下総国 山川氏館

山川氏館跡土塁

所在地:茨城県結城市上山川

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★■■■
公園整備度:☆■■■■



結城市上山川、上山川小学校の南側にある曹洞宗東持寺境内が城跡。廃城後、風化や
人為的な破壊工作が行われる前に寺の敷地となった為、四周を廻る土塁と堀が綺麗に残る。
この土塁(写真)は東西約148m×南北約195mという長方形を成し、鎌倉時代以降の典型的な
武家方形居館の体裁を採ってござる。東持寺の南面と西面にそれぞれ出入口が開く様子は
恐らく往時からの虎口(大手と搦手)を踏襲しているのだろう。南口から真っ直ぐ延びる道は
かつての馬場だったと推定されている。また、土塁基底部の幅はおよそ12m、高さは2mを数え
これも城館時代からの遺構をそのまま現在に残したもの(無論、当時はもっと高かった)だ。
特に北東隅と北西隅は一段高くなっており、これは櫓台として使われていた可能性がある。
経年劣化でだいぶ埋もれてしまっているが、堀幅も最大部で約7m。現在、そのうちの南面は
農業用水路として流用されてござる。ただし、形態は旧態然とした単郭方形居館でしかなく、
いつまで(本当に戦国期まで?)この城が使用されていたのかは疑問が残る。
その名の通り、この居館は現地の豪族・山河氏の館として成立した。山河氏は下総の名族
結城氏から分家した家系で、結城家祖・朝光(ともみつ)の4男である五郎左衛門尉重光が
初代に立つ。山河氏は室町時代から山川に改姓しているが、宗家筋である結城氏に従い
協力関係にあった一方で半ば独立した家として動く事が多かった。15世紀後半、結城氏に
後嗣が絶えた折、山川氏から継嗣を送り込む事もあった訳だが、これは分家である山川氏が
巧みに宗家を乗っ取らんと謀った節が見受けられる。尤も、それに対する反動が起き
結城家側からの謀略でこの入嗣を排斥されてしまったようで(真相は謎だが)、以後は再び
結城氏を宗主とし山川氏が従属するという体制に戻っている。さりとて、丁度この頃から
関東は戦国時代に突入しており、山川氏は結城家中にあって半独立勢力として行動、
南から小田原後北条氏の勢力が伸張してくると、一時期結城家と山川家は後北条氏に対する
態度を異にしていた。それでも山川氏は初代の重光から15代(16代とも)朝貞(ともさだ)迄の
約4世紀この地を守り通しており、豊臣秀吉の関東平定においても所領は安堵されている。
ただし、秀吉の裁定以後は完全に結城家臣として位置付けられる事となり、讃岐守朝貞は
関ヶ原合戦後の1601年(慶長6年)、結城家の越前移封に従属している。斯くして
父祖以来の領地を離れた山川朝貞であるが、結城家の重臣として越前国吉田郡
花谷(現在の福井県福井市北西部)1万7000石の大封を得た。
さてそうなると当館の使用時期が問題となるが、創始は恐らく初代・重光によるもので
1200年代初頭(建仁年間(1201年〜1204年)か?)の事と考えられている。山川氏館の形態は
鎌倉期の武家居館を基本としているので、立地・構造ともに矛盾する話ではない。以後、
山河(山川)氏はこの館を継承していく訳だが、史料によれば14代・中務大輔駿河守氏重が
1565年(永禄8年)近隣の山川新宿に新城(山川綾戸城、山川氏館から南西3.5kmほどの位置)を
築いて移ったと伝えられる。しかし、単郭方形居館である山川氏館が1560年代まで実用に
あったと云うならばむしろ驚異的な話でござろう。結城氏は関東争乱の中心にある家で、それに
従う山川氏も数々の戦いを経験していた訳だが、それが鎌倉以来の構造を維持する館で守りを
固められたとは到底考え難いからだ。このあたりは発掘調査や史料の再検証が必要であろう。
ともあれ、山川氏移封後の当地は江戸幕府の天領とされ申した。関東郡代・伊奈備前守忠次が
統括し、その代官である伊東備前守・横田次郎兵衛らが山川氏館跡に居館を構えている。
故に、山川氏館を代官屋敷とも称する。しかし1604年(慶長9年)徳川家康の甥に当たる
久松松平越中守定綱が5000石で山川へ封じられ、さらに1609年(慶長14年)1万石を
加増(合計1万5000石)された事で大名へ昇格、山川藩が立藩した。この時、山川氏館が藩庁に
なったとする説もあるが、現状の遺構では江戸時代に入ってからの改変は見受けられない。
定綱は1616年(元和2年)下妻2万石へと加増転封、代わって水野監物忠元が3万5000石で
封じられ申した。1620年(元和6年)忠元は没し、跡を長男の忠善(ただよし)が継いでいる。
その忠善は1635年(寛永12年)1万石を加増され駿河国田中(静岡県藤枝市)に転封している。
水野時代の経緯は不明だが、横田次郎兵衛が退去して後に館の跡地は東持寺へ寄進され
(それまで東持寺は別の場所にあった)1626年(寛永3年)に寺が当地へ移転しており
以来、ここが東持寺の境内として使われ続けた訳である。
なお、水野氏転封後の山川は天領や旗本領に組み込まれ、再び大名領となる事は無かった。
それでも水野氏は大名に列せられた事を記念し山川に菩提寺を建立、移封して後も
歴代当主はここに葬られている。斯くして水野家の墓所が山川に残存しているが、その中には
江戸時代後期、幕府老中に就任し天保の改革を断行した越前守忠邦が居る。尤も、菩提寺は
幕末の火事で焼失、廃寺となったので歴代水野家の墓石だけが野晒しになっているのみ。
専制を敷いた老中の墓が放置されている様子は、諸行無常の念を抱かせる。山川氏館と共に
水野家墓所も見学するのが宜しかろう。水野家墓所は山川綾戸城跡のすぐ傍だ。
別名で山川城。上記の通り、代官屋敷の別称もある。山河重光が地頭として入った由緒から
地頭屋敷とも。土塁の残存状況が良好である事から、1964年(昭和39年)9月1日に結城市
指定史跡となっているが、その史跡名称は「中世武家屋敷跡」とされてござる。


