地名の由緒は多かれど、とりあえず「下総」相馬氏の治めた地■■■■■■■■■■■■■■■■■
“守谷”という地名の由来は、神話の時代に日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征した折この地を通り、
鬱蒼とした森が果てしなく広がっているのを見て「森なる哉(かな)」と発言、これが音読されて“もりや”に
なったとする説がある。一方、平安期に坂東で新皇を称した平将門が“丘高く谷深くして守るに易き地”と
してここに築城、“守るに易き谷”つまり“守谷”であるとする説もある。即ち守谷城は将門が築いた王城を
その起源とする伝説が永らく信じられ、江戸末期の書「利根川図志」に「平将門舊(旧)址」として記述され
“めくるめく許りの深き塹”のある城と紹介されている。無論、日本武尊の東征も、将門の「相馬の偽都」も
どちらも伝承に過ぎず(将門の王都は他にも候補地が幾つもある)現在では全く否定されている説だ。■
では守谷城の由緒はどこにありや?と言えば、下総国相馬御厨を統べた下総相馬氏の手に拠るもので
ござる。総州の名族・千葉氏の分流である相馬氏は、鎌倉時代に総領権を巡り2派に分かれ、その内の
宗家筋と幕府から決せられた流れが下総相馬氏となり、この地に根付いた。ちなみに、敗れたもう1家は
相馬氏の別領地であった陸奥(磐城)国小高(おだか、現在の福島県南相馬市)に移住した。相馬氏と
言えばむしろこちらの方が有名で、明治維新まで家を永らえた中村相馬氏となる。だが、あくまで宗家は
下総相馬氏の方なのだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
実戦に用いられた事を裏付ける出土品■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
話を守谷城に戻すと、下総相馬氏の拠点として用いられた城だが創建時期は分からない。鎌倉期以来と
見る向きもあるようだが、現状の遺構は戦国時代以降のものである。相馬氏が守谷近辺を領有したのは
室町時代、応永年間(1394年〜1428年)頃とする説がある為、それ以後と考えるのが妥当であろうか?■
守谷城の城域は広大な範囲に亘っているが、創築当初の城は所謂「守谷本城」と呼ばれる部分とされ、
現在は守谷城址公園とされている地区の中にある「平台山」なる丘陵地がそうだった。1525年(大永5年)
11月の「足利高基書状」の中に「相守因幡守(相馬守谷因幡守の意)」との記載があるため、この頃には
相馬氏の居城となっていた事が推測される。また、「関八州古戦録」にも1537年(天文6年)守谷を本拠と
する相馬氏についての記載があり、守谷本城がこの頃の城郭である事は確実でござろう。■■■■■■
尤も、現地案内板によれば守谷本城について、大別すれば6つの主要曲輪を持ち、附属する帯曲輪など
小曲輪が多数、桝形虎口や橋跡・櫓台などの遺構が検出されたとあり、こうした高度な縄張は戦国末期
あるいは江戸時代に入ってからも守谷本城が整備拡張された様子を窺わせている。また、発掘調査の
出土品として瀬戸・美濃などの茶碗をはじめとする陶磁器類のほか、小刀・古銭・煙管(キセル)それに
鉄砲玉が検出されている。鉄砲玉が出ると言う事は戦国期の中でも特に後期、実戦に即した城郭として
用いられた証である。更に曲輪内では9棟もの掘立柱建物を確認。これは倉庫と考えられていて、数次の
建て替えが為された可能性が高く、これまた戦国末期まで継続的に「守谷本城」が運用された事になる。
後北条氏や古河公方家による介入■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、下総相馬氏をめぐる情勢は緊迫したものであった。南の小田原からは新進気鋭の戦国大名である
後北条氏が迫り、北には室町体制の宗主・古河公方の足利氏が君臨。その先には常陸の佐竹氏、越後
長尾(上杉)氏らといった強豪がひしめく中、自主独立を模索する相馬氏は難しい舵取りが要求されて
いたのだ。守谷本城が記録に出るようになる頃、相馬氏の当主は上総介胤晴(たねはる)なる者だった
ようで、この胤晴は上記した「相守因幡守」こと因幡守胤広(たねひろ)の孫に当たる。胤晴は古河公方に
属して後北条氏に対抗していたのであるが、1546年(天文15年)の4月20日に発生した河越(川越)夜戦
