常陸国 水戸城

水戸城 本丸薬医門

所在地:茨城県水戸市三の丸

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★☆■■
公園整備度:★■■■■



徳川御三家の一つ・水戸徳川家の居城としてあまりにも有名な城郭。しかし水戸家は
江戸定府(江戸常駐)大名である為、城主と殆ど縁のない城であった。また、現在の
水戸城址は大半が市街地化されており、往時の痕跡は断片的に見られるのみである。
とは言え、敷地は南北に約700m×東西に1.3kmという広大なもの。そこから更に西側が
武家地となる町割りになっている為、これも含めれば東西方向は2.5kmをゆうに越す。
つまり、今の水戸市中心街のうち、JR常磐線の線路と那珂川に挟まれた範囲は全て
水戸城址という事になる。現在は干拓工事で縮小している千波(せんば)湖も、当時は
城の南側全域を塞ぐように広がっていた事から、この城は北の那珂川と南の千波湖に
挟まれた水城の様相を呈していた筈だ。腐っても御三家…もとい、
“恐れ多くも先の副将軍さま”のお城でござろう(苦笑)
最終形態、つまり近世城郭としての水戸城は長細い台形の敷地を有しており、南東側を
上底×北西側が下底と見れば分かり易い。この敷地はちょうど那珂川河畔の洪積台地と
なっており、やや東に偏した最頂部を本丸、そこから西へと二ノ丸・三ノ丸が続く連郭式の
縄張り。また、本丸の更に東側にも「下の丸(東二ノ丸)」と称される下段曲輪があった。
下の丸・本丸・二ノ丸・三ノ丸はほぼ等間隔で区切られており、それぞれが小型の
台形(このサイズだと長方形に近いが)となっていた。中でも最大の曲輪は二ノ丸。
御殿(水戸藩政庁)などの主要建築物はほとんどがこの曲輪の中に建てられていた。
水戸城には天守がなくその代用として御三階櫓が建てられていたが、これも二ノ丸の中。
その為、本丸には建物があまり建てられてござらぬ。標高としては本丸が最も高いので
戦時の“詰めの丸”としてだけの利用が想定されていたのかもしれない。実際、本丸の
裏手(下の丸に面する切岸)は旧崖となっている為、こちら側から攻められる可能性は
少なく、この城を落とすには西隅部にある大手口から順次、三ノ丸〜二ノ丸と兵を
進めるしかない。だとすれば、本丸こそが“最後の砦”に相応しい位置となろう。
となると、予測される戦闘正面からの縦深が(上記の通り)2.5kmにも及ぶ訳で
これは他の御三家の城である名古屋城や和歌山城よりも遠大である。水戸城は
河岸の丘陵地を利用しているとは言え、山城ほどの険峻さはない。また、石垣を用いず
土塁作りの城である為、切岸に急角度は付けられない。地形効果に頼れない城郭である
反面、平野部に開けた立地を逆手に取ってこうした縄張りを展開したと言える。
特に、各曲輪を隔てる堀は巨大なもので、その遺構の中を現在はJR水郡線の
線路(本丸・二ノ丸間)や茨城県道232号線(二ノ丸・三ノ丸間)が走っており、
度肝を抜かれる。近年の検証では、土塁の防御力は石垣に勝ると言う結論が出ているので
石垣作りではない城であってもこの規模があれば決して防備に劣るものではなかろう。
川と湖に隣接したこの城は水利に恵まれており、土塁や切岸の法面を常に濡らしておけば
そこを登ろうとする者が居ても滑落するのは必定。壮大な石垣で固められ、天を衝く
天守を有した名古屋城や和歌山城に比べれば“見劣り”こそすれ、備えは万全であった。
ちなみに、水戸城御三階櫓の最下層は下半分が海鼠(なまこ)壁(平瓦を貼り付けた壁)に
