寺の争いを叩きのめした軍勢■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で桂城と称する山城。鎌倉時代の創建とされる古城でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■
その頃、佐白山(現在の笠間城がある山)には真言宗の正福寺(山号はそのまま佐白山)があり、近隣の
七会村で勢力を張る真言宗引布山徳蔵寺と寺領を巡り争っていた。劣勢だった正福寺の座主・生田坊は
下野国(現在の栃木県)の豪族・宇都宮掃部助頼綱(よりつな)に援軍を要請、頼綱は養子の塩谷長門守
時朝(しおのやときとも、実父は頼綱の弟である塩谷民部大輔朝業(ともなり))にこの任を与えた。時朝は
1205年(元久2年)佐白山の麓に館を築き、徳蔵寺勢へ攻勢をかけ始める。この、時朝の居館が笠間城の
起源と呼べるものである。ところが、強すぎる時朝の軍に味方である筈の正福寺勢までもが危機感を抱き
敵対し、結局のところ時朝軍は正福寺・徳蔵寺の両方を駆逐してしまった。これで笠間の統治者となった
時朝は1219年(承久元年)改めて佐白山頂に城を築き、姓を笠間に改め申した。■■■■■■■■■■
斯くして笠間城と笠間氏が誕生したのである。山城の完成は1235年(嘉禎元年)頃と見られるが、険峻な
山上は不便な為“詰めの城”として用いられるのみで、通常は麓の居館に生活していたようだ。ともあれ、
城は笠間氏18代に渡る居城となり、5代・笠間泰朝の頃には常陸に波及した南北朝争乱に伴って北朝方・
佐竹軍(佐竹氏は常陸国の古豪)の攻勢を受けた(泰朝は南朝方)が、籠城戦の後これを撃退する戦果を
挙げている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国期になると、笠間氏は近隣の益子(ましこ)氏や結城氏との戦いを繰り返す。特に益子氏との戦いは
激しかったようだが、笠間氏も益子氏も大きく見れば宇都宮氏の隷族であり、“内輪揉め”的な争いを繰り
返していた。このように宇都宮家中は内訌が多く、故に勢力の強化・拡大を図れないまま南関東から伸張
した小田原後北条氏に圧迫されていく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国最末期の1590年(天正18年)後北条氏は関白・豊臣秀吉から「天下統一最後の敵」と定められ居城の
小田原城(神奈川県小田原市)を攻められるが、遂にこの時、笠間氏は主家筋に当る宇都宮氏に反抗の
態度を示した。宇都宮氏は秀吉方だったのだが、笠間氏18代当主・孫三郎綱家(つないえ)は後北条氏に
与したのでござる。結果、後北条氏は敗れ、綱家は宇都宮氏からの討伐を受け笠間城を失った。■■■■
浅野長政が預かって後、近世城郭へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
これで笠間氏は滅亡、城は宇都宮氏から城代に任じられた塩谷氏傍流の玉生(たまにゅう)美濃守高宗へ
与えられるが、その宇都宮氏も突如1598年(慶長3年)10月秀吉によって改易されてしまったため、宇都宮
旧領には監視役として浅野弾正少弼長政が入った。これは長政が東国大名の取次役にあった為とか。■
その後、改めて蒲生飛騨守秀行(左近衛少将氏郷の子)が18万石で入府、笠間城主には3万石で蒲生家
家老の蒲生源左衛門尉郷成(さとなり)が任じられた。郷成は笠間城の近世城郭改修に着手し、城のほぼ
全域を石垣造りに改めている。「東国に石垣造りの城郭は無い」という論はもはや過去の遺説になりつつ
あるが、それを差し引いても笠間城の石垣は他の関東城郭とは雲泥の差がある優秀な出来栄え。これは
蒲生氏が織豊系城郭の技法を用いて石垣を構築したからに他ならない。また、山頂の天守をはじめとする
城内諸建築が建てられたのもこの時と言われる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
時代は秀吉没し関ヶ原合戦に至る直前、徳川家康の内意を受けた蒲生氏が、常陸佐竹氏や会津上杉氏
(いずれも西軍諸将)に対抗するべく築き上げた城との説が有力だ。果たして徳川家康が関ヶ原で勝利し
天下を握るや、蒲生秀行はその功あってか会津(福島県会津若松市)60万石へ加増転封。よって1601年
(慶長6年)2月、武蔵国騎西(埼玉県加須市)2万石から移封された徳川譜代家臣・松井松平周防守康重
(やすしげ)が3万石で笠間城主になる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
康重は1608年(慶長13年)8月に西国の要鎮として丹波国篠山(兵庫県篠山市)5万石へ移され、代わって
同年12月に2万2000石の下総国佐倉(千葉県佐倉市)から移った小笠原和泉守吉次(よしつぐ)が3万石で
入るものの、彼は強硬な方策で与力衆の知行高を自らの石高に組み入れようとした企みが露見したので
