下総国 守谷城

守谷城跡 大空堀

所在地:茨城県守谷市本町
(旧 茨城県北相馬郡守谷町本町)

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★■■
公園整備度:★★■■■



“守谷”という地名の由来は、神話の時代に日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征した折この地を通り、
鬱蒼とした森が果てしなく広がっているのを見て「森なる哉(かな)」と発言、これが音読されて“もりや”に
なったとする説がある。一方、平安期に坂東で新皇を称した平将門が“丘高く谷深くして守るに易き地”と
してここに築城、“守るに易き谷”つまり“守谷”であるとする説もある。即ち守谷城は将門が築いた王城を
その起源とする伝説が永らく信じられ、江戸末期の書「利根川図志」に「平将門舊(旧)址」として記述され
“めくるめく許りの深き塹”のある城と紹介されている。無論、日本武尊の東征も、将門の「相馬の偽都」も
どちらも伝承に過ぎず(将門の王都は他にも候補地が幾つもある)現在では全く否定されている説だ。
では守谷城の由緒はどこにありや?と言えば、下総国相馬御厨を統べた下総相馬氏の手に拠るもので
ござる。総州の名族・千葉氏の分流である相馬氏は、鎌倉時代に総領権を巡り2派に分かれ、その内の
宗家筋と幕府から決せられた流れが下総相馬氏となり、この地に根付いた。ちなみに、敗れたもう1家は
相馬氏の別領地であった陸奥(磐城)国小高(おだか、現在の福島県南相馬市)に移住した。相馬氏と
言えばむしろこちらの方が有名で、明治維新まで家を永らえた中村相馬氏となる。だが、あくまで宗家は
下総相馬氏の方なのだ。
話を守谷城に戻すと、下総相馬氏の拠点として用いられた城だが創建時期は分からない。鎌倉期以来と
見る向きもあるようだが、現状の遺構は戦国時代以降のものである。相馬氏が守谷近辺を領有したのは
室町時代、応永年間(1394年〜1428年)頃とする説がある為、それ以後と考えるのが妥当であろうか?
守谷城の城域は広大な範囲に亘っているが、創築当初の城は所謂「守谷本城」と呼ばれる部分とされ、
現在は守谷城址公園とされている地区の中にある「平台山」なる丘陵地がそうだった。1525年(大永5年)
11月の「足利高基書状」の中に「相守因幡守(相馬守谷因幡守の意)」との記載があるため、この頃には
相馬氏の居城となっていた事が推測される。また、「関八州古戦録」にも1537年(天文6年)守谷を本拠と
する相馬氏についての記載があり、守谷本城がこの頃の城郭である事は確実でござろう。
尤も、現地案内板によれば守谷本城について、大別すれば6つの主要曲輪を持ち、附属する帯曲輪など
小曲輪が多数、桝形虎口や橋跡・櫓台などの遺構が検出されたとあり、こうした高度な縄張は戦国末期
あるいは江戸時代に入ってからも守谷本城が整備拡張された様子を窺わせている。また、発掘調査の
出土品として瀬戸・美濃などの茶碗をはじめとする陶磁器類のほか、小刀・古銭・煙管(キセル)それに
鉄砲玉が検出されている。鉄砲玉が出ると言う事は戦国期の中でも特に後期、実戦に即した城郭として
用いられた証である。更に曲輪内では9棟もの掘立柱建物を確認。これは倉庫と考えられていて、数次の
建て替えが為された可能性が高く、これまた戦国末期まで継続的に「守谷本城」が運用された事になる。
さて、下総相馬氏をめぐる情勢は緊迫したものであった。南の小田原からは新進気鋭の戦国大名である
後北条氏が迫り、北には室町体制の宗主・古河公方の足利氏が君臨。その先には常陸の佐竹氏、越後
長尾(上杉)氏らといった強豪がひしめく中、自主独立を模索する相馬氏は難しい舵取りが要求されて
いたのだ。守谷本城が記録に出るようになる頃、相馬氏の当主は上総介胤晴(たねはる)なる者だった
ようで、この胤晴は上記した「相守因幡守」こと因幡守胤広(たねひろ)の孫に当たる。胤晴は古河公方に
属して後北条氏に対抗していたのであるが、1546年(天文15年)の4月20日に発生した河越(川越)夜戦
(後北条氏の河越城(埼玉県川越市)を古河公方連合軍が包囲した戦い)で戦死してしまった。この為、
胤晴の嫡子・下総守整胤(まさたね)が跡継ぎとなるが、当時まだ整胤は僅か3歳。実権を握ったのは
庶流の左近大夫治胤(はるたね)であった。結果、相馬家中は整胤派と治胤派が対立するようになる。
同じく古河公方家でも家中が2分、後北条氏に屈した義氏(よしうじ)が家督を継ぐも、藤氏(ふじうじ)が
対抗し反後北条方になっていたのである。このような情勢下、古河公方の家宰である実力者・簗田晴助
(やなだはるすけ)は藤氏を支持して反後北条の色を鮮明にした。これには越後長尾氏が後ろ盾となって
いた事が影響しており、相馬家でも整胤が与する。この頃、長尾氏は関東まで遠征し後北条氏の押さえ
込みに奔走しており、その軍事力を頼りとした策でござった。ところが数年を経ると長尾改め上杉氏の
関東遠征は影響力を弱めていく。藤氏は討たれ、晴助が独力で後北条氏に対処するようになっていた。
1566年(永禄9年)勢力挽回を狙う治胤は晴助に近づき密約を結び整胤を暗殺。これにより下総相馬家の
家督は治胤のものになり申した。しかし時流は後北条氏に優位、すぐさま治胤は後北条氏と結び晴助に
対抗し始める。簗田・後北条の間を渡歩く治胤は、逆に両者にとっても都合の良い橋渡役となったようで
1567年(永禄10年)5月、簗田・後北条間で結ばれた和議の約定で、守谷城は足利義氏の御座所として
使われ、その上で晴助が義氏の家宰として復帰、最終的に守谷城を晴助に割譲する旨が決められた。
もはや後北条氏の影響力に逆らえない治胤はこの約定に従い後北条氏に守谷城を明け渡す。同年7月
後北条方の使者が城を受取り、その月の27日には義氏の傍衆らも入城し、翌月に義氏自身が守谷城へ
入ると通達されている。ところが義氏は守谷城は狭く防備も心許ないと申し立て、城に入るのを躊躇った