なっていたが、これは石垣の上に建っているように見せかける演出でござった。他の部分と
同様、御三階櫓の基部にも石垣は無い(それどころか、櫓台すらなく平場の直建)が
実際に石垣が無くとも、せめて天守代用の櫓くらいはそう思わせたいと志したのであろう。
尤も、これは敵軍に対する威圧効果のみならず、城下の民衆に対しても畏敬の念を
抱かせる心理的効果がある為、政治学上でも有効な手法といえる。また、海鼠壁を
石垣に見せるだけの高さが必要となる為、必然的に御三階櫓そのものが高層(3重5階)化し
“天守代用”に恥じないだけの規模を確保するようになっている。武士の意地で
無駄な事をした訳ではなく、理に適った建築技法だったのでござる。
さて、築城の歴史を遡れば近世の水戸家ではなく、鎌倉時代初期まで行き当たる。
1193年(建久4年)源頼朝から常陸国大掾(だいのじょう)職を与えられた地頭
馬場資幹(すけもと)が建久年間(1190年〜1199年)中に居館を築いたとされる。資幹は
平国香(たいらのくにか、平将門の伯父で伊勢平氏(後裔に平清盛)の祖)の子孫で
常陸平氏の傍流である。また、掾とは国司の3等官にあたる職制で、常陸国は律令制で
最高位である大国(他に上国・中国・下国)に分類されている為、掾を大掾と少掾に
分けていた。元来、常陸国大掾は常陸平氏の嫡流である多気(たけ)氏が継承していたが
鎌倉幕府生成期に没落した為、傍流である馬場氏へと移されたのでござる。尤も、これには
裏話があるようで、常陸国守護となった八田知家(はったともいえ)が大掾職を得ようと
多気氏を陥れたまでは良いが、頼朝は剥奪した大掾職を知家ではなく同じ常陸平氏一門の
資幹に与えたというのである。以後、馬場氏が常陸平氏の嫡流になり大掾職を世襲、
水戸城(当時は馬場城)を以降9代の居城とし姓を大掾(だいじょう)氏に改めた。
さりとて、知家の後裔は八田から小田に姓を改め常陸守護を継承、さらに新羅三郎
源義光(しんらさぶろうみなもとのよしみつ、源氏中興の祖・源義家の弟)を祖とする
常陸源氏の嫡流・佐竹氏も常陸国に強大な勢力を誇り、加えて土着の古豪である
江戸氏も水戸近辺の領土を狙い、これら諸勢力が入り乱れて系譜を紡いでいく。
室町時代に入り、1416年(応永23年)関東では大乱が勃発した。世に言う
上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱でござる。室町将軍家の分流・鎌倉公方(関東統治の最高職)
足利持氏(もちうじ)に対し、前関東管領(鎌倉公方の執事、実質的な関東の統治者)
上杉禅秀こと氏憲(うじのり)が反旗を翻した事件だ。大掾氏は上杉方に属したが
この戦いは持氏の勝利に終わった為、勢力を大きく減退させる。これに乗じ、佐竹氏と
謀った時の江戸氏当主・江戸通房(みちふさ)は、1426年(応永33年)に馬場城主
大掾満幹(みつもと)が城を留守にした隙を狙い襲撃、馬場城を奪取する。
以後、大掾氏は馬場城の奪還叶わず、この城は江戸氏の居城になり申した。
悲願の馬場城占拠を果たした江戸氏であるが、その後は佐竹氏の内訌に介入、一時は
佐竹家中の主導権を握るに至った。しかし内訌を収めた後の佐竹氏は復権著しく
今度は江戸氏が圧迫されるようになる。一方で小田氏からの攻撃も受けた江戸氏は
次第に佐竹氏に従属せざるを得なくなっていった。佐竹氏側も、江戸氏を従わせる為
佐竹一門と同列にして厚遇したが、水面下では両者の暗闘が続いていく。