現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域内は市指定史跡








下総国 結城朝光館

結城朝光館跡土塁

所在地:茨城県結城市結城

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★★■■■
公園整備度:☆■■■■



上記、山川氏館の項で名の出た結城氏始祖・朝光の居館跡。城ノ内(しろのうち)遺跡とも。
結城氏は“関東八屋形”の1つに数えられる下野の名門・小山氏からの分流である。詳しく記せば
小山四郎政光の3男として生まれたのが七郎朝光であり、その生母・寒河尼(さむかわのあま)は
源頼朝の乳母であった事から、朝光は頼朝から大いに引き立てられた。以来、彼は頼朝の
近習として目覚しい活躍をし、源平合戦や奥州藤原氏討伐での戦功・壇ノ浦から凱旋する
義経への使者・梶原景時弾劾・そして承久の乱参戦など鎌倉幕府草創期における重大事件に
悉く関わりを持つ。源平合戦の論功により結城郡の地頭職に任じられ、以後は結城姓を名乗り
結城氏の始祖となった訳でござる。この城館は、その朝光が築いた居館とされている。
館跡の規模は東西約178m×南北約128m、山川氏館と同じく単郭方形居館で、如何にも
鎌倉武士の館という敷地である。外周を土塁で固め、その外側には堀を構えるのも同様。
1996年(平成8年)度に発掘調査が行われ、堀の上幅が約5mもあったのに対し、底幅は僅か
40cm程度しかなく、断面がV字型になる薬研堀(やげんぼり)だった事が判明した。堀の深さは
1.8m程で、それに面した土塁の高さは1.3m程度あった為、堀底から土塁上面までは合計して
3mを越す高さを有した訳だが、狭隘な薬研堀で敵兵を絡め取りその上から弓矢を浴びせるのは
防備としてそれなりに有効だった事だろう。現在は風化によって土塁が低くなり、堀跡も
埋もれてしまってはいるが、それでも威容を忍ぶに十分な残存状態を誇っており(写真)
かつての鎌倉武家居館がどのような規模であったかを推し測る事ができ申そう。
この居館は鎌倉期を通じて結城氏が用いたようだが、室町時代になって新たに結城城(下記)が
築城された事により廃城になったと推測されている。以来、600年以上の歳月を越して
現在は結城市が管理する敷地となり、史跡整備ならびに公園としての活用が行われた。
近隣には一般民家が密接しているので見学には配慮が必要だが、このように見事な史跡が
有意義な形で開放されている事に敬意を表したい。
場所は国道50号線結城バイパスの南側、「文化センター南」交差点から200mほど
南下した地点。敷地内には立木之地蔵尊なる小さな祠が祀られており、趣きがある。
ちなみに、結城市では10月2日を「結城朝光の日」としているそうだ。1180年(治承4年)の
この日に朝光が初めて源頼朝に拝謁したからなんだとか。武家の棟梁に引き立てられ、
結城の隆盛が始まった日を記念して…嗚呼、素晴らしき郷土愛!