らしい。この為、1568年(永禄11年)5月から後北条氏の手で守谷城は拡張された。これが「守谷本城」に
対する新城、いわゆる「城内」部分である。近世城郭となった際に「守谷本城」が本丸・二ノ丸となり、
「城内」は三ノ丸とされた事からわかるように、つまりこの部分は傾斜地ではなく開けた平地を利用した
曲輪なのだが、即ち大兵力の駐屯地や居館部分として用いられるようになった敷地でござる。
後北条氏は守谷城を古河公方御所として相応しい城…というより、自軍の根拠地として活用できる城に
改造した訳である。丁度この頃になると簗田・後北条の和議は破約となり、義氏が守谷城に入る事も、
晴助に接収される事もなくなった。以後、治胤は後北条氏の一部将として“他国衆”へと組み込まれ、
その後北条氏が1590年(天正18年)豊臣秀吉により滅ぼされると歴史の表舞台からも消えていく。
ちなみに小田原征伐の折、守谷城は5月に浅野長政軍が攻め落としている。
さて、後北条氏滅亡後の関東地方は大半が徳川家康の支配地となった。守谷城には家康配下の菅沼
藤蔵が甲斐国巨摩郡切石(現在の山梨県南巨摩郡身延町)1万石から入部する。石高は同じく1万石。
藤蔵は菅沼氏に養子入りする前、美濃明智氏(明智光秀の一族)に生まれた人物で、武勇を賞賛され
1593年(文禄2年)秀吉から山城守に叙せられた上、明智氏の太祖・土岐氏の家名を許された。こうして
土岐山城守定政と名乗るようになる。
定政は守谷の町造りに尽力、中世農村から近世城下町への改変を為していく。彼が病没した後、嫡子
山城守定義(さだよし、定政2男)が事業を継承。元和偃武の後、1617年(元和3年)に土岐家は摂津国
高槻(大阪府高槻市)2万石へ加増転封、一時的に守谷領は天領化し岡登甚右衛門と浅井八右衛門が
代官になるが、1619年(元和5年)高槻で定義が没し後嗣の頼行(よりゆき)は12歳で家督継承、幼年を
理由に幕府から減封され1万石で再び土岐家が守谷城主に戻された。その頼行は1628年(寛永5年)
2月10日、1万5000石を加増されて出羽国上山(かみのやま、山形県上山市)へ転封する。
またも守谷は天領とされ伊丹播磨守が代官として入るものの、1642年(寛永19年)堀田加賀守正盛が
13万石で佐倉城(千葉県佐倉市)主になった時、その領地に組み込まれ申した。その後、正盛の3男
備中守正俊へ1万3000石が分知された事により守谷領は独立しているが、正俊が守谷城を用いる事は
なかった。
1660年(万治3年)正俊は上野国安中(群馬県安中市)2万石へ加増転封、代わって酒井雅楽頭忠挙
(ただたか)に守谷領が与えられている。酒井時代には再び城下の振興が行われたようだが、1681年
(延宝9年)2月27日、忠挙の父・忠清が隠居し、その所領を相続した事で守谷から離れた。その後の
守谷は関宿藩(千葉県野田市)久世家の領地に組み入れられ、守谷城は完全に廃城とされた。
城が消えた事により、城下も含めて山林に戻り、近代では農地化・宅地化されていった。
現在では「守谷本城」は上記の通り公園に、「城内」は守谷小学校とその周辺宅地になっている。
既に記した「守谷本城」は、平台山の周囲をかつては大きな湖沼が囲って「城内」側に面した南西隅
だけが陸続きになっていた敷地。平台山内を区画した曲輪間は大きく掘り込まれた堀で分断されて
いるが(写真)、これだけの規模を草創期の下総相馬氏が独力で構築したとは考え難い。後北条氏
統治後、或いは近世城郭化されてからも拡張整備が行われ(横矢が多数掛かる)このような大堀が
作られたと推測する。冒頭に記した「利根川図志」にある“めくるめく許りの深き塹”とは、この大堀を
指しての記述でござろう。厳重な備えで固められた平台山は、天険の水城として機能するのみならず
人の手によっても開発された堅城だった。兎にも角にも、この堀跡を仰ぎ見るのは圧巻の一言だ。
なお、水城として舟入(船着場)も完備。主郭裏手(北側)にあったそれは沼地を経て小貝川に接続。
小貝川は守谷城の直近を流れる川だが、そこから更に当時の鬼怒川水系へも至る川船航路を形成
していた。現在も守谷の東には牛久沼、南に手賀沼があるが、往時の守谷城を囲む湖沼も相当な
規模があったと推測され、周辺一帯は水系による交通が一般的であった。今でも平台山の裏手を
眺めれば湿地帯の名残である草原が広がっており、ここにもっと水が入っていれば、相当な堅城を
成していたと容易に想像できる。
一方「城内」は近世城郭としての主要部に用いられ、約30万uもの広大な敷地を有した。足利義氏が
「狭い」とした事から拡張された部分で、もし仮に約定通り古河公方が入り後北条氏が北関東安定の
統治拠点として重用したなら、戦国関東の勢力地図は守谷城を中心にしたものへと変わっていたかも
しれない曲輪だ。それだけに、近世の守谷城…つまり「城内」部分は要害性よりも兵站・統治に主眼を
置いた作りになっていた。城内敷地もいくつかの曲輪に分割されていたようだが、それらは主に土塁で
区画する構造で、本城のように巨大な堀を穿つような事はしていない。統治拠点としての平城として
用いた故、そうするのは却って不便だったのだろう。何より、戦時拠点としての本城があるのだから
根古谷・詰城としての区分をすれば十分だったようだ。よって、城内には恐らく倉庫・厩舎や長屋群で
あろう多数の建築物が並び、発掘調査では26棟を検出している。それに付随して井戸・食料庫・墓地
等の生活痕、さらには製鉄加工所も発見され、城内部分が武士の職住環境になっていた事が裏付け
られている。周辺一帯を含めて守谷城の備えを成し、重臣屋敷なども並んでいた。しかし残念ながら
平城の宿命か現在では殆どが近代開発に消え去り、ごく部分的に土塁が残るのみでござる。
城跡としての見学は、城内曲輪群を見る方をオススメする。駐車場も、城址公園の北側に用意されて
おり、平台山へ至るのは簡単でござろう。逆に城内側は駐車余地なし。
別名は城主の経歴から相馬城。1973年(昭和48年)9月8日、守谷町(当時)指定史跡に。