ちなみにこの当時の馬場城は、現在の下の丸を主郭、本丸を副郭とする程度の
規模だったと考えられている。江戸氏の馬場(水戸)在城は7代、但馬守通房の後
通長―通雅(みちまさ、通長の弟)―通泰(みちやす)―忠通(ただみち)
通政(みちまさ)―重通(しげみち)と165年に及んだが、この間
生き残った大掾氏や小田氏、南関東を制圧した小田原後北条氏との戦いに明け暮れ
さらに主従関係にあった佐竹氏とも軋轢が続いており、馬場城も何度となく
戦いに巻き込まれた筈である。こうした争乱に決着をつけたのが1590年(天正18年)
関白・豊臣秀吉による関東平定で、後北条氏は滅亡、常陸54万石は佐竹氏の所領と
定められた。この時、江戸氏当主・重通は佐竹支配からの脱却を図って後北条氏と
通じており、秀吉の陣所に出頭しなかった。これを口実とし、しかも常陸一国安堵の
大義名分を得ていた時の佐竹氏当主・義宣は江戸氏に対して馬場城の明け渡しを要求。
拒んだ重通を倒すべく同年10月20日実力行使に出て、彼を馬場城から駆逐し申した。
翌1591年(天正19年)までに常陸国内の中小豪族を掃討した佐竹義宣は、それまでの居城
太田城(茨城県常陸太田市)から馬場城に移り、城名を水戸城に変えて改修工事を行う。
この改修工事は1592年(文禄元年)着工(1593年(文禄2年)説もあり)、
1602年(慶長7年)まで続き、ほぼ現在の主郭域まで広げられた。大手(城の正面)が
西側とされたのもこの時でござる。が、佐竹氏は天下分け目の関ヶ原で
西軍に与したとされ、出羽国久保田(秋田県秋田市)21万石へと減封転封。
天下を握った徳川家康は佐竹氏に代わり、奥州への備えとして自身の5男である
武田信吉(のぶよし)を15万石で城主に任じた。信吉は下総国佐倉(千葉県佐倉市)
10万石からの移封。武田姓であるのは、名家・甲斐武田家(信玄・勝頼の武田氏)断絶を
惜しんだ家康が、その復興の為に信吉に家督を継がせた故である。ところが彼は生来
病弱であった為、水戸に入った翌年の1603年(慶長8年)9月11日に病死してしまう。
代わって家康10男・頼将(よりまさ、後に改名して頼宣(よりのぶ、紀伊徳川家の祖))が
20万石で入り、彼が1609年(慶長14年)に駿府に移封された後は11男の頼房(よりふさ)が
下総国下妻(茨城県下妻市)から25万石で城主となった。これが水戸徳川家の始まりだ。
さりとて、最近の学説に拠れば成立当初の水戸家は御三家に“準ずる”家格であったと
言われる。この当時、御三家は「将軍家(宗家)・尾張家・駿府(紀伊)家」を指し
水戸家はその補佐とされたのだ。それ故、水戸家は「天下の“副”将軍」と通称されるが
それは逆に言えば「必ず将軍家より下位である」事でもある。また、徳川幕府の職制に
「副将軍」などと言うものはなく、あくまで俗称に過ぎない。結果、時代が下った後
駿府の頼宣が和歌山へ移され、更に「将軍家は最高位」との認識が広まってから
水戸家が御三家に含まれたのだ。ともあれ、頼房が城主となった後“徳川一門の城”に
相応しい規模にするべく改修が始まり、1625年(寛永2年)からは大改修に着手。これにより
旧来は二ノ丸とされていた曲輪が本丸(上記の通り最高所の曲輪)とされ、三ノ丸が
二ノ丸となる。この(新)二ノ丸が中枢部となり御殿建築などが建てられたのも
上記の通りであるが、御三階櫓については創築当初、「三階物見」と呼ばれる
質素な茅葺屋根の三重櫓でござった(後年、屋根は銅板葺きに改修された)。