私曲連座の罪で1609年(慶長14年)3月26日に改易される。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この為、笠間城は無主の城となり天領化。改めて1612年(慶長17年)7月に2万石の下総国古河(茨城県
古河市)より戸田松平丹波守康長が入り申した。その康長は大坂の陣で戦功を挙げ、1616年(元和2年)
上野国高崎(群馬県高崎市)5万石へと加増転封となる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そして再び浅野家が入封、やがて赤穂へ…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
翌年の1617年(元和3年)10月15日、永井右近大夫直勝(なおかつ)が上野国小幡(群馬県甘楽郡甘楽町)
1万7000石から加増され3万2000石で笠間に封じられた。後に2万石が加増されたが、1622年(元和8年)
12月7日に古河へ移され、常陸国真壁(茨城県桜川市)5万石から浅野采女正長重が入封する。浅野家は
旧領・真壁を併合する形で5万3500石への加増。長重は宇都宮氏改易時、笠間城を管理した浅野長政の
3男でござる。浅野本家は安芸国広島(広島県広島市)に42万6000石の大封を得ており、5万石というのは
長政個人の隠居料が元になっている。これを3男の長重が相続した事で、浅野家の分家として立藩したの
だった。なお、松平康重から永井直勝までは何れも徳川譜代家臣だったが、浅野長重は外様大名である。
江戸近郊、関東圏内に外様大名が入るのは異例の事とも言える。■■■■■■■■■■■■■■■■
1632年(寛永9年)9月3日に長重は病没し、同年10月29日に嫡子の内匠頭長直(ながなお)が相続。長重・
長直は父子揃って幕府の命に従い良く働き、笠間浅野家を盛り立てた。これが外様大名ながら城持大名と
して関東に封を得た理由であろう。長直は1645年(正保2年)改易となった輝興系池田家の播磨国赤穂藩
大鷹城(兵庫県赤穂市)を、これまた幕命により受領する任を受けて現地へ赴き、そのまま笠間から領地
替えとなっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後、長重系浅野家は播州赤穂浅野家として定着。長直の孫こそが、誰あろう忠臣蔵事件で名の知れた
浅野内匠頭長矩(ながのり)だ。こうした縁があり、吉良家討入りを果たした浅野家筆頭家老・大石内蔵助
良雄(よしたか)の銅像が笠間城址の麓に立てられている。が、良雄が産まれるのは浅野家が赤穂へと
転封した後であり、笠間には関わりが無い。大石家は浅野家の永代家老とされており、また、代々の仮名
(けみょう)を内蔵助としていた為かなり混同されているようだが、笠間に居た大石内蔵助とは良雄の祖父・
内蔵助良欽(同じく読み方はよしたか)なので注意すべきでござろう。■■■■■■■■■■■■■■■
井上家の入封、そして明治へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
話が脱線したので元に戻そう。長直の移封後、6月27日から笠間城を得たのは井上河内守正利。遠江国
横須賀(静岡県掛川市)4万7500石からの加増転封で、笠間での石高は5万石だ。1658年(万治元年)には
寺社奉行に就任した譜代の名門であり、正利の隠居後は長男の中務少輔正任(まさとう)が継承。しかし
1692年(元禄5年)11月12日、美濃国郡上八幡(岐阜県郡上市)5万石に移される。今度は本庄因幡守宗資
(むねすけ)が4万石(1694年(元禄7年)4月1万石加増で5万石)で城主となり、1699年(元禄12年)8月16日
没すと2男の伯耆守資俊(すけとし)が継承。その資俊が1702年(元禄15年)9月12日2万石加増の7万石で
遠江国浜松(静岡県浜松市)へ移封されると、次に入ったのは井上河内守正岑(まさみね)、正任の2男だ。
再封された井上家はこの後、河内守正之(正任5男)―河内守正経(まさつね、正之の長男)と続く。■■■
1747年(延享4年)3月19日、陸奥国磐城平(福島県いわき市)3万7000石へと移封された正経に代わって、
日向国延岡(宮崎県延岡市)8万石より牧野備後守貞通(さだみち)が入封。石高は延岡と同じく8万石。■
江戸幕府開闢以来、ここまで7家13人が城主を交代してきた笠間城であるが、これ以後は牧野家が明治
維新まで城を守る事になる。貞通の後、備中守貞長(貞通3男)―兵部少輔貞喜(さだはる、貞長長男)―
越中守貞幹(さだもと、貞喜2男)―越中守貞一(さだかつ、貞幹2男)―貞勝(さだのり、貞一の末弟)―
越中守貞久(さだひさ、貞一長男)―越中守貞利(貞喜の孫)と続いて明治改元。■■■■■■■■■■
最後の藩主となる貞寧(さだやす、貞利長男)は1868年(明治元年)12月5日に城主を継承するも、直後の
1869年(明治2年)6月19日に版籍奉還が行われ、笠間知藩事となった。更に1871年(明治4年)7月14日に