現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域内は市指定史跡








常陸国 岡見城

岡見城址碑

所在地:茨城県牛久市岡見町

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★★■■■
公園整備度:★■■■■



中世において牛久周辺に拠点を構えた岡見氏の城。来歴は不詳であるが、恐らく南北朝期〜戦国期に
用いられたと考えられている。岡見氏の起こりは南常陸の名族・小田氏からの分流とされ、諸説あるが
南北朝時代に生きた小田常陸介治久の2男・邦知(知宗とも)が岡見に封を得た事から発祥したとか。
(或いは在地豪族として元々岡見氏を名乗る家系があり、そこに邦知が婿入りしたとも考えられている)
時代が下るにつれ、岡見氏の中でも諸家に分かれて対立参集を繰り返していたようだが、その動向は
主家である小田氏に概ね従属する関係にあって、戦国末期に小田原後北条氏がこの地域まで勢力を
拡大してくると小田氏に追随する形で岡見氏もその支配下へと入ったようである。また、こうした渦中に
おいて岡見氏の本拠は牛久城(下記)へと移り、岡見城はその支城という扱いに変わっていった。
その結果、岡見氏は後北条氏(小田氏)の敵対勢力である佐竹氏や土岐氏などと戦いを繰り返す事に
なったが、1590年に後北条氏が豊臣秀吉の討伐を受け滅亡すると岡見一族も歴史の表舞台から消え
岡見城は廃城となり申した。
岡見城跡は国道408号線と茨城県道48号線の交差点、その名も「岡見」交差点の南側一帯。写真の
城址碑が置かれた場所は岡見城の「本殿」と呼ばれる曲輪で、岡見交差点から西南西へ450mほど
行った所に当たる、方形居館のような構造を成す地点。ところが岡見城はこの場所だけに留まらず、
そこから東へと実に1.3kmの広範囲に渡って遺構が点在している。先程「岡見交差点の『南側一帯』」と
漠然とした記述をしたのはこの為で、「本殿」と谷戸を挟んだ東側の隆起台地には「西殿」と呼ばれる
曲輪遺構を有し、更に谷筋を越えた先に「八幡山」の土塁・堀の残欠が。県道48号線(新道)の先には
「物見台(南殿)」とされる遺構があるとされる。しかしこれらの敷地に一体性は無く、まるでバラバラな
別々の曲輪を造成したに過ぎない様相なのでござれば、ただ1.3kmの長大な場所に“意図せず”偶然
曲輪を並べてしまった(当然、築城主や時期は別々)と言う結果がこうなったのではなかろうか。
遺構としては土塁・堀・曲輪跡などが散見されるが、どれも藪の中なので見学は少々難儀する。また、
敷地一帯は私有地なので不法侵入にならないよう配慮すべし。