これに新たな三ノ丸や外郭が加わり、“御三家の城”が成立したのである。
この大改修は1638年(寛永15年)に完成を見た。
以後、水戸城主は2代・光圀―3代・綱條(つなえだ)―4代・宗堯(むねたか)
5代・宗翰(むねもと)―6代・治保(はるもり)―7代・治紀(はるとし)―8代
斉脩(なりのぶ)―9代・斉昭(なりあき)―10代・慶篤(よしあつ)と続き
11代・昭武(あきたけ)の時に明治維新を迎えてござる。水戸藩について書くとなると
とんでもない分量になるので、その中で水戸城に関連する話をかい摘めば、綱條期の
1701年(元禄14年)5月、高直しにより石高を35万石に改めているが実高は変わらず
もともと財政状態の良くない水戸藩はさらに窮乏する事になる。そんな中の
1764年(明和元年)、宗翰の代に水戸で大火が発生。城下町は勿論の事、城も大半が
焼け落ちた。復旧には数年を要し、1769年(明和6年)には二ノ丸御三階櫓も再建された。
これが先述した初層を海鼠壁にしたという御三階櫓でござる。御三階と言いつつ
内部は5階建てとなっている二代目の御三階櫓は、当初から銅瓦葺きであった。が、
城の再建費用は藩財政を益々悪化させ、この頃の水戸藩内では一揆が頻発、
藩士の禄の召し上げ等を行ってようやく急場を凌いでござる。
幕末の近づいた1841年(天保12年)三ノ丸にあった武家屋敷地を整理して藩校の
弘道館が設置される。当時、弘道館の敷地は17万8431uも確保されていた。さらに
同年4月に造営開始、翌1842年(天保13年)7月1日に三ノ丸南端部、千波湖に面する部分に
山里曲輪(庭園としての曲輪)として偕楽園が開園され申した。偕楽園は梅の名所にして
日本三名園の一つとして誰もが知っていよう。この曲輪は城下民衆と藩士の分け隔てなく
誰もが遊覧できる庭園として築かれた為に「偕(とも)に楽しむ園」の名が付けられた。
愛民を旨とする水戸学(水戸藩独自の政治学)に沿ったものと言えよう。水戸藩政は
2代・光圀以来、水戸史観に基づく歴史書「大日本史」の編纂を続けた事に代表される
学識の志を中心としており、弘道館の設置も学問を奨励した時の藩主・斉昭の命に
よるものだが、彼の治世下は幕府の方針に従順な諸生(書生)派と、断固として尊王攘夷を
為そうとする強硬的な天狗派が藩を二分しつつあった時期でもある。斉昭もまた攘夷を主張し
ペリー来航以来、開国止む無しとする大老・井伊直弼の政策に真っ向から反対した。
これに対し直弼は水戸藩への弾圧を強行、激怒する天狗派の一党が1860年(万延元年)3月3日
江戸城桜田門の前で直弼の登城行列を襲撃、大老を暗殺する。世に言う桜田門外の変だ。
大老殺害の罪で天狗派は更に処分を受ける事となったが、彼らは不満を爆発させ
徒党を組んで京都進撃を図る。これが天狗党の乱と呼ばれる事件で、過激論者が去った
水戸城中は一時、諸生派が制圧するに及んだ。ところが更に政変は続き幕府が大政奉還、
朝廷が政治の主導権を握るようになると、今度はそれまで幕府を支持した一派である
諸生派が弾圧される番となり、水戸城は緊迫。旧天狗派の改革論者が城を占拠したのに対し
会津の戦から撤退してきた諸生派は弘道館に立て籠もる。事ここに至り、大手橋を挟んで
両者は開戦。これが弘道館戦争と呼ばれる事変で、1868年(明治元年)10月1日
戦いによって弘道館諸施設は正門・正庁・至善堂・八卦堂・鹿島神社・孔子廟を除いて
全焼したのでござった。幕末の歴史に大きな影響を及ぼした水戸藩であったが、
この戦いで(結果的に)朝廷側の立場が貫かれた為、水戸城は1873年(明治6年)の