廃藩置県まで為され、牧野氏は東京へ移住。廃城令に伴い、笠間城は役割を終え申した。■■■■■■
近世城郭化された中世山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
貞喜の時代には藩校・時習館も開かれ笠間藩の中枢となっていた城は、これにより城内諸建築が破却・
売却され、山麓部は宅地に、山頂部は石垣を残して山林と化す。城山の最頂点には2重櫓形式の天守も
あったが解体され、古材を用いてその跡地に佐志能(さしの)神社拝殿が建てられ現在に至っている。■
この天守曲輪から尾根の鞍部を隔てて北東側に本丸が啓ける。そこから更に北へ数々の帯曲輪が下り、
その下に二ノ丸。二ノ丸の下にも帯曲輪が連なり大手門へと下り、門前に堀切を穿った対岸には的場丸と
呼ばれた広大な曲輪(武者溜り)が置かれる縄張り。また、本丸内部の西面には土塁と思われる1段高い
連なりがあり、その端部には八幡台櫓が建っていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城域の敷地は約1万6000uと推測されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、的場丸跡が駐車場になっており、ここまでは車で登れる。そこから徒歩で登城すれば、まさしく中世
山城の縄張りを活かしつつ石垣で固められた近世城郭の雰囲気だ。佐志能神社を除けば建物は何一つ
建っていないが、遺構の保存状態はかなり良好と言えた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
このため、城址は1993年(平成5年)3月26日に笠間市指定文化財とされている。■■■■■■■■■■
しかし2011年(平成23年)3月11日、東日本大震災の発生に伴い各所石垣が崩落し、佐志能神社拝殿も
大きな被害を被っている。写真の天守曲輪登段口は震災前の撮影であるが、この石垣が大きく崩れ、その
先は原則として立入禁止状態。自己責任で登る事は可能とは言え先へと進めど、破損した佐志能神社の
痛々しい姿が待っているだけである。笠間市では修復を検討中との事だが、震災以来10年以上が経つも
まだ何も手が付けられていない。何とか早い整備を期待したいものでござる。■■■■■■■■■■■
移築遺構がいくつか■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、移築された遺構として城門2棟と八幡台櫓が現在まで残っている。まず城門だが、いずれも市内の
民家に移築され、瓦葺薬医門の形式(片方は城の裏門と伝わる)。寸法も同大で、高さ4.5m×間口3.95m
×奥行1.8m・軒張1.2m。2棟とも1982年(昭和57年)6月24日、市指定文化財となっている。■■■■■■
そして八幡台櫓、こちらは城下の日蓮宗長耀山真浄寺へ1880年(明治13年)払い下げられ、寺の七面堂と
して改造を受けつつも今に至っている。中には寺の本尊である三仏、三十番神・鬼子母神・七面大明神が
収められているが、城内にあった頃は武器庫として使われ、1747年(延享4年)の記録では弓・鉄砲・弾丸・
火縄・弓矢・槍・胴乱・鞍などを保管していたとの事。2重2階瓦葺白壁塗りで総欅材造り、1階の間口8m×
奥行6.57m、2階間口は6.18mという大きさ。浅野家統治時代の創建と見られ、払い下げ後には寺堂として
改造を施されていたが、1972年(昭和47年)4月〜1974年(昭和49年)3月にかけて大規模な解体修理を
行い、元来の入母屋屋根へと改装して往時の姿に近づけた。ただし寺の建築である為、今なお1階壁面の
中央部に大きく観音開きの戸が開くようになっているのは現役時とは異なるものでござろう。この解体修理
事業は茨城県補助事業として行われたが、これは太平洋戦争中の1945年(昭和20年)8月2日、水戸空襲で
水戸城(茨城県水戸市)御三階櫓が焼失した事に伴い、笠間城八幡台櫓だった真浄寺七面堂が茨城県下
最後に残った城郭櫓建築遺構となったため、1969年(昭和44年)12月1日に茨城県の文化財に指定された
事に起因する。中央に開口した観音開きの戸は櫓建築として違和感があるものの、それを除けばどこから
見ても城の櫓であり、むしろ寺のお堂には見えない(苦笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こちらは東日本大震災でも(壁面にひびが入った程度で)大きな被害は受けなかった。■■■■■■■■
今後も大切に保存していって頂きたい貴重な遺構でござるな。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
笠間城は2017年(平成29年)4月6日、財団法人日本城郭協会から続日本百名城の1つに選ばれている。■
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