現存する遺構

堀・土塁・郭群








常陸国 小坂城

小坂城址碑

所在地:茨城県牛久市小坂町

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★★★■■
公園整備度:★★★■■



「小坂」は「おさか」と読む。牛久市のほぼ中央(市域の“くびれた”部分)、小坂団地の東側にある山林が
城跡。城の築かれた小高い山(丘)は愛宕山と呼ばれており、これは城内に愛宕神社を祀っていた事に
拠るが、この愛宕神社の遺物である石塔祠は昭和期に近隣の熊野神社へと移されている。
この城も岡見氏の城で、詳細は不明であるが恐らく戦国中期、天文年間(1532年〜1555年)の創建だと
考えられ、直後に牛久城が築かれた事から本拠がそちらへ移ったとの説がある一方、小坂城の構築は
それよりもっと下った永禄年間(1558年〜1570年)とする説もある。天文期築城説では岡見弾正忠治資が
作った城だとも伝承されてござるが、果たして真偽の程は?以後の記録としては、小田家中の一門衆や
家臣の名前と禄高を記録した「小田家風記」の中に「岡見備中守」の名があり、これが小坂城主であった
者と考えられている。室町時代の史料にある河内(かっち)郡岡見郷(現在の牛久市岡見町)に居住した
「南殿三郎朝義(みなみどのともよし)」なる者が岡見氏の遠祖とされると小坂城の現地案内板にて解説
されているが、上記の岡見城にある「南殿」曲輪との関連性から推測すると、諸家ある岡見氏の中でも
岡見城の南殿に居住していた一族が後に小坂城を築いて独立したと言う事なのか?だとすればやはり
岡見城にあるそれぞれの曲輪は一体化したものではなく岡見氏の各家が別々に居を構えていただけの
構造に過ぎなかったのではないかと…?まぁ、この項は小坂城の解説なのでその話は置いておくとして
南を流れる小野川の対岸にあった泉城(茨城県龍ヶ崎市)主の東条重定が1548年(天文17年)に来攻、
小田氏治と岡見氏が小坂で迎え撃ち、重定を討ち取ったと「新編常陸国誌」にある。この小坂の戦いで
小坂城が戦火に晒されたかは定かでないが、城の周囲における攻防戦が行われた唯一の記録である。
地元の伝承(というか昔話)には、水汲みに行った小坂城の女中が敵の炊煙に気付いて城主に注進し、
敵の攻撃をいち早く予見して守り抜く事が出来たという話があり、恐らく小坂の戦いでの逸話であろう。
(そうなると、やはり城の創建は永禄期ではなく天文期だと云う事になる)
廃城時期は不明だが、岡見氏が後北条氏の滅亡と同じくして歴史上から消えている事からその頃か?
江戸時代になると城址三ノ曲輪内に愛宕神社が創建され、そこへと至る参道が作られたようなので、
城跡の堀が埋められたり土塁が切り崩されるような改変があったのかもしれない。また、近代になると
この一帯は耕作地にもなり、更に1979年(昭和54年)になると県道(現在は昇格して国道408号線)の
拡幅工事によって一ノ曲輪(主郭)の南西隅部が滅失してしまった。その一方、近年は文化財保護に
注意が払われるようになり、2006年(平成18年)11月24日に小坂城址は牛久市の史跡に指定。以降、
数年に渡って発掘調査が行われ、曲輪内から掘立柱建物の柱穴痕や石臼片・かわらけ・茶碗片等
生活遺物が発見され申した。また、地層編年からは焼土面も確認され、この城が火災に遭った事を
裏付けている。現在では史跡公園として整備され(写真)堀や土塁など、曲輪の状況が非常に見易く
解説されており、実に好感が持てる城跡だ。中世城郭の初心者にもオススメできる。
縄張は南西隅に東西42m×南北34m(約1200u)を数える長方形の一ノ曲輪が置かれ、その北〜東を
守るように「┓」の形状をした広大な二ノ曲輪が塞いでいる。二ノ曲輪の規模は東西78m×南北56m、
面積およそ1550u。更に二ノ曲輪の北面中央部に三ノ曲輪が接続。三ノ曲輪は東西29m×南北33m、
面積が約1000uある縦長の長方形。三ノ曲輪には二ノ曲輪との通路と思われる部分の他、3箇所の
開口部が存在。但し、これは先述した愛宕神社の参詣道として後世に開設されたものが含まれる為、
本来の城址遺構でないものを差し引いて考える必要があろう。恐らくは二ノ曲輪の前衛となる角馬出
曲輪だったと思われ、通路は敵兵の誘導に有利な位置に局限したものだけが築かれていた筈だ。
三ノ曲輪の東、城址の北東隅に位置するのが四ノ曲輪。ここは東西14m×南北17mの長方形、城内で
最も小さな曲輪でござる。角馬出である三ノ曲輪の更に外部に位置する為、出曲輪的な外郭部なのか
或いは防備と無関係な構造物だったのかと様々に推測できる。実際、天目茶碗や石臼といった出土
遺物はこの曲輪から出てきているので、文化的な用途(茶室など)としての曲輪だった可能性も。
四ノ曲輪を除いて、全ての曲輪は外周を空堀で囲い、城外側に対して土塁を構築してある。この他にも
二ノ曲輪の南面(城の南東隅)には竪堀状の食込と、それに相対する腰曲輪状の出張部(物見台か)が
構えられている。また、一ノ曲輪の北面(城の一番中心地点になる)には大掛かりな櫓台と思しき土塁が
存在し、周辺への警戒を怠らないようになっていたようだ。曲輪はどれも矩形を基本とした構造である為
戦国末期に後北条氏が改修した可能性が考えられ(岡見氏は後北条氏に服属)技巧的な防御機能が
備えられていたようだが、その反面、城の西側に対しては緩斜面が連なっていて、さほど厳重な防備が
施された様子は無い(城の北面〜東面〜南面は地形そのものが切り立った崖で隔絶している)。
岡見氏の城として西の岡見城と連携した出城と考えるならば、東の江戸崎方面が警戒対象となるし、
後北条氏の前線城郭と考える場合も、北東の佐竹氏への備えが肝心となる訳だから、いずれにせよ
西側は後背地として戦闘正面になる可能性は想定していなかったのでござろう。さりとて、小坂城と
岡見城の間が河内郡と信太(しだ)郡の境であった上、小野川の南は東条荘となる為、諸々の境界を
守る位置にあった激戦区である事は間違いない。何より、小坂城の北には鎌倉街道が通じ、城の南を
流れる小野川も霞ヶ浦へ繋がる水運の要衝。陸路と水路を管掌するこの城は、地方豪族が割拠する
時代の岡見氏にとっても、大勢力への集権が図られた後の後北条氏にとっても、時代を超越して
必要不可欠な“境目の城”であった訳だ。