現存する遺構

堀・土塁・郭群








下総国 結城城

結城城跡切岸

所在地:茨城県結城市結城

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★■■■
公園整備度:★☆■■■



結城氏の城なのは言わずもがなであるが、創建の由緒として1181年(養和元年)頃に結城朝光が
築城したという通説は上記の結城朝光館と結城城を混同したものでござろう。南北朝期、又は
室町時代に入ってからの構築と考えるべきであり、史上に名が出るのは有名な結城合戦からなのも
丁度その前に築かれたからなのではなかろうか。さてその結城合戦について記すと、室町幕府の
東国統治機関の長であった鎌倉公方(足利将軍家の分家)は常々本家である京都の将軍家に
取って代わろうという野心に燃え、第4代鎌倉公方の持氏(もちうじ)は遂に1438年(永享10年)
幕府方と合戦するに及んだ。これを永享の乱と言うが、圧倒的大軍で返り討ちにした幕府軍に
敵わず翌1439年(永享11年)2月10日に持氏は敗死してござる。ところが強権の6代将軍
足利義教(よしのり)の専制を嫌った関東の武士らは持氏の遺児であった春王丸・安王丸兄弟を
奉戴し、1440年(永享12年)3月に挙兵したのだった。春王丸・安王丸を匿いこの乱を主導したのが
時の結城氏当主である結城氏朝・持朝父子で、幕府に反抗する関東の兵はここ結城城に集い
立て籠もったのである。これが結城合戦の発生であるが、永享の乱よりも遥かに大規模な
兵乱となり、幕府軍は城の攻略に難渋する事になる。この籠城戦はおよそ1年にも及び、
結城城が当時の戦術ではなかなか落とせない堅城だった様子を物語る。1441年(嘉吉元年)
4月16日に落城、氏朝・持朝父子は戦死し春王丸・安王丸兄弟は俘虜の身となった上で斬殺。
幼い兄弟を政争の露と消した結城合戦は、勝者である筈の義教の冷酷さを際立たせる結果となり
同年6月24日、今度は義教自身が暗殺される憂き目を見る事になるが、兎にも角にも結城城は
室町中期における実戦城郭として日本中にその名を轟かせたのでござった。
城の所在地は結城市街地の北端部、つまり台地先端を利用した崖端城としての体裁を持つ。
結城城の北側〜東側にかけて比高差5m程度の切岸となっており(写真)逆に陸続きとなる
南側〜西側には堀を掘削して防備を固めている。現状ではこの敷地内がさらに多重の堀で
分割されており、館(たて、主郭)を北東隅部にして西館(U郭)・中城・東館など大きく5つほどの
曲輪群が構成されていたようだが、結城合戦時にはどの程度の縄張であったかは分からない。
結城城の曲輪群は主郭の求心性に乏しく、いわゆる「群郭式」の縄張に近いものがあり
こうした古式な構造は創建当初に遡って確立していた可能性も無くはないだろうが、しかし
戦闘が先鋭化する戦国時代でもないので、室町時代の城がそこまで大規模な構えだったとは
考え難い。さりとて、鎌倉以来の単郭方形居館に比べれば立地も構造も遥かに進歩したもので
幕府軍の攻勢を跳ね除けたというのも納得。特に切岸で守られた北側〜東側については
崖下は流入する田川の流れを利用した泥湿地となっていた筈なので、騎馬武者の突撃など
不可能だったに違いない。現在、曲輪群を隔てる堀は殆どが宅地化によって埋められ
結城城の全体像を把握するのは困難であるが、これらの切岸近辺はかなり良好に
遺構が残されており、城跡を見学する際は最大の見所になる事でござろう。
さて結城氏は合戦後に一時断絶するも、復興した鎌倉公方家により再興を果たしている。