廃城令を生き延び存城の扱いとされ申した。よって、御三階櫓など城内諸建築はいくつか
残されている。また、偕楽園は太政官布告16号により「常盤(ときわ)公園」として
同年7月30日、茨城県が管理する公園地になり申した。なお、弘道館は
前年の1872年(明治5年)末に役目を終え閉鎖されている。
しかし存城とは言え、新生茨城県の中心地となる水戸市街地の中、広大な敷地を有する城は
もはや無用の長物とされ、建築物の破却が行われた上、敷地の大半は転用されていく。
東から順に下の丸〜本丸は水戸一高(当時は茨城県尋常中学校)、二ノ丸には
水戸三高・水戸二中・茨城大附属小、三ノ丸に三の丸小といった学校が建ち並ぶ。
更に三ノ丸西端部には旧茨城県庁・水戸警察署といった官公庁も設置され、城跡は
すっかりその様相を失い申した。ただし、三ノ丸の中でも弘道館敷地は残され
1922年(大正11年)3月8日、国の史跡に指定されている。同日、偕楽園も
常磐公園の名で国名勝に指定。ところが1945年(昭和20年)8月2日未明、
太平洋戦争での米軍空襲によって水戸市街地は灰燼に帰し、弘道館の中でも八卦堂
鹿島神社・孔子廟が全焼。偕楽園内の好文亭も同様に焼亡。また、水戸城の
貴重な遺構であった御三階櫓も焼失してしまう。
戦後復興期、幕末雄藩の学舎として弘道館敷地3万4105u分が1952年(昭和27年)
3月29日に改めて国の特別史跡に指定され、1964年(昭和39年)5月26日には
残存建築である正門・正庁・至善堂ならびに塀が国の重要文化財になり申した。
城址もまた、残された土塁(本丸跡・二ノ丸入口部・三ノ丸県庁舎前の3箇所)と堀の遺構が
1967年(昭和42年)11月24日に茨城県史跡として指定を受ける。好文亭に関しては
1958年(昭和33年)3月31日再建竣工されたが、1969年(昭和44年)9月2日に落雷で再焼失、
1972年(昭和47年)2月14日に再復旧工事が完了してござる。
さて、現在における水戸城唯一の残存建築と言えば水戸一高敷地内にある
薬医門(写真)であろう。二つの脇扉を有した間口5間5尺の薬医門は、構造や装飾性から
佐竹時代の構築と見られている。諸説あるものの、本丸表門である橋詰御門の枡形虎口
外面に置かれていたと伝わり、明治の城址破却に伴い城下の祗園寺に払い下げられた。
1981年(昭和56年)9月現在地に再移築され、その際に補修工事が行われており
屋根が従来の栩(とち)葺きから銅板葺きに改められている。よって、完全な旧態では
無いが、現存する水戸城の建築物として貴重であるため1983年(昭和58年)3月18日
茨城県指定文化財となってござる。なお、祗園寺の開基は徳川光圀である。
部分的な遺構しか残らず、しかも「城を見る」と言うよりは「町を見る」と言った
感がある水戸城址であるが、歴史的重要性や規模の大きさ(特に空堀が巨大)、
弘道館や偕楽園など周辺諸施設との連携性から2006年(平成18年)4月6日
財団法人日本城郭協会から日本百名城の1つに指定され、さらに学都としての水戸を
世界文化遺産に登録しようという運動が展開されている。そんな最中の2011年(平成23年)
3月11日、東日本大震災が発生し弘道館や偕楽園に甚大な被害をもたらした。現在
復旧工事が進行中であるが、弘道館施設は見学不可、偕楽園も部分開園状態である。
明治維新以来、何もかも失われる事ばかりの悲運な城であるので
何とか早い復興を期待したいものでござる。