現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域内は市指定史跡








常陸国 牛久城

牛久城主郭跡

所在地:茨城県牛久市城中町

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★★☆■■
公園整備度:★■■■■



岡見氏が岡見城の後に本拠とした城。天文末期(1550年頃)岡見頼勝の手に拠る築城と見られ、岡見氏は
最大版図で13万石程の領地を有したとも言われる為、岡見城・小坂城を築いた後、大軍を収容できる広大な
城郭を必要としてこの城を作ったのではなかろうか。岡見城や小坂城が小野川に沿った水系を利用していた
丘城だったのに対し、この牛久城は牛久沼に突き出した舌状台地を敷地とした水城である。
牛久城が用いられた天文末期〜永禄〜天正年間と言えば、戦国争乱が最も激化した頃だ。岡見氏の主家
小田氏は日に日に没落の憂き目を見ており、岡見氏は自力で生き残りを模索せねばならなくなっていく。
東からは常陸の雄・佐竹氏が、西からはそれと結んだ多賀谷氏が岡見領を狙っていた。特に多賀谷氏は
岡見氏との抗争激しく一進一退の状況下に置かれた訳だが、岡見氏は牛久城のすぐ隣に東林寺城(下記)
更にその向こうに足高(あだか)城(茨城県つくばみらい市)を築いて支城網を整備、牛久沼を後背地にして
一体不可分の防御体制を構築しようと目論んだ。ところが1587年(天正15年)3月、多賀谷勢は東林寺城と
足高城の間へ割り込むように泊崎(はっさき)城(茨城県つくば市)を構築、この支城網を分断する。その結果
足高城は落城し牛久城も風前の灯火となったが、岡見氏は同盟する豊島氏や高城(たかぎ)氏の軍に救われ
辛くも本城は生き残った。ここで出てくる豊島氏は下総国布河(ふかわ)城(茨城県北相馬郡利根町布川)を
拠点とする布河(布川)豊島氏、高城氏は下総国小金城(千葉県松戸市)に勢力を張った下総高城氏の事で
両氏はいずれも小田原後北条氏の配下にあった為、必然的に岡見氏も後北条氏の支配を受けるように。
斯くして牛久城には後北条氏麾下の在番衆が駐留するようになった。この時、牛久城は後北条氏によって
大軍勢が入渠できる構造に拡張されたと考えられる。
だが1590年、豊臣秀吉の全国統一に伴い後北条氏は滅亡。牛久城主・岡見治部大輔治広も城を追われた。
そして秀吉は牛久領に由良信濃守国繁の母・妙印尼(みょういんに)を入れた。金山城(群馬県太田市)主で
あった国繁は後北条氏配下として秀吉に敵対したが、妙印尼は豊臣軍へ早くから投降・協力の姿勢を見せ
その功で彼女に堪忍分として5400石ほどの所領が与えられたのだ。とは言え実質的には国繁が城主であり
一般的には岡見家に代わって国繁が城主になったと説明される。程なく秀吉も死去し、由良国繁は関東の
太守・徳川家康に臣従、関ヶ原合戦時には江戸城(東京都千代田区)の守備を命じられている。戦後、その
功により1600石を加増され都合7000石あまりの大身旗本となった。その国繁は1611年(慶長16年)1月3日に
亡くなり、嫡男の貞繁が跡を継ぐも、彼も1621年(元和7年)に死去すると弟の忠繁(国繁の2男)が家督を
相続した。貞繁に子が居なかった事からこのような事情になった訳だが、まだ若年だった忠繁はこれにより
石高を1000石に減らされてしまう。それに伴い、牛久城は廃城となる(1623年(元和9年)廃城説もある)。
城跡は国道6号線やJR常磐線の西側、牛久沼に程近い舌状台地一帯。この台地の東には根古屋川という
小川が流れているが、往時はこの川筋がそのまま沼の入江だったと思われ、台地の西〜南〜東の三方は
沼に洗われる水城として成立していたと想像される。つまり陸続きになっていたのは北側のみなので、当然
大手(戦闘正面)はこの向きだ。現状、台地の“首根っこ”に当たる位置に曹洞宗稲荷山得月院という寺が