しかし時代は泥沼の戦国時代へと移行していき、結城氏も周辺諸勢力との攻防に揉まれ
生き残りの道を模索するようになる。結城氏を復活させた13代・成朝(しげとも、氏朝の4男)は
鎌倉公方改め古河公方(鎌倉から下総国古河(茨城県古河市)へ遷移)・足利成氏(しげうじ)に
従って転戦、獅子奮迅の活躍を見せるが1462年(寛正3年)12月29日に結城城内で家臣の多賀谷
和泉守高経に暗殺されてしまう。成氏と成朝の間に微妙なすれ違いが生じ、そこに突け込んだ
高経が結城氏の家勢を乗っ取ろうと行った下克上であった。これでいったん結城氏は衰退するも
結城氏15代・政朝(まさとも)は親族衆である山川氏や近隣豪族である水谷(みずのや)氏、
多賀谷氏の再編に成功、結城氏を戦国大名化させた上で3男・高朝(たかとも)を小山氏の養子に
送り込んで後顧の憂いを絶った。多賀谷氏はなおも時宜により結城氏への反抗を企図したが、
政朝の子である16代・政勝(まさかつ)は1537年(天文6年)1月に小田城(茨城県つくば市)の
小田政治が多賀谷家重と謀って結城城を攻めた折、これを撃退して武威を示してござる。
この戦いで結城勢は小田・多賀谷軍の首級を300も挙げたという。1539年(天文8年)には
烏山城(栃木県那須烏山市)の那須政資・高資と宇都宮城(栃木県宇都宮市)の宇都宮尚綱が
連合して結城城を攻めるも、これまた撃退している。政勝は1555年(弘治元年)有名な
分国法である「結城氏新法度」を制定、国内統制も強固なものとした。1556年(弘治2年)4月
小田氏治(政治の後嗣)が結城城へ攻める様子を見せた為、政勝は水谷・山川・多賀谷らの
軍を結集させ先んじて攻撃、逆に小田城を攻め落とす功績も挙げ申した。しかし政勝は
嫡子に恵まれぬまま1559年(永禄2年)8月1日に急死。高朝の子である晴朝(はるとも)が
結城家に入り17代を継承した。政勝急逝の報に触れた小田氏治はなおも結城城攻撃を図るが
これまた家臣団を糾合した晴朝が撃退してござる。
この晴朝の時代、南の小田原後北条氏・北の越後上杉氏・東の常陸佐竹氏という大勢力に挟まれ
関東の戦国史は激変する。それまで結城氏は後北条氏との友好関係を保っていたが
1560年(永禄3年)1月、またも小田・多賀谷・宇都宮に佐竹を加えた反北条連合が結城城を
攻め立てた。この時は落城寸前に和議と相成ったが、同年は上杉氏も関東へ出兵し反北条の
争乱に拍車がかかり、結城晴朝は山川・水谷・多賀谷それに実家の小山といった面々が
上杉軍に同調した為、これに従っている。ところが上杉軍が小田原城を落とせぬまま越後に
引き上げると、晴朝は再び北条方へなびく。1563年(永禄6年)北条に鞍替えした小山氏を
上杉軍が攻撃、結城軍は小山氏の援軍に回るが敵わず、小山・結城両氏とも上杉に降伏した。
翌1564年(永禄7年)、上杉軍が撤収すると今度は北条軍が襲来、晴朝は城を開いて恭順し
またもや北条方へと路線変更。1565年にも上杉軍が来攻するとそれに従い、撤兵すると
北条方になびくという事の繰り返しである。1574年(天正2年)晴朝は北条氏の命令によって
小山氏の攻略を引き受けたが、その一方で反北条連合への誼も通じており宇都宮氏から養子の
朝勝(ともかつ)を貰い受け、自身の妹を佐竹氏に嫁がせている。ここに宇都宮・結城・佐竹の
3者連合が成立したのであり、結城城は北関東における政戦の中心地となっていた様子が
良く分かる。詰まる所、北進する北条氏の最前線にして越後上杉氏と常陸佐竹氏を結びつける
