇都宮下野守尚綱(ひさつな)が
連合して結城城を攻めるも、これまた撃退している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
政勝は1555年(弘治元年)有名な分国法である「結城氏新法度」を制定、国内統制も強固なものとした。1556年
(弘治2年)4月、小田讃岐守氏治(うじはる、政治の後嗣)が結城城へ攻める様子を見せたため、政勝は水谷・
山川・多賀谷らの軍を結集させ先んじて攻撃、逆に小田城を攻め落とす功績も挙げた。されども政勝は嫡子に
恵まれぬまま1559年(永禄2年)8月1日に急死。高朝の子である七郎晴朝(はるとも)が結城家に入り17代目を
継承した。政勝急逝の報に触れた小田氏治はなおも結城城攻撃を図るが、これまた家臣団を束ねた左衛門督
晴朝が撃退してござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

戦国乱世、四方八方から叩かれる結城氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この晴朝の時代、南の小田原後北条氏・北の越後上杉氏・東の常陸佐竹氏という大勢力に挟まれ、北関東の
戦国史は激変する。それまで結城氏は後北条氏との友好関係を保っていたが1560年(永禄3年)1月、またもや
小田・多賀谷・宇都宮に佐竹を加えた反北条連合が結城城を攻め立てた。この時は落城寸前に和議となるが
同年は上杉氏も関東へ出兵し反北条の争乱に拍車がかかり、結城晴朝は山川・水谷・多賀谷それに実家の
小山といった面々が上杉軍に同調したので、これに従っている。ところが上杉軍が後北条氏の本拠・小田原城
(神奈川県小田原市)を落とせぬまま越後に引き上げると、晴朝は再び北条方へなびいた。1563年(永禄6年)
後北条方に鞍替えした小山氏を上杉軍が攻撃、結城軍は小山氏の援軍に回るが敵わず、小山・結城両氏とも
上杉に降伏した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
翌1564年(永禄7年)上杉の軍勢が撤収すると今度は後北条軍が襲来し、晴朝は城を開いて恭順してまたもや
後北条方へと路線変更。1565年にも上杉軍が来攻するとそれに従い、撤兵すると後北条方に戻るという事の
繰り返しである。1574年(天正2年)晴朝は北条氏の命令によって小山氏の攻略を引き受けたが、その一方で
反北条連合への誼も通じており宇都宮氏から養子の七郎朝勝(ともかつ)を貰い受け、自身の妹を佐竹氏に
嫁がせている。ここに宇都宮・結城・佐竹の3者連合が成立したのであり、結城城は北関東における政・戦の
中心地となっていた様子が良く分かる。詰まる所、北進する後北条氏の最前線にして、越後の上杉氏と常陸
佐竹氏を結びつける中間点、すなわち関東争乱のド真ん中に立たされていたのがこの結城城であり、舵取りに
苦労する晴朝が八方美人に諸勢力を渡り歩いたのも致し方ない事だったと言えよう。■■■■■■■■■■

家康2男が家督を継ぎ越前へ去る■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そんな状況が一変したのが1590年(天正18年)の事。天下統一に王手をかけた豊臣秀吉は小田原後北条氏を
最後の敵と定め、全国の諸大名に参陣を命じた。結城晴朝もこれに従った事で所領安堵を受けた上、秀吉に
養子の斡旋を求めた。地方領主に過ぎない宇都宮氏出身の朝勝より、中央政権を握った豊臣の縁者を迎え
入れ、結城氏の基盤をより強固に固めようという策である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この為、朝勝は廃嫡され秀吉の猶子だった三河守秀康が結城家に入る。言わずもがな、秀康は徳川家康の
2男でござる。斯くして結城城は徳川氏縁者の城となる訳だが、この秀康は1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦時、
会津中納言上杉景勝を牽制する関東留守居役を勤め、戦後の1601年、その功績から越前国北ノ庄(福井県
福井市)67万石へと移封された。従前、結城家領は11万1000石だったと言われるので56万石もの大幅加増で
ござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、これにより4世紀に渡る結城氏による結城城主継承は終わりを告げ、この地は幕府の直轄領となる。
城は廃され、結城の高い養蚕技術は全国各地の天領に伝播されたと言う。■■■■■■■■■■■■■■

水野家は陣屋程度の利用、そして最後の攻防戦■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
それからおよそ1世紀後の1700年(元禄13年)能登国西谷(にしやち、石川県七尾市)1万石から3000石の加増
転封で水野隠岐守勝長が結城へ入部。1703年(元禄16年)には更に5000石加増の1万8000石となり、同時に
城の再建が幕府から許可されている。これにより結城城が再興され、以後版籍奉還まで水野氏11代の居城と
なっている。先にも記した通り、結城城の縄張りは戦国時代の縄張りとは言えない旧態然としたものとして引き
継がれており、江戸期の再興城郭としてもそれに手を加えた様子が見受けられぬ事から、恐らくは陣屋程度の
構えを旧城跡地に置いた程度のものだったのではなかろうか。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
水野氏は勝長の後、摂津守勝政―日向守勝庸(かつのぶ)―摂津守勝前(かつちか)―日向守勝起(かつおき)
―摂津守勝剛(かつかた)―摂津守勝愛(かつざね)―日向守勝進(かつゆき)―日向守勝任(かつとう)―日向守
勝知(かつとも)―勝寛(かつひろ)と代を継いでいるが、幕末に佐幕派だった勝知は藩内の新政府派と対立し、
1868年(明治元年)結城城を占拠する。これに対して新政府派が擁立したのが勝寛(勝進の2男)であり、結城
城もまた新政府軍によって同年4月に攻め落とされている。尤も、戊辰戦争における結城城攻防戦が取り沙汰
される事は少なく、陣屋造りの簡素な城郭であった為、特筆するほどの戦闘は無かったと推測できよう。■■■
勝寛は1869年(明治2年)2月24日、正式に藩主となるが新政府から1000石減封され(勝知の佐幕派参戦の為)
石高は1万7000石になっている。また、攻防戦により結城城は廃城となり申した。■■■■■■■■■■■■
以来、城跡は農地や宅地へ変貌。1965年(昭和40年)には結城市の浄水場も置かれており、城としての名残を
見つけるのは難しい。それでもかろうじて、部分的に堀跡や切岸が垣間見えるものの、「城跡歴史公園」の名で
児童公園になっているのが現状でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1964年(昭和39年)9月1日、結城市指定史跡となっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域内は市指定史跡




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