建立されており、そのすぐ北側にある五差路の交差点が、かつての牛久城大手門だったと言われていて
この地点が1983年(昭和58年)5月6日、牛久市の史跡として指定されている。地形として見ると、枡形状の
大手口周辺にごく僅かながら窪地が見え隠れし、ここが堀切になって台地を分断、虎口を絞り込んでいた
様子を確認できる。城地はここから南へおよそ1km弱の範囲に渡って曲輪を並べていた。最奥部(南端)に
北側をすぼめた台形の曲輪を置き、海抜20m(城外との比高10m)を数える城内で最も標高の高い位置だ。
これは東西80m弱(台形底辺部)×南北65m程の大きさを有するが、近代になって南端部が土砂の採掘で
削られた為、当時はもっと大きい敷地であったと考えられる。この曲輪の手前(北側)には東西50m×南北
120m程の長方形をした曲輪が並ぶ。この敷地が城内主要部で一番広い曲輪である為、牛久城を訪れる
者はこっちが主郭なのではないか?と見る向きもあるが、築城のセオリーに当てはめれば、最奥部にして
最も高い位置にある南側の曲輪が主郭、北側の広い曲輪は二郭と考えるべきでござろう。
(改めて言うが、削られた主郭はもっと大きかった筈なので二郭よりも広かった可能性がある)
現地案内板の縄張図においても南の曲輪が「本丸」北の曲輪が「二の丸」と記されているので、とりあえず
そう仮定するとして、二郭の西に寄り添う形で細長い帯曲輪が付帯。主郭と二郭の間は堀で分断されるも、
二郭と帯曲輪の間は比高差があるだけで(二郭の切岸下にある形)堀は掘られていない。二郭と帯曲輪の
北側が三郭となるが、その間は堀を越える屈折した食い違い虎口を抜けて通るようになっており、その道が
そのまま帯曲輪を貫通するようになっているので、城外から攻め込む兵にとっては、さながらこの帯曲輪が
単なる通路のように見える事であろう。なお、二郭への入口は三郭からの食い違い虎口の脇に、目立たぬ
形で作られているのみ。即ち、主郭と二郭の間は直接的に繋がっておらず、二郭から主郭へ至るには必ず
帯曲輪を通らねばならない構造(或いは、仮設の架け橋があった位であろう)となっている。個人的感想と
しては、二郭の出入口が城外から突進してくる兵に見え辛いように偽装されている事から、二郭は主郭へ
走り込もうとする敵に対する逆襲曲輪(敵の背後から襲う為の伏兵拠点)として機能したように思えた。無論
帯曲輪を進む敵に、その上段から矢玉を降らせるという通常の使い方も可能だったであろうし、平時では
兵力の駐留場所、或いは上級家臣の屋敷を置いた事も想定されよう。通路状なのに幅がある帯曲輪は、
戦闘時に数々の蔀や柵列などを構え、敵兵の足を遅らせて出来る限り二郭からの攻撃が有効になるよう
計算していたに違いない。
帯曲輪の突き当り(南端)からは土橋状の切り立った細道が伸び、しかもそれが左へ90度曲がって主郭へ
入る進入路となるが、この折れ道が最後の最後で急坂となっていて敵兵の突撃を阻む技巧的な構造。また
主要部の各所には土塁・空堀・横矢掛かりとなる屈曲などが至る所に見受けられ、見学していて飽きない。
ただ、手付かずの遺構である反面それほど整備されている訳でもない為、藪越しの見学を強いられる所も
あってなかなか難儀する。
反面、三郭は耕作地となっていたらしく全く平坦な敷地に均されてしまっている。曲輪の形は分かるが、
土塁などの遺構は皆無。更に外側の曲輪となると宅地となっており、殆ど遺構らしきものは見られない。
せいぜい、傾斜や道の折れ曲り具合を見て想像力を働かせるくらいの感じでござろう。三郭の内と外で
ハッキリと状況が異なっていて、随分と明暗が分かれたものだと考えさせられる城跡だ(苦笑)ともあれ
主要部の遺構は素晴らしく、小坂城が初心者向けだとしたら牛久城は玄人向けのオススメ城と言える。
2013年(平成25年)に三郭の北東隅にあたる明神遺跡の発掘調査が行われ、曲輪の外縁を構成する
堀や切岸の状況が明らかになっている。