(後北条氏の河越城(埼玉県川越市)を古河公方連合軍が包囲した戦い)で戦死してしまった。この為、
胤晴の嫡子・下総守整胤(まさたね)が跡継ぎとなるが、当時まだ整胤は僅か3歳。実権を握ったのは
庶流の左近大夫治胤(はるたね)であった。結果、相馬家中は整胤派と治胤派が対立するようになる。
同じく古河公方家でも家中が2分、後北条氏に屈した義氏(よしうじ)が家督を継ぐも、藤氏(ふじうじ)が
対抗して反後北条方になっていた。このような情勢下、古河公方の家宰である実力者・簗田河内守晴助
(やなだはるすけ)は藤氏を支持して反後北条の色を鮮明にする。これには越後長尾氏が後ろ盾となって
いた事が影響しており、相馬家でも整胤が与する。この頃、長尾氏は関東まで遠征し後北条氏の押さえ
込みに奔走しており、その軍事力を頼りとした策でござった。ところが、数年を経ると長尾改め上杉氏の
関東遠征は影響力を弱めていく。藤氏は討たれ、晴助が独力で後北条氏に対処するようになっていた。
足利義氏に譲渡する筈が…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1566年(永禄9年)勢力挽回を狙う治胤は晴助に近づき密約を結び整胤を暗殺。これにより下総相馬家の
家督は治胤のものになり申した。しかし時流は後北条氏に優位、すぐさま治胤は後北条氏と結び晴助に
対抗し始める。簗田・後北条の間を渡歩く治胤は、逆に両者にとっても都合の良い橋渡役となったようで
1567年(永禄10年)5月、簗田・後北条間で結ばれた和議の約定で、守谷城は足利義氏の御座所として
使われ、その上で晴助が義氏の家宰として復帰、最終的に守谷城を晴助に割譲する旨が決められた。
もはや後北条氏の影響力に逆らえない治胤はこの約定に従い後北条氏に守谷城を明け渡す。同年7月
後北条方の使者が城を受取り、その月の27日には義氏の傍衆らも入城し、翌月に義氏自身が守谷城へ
入ると通達されている。ところが義氏は守谷城は狭く防備も心許ないと申し立て、城に入るのを躊躇った
らしい。この為、1568年(永禄11年)5月から後北条氏の手で守谷城は拡張された。これが「守谷本城」に
対する新城、いわゆる「城内」部分である。近世城郭となった際に「守谷本城」が本丸・二ノ丸となり、
「城内」は三ノ丸とされた事からわかるように、つまりこの部分は傾斜地ではなく開けた平地を利用した
曲輪なのだが、即ち大兵力の駐屯地や居館部分として用いられるようになった敷地でござる。■■■■
後北条氏は守谷城を古河公方御所として相応しい城…というより、自軍の根拠地として活用できる城に
改造した訳である。丁度この頃になると簗田・後北条間の和議は破約となり、義氏が守谷城に入る事も、
晴助に接収される事もなくなった。以後、治胤は後北条氏の一部将として“他国衆”へと組み込まれて、
その後北条氏が1590年(天正18年)豊臣秀吉により滅ぼされると歴史の表舞台からも消えていく。■■
ちなみに小田原征伐の折、守谷城は5月に浅野弾正少弼長政軍が攻め落としている。■■■■■■■
近世城郭へと改変されたが…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、後北条氏滅亡後の関東地方は大半が徳川家康の支配地となった。守谷城には家康配下の菅沼
藤蔵が甲斐国巨摩郡切石(現在の山梨県南巨摩郡身延町)1万石から入部する。石高は同じく1万石。
藤蔵は菅沼氏に養子入りする前、美濃明智氏(明智光秀の一族)に生まれた人物で、武勇を賞賛され
1593年(文禄2年)秀吉から山城守に叙せられた上、明智氏の太祖・土岐氏の家名を許された。こうして
土岐山城守定政と名乗るようになる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
定政は守谷の町造りに尽力、中世農村から近世城下町への改変を為していく。彼が病没した後、嫡子・
山城守定義(さだよし、定政2男)が事業を継承。元和偃武の後、1617年(元和3年)に土岐家は摂津国
高槻(大阪府高槻市)2万石へ加増転封、一時的に守谷領は天領化し岡登甚右衛門と浅井八右衛門が
代官になるが、1619年(元和5年)高槻で定義が没し後嗣の頼行(よりゆき)は12歳で家督継承、幼年を
理由に幕府から減封され1万石で再び土岐家が守谷城主に戻された。その頼行は1628年(寛永5年)
2月10日、1万5000石を加増されて出羽国上山(かみのやま、山形県上山市)へ転封する。■■■■■