中間点、即ち関東争乱のド真ん中に立たされていたのがこの結城城であり、舵取りに苦労する
晴朝が八方美人に諸勢力を渡り歩いたのも致し方ない事だったと言えよう。
そんな状況が一変したのが1590年(天正18年)である。天下統一に王手をかけた豊臣秀吉は
小田原後北条氏を最後の敵と定め、全国の諸大名に参陣を命じた。結城晴朝もこれに従い、
所領安堵を受けた上、秀吉に養子の斡旋を求めた。地方領主に過ぎない宇都宮氏出身の朝勝より
中央政権を握った豊臣縁者を迎え入れ、結城氏の基盤をより強固に固めようという策である。
この為、朝勝は廃嫡されて秀吉の猶子であった秀康が結城家に入る。言わずもがな、秀康は
徳川家康の2男でござる。斯くして結城城は徳川氏縁者の城となる訳だが、この秀康は
1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦時、会津の上杉景勝を牽制する関東留守居役を勤め、
戦後の1601年、その功績から越前国北ノ庄(福井県福井市)67万石へと移封された。
従前、結城家領は11万1000石だったと言われるので56万石もの大幅加増でござった。
ともあれ、これにより4世紀に渡る結城氏による結城城主継承は終わりを告げ、この地は幕府の
直轄領とされ申した。城は廃され、結城の高い養蚕技術は全国各地の天領に伝播されたと言う。
それからおよそ1世紀後の1700年(元禄13年)能登国西谷(にしやち、石川県七尾市)1万石から
3000石の加増転封で水野隠岐守勝長が結城へ入部。1703年(元禄16年)には更に5000石加増の
1万8000石となり、同時に城の再建が幕府から許可されてござる。これにより結城城が
再興され、以後版籍奉還まで水野氏11代の居城となっている。先にも記した通り、
結城城の縄張は戦国期の縄張とは言えない旧態然としたものとして引き継がれており
江戸期の再興城郭としてもそれに手を加えた様子が見受けられない事から、恐らくは
陣屋程度の構えを旧城跡地に置いた程度のものだったのではなかろうか。水野氏は勝長の後、
摂津守勝政―日向守勝庸(かつのぶ)―摂津守勝前(かつちか)―日向守勝起(かつおき)
摂津守勝剛(かつかた)―摂津守勝愛(かつざね)―日向守勝進(かつゆき)―日向守
勝任(かつとう)―日向守勝知(かつとも)―勝寛(かつひろ)と代を継いでいるが、幕末に
佐幕派であった勝知は、藩内の新政府派と対立し1868年(明治元年)結城城を占拠する。
これに対して新政府派が擁立したのが勝寛であり、結城城もまた新政府軍によって同年4月
攻め落とされている。尤も、戊辰戦争における結城城攻防戦が取り沙汰される事は少なく、
陣屋造りの簡素な城郭であった為、特筆するほどの戦闘は無かったと推測できよう。
勝寛は1869年(明治2年)2月24日、正式に藩主となったが新政府から1000石減封され
石高は1万7000石になってござる。また、攻防戦により結城城は廃城となり申した。
以来、城跡は農地や宅地へと変貌。1965年(昭和40年)には結城市の浄水場も置かれており
城としての名残を見つけるのは難しい。それでもかろうじて、部分的に堀跡や切岸が
垣間見えるものの、「城跡歴史公園」の名で児童公園になっているのが現状でござる。
1964年(昭和39年)9月1日、結城市指定史跡。


現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域内は市指定史跡




守谷城・牛久市内諸城郭  下館城・伊佐城