現存する遺構

堀・土塁・郭群
大手口は市指定史跡








常陸国 東林寺城

東林寺城遺構 五輪塔

所在地:茨城県牛久市新地町・庄兵衛新田町

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★★■■■
公園整備度:☆■■■■



牛久城の支城。創建は永禄年間か?岡見氏によって築かれたものだが、1566年(永禄9年)に記されたと
思われる「小田氏治味方地利覚書」に東林寺城の城主として岡見弾正治資と共に近藤治部の名が残る。
一方、天正10年代の記録「岡見氏本知行等覚書写」では岡見治広の城となってござる。
岡見氏の本城である牛久城から北東へ約1.5kmに位置し、支城として最も近い距離にある城郭。と言うか
殆ど出城のような存在だ。故に、牛久城へ攻め掛かる軍勢は必ず最初にこの城を攻略する事になる訳で
泊崎城を築いた多賀谷氏の攻勢は東林寺城へも及んだ。1588年(天正16年)こうした戦闘があったらしく
多賀谷方として参戦した将・野口豊前が後年に懐古した記録「野口豊前守戦功覚書」には、野口勢らが
「東輪寺(東林寺)という所」へ12月28日に攻め寄せたと記されている。さりとて、その後の東林寺城が
どうなったのかは詳らかではない。いずれにせよ、牛久の岡見氏が後北条氏と命運を共にしたと同様に
この城も廃されたと見るべきでござろう。
北から南の牛久沼へと流れ込む谷田川の河口部と、同じく北から牛久沼へ流れ込む稲荷川に挟まれた
細長い半島の先端部、2つの川に削り残された台地を使った城地。この台地の最南端部を、東西260m×
南北750mに及ぶ広大な範囲で城にしているが、細長い敷地を南から順にT郭・U郭・V郭・W郭と大きく
4つの曲輪に分けている。T郭は主郭、つまり最重要地点として他者を排除すべく小振りに作られたため
半島の西側へ偏位し、U郭が北と東を取り囲んだ形状となっているが、U郭より北側の曲輪群はまるで
「大根を輪切りにしたような」感じで、半島を堀切で真っ直ぐ分断するような連郭式の縄張だ。もちろん、
曲輪間の出入を担う虎口近辺は食い違い等の屈曲を有し、横矢を掛けるようにして守りを固めているが
全体として見ると余りにも“分かり易い縄張”となっている。これは大兵力の駐屯拠点となるように当城が
使われた状況を物語る。先に野口豊前の攻略を記した訳だが、恐らくその攻勢を凌ぎ切った東林寺城は
後北条氏により大改修を受け、このような形状になったと考えられよう。牛久城へは後北条氏の在番衆が
“境目の城”として駐留するようになり、この城も同様に大兵力を収容する為の城にされたとするなら、他の
後北条氏の城と共通点を発見できるのだ。即ち、沼(池)に面した舌状台地を輪切りにするという構造は
千葉県山武郡横芝光町にある坂田城と瓜二つなのである。坂田城主は井田因幡守胤徳(たねのり)で
あったが、その井田氏が牛久在番衆としてこの地に入っている為、駐留地となった牛久城や東林寺城を
自身に使い勝手の良い城として改造したとも見られる訳だ。この点に関しては、新たな史料の発見や
考古学的知見の再検証を待ちたいものでござる。
U郭・V郭・W郭とその外部を隔てる堀切や土塁は比較的良好に残存。但し、全くの未整備であるため
荒れた状態にあって見学はし難い。また、曲輪跡地は殆どが耕作地(私有地)となっているので、無暗に
立ち入って迷惑をかけるような事は憚りたい。U郭とV郭の間、台地東側へ一段下がった出曲輪状の
敷地に城の名となった曹洞宗福壽山東林寺という寺がある。この出曲輪跡地も大半が墓地であるので
荒らすような事の無いように。なお、主郭跡地(城地最南端)は耕地拡張の土砂採掘によりほぼ滅失。
かつてこの位置に置かれていた五輪塔2基は東林寺本堂の裏手に移設され(写真)1974年(昭和49年)
5月1日、牛久市の指定文化財となっており申す。


