古くは様々な伝承を有す山城に始まり…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
平安時代から続くとの伝承が残る古城。中世城郭としては山城の形態を成して「龍子山城」の名を有し、
近世になると山麓が陣屋として用いられるようになり「松岡陣屋」と称されたが、総称として「松岡城」と
呼ばれる事が多い。他に郷名から「手綱(てつな)城」の別名も。■■■■■■■■■■■■■■■■
「高萩市史」等の史料上には、平安時代中期にあたる959年(天徳3年)頃に常陸介平盛員(もりかず)が
「龍狐山(龍子山)城」を築いたとある。これに前後する958年(天徳2年)北久保天満宮(高萩市赤浜)に
龍狐山城主・常陸介成定が勘請したと記録もあり、この成定が盛員の事であると比定できよう。■■■
1016年(長和5年)には天楠太郎政秀という者、また鎌倉幕府が成立した1192年(建久3年)の領主として
手綱太郎なる人物が居住したとされ、或いは鎌倉後期の1318年(文保2年)龍狐山城主に植田小四郎と
いう名が残されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
室町幕府成立を経て1391年(元中8年/明徳2年)に手綱孫三郎が足利尊氏から所領を没収されたという
記録がある一方、1396年(応永3年)平朝臣但馬守四郎氏之が龍狐山城に居城したともされている。更に
里見氏や寺岡氏といった氏族もこの地に勢力を張ったという記録が。古くから色々な記録が残る城では
あるが、しかしこれらはあまりにも時代が古い為、或いは錯綜した内容と思われる事から信憑性は乏しく
あくまでも伝承の域を出るものでは無いだろう。当地の豪族として名が出る人物と言えば手綱郷を領した
大塚信濃守員成(貞成とも)なる者で、上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱において勝者・足利持氏に与した功で
1420年(応永27年)所領を与えられ、それまでの居城であった菅股(すがまた)城(茨城県北茨城市)から
龍子山城へ移ったと記録される。龍子山城に関して信頼できる恐らく一番古い情報と言え、これを以って
当城の創始と見る説が一般的となってござる。なお、菅股城は員成の弟・成義に譲られた。■■■■■■
大塚氏・岩城氏・佐竹氏の睨み合い■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大塚氏は員成の後、2代・下野守頼成―3代・伊勢守成貞―4代・兵庫守隆成―5代・弥次郎常成―6代・
信濃守政成―7代・掃部助親成と続いて室町後期〜戦国時代の動乱に直面した。この地は南の佐竹氏、
北の岩城氏に挟まれその去就に振り回されていた訳だが、4代・隆成と5代・常成が反目し内訌を起こした
際に岩城氏の介入を招く事となり、次第に侵食を受けるようになる。■■■■■■■■■■■■■■■
隆成・常成の争乱は1482年(文明15年)頃の事とされるが、1485年(文明17年)になると岩城氏11代当主・
下総守常隆が本格的侵攻を開始、領内諸城を落とされて大塚氏は降伏せざるを得なくなり、それまでは
佐竹氏に近かった方針を転換し、岩城氏に従属するようになった。しかし佐竹氏との関係も消えた訳では
なく、政成の代となった1552年(天文21年)「一家の例」を以って大塚氏は佐竹氏の臣に列せられた。■■
斯くして大塚氏は岩城・佐竹両氏の二重支配下に入った形になるが、1550年代の末はこの両家の関係が
険悪になった時期でもあった。大塚氏は両家の縁を逆手に取って、1558年(永禄元年)何と岩城・佐竹の
和睦斡旋を成功させたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
されど、その頃は佐竹氏の当主として“鬼義重”と恐れられた佐竹常陸介義重が勢力を拡大していた時代。
岩城氏との和睦は時間稼ぎに過ぎず、1568年(永禄11年)になると佐竹軍が龍子山城下に攻め寄せた。
大塚勢は辛くもこの侵攻を防いだが、1590年(天正18年)岩城氏嫡流が断絶すると義重の3男・能化丸が
養子入りして岩城但馬守貞隆(さだたか)を名乗り家督を継承。■■■■■■■■■■■■■■■■■