現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は県指定史跡
藩校弘道館敷地は国指定特別史跡
山里曲輪偕楽園は国指定名勝

移築された遺構として
本丸薬医門《県指定重文》








常陸国 吉田城

吉田城跡 佛日山常照寺

所在地:茨城県水戸市元吉田町

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★☆■■■
公園整備度:☆■■■■



平安時代後期、吉田(大掾)盛幹の築城と伝わる。吉田氏は多気氏から分家した
常陸平氏の傍流で、盛幹の父である吉田摂津守清幹を始祖とする家。水戸城を築いた
馬場(大掾)資幹は盛幹の孫であり、馬場氏の本姓は吉田という事になる。
築城以来、吉田氏累代の城として用いられたが馬場(水戸)城の陥落後
共に江戸氏の城となった。斯くして水戸城の支城となり、江戸氏の手によって
堀や土塁の整備拡張が行われた吉田城でござるが、佐竹氏の時代になると佐竹家臣
車丹波守斯忠(つなただ)に与えられ申した。斯忠は武略に長じた猛将として知られ
関ヶ原合戦時、佐竹家中における反徳川の急先鋒。戦後処理で佐竹家が出羽へ移封と
処せられた際、最も強硬に反対し、明け渡された水戸城を同志と共に奪還せんと
試みた。この為、捕らえられて磔刑に処せられたという。これにより吉田城は廃城。
後に徳川光圀が開基となり、城跡に佛日山常照寺が建てられ現在に至ってござる。
なお、常照寺山門にある「佛日山」の扁額(写真)には「源光圀」の銘が残され
寺堂の各所には水戸徳川家が庇護した証として三ツ葉葵裏紋が付されている。
JR水戸駅から南東の方角1.8kmの位置、東に常照寺池、西に中沢池が挟み込む
微高台地が城域。この台地は南西から北東へと延びる舌状台地の先端部となっており
麓との比高は15m程度ある。15mと言えど、かなり急峻に切り立っているので
常照寺の参道(恐らく旧大手路、写真参照)は登るのに難儀する。この舌状台地の中、
方形居館を原型とする主郭部(現在の常照寺境内)を中心部に置き、その外周を
とりまくように他の曲輪群(現在は同寺墓地)が配置される縄張り。曲輪の間は
大規模な空堀で仕切られ、部分的に土塁(櫓台含む)も用いており、現在は
藪に覆われているもののこれらの空堀が明瞭に残ってござる。台地の尾根続きになる
南西方向に対しては大堀切を掘って遮断線にしていた。この他、台地斜面の中腹には
いくつかの帯曲輪らしき遺構が見受けられ申す。また、中沢池は旧来
もっと北側の広大な敷地を占有し、千波湖まで接続していたようである。この池と
常照寺池に挟まれた低地、つまり城の北側一帯は泥湿地となっていた為、
城の東西を挟む沢と北側沼地は天然の要害地形として用いられていた筈だ。
陸続きで通行できるのは南側だけという事になるが、これも上記した堀切で隔絶し
小柄な城とは言え、それなりに守りを固める事ができたのだろう。
城跡を訪れるとすれば、地図で常照寺を目指していけば良いが、この近辺には
多数の寺が密集しているので注意が必要。大堀切の近辺、舌状台地続きの南側に
蓮乗寺があり、常照寺池の対岸(つまり東側)には善重寺・光圓寺・林光寺、
反対の中沢池側(西側)には安楽寺。昼なお暗い鬱蒼とした森の中にある為
常照寺はもっとも分かり難い場所となってござる。しかも周辺道路は細い道ばかりで
自動車では一方通行の指定がされている所も多く、思うように進みたい方角へ
辿り着けない。常照寺の北側、水戸第三中学校の2本東側の路地を南下するのが
正解と言える(山門前に出る。駐車場もその位置)が、この道も極めて細い上に
住宅街を貫通しているので、来訪時には近隣の迷惑にならぬよう心がけて頂きたい。
水戸第三中学校西側の道は不正解。常照寺前には出ず、蓮乗寺まで行ってしまう。


現存する遺構

堀・土塁・郭群




松岡陣屋  笠間城