またも守谷は天領とされ伊丹播磨守が代官として入るものの、1642年(寛永19年)堀田加賀守正盛が
13万石で佐倉城(千葉県佐倉市)主になった時、その領地に組み込まれ申した。その後、正盛の3男・
備中守正俊へ1万3000石が分知された事で守谷領は独立しているが、正俊が守谷城を使用する事は
なかった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1660年(万治3年)正俊は上野国安中(群馬県安中市)2万石へ加増転封、代わって酒井雅楽頭忠挙
(ただたか)に守谷領が与えられている。酒井時代には再び城下の振興が行われたようだが、1681年
(延宝9年)2月27日、忠挙の父・雅楽頭忠清が隠居し、その所領を相続した事で守谷から離れた。その
後の守谷は関宿藩(千葉県野田市)久世家の領地に組み入れられ、守谷城は完全に廃された。■■■
城が消えた事により、城下も含めて山林に戻り、近代では農地化・宅地化されていった。■■■■■■
水運を中心に考えるべき立地■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、「守谷本城」は上記の通り公園に、「城内」は守谷市立守谷小学校とその周辺宅地になっている。
既に記した「守谷本城」は、平台山の周囲をかつては大きな湖沼が囲って「城内」側に面した南西隅部
だけが陸続きになっていた敷地。平台山内を区画した曲輪の間は大きく掘り込んだ堀で分断されている
(写真)が、これだけの規模を草創期の下総相馬氏が独力で構築したとは考え難い。後北条氏統治後、
或いは近世城郭化されてからも拡張整備が行われ(横矢が多数掛かる)このような大堀が作られたと
推測できよう。冒頭に記した「利根川図志」にある“めくるめく許りの深き塹”とは、この大堀を指しての
記述であろう。厳重な備えで固められた平台山は、天険の水城として機能するのみならず、人の手に
よっても開発された堅城だった。兎にも角にも、この堀跡を仰ぎ見るのは圧巻の一言だ。■■■■■■
なお、水城として舟入(船着場)も完備。主郭裏手(北側)にあったそれは沼地を経て小貝川に接続。■
小貝川は守谷城の直近を流れる川だが、そこから更に当時の鬼怒川水系へも至る川船航路を形成
していた。現在も守谷の東には牛久沼、南に手賀沼があるが、往時の守谷城を囲んだ湖沼も相当な
規模があったと推測され、周辺一帯は水系による交通が一般的であった。現在でも平台山の裏手を
眺めれば湿地帯の名残である草原が広がっており、ここにもっと水が入っていれば、相当に堅い城を
成していたと容易に想像できる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方「城内」は近世城郭としての主要部に用いられ、約30万uもの広大な敷地を有した。足利義氏が
「狭い」とした事から拡張された部分で、もし仮に約定通り古河公方が入り後北条氏が北関東安定の
統治拠点として重用したなら、戦国関東の勢力地図は守谷城を中心にしたものへと変わっていたかも
しれない曲輪だ。それだけに、近世の守谷城…つまり「城内」部分は要害性よりも兵站・統治に主眼を
置いた作りになっていた。城内敷地もいくつかの曲輪に分割されていたようだが、それらは主に土塁で
区画する構造で、本城のように巨大な堀を穿つような事はしていない。統治拠点としての平城として
用いた故、そうするのは却って不便だったのだろう。何より、戦時拠点としての本城があるのだから
根古谷・詰城としての区分をすれば十分だったようだ。よって、城内には恐らく倉庫・厩舎や長屋群で
あろう多数の建築物が並び、発掘調査では26棟を検出している。それに付随して井戸・食料庫・墓地
等の生活痕、さらには製鉄加工所も発見され、城内部分が武士の職住環境になっていた事が裏付け
られている。周辺一帯を含めて守谷城の備えを成し、重臣屋敷なども並んでいた。しかし残念ながら
平城の宿命か現在では殆どが近代開発に消え去り、ごく部分的に土塁が残るのみでござる。■■■■
城跡としての見学は、城内曲輪群を見る方をオススメする。駐車場も、城址公園の北側に用意されて
おり、平台山へ至るのは簡単でござろう。逆に城内側は駐車余地なし。■■■■■■■■■■■■■
別名は城主の経歴から相馬城。1973年(昭和48年)9月8日、守谷町(当時)指定史跡に。■■■■■■
|