ここに岩城家は佐竹氏に乗っ取られる事となり、結果的に大塚氏も従うようになった。■■■■■■■■
1596年(慶長元年)命により大塚氏8代・隆道は国替えとなり、岩城領内折木城(福島県双葉郡広野町)へ
移される。代わって龍子山城主となったのは佐竹家臣の梶原現三郎。太田道灌の後裔にして知勇兼備の
人として知られた梶原美濃守政景の縁者だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
近世城郭となるも、一旦は荒廃■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが佐竹氏は天下分け目の決戦・関ヶ原合戦において西軍へ与した。この為、1600年(慶長5年)時の
佐竹氏当主・右京大夫義宣(義重の嫡男)は出羽国久保田(秋田県秋田市)へと移封されてしまう。無論、
龍子山城も取り上げられ、1602年(慶長7年)戸沢右京亮政盛が新たな城主に任じられた。■■■■■■
政盛の前任地は常陸国茨城郡小川(茨城県東茨城郡小川町)であったが、元々は出羽国角館(秋田県
仙北市)の出自である。戸沢家の領地は小川に7000石を残され、龍子山には3万3000石、合計で4万石と
されたが、徳川幕藩体制が成立しつつある時代の変革期に不便な山城では統治に向かないと判断され
山城の麓に新たな近世城郭が築き直された。この工事は1605年(慶長10年)着工、1607年(慶長12年)4月
完成した。ここに松岡城が成立したのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
政盛は徳川将軍家への忠勤に励み、大坂冬の陣で小田原城(神奈川県小田原市)の守備、夏の陣では
江戸城(東京都千代田区)の守備に務めている。領内の施政にも力を注ぎ、1614年(慶長19年)には荒川
(安良川)村(高萩市安良川)の八幡宮修繕を行った。当時、寺社仏閣を保護する事は領主の徳を示すと
共に、領民の安寧を志す重要な政策と言える。さらに日光東照宮造営にも参加。■■■■■■■■■■■
政盛の治世は、龍子山改め松岡が近世社会体制へと移行する転機であった。■■■■■■■■■■■■
その政盛は1622年(元和8年)出羽国新庄(山形県新庄市)6万石へと加増転封。■■■■■■■■■■■
戸沢領は北部の1万石分が棚倉藩(福島県東白川郡棚倉町)に編入され、松岡を含む残り3万石は水戸藩
(茨城県水戸市)領に組み込まれる。翌1623年(元和9年)松岡城が水戸藩に引き渡され、政盛は新庄へと
発った。主を失った城は事実上の廃城となり、荒廃した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
水戸藩附家老・中山家の陣屋に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その後、1646年(正保3年)改めて旧戸沢領は水戸藩附家老・中山備前守信正の所領(2万石)とされる。
(年については諸説あり)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
附家老とは、徳川将軍家から親藩の家老として命じられた将であり、中山家は水戸藩の家臣でありながら、
一大名に準ずる家格を有していた。これにより松岡城は陣屋として復興、統治拠点としての体裁を整える。
以後、中断期間もあるが明治維新まで松岡陣屋は中山氏の政庁として機能していく。中山家は信正の後、
備前守信治(のぶはる)―市正信行(のぶゆき)―備前守信成(のぶなり)―備中守信敏(のぶとし)―市正
信順(のぶより)―備前守信昌(のぶまさ)―備前守政信(まさのぶ)―備前守信敬(のぶたか)―備後守
信情(のぶもと)―備前守信守(のぶもり)―備前守信宝(のぶとみ)―備中守信徴(のぶあき)と続く。なお
水戸藩附家老の職は信正の父・備前守信吉(のぶよし)に始まるため、松岡中山家は信吉が初代、信正は
2代目と数える。ちなみに信吉は元々小田原後北条家の家臣だったが、徳川家康の関東移封に伴い徳川
家臣に召し抱えられた人物。それが御三家の家老に抜擢されるのだから、相当に優秀な人だったのだろう。
さて、上記の中断期間とは6代・信敏が久慈郡太田(茨城県常陸太田市)へ移された1707年(宝永4年)から