現存する遺構

堀・土塁・郭群

移設された遺構として
五輪塔2基《市指定文化財》








常陸国 牛久陣屋

牛久陣屋跡

所在地:茨城県牛久市城中町

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★☆■■■
公園整備度:☆■■■■



1621年に由良忠繁が除封された後、1628年(寛永5年)山口但馬守重政が封じられ、以後明治維新まで
山口家が牛久の地を治めた。その本拠となったのが牛久陣屋でござる。
山口氏は周防・長門(現在の山口県)の太守・大内氏の庶流であった。山口の地名を採って山口姓を
名乗り、戦国の頃には織田信長の家臣として頭角を現す。本能寺の変以降、織田家が没落していくと
重政は徳川家へ仕えるようになり、関ヶ原合戦においては上田城(長野県上田市)攻防戦に参戦。
江戸幕府が成立した後は大番頭(おおばんがしら、幕府軍の部隊指揮官に相当する役職)に就いて
順当な出世街道を歩んでいた。だが1613年(慶長18年)幕閣内の権力闘争に巻き込まれ、山口家は
改易。重政は蟄居謹慎の身となる。されども御家再興の執念に燃える重政は、1615年(元和元年)に
勃発した大坂夏の陣に出陣して軍功を挙げる。しかもこの時、重政の長男・重信と重政の弟・重克は
戦死し、重政にとっては痛恨の被害を出しながらの戦働きでござった。
痛烈な戦功が評価されてか、上記の通り1628年に1万5000石の封を得て牛久の領主となった重政。
1635年(寛永12年)9月19日に彼が没すると、5000石が5男の重恒に分知され、1万石の所領と家督は
4男の修理亮弘隆が相続する。この2代藩主・弘隆の時代、1669年(寛文9年)に築かれた藩の役所が
牛久陣屋であった。
陣屋の築かれた場所はかつての牛久城外郭部に当たるが、牛久城の主たる領域が台地の東側へ
集中していたのに対し、牛久陣屋は牛久沼の際にある台地西端を利用している。この辺りは台地
上面においては比較的広く平坦な敷地を有する反面、すぐ裏側は斜面が切立ち、その岸は牛久沼の
波に洗われる後ろ堅固な場所。切岸は沼との比高が20mを越え、平山城と呼んでも良い位の高さ。
さすが武勲の家柄たる山口氏ならではの立地と言うべきか。一方、陣屋の敷地面積は3720坪ほど、
およそ150m四方の大きさをした小振りな方形単郭のみであり、南向きに表御門(大手)を開いていた。
この南面だけが陣屋内部と同一平面で外へ続いており、西〜北〜東の三方は切岸で隔絶するが
西や北に比べて東側は比較的緩傾斜となっている為、外縁部に一条の堀が掘られていたようだ。
土橋でこの堀を渡る形で、東向きの裏門(搦手口)が置かれていた。表御門・裏門ともに塀で囲った
枡形虎口を形成して防備を固めたようだが、陣屋内部は建物が順当に建ち並び、それほど厳重な
備えではない。あくまでも領地支配の役所構えでしかなく、表御門前も複雑な屈曲などは作られて
いなかった。
考えてみれば陣屋が築かれた1669年と云うのは最後の戦いである大坂の陣から約50年後。天下
泰平の機運も十分に浸透した頃にて、少禄の大名が大仰な城を構えてはむしろ幕府から謀叛の
疑いをかけられ、御家取り潰しの危険さえあったのだから、このような陣屋に留めておくのは正解
だったのでは。このあたり、一度は政権抗争で改易の憂き目を見た山口氏としては時流を敏感に
感じ取ったようだ。牛久城の主要域(台地東側)を使わなかったのも、こうした理由なのかも。
逆説的に考えると、牛久へ入府したのは由良氏改易から日の浅い1628年。この時点ならばまだ
牛久城を再興させる方法もあったろうし、戦国の気風色濃く残り“城を求める”思いも強かったで
あろうが、尚武の将でありながらそれを行わなかった重政の堪忍も評価されるべきだろう。
“天下泰平の最後の敵”豊臣氏が滅んだ後は、城持大名への夢など滅びの道でしか無かったのだ。
2代・弘隆より後、牛久山口氏は修理亮重貞(しげさだ)―周防守弘豊(ひろとよ)―修理亮弘長
(ひろなが)―但馬守弘道(ひろみち)―伊豆守弘務(ひろちか)―周防守弘致(ひろむね)―但馬守
弘封(ひろくに)―周防守弘穀(ひろたか)―筑前守弘敞(ひろあきら)―弘達(ひろよし)と、合計
12代を数えて維新を迎えた。幕末の1863年(文久3年)陣屋は大改修工事が行われたようだが、
明治初年になると建物は全て破却された(一部移築処分)と言う。
さて、牛久の有名人として知られるのが画家の小川芋銭(おがわうせん)である。彼は牛久藩の
大目付の家に生まれ、廃藩置県によって帰農した中、牛久沼の畔で絵を描いていた人物。特に
河童を題材にした絵が多く「河童の芋銭」として知られるが、現在の牛久陣屋跡地には芋銭が
アトリエにしていた建物を転用した小川芋銭記念館「雲魚亭」や河童の碑が建つ。これらの文芸
施設があるため駐車場や御手洗は一応揃っており、車で陣屋跡へ訪れる事も可能だが、周囲
一帯は住宅地、或いは耕作地となっているので遺構らしいものを見つけるのは難しい。とりあえず
空堀跡や土塁の断片などは残されているものの、これと言って目立つものは無い。どちらかと
言うと、牛久沼を望みながら散策して森林浴を楽しむという感じであろうか。写真は河童の碑を
裏側から撮って豊かな木々に囲まれた陣屋跡地を俯瞰したつもりだが、この河童の碑は2013年
4月22日、牛久市の指定文化財(工芸品)となっている。また、雲魚亭の建物もそれに先立って
2010年(平成22年)6月28日、牛久市文化財に指定。なお、陣屋跡としては史跡の指定無し(爆)


現存する遺構

堀・土塁




笠間城  結城市内諸城館