10代・信敬が常陸太田より再び戻された1803年(享和3年)11月迄の96年間。この期間、中山家の所領は
常陸太田に変更されていた訳だが、松岡への復帰後に改めて陣屋の修復が為された模様である。幕末の
1860年(万延元年)には松岡文武稽古場「就将館」が開校。さらに1868年(明治元年)1月24日には、朝廷
(明治新政府)の命により中山家は悲願の独立大名昇格を果たし、松岡陣屋は正式に松岡藩庁となった。
が、それから程無く1869年(明治2年)6月22日に版籍奉還が行われ、最初にして最後の藩主である中山氏
14代・信徴は松岡知藩事とされる。続いて1871年(明治4年)7月14日には廃藩置県となり、松岡藩は廃止。
松岡県が成立し陣屋が県庁となったが、それも僅かな期間の事で同年11月13日に茨城県へと併合された。
これを以って陣屋は廃絶。信徴も知藩事の座を失い、完全に役目を終えた松岡陣屋は山林原野や農地に
帰したのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
山城部分は野の山に、陣屋一帯は再整備が行われ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
山城部分(龍子山城)はいわゆる馬蹄型の山容を為していたが、中央部分の最頂部を本郭とし、そこから
両端の尾根を下るごとに段曲輪状の郭が数段配置されていた縄張り。これらの曲輪群は主に土塁を盛り
上げたり切岸を削って郭の外縁としていたが、山そのものは大掛かりな堀を穿ち、外部からの侵入を遮断
する形式となっている。山麓部に城全体を囲う堀を用意している為、山城には珍しい水濠が多用されており
また、さらに周囲を囲うように水田地帯が広がっていた為、さながら沼地に浮かぶ孤島の如き景観だったと
思われる。元来、この山は水利に恵まれていたようで、この濠以外にも城内各所に井戸を用意できた跡が
確認されている。なお、主郭内でひときわ高い場所に当たる櫓台は王塚古墳だったと言われている。■■
馬蹄の内部、つまり尾根に挟まれた窪地が近世城郭部の主郭となった部分で、ここには城主の御殿が構え
られた。そこから外部へ広げるように近世城郭の曲輪が連なり、中山氏時代には山頂部が用いられなく
なった事もあり、事実上の陣屋機能はここで営まれていた。陣屋曲輪群もまた水濠で囲まれていた訳だが、
こちらは近世の改修で作られたものなので、中世城郭部分の“天然地形を利用した”濠とは異なり、横矢を
掛ける出隅・入隅の屈曲を多用した“作られた”濠となっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
陣屋敷地内には政務役所や評定所・番所・米蔵などが並び、大手口から藩主居館へ繋がる道も、その中を
貫通していた構造だ。廃藩後、これらの陣屋敷地は農地・宅地へと変貌し、藩主居館郭跡は現在高萩市立
松岡小学校の敷地となっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
近年では失われた城下町の風致を再現すべく、陣屋跡一帯が再整備され「お屋敷通り」(大手前の通り)を
はじめとする景観統一事業が進められている。これに伴い陣屋跡の掘割や土塁が再現され(写真)往時の
曲輪の有り様を偲ばせている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、山城部分は基本的に山林。山そのものは植林などで手入れされており、決して“荒れ山”ではないが
廃城以来手付かずのようなので下草や竹薮を乗り越えて山中へ入る事になろう。しかし逆に言えば旧来の
遺構が残されている意味でもある。城山の山頂は標高56m、麓の松岡小学校が標高10mなので、比高差は
50m弱しかなく“登れない山”ではない。中世城郭を気軽に楽しむには、ちょうど良い場所と言えよう。但し、
山林は私有地なので荒らしたりせぬよう。事故などについても自己責任で。■■■■■■■■■■■■■
小学校敷地内に陣屋の土蔵が1戸前残されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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